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―― 東京魔人学園外法帖 第九章 ――


復調した美里を加え、河原の無宿人たちに聞き込みをしていると、騒ぎが起こった。
まだ幼い少女が発作を起こしたらしく、胸を押さえ酷く苦しんでいた。

いち早く気付いた美里が駆け寄り、正しき治療と、薬と、そして――力にて、症状を落ち着かせる。

ひとりで暮らしているのかという問いに、彼女は姉と一緒だと首を振った。
こんな身体で動けないから、真那お姉ちゃんがいつも、ご飯を持ってきてくれるんです――と。

「昨日も、大きなお饅頭を持ってきてくれて……。泰山さんとお姉ちゃんと三人で分けて食べたの」
「それって、もしかして……。真那ちゃんって、やっぱり……」

真由という少女から、詳しい話を聞き、納得する。
彼女を養う為に、例の猫のような少女は盗みを働いているのだろう。

いくつか話を聞こうと、姉の所在を尋ねたところ、今朝、発作で苦しんでいた彼女の為に、水を汲みに出掛けてしまったという。
長命寺の長命水のことだろうと当たりをつけた美里と桜井を、羨ましそうに眺めていた真由は、おずおずと緋勇に訊ねた。

「あの……、また、遊びに来てくれますか?」

頷いた緋勇らに、彼女は待ってますと微笑んだ。
あまり似てないねェと、桜井が言い難そうに呟き戻ろうとしたところ、聞き込みを続けていたはずの蓬莱寺が、皆を呼んだ。

先程まで堅く口を閉ざしていた無宿人たちが、話したいことがあると言い出したのだという。

「あ、あの……旦那がたが捜してる奴かどうかは知りませんが、ここから少し川を上ったところに、壊れた船が流れ着いてるんで」

ほんの幾日前の事――郷蔵が襲われた頃と一致することから、何か関連があると思われた。

だが、なぜ急に話す気になったのか。

問うた美里に、彼らは照れた様子で、真由ちゃんを助けてくれたからだ――と答えた。

ならば信頼しても良い情報なのだろう。

「んじゃとりあえずは、その上流に向かってみるか?」
「うん、でも……、その前に、あの子の事でちょっと気になる事があるんだよね」

ゆえに意気込んだ蓬莱寺だったが、桜井が真由の――彼女の姉のことも併せて、説明する。

「あの盗ッ人娘の事かッ!!」

痛みを思い出したのか、手を押さえながら叫んだ蓬莱寺に、美里が申し訳なさそうに提言する。

「それで今、その真那ちゃんは長命寺に行っているという事なの。もう落ち着いたとはいえ、真由ちゃんの具合の事も、知らせてあげた方がいいと思うし……」

そんなに遠くはないから、まずは長命寺にという結論に達した。


長命寺に、真那は見当たらなかった。

それは構わない。

では情報通りに、船の残骸とやらを調べに向かう。
そこでは大男――泰山が困っていた。

これも、百姓たちの証言より、彼が頭の古傷を再び痛めたことは分かっていた為、記憶の混乱も予想の範疇であった。



流石に、この事態は想像していなかった。

「冗談やないッ、こないな家の台所なんて狙ったりするかい!! 庭の花があんまり綺麗やから、ちょっと覗きに来ただけやんか!!」
「いい逃れなら番所でするがいい」

猫の子のように、首根っこをつかまれた真那が、梅月に連れられていた。

『本所辺りをよく騒がせてたっていう物盗りが。捕まったらしいんだよ』

どうもまだ子供らしいんだけど――との、偶然会った葛乃の証言に、既に頭痛を覚えてはいた。

だが、ここで彼女が秋月家の坊ちゃんと絡むのは、むしろ好都合かもしれないと、緋勇は思い直した。
裕福で家を厭う彼が、怠惰に暮らす中で、まったく対照的な少女を知るのは、いい『お勉強』になるかもしれない。



『家』に戻らせてもらえた真那は、一目散に真由の元へ駆け寄った。

「大丈夫か?どこか苦しないか? ごめんなァ、遅うなって……」
「ふふ、大丈夫だよお姉ちゃん。そんなに慌てなくたって……。わたしこそごめんね、お姉ちゃんにいつも迷惑かけて」

真由のためなら何も辛い事なんてないと断言し、甲斐甲斐しく世話を焼く真那の姿に、案の定、梅月の心はぐらぐらと揺すぶられているらしかった。

「おお〜、遅かったなァ、真那ちゃん」
「今日はでっかい魚が釣れてなァ、真由ちゃんも一緒にみんなで食おうな」

心配そうに覗きに来ては、安堵の色を見せていく無宿人たちの存在が、感動の演出を高める。

「えへへ、家族といえばもう一つ―――、この時期になると増えるのがおるで? そろそろや、ほら―――」

意識せぬ主演役者が、更なる舞台装置を紹介する。

群れる蛍。
闇にぽつぽつと、淡い光が灯る。

この完璧な舞台で、心が変わらなかったら、面倒だから一発殴って持って帰ろうと決心していた緋勇だが、荷物を運ぶ必要はなかったようだ。
流石の無感動演出青年も、感極まった表情で、蛍の光に、そっと手を差し伸べる。

