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― 東京魔人学園外法帖 第参章 ――

旗本屋敷は、予想よりも手入れされているようであった。『誰か住んでんじゃないの?』という桜井の問いも、的外れではない。周囲の空気のことを考えなければ。

「棲んでいるのが、人間とは限らんがな。気をつけろ。この感じ……《妖氣》だ」
「というより、今まさに呪いの実行中ではないか?澱みと呼ぶのさえ躊躇われるほどに――空気が穢れている」

虚空を睨む雄慶と並び、緋勇が続けた。
彼は呪いやらに、結果的に詳しくなった。なにしろあの村には、それらを専門とする者たちも居たのだから。


不安に曇る他の者たちとは異なり、不敵に笑った男がいた。

「へへへッ。面白くなって来たじゃねェか。次から次へと飽きさせてくれねェぜ。これが江戸のいいトコってもんかね。おまえも、そう思わねェか?」
「そうか……。元気だな」

蓬莱寺に悪気はないのだろうが、そうは思えなかった。
この呪いを実行したのは、おそらくは御神槌。切支丹迫害に対し、神の教えと憎しみとの間で悩み苦しんでいたあいつの背を後押ししたのは、例の愚かな男。

切支丹を拷問した際の歪んだ愉悦の味が忘れられず、その矛先を哀れな病人に向けた男。留守居具足奉行、井上 重久。

どれほどの葛藤の末に、あいつがそれを選択したのかは知らない。理解など、とてもではないが、してやれない。そんな傲慢にはなれない。

「てめェも誰かと同じで不謹慎だ何だっていうんじゃねェだろうな?鬼の前じゃ、不謹慎なくらいで丁度いいってもんだぜ」

ふんッと不興げに鼻を鳴らす蓬莱寺に対し、緋勇はあくまでも静かに答えた。
だろうな――と。きっとお前の方が正しいのだろうな――と。

「無駄話をするな。中に入るぞ―――」

何か言い返しかけた蓬莱寺を、雄慶が厳しい表情にて叱責する。明らかに尋常ではない屋敷に入るのに、無駄口を叩く余裕などないと。

「なんでェ、真っ暗じゃねェ―――、うおッ、なんだ、この煙は!?ゲホゲホッ」

不承不承頷き、足音を殺して中に入った蓬莱寺は、咳き込んだ。

焚かれたのは強すぎる香。そこに在るは、禍々しき黒い祭壇。捧げられし供物も、一流の品々でありながら――おぞましい。

どれほど鈍感な人間であろうとも、不吉の匂いを嗅ぎ取らないはずがなかった。


「おいッ、そこで何をしているッ!!何だ、貴様らは?」

闇より誰何の声があがる。出てこなければいいものをと、内心での溜息と共に、緋勇は振り向いた。視線の先にわらわらと現れたのは、当然ながら鬼の面を着けた者達。

見られた以上死んでもらうと、一人とて逃がすでないぞと凄む彼らに、目尻を抑えたくなった。緋勇にはざっと見ただけでほぼ正確な力量が理解できる。
彼ら下忍では、龍閃組の相手は勤まらないことが。


「吐いてもらおうかッ。この祭壇で何をしていたのか」

雄慶に締め上げられた下忍の瞳に、覚悟の色が生じた。
気付いた緋勇が、急ぎ声を掛ける。

「口を抉じ開けろ。自害しようとしている」

だが、頭では理解していた。ただ歯に仕込んだ毒を噛むのと、口を開けて制止するのと、どちらが早いかくらいは。

「ちッ、毒を飲みやがった……。胸糞悪ィ祭壇だぜ。とりあえず、ぶち壊しておくか」

蓬莱寺の舌打ちに頷きつつも、緋勇は行動に移れなかった。先のように、変生し助けられなかったのならば、仕方がないと己を納得させられた。だが、これはれっきとした自害。彼らは人のまま死んだ。

彼らはただの鬼ではない。あの村に、母を父を、子を持つ鬼。
秋には母親と紅葉を見に行く約束のあるものがいるかもしれない。次の晴れた日には、子に遊びをせがまれていたかもしれない。
ひとりひとりの面を剥ぎ、顔を覚える。せめてもの供養に、あの村に戻れたときに縁者に謝れるように。

最後の一枚を捲り硬直した。その顔には見覚えがあった。
遊女を連れて逃げ出し、村で小さな祝言を上げていたと聞いた元用心棒の青年。式は教会式にて御神槌によって挙げられ、ゆえに彼に従うことを望んだ男だった。

闘いの術を知っているから、そして彼自身が望んだ為に、実行部隊として配属されたということは知っていた。だが、彼は死んでいなかった筈。緋勇より半年程前に村に迷い込み、緋勇が村の一員となる少し前に婚姻をおこない、そして、闘いが一旦落ち着いた時点では、生きていた筈であった。

歴史はもう一度同じ道を辿るのではないのだろうか。それとも、緋勇という存在の差異によって変わった歴史があるのだろうか。

ただの空似ではないのか。現実を認め難くて彼の懐を探り、緋勇は見つけてしまった。御守りとして肌身離さず持っているのだと笑っていた、今は妻となった人の花簪を。

下手に触れれば危険だろうと、大丈夫だろうと、言い争う蓬莱寺たちの声は、緋勇の耳には碌に入っていなかった。

あの時空にあっても、結局彼は死ぬ。柳生たちは、ご丁寧にも、村中を皆殺しにしたのだから。
だが、それがどうしたというのだろう。彼女は夫の死を知る。闘いの中命を落とした事を知ってしまう。

