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― 東京魔人学園外法帖 第伍章 ――


「ふむ―――、せっかく飛鳥山まで遊山に来たというのに、桜の季節ももう終わりだな」
「えェ、そうね。もう少し早かったら、このお山一面に、見事な桜花を楽しむ事もできたでしょうけど」

飛鳥山にて、周囲を見回して呟いた雄慶に、美里も残念そうに同意する。

「しょーがないよ。桜がキレイに咲いてた頃は、御公儀、御公儀で何かと忙しかったもんね。昨日だって、吉原で―――」

明るい声で、励ますかのように語りだした桜井であったが、途中で失速する。思い出してしまったのだろう。遊女の哀しい最期を。

「よせよ、湿っぽい顔してたってお葉ちゃんが浮かばれる訳じゃねェ。それより、そのお陰で出た休暇を目いっぱい楽しむ方が―――、よっぽど供養にもなるってもんだろ」

重い空気を吹き飛ばさんばかりに、蓬莱寺は笑う。
お葉のことを、桔梗のことを、ひいては鬼たちのことを思い出し、緋勇は特に会話に加わらず、遠くをぼうと眺めていた。

やがて眉を顰めて、桜井に問う。

「いつのまに……どういう展開から、ああなったのだ?」
「えーと……、いつも通りに……かな?」

困った顔で、彼女は言いよどむ。

「おのれッ、性懲りも無くッ!!今日という今日は、その性根を叩き直してくれるッ!!」
「おうッ、上等だッ!!かかってきやがれッ!!」

視線の先はは、いつもの喧騒、いつもの取っ組み合い。
放っておこうとの、いつもの結論に達した緋勇は、空を見上げた。感じた違和感を裏付けるように、ぽつぽつと水滴を顔に感じて、近くの木の下へと、美里と桜井を連れて避難した。直後に、大粒の雨が続く。

「さっきまであんなに良く晴れていたのに」

雨宿りをしながら、美里が呟く。この急な雨では、夢中で喧嘩していた雄慶らは、酷い目にあっているであろうに。

「恐らくは、狐の嫁入りだろう」

落ち着いた若い男の声に、緋勇は剣呑な空気を纏い振り向く。だが、相手の顔を見た瞬間に、細めていた目を戻した。緊張は、若い男の気配に緋勇ですら気付かなかったがゆえ。解いたのは、彼にとっては、見知った顔であったため。

「農耕神の眷属である狐が祝いの道行きに雨を呼んでいるのだ。ここからは王子稲荷が近い。あそこを好んで詣でるのは人間だけではない。嫁入り行列は、案外近くを通っているのかもしれないな」

無論、この世界では会っていない。
だがこの場で会う事は不思議ではない。彼が骨董屋として潜んでいたのは、王子の辺り。そして、気配に気付かなかったことも、納得できる。

「あの……あなたは?」
「見ろ―――」

尋ねた美里に、男は答えにはならない答えで応じる。

「あッ、雨が……。きっと、狐が通り過ぎたのね。あら……?」

その指先を辿った美里と桜井には、消えたようにしか見えなかったであろう。注視していた緋勇にしても、辛うじて木々に紛れた彼の姿を追えただけであった。

飛水流という徳川に仕える忍び。その歴史の中でも屈指の腕とされた彼のこと。そう難しいことでもあるまい。


夕七ツ半刻、やっと龍泉寺境内に着いた一行は、大なり小なり顔を顰めた。さらに疲れさせんとばかりに、騒がしい男がやってきたがゆえに。

「てェへんだ、てェへんだァ〜!!ぜェ〜ぜェ〜ぜェ〜」

困った顔の美里と桜井、目が据わった雄慶、目に入らないことにするらしい緋勇。皆の反応を横目で確認し、蓬莱寺は一応相手をしてやることにした。

「何だ、与助じゃねェかッ。息切らせて何やってんだよ?借金取りに追われてんのか?それとも、どっかの人妻に手を出して、そこの亭主に追われてるとか?」
「あッ、それはもう、ちゃんと話し合いで解決して、―――って違〜うッ!!お前らに用があって来たんだよッ!!」

お約束通りの反応の後、彼は説明した。
彼らの塒は、親分――御厨に聞いたと。客人を案内してきたのだと。

「客人は、本堂の方へ案内しておいたからよッ。あッ、おいらがよろしくいってたって伝えておいてくれッ。何か困った事があったら、いつでも、この与助が駆けつける―――ってな。じゃあなッ!!事件〜、事件がおいらを呼んでいるゥ〜」

歌いながら去っていく彼の背を、一同の疲れた視線が追った。
その姿が消えてから、美里が首を傾げる。

「私たちにお客様って、いったい誰かしら」
「女であろうな。しかもおそらくは見目麗しい」

緋勇の答えに、一同頷いた。与助のあの反応は、間違いないと。


急ぎ本堂へ向かった一行に、遠慮がちな声が掛けられた。

「あ……。あなた方は、この御寺の人ですか?」

発生元の細身の少女に、緋勇は微かに目を細めた。見覚えがある。いつだったか龍閃組から逃げる連中の殿を引き受けてやったときに、最後まで追い縋った忍。奈涸と似通った顔立ちと、そして明らかに同じ流れを汲む飛具の技に濃い血縁を感じた娘であった。

「ああ。あなたが先程騒がしい男が案内したとかいうお客人か?」

頷いた彼女が、何事か口にする前に、間に時諏佐が入ってきた。

「おや、みんな、戻って来てたのかい?丁度、良かったよ」
「百合ちゃん、この女は?」

蓬莱寺の不躾な態度にも気分を害した風もなく、少女は静かに名乗った。

「涼浬と申します。以後、お見知り置きを」

幕府の命にての人探し。公儀として派遣されたこの少女。
そこからなされる推測は、緋勇には、一つしか思い当たらない。里の長を殺し、抜け忍となった、男を捜し――殺すために、敢えて追手を妹としたわけだ。

