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もはや慣れた様子で、門をくぐり、勝手に上がりこむ。いつもであれば現れるはずの出迎えがなく、何をしているのか不思議に思いながらも座敷へ進んでいくと、彼女は静かに外を眺めていた。

――そなたか。今、雨音を聞いておった

常のきつい眼差しはなく。
ぼんやりと雫を落とす天を見つめ、彼女は呟く。

――違う生き方をした自分、というのを思い描いてみる事はあるか?

漆黒の髪が微かに揺れる。
誰よりも思い描くのは、彼女自身なのだろう。

彼女は手を外へ差し伸べる。

――もしも人形の村などに生まれなければ、もしも村が滅びなければ、

祈るように唄うように。
だが、その手は雨へ届かない。彼女は自分で動くことは出来ない。

―――もしも、この脚が動けば……。


目を覚ました緋勇は、口元に手を当てた。
吐き気が酷い。眩暈も感じる。

強すぎる怒りと愛しさで。

霞む視界を外に向け、今見た夢に納得する。
まるであの時のような雨。

『そんな事ばかりを考える。特にこんな雨の日はな……』

寂しそうに呟いた恋人と共に眺めた空のように。


― 東京魔人学園外法帖 第八章 ――



「おかわりはいかがですか?」
「ああ、頼む、ひょ……」

緋勇は椀を差し出したままの姿勢で、硬直していた。心から呆然とした表情で。

今、己が何を口にしたのかが信じられなかった。確かに今朝、恋人の夢を見た。そして、夢の情景の続きといわんばかりに、雨は降り続いている。

似てはいないはずだ。
きつい眼差しに、漆黒の髪という共通点があっても見惑うほどではない。
何よりも失礼であろう。緋勇は落ち着こうと、感情を必死に押さえ込もうとしていた。

「た、龍斗さんッ!!」
「おい、龍斗!?」

恐怖に近い驚愕の叫びに、緋勇は顔を上げた。涼浬と蓬莱寺の形相に、寧ろ首を傾げる。
何をそんなに驚いているのか理解できなかった。

「龍斗……お主、泣いているぞ」

雄慶の静かな言葉を聞くまでは。

泣いている自覚などなかった。だが確かに頬を伝う感触があった。
慌てて袖で擦る。食事の最中に、いきなり泣き出した――それは流石に恥ずかしすぎた。

だが、何の因縁か。
折悪しく、嘲弄の声が掛けられる。

「ふんッ。ここが、百合がいっていたボロ寺か。希望の楽園か。餓鬼がぐすぐすと泣く小汚い掃き溜めが楽園とは面白い感性だな」
「あッ、てめェは、長屋の―――、何で、こんなとこにいんだよッ!!」

怒鳴る蓬莱寺を馬鹿にしたように眺め、犬神と名乗った男は、嘲弄を隠さずに応じる。

「そいつは、御挨拶だな。一度でいいから、寺に来てくれというから、来てやっただけだ。俺だって、お前らに干渉されて迷惑している」
「何だと? 一体誰に」

自分だと応じたのは時諏佐。
あたしたちの全てを見てもらおうと思って龍泉寺に呼んだのだと、犬神を真っ直ぐに見据えて言う。

だが、犬神は馬鹿馬鹿しいと吐き捨てた。

今の人間共の姿を見てみろと。
同じ人間同士で殺し合い、私欲の為に戦を続けている愚かな生き物だと。

「自分の頭の上の蝿も追われぬ人間が、国を救う事などできる筈がなかろう」


龍泉寺を後にした犬神は、前方にある人物の姿を認めた。
確かに先ほどの連中のなかにいた筈の小僧が、どうやって先回りをしたのか、腕を組み不遜な態度で、彼を待っていた。
だが気にすることなく、犬神は歩き続ける。