「別に壊した所で、この江戸が吹っ飛ぶ訳でもねェんだし。あらよ―――っと」
「お待ちなさい―――」

結局、蓬莱寺を止めたのは、雄慶でなく、碌に話を聞いていなかった緋勇ではなく、落ち着いた男の声。
覚えのあるその声に、緋勇はのろのろと視線を上げた。

「下忍たちを斃した《力》―――、貴方たちは、何者です?」
「俺たちゃ、龍閃組だ―――。この江戸を、てめェらの様な奴の手から護るために組織されたもんよ」

張り詰める空気にすら、いまだ考えが纏まらない。
緋勇は、鬼道衆を救うために、刻を登った気でいた。

だが――違うのだろうか。救える者には限りがあり、運命の気紛れの中で、必死に手の届く限りを護ろうとするしかないのだろうか。


「御神槌さん―――。あなたが本当に切支丹であるなら、なぜ、こんな事を……。これは、主の教えから外れた行為ではないのですか?」
「そうですね。確かに、私の行為は道から外れているかもしれません。でも、それで良いのですよ。これは―――復讐なのですから」

ふたりの切支丹の遣り取りを、緋勇は呆としたまま聞いていた。
美里の美しいお題目と、御神槌の体験による考えの変調では噛みあわないだろうなと、漠然と思いながら。

「御神槌さん……。あなたの話そうとしている事はわかります。でも……それでも、復讐とは主の善きとするものではないはずです。復讐は、何も産み出しはしないのでは、ないですか?復讐をすれば、また誰かが復讐をする。そんな事、悲し過ぎるわ」
「それは、詭弁です。それは、真実を知らぬ者が語る理想に過ぎません」

案の定、話は決裂の方向へと進んでいく。
訝しむ龍閃組の面々に、御神槌は謎掛けのように呟いた。

「知らない事は悪です。そして、知ろうとしない事はもっと、悪い事です」

御神槌は、少々残酷な気分になっていた。
真っ直ぐな瞳で、懸命に道理を説く彼らが、真実を知ってもなお同じままに在れるのか、知りたくなった。ゆえにこの場で決着をつける気は既になかった。


中でも、下忍たちの屍の中で膝をついたまま、一言も口にせずに座していた男に向かい問い掛けた。

「小石川療養所へ行ってみなさい。そこに真実があります。それを知る勇気が、貴方たちにはありますか?」

男は、それはどうでもいいと首を振った。彼にしてみれば既知の事柄ゆえに仕方ないのかもしれないが、想いを否定されたようで御神槌の表情に怒りが混じる。

「どうでもいい……ですって?」
「ああ、それよりも御神槌、こいつを届けてやってくれ。お静には――済まなかったと。頼む」

放物線を描き、御神槌の掌中に収まったものは花簪。途端に御神槌の表情が緩み、痛ましげな目で簪を見下ろした。持ち主であった青年と花簪の間を、視線を往復させる。

哀れなものだ――と。彼が村を訪れてからまだ一年程度。式を挙げたのはたった半年程前だというのに。

青年の死を悼む内に、異常に気付いた。何故彼はそんな事情を知っているのか。何故に――青年の妻の名まで知っているのだろうか。

「なぜ……」
「俺の特殊能力 千里眼だ。納得できないのならば、放浪破戒僧と話し合って、精々謎ときに励んでくれ。では――頼んだぞ」

放浪破戒僧――その端的な言葉に思い浮かぶ人物は、最近やっと村に戻ってきた御屋形様の従兄弟にして右腕たる九桐 尚雲。確かに、彼は自分達の障害となるかもしれない連中を見たと、楽しそうに笑っていた。

だが、愕然としている余裕はない。
多数が相手である上に、槍とそして雷という御神槌の武器に、この狭い室内は、戦場としては不利にしかならない。

理解できぬことは一旦頭の隅に追いやり、頭を切り替えて、厳かに告げる。

「真実とは、往々にして生易しいものではありません。それなりの覚悟をして臨む事です」

時機をみて、稲光を炸裂させ、退却の姿勢に入った御神槌は見た。
完璧に雷の瞬間に合わせて閉じたらしく、先程の男が平然と目を開ける姿を。

眩む目に狼狽する他の者達とは異なり、彼はただひとり、御神槌を見つめながら頭を下げた。


視力が回復した頃には、既に御神槌の姿はなかった。
残された手がかりともいうべき小石川療養所へと、龍閃組は急ぎ向かった。



門の手前にまで到着したときに、蓬莱寺が不審の表情で辺りを見回した。
罠ではないのかと、あくまで警戒を解かぬ彼に、美里は首を振った。彼は迷っているのではないかと。

「あの人……、迷っているんじゃないかしら。切支丹である自分と、復讐を果たそうとする鬼道衆としての自分に。緋勇さんも、そうは思わない」
「おそらくな」

大体は正解の言葉に、緋勇は頷いた。正確には、もう彼は迷ってはいない。決めてしまった。

ただ――苦しんでいる。切支丹である自分と鬼道衆としての自分との狭間で。

「えェ、きっとそうだわ。彼は決して愛や慈悲を忘れてしまった訳ではないと思うの。殺された仲間たちの叫びが、今も彼を苦しめている」
「だからといって、それが鬼道衆に与する理由にはなんねェぜ」

