「痛ェッ!! もっと優しくできねェのか、このクソ坊主ッ!!」
「男の癖に泣き言をいうな。情けない奴だな。ほら、じっとしていろ」
全く朝っぱらから何をしてきたのだ――という雄慶の視線に、緋勇は肩を竦めて蓬莱寺を襲った事件について語った。
盗人を捕まえようとしたら噛付かれたのだと、至極端的に。
「覚えているか? 両国の広小路で見かけた娘だ」
納得した様子で頷いた雄慶に、蓬莱寺が苦々しく吐き捨てる。
「あの餓鬼、この前庇ってやった恩も忘れやがって」
まだ文句を言い続ける蓬莱寺の肩を軽く叩き、雄慶が立ち上がって告げる。
「お前たちが居ない間に、時諏佐先生から届け物をいい付かってな。円空先生の御宅へこの書物を届けに行くんだ」
「はァ……、俺たちゃ百合ちゃんの使いッ走りかよ」
これもまた任務のひとつだと諭した雄慶は、首を傾げた。
「どうしたお前まで、そんな渋い顔をして」
思わず蓬莱寺は振り向いた。
渋い顔――と言われた緋勇は、いつも通りの無表情にしか見えなかった。少なくとも、蓬莱寺には。
「円空老のところ――ということは、奴が居るのだろうな」
だが、雄慶の指摘が正解らしく、彼は溜息を吐きながら答えた。
奴――すっかり犬猿の仲である犬神のことであろう。
「あれ―――? そういや、美里はどうした? 今日は来てねェのか?」
具合が悪くて、家で寝ているらしいとの桜井の答えに、蓬莱寺はならしょうがないと頷いた。
それは心配だなと眉を顰める雄慶に、沈んだ様子で頷く桜井。
そして――顔さえ向けない緋勇。
蓬莱寺は、どうしても気になった。
仲間である美里のことさえ、欠片も気に留めていない様子の緋勇が、犬神に関しては感情を見せることが。
急に足を止めた緋勇を、皆が振り返る。
彼にしては渋面の理由を察することは簡単であった。何しろ付近一帯に、酒の匂いが漂っていた。
「朝っぱらから小五月蝿い餓鬼どもと鉢合わせた俺の方が余程ついてない」
皮肉な言葉に、蓬莱寺が眦を吊り上げる。
緋勇はとうに応対すること自体を投げているらしく、壁に寄りかかり、視線を空へ向けていた。
それでも珍しいことに、何しに来たのだ――などと、問うた犬神に皆が目を丸くする。桜井は、どこか意気込んだ様子で答えた。
「あ、あのッ……、ボクたち、知り合いのお爺さんに本を届けに行くんです」
「……子供の使いか。そんなものもお前たちの成すべき事だというのか?」
呆れたのか――それでも微かに笑みらしきものを見せて犬神は肩を竦める。
「俺の成すべき事など唯一つ。その為に必要ならば、下らなかろうが厭うこともない」
応えたのは、空を見たままの緋勇。
静か過ぎるその声に、犬神は鼻をならす。
「ふん、おかしな奴だな。まったく、こんな話など時間を無駄にしただけだったな」
「……気が合うな」
ようやく顔を下げた緋勇と、犬神の視線が交わる。
火花でも散らんばかりのくせに、妙に冷たい睨み合い……というよりは眺め合いは、実際は数瞬の間であった。
ふん――とばかりに、互いに目を逸らし、それで終わった。
先日の険悪な空気を知る雄慶には、やたらと長く感じられた。
終了に、思わず安堵の息を吐く。
「……怪我は治ったのか? 小僧」
「……お陰さまでな。そちらこそ傷は良いのか? じじい」
だが――全く終わってなどいなかったようであった。
今度は目すら合っていない。背中合わせの状態だというのに、それでも空気が冷えた。
他の者たちが居たたまれない空気に泣きそうになった頃に、犬神は舌打ちをして去っていった。
恐る恐る、龍斗に訊ねたのは、勇気ある僧侶。
「龍斗……お主何をしたんだ」
「この前あれと喧嘩をして、肩を抉られただけだ」
肩を抉られた。それは『だけ』とは言わないだろうと、皆は心の中で呟いた。
そして、同時に気付く。
龍斗に怪我を負わせる犬神が、普通ではないことに。
「龍斗……お前は何をしたんだ」
先程の会話から考えるに、お互い様であったようだ。