「成虫となり飛ぶ事のできる蛍は、ほんのわずかな数だという。こうして光を手に入れる事ができるのは、ほんの一握りのものだけだ」

さすが詩人だと、緋勇は思った。
尤も、真に無感動ならば、そもそも家と宿星を厭って飛び出すなどという、憂鬱が限界を超えた行動は取らないだろうから、元々は感激屋なのかもしれない。

「自分さえ助かればいいと思う者たちで、溢れかえるこんな世の中にも、君たちのように運命に、困難に、懸命に立ち向かっていこうとする者がいる」

あとは自動説得機能を持つ、蓬莱寺と美里に任せようと意識を外しかけた緋勇は、違和感に気付いた。

蛍は変わらずに飛んでいる。だが、虫の声が止んだ。

「誰だ?」
「暢気にそんなもんを眺めてるとは、大した余裕だなッ」

誰何に出てきた懐かしい顔に、反射的に蹴ろうとする身体を無理に止め、緋勇は後ろに下がった。


「お前たちの後をつければ、餓鬼の居場所がわかると思ってたぜッ。さァて、そろそろ大人しく喋ってもらおうか」

高圧的に宣言し、お前みたいなのに話す事なんて何もないと真那に反発される風祭を見て、ふと緋勇は疑問に思った。
知人なのだがと前置きした上で、泰山について素直に訊ねれば、普通に教えてもらえるのではないか。

「俺の名は―――、鬼道衆の風祭 澳継」

なんだってわざわざ名乗っているのだろう。
内心にて首を傾げている緋勇に視線を移した風祭は、彼にしては低い声で問う。

「……お前が緋勇 龍斗か?」
「さてな。どう思う?」

肩を竦めての答えに対し、予想通りの嫌な奴だと吐き捨てる風祭に、なぜそうも尖るのか、不思議に思った。
記憶に苦しまされている様子も無いことから判断するに、今現在は全く持って他人であろうに。

「物はついでだッ、ここでくたばってもらうぜ、龍閃組!!」

風祭の指示のもと、わらわらと下忍が現れ囲まれたのだが、救い主がすぐに現れた。


「真那をいじめるのは、お、おめだぢがあァ〜」

ばったばたと下忍を薙ぎ倒す泰山の勇姿に、何をやってるのだと、緋勇は少し目頭が熱くなった。
任務に従ずる組み合わせに難があったのだと、あの頭目は反省すべきだと思った。

「お前、こんなところにいたのか!? 作戦放り出して、何やってたんだよ!!」



「泰山は前の事は何も覚えてへん。いい加減な事抜かすなッ!!」

真那に怒鳴り返され、風祭は納得した顔で頷いた。
頭に衝撃を受けたせいで、また記憶が飛んだんだな――と。

「どうした、泰山。お前のその額の傷を思い出せ!! 御屋形様に与えられた使命を思い出せ。お前はどうしてこんなところにいる!?」

効果覿面の魔法の言葉に、泰山は動きを止めた。
だが、苦渋に満ちた顔で頭を掻き毟る。

「お、おやがだざま……、ごめんなざい。で、でも、おでは、もう闘いだぐねえ……。真那や真那のどもだぢど闘うなんで、おでにはでぎねえ」

答えは出た。闘いたくない――ゆえに強制力が発動する。
大男の狂乱が収まった瞬間、感覚の鋭い者たちは、凄まじい怖気に襲われた。
おそらく美里の上をいくであろう梅月は、蒼白な顔で呟いた。

「……彼の氣を注視してはいけない。引き摺られる」


酷いことに、緋勇は少しだけ安堵した。
雹が変生したときに、殺意ということさえも生ぬるい程の、猛烈な怒りを覚えたことを考えると、扱いの違いに苦笑しそうになる。

「うおおおッ……、あだま……あだまがああァッ!!あだま……、あだまが割れそうだァ」

これで泰山も助けられる。



「た、泰山!?」
「馬鹿、早く避けろ」

あまりの事態に棒立ちになった風祭の身体へ、泰山であった鬼の振り回す拳が迫る。
一瞬の逡巡ののち、緋勇は風祭を抱えて跳んだ。

「て、てめェ、何すんだよッ」
「騒がしい。あとは自分で避けるのだな」

空中で風祭を蹴飛ばす事により、方向転換を図る。
狙いどおり、反動にて分かたれたふたりの間を、豪腕が通り抜けた。

「てめェッ!!」
「いいからさっさと下忍たちを避難させろ。連中が居ても屍が増えるだけだ」

着地した風祭に告げた緋勇は、ゆっくりと鬼へと歩み出した。
倒し――助ける為に。



「く……なんという堅さだ」
「元が泰山で、変生してるのだからな」

雄慶の驚愕に、やれやれと肩を竦めてみせた緋勇は、視線をある人物へ向ける。
彼は、とりあえず下忍たちを逃がした後も、そこに留まり続けていた。本来ならば、己も今のうちに逃げるべきだというのに。

「おい、澳継。手伝え」
「何がだよ……ああ、てめェは『緋勇』だったな。へッ、分家如きに頼み事かよ」

最小限の言葉。それだけで合点したのか、風祭の瞳に揶揄の色が宿る。
余程のことがあったのだろうな――と、その捻くれた言葉で理解ができる。単細胞そのものである少年に、ここまで恨みを残すのだから。

