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― 東京魔人学園外法帖 第伍章 ――

「はい、いらっしゃい……おや、お前さんたちかい。今日は何の用かな?」
「私は涼浬と申します。失礼ですが、この店の名は何故、《如月》と―――?」

扉の開く音に顔を上げた店主に、涼浬が単刀直入を具現化したが如く尋ねる。不躾ですらある。

実際に奈涸が変装した姿であると知っている緋勇はそれほどではないが、龍閃組の面々は、はらはらした面持ちで経緯を見守っていた。

如月という姓と己は関係ないと、あっさりと否定した店主の言葉に、涼浬は眦を上げて踵を返した。もうここに用は無いと言う彼女に蓬莱寺が食って掛かろうとした瞬間に、店主が呆れたように呟く。


「やれやれ、今日はどうにもせっかちな客が多いのう。お前さんたちといい―――、あの兄妹といい」

途端に、皆が反応する。稲荷に一心に祈っていた子供らの横顔は、彼らの気に掛かっていたらしい。
店主は少年らの親――鍛冶屋の事情を説明する。無論のこと、かなりぼかしながらではあったが。

既に展開を知る緋勇としては、店主の言うように、番所の裏口から忍び込むことに、大きな意義があるとは思えなかった。どちらにしろ、鬼道衆が既に鍛冶屋を救うと決めた筈であるから。

尤も、店主の目的は、時間稼ぎではなく――――全てが妹の為。
未だ幕府を至上とする彼女を、柵から解放したいのであろう。


日没には処刑が始まる。そう聞いて、慌てて刑場へ向かおうとした龍閃組とは異なり、涼浬は動きを止めた。その視線の先は、店主の手の傷痕。

「主人……、その手の傷は?見たところ、ずいぶんと古い傷のようにも見えますが」

品物を扱っていた際に、つけてしまったものだと、彼は白々しく嘘を吐く。

「ほんとだァ〜。何かがザックリ刺さったみたいな傷……。お爺チャン、痛くないの?」
「痛みなど……、もうとうに忘れてしまったわ。大切なものを護ってついた傷じゃ。儂にとっては、名誉の負傷よ」

心配そうに尋ねた桜井に、おそらくは本心からの言葉にて、奈涸は抜け抜けと応じる。胸を突かれたように硬直している涼浬のさまから察するに、彼女も薄々勘付いてはいるのだろう。


「さァて、どうしたもんかな……。鍛冶屋が侍に傷を追わせたってのは本当の事らしいし、だとしたらどう考えても極刑は免れねェ」
「でも、私も小鈴ちゃんのいうように何か理由があったんだと思うわ。そうでなかったら、子供たちを不幸にするような道を選ぶはすがない……」

店を出るなり、鍛冶屋のことが気に掛かると、だが、幕府の取り決めた事だと、話し合いだした連中の中で、ひとり涼浬が首を振った。

「徳川幕府こそは絶対の正義―――、そうでなくてどうして世を治める事ができますか?あなたとて、そう思われるでしょう?」

その懸命な眼差しの先が己と知り、緋勇は苦笑した。そこまで強く言い切るのは、それだけ疑っているのだと、彼女は分かっていない。何よりも、緋勇はこの中で、一番幕府を信じていない。――常に憎まれ口を叩いている蓬莱寺よりも遥かに。

「残念ながら、絶対の正義が存在しているのならば、悲惨な目に遭わなかったはずの連中を何人も知っている。それに、流れ聞く噂からも、幕府が絶対の正義ではないことくらいは分かってしまう」
「緋勇殿?なぜそのようなことを……?」


幕府を絶対の正義と信じなければ、与えられた苦しい任を果たすことはできない。故に信じなければならない。その前提が、既に誤っていることに、彼女は気付けない。命をただ盲信する必要など、本当はないのに。