訊ねる蓬莱寺に、龍斗は軽く肩を竦めて応じる。
「肩を貫いただけだぞ」
それも『だけ』とは言わん――と皆はやはり心の中で呟いたが、やはり言葉には出さなかった。
「おお、お主らか。待っておったぞ」
「ほら、百合ちゃんからだってよ。わざわざ持ってきてやったぜ」
蓬莱寺の態度に、雄慶が抗議しかけたが、当のご老人が、若者は元気なのがなによりと気にしない様子で嗜めた。
この好々爺のことを、龍斗は先日の人形遣いの村の話を聞いたときから、あまり好いてはいないので、特に会話には加わらず、一歩下がって黙っていた。
だが、予定がなければ行ってみるといいと、示唆された言葉の内容に、微かに目を細める。
「ひょっとするとその巻物には、お主らの力となる事が書かれておるやも知れぬ。少なくとも、鬼と称する者たちと闘うお主らにとってはのう……」
鬼に関することならば、出歩くことを厭う緋勇ではなく、無論雄慶は師の言葉に逆らうこともなく。
張り切り気味な桜井も加えて、数で押し切られた蓬莱寺は、なんだってそんな遠くまでとぶつくさと文句を言っていた。
「面倒なのと遭っちまったぜ」
更に疲れたように呟いた彼の視線の先に居たのは、見知った瓦版屋。
「あら、ぞろぞろとどこへお出かけ?」
そういや、彼女もこの長屋の住人であったなと、緋勇は思い出した。
残る顔見知りの住人――支奴は不在らしく、気配が無かった。実験中の煙も上がっていない。
「そういえばあの辺りでも、ちょっと前に化け物が出たって噂があったけど」
梅田村に行くのだと聞いた遠野は、少々考えこんでから、そう呟いた。
「はァ? 化け物だァ? 一体なんの事だ、そりゃ?」
「そうね……事の起こりは、郷蔵が何者かに襲われたところから始まってるわ」
郷村の米蔵――年貢米の保管所である場所が、数日前に何者かに襲われたのだという。
人とも獣ともつかないものに、警備の人間さえもが手当たり次第に殺されたと。
泰山と風祭の任務だったかと、緋勇は記憶を辿った。
大男である泰山と、小柄な風祭の組み合わせは、只でさえ人目を引くし、更には両者とも、策を弄するには、全く持って向いていない。
命じられた当人たちと、命じた頭目以外の皆が、言葉には出さずとも不安になったものだった。
「そうそう、あと気になる事といえば、あんたたち、《おいてけ堀》っての知ってる?」
「知ってはいるが、本所の七不思議と梅田の事件とに、なんの関連があるのだ?」
大きな刃物で力任せに切断されて殺されたというのは、泰山によるものであろうし、畑で目撃された人影というのも、また同様であろう。
たしかあの時、泰山は頭部の古傷に衝撃を受けて、記憶が混乱してしまい、しばらく風祭と離れてしまった。畑荒らしはその状態で行ったのであろう。
だが、おいてけ掘の真似事は、彼にはできないだろう。
「それが大ありなのよ。ここのところ急に、それに出会う人が増えたって。ちょうど―――、梅田村の事件があった後あたりから」
「よう、どっかで見た顔だと思えば桜井んトコの跳ねっ返りじゃねェか」
お前にだけは言われたくない――反射的に、そんな台詞を返しそうになる人物が、円空より訪ねるように言われた神社に居た。
涼浬や桜井よりも更に短い髪。女性としてはかなり鍛えられた身体。
見覚えのある猛き巫女の姿に、緋勇は微かな笑みを見せて、おじゃましていますと頭を下げた。
嘗て鬼として会った敵。
とても男女間の会話ではなかったよな――と、当事者以外が囁きあった、九桐の好敵手。
円空先生から紹介されたのだがと、語る雄慶に、彼女は申し訳なさそうに首を振った。
神主は今、留守にしてるとの言葉に、出直すかという結論を出しかけたときだった。
「―――お待ちよ。その巻物の事なら、あたいも知ってる。あたいでよけりゃ、話してやるよ」
もう一度出直す手間に比べれば、代理から話を伺う方が、格段に楽。
お願いすると頷いた緋勇に、じゃあおいでと彼女は建物内へと歩き出した。