まあ、あの父が愚かなことは、今に始まったことではないが、つくづく自分に迷惑しかけない男だなと、緋勇は呆れを抱いた。

「風祭は、分家などではないだろう。緋勇が本家ではないのと同様に」

陽の総帥と同じ姓を持つ男の言葉に、風祭は呆気に取られた。
方便ではなく、本心としか思えぬほど、彼は当然のように続ける。

「表裏は――陽と陰は、正負でも優劣でもない。ただの性質の違いだ」

風祭の家を裏の家系と知った時に、絶望を感じた。
習得し鍛錬してきた己の拳が、小さく見えた。

だからこそ、その想いを消し去る為に、九桐より、龍閃組の拳士の姓を聞いた時から、己こそが『彼』を倒すと決心していた。
なのにその当人が、あっさりと否定する。

元より卑屈になる必要などないのだと。

「あの阿呆が、風祭家をどう扱ったのかは、予想はつくが俺の知ったことではない。今代の緋勇は、表ではまともであるのだ、お前が気にする必要はないだろう」
「だ、だからって……なんで俺が泰山を倒す手伝いをしなきゃなんねェんだよ」

困惑しながらも、あくまで反抗的な態度。
手っ取り早く聞かす為に、『常』の如く蹴り飛ばそうかとも思ったが、今の立場でそれを行えば、続くのは本物の殺し合いになるであろう。
仕方なく、溜息を吐きながら、彼でも理解できるように説明する。

「人間の限界をとうに外れたあの状態が、延々と続く。泰山の身体にいいとでも思うか?」

肉体的には無論、精神においてまで制御を取払った暴走状態。
いかに頑強な泰山とて、そう長くは保つまい。

「泰山が危険だって言うのかよ」
「あれを健康的だと見るのならば、お前の正気を疑う」

素直に答えぬ緋勇に、思わず拳を握りながらも、事態はそれどころではないのだと、風祭は理解した。

「……仕方ねェ。足引っ張るんじゃねェぞ」
「……面白いことを口にするな。腹が捩れてしまう」




陰氣に惹かれ現れた雑魚など、通りすがりに、叩きのめした。
ふたり揃って、泰山の間合いに入るまでは一瞬のこと。

目線を合わせることもなく、何の合図もなく。

「陰たるは、空昇る龍の爪」
「陽たるは、星煌く龍の牙」

今更合わせるまでもない。存在しない過去では、幾度となく駆使した表裏の龍の技。
高めあう氣が螺旋を描くまで、僅か一呼吸。


双龍の連撃には、変生した泰山といえども、耐えられなかった。
弱々しい咆哮を上げ、元の姿へ戻って行く。



「なんだよ、こんな事……」
「ちッ、とぼけたって無駄だぜ。お前らの仕業だろうがッ!!」

蓬莱寺の怒声に、呆けていた風祭が、猛然と顔を上げる。
彼にとって仲間を――主を侮辱されることは耐えられないのだろう。

「冗談じゃねェッ!! こんな事……こんな事、俺たちが……、御屋形様がするはずねェッ!」
「同感だ」

宝珠を拾い上げながら、暗い声で緋勇が同意する。

「あいつは非情になりきれない。本来道具として使い捨てるべき下忍にさえ心を配る――それは指導者としての素質であり、復讐者としての最大の欠点だ。
それが泰山に――雹に――御神槌に対し、常に監視し、変生を強制するだと? ふ……、そんな話、ある筈が無い」

緋勇の鬼への知識の深さは知っている。想いの強さも察している。
そんな彼の言葉なのだから確かなのだろう。おかしいのは今までの『事実』。そう気付いた雄慶は、呟いていた。

「では、俺たちが今まで見てきたものは一体……」
「簡単な話だ。他に誰かが、裏に居る」

心配そうに、己より遥かに巨体の相手の顔を覗き込んでいた風祭の首根っこを引っ掴んできて、緋勇は泰山に聞こえぬよう小声で言った。

「御神槌たちに、このような珠を渡された状況を聞いてきて欲しい。特に嵐王には知られる事なく。お前なら、内藤新宿の辺りまでなら来られるだろう。そのときにでも教えてくれ」
「あ? ふざけるな、俺に命令する気かよッ!!」

反射的な怒気にも慣れきっている緋勇は、違うと、静かに首を振った。

「頼んでいるのだ。徳川への恨みが、比較的浅いお前だから頼める。……他の人間では、付け込まれる可能性がある」

真面目な表情に、思わず頷きかけた風祭であったが、不意に顔が歪んだ。
原因は、真顔で発された緋勇の言葉。

「それにお前はお子様だから、内藤新宿に来るのは慣れているだろう?」

風祭の身体が、わなわなと震え出す。
どうやら『お子様』がいけなかったらしい。

「て……てめェッ!!」
「なんだ? しょっちゅう桔梗姐さんに手を引かれて、行っていたじゃないか」

あくまでも平然としたまま紡がれる緋勇の言葉に、風祭の忍耐は切れた。元々、沸騰点の著しく低い性格であり、なおかつ眼前の冷徹な表情をした青年の言葉は、先程から一々気に触った。