すれ違うその瞬間に、彼に負けず劣らず不機嫌な声が掛けられた。

「前から思っていたのだがな」
「なんだ」

いまだ互いに視線を合わせない。
犬神は前方を見つめたまま、緋勇は空に視線を向けたまま、空気だけが冷えていく。

「そこまで人間が嫌いならば、山奥で犬になっていろ」

魔だと気取られたのは、初対面の折から。
彼の虚無の瞳が気に食わなかったのも、その折から。

犬神の歩みが止まる。
空気がしんと冷えた。

「人から見える場で、拗ねた背中で、構って欲しいと泣き叫び、気遣えば、俺に係わるなと拒む。鬱陶しい」
「なん……だと?」

途切れた声に込められた殺気に気付かないのか、敢えて無視をするのか、緋勇は冷えた声で罵倒を続ける。

「人間に苛められました、かなちいよぅ、寂しいよぅ―――か。どうしても慰めて欲しいのなれば、隅で震えながら時諏佐の乳でも啜っていればよかろう? いちいち、貴様にあたられる余裕は、今の俺には存在しない」
「貴様らが……」

搾り出した憎悪の声。怒りに震える拳。彼は本気であった。

「貴様ら人間が、口にするかッ!?」

加減はしていなかった。振り向きざまの一撃。
最速で振りぬいた鋭い爪は、緋勇の腕に止められていた。
頭をこそげとっても可笑しくはないその攻撃を、片腕のみで防いだまま、緋勇はなおも言い募る。

「貴様と違って純血ではなかったがな、半分だか狐の知り合いがいた。それと良く似ている。貴様らは寿命が長いから、精神の成長が遅いのか? どうして永い刻を生きながら、そうも幼いのだ?」

貴様こそが―――餓鬼だ。

吐き捨てるが如き言葉と同時に、その手を払う。

互いに手加減などしていない。

弾き飛ばされた犬神が、僅かに屈んだ体勢にて垂直の壁に着地する。
大木へ叩きつけられようとしていた緋勇が、腕を木に置くだけの僅かな動作で衝撃を殺す。

壁に立つ犬神の瞳の虹彩が獣の如く細まる。
手を離し、歩みだした緋勇の瞳が色濃く煌く。

巻き上がったのは殺気の暴発。

双方の金へと変じた瞳が交錯する。怒りと発作的な殺意だけが、そこに存在した。誰かに向けたものではない。ただのやるせない苛立ちを、相手への怒りに転化する。

闘いは――いや、喧嘩は、高度すぎ熾烈すぎた。
陽と陰の花火の如き反発にも、龍閃組に属する者たちが気付かないほどに。


気付けた者はただひとり。
氣を読む如来の瞳を持つ女だけであった。

胸騒ぎに、門へと走って向かう彼女は、如来眼に映る光景に、硬直した。

目に痛い程の金の奔流と、全てを呑む昏い闇と。
中心に居るのは見知ったふたり。

考えている暇などなかった。
並の使い手など、幾度でも殺せるだけの攻撃の嵐の中に、彼女はその身体をねじ込んだ。

白い衣に、彼らが気付けたのは、僥倖であった。

「なッ!?」
「おいッ!?」

柔らかい女の身体を斬り刻む寸前で。
女の身体を貫く寸前で。

彼らは無理に攻撃の軌道を捻じ曲げた。
それは彼らの領域においてすら、無茶以外のなにものでもなく。

迫る致死の攻撃から、急所を庇うのが精一杯。結果は、当初の目的に近い形に落ち着く。

犬神の爪が緋勇の肩を深く削ぎ、緋勇の貫手が犬神の肩を貫く。

「何を考えているんだッ!」
「何も考えていないのだろう。つぅ……反射のみで行動するな、時諏佐」

だくだくと血を流す肩を抑えながら、緋勇は眉を顰めて溜息を吐く。癒そうにも、あまりに濃い闇に傷付けられた傷は、容易には塞がらない。

犬神も同様らしく、激しく出血する肩を抑える。夜ならいざしらず、日の光の中で、これほど純然たる光に浸食された傷は、苛烈すぎる。じくじくと痛む火傷のようなものであった。