「ッたく、やかましいだけじゃなくて強引な女だな」
「でも、悪い人じゃないよ。ボクは……好きだなッ」
要は気の強い女性全般が気に障るのだなと、緋勇は少々呆れたが、反応はしなかった。
彼や美里に対して腹を立てない為には、自分が彼らの言動を深く考えなければ良いという結論に既に達していたので。
「爺様が何を思って突然、この巻物を蔵から引っ張り出してきたのか、あたいは、よく知らない。でもね―――、こいつは決して、おいそれと世の中に出せる代物じゃないんだ」
笑みを消した織部 葛乃は、巻物を手に、静かに語った。
相応の立場か任務を持ってるのだろうから、歴史の陰に隠蔽された、鬼の話を聞かせるべきなのだろうと。
「家慶公には、一人の側室がいた。名を静姫といってね、徳川家が人を挙げて探し出した絶世の美女だというけど、その扱いは寵愛というよりも寧ろ幽閉に近かったらしい」
徳川家が、何故その姫を攫うように連れてきたのかは判らない。
偉い人間のやる事は、あたしら凡人には、理解し難いものだと、暗く続いた葛乃の言葉に、緋勇は微かに口元を歪めた。
なぜ強引に攫ったか――簡単な話だ、彼女が菩薩眼だったからだ。
なぜ幽閉したのか――心などいらないからだ。必要なのは、傍らに在る者に祝福を授ける菩薩眼の力。逃がすわけにはゆかぬから幽閉した。
「ある時、その姫を手中に収めるために、徳川家に対して戦を仕掛けた者がいた。その者の名は―――九角 鬼修」
「こづぬ……? 聞かぬ名だな」
緋勇には、腐るほどに聞き覚えのある名。
里で今も尚慕われる先代。人を愛し、故に一族さえも滅ぼした、愚かで哀れで偉大な男。
「静姫を奪った九角鬼修に対し、徳川家の追っ手は執拗だった。それは静姫が鬼修との間に生まれた二人の子供を残して逝った後も、緩む事はなかった。むしろその激しさはより増したといってもいい」
それもまた当然。
徳川に必要だったのは静姫ではない。菩薩眼の女だ。その宿星が娘に継がれているのならば、そちらをまた手に入れれば良い。
「ウチのご先祖と付近の者たちは、鬼修の死と御家の滅亡を悼んで、表向き幕府には知れる事のないように、ひっそりとこの神社を建てた。多くの者がその人柄を慕っていたという事だけは確かだよ……」
「えっと、色々ありがとう、葛乃」
皆が暗く沈んでいる中、桜井が敢えて元気な声で、葛乃に礼を言う。
思い出したように、緋勇と雄慶が礼の言葉を告げると、彼女は大したもてなしもしなくて悪かった――と返し、しばし考え込んだ。
「あァ、そうそう。この近くに青雲寺って寺がある。花の季節は終わっちまったけど一休みしてくにはいい場所だ」
見事に暗くなった一同の気分を紛らわせようと思ったのだろう。
気遣いがありがたくて頷いた緋勇らに、彼女は、じゃあ出発だと明るく宣言した。
「出発って……、あんた、ついてくる気かよ!?」
「そりゃあこんなトコまで来たお客人に、案内のひとつもしないのは失礼だろ?」
こんなボロ神社に盗むモンなんて何もないとまで言い切った彼女は、すたすたと先導するように進んだ。
本当に神社は放置したままで。
「ここが、青雲寺……。へえェ〜、なんだか随分と手入れの行き届いたお寺だね」
名刹の説明を、興味なさそうに聞き流していた蓬莱寺が、聞こえてきた黄色い声に、一瞬顔を輝かせた。
だが、直後に吐き捨てる。
「ちッ。野郎がいやがんのか」
いつだかの們天丸のように一人の青年が、女性の一団に囲まれていた。――但し、こちらは仏頂面であったが。
「霞 梅月先生――俳諧の先生さ。よく当たる占いもやるってんで有名だよ。ウチの神社なんかにもたまァに顔を出すねェ」
葛乃の説明が聞こえたのか、青年は整った顔立ちを、嫌そうに顰めて呟いた。
「やれやれ……だから今日、この方角は嫌だといったのに……。風雪を愛でるこの名刹に、随分と野暮な野良犬が紛れ込んだものだ」
いや野良犬ではなく、一応は番犬の身であるかな?
