TOPへ

― 東京魔人学園外法帖 第八章 ――



口数の減っていた一行ではあったが、両国に着き、更に増えた人の数に、自然言葉を交し合う。

武流の花火を、ゆっくり花火を見てあげられるといいのだけれどと、悲しそうに呟いた美里に対し、蓬莱寺が肩を竦めた。

「確かに何事もなく済むとは到底、思えねェからな。―――と、あそこにも忙しくしてんのがいるぜ」

やってきたのは忙しく働く火附盗賊改――御厨であった。

「こんにちは、御厨さん。お勤め、ご苦労様です」
「あァ、ありがとよ。見廻り自体はいつもの仕事だが、今日は特別大事な日だからな」

真面目な表情にて頷いた御厨が、眉を顰めた。
原因は、遠くから駆け寄ってくる部下の形相であろう。

「親分〜、早く行かないとまた榊様にお説教くらいますぜ〜。それから、人魚捜しも誰かに任せないと」

何なら自分がと、やたら意気込む与助を、冷たく睨み、御厨は怒りの形相で問う。

「最近、妙に浅草寺あたりに見回りに行きたがるから、おかしいと思ってはいたが……。お前は仕事そっちのけで見世物小屋に入り浸っていたのか!?」

人魚。そして見世物小屋との言葉に、緋勇は勢い良く振り向いた。
一体今日は、いくつ因果があるのだと、天とやらに呆れる。


案の定。

時間があるから一応見回るかと向かった先の見世物小屋には、いつだか鬼哭村近くの山小屋にて見掛けた顔。

「あの餓鬼はな、俺が大枚叩いて買ってきたんだぞ!? あいつはまだまだ稼いでもらわねェと話にならねェからな。おい、さっさと吐きやがれ。あの餓鬼の居場所、知ってんだろ!?」

ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てる男に、緋勇は端的に知らんと一言だけ言い捨てて、視線を逸らした。ひたすらに鬱陶しかった。

「うるせェな、俺たちはたまたま通りがかっただけだぜ。それともこの小屋じゃ、こういう客のもてなし方をすんのかよ?」

同様に癇に障ったのか、蓬莱寺がかなり高圧的に睨みつける。
相手の態度も強いと、途端縮こまるらしく、男はぺこぺこと卑屈に頭を下げ、引き下がった。


「やっぱ、見世物小屋なんてのは、どこもあんなもんなのかねェ」
「人を……」

小屋を振り返り、呆れた口調で、独り言のように呟いた蓬莱寺に、美里が反応した。

「人を見世物にして、お金を儲けるなんて。人をお金で買うなんて……、まるで人を物の様に扱うなんて、どうしてそんな事ができるの?」

顔色は蒼白で。
泣きそうになりながら、彼女は続ける。
手を堅く、ぎゅっと結び、震える声で彼女は言った。

「人は皆、誰もが自由に生きる権利を持っているはずでしょう……? 世の中に虐げられたり、過去の妄執に縛られたりする必要なんてない。そんな事のために、傷ついたり命を落としたりする必要なんてない」

過去の妄執か――と、緋勇は小さく呟いた。

「藍。どうしたの? 急に……。ね、何だか顔色も悪いよ?」

突然の反応に驚き、顔を覗き込んだ桜井に、縋りつきながら、美里は叫んだ。

「同じ人間同士なのに、そんなのって……おかしいわ」
「藍殿? 何か……あったのか?」

想像はできる。きっと彼女は今、あの村のことを思い出している。自分の居ない今、どう展開したのかは知らぬが、大筋では変わらぬはず。
それでもなお、妄執と言い切る彼女は、やはり――あの村を理解できないと思った。


村を思い出したせいか、この場の空気のせいか。
緋勇の意識が、急に遠のいた。まるで眠りに落ちるかのように。本当に突然に。

『わたしは……ここにいる……、早く―――』

緋勇の頭に、声でない声が響いた。
それはあの村の住人の声。最後の最期に聞いた声。

「緋勇さん……? どうかしたの?」
「龍斗……? 何、ぼーっとしてんだよ」

訝しむふたりに、声が聞こえたとだけ告げて、緋勇は歩き出した。
『呼び声』の聞こえた方へ。導かれるままに。

突然の行動に呆気に取られていた龍閃組にも、聞こえてきた。
但し、彼らにとっては、歌声であったけれども。

「この唄。ただの唄ではないようだな」
「痛い……。胸が締め付けられるよう―――」

気配に気付いたのか、唄を止めて振り向いたのは、金の髪の少女であった。
その眼は堅く閉じられていた。金の髪に盲いた目――それは与助が語っていた人魚の特徴に一致する。