溢れる血に一瞬息を呑み、時諏佐は犬神へと歩み寄る。

「あんたは人間たちによって、全てを奪われた。平穏な暮らしを―――、愛する仲間たちを―――、そして、生き続けていくための希望。これ以上傷つかないで欲しいんだよ」

潤んだ瞳で犬神を見詰め、傷にそっと手を当てる時諏佐の姿に、緋勇は邪魔して悪かったなと思った。
今朝の夢といい、武流と美弥といい、こやつらといい、人の傷口を抉って楽しいのかとも思う。

「今更、罪滅ぼしか? 失われたものは二度と返っては来ない。そんなもの、所詮は、ただの御為転しに過ぎん」

ぐらぐらと心を揺すられているくせに、よくも意地を張るものだと、緋勇は不老であろう男を眺めていた。自分の何倍の刻を過ごしてきたのか想像すらできないほとに永く生きているのであろうに、それこそ餓鬼だなと思う。

「真に、心の痛みを知り、哀しみを知る者こそ、あたしは、生きる上で大切な事を教えるに相応しいと思っている。若い連中を正しい道に導けるのは、そういう者だとね」

ここにも怪我人が居るのですがと、間の抜けた声を上げたいほどに、立場がなかった。時諏佐は見事に犬神だけを熱っぽく見詰めている。

「あたしはね。この場所があんたの居場所になればいいって……」
「下らん夢だ。俺は、そんな叶いようもない夢や希望を信じるほど、暇じゃない。じゃあな」

冷たく言い捨て、去ろうとする犬神の背に、時諏佐はしっとりと語りかける。

「あたしたち人間には、あんたのような者が必要なんだよ。あたしは、いつまででも待っているよ。この場所で、ずっと」

割と心に響いているらしく、去る犬神の面には動揺が表れていた。何歳なのかは知らんが、素直なものだなと、緋勇は少しばかり感心した。

「……そうだ龍斗。怪我は平気なのかい?」

覚えていたのかと緋勇はむしろ驚いた。それほどに彼らはふたりきりの世界を形成していた。
放って置いても、あの狼は救われそうだなと、羨ましく、かつ恨めしく思いながら、緋勇は軽く頷いた。

「かすり傷というには強がりすぎるが、致命でもない。気にすることはない。自分のわがままの結果だ」

正直八つ当たり以外のなにものでもなかったのだ。
恋人の夢を見て、変わらぬ雨空に気分が荒み、朝に聞かされた将軍の身代わり作戦から、彼女と敵として会うのだと悟ってしまった。
止めとして犬神に泣いた姿を見られた上に馬鹿にされた。

ゆえに簡単には死なないであろう相手に、暴れただけなのだ。

「ここまで濃い闇が相手では、美里でもそうそう癒せまい。ゆっくりと待つ」
「……龍斗、あんたは気付いていたのかい?」

苦笑する。
どうすれば気付かないでいられるのか。あれほど世を厭う闇のような瞳にも。人間の中に潜むには、あからさま過ぎる姓にも。

「隠したいのなれば、犬神だの真神だの名乗らぬように忠告してやれ。ところで、風呂に入る時間くらいはあるよな?」

頷いた時諏佐に、では汗と――血とを流してくると告げて、仕度を整え、風呂場へと向かった。



流石に調子が悪いのか。
憂鬱な気分のせいか。

緋勇が気付いたのは、遅かった。風呂に先客がいたという事実に。

「曲者ッ!!」

悲鳴やお湯を掛けられる程度で済めば良かったのだが。
残念なことに、先客は、相当な腕のくの一であった。

「のあッ!?」

緋勇は死ぬかと思った。死が途轍もなく近いところにある。
通常であれば、完全に躱せたであろうが、犬神と、本気で喧嘩した直後にはきつかった。
ゆえに見事に急所を狙っていた九無は、庇った腕にかなり深く刺さった。