「こ……殺すッ!!」
「ほう、上等だッ!!」

叫び、構えかけた風祭を、緋勇は先手必勝とばかりに蹴り上げた。緋勇の優位は、技量ゆえではなく、純粋に慣れの問題。――どちらが蹴り蹴られる立場かという話であろう。

ごろんごろんと転がっていく少年の姿を眺め、おおなんだか懐かしい――などと、感傷に浸る緋勇とは違い、風祭は憤怒の顔にて、跳ね起きる。

「痛てッ!! あいてててて……。てめェ……何しやがんだッ!! いきなり、蹴り入れやが……」

怒鳴り声は、途中で勢いを失った。臆したわけではない。
風祭は気付いた。嘗て、まるで同じ台詞を口にしたことがあると。相手は誰であったか、何時であったか。それは思い出せないのに、同じ言葉を発した事だけは、確かに覚えている。

「ちょっと待て。何だその懐かしそうな顔は。お前、矢張り被虐趣味が……」
「ちげェッ!! 矢張りってなんだ! 矢張りって!!」

一歩どころではなく、数歩ずざざざざっと身を引いて眉を顰めた緋勇に、風祭は怒鳴り返した。
確かに――妙なことに懐かしかったのだが、嬉しいわけでは全くなく。

妙に間延びしてしまった空気を、急速に締めたのは、悲痛な叫び声。
嘘だと叫ぶ、拙い――懸命の糾弾。

「徳川は、そうやっでまだおでをだまず気なんだ!! おでをだまじで、おでの大事なものをまだめちゃくちゃにする気だ!! 返ぜ……おでの村を……、どもだぢを家族を、返ぜェッ!! おめだぢは……、徳川の手先なんだろォッ!?」

そうだ、手先だ―――と、緋勇は頷いた。
静かな抑揚のない、感情などとうに失せたと分かる声。慣れろと、彼は己に言い聞かせていた。憎悪も哀惜も全て受けるしかない。
ひび割れた声で、なのに表情は全くないままに、彼は口を開く。

「手先だから――早く逃げろ。泰山……お前の村も友も家族も、そしてお前の心さえも失われてしまった。幕府が僅かばかりの金を欲した為に」

本来、泰山は、闘いなど知らずにいられたはずなのだ。
貧しくとも、平穏な生活の中で暮らす、ただの気の良い大男で在れたのだ。

特殊な生まれに在った人形姫とも、革命に身を置いていた志士とも、迫害されることを知りながらも神の教えに従った宣教師とも、鬼に仕える腹心の家系であったものとも違う。
無論彼らとて、彼ら自身に罪などない。それでも、悲劇に巻き込まれるだけの因はあった。

泰山には、それすらも無かったのだ。
武家であるわけでもなく、闘う術など持っていなかった。

集落の近くで金が発見された。正直にお上に報告した。
報酬は、圧倒的な殺戮であった。

ただの樵たちが暮らす平穏な世界だった。
家族が待つ暖かい世界だった。

小さな集落は徹底的に殲滅された。
唯一生き残れたのは、泰山ひとり。頭部に酷い傷を負い、死んだと判断された彼のみ。

その彼ですら、元のままではなかった。
傷は重い障害を残し、彼本来の心は失われた。

「だが、あの村には、まだお前を待つ者がいるだろう? 野山を駆け巡り、共に暮らす獣たちが。山菜やら茸やらを遊びがてらに取りに来て、食べられるか否かお前に尋ね、今日の飯に作ってもらうんだと、笑う子供達が」

心は幼子のように戻ってしまったが、それでも彼は生きている。
慕う者たちも待っている。

「だから――――帰ってくれ。俺は――幕府の犬だから。――――お前を傷つけるだけの存在だから。早く――あの村へ」
「おめ……なんで、なんでぞんな目で、おでを見るんだ……?」

静かな、哀しい目で。
勢いを失った泰山に、真那がぽつりと呟いた。

大切やからや――と。

「大切やからこそ、幸せになって欲しい。普通はそう思うもんやッ。それに――――、そういうんが《家族》っちゅうもんや」

泰山は、もう、大事な家族なのだから――だからこそ、戻って欲しいと、真那は泣いていた。
少女と風祭との間を、泰山の救いを求めるような視線がおろおろと移動する。
だが、勝手にしろとばかりに顔を背けた風祭に、却って覚悟が決まったのだろう。

「真那……。お、おで、楽しかった。けど、おでにはまだ、やらねばならねえ事がある」

泰山は、落ち着いた声で、決心した表情で、真那に別れを告げた。

「うん。帰る場所があるんやったら、……待ってる人がおるんやったら、どんな事があってもそこへ帰らなあかんで。だから……早よ行きや?」

大男が少女に諭され、涙さえ浮かべながら、未練を面に幾度も振り返る。
何回りも小柄な少年が、その手を苛立たしげに引くが、どうしても去りがたいのだろう。

「なァに、ウチと真由はいつでもここにおるさかい、寂しくなったら、いつでも遊びに来るんやで?」

笑い、彼女は大男の背を優しく押す。また会えるから――今は帰りなと。


「おいおい、公儀隠密がこんなんでいいのか? 大体、百合ちゃんに何ていうんだよ」
「うふふ。時諏佐先生なら、きっと―――、喜んで真那ちゃんを迎えてくださると思うわ」

自分も龍閃組とかいうのに入りたいと、明るく笑った真那に、蓬莱寺は呆れ、美里は微笑んだ。
そして、梅月は、静かに呟いた。

「君たちには初めから、教えられてばかりだったな。人の強さを、そして――――、暖かさというものを」

正直、梅月については、まだ居たのかよ――と思った緋勇だが、黙っていた。
随分と穏やかになった眼差しから考えれば、後は口を挟む必要もないだろう。

「やれやれ、上手く逃げおおせて隠れてきたつもりだったのに……」

いや、お前の場合、まず占いが得意だの知らしめたのがまずいと思うのだが。
そんな突っ込みは懸命に飲み込んで、緋勇はただただ、梅月の回想とも悔恨ともつかぬ話を聞いていた。