「あ……」

瞳は閉じたまま。なのに、まるで知人に会えたかのように、ぱっと微笑んだ彼女は、彼らに歩み寄ろうとしていた。忌々しげな男の声がなければ。

「後を尾けてみりゃ、案の定だぜ」

下卑た笑みを浮かべ、勝ち誇ったのは、見世物小屋の主人。

「やっぱり、お前らの仕業だったのかッ!! ふざけやがって……。こいつは返してもらうぜ。俺の大事な商売道具なんでなッ」

乱暴に金の髪の少女に掴みかかった男に、美里が慌てた様子で止めに入る。だが、とことん弱い者には強く出る気質なのか、男は彼女さえも乱暴に振り払う。

「そ、そんなッ……。待ってください―――」
「うるせェッ!! ほら―――さっさと来いッ」

その上、強く少女を引っ張った。盲目である彼女には、相当の恐怖なのだろう。堪らず悲鳴を上げる。

「お前らみたいな通りすがりには関係ねェ。こいつに飯と寝る場所を与えてやってるのは、この俺なんだからな!!」

傲慢な言葉に、蓬莱寺が動いていた。
主人は短い悲鳴とともに昏倒する。

「どうせだから骨の一本や二本折っといて―――」

本気であるらしく、刀を返した蓬莱寺の袖を掴み、少女は、止めて下さいと首を振った。

「この人はただ、己の心に忠実に生きているだけ」

何故こんな奴を庇うのかという問いに、静かに答える。

「人は誰しも、己の内の正義に従って生きるもの―――。それを否定する事は、その人を否定する事と同じ。他人の想いを間違いであるなどと、誰に咎める事ができるでしょう」

彼女らしい言葉だなと、緋勇は思った。
流されているわけではないのだが、彼女は全てを受け入れる。

「確かにそうかもしれない。だけど―――、それでは人は、永遠に争い合わなくてはならないわ」

余程あの村を思い出すのか。美里は震える声で呟く。
彼女と金の髪の少女を眺めた後、雄慶が少女に問い掛ける。

「では、お主はこのままで良いのか? このままずっと、この男に虐げられて生きていくというのか?」

皆の心を代表した問いに、答えたのは静かな――諦観の声。

「わたしのような者に、この場所以外に生きる事のできる場所があると?」

特異な容姿に、咄嗟に頷くことのできなかった者たちの中で、ただひとりあっさりと応えた者がいた。

「あるだろう」

彼女のものを映さぬ瞳をみつめ、緋勇は頷いた。

お日様の髪のお姉ちゃんの唄を聞きに行くんだと、はしゃぐ子供たちがいた。
盲いた目を心配し、その金糸の髪を順番に梳きに訪れる女たちがいた。

居場所はあった。
だからこそ――彼女も歴史を曲げることを願ったのだ。

驚いた様子で、顔を上げた少女は、しばしの逡巡の後に、ゆっくりと首を振った。

「でも、今のわたしにはあなたの輝きは強すぎる」

緋勇は、確かにと頷いてしまった。
夜のような鬼たちの村で、月光の下で生きることはできても、月下乃花のような彼女にとって、龍の苛烈な光は眩しすぎるかもしれない。

ならば何故逃げ出したりしたんだとの蓬莱寺の問いに、彼女は閉じたままの瞳を、緋勇へと向けた。

「光が―――見えたから。私を覆う深い闇を照らしてくれるただひとつの光―――」

皆がその意味を問い返す前に、男の呻き声がした。

「ちッ、もう目を覚しやがるかッ」

身動ぎした見世物小屋の主人に、蓬莱寺が舌打ちする。
桜井が、意気込んで提案する。

「ね、ねェ、キミ。ボクたちと一緒にこない? 龍泉寺っていうお寺なんだけどね、きっとキミも気に入ると思うんだッ」

一途な――真摯な声音に、少女は穏やかに微笑み、しかし首を横に振る。

「いいえ。わたしはここに残ります。まだ、その刻ではない……。わたしを救ってくれるのは、今ここにいるあなたではない……」

何かが可笑しい答え。
今のあなた――緋勇――ではないというのは、どういう意味なのか。

「あなたはもう気付いているはず。あの時―――、わたしがいった言葉の意味を……」

ただひとり、彼女の言葉の意味を理解できる緋勇は、ゆっくりと頷いた。

矢張り刻を戻したのは彼女。

あの光景を止める為に。
哀しく優しい村を救う為に。

陰だけでも陽だけでも、邪に勝てぬのならば――束ねる為に。

「「陰陽相交わり太極となる。太極以って、邪を討ち祓わん―――」」

言葉は同時に発せられた。
世界でたったふたり――時の歪みを知る者たちによって。

死の間際。刻を登りながら聞いた、声でない声。
世界を変えた祈りの言葉。

「もう分かっている。……本当に感謝している。今度こそは救ってみせる」
「はい……あなたという光のもとに全てが集うその刻には―――きっと」



「ううッ……、く、くそッ」

意識を取り戻しつつある主人の様子に、金の髪の少女は、自分は大丈夫だから急いでと静かに言った。

「確か――奴らに救われるのは、そう遠い未来ではなかったな」

数日と変わらぬ日に、甘い鬼たちに助けられる。それは既に確定した未来。
問いに、少女は頷いた。

「また……逢える日まで……。さようなら、龍斗さん」

名乗らぬ男の名を口にした少女を、皆が驚きの眼差しで振り返る。
ただひとり優しく笑った男もまた、別れを口にした。

「ああ、またな。比良坂」

名乗っていないはずの彼女の名を呼んで。



「あのコ、龍斗クンの事知ってるみたいだったね。なんだかずっと前から―――」

不思議そうに首を傾げる桜井に、緋勇は肩を竦めた。

「出会ったのは、生まれて初めてだ」

嘘ではない。この世界で出会ったのは、先程のこと。
『昔』とは違い、見世物小屋で覗くことすらしていない。

「え〜、ほんとに?」
「人魚の話はともかく、流石に随分と日も傾いて来た。そろそろ船へ向かうとしよう。お役目に遅刻しては、時諏佐先生に恥をかかせる事になる」

桜井を遮り、足早に進みだした雄慶の背に、緋勇は小さく笑った。
あれは庇ってくれたのだ。説明し難いことだと察したからこそ。

優しさが――苦しかった。



その方らが龍閃組か?

指定された船にて、不審の眼差しで尋ねてきた侍に、蓬莱寺が一歩進み出て応じる。

「あァ、そうだ。さっさと特等席に案内してくんな」
「ほ、蓬莱寺ッ―――」

冗談めかした蓬莱寺の言葉に、雄慶が青褪める。そして悪いことに、侍は冗談の通じる人間ではなかった。

「ふん……どこの馬の骨とも知れぬ若造どもがいい気になりおって。本来であれば、貴様等のような者たちなど、近寄れる場所ではないのだぞ」

吐き捨てるが如き言葉に、蓬莱寺の眉がつりあがる。彼の肩を抑えた雄慶の努力も知らず、侍は更に続けた。

「そもそも龍閃組を率いるのは、素性もよく知れぬ女だというではないか。隊士もこんな子供ばかりとは、寺子屋の間違いではないのか?」
「てめェ……いわせておけばいい気になりやがってッ。俺はな、こんな船がどうなろうと知ったこっちゃねェんだよッ!!」

巡り合わせが悪かったのだろう。いかな蓬莱寺とはいえ、本来ここまで口にすることはないはずであった。だが、円空老より聞いた人形遣いの村を襲った惨劇が、彼を苛立たせていた。

それでも鬼に苦しめられるであろう者たちの為に、嫌々船へと向かえば、待っていたのは見事な下衆ときた。
ゆえに我慢など忘れた。思うままに怒鳴っていた。

「鬼が出るかも知れねェっていうからわざわざこうして出向いてきたんだ。俺たちはお前らのために闘ってやってるわけじゃねェッ!!」

それもある種の選民意識だなと、緋勇は小さく肩を竦める。
こうも直情的な人間を、幕府に属す一員として扱うことは正直無茶だと思う。戦闘以外で表に出さぬ方が良いのかもしれない。

「な、何―――!?」

言動から察するに、家柄だけに支えられた愚者なのだろう。つまりは鬼道衆を最も恐れている連中のひとり。

「き……貴様ッ!!」

ゆえに蓬莱寺の言葉は、彼にとっては脅迫に等しく。
恐怖で白く、屈辱で赤く、まだらとなった顔色で、男は拳を震わせながら叫んだ。

「よさんか、蓬莱寺!!」
「蓬莱寺さん」

雄慶と美里の制止に、舌打ちしながらも蓬莱寺は口を閉ざした。

「くッ……、この狂犬どもがッ。船が出るまでまだ間がある。それまでここで大人しく待っておれ」

龍閃組を睨み、侍は捨て台詞とともに足早に去っていった。




「はァ。京梧のお陰で緊張しちゃったよ。あんな事いっちゃって、大丈夫かなあ」

心配そうに、侍の行き先であろう方向を眺め、桜井は溜息を吐いた。
それが余計に蓬莱寺を苛立たせたらしく、彼は知ったことではないと吐き捨てる。

「そんなの、俺だって知らねェよ。お前らは頭にこなかったのか? てめェの大事なもんを馬鹿にされてもヘラヘラ笑ってられんのか!?」
「そ、それはッ……」

言葉に詰まった桜井に勢いづいたのか、蓬莱寺は強い調子で続けた。

「幕府だろうが徳川だろうが関係ねェ。腹が立つもんには腹が立つし―――、闘うべき時には躊躇せず闘う。―――そうだろ? 龍斗」
「ヘラヘラ笑っていられる」

静かな声が、蓬莱寺に冷水を浴びせた。今の緋勇は無表情ではなかった。

「真に大切なものを護る為ならば、それを貶めることも厭わない。だから頼む。みっともなく頭を下げるのも、へらへらと遜るのも自分が引き受けるから――連中に堂々と歯向かうのは止めてくれ」
「な、何でそんな顔すんだよッ」