悪いことに更なる出血が、貧血を誘発する。
緋勇は、そのまま意識を手放した。


必死に何度も名を呼ぶ声に、緋勇はぼんやりと目を開ける。
視界に映るのは白い影。

「……龍斗さんッ!! よかった……。申し訳ありません。不覚にも龍斗さんだと気付けなかったもので」
「いや、無事だ。それよりも心配してくれるのは有り難いが、全裸で上に乗るな。理性が危うい」

涙目で、覆い被さるような姿勢で覗き込むのは、一糸纏わぬ涼浬。奈涸に見られたら、きっと針鼠のように九無だらけになった挙句に殺されるなと思いながらも、安心させるように、涼浬の頭を撫でる。

いつも通りの緋勇の言動に、やっと安心できた様子で、涼浬はおずおずと微笑んだ。

しなやかな肢体にも特に反応することのない自分から判断しても、彼女とは矢張り兄妹だなと、龍斗は安堵した。
正直、今朝彼女を恋人と見紛ったときには、かなりの自己嫌悪を感じたのだ。他者を重ねたことにも、そんな目で見ていたのかということにも。

毒は塗っていなかったので命に別状はないと思うが、後でこれを飲んで下さいと、心配そうに去っていく彼女に苦笑と共に手を振り、緋勇は湯船へと向かった。

「……ッ!!」

そしてもう一度声にならない悲鳴を上げた。
涼浬はかなり熱い湯が好みらしく、新鮮かつ深い二箇所の傷には辛かった。




「おいおい、どうしたんだ? 風呂にしちゃ随分遅かったな」
「……少し死にかけてな。すまなかった」

どこにも嘘はなかったのだが、蓬莱寺は不審の目で相手を眺めた。
出掛ける前にひとっ風呂浴びてくると言って出て行った者が、やたらと憔悴して戻ってきたのだから、妙に思う方が正しい。

「長湯につかってのぼせでもしたのか? 治ったんなら、ちゃッちゃッと行こうぜ」


内藤新宿に到着し、いつも以上の人込みを見た美里が、沈み込んだ。

幕府の作戦が画期的なものなのはわかる。でも何の関係もない人が巻き込まれるような闘いはすべきじゃない。

「もしも将軍の命を狙う者が現れたら、何の関係もない人たちにも犠牲が出るかもしれない。それなのに幕府はどうしてこんな作戦を……」

今更何をと、緋勇は不思議に思った。

答えなど簡単だ。
幕府にとっては、民の犠牲が出ることよりも、幕敵を消すことの方が、遥かに大切だからだ。

彼女はまだ、幕府が民を大切にしていると思っているのだろうか。
不安になってきたから花園稲荷に厄落としに行こうという結論を出した彼女たちが、心配になってきた。

これから耐えられるのだろうか。幕府の数々の非道を、幾度も見聞きすることになるのだろうに。


「丁度いいぜ。この前はいいたい放題いってもらった事だし、龍斗、ちょいと挨拶していかねェか?」
「勝手にしろ。俺は遠慮する」

どんな巡り合わせか。
臥龍館一行が花園稲荷に居た。

「何だよ、じゃあ見て見ぬ振りしろってのか? 冗談じゃねェ。二度も引き下がれるかってんだよ。お前が行かないってんなら、俺一人で行ってくるぜ」

強い者を見ると、所構わず喧嘩を売る蓬莱寺は、求道者としては正しいのかもしれないが、隠密としてはどうなのだろうと思う。

「よう、誰かと思えば《人の剣》の御大、桧神 美冬先生じゃねェか」
「ほう―――、これはいつぞやの野獣新陰流の剣士か」

緋勇にとって、これから明るい展開は想像し難く、気分は荒みきっているため、勝手にしろと送り出したのだが、本来は止めるべきであったのだろうなと、即刻、険悪な空気となる彼らを眺め、溜息を吐く。