冷水を浴びせるかのように、蓬莱寺は切り捨てた。苦しんだからといって、人を苦しめて良い訳がない、彼はそう思っていた。

「それなら尚更、私たちはあの人のいう様に真実を知る必要があるのじゃなくて?」

蓬莱寺の目をじっと覗き込み、美里は言った。
相手が頷いたのを確認してから、診療所の中へと入っていく。医師の名前らしきものを呼びながら。

出てきた医師らしき男に、蓬莱寺は直球にて尋ねる。この診療所の秘密とはなんだ――と。
演技でなく意味がわかっていなかったようだが、医師は切支丹という言葉を聞いた瞬間に、明らかに狼狽する。それでも、知らないと否定しようとする男に対し、彼らは追及の手を緩めなかった。

今の流行り病は、病気などではないと。このままでは罪のない人々の犠牲が増えるばかりだと。促され、哀願され、医師は沈鬱な声で、とうとう口を開いた。

「やはり、因果というのは巡って来るものだな。徳川に復讐―――その男がそういったのなら、この奇病は儂らに関係がある」

彼が続けたのは切支丹迫害の歴史。切支丹宗門奉行、井上筑後守正重の屋敷にて行われた狂気の沙汰。目的と手段を取り違えた幕府の役人達は、暗い狭い世界で人を虐げる内に、次第に変調していった。

改宗の為でなく、仲間の居所への尋問ではなく、いつしか、いかに苦しめ傷付け苛み、だが生かし続けるか、どれほど生命を上手く制御し掌握できるか愉しんだ。阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、彼らは愉しみ続けていた。

「しかし、切支丹の弾圧が行われたのは、もう大分前の話だ。何故、今頃になって、鬼が……?まさか……」

疑問を口にした雄慶は、話しながら気付いてしまった。その可能性に。
ならば、あれほど優しげな男の瞳に存在した、憎悪の念も理解できてしまう。

「そのまさか―――だよ。また、切支丹狩りが行われているのさ。この江戸の町の陰で……な」

そんな噂聞いたことがないと、信じたくないのか懸命に首を振って否定する少女に、医師は疲れた口調で断定する。

「噂に上らないのも当然だ。標的とされているのは、切支丹ではないからな。病人だよ。病にかかり医者を訪れた人間が狙われているんだ。病人であれば、苦労して捜し出し、捕える必要もない。それに、死んだ時の言い訳もたつ。こんなに都合の良い獲物もない―――あいつらは、そう思ったんだろう」

いや、噂にはなっていた筈だと、緋勇は内心にて呟いた。確か遠野も掴んでいた。新たな神隠しの噂を。
それを耳にした柄の悪い武士達が、彼女を黙らそうと企んでいたことから考えるに、小さな芽でも摘んでいたのではないか。
そして……摘んだ芽は、玩具として、あの下衆な男の屋敷へと送り届けられたのだろう。

「なるほどな。てめェの保身のために、患者を幕府に売ったという訳か。刃の矛先が自分に向けられるのを怖れ、病人を引き渡したんだよ、こいつは。切支丹狩りという名目で、この療養所にやって来た幕府の役人に―――な」

全て察した蓬莱寺が、気の弱い人間ならば気絶しそうな眼差しで、医師を睨んでいた。
闘いなど縁のない医師は、動く事すらできなかった。彼に理解できることはただ一つ。このままでは、この剣士に殺される――ということのみ。

「そんな事ッ!!先生ッ!!本当ですかッ!?」
「すまん。わッ、儂にはどうする事もできなかったんだッ!!逆らえば、儂も拷問にかけられ、責め苦を味わわなければならんッ!!あの地獄……あの地獄にだけは、行きたくはなかったんだッ!!ううゥ」

弱々しく、仕方なかったんだと繰り返す医師の元に、蓬莱寺がゆっくりと近付いていく。殺気を誤魔化そうともせずに、柄に手を掛けたままで。

「行き先は小石川小日向の留守居具足奉行、井上 重久の屋敷でいいのか?」

そちらには、一切構わず、緋勇は静かに立ち上がった。
カタカタと震えながらも医師が頷いたことを確認し、背を見せて歩みだす。

「そやつを殺すのはおかしいと思う。やはり実行者たる連中が、最も罪深いのだから。だが、すがってきた病人を地獄へ蹴堕としたことが赦せないというお前の主張も正しいと思う。だから、お前の気の済むようにすればいい」

だが俺は先に行かせて貰う――と、もう振り返りもせず、出口へと彼は向かう。一瞬の躊躇の末、桜井も彼の後を追った。不安そうに蓬莱寺を振り返りはしたが、何も言わずに。

雄慶は、もう少し悩んでから、矢張り後を追った。彼も無言のままに。

「ちッ……お人好し共がッ。こいつは人殺しも同じだぞッ!?こんな奴を許すってのかよッ」
「蓬莱寺さん」

縋るような美里の眼差しを、ただ下だけを見つめ身動ぎもしない医師を、蓬莱寺はきつく睨んだ後に、剣を振るった。柄から抜かぬままで。

「うあゥッ!!」
「こんな奴、殺る価値もねェ」

吐き捨てると、彼は走り出した。緋勇らの後を追う為に。

最後まで残った美里は、口からかなりの血を流す医師の傍に屈み込んだ。傷口にそっと手を当て、口の中で祈りを捧げる。いつもと同じように主の慈愛に。

「先生……。怖れのない人間など、この世にはいないと思います。怖れを抱いたまま、一生を過ごすのは野の獣と同じです。人は、その怖れが何なのか考え、それを克服する心を持っていると思います。どうか、怖れる心に負けないで下さい。私たち人間が犯した、愚かな同じ過ちを繰り返さないために」