やはり彼が、秋月家次期当主。

「人の運命は、わからないから面白い。わからないからこそ、夢を抱ける。だが、もし――――、もし、その《宿星》を視る事ができたら? その人間の運命を知る事ができたら?」

己が寿命を削り、先の見える世界で暮らすことに、嫌気がさして飛び出した。
地位も富も何もかも捨てて、別の人間として生きていた彼は、だが出会ってしまった。

逞しく生きる少女と。
貧しく、決して、楽ではない生活の中でも、溢れんばかりの仲間と希望を持っていた少女と。

ゆえに気付いた。

自分が、何も持っていない事に。
自分には、護るべきものが何もない事に。

「それじゃあ、もしかしてキミが、時諏佐先生のいってた」
「僕の本当の名は、秋月 真琴という。人の目は欺けても、天の意思までは――――、《宿星》という名の星までは欺く事はできなかったようだ」



梅月の――秋月の報告も時諏佐に済ませ、龍泉寺の庭で蛍を眺めていた緋勇は、投げ入れられた小石に気付いた。

静かに寺を抜け出し、文に書かれた場所へと向かう。
隠れているであろう微かな気配に対し、確認の問いを投げた。

「澳継か?」

だが、答えは予想と違った。

「いいや」

声に緋勇は凍り付いた。
聞き覚えなど腐るほど有る――友の声。

現れたのは、暗闇にも鮮やかな紅の髪。

ふざけるなと思った。
誰だ、この馬鹿から目を離したのはと、鬼たちの顔を浮かべ、本気で焦った。

この男は腕は立つ。頭だって切れる。
だが根本的なところで世間知らずなのだ。ある意味では純粋培養された御曹司なのだ。それが単身で、内藤新宿までやってきたというのか。

必死に周囲の気配を探った。
だが、誰も居ない。忠臣も、付き従う美女も、五行を示す忍びたちの気配も無い。調べものを頼んだ馬鹿さえも。

眩暈すら感じた。

大体、基本的には鈍いこの男に気取られるなど、風祭はなんと阿呆なのだとも思った。そして同時に気付く。

「そうか。……澳継に頼んだ俺が、一番阿呆ということか」

浮かんだ懐かしさを、呟きと共に消し去る。
あくまでも冷ややかな声で、公儀隠密として言い放つ。

「これはこれは、鬼道衆頭目が自ら……さっさとお家に戻れ。天戒」

凍りつかんばかりの殺気の込められた声。
瞳に宿るのは、ひたすらな敵意。

殺気と敵意を幕府の狗より向けられて、九角は小さく笑った。

皆は、彼を御屋形様と呼ぶ。
例外である側近中の側近は、ふたりは若と呼び、あとのひとりは天戒様。

鬼道衆の頭目を、村の主を、『天戒』と敬称なしに呼ぶのは、たったひとり。

夢でしか逢えぬ友のみ。

『お前にひとつ訊こうと思っていた。お前も――、皆と同じように考えているのか? 俺の命に従うのが、すべてだと』


そう問うたとき、何を言っている? と首を傾げた男。
お前の部下になった記憶自体がないがと、彼は続けた。


「なぜ、俺の名を知っている?」

静かな声で問われ、緋勇は己の失言に気付いた。

『使う事の無い名だ』

彼はそう言っていたではないか。今までの鬼道衆は、皆『御屋形様』と呼んでいた。唯一彼を名で呼ぶ桔梗も、統領の名を敵の前で口にするような愚かなことはしなかった。

龍閃組が――鬼哭村の人間以外が、彼の名を知っているのはおかしい。

いくつでも瞬時に浮かぶはずの言い分も、こんなときには全く出てこなかった。

「黙れ。なんにしろ、ここはお前たちの敵、龍閃組の本拠地だ。危険だろう? お前に何かがあったら、姐さんに怒られるだろう。早く戻れ」

結局、答えになっていない。言い訳にすらならない言葉で、ただ拒絶する。

睨む相手に、ふと目元に笑みを滲ませ、九角はあるものを懐から出し、緩やかに投げる。

受け取った緋勇は目を落とし、微かに首を傾げた。手のひらに投げ込まれたのは、何かの細工物。

「何だ、これは?」
「弥勒からの礼だ。京から戻った後に、倒れていたあいつを介抱し、事情を話した。しばらくして持ってきたものだ。緋勇龍斗とやらは――なぜか酒が好きな気がするから、会ったら礼として渡して欲しいと」

それはよく見ると花の形をしていた。

「ああ……酒中花か」

木の芯で作った、花や鳥の形の小さな細工物。杯に入れるとふくれて開くこの細工物を、奈涸だの火邑だの們天丸だの、酒飲み仲間連中で、弥勒に作ってもらった過去でない過去を思い出す。
面作りの片手間で良いからと、もののついでに頼んだものを、『片手間』という言葉を知らぬのか、やたらと凝った物を作ってくれたのであった。