門下生たちが蓬莱寺に襲いかかり、そして倒されていく。

「おのれッ―――!!」
「危ねェ、龍斗ッ!!」

叫びに顔を上げた緋勇は、何故自分のところへ来るのかと、どっと疲れを感じた。
肩も痛む状態であるし、一撃で昏倒させようかと、手刀の形を取る。

「なッ―――、何ィィッ!? 我が剣がかすりもせんとは」

だが、結局、振り下ろさなかった。
桧神の気の強そうな眼差しと、漆黒の髪に、愛しい者を思い出したがゆえに。

「馬鹿だな、こいつに手を出すなんてよッ。無手だと思って舐めてかかると、とんでもねェ目に遭うぜ」
「まッ、参り申したッ!! 何という体捌きッ。我らとは格が違う」

平伏する門下生を興味もなさそうに眺め、緋勇は腰を下ろした。やる気など元よりない。それに、もはやこれでは止まるまい。

「ま、ざっとこんなもんよ。我流の《獣》に弾き飛ばされるような剣で満足してるようじゃ、掲げた《龍》の文字が泣くぜ?」

流派を謗られた剣士も。

「やれやれ……。それもまた男の嫌なところだ。己の腕に自惚れ、それで他人を叩き伏せればよいと思っている」

嘲笑された男も。


加熱する空気に、疲れきって視線を逸らしていた緋勇は、鋭い眼差しに気付き、仕方なく顔を向ける。

「貴様―――緋勇 龍斗とかいったか。この者を止めるならば、今だぞ?」
「ご随意に」

だから、何で自分に聞くのだ――とあっさりと肩を竦める拳士に、桧神は何かが気にかかった。

「ほう、止めないとは。それはこの者の腕を信じているゆえか?」

続いた問いに、緋勇は、どうでもいいからだと、首を振った。
桧神だけではなく、蓬莱寺や雄慶たちまで、息を呑むほどに、冷たくあっさりと。

「貴女の流派への拘りも、蓬莱寺の強さへの執念も。俺にはなんら興味がない。ご随意にどうぞというのが、心底本音だ」

反発する気力もわかないほどに、毒気を抜かれる。
それほどに彼の瞳は冷たかった。


本当に緋勇は興味などなかった。ゆえに呆と空を眺めていたし、視界にくるくると回る剣が映ったので、近くに落ちても危険であったから、素手でその刃を掴んだ。

「緋勇さん!?」
「はらを掴んだだけだ。傷などないだろう?」

あの程度の速度ならば、彼には難しいことではなかった。
視線を闘っていた剣士たちへと戻し、持ち主の方へと歩み寄る。

差し出された剣を払いのけ、『彼女』は叫んだ。

「な、何故だッ!! 何故―――、私の剣が貴様のような男にッ!?」
「お前のよ、そこがいけねェんじゃねェのか? 男だ女だなんてつまんねェ事にこだわってたんじゃ、剣の道なんていつまで経っても見えやしねェ」

素晴らしい御高説だと、緋勇は拍手したくなった。
男だの女だのが詰まらないこと。恵まれた立場に生まれた男にしか口にできない台詞であった。


「今日のところはお引取りください」

取り乱す桧神を視界から遮り、門下生たちは頭を下げた。
先ほどの彼らの言葉を思い出し、緋勇は流石に彼女に同情した。

お嬢さんはこれから幕府の御役目に出かけられる大事な身だと彼らは言った。桧神はこれから混乱のまま『幕府の御役目』に向かい、そして、鬼道衆に――敗れる。

その後は酒に溺れる女の出来上がりだ。


「これで良かったのかなァ……。何だか、後味が悪くなっちゃったよ」
「しょうがねェだろ。抜刀たのは向こうが先なんだからよ」

抜かせたのはお前だろうと思わなくもなかったが、緋勇は黙っていた。
激しく反応したのは桜井であった。

「そういう問題じゃないだろッ。美冬サンはあれでも―――」
「それがいけねェってんだよ、小鈴。男だ女だってのを超えたとこにあんのが武道って道じゃねェのか?」

流石に無神経にも程がある。
大きく溜息を吐き、緋勇は蓬莱寺に向き直った。

「本当に男だ女だという扱いに差がないと信じているのならば、もう少し気配りというものを学べ」

どういうことだよと、声を荒げる蓬莱寺に、頭痛すら感じてきた。本当に気付いていないのだろうか。

いや、彼自身何度も口にしてきた筈だ。
俺が女になんざ負けるかよだの、女の拳ぐれェでこの俺がだの。
そもそも初対面の折に、喧嘩でも売ってるのかと不審に思う程に、桧神を侮辱しただろうに。意識はしてなかったのかもしれないが、噂の剣士の桧神ってのは、あんたの兄か弟かと、剣を帯びた彼女に対して問うた。