蓬莱寺は叫んでいた。

緋勇の、この表情が嫌なのだ。
怒っているわけでもなく、蔑んでいるわけでもなく。
この顔を向けられるのは、自分と美里のみ。

「俺は俺の目的の為に、この場から転がり落ちることはできないんだ。頼む。自重してくれ」

理解できぬものを静謐な目で眺め、緋勇はもう一度頭を下げた。
言い知れぬ衝動に、蓬莱寺が掴みかかろうとした瞬間に、船が大きく揺れた。

「わああッ!! 舟が揺れるッ―――」

桜井の悲鳴が響く。
皆が慌てて手近なものに掴まろうとする中、一番近くに居た蓬莱寺は確かに見た。

優しく微笑む緋勇を。
懐かしそうに、穏やかに。

それはほんの一瞬のこと。平衡を保ち、揺れの元へ視線を向ける彼は、もう無表情へと戻っていた。だが、確かに今、笑った。


「あなたは……、もしや、人形遣いの……?」
「いかにも……。わらわの名は雹―――。そなたらが、幕府お抱えの龍閃組かえ?」

揺れの原因となったのは巨大な人形。その肩に乗った、どこか品のある女は、美里の問いに鷹揚に頷き、逆に問うてきた。

緋勇が誰よりも早く、首を横に振った。
言葉にすることはなく、ただ動作のみで。まるで、言葉にしたら、何かが溢れてしまうかのように、口元を堅く結んで。

「ほう……、違うと申すか?」
「別に俺たちは幕府の手先って訳じゃねェ。で、あんたかい? 将軍の人形を操るってのは」

それが何か――と冷たく応じる女に、蓬莱寺は、将軍の人形に関すること――人形遣いの村のことを、尋ねようとした。

だが、なんと聞けばいいのか。
あんたは滅ぼされた村の生き残りなのかと、無神経に尋ねるのか。

誰もが黙り込む中、悲鳴と騒動が聞こえてきた。
鬼が出たとの叫びに、蓬莱寺が重い空気からやっと解放された安堵しながら色めきたつ。

「雹さんは幕府の方と一緒に奥に隠れていてくださいね」
「大丈夫だよッ、この船は鬼道衆なんかに指一本、触らせないからねッ」

暖かい言葉を掛ける者たちを、雹は僅かに困惑した表情で眺め、それから視線を騒動の方へと向けた。

「へへッ、そんな心配そうな顔するこたァねェよ。よっしゃ、行こうぜ、龍斗ッ!!」

彼らの言葉が見当違いであることを知っている緋勇は、駆け出す蓬莱寺に頷いてから、もう一度人形遣いの少女を振り返る。

「あ……その」

だが、想いを言葉にしてはならない。分かっている。

「……気を付けて」

ゆえに、美里らと同じように。見当違いの気遣いだけを告げて、駆け出した。

「ああ、……そなたも」

ほんの僅かに、雹は苦しそうに胸を抑え、消え入りそうな声で男の背に返した。
なぜそんなことを言ったのか、彼女自身理解していなかった。ただ苦しくて、ただこの男を前にすると、胸が痛かった。

龍閃組の拳士は、少しだけ足を止め、少しだけ振り向いて、少しだけ笑って、もう一度走り出した。

「あ」

遠ざかる背中に、雹はそっと手をかざした。
前もって忠告されていた。

龍閃組の拳士は、何かがおかしいと。誰かを思い出させるのだと。心が痛むのだと。

何を戯けたことをと思っていた。忠誠が足りぬのではないかと、半ば嘲笑したが、相手はそうかもしれないなと、真剣な顔で黙り込んだ。

本当に、自分でも分からないのだと沈んでいた彼らは正しかった。
心が痛い。苦しい。

彼の名を呼びたかった。



「クククッ、まったく、ちょろいものよ」
「あァ、どうやらこの面の威力は思っていた以上という訳だな」

ああ、馬鹿が居るなと、緋勇は思った。
計画の順調さがそれ程嬉しいのか、彼ら鬼面の男たちは、声高に余計なことを口にしながら歩く。

幕臣共を暗殺するこの計画は、成功したも同然だと彼らは笑う。

倒幕への足掛かりとして、我が藩も―――と言いかけた瞬間、蓬莱寺が割って入った。

「我が藩だって? 随分と面白ェ話してるじゃねェか。俺たちも混ぜてくれよ」

小物らしく、雄慶さえもが呆れた様子で肩を竦める。

「ふん。今宵の鬼共は随分と貧相だな」

とうにやる気を失っている緋勇は、眺めていようかとも思ったが、不意に背筋に寒気が走った。
そちらへ視線を向け、問いかける。

「見物か? それとも参加者か?」
「ほう……面白い」

鬼面の剣士が、姿を現す。

「あ、せッ、先生ッ!! 御願いしますッ!!」

遜る男たちから判断するに、雇われた用心棒かなにかなのだろう。

「ふんッ、また鬼面かよ。何者だ?」
「弱き者に教える名は持たぬ」

剣士というのは、挑発も巧くなくてはならないのかと、緋勇は少々呆れた。まあ、この男の相手は、途端に灼熱していく蓬莱寺が引き受けてくれるであろう。

「我が剣を受けて尚、生き残れれば教えてやろう」
「そうかい。それじゃ、てめェを斃して、その面も拝ませてもらうとするぜ」

頑張ってくれと、冷えた眼差しを遣ってから、緋勇は溜息を吐いた。陽動ですらなく、本当に鬼たちと関係のない連中であったとは。こんなことならば、せめて話すことなどできなくとも――――少しでも長く、彼女の傍に居たかった。


下忍を模した連中を叩きのめし、呆と川を眺めていた緋勇は、そういえば、今日はこんな展開が二度目なのだなと気付いて、どっと疲れを感じた。まあ、蓬莱寺にとっては、良い日なのかもしれんと、まだ痛む肩に軽く触れながら思う。


「相手が悪かったな。大人しくその面―――」

空間に緊張が走った為、視線を蓬莱寺たちへと戻した緋勇は、前の九桐との展開と同じなのかと感心した。蓬莱寺は、余程この手の人間に好かれるらしい。

「ほう……。俺の身体に触れる事ができた者は久方ぶりだ」

余裕綽綽といった態度で、平然と立ち上がった剣士は、蓬莱寺に問う。

「清冽な滝の如きその剣氣―――、剣士よ。御主の名は?」
「俺の名は、蓬莱寺 京梧だ。まだ、闘るってんなら、相手になるぜ」

神夷 京士浪と名乗った男は、雇い主たちに気を配ることなく去っていった。

鬼道衆の一味かと、雄慶は首を捻った。緋勇は無論そうではないと知っていたが、告げる必要もないので、ただ黙っていた。


「恐らくは西国に雇われた討幕派の暗殺者というところだろう」

男たちは、騒ぎを聞きつけてやってきた御厨らが、手早く縛り上げた。捕縛も尋問等も、彼らの方が適役であろうから、一切を任せて、船へと急ぎ戻る。

「やっぱり偽者だったってわけか。ちッ、まったく、とんだ茶番だったぜ」
「大方、鬼の名を語れば、警護の人間も怯むと考えたのだろう」
「おれたちがいるとも知らねェでまったく馬鹿な奴らだぜ」