続いた皮肉な言葉に、ああそちらの縁かと、緋勇は納得した。
引き付けあう力持つ者というやつだろう。まあ、緋勇は今更、飼い犬だの何だのという言葉に怒ったり、傷付いたりはしないので、黙っていたが、蓬莱寺が当然のように反発する。
けッ、いいご身分じゃねェか――吐き捨てた蓬莱寺は、荒々しい口調のまま、なおも続けた。
「俳諧だか何だか知らねェが、言葉遊びしかできねェ青瓢箪に、俺たちの事をとやかくいわれる筋合いはねェぜ」
「……君たちのような者のいう事はいつも同じだな。戦乱の世に乗じて、さも剣の腕だけが人の価値であるかのようにうそぶく」
本気で傷ついた目に、緋勇はちょっとした眩暈を感じた。
どうしてこうも一言多いのだと、蓬莱寺の軽率さに、疲れてしまう。
自分が怒らない為には反応しなければ良いのだが、他者に対してはそうはいかない。
「今のは、本当にこちらが悪い。連れが失礼をした。代わって詫びる」
「……君に謝ってもらうことじゃない」
深く頭を下げた緋勇に、蓬莱寺が狼狽する。
「おいッ、龍斗!?」
「『俳諧だか何だか知らない』のだろう? 己の知らぬことを棚に上げ、人の打ち込むことを非難するのは、どうかと思った。それだけだ」
言葉遊びとまで見下して。
蓬莱寺は悪い人間ではないのだが、致命的に気配りができなさすぎるのだよなあと、疲労感とともに、しみじみと思う。
「まあ……、僕には所詮、関係のない話だがね。斬り合いが好きな者は好きな者同士、いくらでも殺し合えばいいさ」
世の中悪ぶるのが流行っているのだろうかと、緋勇は首を傾げた。
気に食わないなら関わらなければ良いだろうにとも思う。
此方の対応も悪かったとはいえ、今のは俳諧師の方から喧嘩を売ってきたようなものだ。
厭世的な彼を心配したのか、桜井が真剣な顔で話し掛ける。
だが、先に反応したのは、先生とやらではなく、蓬莱寺だった。
「こんな奴に構うなよ、小鈴。どうせ俺たちとは生きてる世界が違うんだ。勝手にいわしときゃいいさ」
当然のように盛大に喧嘩を買う蓬莱寺に対し、だから気に食わ――以下略などと、言葉に出す気力もなく、内心で嘆息していた緋勇だが、梅月の言葉が引っかかった。
「確かに、たまたま出くわした盗ッ人に、噛み付かれるとは―――、僕の住む世界よりは随分と物騒な生き方をしているようだね」
驚く桜井たちを静かに見返して、彼は助言ともつかないものだけを残して去っていった。
「君たちの求めるものは、郷蔵にあるようだ。まずはそこへ行く事だね」
いけすかねェ野郎だという蓬莱寺の怒りの言葉に、いつもはあんな人じゃないんだよ――と、葛乃は首を傾げた。
「だが、俺たちの態度が悪かったのも確かだろう。特に、お前のな」
なおも怒っていた蓬莱寺だが、雄慶の身も蓋もない言葉に、不承不承黙った。
化け物が出たとの噂があるから気を付けるんだね――という、葛乃の戻り際の忠告を聞いていた訳でもあるまいに、郷蔵に着くやいなや、怪異に遭遇した。
「わああッ!! ちょっと、早く出してよ京梧ッ!!」
「い、嫌なこった!!」
律儀に慌てる桜井と蓬莱寺をよそに、緋勇と雄慶は顔を見合わせた。
彼らの感覚は、なんの『異変』も感じ取っていなかった。そもそも、《おいてけ堀》の声が、明らかに幼い。
蓬莱寺の持っていた饅頭を強引にその場に置かせ、わたわたと逃げ出した――振りをして、身を隠した。
「いや〜、ホンマに世の中、ビビリ屋が多くて助かるわ〜」
出てきた粗末な身なりの少女が、ほくそえむ。
「あいつッ……今朝、俺の手に噛み付いた餓鬼じゃねェかッ」
「おいてけ掘りの怪異は、あの娘が食料を手に入れる為で解決か。今の問題は――囲まれていることだな」
不覚だったなと、緋勇は少々反省する。
少女が口にした泰山という言葉に気を取られ、周りを囲まれるまで気付けなかった。
「性懲りもなくまた来やがって。ここを襲ったヤツらの仲間だな!?」
「おらたちが収めた年貢米を粗末にしおって」