「桜井も確か道場の娘であったよな。『女の分際で』この類の言葉を投げられたことは幾度ある?」

疑問ではなく確認。

「そんなの……聞き飽きた。数えてなんてられないよ」

常からは信じられない程に暗い声。
思わず顔を向けた蓬莱寺は、彼女の表情が、桧神と似すぎていることに気付いた。

「この武家の世で、男女が同じく扱われてきた筈がなかろう。ましてや将軍の指南をも務める名門道場に生まれた一人娘が、どんな声と戦ってきたか、想像するまでもない」

女如き。女の分際で。
おそらく腐るほどに言われてきたはず。彼女はそれと闘ってきた。力が弱いなら速さを鍛え、気弱を指摘されれば、常に気を張って。

「お前はそれを砕いたのだよ。ああ、何も気に病むことはない。お前は悪くなどない。正しき剣士の姿だろう。砕かれる桧神が弱いのだろう」
「……ッ」

口に出した言葉は本気であったはず。だが、彼女に対し、女にこうまで言われてという意識があったのも確かなのだ。
百合に反発したのも、女に指図されるのが嫌だったということも大きい。

嫌味の言葉に反論することはできなかった。

「―――お待ちなさいッ」

言葉に詰まった蓬莱寺を救うかのように、甲高い声が掛けられた。

火附盗賊改与力 榊 茂保衛門が、両国では自分たちが治安を守る為に忙しく働いているのだから、見物気分でうろちょろするなと、見当違いの釘を刺していく。

「はァ、もうッ、忙しいったらありゃあしない―――」

呆気にとられていた蓬莱寺が、ぽつりと呟いた。

「なァ、火盗改と公儀隠密ってどっちが偉いんだ?」
「何をくだらない事を……。俺たちが就くのはあくまで極秘任務だからな。同じ幕府の組織とはいえ、彼らとは立場もやり方も異なる」

諌める雄慶に、反応したのは、当の蓬莱寺ではなく桜井であった。

「ねェねェ、雄慶クン。極秘―――はいいんだけどさ、考えてみれば当のボクたちだって、今回の件については、あんまりよく知らないよね」

犬神の後を追うかのように、緋勇がすぐに風呂に入ると出て行ってしまい、時諏佐もしばらくして同様に出てしまった為に、ろくに話を聞いていないのである。
重要であろう人形の事も、何も聞いていないのと同じであった。

「ええ、そうね……。先生は実際に見てみればわかるっておっしゃっていたけれど、一体、どんな人形なのかしら」
「まァ確かに、わからねェ事だらけってのは不安だよな」

時間ならば余裕があり、幸いにも詳しい人物の心当たりもある。
ゆえに、長屋に寄ってみようという結論に達した。

「支奴クンならそういうの詳しそうだもんねッ。じゃ、話を聞きに行ってみよう」




支奴は自分もそろそろ片付けて両国へ出掛けようと思っていたと言った。武流の晴れ舞台でもあるのだからと、存外にも優しい目で。

「あの……今日は支奴さんに教えていただきたい事があって来たんです」
「あァ、ひょっとしてあちきの元で本格的に科学を学びたいって事ですか? やっとその気になってくれましたか!! それじゃあ是非、あちきが手取り足取り丁寧に―――」