それじゃあ屋形船へ戻りましょう―――という美里の言葉に、緋勇は頷き、足早に歩き出した。

もう鬼たちは心配ない筈であった。屋形船へと出向いた折には、龍閃組と出会うことはなかった。遭遇したのは――人形遣いの少女のみ。



「今日がこんなぎすぎすした日じゃなくて、よッ、弁天堂ッ―――! って、思いっきり叫べたら楽しかったろうなァ」

屋形船より空を見上げ、桜井が笑った。
確かに特等席での花火の観覧は、事件さえなければ楽しいものであったろう。

「お―――? おい、見ろよ、あの花火―――」

天に一際艶やかな華が咲き、観衆が騒ぎ出した。
花火は赤を主とする、今までの花火の常識からは信じられらない華の色。

良かったなと、緋勇は素直に思えた。先の弁天堂の事件の折に、武流が語っていたことが実現できたのだ。

『いろんな色の花火が上がったら、どんなに綺麗だろう―――って。青や緑や、色とりどりの花が夜空に咲いたら、すごいと思いませんか?』

だがゆっくりと感動することさえ許されず。
続いた観衆の驚嘆に、緋勇は淡い笑みを消しさった。

「見ろッ、家茂様が花火を御覧になっているぞッ」

将軍様、家茂様と、口々に騒ぐ彼らの騒動に、蓬莱寺がぽかんと大口を開けて叫んだ。

「う、嘘だろ!? あれが人ぎょッ……。む、むぐッ―――」
「馬鹿ッ!! 大っきな声で話すなッ!!」

いや、正確には叫ぼうとして、桜井に口を塞がれた。
お前も中々大きいぞと、緋勇は思わないでもなかったが、初めて彼女の繰り技を見た人間には仕方のない反応かもしれんなと思った。

「今頃、鬼道衆の人たちもどこかで見ているのかしら……。もしかしたら、もう近くに―――」

人形のあまりの出来に、不安な様子で辺りを見回した美里に、落ち着いた少女の声が応じた。

「いえ、今のところその心配はありません」

飛水の者が屋形船の屋根から水中に至るまで見張っているが、未だ、それらしい影は見つからないと、少女の声が答えた。
振り向けば、飛水流として出動していたという涼浬が、そこで微笑んでいた。

花火を珍しそうに見上げている彼女と話しているうちに、緋勇は何か違和感を感じた。同時に涼浬も顔色を変える。

違和感の元を探るまでもなく、船が激しく揺れだした。

「おいおい、冗談じゃねェぞ!! あんなのに巻き込まれたら、こんな船なんて木っ端微塵だぜ!!」

蓬莱寺の叫び通り、ありえないほどの――自然に生ずるとは考えがたい高波が、屋形船を目指し暴れる。
だが、冷静な忍びの少女が、静かに一歩進み出る。

「この波は間違いなく、何者かの《力》が引き起こしたもの。私たち以外に、これほどの水を操る力を持つ者がいるとは……」

彼女に任せた方が、無難だと知る緋勇は、数歩引いて周囲を一応の警戒はしておいた。純然な水を操る力ならば、彼女を凌ぐことができるとしたら、精々奈涸くらいであろうし、彼が涼浬を傷付けるようなことをするとは思えない。

「この江戸の流れを汚す者、我が名において許すまじ―――。はああああァァァァァァッ!! 滅殺ッ―――」
「すごい、波が消えちゃった……。さっすが、涼浬サンだねッ!!」

高波は、彼女の玄武の力によって裂かれ消えた。
だが、桜井の安堵の声をかき消すように、悲鳴が響く。

ぎゃあああああッ!! だの、ぐおおおおおおォォォッ!! だの、矢鱈野太い時点で、緋勇にやる気など生まれなかった。自業自得だと思っていた。

幕臣などいくら死のうと構わない。
だが、そこに行く理由はあった。


命乞いと悲鳴。それが繰り返される中、ひとり毅然と立っていたのは人形に乗った少女。他は、地べたを這いずりながら、許しを乞うていた。

「待ちなッ―――!! やっぱりあんただったのかよ……。どうしてこんな事をッ!!」

蓬莱寺の問いに、彼女は楽しそうにころころと笑ってから、答えた。
我らは《鬼道衆》―――と。

「まったく愚かな者共よ。このわらわが本当に、徳川のためなどに働くと? なんと愚かで……、なんと傲慢な者たちかッ!!」
「ひィィィィッ!! お、お助けェェ」

彼女の怒りに気圧された幕臣たちが、混乱に暴れだし、行灯を倒した。
瞬く間に広がる火に、美里が真剣な表情で、雹に手を差し出す。

もうこんな事はやめて、私たちと一緒に逃げましょう――と。

だが、返答は嘲弄。自分ひとりの命で、龍閃組を葬れるとあれば構わないと、雹は嘲笑う。

「徳川も、徳川に与する者もすべて……、この巌琉の刀の錆となるがよいわッ!!」
「あんたまさか……、あの村の生き残りか?」

あまりに強い憎悪に、蓬莱寺が思わず訊ねる。一瞬、驚いた雹は、すぐにけたたましく笑い出した。

「そう……わらわは将軍殿より直々に褒美をいただいた。
手厚くもてなし、技を披露し、影武者人形まで作ってやった褒美が、一族郎党を皆殺しにする事であったとは。ほほほ、まったくおかしな話じゃのう?」

己にだけは、笑みを見せてくれるようになったのは、随分と昔のことの気がしていた。

仲間や村人たちにも、やっと照れくさそうに笑みを見せるようになってきたのは、緋勇にとっては、最近の話であった。

   『そんなつもりはなかったのじゃが、是非、手伝いをと頼まれてのう』

ありがとうございます雹様――と。
さすがは巌琉です――と。

村人に頭を下げられ――戸惑っていた。
緋勇の姿に気付き、どこか可笑しかったかと、心底困った顔で、聞いてきた。

   『あれほどの荷物を運ぶくらい、巌琉には造作もない事。
    じゃが……、闘い以外の事に、このような事をするなど、初めての事じゃった』

おかしくなどない。そう応えると、彼女はおずおずと微笑んだ。
何やら妙な気分だと、僅かに上気しながら。


「徳川……奴らの所行こそが鬼ではないか!! これが治世か!? これが正義というものかえ!?」

その少女が、出会った頃のような、荒んだ態度をとるのに心が痛む。
乾いた瞳の彼女を思い出す。

   『心などなければ、悪逆を働くこともないであろう』

凍えきった瞳で、呟いていた頃の彼女を。

お前が決心をする必要などない―――告げて、すぐにでも抱きしめたい衝動を、必死に押し殺す。

「何故、そのような顔をする?」

雹にも、理解できなかった。
何故敵であるはずの男が、こんな哀しそうな表情をしているのか。
何故、自分は、こんなにも苦しいのか。

だが、痛む心の理由を探る前に、雹は凍りついた。原因は黒髪の女の言葉。

「雹さん……、あなたはひとつだけ誤解しているわ。村がそんな目に遭った事を、家茂様は知らない。ただ将軍を、徳川家を護るために重臣の方々が仕方なく―――」

緋勇の思考が、停止する。

信じられなかった。
この女が、何を言っているのか理解できない。

この女は、己が何を口にしているのか理解しているのだろうか。
ただ反射的に、適度だと思われる『説得の言葉』を返しているだけではないのか。

家茂が知っているか否か、それがなんだと言うのだ。
徳川の手の者によって、雹の村が、皆殺しにされたことに変わりはない。

雹が――凌辱されかけたことは変わらない。


はじめてその腕に抱いた時、彼女は忌まわしき記憶を刺激されて、硬直した。
その時に、ぽつぽつと話してくれた。

村全体が炎に包まれ、父母を目の前で殺された。

雹の美貌に気付いた侍は、返り血を拭うこともせず、彼女に圧し掛かってきた。

逃げられぬように足の腱を断ち、血に塗れ苦しむ雹の姿に、更に情欲を催した目となった。
涎さえ垂らしたその男に、着物をはだけられ首筋を舐られ……嫌悪と――恐怖のあまり、それまでは操ることのできなかった巌琉を、無我夢中で起動させた。