「なら、俺たちも小塚原へ行ってみようじゃねェか。あんたが絶対だって信じる幕府が、そこで何をするのか―――、それを見れば少しは納得できるかも知れねェ。この世の中が、正しいんだって事をよ」

静かに告げる蓬莱寺を詰と睨み、涼浬は頷いた。正しい裁きのもとに、一人の罪人が刑に処される―――それだけの事なのだと、どこか怒った瞳で。
緋勇としては、賛成したくはなかった。何しろ、放っておいたとしても、この事件は鬼道衆が動いている。彼らが鍛冶屋を救い出す。

龍閃組は、幕府牽制を引き受けた奈涸と遭遇してしまうだけの話。
――と、そこまで考えてから思い当たった。その方が望ましいのかもしれない。奈涸と涼浬が間近で会える。それだけで意味があるのかもしれない。


龍閃組の面々は、小塚原刑場に溢れた見物人の中に、既に見慣れた顔を見つけた。必死の顔で、懸命に祈る兄妹の様子に、涼浬が呟いた。

「行ってみましょう。あの老人のいっていた裏口へ。ここでこうしていても、あなた方の望むような事態にはならないでしょう?」


裏口から聞こえてきた会話は、予想通りのもの。
吟味方同心と町奉行吟味方とが、悪事を語り合う。番所で、わざわざ声高に。

鍛冶屋に非はなく、全ては自分達の成した謀略だと。

「何故、あんな者たちがいるのです?徳川家の世に、間違いなどあるはずがない。そうでなければッ、私は……、私たちはッ」

察しているくせに、彼女は呟く。
とうに分かっていたはず。兄が彼女を置いて里を出たのは、ただの反逆などではないと。


「さァて、どうする?とりあえずブチのめしとくか?」
「うむ。さすがに見過ごす訳にはいかんからな」

珍しく意見の合うふたりを他所に、狼狽した報告の声が響いた。

「賊ですッ!!刑場に賊がッ!!」
「何!?さっさと引っ捕らえんか!!」

それは少々酷であろうと、緋勇は薄く笑った。常人である役人たちに、その命は困難であろう。

続いた『それが妙な技を使う者たちでして』との言い訳の声に、彼らの鈍い思考回路にも、ひとつの単語が閃いたようであった。

「ひょっとすると、世を騒がせているという鬼ではないかと」


無論、そんな単語を聞いてしまえば、反応するものたちもいる。まさかと呟いて刑場へと駆け出す蓬莱寺の後ろを、緋勇はゆるりと歩いてついていった。未だ悄然とうな垂れる少女に声を掛けて。

「涼浬殿。幕府と兄と、どちらを信じればいいのか――直接聞いてみるといい。今ならば会えるぞ」

はっと顔を上げ、疾風のように駆け出す彼女の背を苦笑とともに見送り、緋勇はちらりともうひとつの騒動の方を振り返る。
暗闇と雨と嵐と――より大きい騒動に幕府と観衆が興味を惹きつけられている隙に、鍛冶屋を救い出そうとしているであろう、甘い鬼たちが闘っているであろう場を。


「――どうか無事に」

呟き駆け出す瞳は、すでに戦闘に向けて冷徹に切り替わっていた。外法を施された猿とその他雑魚連中と闘う彼らよりも、漆黒の忍びと対峙するこちらの方が、はるかに難易度が高いのだから。


「この身はただ、闇よりいで―――、闇へと消えるだけのもの―――。名乗る名すら持たぬ、影―――」

影がゆらりと揺れるだけで、周囲の幕府の人間たちは、悲鳴を挙げて倒れていく。確実に絶命させるその手腕に苦笑を洩らす緊迫感のない緋勇とは異なり、龍閃組の面々が真剣な面持ちで構える。

中でも詰と、鋭い表情にて誰何の声を上げたのは、涼浬。

「奈涸、貴様ッ―――。やはりあの手の傷は。骨董品屋の老人、あれは―――、奈涸……、貴様の変装であろう」
「フッ……。今更ではないか?涼浬―――。そのように思っていたのなら、あの場で俺を斬るべきだったのだ。重要な任務を負った忍びたる者、いかなる時でも躊躇すべきではない」