みるみる引いた痛みに、止まった血に目を丸くしていた医師に、美里は告げて立ち上がった。自分も彼らの後を追わなくてはと、急ぎ駆け出したその背に、消え入りそうな声が聞こえた。

「どうか、君たちが遭ったというその男を救ってやって欲しい。もう、不幸な人間を増やすべきではない。どうか……頼む」

振り向き、美里は微笑んで一礼をした。
わかりました――と。あの人は、私たちが必ず――と誓い、今度こそ駆け出した。


屋敷前には見張り。
屋敷の中には絶え間なく聞こえる呻き声と悲鳴。そして微かに漂う血の香り。

ここで何が行われているのか、想像するまでもない状況にて、ひとりの男を見つけた。
みっともないほどに慌てふためき、狼狽する男に、雄慶が重々しく告げた。

「切支丹迫害で憶えた血の味が忘れられず人の道を外れた所行、もはや、悪鬼羅刹の如きなり」
「なッ、何故、それを」

絶句する男に、雄慶は更に追い討ちを掛けた。

「この江戸に棲む龍の双眸は、どんな悪をも見逃しはしない。大人しく観念するんだな」

緋勇にとっては、微妙に笑える言葉ではあったが、井上にとっては、断罪に思えたのだろう。へっぴり腰にて剣を抜き、切りかかろうとした。無論、それを捨て置く蓬莱寺ではない。彼らの剣には、話にならないほどに、速さに差がある。

「ううッ……。痛いでぶ〜、血が出たでぶよ〜」

致死どころか、かすり傷でしかない傷。そこから溢れる大した事の無い血の量。そんなものに対し、半泣きになりながら、井上は騒いでいた。己は何人もの人間を、出来る限り苦しめてから殺してきたというのに、小さな傷で、醜く狼狽する。

「ちッ……生きてやがったか」

蓬莱寺が、吐き捨てた。死んだら死んだで、構わないと思っていたようだ。それには、緋勇も同意見であった。血がァァァァ〜と、いつまでも叫び続ける下衆を、蓬莱寺は剣呑な眼差しで眺めていた。明らかな苛立ちと侮蔑と共に。

「やかましいッ!!緋勇、こいつどうするよ?ここで息の根を止めてやるってのはどうだ?」
「それは良い手だ」
「だな。こんな奴生かしておいても、仕方ねェしな」

刀を抜こうとした蓬莱寺より先に、緋勇が一歩踏み出す。目の前の肥えた男の所業が許せなかったというよりも、こんな奴の為に、基本的には高潔なあの宣教師が苦しむ事の方が嫌だった。ゆえに、先に殺してしまおうと思っていた。

「まァ、待て。始末は、奉行所に任せよう。俺たちの手を汚すまでもない。悪事は必ず白日の元に晒される。例えこの世で明かされずとも、衆生全てを見つめる御仏の眼差しが必ずや悪を裁くであろう」

だが、さり気なく間に雄慶が入る。正しい言葉、正しき道。だが、緋勇には納得などできない。本来ならば、隙を突いて殺しても良かった。だが、心清き少女に、前向きな少女。そして、慈悲深き僧侶の目の前で、行う事に、流石の彼でも、躊躇を覚えた。

「嫌だァ、番所になんて行きたくないでぶよォォォ」
「やかましいッ!!ごちゃごちゃいってるとぶった斬るぞッ」

緋勇としては、まったくもって蓬莱寺に同感であった。この場で殺されることを免れたことさえもが僥倖であるというのに、この愚かな男は、裁かれることすら拒もうとする。

だが、そんなことよりも。急がなければ彼が来てしまう。

「ぎゃあああッ!!」

間に合わなかったか――と、緋勇は嘆息する。
見知った雷を行使し、この場に現れる権利をもった者。

「ううッ……痺れるゥゥ」

醜い悲鳴。情けない泣き言。牽制するように掠っただけの雷に、このありさまであった。

「神を畏れぬ者に報いを―――、罪人に裁きを与える刻ぞ来たれり。その雷を、神の裁きと知るがいい」

初めて聞いた、怒りと憎悪とが込められた昏い声音。吐き捨てるような口調。今の態度には覚えが無くとも、その声自体と姿には、当然覚えがある。先程、そして違う未来において、幾度も会っている。

黒衣を纏った色素の薄い青年が、予想通りそこにいた。

「また遭いましたね。此処に貴方たちが現れる気がしていました。きっと……この場所へ駆け付けるだろうとね。この先の離れに捕えられた病人たちが閉じ込められています。御行きなさい。人がやって来る前に―――」