「相変わらず狡すっからいことで」
「ん?龍斗、何か言ったかい?」

呟きを聞きとがめた時諏佐に、なんでもないと首を振って、緋勇は考え込んだ。

歳の頃は十八、九の男で、右手に三寸程の傷がある。
涼浬は、それだけが手懸りだという。通常であれば探し出せる筈も無い徴だが、彼らであれば、気付くかもしれない。濃い血と絆を持っているからこそ。

「ちょ、ちょっと待ってよ!!この広い江戸で、まさかそれだけを頼りに捜そうっていうの!?何かもうちょっと、情報とかはないの?」
「その者は名を変えているかもしれませぬ。例えば、水口、玄田、黒江……、他には―――如月」

狼狽した桜井の言葉に、涼浬は律儀に考えて、心当たりを綴った。
その内容に、緋勇が微かに面を顰める。気付かれるかもしれないとの懸念は、現実となる。

如月骨董品店という―――奈涸が変装した老人が営む骨董堂。皆がその店を連想し、語る。
王子、板橋宿に――江戸の北方に位置するということが、彼女の心の琴線に触れたようで、瞳に光が宿る。

『でもそこは、お爺さんがひとりで商っている』という美里の否定にも、その老人が何か知っているかもしれないと、涼浬は聞き入れなかった。今王子から帰ってきたばかりなのだと、露骨に嫌がる蓬莱寺の態度にも、怯むこともなく言い募る。

「案内して貰えませんか?今からすぐに」
「俺が行ってこよう。皆は休んでても構わんよ」

無茶な願いに、素直に立ち上がった緋勇に対し、皆が目を剥いた。
彼は、滅多に己から動かないということが、付き合いが長いわけでもない皆にも、よく分かっていた。今日の飛鳥山とて、休暇と聞いて即書庫に篭ろうとした彼を、不健康だと雄慶が、首根っこを掴んで引っ張り出してきたのである。

なのに、彼が、日に二度も、同じ場所へ向かうことを、平然と承諾するとは。

「なんだ、その驚愕の表情は。失礼だな。本当に構わんのだ。行くか、涼浬殿」
「すみません。そのようにいっていただけると助かります」

どれだけの非常事態か知らぬ涼浬が、頭を歩く下げて緋勇の後ろへ続こうとする。

「涼浬。急いで捜したい気持ちはわからないでもないさ。でもね。夜の闇に紛れちゃ、敵の姿も真実も、見分け難かろう。明日の朝、改めて出発しても遅くはないんじゃないかい?」

皆が何を言うべきか分からぬ中で、声を掛けたのは時諏佐であった。
躊躇う涼浬に、畳み掛けるように続ける。

「急いては事を仕損じる―――っていう諺もある。部屋を用意するから、あんたも今日は、寺に泊まっていくといい。ん?どうだい?」
「……わかりました。お気遣い、ありがとうございます」

涼浬自身も、焦っているとの自覚はあったのだろう。
思いのほか素直に頷き、了承した。


丑三ツ刻。草木も眠ろうというこの時刻に、微かな音により緋勇の眠りは覚まされた。
こつこつという規則的な音。たいした音でもないそれに、目を覚ました理由は、込められた僅かな殺気と想いによるものだろう。
僅かな躊躇の末、寝着の上にもう一枚羽織り、緋勇は音の元へと向かった。


「私は……、本当に斃せるのか……?あの男を、この手で」

独り語る涼浬の背を眺め、緋勇は納得した。
言葉は、おそらくは二重の意味。随一といわれたあの忍を斃せるのか。そして誇りであった優しい兄を殺せるのか。

苦無を次々に投擲する様を観察する限り、彼女の腕は相当なものであった。それでも、あの黒衣の忍には、まだ及ばないかに見える。
だが、殺すことさえ決意できれば、彼女の任務は必ずや果たされるであろう。あの妹馬鹿が、彼女を傷付けられる筈が無いのだから。幕府というのも、汚いことを考えるものだと、緋勇は小さくかぶりを振った。

その僅かな動作が作った空気の流れを読んだのか、涼浬は振り向き、己を眺めていた人物に気付いた。

「あ……、あなたは確か、緋勇殿―――。私とした事が気配にも気付かないとは、迂闊でしたね」
「迂闊というほどのものではない。俺は基本的には気配を有さぬからな」

言葉通り、今目の前に在る状態ですら、緋勇の気配は希薄であった。
整った顔立ちが、希薄な気配が、そして偶々であろうが、黒衣をまとっているところが、ある人物を連想させ、涼浬は微かに首を振った。

想い出を辿ることなど許されない。思いを抱くことなど、認められない。
あの男は抜け忍であり、その上、重罪を犯した咎人なのだから。

「それにしても、こんな時刻まで鍛錬もなかろう。身体を休めるために、泊まったのではなかったのか?」

自然と黙り込んでいた涼浬に対し、緋勇は首を傾げる。

「……今日は鍛練をしている間が無かったものですから、失礼とは思いましたが、少々庭先をお借りしたのです。この音で、あなたを起こしてしまいましたか?」

責めるほどに強くは無かったが、理の通った言葉に、涼浬は言い訳のように応じた。

「ああ。妖しでも遊んでいるのかと、少々気になってな」
「それは申し訳ありませんでした。しかし、たったこれだけの物音で目覚めるとは、さすがは公儀隠密」

彼女にとっては、純粋な賞賛であった。微かでしかない気配。そして僅かな音すら逃さない感覚。本気で素晴らしいと思った。さすがは公儀だと。

「……然程嬉しくはないな。前から有った能力であるし、公儀となったことはあまり歓迎していない」

思わずといった風に、返された言葉。
ゆえに本心なのだとわかった。基本的に表情の乏しい彼が、しまったといわんばかりに、直後に顔を顰めたことも、それを裏付けている。

「あなたは飛水流というのをご存知ですか?」

触れて欲しくないことならば――と、涼浬は話を逸らした。やはり緋勇に、あの男の面影を見てしまったからかもしれない。

「ん?確か、古くから徳川家に仕えてきた忍びだろう。北方を守護する聖獣、玄武を守護とし、水を操る術に長けた者達ではなかったか?」

もし、彼が知っていたら、聞いて欲しかったことがあった。いくら同じ公儀隠密とはいえ、特殊な成り立ちの彼ら龍閃組なら、おそらく知らないであろうから賭けた賭け。なのに、彼は平然と答えた。