「凄まじい凝りようだ。……綺麗だな」

小さく笑った緋勇の表情に、九角は目を細めた。

きっと緋勇は気付いていないのだろう。手のひらに視線を落とす己が、今どれほどに優しく――哀しい眼差しをしているかなどとは。

任務より帰還した部下たちは、皆悩み苦しんでいた。

龍閃組の男が、原因なのだと。

知らぬはずなのに。
己には頼る存在などなく、己が足で独りで立っていたはずなのに。

支えてくれるのではない。助けてくれるのではない。ひたすら寄りかからせてくれるわけでは勿論ない。
だが、辛いとき、苦しいとき、少しだけ背を貸してくれた男を思い出すのだと。

「お前は……何者なのだ?」

龍閃組の拳士だと俯いたまま答えた男に、鬼の頭目は首を振った。

そんなはずがない。ただの敵に、これほどの苦しみは覚えない。

「俺は遠い昔から、お前を知っているような……、そんな……気がしてならない」

九角もまた同じだった。
全てを支え、全てを隠し。独り毅然と立っていた彼は、思い出してしまった。少しだけ――背を貸してくれた友のことを。


緋勇は何も答えられなかった。
九角もまた、それ以上は、何も言えない。

「夜の逢瀬を邪魔するたぁ無粋だが――男とってのは、ちょいとばかり色気に欠けねェか?」

静止した時を、再び動かしたのは、冷たい声。

「こんな所で鬼と内通か? 龍……いや、緋勇」
「蓬莱寺……」

失態だった。
彼の気配に気付かなかった。

それほどに、蓬莱寺は、気配を消すように細心の注意を計ったのだろう。
それほどに、ずっと――疑われていたのだろう。

「すまない」
「言い訳は後で聞く。……くらえッ」

蓬莱寺が、気合と共に剣を振るう。
九角が剣を抜いて受ける前に、乾いた音が響く。受けたのは手甲。

「さっさと行け!!」

その剣を止めたのは、緋勇。
彼は、九角をその背に庇っていた。

「ふざけるな、てめェ……何をしてるか判ってるのかッ!!」
「信じてくれとはいわない。ただ、おまえたちに害となることだけはしない。それだけは誓う」



「偉いものだよな――父の意志を継ぐなんて。俺は父殺しだから」
「お前は意味なく人を殺すような奴ではない。何か――あったのだろう?」

さて――と誤魔化す友を睨み、今まで断片に聞いた事情から察したことを、口にしていいか、天戒はしばし悩んだ。
だが、逡巡の末に、問う。大罪を犯したと自嘲する友の笑みは、悲しすぎたから。

「お前――黄龍の器なのか」
「ああ」

あっさりと彼は頷いた。

黄龍の器。それは菩薩眼の女と張るほどに珍しい存在。同じく大地に愛されし者。
だが、『彼』は菩薩眼の聖女ほどには、権力者に固執されない。

なぜならば『彼』こそが五行の王だから。宿る力は強大極まりないが、総ては『彼』の思うままに動く。
意思すら役に立たぬ、ただ側に在る者を祝福し、加護する菩薩眼の聖女とは異なり、捕らえることも従わせることも難しい。

「卓越した《力》持つ者と菩薩眼の天女の間に、生を受けし者――か」
「父親の力の差というより、血脈の問題だろう。緋勇の家は、幾度か器を輩出してるからな。そもそも俺の方が、お前より早く生まれている。黄龍は、基本的には時代にひとり――単にそれだけの理由かもしれんぞ」

同じ年。一日の差で生まれた、同じ境遇の母と父を持つ者。
それが緋勇 龍斗と九角 天戒。

龍斗は、今までの境遇を語った。
鬼と出会うまでの、生きていない生のことを。

「我が子を幽閉していたのか!?」
「別に、そこまで珍しい事でもない。代々の器に対して行なわれてきたことの中では、二番目に多い」

感情のこもらぬ声に、天戒の背に寒気が走った。
龍斗は本気でなんとも思っていない。
そして、その言葉に潜む意味にも、怖気だつ。予想もついた。だが問わずにはいられない。己が背負ってもおかしくはなかった宿星だから。

「では、一番目とは?」
「無論――殺す。赤子の頃の、碌に力も無いうちにな」

強大なる力。だが『彼』が呼ぶのは、正とは限らない。凄まじいまでの正負いずれかを背負うことになるのだ。
ゆえに、負を呼ぶ前に、なかったことにする親もいるのだという。

「もし、俺が先に生まれ、器であったら、父も……鬼修も、そうなっていたと思うか?」
「さてな。話に聞く限り鬼修殿は、たいそうな人格者であったようだから。尤も、父も、我ら双子が生まれるまでは名君であったらしいのだがな」

物心ついたころには、そんな面影は微塵も無かったが――と、笑えぬ言葉を口にしながら龍斗は笑う。

「何故お前の方が、器だと判断されたんだ?」

双子であればどちらが器かなどわからぬであろうに。同時に生まれる赤子のどちらが死の原因となったのかの判別など、困難極まりない。

「簡単な話だ。少し日が経ち、生えてきた髪の色は、俺が薄茶で弟が漆黒だった。薄い色素は、緋勇の家のもの。闇の如き漆黒の髪は、菩薩眼の特徴。ゆえに緋勇の家の力――黄龍が俺で、菩薩眼の力は弟。母を殺した黄龍は俺の方と判断された」
「そんな理由で……ふざけるな!!」