何故手助けを――との、雄慶の問いに、御神槌は静かに首を振る。別に貴方たちの手助けをした訳ではない――と、全てを決めてしまった瞳で、あくまでも穏やかに。

「私の行く先に、貴方たちがいた―――ただ、それだけです。さあ、どいてくれませんか?私はその男に裁きを下さなければなりません」

本気なことを察し、雄慶が立ち塞がる。相変わらずに正しい言葉と共に。

「裁きだと?この男の裁きは奉行所がつけてくれる。お主が手を下すまでもない」

だが、それは御神槌の心には届かない。それを聞き入れるには、彼は地獄を見過ぎた。幕府を信用するなど、考慮するまでにも至らないはずだ。

「御神槌さん……。確かに、幕府の人間が犯した罪は許し難いものです。でも、だからといって、全ての人間が同じだという訳ではないわ。幕府の中にだって、きっと正しい心を持つ人がいるはず。私たちは、そう信じています」

正しい心を持つ幕府の人間。緋勇は少し考えを巡らせ、肩を竦めた。精々が御厨や与助や時諏佐程度だろうか。だが、彼らは末端に過ぎない。
対して腐った幕府の人間は、どれほど見ただろうか。夜討を謀った愚かな男や、切支丹を取りしまるにかこつけて殺害していた井上、人形遣いの村を滅ぼした者たち、金脈を発見した樵たちを虐殺した者たち、腕の良い鍛冶屋を言いがかりにて処刑しようとしていた者たち。考えているだけで、疲労が押し寄せてくる。

雄慶の先程の言葉のように、龍の双眸が、真実全ての悪を見逃しはしないのであれば、どれほど良かったことか。


「幕府の人間が信じられるという保証が何処にあるのですかそれは、貴方たちの妄想に過ぎませんよ。違いますか?」

ただ神を信じていた。それだけで殺された人々を目の当たりにした彼は、信じられないであろう。
それは仕方のないこと。だが、真っ直ぐな道だけを歩んできた者には、後ろ向きな考えと映るのだろう。蓬莱寺が、憤然と吐き捨てる。

「お前だって、先刻から聞いてりゃ復讐だの恨みだの。目先の事しか考えてねェじゃねェか。何で自分の力で、この時代を変えてやろうって思わねェんだよッ。今、歩いてる道の行き先ってのは、ひとつじゃねェだろ。この道の先が行き止まりなら、俺たちで別の道を作りゃいいじゃねェか。そうやっていけば、いつか開けた場所に出るかもしれねェ。俺たちの力は、そんなに無力じゃない―――俺は、そう思ってるがね」

貴方たちだけで何ができると、何も変わりはしないと、冷めた眼差しで呟く御神槌に、蓬莱寺が目を剥いて叫んだ。

「変わるか変わらねェか、やってみなきゃわかんねェだろが。俺は、そうやって、やる前から諦めて、愚痴ってる奴が大嫌いでな」
「私も、そうやって、ありもしない希望に縋って生きていく人間が嫌いです」

緋勇はもう少しで、この緊迫した場面で噴出すところであった。相性悪そうだとは思っていたが、これほどとは。こんなにも素直に不快を表明する御神槌など、想像したこともなかった。

「何だと……」

このまま普通の口喧嘩を続けるつもりは、御神槌には流石になかったようで、すっかりいきりたった蓬莱寺から視線を逸らし言った。

「貴方たちは、本当に、変えられると思っているのですか―――この時代を」
「ああ。それに関してだけは絶対に――成し遂げてみせる」

幕府の事など緋勇は知らない。微塵の興味すら有さない。
だが、この時代の流れに関しては変えてみせる。あの結末を到来させはしない。どのような手段を用いてでも。

その為に、ここにいるのだから。

「……もし、仮に、そうする事で、この時代が変えられたとしても、私は闘いを止める訳にはいかないのです
たとえ、その為に、多くの人の命が奪われようとも、それで、徳川が滅ぶのであれば……。私は、あの地獄で授かったこの珠に誓ったのです。必ず、徳川に復讐する―――と」

唇を噛み、搾り出す言葉の内容はおかしかった。それを、あいつが望む筈がない。多くの人命が喪われるのならば、徳川と所業と変わらないと、忌避するのが、あの頭目の考え。

御神槌は、珠を憑かれたように凝視し、私と御屋形様を巡り遭わせた運命の珠だと呟く。妙だった。御屋形様が――天戒が、配下の扱いに区別をつけるとは思えない。珠を受け取った者たちが、皆地獄とやらでそれを手渡されたのならば、――別の人間によるものを混同しているのかもしれない。

「おやかたさま?確か、甲州街道で遭った浪人どもも、そんな様な事を―――。その御屋形様ってのは、誰なんだよ?」
「我ら鬼道衆を統べる御方です。その方がいなければ、今の私もなかった。私を絶望の淵から救って頂いた……、私の命は、御屋形様のものなのです」

京梧の問いに、御神槌は真っ直ぐを見つめて答えた。彼にとって、御屋形様とは、誇りを持って口にできる存在なのだろう。中に居たときも感じていたが、外から見ると、彼の人望の高さが際立つことに、緋勇は少々の頭痛を覚えた。皆が彼を崇めれば崇めるほどに、辛いと感じることも増えるのに。