「はい。……忍びとは、己の感情を持たぬ者。ただ主の命に従い、その手足となって働く者の事です。故に、己の意思を持って動く事は許されない」

幼き頃より刷り込まれた掟。命を下されれば、果たすまで帰ることすら許されぬ。
例え手足がどう思おうと、そのことに価値など無い。頭の下した指令を大人しく実行すればいい。

――己が兄を殺せとの命であろうとも。

「すみません、急にこんな話をして。ただ、誰かに聞いていただく事で、自分の使命を、再確認したかったのかもしれません。それでは私もそろそろ部屋へ戻ります」


では―――と、明らかに淀んだ声で頭を下げ、僅かにふらつきながら戻る己の状態を、彼女は認識していないのであろう。その不器用な背中を眺めながら、緋勇は溜息をついた。

妹に殺されてやることだけが、彼女の為に出来る唯一の事だと思っていたと語った青年の陰鬱な声を思い出して、頭まで痛くなってきた。
何をやっているのだろう、この馬鹿兄妹は――というのが、緋勇の正直な感想であった。
これはもう惚気に近い。これほどまでに互いを想いながら、最も愚かな選択をしようとしている彼らに、呆れるしかなかった。

おそらく今回の鬼道衆との接触は、鍛冶屋を救った際のものであろう。あのとき、陽動である奈涸だけが龍閃組と当たり、主たる連中は外法を施された幕府とあたっていたはず。

厄介な敵が奈涸ひとりならば、気を抜かなければ大した難易度でもない。不器用兄妹の仲を取り持つこと程度は可能であろう。

あまり歴史にずれが生じないことを願いながら、計画を練りつつ、緋勇は寝室へと戻った。


「うるせェな〜。誰だよ、こんな朝っぱらから。せっかくの朝飯が、不味くなるってんだよ」

まだ朝五ツ刻。朝餉の時間に、門の方から人の声が聞こえてきた。
ぶつぶつと文句を続ける蓬莱寺と、片せとの雄慶の間で、例によって喧嘩が始まる。このままでは埒があかないと思ったのか、最も部外者である涼浬が立ち上がった。

「私が見てまいりましょう」
「ああ、俺もいこう。ここに居ても騒がしいしな」

続いた緋勇に、またも皆が目を剥いた。常の彼ならば、その凄まじく重い腰を、絶対に上げはしない。

「待って、私も行くわ」

急ぎ続いた美里は、少しだけ駆けて足を止めた。御免―――と頭を下げたのは、既に見慣れた顔であった。

「ふむ、ここに住んでいるというのは本当だったのだな」
「八丁堀か。嘘をつく必然性もなかろうに。真面目だな。時諏佐を尋ねに来たのか?」

『文句があんなら、龍泉寺に来て、時諏佐って女に話を聞くんだな』

吉原にて憤然と告げた蓬莱寺の言葉に、彼が興味を覚えていたのは、一目瞭然であった。頷いた御厨を奥へと案内しながら、緋勇はいくつかの説明を考えてはみたが、結局のところ、時諏佐に任せれば問題ないだろうとの結論に達し、思考を断ち切った。


「率直に尋ねよう―――。この寺は一体何なのだ?」
「何って……世間じゃ幽霊寺なんていわれてるみたいだけど、見ての通り、ただのボロ寺さ」

笑みと共に、時諏佐は答える。言葉尻を捕らえただけのその説明に、御厨が納得する筈もなく、目がすっと細まった。

「……訊き方が悪かったな。打ち捨てられた古寺に、秘密裏に血気盛んな若者たちを集め、なおかつ、出所の知れぬ大きな特権を持ってこれを率いる。もう一度、問おう。この寺は一体、何のためにある?」

やはり頭が切れるな――と、緋勇は感心した。
しかし『血気盛んな若者』に、己も含まれるのかと思うと、少々気恥ずかしい。そもそも二十歳を過ぎた彼に、その扱いはくすぐったくすらあった。

返答次第では、俺はこの十手に賭けてお前たちを止める――真っ直ぐな眼差しで断言した御厨に、時諏佐は優しい笑顔を見せた。

「それにしちゃあ、手勢も連れずに一人で尋ねてくるなんて、少々、無用心なんじゃあないかい?」

そんな危険なことを、なぜ御厨は選択したのか。答えが分かっているからこそ、彼女の笑みは深くなる。

「少なくとも、うちの子たちはあんたに悪い印象は与えなかった。そういう事なんだろう?」

御厨自身、既に答えは出ているのである。だが、相手からの保証が欲しかったのだろう。
頷いた彼を、時諏佐は『あんたは汚職にまみれた名前だけの同心とは違う』と称える。だが、実は何も具体的には答えていない。それに気付かぬほどに、御厨は鈍感ではなかった。

「そうやって煽てておきながら、肝心な事は何も話してくれんのだな?」
「あははははッ、こいつは手厳しいね。確かにその通りだが、今いった事は嘘じゃない。あんたみたいのが、この子達を見守っていてくれるなら―――、あたしも安心して、無茶がいえるってもんさ」

完全に納得したわけではないだろう。それでも同じ目的の元行動していることだけは、理屈でなく信じてくれるようであった。

その背を見送り、時諏佐が、じゃあ行くかいと呟いた。
遠い王子まで彼女も行くのかと訝しんだ蓬莱寺に、途中まで道が同じなだけだと、彼女は笑った。丁度良いからじいさんに挨拶に行くかと続けた彼女に、緋勇が小さく反応する。

それは雄慶の師であり、高野山の最高位の阿闍梨。龍閃組の発案者である老人。
ごく普通の長屋の家主として、彼は暮らしているらしい。

実際、訪れた先にて待っていたのは、いかにもな『長屋の爺さん』であった。

「その若者たちが―――そうか?」
「えェ。ほら、自己紹介おし」

時諏佐と親しげに語っていた彼は、不意に視線を転じる。促され、雄慶を抜かして端から順に、口を開く。

「蓬莱寺 京梧―――。見ての通り剣士だ」
「美里 藍と申します。医術に少し心得があります」
「桜井 小鈴ですッ。あの、弓とかちょっと得意ですッ」
「涼浬と申します。ですが、私は……」