姿を現し、口々に怒りの言葉を吐く百姓たちは、しっかりと鎌だの鋤だの危険なものを構えていた。
素人だからこそ、ここまでの怒気に気付けなかった。
視界の端で、少女が逃げ出すのが見えたが、追うこともできまい。
泰山のことを知る彼女を、単身で強引に追うことも考えたが、この面子で緋勇が抜けてしまったら、ど素人を殺さず倒すのは、結構な難易度となるだろう。
戦闘自体は至極簡単。
蓬莱寺は抜刀しないままで立ち回り、雄慶と緋勇が練り歩いて、気を失わせれば良い。
暇そうに奥で待っていた桜井に至っては、欠伸をかみ殺していた。
「そこの餓鬼―――。誰だ、お前?」
何時の間に紛れたのやら。
倒され、やっと落ち着いた百姓たちに、いくつか訊ねていると――彼も混じって質問していた。襲撃犯の風貌から、泰山と逸れたらしいと、推察できた。
「俺はボウズじゃねェッ!! くそッ……覚えてろッ!!」
ああ馬鹿が居ると、緋勇は生暖かい目で、走り去る知人を眺めていた。
何だありゃと首を捻る蓬莱寺に、緋勇はさあなと肩を竦めておいた。
鬼道衆の拳士だと告げる訳にもいかないのだから。
龍泉寺への帰り道、また蓬莱寺の因縁の相手に出会った。
「長い年月を経て継がれた技は、また、新たな世代に渡され、そこで練られる。一本の道だけを追い求め、その果てを目指す御主に、真の道は見えぬ」
長い長い説教を、完璧に流しながら聞いていた緋勇は、この鬼面の剣士は、本当に何者なのだろうなと不思議に思った。
蓬莱寺が問いただしていたが、彼が鬼道衆でないことは、知っている。
「精進するのだな、蓬莱寺 京梧よ―――」
偉そうに告げ、堂々と去っていく神夷の背を、蓬莱寺は真剣に見詰めていた。
「盛り上がり中に失礼だが、結局何をしに来たんだ?」
「へッ、関係ねェぜ。おら、寺に戻るぞ」
言葉とは裏腹に、なにか感じ入った様子の蓬莱寺に、本当にただ純粋な押しかけ師匠なのかもしれんなと、緋勇はとりあえず納得した。
あれも柳生の関係者ならば、蓬莱寺には悪いが殺せば良い話なのだし、そうでなければ、対応は彼に任せてしまって良いだろうと結論付ける。
「九角家と徳川の因縁か―――。あたしも初めて聞く話だよ。九角と鬼道……もう少し詳しく調べてみる必要がありそうだね」
主として雄慶から為された九角家の説明に、時諏佐は頷いたあと、表情を暗くする。
「その九角と鬼道衆に関わりがあるかどうかはまだわからない。でもね、鬼道衆が徳川を怨む理由が正当なものだったとして―――、それでも……、闘っていけるかい?」
皆が押し黙ってしまったなかで、緋勇は静かに頷いた。
とうに知っていた。彼らの事情も苦しみも逡巡も知った上で、結末を変える為にならば――闘える。
「そうだね。闘うっていう事は決して、殺し合うっていう意味じゃない。それが分かっているあんたなら、あたしはただ、今まで通り信じるだけさ」
次いで郷蔵の襲撃について報告が為され、探索の方針が決まり、さて解散かとなった時に、時諏佐は思い出したように、手を打った。
「―――そうだ、どうせ歩いて回るなら、ついでに人捜しを頼まれとくれ」
上からのお達しなのだと続いた彼女の言葉に、緋勇は呆れた。
この上なく思い当たる人物が居た。寧ろ彼しか居ないだろうと断言できた。
「秋月家の後継ぎを捜すように、幕府から依頼があったんだよ」
星を詠み、天道を知る能力者の家系。天の星々の動きから、あらゆるものの未来や運命を見極め、数々の災厄から朝廷や幕府を護っていたという。
占いが『すっごく当たる』と評判の、若き俳諧師は、蓬莱寺の傷の因も言い当て、行くべき場所も示唆した。
よくぞ今まで捜索の手に勘付かれなかったものだと、いっそ感心さえした。
「まァ、気には止めておいておくれ。それじゃ、今日のところはこれで、解散―――」
寝付けなかった緋勇は、風に当たりながら、つらつらと考えていた。
これから起きるであろう、物事の流れについておさらいする。
そして、世の全てを倦んでいそうな俳諧師のことをも考える。