『私は屋敷にいる。何かあれば、報告に来い。行くぞ、緋勇。こっちだ―――。どうした?その顔は』
『ん……お前誰かに似ていると思ったら、弟に似ているんだ』

初めてあの村に入ったときに、あちこちの村人から声を掛けられ、鷹揚に応じる彼に、率直に告げた。

民に慕われ、期待され、崇められ……無理に笑顔で振舞う様がそっくりだ――と。可哀想にな――とも言った。傍目にも判ったから。彼が必死で理想の頭目を演じていることが。何故に皆が気付かないのか、不思議で仕方なかった。

その言葉を聞いた瞬間の、天戒の表情は、今でも忘れられない。本当に、表情が抜け落ちた。呆然と、どんな顔を作れば良いのかさえも判らなかったのだろう。

九桐にも頼まれたというのに。

俺は若ほど孤独な人間を知らないと。
お前だけが、村中でただひとり、若の友でいられると。従うでもなく頼るでもなく、対等にいられる唯一の存在だと。だから彼を裏切らないでくれと。あれは懇願でさえあった。

今――自分の居ない村で、御神槌の報告を、彼はどんな想いで聞いたのだろうか。


御屋形様の悲願のためにも、徳川を滅ぼさなければならない――と、呟く御神槌に対し、気が付けば緋勇は語りかけていた。

「多くの人の命が奪われる策を、本心からあいつが望むとも思わんけどな」

自分に言い聞かせるように、正当性を確認するように、ひたすらに珠を見つめていた御神槌が顔を上げる。

「な……」
「事実、報告時のあいつの顔は複雑極まりなかっただろう。そんな命を下していない筈だと。口ではお前の手腕を誉めながら、沈んでいたろうに」
「なぜそれを……。それでも私は……徳川を……、徳川を滅ぼす……」

熱に浮されたように呟き、拠り所とするように珠を握りしめ……彼は笑いだした。

「くっくっくっ……皆殺しだ」

先程までの深い苦悩の色はどこにもない。ただの愉悦からの笑い。

「くっくっくっ……。どいつもこいつも死ねばいい。このクソ野郎どもがッ。死ね死ね死ね―――ッ!!徳川よ、我が恨みを知れッ!!」

このときの緋勇の感想は、ああ、この光景を記録できる装置がこの世にあればなあ――であった。ここで御神槌の弱みを握っておく事ができたらと、心から思っていた。『このクソ野郎どもがッ』などと口にする御神槌の姿――――、鬼哭村中を駆けずり回りながら、大声で言いふらしたかった。

呑気ではあった。だが、緋勇には、からくりが大体読めた。この珠は、監視の役割なのであろう、と。常に陰氣を増幅させ、万が一所持者の心が揺れたときには、強制的に変生を促す外法の業。無論、あの味方に甘い男の手によるわけがない。

そうだ。雹も言っていたではないか。地獄で珠を与えられたと。その男の、炎の如き紅の髪だけは覚えていると。色の質こそ違えど、柳生の髪とて紅だ。

そして、これが働いたからには、逆に御神槌はもう安全ということだ。彼ら鬼道衆の幹部たち、力を有する者たちならば、鬼となり膨らんだ魂であっても、陰氣が抜ければ戻ることが可能。……倒すことが出来るのならば。
元々龍閃組と渡り合うことが可能であろう御神槌が、変生した鬼。
先の下忍が変生した形すら胡乱な異形たちとは、桁が違う。



雷獣とでも呼ぶべき存在なのか。
御神槌が変じた異形は、雷を自在に操っていた。
それは己の間合いへ侵入する者への牽制にも、遠くにて用心深く構える者への攻撃にもなる。

痛撃を受け、雄慶が膝をつく。
雷が掠め、蓬莱寺が痺れる腕を抑える。

「美里、彼らに癒しを。雄慶たちは、回復したら雑魚を頼む」

無造作に、緋勇は御神槌であったものへと歩き出す。危険だと止める声に、振り返りもしない。

近付いてくる獲物を屠ろうと、次々と雷を繰り出す御神槌は、理性の存在しない眼で首を傾げた。まるで雷がすり抜けたかのように見える。確かに獲物の身体に雷が当たっているのに、相手は頓着せずに近付いてくる。

緋勇は動体視力の限界を超えた動きにて、最小限のみ移動し、ぎりぎりの所で避けている。
だが、獣と成り果てた御神槌には、そんなことは理解できない。苛立ち、一斉に雷を相手に向けて落とす。その豪雷が届く直前に、緋勇の姿がふっとかき消えた。

視界から突然消えた敵の姿に驚愕し、御神槌は、歪んだ形相にて周囲を見回した。

遠間にいた雄慶と蓬莱寺には、捕捉できていた。

ただの脚を深く曲げただけの動作により、巨体となった御神槌よりも遥か高くに跳ぶ常識外れの跳躍力。

降ってくる死の気配にやっと気付き、見上げる御神槌の動作は、緋勇にとってはあまりに緩慢であった。数通りの殺せる方法を思いつきながらも、右手を御神槌の頭部にそっと置く。


充分に加減をした氣を一撃。それで事足りた。
穴の開いた風船の如く、陰氣が鬼の身体からしゅうしゅうと音を立てて噴出す。異形と化していた肉体が、ゆっくりと形を失っていく。