言葉を濁した涼浬に、無理に話す必要はないのじゃ――と、見るからに好々爺といった風に笑いかけた円空に、緋勇は小さな苛立ちを覚えた。彼に悪い事など、全く無い。なのに訳の分からぬ感情が渦巻いた。

「私は緋勇 龍斗と申します。――拳に少々の心得があります」

丁寧に、礼儀にのっとり、馬鹿にするかのように、ふざけた名乗りをあげる。よほど九角 鬼修と申しますとでも名乗りたかったのだが、流石にそれは自制する。

「雄慶、お主も元気にしておったようじゃな。
緋勇 龍斗―――。よい瞳をしておるな。それに相当な鍛錬を積んでおると見える。しかし、お主の氣は普通の人のそれとはいささか違うようじゃな」

弟子に対しにこやかに笑っていた円空は、視線を緋勇へと戻し尋ねた。
彼の質問に、どう答えればいいのか、緋勇とて分からなかった。相当な鍛錬を積んでいる。それは真実。普通の人の氣とはいささか違う。それもおそらく真実。

だが、後者は理由がどちらだか分からない。人の身で黄龍の形質を受け継いでいるからなのか、それとも刻を登った存在だからななのか。

流石は最高位の僧。長く接触すれば、何を悟られるか分かったものではないと、緋勇は辞去の言葉を口にする。事実、これから遠出をするのだから、皆も頷いて立ち上がった。

ぞろぞろと連れ立って長屋を出た所で、蓬莱寺が声を上げた。

「ん―――?向こうにいるの、百合ちゃんじゃねェのか?誰かと話してるみてェだけど、こっからじゃ良くわかんねェな」

相手の予想がつき、眉を顰めた緋勇に、彼は気付かなかったようだ。

「ちょっと、やめなよ京梧。盗み聞きなんて、悪趣味だぞッ」
「んな事いったって、気になるもんは気になるだろうがッ。なァ、緋勇?」

どうでもいい。緋勇は、面にそう書いて首を振った。

「興味なし、か。ま、いいけどよッ」

蓬莱寺は気分を害したのか、声に険を宿して。緋勇としては、興味が無いというよりも嫌だったのだが。この長屋で、時諏佐が他にも寄るところがあると言った時点で、不快な男の顔が浮かんだから。

「京梧ってば―――、」
「いいからいいからッ。お、誰か出てきたぜ―――」

咎める声にも止まらずに進んだ蓬莱寺は、知った声を聞いた。

「帰れ、といった。聞こえなかったのか?」

苛立ちと、そして暴発しそうな殺気が込められている。
かなりの音量であったそれは、先を進んでいた蓬莱寺たちだけでなく、皆に聞こえた。

これだけの距離をとってなお、背が冷えるのを緋勇は感じた。

あれでも、あの男なりに抑えてはいるのだろう。固く握り締めた拳が、微かに震えているさまから、激情を殺していることが分かった。

「また……来るよ。何度でも―――」
「何度来られても同じだ。さっさと帰って餓鬼どものお守りでもしてろ」

聞いた事の無い時諏佐の弱々しい声と、吐き捨てられた犬神の言葉。

「何か、大変なところを見ちゃったね……。あれって、どういう―――」
「そこな一行!!何をしておるッ!?」

きょろきょろと挙動不審になっていたのだろう。叱責に近い強い言葉が掛けられた。
反射的に謝った桜井を、厳しく睨む女に、緋勇は口元を小さく吊り上げた。運命とは面白いものだと、呆れを通り越して楽しくさえなってしまう。

「もしかして、臥龍館の―――、桧神 美冬サン!?」

桜井の問いに頷いた女に、蓬莱寺があからさまに失望と疑念とを込めた声で問う。

「驚いたな……。噂に名高い臥龍館の桧神が女だったとは……。それとも巷で有名なのは、あんたの兄貴か弟か?」
「何の事だかわからんな。それよりもお前たちは、こんなところでこそこそと何をしている!?」

加速度的に険悪になっていく空気に、緋勇は遠い眼差しとなった。噛み合うはずがないのだ。この『女だてら』『男勝り』という言葉と、過剰なまでに必死で闘ってきた者と蓬莱寺が。

案の定、『女如き』にこうまで言われた蓬莱寺の眉は、ぎりぎりと上がっていく。

「ちょいと人の話を立ち聞きさせてもらっただけだ。別に悪意があっての事じゃねェ。それよりも―――、そっちこそ、ずいぶんと喧嘩腰じゃねェか。やるってんなら、相手になってやってもいいんだぜ?」

雄慶が止めるであろうと、緋勇は既にやる気を失っていた。蓬莱寺は、ある程度の腕を持つ相手には、この調子で喧嘩を売っていくのだろうかと、頭が痛くなってくる。

「お前、師は?」
「そんなもんはいねェよ。俺の剣は我流だ」

その返答に、桧神は嘲笑を浮かべる。何がおかしいと食って掛かる蓬莱寺を、変わらずに嘲りながら続ける。

「お前の氣は野獣のそれと変わらぬ。その剣は獣の牙と変わらぬという事だ。人の剣は、鍛錬により研ぎ澄まされた精神によってこそ、その力を発揮する。そういった点では、そちらにおる者の方が腕が立ちそうにも見えるな。お前―――、名は何という?」

視線と声とが己の方を向いていると知り、緋勇は小さく溜息をつく。面倒事に巻き込まれるのは御免であった。

「緋勇 龍斗という。残念ながら、貴女の見込み違いだ。私は単なる、か弱き町人に過ぎぬ」
「緋勇 龍斗……。その名、覚えておこう」

緋勇の戯言には、信じる素振りすら見せず、桧神は背を向ける。身こなしから察するに、現時点では、蓬莱寺と『試合』をするのならば、彼女の方が六―四で有利だと緋勇は見た。尤も、殺し合いならその比は変わるであろうが。