なんだか嬉しそうだなと、緋勇は思った。きっと気のせいではないだろう。
見抜いてくれたことが嬉しいのか、斬らなかったことが嬉しいのか。ともかく、言葉の端々が、常の冷静っぷりからは考えがたいほどに、弾んでいる。

尤も、それは緋勇が彼と親しかったからこそ、分かる程度のものだが。

「貴様がそれをいうのか?里長様を殺し―――、里を捨て、掟を捨て、私を捨て―――、抜け忍となった貴様が、それを口にするのか!?」

涼浬は、震えながら叫んだ。彼女は知らないから。

なぜ奈涸が里長を殺したのか。なぜ里を捨てたのか。


「今の俺はもう忍びではない。我が……妹よ」
「私は最早、貴様を兄などとは思っていないッ」

激情のままに、涼浬は得物を抜き打つ。
だが、その足はカクンと折れた。意識はあるのに、体に力が入らない。愕然と背後を振り仰いだ涼浬は、小さく笑む緋勇と目が合った。

それでは困る――と、彼は呟いた。

お前が相手では、奈涸は殺されることを選択してしまうと続け、足を踏み出した彼が、彼女の後頭部を軽く打ち、それだけで自由を奪ったようであった。

あからさまに憤怒の色を宿した瞳にて、殺気と共に己を見る奈涸に、緋勇は軽く応じる。相手は自分がするのでよろしく――と、まるでただの戯言のように。

「君は何を考えている?俺は元公儀隠密飛水流の奈涸―――、そして今は、幕府に牙剥く鬼の一人、―――鬼道衆だ」
「はは、この時点ではまだ加入を了承していなかったくせに、そう名乗るか。ならばこちらは、公儀隠密、龍閃組の緋勇 龍斗と応えておくか」

龍閃組ときき身構える、天才と呼ばれた忍びに対し、緋勇はあくまでも落ち着いたままに、腰をやや落とす。


あとは言葉もなし。
閃く剣に、飛来する黒塗りされた小柄やら手裏剣やら。

尋常でない手数と正確な狙いをもって、数多の敵を屠ってきたであろう奈涸の攻撃を、緋勇は悉く躱した。

ろくに視認することさえ適わない美里や桜井は、困惑するだけで済む。だが、自身も優れた戦闘者であるがゆえに、雄慶や蓬莱寺や涼浬には、その異常が理解できてしまう。


まともに思えぬ動きを体現しながらも、薄く笑む彼に、奈涸ならずとも戦慄した。

尤も、緋勇にも言葉とその表情ほどに余裕があるわけではなかった。試合であるならば、奈涸は、少なくとも今現在においては、てこずる相手ではない。だが、これは殺し合い。なにしろ奈涸は、迅い。一撃でも喰らえば危険な武器を有した相手からの攻撃全てを躱すのは、全神経の集中を必要とする。

ゆえに短期決戦。
実時間にして、わずかな時間のうちに、凄まじい速度での攻防は終わりを告げる。



終了と同時に、雄慶は目を細めた。奈涸が蹴り飛ばされた先は、森の入り口。

偶然か必然か。

緋勇に倒された鬼道衆は、吹き飛ばされる。龍閃組から離れ、背後に逃げ道を有する場へと。


追撃される前に、奈涸は苦しげながらも立ち上がった。
その前に、誰よりも先に一歩踏み出したのは、華奢な忍び姿。震える手で、小太刀を構える少女。

「私は、貴方を殺すために里を出た。それが、私が生きていくための道だったから。あの時……私が死んでいれば、こんな想いをせずに済んだのに。あの時―――」

唇を噛みしめて、涼浬は呟いていた。

おそらく想うのは、奈涸が彼女を助けたときの事。
妹を庇い傷を負い、なおかつ父親に、彼女の訓練を軽くするように進言した奈涸の優しさが、結果として悲劇を蒔き寄せた、哀しい出来事。