美里の言葉に、彼は途端に勢いづいた。
眼鏡の奥の瞳に、確かに情熱を宿してにじり寄ってくる相手を、緋勇は静かに見返して訊ねた。

「蹴りと掌打と頭突きのどれが好きだ?」

うわあ本気の目だと、悟った支奴は、数歩下がって笑顔を浮かべる。

「あはは、ほんの冗談ですよ。それで、本当は何の用事でいらっしゃったんです?」

からくり人形の事と告げると、彼は少々思案した後に頷いた。

「人間そっくりのからくり人形、ですか? そういえば、そんな噂を聞いた事もありますね」

からくり人形に関する知識と技術を持った者の住む村で、そこには門外不出の秘伝が存在するとか。
世に出回っている精巧なからくり人形のほとんどが―――、その村の技術によって作られているとかいないとか。

噂ゆえに真否は知らないがと、結んだ支奴の言葉に、緋勇は誰にも分からぬ程度に小さく溜息を吐いた。

そんな村はない。今は存在しない。
ただひとりを残して絶えたのだ。絶やされたのだ。徳川によって。

夢といい、犬神の一件といい、臥龍館との騒動といい、今日は世界が自分に喧嘩を売っているのかと、緋勇はいい加減嫌になっていた。いまだ痛む肩が、余計に不機嫌を助長する。

「おお、お前ら。今から両国へ行くんかの?」

長屋を出た先で会った老人が、不機嫌の止めとなることを、緋勇はまだ知らなかった。
別段彼のことは、嫌いではない。幕府のお偉いだからといって、厭うような理由もなかった。

忘れていた。
彼もまた、惨劇を知る者であることを。

「はい。龍閃組の仕事で人形―――い、いえ、家茂公の乗られる屋形船に共に乗船するように、と」

素直に真実を答えかけた弟子に、円空老の顔色は翳った。
沈んだ声音で、まだ時間があるのならと、龍閃組を部屋へと誘った。




「これは家茂様も知らぬ事。全ては、家茂様を―――幕府を護るために、幕臣たちが密かに行った事じゃ」
「まさか、まさかその村を―――!!」

話の内容は、緋勇が恋人から聞かされたものと大体同じ。
鷹狩に出かけ迷った一行が、見つけた小さな村で助けられ、もてなされ、そして人形遣いの技と人形の精度とに、心をうたれたところまでは。

「そうするより他に、危機を回避する術はないと判断したのじゃろう。私利私欲からした事ではないとはいえ、決して許される事ではない」

但し、ここからが違う。
人形が、家茂と入れ換わったとしたら―――それを操る者は、自分の意のままに徳川幕府を支配できる。

その村の技術は危険すぎる。だから――滅ぼされた。徹底的に殲滅された。

「私利私欲じゃないから何だってんだよ。だからって、人を殺してもいいのかよッ!! ひとつの村を滅ぼしてもいいってのかよッ!! そんな理屈、俺は認めねェぜッ。そうだろ? 龍斗……龍斗?」

蓬莱寺の怒りの声は、途中で勢いを失った。

緋勇は笑っていた。
周囲が氷結せんばかりの、凍えるような瞳で。

「はは」

皮肉でもなんでもなく、面白くて仕方がなかった。

「申し訳ないが、このまま此処に居れば、俺は御老を殺す。外で待たせてもらう」

皆の反応すら考えず、緋勇は席を立った。
扉を可能な限り静かに閉め、壁にもたれて拳を強く握る。

震える手を抑えるのに精一杯であった。訳の分からぬ言葉を放出する塊を、吹き飛ばしてしまいたかった。

秩序を――将軍を護る為に、幕臣が苦渋に満ちた判断を下した?
私利私欲からした事ではない?

村を襲わせた下衆の企みを、当人の口から確かに聞いた。

あれを私利私欲といわずとして何だというのだ。
激情に任せて殴り殺した記憶がある。今――同じ行動を取りそうになった。


すぐに皆も続いて出てきた。一様に暗い表情で。

もう自分たちが正義だとは思えない。
悄然とした桜井の言葉に、緋勇の口元が微かに上がる。

幕府の悪評を聞き、下衆な高官と会おうとも、それでも彼女は自分たちを正義だと信じていたのだ。
その鈍感さを、哀しくすら思った。

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