「おいッ、美冬とかいったな?黙って聞いてりゃ、いいたい放題いいやがって……。そこまでいうなら、その人の剣とやら―――、見せてもらおうじゃねェかッ!!」
「この辺りでも、鬼が現れたという噂がある。お前たちも、怪しまれるような行動は慎んだ方がよいだろう」

振り向く事さえなく、彼女は歩みを進める。

「こらッ、待ちやがれッ!!逃げる気かよッ―――、くそッ」
「用が済んだのならば、王子へ向けて出発しましょう。急がなければ日が暮れてしまいます」

いきり立つ蓬莱寺を、涼浬はちらりと冷たい視線で眺めて、歩き出した。
素っ気無さ過ぎる物言いに、蓬莱寺が聞こえるように『どいつもこいつも……、勝手な女ばっかりだぜ』とぼやき、歩き出す。お前も充分に身勝手の分類に入ると思うが――と、緋勇は思ったが、口には出さなかった。


「この山の麓に沿って行くと、もうすぐ王子よ」
「夕方には着けそうだね」

再び飛鳥山の付近を歩きながら、息を弾ませる美里たちの言葉に、涼浬は、そうですかと無表情で頷いた。流石というべきか、彼女の息は微塵も乱れていなかった。

狐を見つけはしゃぐ桜井をからかうように、狐といやァ妖の獣だろ?と、蓬莱寺が笑う。可愛いのにと抗弁する桜井を庇うように、雄慶が両方の側面を持っているのだと、専門家らしきところを見せる。

「片方は神様の使いなのに、片方は悪事を働く妖なんて、どっちが本当の狐なんだろう……」
「神として信者に御利益を与える面と、不信心者に神罰を与える面の両面を備えていたという事ね」

不思議そうに首を捻った桜井に、察しの早い美里が答えた。正解に、雄慶が頷く。

「そういう事だ。陰陽和合の存在であった古代神は、人の歴史の変遷に伴い、やがて、両極の別の存在に分けられてしまう。陽と陰―――つまり、神と妖にな」
「そういう風に、両方の面を持っているからこそ、狐は、こんなにも人々に親しまれ、崇められているのかもしれないわね。陽と陰……それは正反対の存在だけどどちらが欠けても釣り合わない。なんだか、双子の兄弟のような存在にも思えるわね」

姐さんは凄まじく妖し寄りなのだろうな――などと失礼な思考を巡らせていた緋勇は、涼浬の翳った表情に気付いた。兄弟……と、おそらくは無意識のうちに呟いているのであろう様子から判断するに、未だ吹っ切れてはいないのだろう。尤も、その方が緋勇にとっては望ましいのであるが。

「そうだッ、せっかく王子まで来たんだし、みんなで王子稲荷に参拝して行こうよッ。狐の御利益がボクたちにもありますように―――って」
「そうね。涼浬さんの捜している人も、早く見つかるようにお参りしましょうか」

うんうんと、嬉しそうに頷く桜井と美里の微笑みに、緋勇は思わず尋ねてしまった。

「……まさかお前たち、涼浬……殿の任務の内容を、本気で察していないのか?」
「え?人探しでしょ?」

不思議そうに答える桜井と、同種の表情の美里。本当に気付いていないのだと、緋勇は少々気が遠くなった。目を伏せた雄慶と、眉を顰めた蓬莱寺の様子から、彼らは察していたと分かったが。

「私の任務は、その様に軽々と話せる類のものではありません。私は、その者を私の命に代えても捜し出さねばならないのです……。神や仏に頼らずとも、私は私の使命を全うしてみせます。余計な気遣いはなさらないでください」
「ああ、こちらが鈍感だった。抜け忍関連に、口を挟むつもりは毛頭ない。失礼した」
「それで結構です。私はあなた方とは違う。無理に歩み寄る必要はありません」

焦燥と緊張。ひたすらに張り詰めた空気。言葉の端々から、察することが出来た筈なのに『早く見つかるようにお参り』はあんまりであろう。
よって素直に頭を下げた緋勇であったが、涼浬の尖った言葉は、蓬莱寺を刺激したらしい。

「おいおい、人が親切にいってやってんのによ。そういう言い草はねェんじゃねェのか?それとも、隠密ってのは、皆、そういうもんなのかよ?」
「しッ―――。静かに―――」

だが、苛立ったその言葉にも、涼浬は動じなかった。まともに聞いていないのかもしれない。鋭い眼差しで、前を歩む、柄の悪い男達を睨む。

大声で悪事らしきことを喚きたてながら歩む彼らに、緋勇は感動に近いものを覚えた。

罪人の餓鬼、結構な刀、始末してしまえ。

切れ切れに聞こえる単語から、事情をある程度は把握している緋勇には、大体目的が読めた。
冤罪にて処刑されようとしている鍛冶屋の子らを口封じも兼ねて始末し、ゆっくりと値打ちものの刀を探すというのだろう。

「ちッ、何処にでもいるもんだな、あァいう下衆共はよ。おッ、おいッ!!何処行くんだよッ!?」

蓬莱寺の狼狽した声に振り向くと、涼浬が平然と、横道へと歩みだすところであった。
どうやら連中を迂回して先へ進む気らしい。

「もちろん、王子の骨董品屋です。案内を御願いします」

答える声も平然としたもの。結構彼女の事は気に入りそうだなと、緋勇は笑いたくなった。あまりに素直で露骨で清々しい。
尤も蓬莱寺は気に入るはずもない。関係のないことだという彼女の言に、見事な御高説だ――と吐き捨て、眉が吊り上っていく。

「確かに俺たちゃ、気にいらねェが、公儀の命で動いている。そいつが重要な使命だってのは、まァ、あんたのいう通りだ。もしかしたら、俺たちが寄り道をしている間に、反幕の徒が動き出し、幕府を揺るがす大事になるかもしれねェ。事と次第によっちゃ、多くの人死が出るかもしれねェ」

押し殺した声に、ああ駄目だと、緋勇は思った。
蓬莱寺には、行動の型ともいえるものがあって、それが次に取る行動は、想像する事は容易であった。

「だがな―――、だからといって、目の前の悪事を見過ごす様な真似は俺たちにゃできねェんだよッ!!事件に重いも軽いもねェだろ?そいつが、義の道ってもんだッ!!」
「幕府の使命より、町人の方が大切だと?この様な者たちに関わって、何をしようというのです?」