本気の怒りの表情に、龍斗は微かに笑う。

そう……ふざけている。
外観になど現れる筈もないのに、あの男は縋りついた。原因と愛する者とに分かち、憎み愛することで、精神の平衡を保とうとした。

そんなことを考える時点で、とうに正気など失っていることに、あの愚かな男は気付けなかった。狂った当主に、誰も何も進言できなかった。

それを、この友は、本気で怒ってくれている。
彼のような人物がひとりでもあの家に存在していたら、自分も弟も、そして父も、あんな結末は迎えずに済んだかもしれない。

「それでも、自分だけが不幸だったとは思わんさ。無論判りやすい不幸は己だが、弟もまた幸せではなかった」


風祭が荒々しく怒鳴り、去っていった。
彼の感情の起伏が激しいのは、今に始まったことではないが、今のは本当に些細なこと。

龍斗と風祭の技が似ているという、下忍が口にした、何気ない一言に、本気で怒りの表情を見せた。

「……ま、心当たりがなくもない」
「たーさん、どっちなんだい」

肩を竦め、どこか遠くを眺めながら、龍斗は他人事のように話す。

昔々、あるところに無手の武術を伝える一門があった。
流派には表と裏があり、例外も稀にあったが、大抵は二つの一族の当主が、それぞれの最高位に就いていた。

「別に表が主で、裏が従などという決まりは何処にもなかったが、勘違いをする当主もいたようだな。先代の表は倣岸な人間で、当然の如くその勘違いを持っていた。先代の裏は、遠慮深い人格だったらしく、反目することなく従っていた」
「師匠それは」

気付いたらしく、眉を顰めた九桐に、龍斗はあえて応じず、他所を向いたまま続けた。

「風の噂によれば、数年前に、裏の跡取はそんな関係が我慢ならず、出奔したそうだ。表の本来ならば跡取となるべき人物は、勝手にそれを放棄して根無し草―――方々を旅しているらしい」