一族を厭う気持ちは分からないでもない。
望みもせずに、重い宿星を背負わされる鬱陶しさも知っている。
もうひとり――似た状況にある人物の微かな気配に、緋勇は顔を上げた。
「あ―――、龍斗さんもまだ起きていたんですか」
縁側に腰掛けていた龍斗の隣に据わった彼女は、自分も眠れなかったのだと小さく笑った。
「私もどうも寝付かれなくて、湯をお借りしようと思っていたところです」
「共に入るか?」
真顔で尋ねる緋勇を、刺しますよと冷たく睨んでいた涼浬の眼差しが、不意に和らぐ。
感情を隠しがちな、大切な人に――おずおずと問い掛ける。
「何かあったのですか?」
今、彼は苦しんでいると思った。
感情を顕にする人ではないからこそ、痛みに耐えているのだと。
「涼浬は――飛水の一族は好きか?」
彼女も同じく。
厄介な一族。重い宿星。『普通』とは程遠い家に生まれた人物。
涼浬は少し考えてから、なんとも複雑ですと答えた。
自分に、そして兄に負わされた忍びとしての使命。天より与えられた宿星。
望んでいた訳ではなかった。懸命に誇りと信じようとしていた頃でさえも。
「それでも――兄ほどではないとはいえ、一族の守護を受ける身だからこそ、あなたに会えたのだと思います。我ら四神が守る黄――」
「俺は、その宿星をずっと憎んでいた」
冷たい声で、緋勇は遮った。
驚いた表情で固まる涼浬に、緋勇は慌てて微笑んでみせて、ごろりと彼女の膝を枕に寝転がった。
「た、龍斗さん?」
「生まれると同時に母を奪った俺を、父は憎んだ。幽閉され、自由のない世界で、俺は、何もできない自分の生を呪っていた」
掌で目を覆い、緋勇は自虐的に呟く。
目を閉じれば、浮かぶのは、今でも十四年間封じられた世界。陽も当たらない暗い牢。
「だが――おかげで俺は今此処に在る。絶望の中で死を迎えていた俺が、足掻くことを許されたのは、この忌々しい宿命による」
今現在、最強な訳ではない。最強であったならば、柳生に殺されなかっただろう。
それでも、終わりにならなかったのは、宿星の特性――無限の可能性。
世界を変革するほどの力を受けて壊れなかったのは、無限の容量を持つ魂だから。
愚痴に近い言葉を静かに聞いていた涼浬は、緋勇が黙り込んでしばらくしてから、そっと訊ねた。
「龍斗さん、私にもひとつ聞かせて下さい。あなたは……、この場所がお好きですか?」
どうでも良い場所の筈であった。
力を持つ有能な駒たちの集う場所。
優しく頭を撫でる、妹のような彼女を。
何も聞かないのに、信じていると断言する僧侶を。
純粋に憧れの眼差しで、自分を見る派手な忍たちを。
美味しいあんみつがあったんだよと、満面の笑みで走ってきて、目の前で躓いて、顔にぶちまけてくれた明るい少女を。
全て戦力として計算すべきだと――分かってはいた。
「分からん……だが、多分」
戸惑い、心底困惑しているであろう、不器用な男の髪を撫でながら、涼浬は告げた。
「私は鈍い女ですから、あなたの思うこと全てを察するなんてできません」
だから言葉にして下さいと微笑む彼女を見上げ、緋勇は呟く。
「俺は鬼道衆を助けたい」
「承知しました。理由は問いません。ただ、あなたの望みを聞きたかっただけですから」
鬼たちを助けること。
確かにそれが望み。時を越えた絶対の理由。
なのに今は、もう一つ願いがある。
「だが――俺は、龍閃組を死なせたくない」
鬼と同じく、破滅へ向かう組織。
裏で暗躍する男が居て、組織を快く思わない幕府重臣が居る以上、彼らもまた、明るい未来は閉ざされている。
「誰も彼も守りたい。それはとても欲張りで傲慢な考えですよ?」
「承知の上で――望む」
涼浬の正しい言葉にも、緋勇は頷いてみせた。
傲慢でも困難でも――彼らも、守りたいのだ。
「ならば最善を尽くしましょう。私も微力ながら、協力いたします」
「……ああ。涼浬、感謝する」
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