涼浬もあまりに己と相容れない考えに、冷静さを失っているのかもしれない。結構な音量にて尋ねる。

「そんなもん、決まってるじゃねェかッ!!ああいう外道は、とっとと、ブチのめすに限るッ!!なァ、緋勇?」
予想通りの『叫び』。

緋勇は答えず黙っていた。疲れていた為である。
慰めるかのような雄慶の苦笑だけが、救いであった。

「おいおい、どうしちまったんだよ?誰かが必ず犠牲になるってわかってるのに、放っておくのか?」

しかめっ面の蓬莱寺に、溜息をついて緋勇は応じた。答えるまでも無いだろうと疲れた声音にて。
彼の指差す先には、蓬莱寺の大音量に気付き、にやつきながらやってくる男達の姿があった。

「へっへっへっ、誰をブチのめすって?」
「あァん?誰をブチのめすんだ?兄ちゃん」

暴力への期待に満ちた獣たち。

「もちろん、てめェらに決まってんだろうが」

それに、蓬莱寺がまた好戦的に応じるのだから、止まるはずが無い。

「おい、今の話、聞かれたんじゃねェのか?」
「別に構うもんか。ちょいと殺る餓鬼の数が増えたってだけの事よ」

刀に手をかけ、嬉しそうに笑みながら、蓬莱寺は背後の涼浬へ振り向いた。

「ほら、涼浬ちゃん、どうするよ?こいつら、闘る気だぜ?」
「むしろ殺る気だろう。まったく、同じやるにしろ、背後から襲えば楽だったものを」

呆れ返った緋勇に対し、堅いことを言うなと笑いかける。生来の喧嘩好きには、楽しくて仕方ないらしい。
女は殺すなよと、典型的なことを口にした男を、涼浬は無言で蹴り上げた。彼女としてもかなり苛立っているようだ。

「私は先を急いでいるのです。貴方たちのような者を相手にしている暇は無い……。お退きなさい」

緋勇は小さく吹き出した。蹴られ、その上、この台詞で、退いてくれる人間が存在するはずがない。
頭に血が上りきった男達は、当然のように襲い掛かってきた。




「まあ、時間の無駄にしかならんよな、こんな連中」

自分担当の最後の男を蹴り飛ばし、緋勇は肩を竦めた。

「蓬莱寺は妙な所で真面目で、正面からの勝負しか認めんからな」

実は割り切って考えられる雄慶は、気絶させた男を投げ捨てて、笑いながら応じた。堅物だのと言われる割に、勝負に関しては、余程蓬莱寺の方が頭が固かった。


「さァて、先刻の話を詳しく聞かせてもらおうじゃねェか」

詰め寄る蓬莱寺に、男たちは何のことだかと、誤魔化そうとした。

「とぼけんじゃねェッ!!」
「ほッ、蓬莱寺さんッ!!」

慌てた美里が止めようとするほどに、蓬莱寺は、きつく怒鳴りつけた。

「心配すんな。殺りゃしねェよ。ちょいと、舌の滑りを良くしてやろうと思ってるだけさ」

何事か思いついたのか、雄慶が立ち上がり、詰問場所へと近寄る。
小さく笑んでいた顔が男達へ近付くにつれて引き締まり、沈鬱な表情を象る。

「おい、お前たち。大人しく喋った方が身の為だぞ?その男は、人を斬り刻むのに快感を覚えている変人でな。俺たちも、持て余している所だ」
「なッ!!てめェ、俺がいつ―――、痛ェ!!」

叫びかけた蓬莱寺の襟首を掴んで、後ろへ追いやり、意図を察した緋勇が続ける。

「あの陰惨な光景は、夢で繰り返し見るから辛いのだよ。前の男達が、生きたまま手足を落とされた絶叫は、今でもこの耳に残っている」

暗く、凄まじく陰鬱に。視線を落とす青年の言葉には、妙な説得力があった。男達の顔から、血の気が引いていく。

「どうかな、お主ら。いつもの事とはいえ―――、拙僧としても、顔見知りであるこの男にそのような真似をさせたくはないのだ。ここは早いところ折れてはくれぬか。お主らとて、命は惜しいだろう?」
「ああ、またしばらくは、まともに飯が食えぬのか。傍に居ただけで……血と臓物の匂いは、当分消えぬのだよな」

好き勝手に、矢鱈と真実味のある言葉を綴る雄慶と緋勇に、蓬莱寺は歯噛みをしながらも諦めた。
わざわざ刀を抜いて、つい――と、刀身に舌を這わせたりしながら、自棄になったように彼なりの変人を演じる。

「ぐへへへへッ、さァて、どこから斬ってやろうか。腕がいいか、脚がいいか―――。この刀が、てめェらの血を吸いたいっていってるぜェェ」

おお、と小声で呟き、後手で拍手する緋勇と雄慶を睨みつけながらも、蓬莱寺は頑張り続けた。
中々の演技であったのか、蒼白になった男達が、洗い浚い語るまで、大した時間を必要としなかった。

緋勇の推測は大体正解であった。鍛冶屋の子供らを片付け、剣を奪ってくること。命じた者が、頭巾を被っていて顔が分からなかったというところまで、予想通り。

意識の残っていた者たちを、緋勇と雄慶が気絶させて回っていると、桜井が心配そうに呟く。

「でもこのまま放っておいて平気かな。番所まで連れて行った方が良くない?」
「おや、いっそひとおもいに――か?意外に残酷だな、桜井」

笑みと共に肩を竦めた緋勇の言葉を、美里と桜井は理解できていないようであった。不思議そうな彼女達に、蓬莱寺が皮肉っぽく告げる。

「誰がどういう理由で仕組んだ事か知らねェが、場合に寄っちゃ、こいつらも口封じに殺されかねないってこった。ッたく、頭の悪ィ破落戸どもが、手間かけさせやがって。あッ、おい―――」