残ったものは、倒れ伏す元通りへ戻った御神槌の身体。


「陰氣が珠に吸い込まれていく―――」
「元の姿に戻りやがった……。一体、何がどうなってやがんだ?」

雄慶の呟きに、蓬莱寺が叫んだ。何がどうなっているのか、大部分を把握しているのは緋勇のみであろう。そして、無論彼は、それを告げるつもりはない。

「うむ……。龍泉寺で変生した鬼と闘った時とは違うな」

問われた緋勇は、頷く。全てを話す気は更々無いが、全てを覆い隠すことは、不自然すぎる。ゆえに当り障りの無い部分を、口にする。

「その辺は、魂の容量というものだろう。力ある者は、常人よりも多いのだろうから。変生は、珠が光ったと同時に始まった。何らかの関連があると思うのが普通だな」
「ふむ……調べてみる必要がありそうだな」

あ――と、叫んだ桜井の声に、皆が御神槌を注視する。
呆然とした表情で、彼は身を起こしていた。だが、あれほどに溢れていた禍々しい氣は、一切消失している。

「私は……一体」
「お前は、鬼に変わったのだ」

雄慶の答えに、しばし呆けていた彼は、不意にその手を組んで祈り始める。
無念をはらせなかったことを、切支丹たちに詫びながら。

「御神槌―――、確かに、幕府の中にも許せねェ奴はいるだろう。だがな、そのために、罪のない女子供の命が失われてもいいってのかよッ」

始まった蓬莱寺の長い説教を、緋勇は殆ど聞き流していた。『俺のこの胸に宿る炎が、もう限界だ、もう仕舞だ―――っていうまで』抵抗するというくだりでは、危うく噴き出す所であったが、現在の雰囲気を考慮し、どうにか抗する。
その箇所はともかく、彼の言葉は正論過ぎて痛い。それが正しい。それが真理。
だが判っていても、そうは在れない穢れた人間には、致死の刃と化す断罪。

「貴方に、私の何がわかるというんです……。私が、どんなに辛い想いをしたか。貴方たちにわかりますかッ?」

それは御神槌とっても同様なのだろう。彼は悲鳴のような声で叫んだ。
緋勇も、彼の想いは、村で垣間見たことしかない。それでも判ることもある。夜中のあの絶叫は、どうしようもない絶望が込められていた。

「何故、そんな瞳で私を見るんですか?そんな哀しそうな瞳で―――」
「哀しいに決まっているだろう。せっかく変わり始めたお前達が戻っているのだから」

相手に理解できる筈のないことを、緋勇はぶっきらぼうに告げる。

『貴方がそういうのなら、私は信じられる。貴方の言葉だから。私は―――』

張り詰めた空気を消し、元の優しい微笑みで井上を殺しはしないと言ってくれたのは、彼だったのに。おそらくは嵐王の案によるものであろうが、大蛇の呪いを解放し、自暴自棄になっていた彼は、確かに思い留まってくれたというのに。全てが元へ戻され、彼はあくまでも復讐を成し遂げようとした。

正直な話、御神槌の心情の方が遥かに共感できた。緋勇は美里のようには、赦せない。蓬莱寺のように、前向きには考えられない。大切なものを喪ったときの感情を覚えている。幕府の腐りっぷりを、鬼道衆にて、飽きるほどに見てきた。

「復讐は何も生まないとか、美しく正しいことは、俺には言えない」

そう……言える訳が無い。
なぜなら、彼らと同様の状況で、大切な人々を失ったときに、緋勇が望んだのは――復讐。それだけしか、考えられなかったのだから。

「お前の苦しみも分かってはやれない。
お前みたいに、目の前で自分が洗礼させた切支丹たちが嬲られる様を目撃した訳ではない。夜中にうなされ、度々絶叫をあげ――そして、それを皆に慣れられるほど苦しい目にあったわけでもないから」
「なぜ……それを知っているのですか」

愕然と呟く御神槌に、緋勇は微笑むだけで答えなかった。鬼哭村にて、彼自身に聞いたと告げることはできないから。
心情に共感し、彼の恨みも知っている。それなのに、何故止めたのか。
それは―――御神槌が、心の底では望んでいないから。彼が苦しみ悩む事を、望まぬ人々が存在するから。

「だが、これだけはわかる。お前は今、辛そうだ。泣きそうな顔をして、歯を食いしばってまで、続けることもなかろう。嵐王の言う通り、死した信者を忘れてはいかんだろう。が、鬼哭村の信者たちのことも考えてやれ。彼らがお前が死したという報を聞いたら、どうすると思う?」

御神槌にとっては、聞き入れる必要の無い敵の言葉だというのに、浮かんだ顔がいくつもあった。

『御神槌さま、早く早く!!お外で遊ぼうよー』

満面の笑みで、光の下へと誘う子供達が居た。十分に不幸な境遇の中で、笑顔を忘れない彼らが大切だった。

『じゃ、ちゃんと神様は見てくれてるんだッ。へへへッ』

家族と共に、健康で暮らせることがかけがえのない幸せだと理解したとき、村の少年は照れくさそうに笑った。

「でも―――、もう私は、後戻りはできない」

哀しげに、御神槌は己が手を見つめる。彼らに話聞かせた神の御言葉、愛の教え。自分に根付いていたはずのそれから、耳を塞いで他者を傷付けた。

「罪を犯したというには、あまりにこの両手は鮮血で汚れてしまっている。祈りを捧げるには、あまりに神から遠い」

私の声が、天に届く事はもうない――俯き震える御神槌の肩に、白いものがそっと触れた。


「雪……?」

呟き、空を見上げた彼は、静かな声を聞いた。

「俺は神も仏も信じていない。だが『主なる御方は優しき赦しの神』なのだろう。咎人すらも包み込む、優しき方なのだと」

その教えを知る者は、数少ない。己が切支丹であると知られれば命に関わるのだし、今の日本においては邪教とされる教えを、切支丹以外の者が語ることはないのだから。
だというのに、彼はすらすらと続ける。