出奔した先に、己と似た、だが、確実に違う古武道の使い手が現れれば、子供は癇癪を起こしても仕方なかろう。

あっさりと彼は笑う。

二つの一族の姓を想像することは、容易であった。


朝の天戒との会話と、先程の九桐らとの会話と。

「不思議だな」

併せて思い出し、誰も居ない夜氏之杜で独り言ち、龍斗は小さく笑んだ。

故郷を離れ、屋敷から――苦しむであろう弟から、逃げ出した。

なのに、適当に放浪しているうちに、弟を思い起こさせる者達と出会うとは。

内面が似すぎている天戒。
あれは、弟の過去。壊れる直前の、過度の期待と重圧に悩んでいたであろう頃の弟の姿。

魂が似ている澳継。
あれは弟の在り得た現在。
もしも父がまともであれば、もしも兄が幽閉もされずにまともに暮らしていたら。
なれたであろう自然の姿。


六年前に、父を殺した後に、弟と会った。最初で最後の確かな邂逅。

『貴方は私の策略に踊らされただけ』

去り際に、彼は微笑んだ。常の虚ろな整った笑みでなく、自嘲であったが確かに感情を乗せて。

『罪は私にあります。ありがとう、兄上』

あまりに哀しくて聞こえない振りをした。
彼は聡すぎた。兄が父を殺した理由の幾分かが、弟を庇う為だということさえも気付いてしまった。

彼の負担とならぬ為の行為さえも、負担となる。



今でも時折夢に見る。
冷めた目線で、世の総てを他人事のように眺め。

己の部屋を出るときに、気合を入れるかのように、整った笑みを浮かべ、出た後はその面を被り続ける弟の姿を。



水音に目を覚ました緋勇は、一瞬、恐怖に悲鳴を上げかけた。
全てが長い夢かと思ったのだ。

友も恋人も仲間も、出会ってもいないのではないかと。
何もかもが、暗い地下牢で見続けた、空しい夢なのかと。

だが、嘗てとは明らかに違う景色に、そんな場合ではないのだが安堵した。

昔のように、暗い牢の中でも気にすることはなく、近くにあった書を引き寄せ、読み出した緋勇は、微かな足音に顔を上げた。
何もかもが昔の通り。

だが現れたのは、狂人の形相の父親ではなく。

心配そうな『仲間』たち。
入れ代わり立ち代りに訪れ、皆、口々に、先生が戻ったら、すぐに出してもらえるように言うからと、安心させるように。


「全くあの馬鹿は。すぐに出してやるからな」

最後にやってきた僧侶の、乱れた着衣から、きっと蓬莱寺と掴み合いの喧嘩になったのだろうと察し、緋勇は苦笑して言った。

「別に……慣れた環境だ。お前が気に病むことでもない」
「だ……だが」

牢にて、緋勇は書を片手に、気にした風もなく寛いでいた。
座敷牢が慣れた環境とは、一体どういうことなのだろう。

雄慶は混乱するしかなかった。

怒り心頭の蓬莱寺が、抵抗する素振りもみせない緋勇を連れてきて『こいつは裏切りもんだッ』と荒々しく座敷牢にぶち込んだ。

鬼道衆と会っていた。そして、相手を逃がしたのだと、蓬莱寺は言った。
緋勇は釈明もしない。

「すまない。お前は薄々気付いていたのだろう?」
「……お前が、戦闘中に、鬼道衆を可能な限り傷つけないよう留意していることか?」

勿論気付いていた。

緋勇に倒された鬼道衆は、碌な傷を負わない。必ず逃走しやすい方角に吹き飛ばされる。
幹部に限らず、下忍に至るまで。

それは敵が人間外の際には、全く行われない配慮。

「お前にも桜井にも涼浬にも――本当に申し訳なく思っている。そうやって察していて、それでも信じてくれて――なのに、俺は何も説明できなくて」

書を横に置き、緋勇は深く頭を下げる。
自分の半端さゆえに、こんなにも事態を悪化させたことを悔やむ。

心など移さなければ良かったのだ。
そうすれば、もっと巧く立場を利用できた。龍閃組という戦力を。

「構わんと言っただろう。時諏佐先生が戻ったら、すぐに出してもらうように――」
「それこそ構わん。これも良い罰だ」

信じてくれる者たちを謀り続ける罪。
軽いくらいだと本気で思う。闘い以外はここに封じられ、闘いの折に戦力として駆り出されるくらいでちょうど良い。

「困ったもんだね、勝手にこんなとこ使って」

だが、優しき人々は、すぐに救いの手を差し伸べてしまう。
鍵を手にした時諏佐が、入ってきた。


「あいつの身元は調べてある。悪いけど、これは、あんたたたちも皆されたことさ」

慈善事業などではない。
龍の構成員に、幕府隠密に胡乱な身元の者など参加できない。

全員、鬼道衆だの維新志士だの、裏の顔を持つことはないという結論がでている。
あんたたちを信じると気さくに微笑む裏で、その程度の確認はしていたのだと、率いる女は自嘲した。

「緋勇 龍斗。相模藩藩主の御典医一族の嫡男だった男だ。尤も、六年前に出奔し、家督は双子の弟が継いで、あいつはただ彷徨っていた」

その間の足取りは大体掴めていると、時諏佐は告げた。鬼道衆に加わっていた期間があるとは思えないのだと。

「だからあいつは鬼ではない。これは事実だ。どれほど鬼に心を砕こうと、鬼であったことはない。あいつの力は、龍閃組に必要なんだ。信じる信じないは、あんたたちに任せるけどね」

集められた者たちは黙っていた。
鬼である事実はない。だが、彼は鬼と会い、そして逃したという。

長である時諏佐は、自分で判断しろという。


痛いほどの沈黙を破ったのは、静かな少女の声。

「幕府だとか鬼だとかはどうでも良い話です。龍斗さんは兄を、そして私を助けて下さった。ゆえに、私は信じています」

嘗ては幕府を至上としていた少女は、きっぱりと言い切った。

「何か事情があるのだと思います。龍斗には語りたくとも語れぬ事情が。ゆえに――待とうと思っています」

僧侶は、言葉を選びながら、それでも、信じると言った。

「ボクも、いつか――きっと、龍斗クンは説明してくれると思うんです」
「私も……緋勇さんは悪い人ではないと思います」

親友たちは視線で語り合い、ほぼ同時に頷いた。


そうだろうよ――と、蓬莱寺は胸のうちで吐き捨てた。
彼とて緋勇が真に鬼道衆だなどとは思っていない。間者であるのなら、九桐の憤怒はおかしい。他の連中の困惑は妙だ。

『お前は何者なのだ? 俺は遠い昔から、お前を知っているような、そんな気がしてならない』

紅い髪の男は、言っていた。
緋勇と紅い髪の男は気付いていなかっただろうが、まるで同じ――懐かしさと哀しみが入り混じった、そっくりな表情で向かい合っていた。

彼も――鬼も、緋勇の正体を知らないのだ。

だが、これで片鱗も覗かせぬ心を見せるかと思ったのだ。
何も語らぬ過去を、少しは話すかと思ったのだ。

なのに彼は弁解も――説明もなく。



剣を抜いても構えもしない彼を、鞘に戻した剣で殴りつけた。
加減のない勢いで――顔を。

彼はそれでも避けなかった。

「お前らは理解しているからな」

涼浬と居る緋勇が、優しく目を細め、彼女を宥めるようにからかうように、頭を撫でているのを見た。

雄慶と居る緋勇が、確かに笑っているのを見た。整った穏やかな――上辺だけの笑みだけではなく、勝ち誇ったような、素のままの笑顔で。

緋勇は雄慶とは喧嘩をするのだ。
涼浬や小鈴たちのことはからかうのだ。


蓬莱寺は、彼らのようにはなれなかった。
説明もなく、ただ信じることはできなかった。

「俺は認めねェからな」

緋勇を仲間とは思わない。
なぜなら緋勇もまた、自分たちを仲間と思ってないのだから。

「俺だけは信じねェ」

緋勇もまた、自分たちを信じていないのだから。


彼らの結論を障子越しに聞きながら、緋勇は小さく笑った。
そこで想いを聞いていろとの時諏佐の言葉通りに、気配を消して立ち聞きしていた。

皆が優しすぎた。

信じると断言した雄慶たちも。
信じないと冷たく告げる蓬莱寺も。

理解と断罪と。
双方用意してくれたのだ。

だからこそ、涼浬に語った心を、誓いに加える。


利用されているであろう組織。
柳生は、きっと陽にも手を伸ばしている。

鬼と同じく、進む先が滅びであっても――死なせはしない。

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