その後は、記憶には無いそうだ。
我に返った時は、全身血に塗れ、屍の中で、震えながら巌琉の操り糸だけを堅く握っていたのだと。

おそらく最後までされてはいないはず。
だが、覚えていないのだから、もしかしたら初めてではないかもしれない――と、泣き笑いの表情で、雹は謝った。

それが『仕方なかった』ことだと言うのか?
将軍の為に苦渋の中で『仕方なく』罪無き者たちの命を奪う人間が、美貌の少女を見つけると、脚の腱を斬り、逃げられなくなった少女の抵抗を愉しみながら、凌辱しようとするのだろうか。

徳川を憂える幕臣が、血の涙を流しながら『仕方なく』虐殺を命じたと、美里は本当に信じているのだろうか。

そもそもその前提がおかしくないだろうか。幕府の為であろうとも、村一つを滅ぼすなど、正気の沙汰ではない。ならば、端から狂った者たちが進言したことかもしれないとは、疑いもしないのか。

緋勇は知っていた。鬼道衆と共に、他の屋形船に乗りながら、確かに聞いた。
己の野望に差し障るから――それだけの理由で、村を滅ぼした。

人形遣いの女を捕らえれば、あとは将軍を亡き者として実権を握れると、酒を酌み交わし、笑っていた男たちの顔は今でも忘れない。

「仕方なく……? 仕方なく殺されたというのか?」

雹は呆然と、繰り返した。
眼前の女の言うことが、理解できなくて。

仕方が無かったというのか。炎に包まれた村も。血に塗れうち捨てられた子らも。道に迷ったお侍様を持て成した結果が招いた、あの惨劇さえもが。

「わらわの父母も、兄弟も、村の幼子たちまで……、徳川の正義のためなら、殺されても仕方なかったというのかえ!?」

本物の怒気に、美里は気圧された。
血を吐くような叫びに、己では理解できていないことを、やっと悟る。

「そうじゃねェよ、けどな―――、だからって、殺されたから殺せばいいってもんじゃねェだろッ。たとえ理由がなんであれ、人を殺す事は正義でもなんでもねェ。こんなやり方は、あんたが憎む幕府とこれっぽっちも変わらねェだろうがッ」

蓬莱寺の強い言葉に、雹が胸を苦しそうに押さえ、言い返そうとした瞬間であった。

――黙れ。

空気が凍った。
それは無論、雹の言葉ではなく。

「『仕方ない』なんてことは、この世にはない。道理に、用などない」

冷え切った緋勇の視線は、確かに彼らに向けられていた。
戦闘においてさえも、ろくに怒りを見せぬ彼が、殺気すら漂わせて。

「幸せな人間は黙っていろ。美里、蓬莱寺」

横から掛けられた冷たい声に、美里は息を呑んだ。
彼は、美里の知る限り、感情の起伏が浅かった。冷静という言葉を具現化したような存在で、いまだ出来たて故に統率の取れていない龍閃組を、導いていた。

「本当に頼む。……女を殴りたくはない」

あくまでも静かな、それゆえに深い怒りを感じさせる緋勇の声。握った拳は、微かに震えていた。

彼は本気であった。本気で哀しかった。

『龍閃組の目的は、幕敵を斃すためではない。誰もが平和に穏やかに過ごせる世の中を創りたい』

鬼哭村で、そう諭した美里の言葉さえ、今は薄っぺらく感じる。幸せに生きてきたからこそ、彼女はこんなにも清らかで美しい。
捕らえたのが鬼道衆という、類稀に甘い鬼であったからこそ、出られた態度であったのかもしれない。捕らえた先が幕府であり、子を産む道具として扱われてもなお、彼女は優しく相手を赦せたのだろうか。

「そんなつもりじゃ……。私はただ、家茂様は何も――」

緋勇の薄茶の瞳が炎を映し、琥珀へと変じる。太陽のように輝く色だというのに、吹雪く眼差し。
そこには美里を気遣う心は一片もなく。

「口を開くなと言ったはずだ。……お前の慈愛で、雹を侮辱するな」

緋勇は、本当に彼らの言葉を聞きたくなかった。

侮蔑であり断罪。
『かわいそう』。だけど貴方は『間違っている』。美里と蓬莱寺はそう言っているのだ。


恵まれた立場の人間が、上から愛を振りまいてあげている。
それは正に天からの恵み。
分け隔てなく平等に――誰にでも無造作に降り注ぐ恵みの雨。

まだ癒えぬ傷を抱いた者にも、悩み苦しみ膝を抱える者にも。
間違っている貴方を正してあげると、導いてあげると。無慈悲に揮われる絶対の真実の剣。

優しく正しい。だが今は――反吐すら出そうであった。
聖女には最早一瞥すら与えず、ただひとり愛しい女をみつめ、緋勇は静かに言った。

「俺としては、御神槌への意見と同じだ。嫌なら止めろ」
「そなたに、わらわの何が分かるというのじゃ」

射殺しそうな眼差しに、彼は色々――と答える。

「巌琉に登ろうとした鬼哭村の子どもたちに、どう注意をすればいいのか分からず困惑していた姿も、村人に頼まれて重い荷物を運んでいた姿も知っている」

彼女は人形などではない。
傷ついた為に、少しだけ感情表現が苦手なだけだった。

「この連中を殺して気が済むなら構わん。だが、止めておけ。お前は優しい女だ」

それだけが、ここにきた理由。
幕臣など知らぬ。だが、雹自身が悩み苦しむのだから、止めて欲しかった。

雹の心臓が跳ね上がった。図々しいとしか言いようのない男の言葉に、何かを思い出す。
何度も目覚めては涙した。隣にいた優しい温かみを、共に過ごした人間の微笑みを、夢の中でだけ垣間見て、目覚めてその人が隣に居ないことに、心が締め付けられた。

男は、彼に似ている。その人の顔立ちなど思い描けない。微笑みさえも覚えてはいない。だが、そう感じる。
喜びと愛しさを噛み締めながら、彼の名を口にしていたことを――思い出す。