「昔、誰かから聞いたな。罪を犯し石を投げられている女の話を。裁きをと求める人々に語られた主の言葉は《汝らの内、真に罪無き者は誰ぞ?》。人が人を裁く事を―――少なくともそれを行う事を安易にしてはならないのだろう」

真に罪なき者だけが、その石を投げろということならば、罪を犯したことのある自分に、その資格はない。
だから、お前を裁こうなどとは思えない――彼は、そう結した。

それでも弱々しく首を振る御神槌に、どうしてもと言うのなら――と、続ける。

「人は誰でも生きている限り、罪を犯す。だからこそ本当に忌むべきは、罪を犯す事ではなく、罪を犯しながらも、それを償おうとしない事なのだとも聞いた。罰を受けなければ気が済まないのならば――生きて償ったらどうだ?」

沈黙の中で、御神槌はある光景が脳裏に浮かんでいた。

夢を見た。
鬼哭村の礼拝堂を、よく訪れる男のこと。彼に話した。石もて追われる女の話を。懺悔に関する罪と罰の話を。

特に用件もなく訪れることを訝しみ、他にもよく訪問される人選を聞き、独居老人に対する安否確認のようなものなのだろうかと、少々哀しく感じたことを覚えている。

彼の姿は覚えていないが、緋勇のような雰囲気なのではなかったか。
緋勇を夢の中での礼拝堂の男に当てはめて、その懐かしさに涙が出るかと思った。見知らぬはずの光景なのに、喪われてしまった大切なもののように感じる。

「ふッ。もう一度……、信じてみろという事ですか。もう一度……」

白い雪と緋勇とを交互に見つめ、御神槌は呟いた。心が決する。
もう一度、神の愛を信じ、もう一度祈り、そして犯した罪を償う為に――――生きよう。


優男に見えようとも、彼は卓越した戦士。気合の一声とともに、一挙に塀の上に飛び乗る。

「次は、今日の様にはいきませんよ。今度、会う時は。その時は―――、私は、私の大切なものを護るために闘う。この命を賭けて。それでは―――」
「ああ、気をつけてな」

あっさりと頷き緋勇は手を振った。共に戻りたい。だが、目的を達するまでは帰るわけにもいかない。

最後にもう一度だけ、緋勇の姿を見てから、御神槌は姿を消した。


「それにしても……よくあのぞろぞろした格好で、塀の上まで飛べるな。しかも後ろ向きに。俺でも辛いな」
「緋勇殿、論点はそこではないだろう」

ぶつぶつと呟く緋勇に、真面目な性分なのか、即座に突っ込む雄慶。

皆が何か言いたげな様子であることに、緋勇は気付かない振りをした。彼が御神槌に語ったことは、全てがおかしかった。知るはずのないことを、平然と口にしていたのだから。

だが、緋勇が内通者でないことは、御神槌の反応からも明らか。
彼は確かに緋勇を知らぬ人物として扱っていた。あれは演技だとは思えない。

ゆえに釈然としない思いを込めて、視線を緋勇にやっているのだが、彼は素知らぬ顔で雪の舞い降りる空を眺めていたりする。

「百合ちゃん、怒るだろうな」
「さァな。試してみるか?」
「何で俺が。お前らにだって責任があんだろがッ。なァ?緋勇」

探る意味も兼ねて振った蓬莱寺の言葉に、緋勇は振り向いて肩を竦めた。

「何を言っているんだ。あれに叱られるのは、お前の役割だろう」
「な……、てめェ、自分だけ逃げる気だなッ!?」

当たり前だろう、と真顔で応じる緋勇は、ここ数日でよく見知った通りに、表情が乏しかった。先程までの痛切な哀しみはとうに消えていた。


案の定、龍泉寺に戻ったあとに小言を喰らったのは、蓬莱寺のみであった。
轟々と続く説教を受け続ける蓬莱寺と、何処か楽しげに叱り続ける時諏佐の姿を、雄慶は口の中だけで頑張れよなどと呟きながら遠巻きに見ていた。

緋勇に至っては興味がないのか、寺の奥から引っ張り出してきたらしき書物を、畳に寝転びながら読んでいた。彼の端正ながら、きつすぎる顔立ちを眺めて、雄慶は煩悶し、溜息を吐いた。

これで良かったのだろうかと。緋勇の不審な点を、時諏佐に報告すべきだったのではないかと。

犬神との遣り取り、御神槌への心遣い。陰陽道、呪に関する豊富な知識。緋勇が何らかの事情を抱え、そして隠していることを確信しながらも、結局、雄慶は、皆にも時諏佐にも告げなかった。

『気をつけてな』と、最後に御神槌へ向けた笑顔を見る限り、緋勇が悪人だとは思い難かった為に。
いつかその笑顔を、自分たちにも向けて欲しいと思ったがゆえに。

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