不意に、狼狽した様子で、蓬莱寺が声を掛ける。
対象は涼浬。彼女は、既に興味を失ったとばかりに、すたすたと先へ進んでいた。

「何故、公儀隠密であるあなた方が、こんな者たちとまで闘うのですか?それに、この者たちの命の心配など……。私たちには、何の関わりもない事ではないですか?」

くるりと振り向いた彼女の瞳は、大部分が無感動。そして、微かに苛立ちが覗いていた。

「関わりはないな」
「では、何故あなたは闘ったりするのです?私には……理解できません」

今までの行為を否定するかのような緋勇の平然とした言葉。
涼浬は俯き、本来ならば表すことを許されていない微かな感情を絞りだすかのように、口に出した。

「放っておけば虐げられたであろう子供たちには、全力を尽くそうと抗えない。そして我らにとって、連中を叩きのめすことは片手で事足りる。ならば助けてやっても良かろう?」
「……余計な手間を取られてしまいました。早くその骨董品屋へ向かいましょう」

苛立ちを懸命に押さえ込み、涼浬は先へ進もうとした。
何だよ、あの女――との吐き捨てるような剣士の青年の言葉など、彼女は気にしなかった。ただ、表情に乏しく、万事皮肉めいているくせに、可愛いじゃないか――などと小声で笑う拳士の青年の方が気に触った。




「駄目だ。閉まってやがる。休みって訳じゃなさそうだから、どっかに出かけてんだろうけどな。茶屋で団子でも食ってまた後で来てみようぜ」
「ええ、そうね。涼浬さんもそうしましょう?」

閉まっていた戸を睨み、先程の『無駄な時間』がなければ開いていたのではないかと、苛立っていた涼浬は頷かなかった。

「いえ、私はここで待っています」
「待ってるっていっても、いつ帰ってくるかわかんねェぜ?」

忠告に返ってきたのは、睨みつけるような眼差し。蓬莱寺は肩を竦める。

「まァ、どうしてもってんなら止めねェけどよ。緋勇、お前はどうすんだよ?」
「ここで待っている」

蓬莱寺の目が微かに光った。
常の緋勇ならば、きっと移動することが面倒なのだなと、納得のできる選択であった。だが、今回は別。
どうにも涼浬に関して、思うところがあるのではないかと、反応の端々から手繰ってしまいたくなる。どうして先程から、やたらと彼女に関しては協力的なのかとの質問が、喉元まで出掛かる。

「まァ、お前がそういうなら構わねェけどよ。それじゃ、俺たちゃ、団子屋に行ってるぜ。半刻ぐらいで戻るからよ」

それでもどうにか抑え、蓬莱寺は、素っ気無く手を振った。

「承知した。じゃあな」



気まずい空気に、涼浬はちらちらと傍らの男の整った横顔を盗み見た。
わざわざ残っておきながら、彼は一言も発さない。静かに、大気すら乱さずに佇むその様は、より一層、兄の事を連想させた。

「あなたも物好きな方ですね。私と一緒に此処に残るなど……」

半ば喧嘩腰で対応していたのは、これ以上龍閃組の面々と、共に居たくなかったから。
善良な彼らが、探し人が見つかれば良いと微笑む度に、心が痛んだ。そんな任務に不要なものは、とうに切り捨てたと思っていたのに。

ゆっくりと振り向いた緋勇は、口を開く前に視線を転じた。その先には、声を殺して泣く幼子がいた。
兄がいないと、泣きじゃくる少女に、涼浬は躊躇いながらも精一杯優しく尋ねる。

「お兄さんと……はぐれてしまったの?お兄さんは、御稲荷様へ行くといっていたの?」

少女を稲荷まで送りたいと、自分から言い出した涼浬に、緋勇は頷いた。淡い笑みを見せた彼に、涼浬は頬が赤くなるのを感じ、顔を背けて、少女の手を引いて、率先して歩き出した。


だが、待っていたのは感謝ではなく敵意の眼差し。
少女の兄だという少年は、幕府の人間だから安心しろと告げた涼浬を睨みつけて、吐き捨てた。


「ふんッ、幕府なんて、クソ食らえだッ!!父ちゃんを捕まえたのも幕府の人間……。俺は、幕府が、一番、大っ嫌いだッ。妹から離れろッ!!あっちへいけッ!」

拾い上げたのなら涼浬とて、反応できたであろう。だが、少年は、妹の姿が消えたと認識してからずっと、それを握り締めていたのであろう。

嫌悪の言葉と共に投げられたのは、拳に近いほどの大きさの石。狙いも碌につけず、ただ懸命に強く投げたそれの軌道上は、偶然にも涼浬の顔があった。

「危ないッ!!石が手に……。大丈夫ですか?緋勇殿」
「大した事はない」

弾いたのは、緋勇の掌。
狙っていなかったがゆえに、彼ですら咄嗟に弾くことが背一杯であった。石の形状と勢いとにより、緋勇の手に血が滲む。

「石といえども、当たり所が悪ければ、致命傷となりかねません。子供といえど、幕府に反するは許されぬ行為。その罪を贖う覚悟はできているのでしょうね?」

彼女はどうしようもないほどに、生真面目なのだろう。緋勇は、その大人げの無い対応を、半ば呆れて眺めていた。彼にとって、この程度は傷に入らない。少年らの目さえなければ、氣により一瞬にして癒せるもの。

いつ少年を助けに入ろうかと思案していた緋勇であったが、必要はなかった。
彼は涼浬の怒気に震えながら、それでも懸命に妹を背に庇って宣言した。

「お……俺は、妹を護らなくちゃなんないんだッ。父ちゃんが帰って来るまで、父ちゃんの代わりに……。そのためなら、俺の命なんてくれてやるッ」

……学んでない、と緋勇は頭を抑えた。
妹と父の為に、簡単に死ぬなどと口にするなと、九桐に説教されたのは、無駄だったのか――と考えかけて、動きを止めた。九桐と共に王子の骨董店に向かい、この子供らと会ったのは、確かに少し前の筈。今日は、もしかしたら――――天戒への報告後、もう一度稲荷へを訪れて、龍閃組と会った日ではないのかと。

震えながらも反抗的な態度を崩さぬ少年は、涼浬が黙り込んだのを見て、少女の手を引いて歩き出した。
少女の方は、申し訳なさそうに緋勇らに頭を下げながらも、少年について歩き出した。