「……龍さま?」

呟きが合図となった。
先ほどとは異なる衝撃に、雹の心臓が弾ける。『御屋形様』より授けられた蒼い珠から、流れ込んでくる。

圧倒的な意思が命じる。

迷うなと。
人の心など捨てろと。

変生しろと。

「う……あああッ!! あ、あたまがッ。く……、あああああああああああああッ!!」



日に弱く、滅多に晒さぬ白い肌が、あらわになる。
整った口が耳まで裂け上がる。元々吊気味の切れ長の瞳が、限界まで吊り上り赤く染まる。下半身は醜い蜘蛛の身体に飲み込まれ、奇怪な融合を果たす。

その様を、緋勇は奇妙に冷えた目で見ていた。もしかしたら、どこかが壊れたのかもしれんなと、他人事のように思う。心は痛すぎれば痛くないのかもしれない。

御神槌の変生に対しては、これで彼は大丈夫だと暢気な感想を抱いた。
申し訳なかったなと、今にして思った。

何故ならば、対象が彼女である今は、こんなにも腹立たしい。
美しく気高く――可愛い女を、醜い化け物へ変生させた全てに対して。



びちゃりと水の垂れる音を聞いた美里が、息を呑んだ。
緋勇は、本当に静かな表情で前方を見据えていた。両の拳から、夥しい血を流しながら。

あまりに固く握った拳から血が溢れていた。爪が肌を破り、それすら気付かずに、彼はただ佇んでいる。


まだ彼が怖かった。
先程の、軽蔑ですらない冷たい瞳で静かに――眺められたことが。

睨んですらいないのだ。あれは人間として扱われていなかった。理解できぬ言葉を発するモノとして、見捨てられたのだ。

それでも――、酷い傷に気付かぬ彼を放っておくことはできず、美里はおそるおそる彼の名を呼んだ。

「ひ、緋勇さんッ」

ゆっくりと振り向いた緋勇と目が合う。

「きゃッ」

美里は、本物の悲鳴を飲み込んだ。
恐ろしかった。殺意しか存在しない瞳が。怒りが深すぎて、感情が暴発して、表情が――消失している。

逃げ出したい衝動を懸命に抑え、がちがちと震える身体を抱きながら、言葉を搾り出す。

「き……傷を治さ」

その言葉で、緋勇はやっと己の手の傷に気付けたらしく、ああと呟き視線を掌へと落とし、ゆっくりと首を振った。

「無用だ。どうせこれから傷付く。後でまとめれば良い」

血塗れの手を乱暴に道着で拭き、彼は視線を蜘蛛へと戻した。

「すまんがそちらを任せたぞ。別に技量として問題はないが――――心に余裕が欠片もない」

半ば言い捨て無造作に歩み寄る。
人の姿を失った、人の心を失った、誰よりも愛しき女の元へと。




斬裂糸――切り裂く為の殺意を秘めた刃。目に見えぬ程に細い糸を、ただ避けるだけではない。

的確に、捕らえる糸と切り裂く糸の僅かな違いを見抜く。
蜘蛛網――天に地に、捕らえる為に張り巡らされた糸の檻を足場として、拳士は宙をも駆けた。

縦横無尽とはまさに今の彼こと。

完全に間合いに入られた蜘蛛は、死を背負った敵の瞳に半狂乱となり、糸を振り回した。狙いも作為もないそれは、自身さえも手酷く傷付ける。

混乱のままに繰り出される糸をも避けていた拳士は、己が技で血を流す蜘蛛に気付き、動きを止めた。

目を細め、深く呼吸する。

「緋勇さん!?」

美里の悲痛な叫びに、視線を遣った者たちは我が目を疑った。

攻撃を避けもせず、ただ急所だけを庇って、緋勇は最短距離を走った。
夥しい血の量。手足の傷に構わず進む彼の後ろには、赤い跡が残る。

「た、龍斗!! 何故躱さないッ!!」

雄慶が驚愕し、叫んだ。
彼に躱せないはずがなかった。現に先程までは、何の苦もなく避けていたのだ。


理由など簡単なこと。
変生していようとも、人のままであろうとも。
彼にとっては雹であった。傷付きやすい彼女を、怖がらせたくはなかった。

ゆえに、自身のことなど省みず。
ただただ――急いだ。



血塗れの身体で、そっと比較的人間の形状を保った部分を抱きしめて、緋勇は呟いた。

「もう泣くな」

たった一撃。鮮烈で清冽な白の輝きが、蜘蛛の身体に吸い込まれる。
悲鳴もあがらず、蜘蛛の輪郭が崩れていく。

だが、彼女の身体が戻りきる前に、揺れが船を襲い、緋勇は弾き飛ばされた。

「やべェ、沈むぞッ!! 隣の船に飛び移れッ!!」

船が限界に近いことを察した蓬莱寺は、手酷く傷ついた緋勇の手を取り、半ば強引に隣の船へと飛び移った。

まず雹の姿を探した緋勇は、血の気が一気に引くのを感じた。
気を失っているのか、助かろうとも思わないのか、彼女は動きもしない。

直後、波が船を襲い、雹の姿は水の中に消えた。

「雹!!」
「止めとけッ、龍斗!! あの流れじゃ、まず過ぎる」

身を乗り出し、今にも飛び出そうとする緋勇の身体を、蓬莱寺が止めた。
こうして止めているだけで、べっとりと張り付く血を流したままで、荒れた川に飛び込むなど自殺行為以外のなにものでもない。

「離せ!! あいつは足が全く動かないんだ。私欲に狂った徳川兵に、足の腱を切られてな!!」
「何」

剣幕と、そして言葉の内容とに怯んだ蓬莱寺の手が緩んだ隙に、緋勇は振り払って飛び込んだ。
誰も止められなかった。

僅かな躊躇の後、雄慶が振り返り頭を下げる。

「蓬莱寺、涼浬殿。彼女らを任せた」

同時に彼も飛び込む。荒れ狂う水の中へと。

「雄慶ッ!! この馬鹿ッ―――」



かなり流された先で、緋勇が雹を抱えて、岸に上がった。巌琉をどうにか引き上げながら、雄慶が続く。

「大丈夫か? 少し水を飲んだようだな」

緋勇と雄慶で、甲斐甲斐しく雹の手当てをする。人を癒す力がある訳ではないが、彼らの知識は役に立ったようで、程なくして雹は、咳き込みながらも意識を取り戻した。

だが、視界に映った男たちに、彼女は震えながら叫んだ。

「……何故じゃ。何故、死なせてくれぬ」

ようやく、皆の元へ逝けると思ったのに。
ずっと孤独だったのに――と。

「なぜ助けた!? 同情か!! ならば……なッ」

雹の詰問の言葉は途切れた。
緋勇に、強く抱きしめられて。

「よかった。お前を助けられなかったら、意味がない」

良かった――彼はそう繰り返した。
無表情をかなぐり捨て、その目に涙さえも滲ませて。

「は、離せッ」

身を捩る雹には構わず、彼は抱きしめ続けた。
僅かに震えながら、愛しい者の名を、繰り返し口にする。

「雹……」

その声を知っていた。
愛しそうに己の名を呼ぶ、涼やかな声の男を。


――違う生き方をした自分、というのを思い描いてみる事はあるか?