「あの時、死んでいれば……、こんな想いをせずに済んだ。何故、あの時、私を救けたのですッ!?何故―――ッ!!」
「解らぬか?涼浬。それは、お前が、俺の妹だからだ。この世に、妹を失って悲しまぬ兄はおらぬ。お前は、俺の―――、たったひとりの妹だ」

見事に構築されたふたりきりの世界。ここまでくると、どうしようとしか言いようがなかった。
胸を衝かれたかのように、言葉を失った涼浬に対し、奈涸が静かな声で問うた。

「―――涼浬。お前にひとつ問おう。我ら飛水流は、何のためにある―――?」
「それは……我らは徳川家に仕え、この地の治水を護る―――、」

今までは疑うことなく答えていたはずのお題目を、涼浬は自信なさげに口にする。既に彼女は目にしてしまった。徳川の腐りを。そして勘付いてしまった。兄の出奔にも、やはり理由があったのではないのかと。


「今の徳川家に、護る価値がないとしてもか?徳川の世は所詮、権力の世。強い者が笑い、弱い者が泣く―――。このような世を、お前はその命を懸けて護るというのか!?」

世の矛盾を突いているようで、結局彼は、妹が命を懸けてまで、下らない世の中を護ることを是としたくないだけ。ある意味で爽やかだと、緋勇は妙なところで感心していた。元より、このふたりの間に入る必要など、なかったのだなと、納得もしていた。

「涼浬、忘れるな。お前は忍びである前に一人の人間だ。いずれまた……会う事もあろう。達者でな、涼浬―――」

声が遠くなるのと同時に、奈涸の姿は闇にとけた。現れたときと同様に、誰にも悟られることなく、その姿を消した。


結局のところ、鍛冶屋の件は、詮議のし直しになったという。事情の考慮もあり、軽い刑にしかならないだろうとの知らせに、龍閃組に、安堵の空気が流れた。

「皆様には色々とお手数をおかけしましたが、無事、任務を終えた事ですし、一旦、里へ報告に戻ります」
「涼浬さん……。あの人は―――」

なんと言葉を続ければ良いのか分からずに、美里は言葉を濁した。
だが、思いのほか晴れやかに、涼浬は静かに応える。

「はい……私の実の兄です。兄上は、飛水の里の中でも、抜きん出た才能を持っていました。技も―――、術も―――、そして、人望も。里では、誰もが、兄上を尊敬し、誰もが、兄上を慕っていました。兄上のたったひとりの妹。私には、それが誇りでした」

最後にぺこりと頭を下げ、歩き出した涼浬は、門の前にてその足を止めた。

ひとりそこで待っていた人物に、抱えていた想いを吐き出す。

「私は、忍びになどなれる器ではなかったのです。忍びになるには、私は、あまりに弱い存在だった……。隠密としての重責。兄上の妹である事の重圧。どれもが、私の心を押し潰すのに十分でした。そして―――、あの事故が起こったのです。私のせいで兄上が傷を負い、そしてその夜―――、兄上は里長様を殺め、そのまま姿を消しました」

俯く彼女を眺め、緋勇は溜息を吐いた。
嘆かわしいとさえ思えるこの相思相愛ぶりに放っておいても構わないかとも思えるが、それでも――――彼女と奈涸のことを好ましく思っているがゆえに、微かに笑みながら、彼女の名を呼んだ。


「涼浬……殿」
「涼浬で構いませぬ。緋勇殿」

ほんの少しの沈黙。その後に、涼浬は、そう答えた。この相手には、名で呼んでほしかった。

「ある男の話をしていいかな」
「それは任務と関わりのあることなのでしょうか」

怪訝そうに首を傾げる彼女に、根本は変わってないのだなと、緋勇は感心した。普通、あれだけの価値観の転換があれば、任務への拘りも薄れるであろうが、彼女の生真面目さは筋金入りなのであろう。