「子供というのは、いいですね。疑うという事を知らない。兄妹の絆が、本当は脆いものだという事を知らない」

虚ろな声で呟く涼浬に、緋勇は眩暈を感じた。やはりこれは新手の惚気であろう。凄まじく堅い絆で結ばれていながら、何を言っているのだろうとしか思えなかった。

「緋勇殿。お察しの通り、私は公儀隠密、飛水流の忍び―――。幼い頃より、そのように訓練を受けて参りました」

突然の独白を、緋勇は黙って聞いていた。彼女が、先程の兄妹と己を重ねているのは、明らかだったため、彼女の想いを、ただ聞いていた。

「本当ならあの時、私は死んでいたのです。自分の未熟さ故に、放たれた矢を避ける事が出来ずに。今のあなたと同じ―――、庇う手を差し伸べてくれたのは、私の……実の兄でした」

泣きそうな瞳で遠くを見つめていた彼女の言葉は、音を成さなかった。
がやがやとした気配と、明るい声を聞いた為に。

「何だ、お前らも王子稲荷に来てたのか。何だよ、その顔は?」

いえ――と、小声で呟く涼浬の面からは、既に激情は去ってしまっていた。

「ああ、迷子の餓鬼を送りに来て、結果的にな」

もう少し遅く来てくれればとの思いを隠し、蓬莱寺に対して、緋勇は答えた。
彼らと合流したことで、やはり九桐と会うのはこの直後のことだろうと、緋勇は確信した。

「あれ?見てよ―――。小さな子がずいぶんと一生懸命にお参りしてるよ」

桜井が指し示したのは、先程の兄妹。手を合わせ、堅く目を閉じ、必死に祈っている。

「お稲荷さま。どうか、どうか、父ちゃんを助けてください。父ちゃんは、何も悪い事なんてしてないんだ。父ちゃんは悪くない。それなのに、磔刑にされるなんてッ」

聞こえてくる言葉も真剣そのもの。

「飛鳥山で破落戸どもが話してた鍛冶屋の子供か」

察した雄慶が、今日は日が悪いと首を振る。
彼らをそっとしておいてやるために、音を立てないように、皆静かに歩き出した。

「あいつは―――」

蓬莱寺が立ち止まり、呟くまでは完全に無音。
殺気すら込められた言葉に、緋勇は視線を逸らした。出会うのは、運命が変わっていなければ――彼。

「こんなところで再会するとは、まさに稲荷神のお導きといったところかな」

そう怖い顔をするな――と。
親の仇と遭ったわけでもあるまいし――と、楽しげに笑うのは、予想通り僧形の青年。

「俺にとっちゃ、それよりも質が悪いぜ!!てめェから受けた屈辱、忘れようたってそうそう忘れられるもんじゃねェ」

面倒なことに、今にも飛び掛っていきそうなほどに、蓬莱寺が睨みつける。
厄介なことに、更に楽しそうに九桐は笑う。

「それをいうなら俺も同じさ。あんなに楽しい闘いは久しぶりだったからな。君もそう思わなかったか?」
「残念ながら、俺は身体が弱くてな。遠慮願いたいものだ」

視線を逸らしていた己の正面にまで、わざわざ回り込まれ、緋勇は諦めたように答えた。
その戯けた答えに、九桐は残念そうに、ため息を吐く。

「闘うのは嫌いか?それほどの腕を持ちながら……惜しいな」

やたらと目を逸らす緋勇とは対照的に、剣呑な雰囲気のままに己を睨む蓬莱寺に、ひらひらと手を振って九桐は笑った。

「それじゃ俺はそろそろ行くよ。これでも結構、忙しい身なんでな」
「待てよッ!!俺との勝負はどうする!?」

調べものもあるだろうしな――と、納得する緋勇と違い、蓬莱寺は声を荒げる。

「仮にも僧侶が二人いて、社寺仏閣で私闘もないもんだ。そうは思われぬかな、雄慶殿とやら」

己で『仮にも』などと口にしながらも、一応はもっともなことを述べ、踵を返しかける。それじゃ――という言葉に、安堵の息を吐きかけた緋勇に対し、九桐は笑いながら告げた。

「ああ、そうだ。緋勇、ちょっといいかな」
「残念ながら、そちらの気は無……」

煙に巻こうとした緋勇の襟首を掴み、九桐は飄々とした笑顔を浮かべたまま、蓬莱寺らからかなり離れた場まで、緋勇を引きずっていった。

「御神槌から聞いた。桔梗の話とも併せてみたが、謎を解くには至らない。材料が少なすぎる。だから……」

直に聞こうかと思ってね―――と、笑みを浮かべながら、九桐は槍を構える。

「ふむ……。少々短気過ぎぬか?材料を集め、欠片から真実を辿るのも一興だと思うが」

緋勇は肩を竦める。私闘は良くないなどと口にしたのは誰だったのか、思いを馳せたくなった。

「それほど気が長くないのでね。……私闘は良くない。だが、尋問は仕方ない」

言い訳になるはずもないことを口にしながら、九桐は笑みながらも、ぞわりと殺気を発する。
だが、それは失敗であろう。せっかく離れたというのに、鋭敏に察知可能な者達が、三人も居るというのに。緋勇は微かに笑みながら、遠くを指差した。

「殺気など発するから……。蓬莱寺たちが気付いたぞ?」
「む……。仕方ないか」

注視し、何かあればすぐにでも駆け寄ってきそうな彼らに、九桐は詰まらなそうに、眉を顰めた。かと言って、殺気も発しないままの遊戯のようなじゃれあいを、これほどの遣い手と繰り広げる気分ではない。

「いつか聞かせて貰うぞ―――龍閃組」
「機会があるのならばな―――鬼道衆」

最後の言葉は、互いにしか聞こえないであろう囁き。

後は視線を交わすこともなく、九桐は歩き出した。

ゆえに緋勇は見ることはなかった。九桐が面に貼り付けた、心底楽しそうな笑みを。
九桐は気付かなかった。ほんの一瞬だけ顔を歪めた緋勇に。

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