腐るほどにと答えた男に、自分もだと雹は頷いたのだった。

もしも人形の村などに生まれなければ、もしも村が滅びなければ、もしも―――、この脚が動けば……。そんな事ばかりを考える。



―――いったいどこがどこが悪いのかのう、巌琉

……なんだか面白い格好をしているのだな。

巌琉に顔を突っ込むような形で、自問していた雹に、呆れた声音で話しかけてきたのは、よく屋敷を訪れる拳士であった。

―――実は少々巌琉の調子が良くなくての。
―――自分で診てやりたいのじゃが、この脚のせいで思うように診てやれぬ。
―――そなたが手伝ってくれればありがたいのじゃが。

なかばからかうような気持ちで訊ねてみたら、彼は詳しいと答え、調整を手伝ってくれたのだ。

己が屋敷に来ても、大量の人形に気後れすることもなく、いつでも助けてくれた。
男を愛し、その身を委ねたのは、いつの日だったろうか―――。

想い出に、心臓が弾けそうに鳴る。
揺らぐ視界の中で、だが、此度は監視の珠は発動しない。

在りえぬ世界を幻視する。
哀しい村が笑いに包まれ、騒動は絶えず。
凄腕の拳士二名が下らぬことで喧嘩し、いつしか騒ぐ面子に剣士だの忍びだの修験者だの僧侶だのまで混じるようになり。

呆れつつ微笑む御屋形様の表情に、苦悩は薄く。

そして自分の隣には――――。


「緋勇 龍斗? ……龍様? そうじゃ、何故そなたがいない?
皆がふと口にする。御屋形様も、風祭も、妾も……。誰かがこの村にいないと。あるべきものが足りないと」

なぜ皆が忘れているのだろう。
確かに、この男が存在していたはずなのに。

御屋形様が拾ってきた凄腕の拳士――その肩書きから、瞬く間に側近の一人、そして御屋形様の友へとのぼりつめ、鬼哭村に住む者たちの心を変えた男が。

この男の起こした騒動に巻き込まれた者も数多いというのに。
優しい言葉を掛けてくれるわけではない。正しき教えを与えてくれるわけでもない。

なのに皆の心に入り込む。
ただ辛い時に側に居てくれる彼に、誰もが救われる。

「そなたはなんと残酷な男じゃ……。どうして、そんな幻を見せた!?」

唇を噛み締め、涙を零しながら、雹は俯いた。

だが全ては幻なのだ。

「そなたを信じたことが間違いか! 愛したことが間違いかッ!」

誰よりも、彼こそを信じた。そう、御屋形様よりも強く。
確かに彼を愛したのだ。

なのに彼は居ない。村にも、自分の隣にも。
優しさを、ぬくもりの微かな記憶の残滓だけを与えて、なのに傍に居てくれないなど、惨すぎる。

「そう、全てが間違いだった。人を好きになるという事を誰よりも知らぬわらわの―――愚かな間違いだったのじゃッ!! ……ああッ」

叫ぶ雹の細い身体を、緋勇は折れよとばかりに、きつく抱きしめた。

分かっていた。記憶を半端に取り戻せば、彼らが苦しむであろうことは。
純粋に、敵として憎んでいて欲しかった。

けれど彼らは認めなかった。
緋勇のことを――大切なものだと思い、取り戻そうとしてくれた。

「頼む、信じてもう少し待ってくれ。全てお前たちを守りたいと思う、俺の我が侭だ」

誇り高く、気を張る彼女が、誰よりも温もりを求めていることを知っている。
それでもなお、彼女とは、また離れなければならない。全てを語ることもできない。

雹はそっと、震える手を男の背に回した。
彼がなぜ自分の隣にいないのか。彼はどうして敵に在るのか。

理解はできない。
それでも思い出した想いもある。

信じたいと、心から望んだ。


「これを貰ってはくれぬか?」

緋勇が取り出したものは、銀の二又簪。

「俺だと思って、時折撫でたり抓ったりしてくれれば良い」
「……そなただと思うのならば、時折、巌琉に踏ますぞ?」

それは折れるから止めてくれと言いながら、漆黒の髪に挿そうとしたところで、緋勇は簪の先端にべっとりと付いた血に気付いた。己の出血量を甘く見ていたようで、黒いそれは、少々こすった程度では取れなかった。

「どうしたのじゃ」
「血がついてしまった。少し待ってくれ」

袖でごしごしと擦る緋勇の腕に、雹はそっと手を乗せた。
そのままで良いと、僅かに微笑む。

「撫でさすりながら想う。わらわの目には、必ずそなたの顔が浮かんでいるはずじゃ」

消えてしまう想い出も。薄れてしまう記憶も。

きっとこの簪を眺め、擦る度に思い出せる。
龍様と呼んだ、優しく、酷い男のことを、決して忘れないだろう。

「わらわは、待っておるぞ。そなたがわらわのために赴いてくれる日をな」



雹が去った後も、ずっと黙っていた緋勇は、不意に呟いた。

「……雄慶、聞かぬのか?」
「話さぬのではなく……話せぬのだろう? ならば聞かぬよ」

気になるに決まっている。力になれるのならば、力を貸したい。
だが、緋勇を理解するにつれて、納得してしまったのだ。彼は話せないから話さないのだ。自分では、力になれないのだ。

穏やかに首を振った雄慶に、緋勇は言葉を失った。
心が悲鳴を上げる。自分は今、鬼道衆も龍閃組も騙しているのだと、更に思い知らされる。

嘗て友と認めてくれた者たちを、ありがとうと笑ってくれた者たちを傷付けて。
そして、今また、新たに信じてくれた者たちを、協力すると頷いてくれた者たちを謀っているのだと。


すなまいと、俯いたまま、それだけを繰り返す緋勇を、雄慶は静かに眺めた。

彼を間者なのではと疑ったのは、随分昔の話であった。

だが、痛切な緋勇の表情も。
緋勇を見ると、混乱と哀惜に同時に襲われる鬼道衆も。

事はそれほど単純ではないと語っている気がしていた。

誰もが理解できていないのだろう。

混乱のままに、九桐は緋勇を龍斗と呼んだ。
雹は緋勇に対し、龍様と呟いた。

『何故あの人の傍に居ない?』
『誰かがこの村にいない』

彼らの言葉通り、緋勇は鬼の中には居ないのだ。ゆえに間者などではなく。

だが、居ないことこそがおかしいのだと、鬼たちは苦しんでいる。
助けてくれた誰かが、心の支えたる誰かが、居たはずの誰かが、今己の傍に存在しないことを。

『誰か』もまた同様に苦しんでいる。
共に在れないことを。苦しむ鬼たちに、何もしてやれないことを。

「好きにしろ。思うままに。俺は――信じている」


追いついてきた皆が、緋勇の顔色に息を呑んだ。
当然の話であった。あれだけの出血後に、濁流にもほどがある川を泳いだのだ。普段から白い彼の顔色は、生者のものとは思えなかった。