「さて。昔々、ある所にひとりの男がいた。男には、大切な妹がいた。自分を誇りに思ってくれて、里に帰ると満面の笑みで向かえてくれる妹が。だが、その妹は里長たちに良く思われていなかった。男が嘗て修行中に、妹を庇って傷を受けたことが原因だった」
「緋勇殿!?」

血相を変えた涼浬には構わず、緋勇は淡々と語り続ける。


「それでも、その妹の資質も相当のものであったために、その連中は抑えていた」

だが、それは、ほんの少しの間。ある日、連中の不満は爆発した。
少女の才能の開花を待つこともせず、勝手な理屈を起爆として。

「男の足手まといになりたくない――その一心で、きつい修行を続けていた妹に、次期長は心を痛めた。既に一線で活躍していた彼が、里長に告げた言葉は『妹の訓練を軽くしろ』。報告よりも優先されたその願いは問題視され、協議が成され――結論が出た」
「……その結論とは?」

蒼白となりながら、涼浬は訊ねた。声は震えていたが、その瞳は強い意思を宿したままであった。
ちらとだけ背後に視線を向けたあと、緋勇は奇妙に無表情となった。

「類稀なき資質を持つ次期長の甘さを消すために、相当の資質である少女を殺す。それが里の結論。男に納得のできる訳がなかった。しかも、その真の理由は外道そのもの」

徳川家の恩寵、そして任務のたびに賜る莫大な報酬。有能な次期長の弱点をなくせば、里も安泰だと語る長の言葉を、男は聞いてしまった。

「男は自嘲した。彼は、無益な戦で、少しでも多くの命が失われぬように働いてきたつもりだった。そういう世を、幕府が、創れると信じていた――と」

妹が待っているから。笑顔が迎えてくれるから。そして、多くの民たちに良かれと思って、彼は過酷な任務に耐えてきた。
だが、理由は全て崩壊した。私利私欲の為に人を殺める公儀隠密。邪魔だから妹を殺してしまえと命ずる長。

「彼にとって里やら徳川は守るものではなくなった。己の最も大切なものを消してまで、そんなものを守る義理はない。彼はその日、長を殺して里を出た」


ぎゅっと固く拳を握り、微かに震えながらも、涼浬は正面から緋勇を見つめる。
緊張し瞳は揺らぎ、それでも、意を決し、口を開く。

「その『話』は誰に聞いたのです?」
「ある妹馬鹿から。骨董馬鹿でもあったな」

緋勇の脳裏に浮かぶのは、長髪の陰気な青年。つい先日対峙した黒衣の忍び。

身分を隠し情報収集をすること―――それを目的として骨董店を始めたであろうあの抜け忍は、何処で本末転倒になったのか、骨董品に命を掛けるようになっていた。隙あらば内藤新宿に出て、買出しに行っていた姿が明瞭に思い出される。


「だから――その妹馬鹿と、また会える日を待ってやってほしい」

いつか俺が叶えてみせるから

最後の呟きは風に溶けるほどに小さく、だが、涼浬の耳には、確かに届いた。整った顔立ちに無表情と見えた相手は、今は微かに笑っていた。
やはり彼は兄と似ていると、涼浬は改めて確信した。

冷たく端整に見えるその貌に、全ての感情を隠しながら――優しい。


「ここであなた方と出会わなければ、私は―――、人としての大切なものを失ってしまうところでした。兄上は、忍びとして死ぬのではなく、人として生きる事を選んだ……」

人としてというか、兄としてではないのかと、口を挟みたくなった緋勇は、とりあえずその衝動を抑えた。下手なことを口にすれば、後頭部にさくっと九無が刺さりかねない。今、すぐ傍に、彼は居る。