慌てて癒しの術を展開する美里をちらりと見た緋勇は、ぽつりと言った。

「美里、蓬莱寺。すまなかった。言い過ぎたな」

あいつに関することだと、どうも冷静さが消える。
呟く緋勇の面は静かなもの。慣れたことなのか、感情は簡単に消える。

「ただ一つだけ言わせて欲しい。雹の村を焼いた『仕方のない』理由は、建前だ。あの御老は、そう聞いているだけかもしれんが」

今宵の策が事無きを得た暁には、あの人形遣いの娘を捕らえて―――。
ふふふ、将軍が我らが傀儡とはこれは愉快―――。

醜く、酒を飲みながら笑っていたのは幕臣たちであった。

『俺たちが鬼なら、あいつらは何だ!? 私欲に塗れた蛆虫共じゃねェかッ!!』

あの時ばかりは、生意気な餓鬼と同意であった。殺すことに欠片の躊躇もなかった。

「どういうことだ」
「簡単な話だ。その操り人形を使って、将軍を亡き者にしようと企んだのは、村の焼き討ちを進言し、実行した連中自身だ。自分たちこそが行いたいのに、人形遣いの村が残っていては、いくらでも新たな人形が造れる。それゆえ人形を奪い、村は滅ぼした」

女も子供も皆殺しにして。村を焼いて。
そして彼らは恥じることなく胸を張った。将軍の御為に、将軍を想って為した、仕方の無いことであったと。

「本当にあの通りの理由ならば、なぜ人形を焼いてしまわなかった? 村を滅ぼさねばならぬほどに危険な人形を、何故捨て置く?」

存在そのものが危険な人形を、保管する意味がない。
将軍の身を案ずる忠臣たちにとっては、あの人形は無用以外のなにものでもない。

「いつか使うつもりだから、保管していた。誤算はからくりの機構が複雑すぎて、誰も操れなかった事だ。だから、連中は今回のことを、非常に喜んだ。志願してきた人形遣いの女を捕らえれば、もう実権は握ったも同然だと」
「嘘だよ……そんな、非道いこと」

私利私欲そのもので、村を一つ滅ぼしたなんてあるわけがないと、桜井は弱々しく首を振る。
その純粋な心を、緋勇は哀しく思った。

彼女は、平穏に生きるべきであった。こんな組織に入るべきではなかったのだ。人の醜さも勝手さも、目の当たりにしなければならない組織になど。

「事実だ。……と、あれだな。あの炎上しているもう一隻の屋形船で、当人たちがそう話していたのだから」

他の船に比べて、その船はあまりに景気良く燃えていた。
それだけ彼らの怒りは激しかった。鬼たちは、腐った連中の改心を願うほど、清くはなかった。

「今頃鬼道衆の者たちによる燃やしの真っ最中。今更ここからでは止められんだろう。彼らもきっと止めぬな。間近で聞いてしまったのだから。雹の村を襲わせた下衆どもの会話を」

今から自分も参加したい程だと呟く彼の瞳は、凍えていた。
雹を抱きしめ、心から微笑んだ温かみは、微塵も残っていない。

「龍斗……」

面は、垣間見せる彼の姿からは程遠い。

「立場をはっきりさせるべきだな。俺は幕府など欠片も信じていない。忠誠心など存在しない」

炎を眺めたまま、彼は心配そうな雄慶の声にも振り返ることなく、静かに呟いた。

「それでも俺は俺の望みの為に――龍閃組に居る必要がある。そこに心がな」

緋勇が決定的な言葉を口にする前に。

正面から抱きつき、首を振った少女が居た。
ゴスっと鈍い音がするほどに、拳骨を振り下ろした男が居た。

「……つぅ。何だ? 今日は厄日か?」

涼浬を首からぶら下げたまま、酷く痛む頭頂部を押さえて、緋勇は声を絞り出した。

酷すぎる。
犬神に肩を抉られ、涼浬に九無で腕を刺され、熱い湯に悲鳴を上げ、雹の糸に身体を裂かれ、傷を負ったまま川で泳ぎ、挙句が怪力僧侶の拳骨を喰らう。

それが一日のこと。

「あなたはあなたです。龍斗さん」

嘗て幕府を至上とした少女は、本来追求すべき緋勇の言葉に対し、それがどうしたと言う。

「目的の為に組織に在ることは何らおかしくはない。妙なことを言うな」

江戸を護るための組織に、師より招かれた青年が、平然と言う。
利用したいならしろ――と、だが口には出すな――と。


緋勇は泣きたくなった。

敵組織に潜む中で。
偽りの日々の中で。

こんなに優しく暖かく想われて。

こいつらはどうしろというのだ。
どうやって――彼らを利用しろというのだ。


「俺は――性格悪いのだから、甘やかすと図に乗るぞ」

村に住む者ひとりひとりを思い浮かべ、謝りながら苦く笑う。

きっともう割り切れない。
龍閃組を、ただ利用することはできない。

それは彼らを救える確率を下げる。
絶望的なまでに深い死の淵が待ち受けている彼らを、更に危険に晒すことになる。

何のために刻を登り、彼らをその手で傷付けて苦しんでいるのか。
全てを利用してでも、歴史を変える為ではないのか。
あの始まりの光景を忘れたのか。

糾弾の声が聞こえる。
それでも――駄目だった。

「とうに存じております」

冷徹であった忍びは、くすくすと笑む。
貴方の性格の悪さくらい――判りきっていることだと。

「何を今更」

堅物であった僧侶が豪快に笑う。
だから勝手に――お前の思うままに進めば良いのだと。

――彼らを戦いの駒としてなど扱えない。

哀切な表情で、酷い奴らだと呟いた緋勇に、桜井はゆっくりと近付いた。

「龍斗クン……ボクは何も知らなかったんだね」

そっと、その背に抱きつきながら、呟く。

ずっと緋勇を大人びた冷静な人間だと思っていた。
幕府とは民を護ってくれるものだと無邪気に信じていた。

雹に手を差し伸べ、叫んだ彼の心など、気付きもしなかった。
平穏の中で、正義というものの存在をのほほんと信じていたように、全てを覆い隠す人の心を知ろうともしていなかった。

緋勇はきっと歯を食いしばって、何かの為に闘っている。
涼浬も雄慶も、『何か』が何かは知らなくとも、それでも彼を信じている。

「だから色々教えてよ。いつか……きっと」

今でなくとも。

背に当たる温もりに、緋勇は痛みを感じた。
信じて欲しくなど無かった。不審な人物として、警戒したまま接して欲しかった。

――仲間と認めて欲しくなかった。

謀っているのは己の方なのに。
全てを偽っているのに。


桜井の優しさを拒むことも頷くこともできるはずもなく。
緋勇はただ――

「桜井……意外に胸があるのだな」

――余計なことを言った。

「雄慶クンと涼浬サンの言う通りだ……キミ、ほんと性格悪いよッ!!」

ばごしっと。
桜井は、握った拳を緋勇の脇腹に捻じ込んだ。



疎外感に打ちひしがれたのは美里と蓬莱寺。

最初に知り合った筈なのに。
縁は甲州街道の小さな茶屋から始まった筈なのに。

ぬおぉと、のたうつ緋勇の姿など、彼らは知らなかった。
彼らが直に知っている緋勇は、無表情と無関心と――理解できぬという諦めの顔。

線を引かれているのだと、武流や十郎太や花音らの、後に龍閃組に加わった者たちよりも、ずっと緋勇から遠くに居るのだと、理解してしまった。



一日に作った傷の新記録を更に更新し、殺す気かと恨めしげに呟く緋勇に、桜井は笑顔で告げる。

「約束だよ。龍斗クン」
「……ああ。いつか……きっとな」

頷き、緋勇は心から思った。

いつか皆を護れたときに。

謗られようとも、憎まれようとも。
自分の口から、彼らに全て説明して――謝りたいと。

前編へ
戻る