「私もその意味を、考えてみたいと思うのです。私に大切な事を気づかせてくれたのは兄上と、それから―――、きっとあなたでしょう。本当に……ありがとう」

照れくさそうに、それでも精一杯に微笑んだ涼浬に、緋勇は頷いて応じた。前方からの暖かい笑みと、後方上からの凍りつかんばかりの睨みとの温度差に辟易はしたが。


「それから、時諏佐殿にはすでにお話ししましたが、私もこれから、皆様と行動を共にさせていただきたく思います。飛水の当主からも、そのようにしろとのお達しがありましたので」

その言葉に、不服そうな感情が、後ろから流れてきたことに、緋勇は首を傾げる。何故に涼浬は、こんなにもはっきりとした奈涸の気配に気付かないのだろうと、不思議で仕方なかった。

「有難い。だが、ただでさえ面倒な公儀の仕事も兼任なのだから、くれぐれも無茶はするなよ」

改めてよろしくお願いいたします――丁寧に頭を下げる涼浬に頷き、幾度も振り返りながら歩いていく彼女の姿を、緋勇は見送っていた。
完全にその姿が消え、更にしばらくの時間が経過してから、呆れたように呟く。

「凍えてしまうから、その殺気を止めろ。そう心配せずとも、俺は愛している女が居るから、手を出したりはしない」
「――――江戸妻になどとほざいたら、蜂の巣のようにしてやろうと思っていたのだがね」

至近距離に、気配も無く現れたのは、奈涸。未だ疑わしそうに睨む相手に、緋勇は面倒くさそうに手を振る。

「あれは――感覚としては妹だ。素直で健気で、泣けてくる。幕府からの面倒ごとからも護ってやるさ。そのうち龍閃組を主とするように働きかけてな」

たっぷりと疑いの眼差しで眺めたのちに、奈涸は口を開いた。

「九桐は、君の正体の謎解きに夢中だ。彼らから聞いたよ。まるで鬼道衆を知っているかのように詳しく、予言のように先まで見通す男が龍閃組にいると」

言葉を一旦区切った後、続ける。


「何故、君が、あの経緯すらをも知っているのか――そんなことが可能なのかは、知らない。だが、俺には――君の正体とやらだけは、分かる。玄武の宿星を負った身だからこそ」

奈涸が真っ直ぐに見据えるのは、緋勇の瞳。その色が、稀に変わるのは、光の加減ではない。日に照らされたことがないかのような薄い茶の瞳は、時折深まる。濃い――金に近い琥珀へと。

「君は―――」

王たる身。四神が集い、囲み、戴く五行の主。

「詳細は秘密だ。その名も、口にしないでもらおうか。面倒ごとを呼ぶかもしれん」

ふざけた口調に浮かぶのは微かな笑み。
奈涸は、それをどこか懐かしく感じた。緋勇のことなど知らないはず。

だが、九桐も桔梗も御神槌も弥勒も、――――そして下忍たちも口を揃えて首を傾げた。なぜか懐かしく、見覚えのある男だと。

その男が断言した。奈涸が誰よりも重きを置く少女を、必ず護ると。――――なにより重要なことに、手は出さないと。

では出すべき結論はひとつ。奈涸は背を向けて告げる。

「君らならばきっと、我が一族のように―――、道を見誤る事はないかもしれん。涼浬を――頼んだ」

一陣の風が吹き、彼の姿は消えた。確かにその気配が消え去ったのを確認し、緋勇は堪えていた笑いを、吐き出した。

「本当に妹馬鹿だ。確かに――頼まれた」

もうひとつ目的ができたことは、喜ぶべきことかもしれない。龍閃組においてもなお、護りたいと思える人間が存在することは、組織と――そして幕府への冷めた態度を隠し通すのだから。


かくて涼浬の存在は契機となる。
緋勇にとって、龍閃組というものの認識が、ただ利用するだけの組織から変わる為の。

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