自ら足を運んだというのに、龍斗は長屋の前でしばらくの間、突っ立っていた。
用ならば確かにある。わざわざ訪れたのだ。
だが後一歩が踏み出せずに、佇んでいた彼の背中に、不機嫌な声が掛けられる。
「ほう、誰かと思えば、お前か。何の用だ?」
尤も、上機嫌な彼の姿など、龍斗の記憶には存在しないのだが。
皆、龍泉寺の時諏佐の所へ挨拶にでも行っているのではないのか――事情を把握しているらしく、そう怪訝な顔で続けた犬神に、思わず笑みが洩れる。この男の捻くれ度合いも、尋常ではないな――と。
「……謝っておこうと思ってな」
「お前が? ……酔っ払っているのか?」
目を見開いた相手に、緋勇は少々気分を害したようだ。
憤然としながらも、今日の用件を思い出し、しばし深く呼吸を行って落ち着こうと試みる。
どうにか落ち着くと、淡々と経緯を語り出す。
龍泉寺を襲撃してきた黒幕――柳生により石にされた時諏佐の生命維持は、円空翁が行うこと。
何人かの黄泉返りを相手にした結果、柳生たちは富士にいるという情報を得たこと。
明日にも、鬼と龍とで、そこへ向かうこと。
「終わらせに出かける前に、お前に謝るべきだと思った」
犬神は関係なかった。
彼に罪などなかった。
ただの八つ当たりであった。
「勝手にお前に重ねていたのだろうな。一瞬にして仲間たちを殺された己の姿を。あのまま刻を登らなければ、こうなっていたであろう自暴自棄の姿が、耐えられなかった。それゆえに――――無責任に、お前に当り散らした」
本来訪れるべき己の未来の姿。
手を下した存在を、生き残った己を、憎み、呪い、そして無為に生きる。
世界との関わりを拒絶し、現在を拒み、未来を否定し――過去だけを見て生きる犬神は、比良坂という因果さえも歪める存在がなければそうなっていたであろう己自身の鏡だった。
それゆえに、正視できず、反発した。
「ふん……ならば余裕ができたということか」
「ああ、救えた。まだ殺さねばならん連中が残っているがな」
もう一度会えた。愛した女とも、大切な友たちとも。
何もかもが壊れても、彼らさえ生きていればいい。
記憶全てが喪われ、憎まれることを覚悟していたというのに、彼らは自力で記憶さえも取り戻してくれた。
変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
憑き物の落ちた顔で、嘗て塗りこめられていた虚無など、微塵も残らぬ瞳で、龍斗は笑っていた。
鏡のように、犬神と同じく、全てを忌む存在であったのに。
「お前といい、時諏佐といい……勝手なことを抜かすな。俺は別れの言葉の墓守になるつもりはない」
深々とため息を吐き、億劫そうに犬神は言い返した。
どうしてこうも彼らは――人間は、勝手に納得し、さっさと進んでいくのか。
惚気のように、満足したかのように、穏やかに――鮮烈な印象を残して、永遠を置いていく。
『あたしは絶対に先に逝く。それでも――あんたに遺せるものもあるのさ』
立ち止まり続ける者の身にもなって欲しい。
想い出に囚われ続ける者のことも考えて欲しい。
『居場所があれば、永遠も寂しくはないだろ?』
彼女は間違っている。
寂しいに決まっている。辛いに決まっている。
だが――確かに孤独ではないのかもしれない。
「五体満足でとはいわんが、とにかくは戻って来い」
せっかく生まれた食い扶持に、ありつく前に消えてもらっては困る――と、そっぽを向きながら続ける犬神に、龍斗は首を傾げた。
「職……ああ、時諏佐の語っていた寺子屋云々というやつか? 俺は、数えで二十一なのだが、今更教えを乞えと?」
知識は余ってるのになと、首を捻る緋勇に、お前の事情など知ったことではないと、犬神はあくまでぶっきらぼうに、肩を竦めて返す。
「俺は別れの挨拶などしない。もう、だいぶ長い間、それをした事がない」
どうするのが正しいやりかたなのか――――、忘れてしまうほど、長い間。
遥か昔は、必要がなかった。永き時を生きる同族相手ならば、別れなど存在しないはずだったから。
仲間を失ってからは、考えもしなかった。過ぎ去る塵芥のような人間相手には、感傷など抱きようがないのだから。
「だから龍斗、お前も、こんな俺に挨拶を残すなど無駄な事は止すがいい」
そして、今もまた、別れの挨拶など不要。
認めた者に求めることは、ただ一つ。
「黙ってこの江戸から立ち去り――――、黙って帰ってこい」
「――で、あれだけ事前に注意をしたのに、最も単純な三人が纏まって罠に陥ったか」
龍斗が、深々と溜息を吐いた。
長々と続く同じ光景。こういった集中力が途切れがちな場所は、罠を仕掛けやすいから気を抜くなと、注意した。確かに。しかもほんの少し前にも。
だというのに、柳生の居場所――富士へと繋がる風穴を進む内に、忽然と姿を消した者たちが居た。
蓬莱寺・桜井・風祭。
よりによってな面子。仲間内から単純だと思われる者を挙げよという質問を投げたならば、上位を占めると思われる者たち。
「……狙っているのは分断だろうな。数人ずつ――精々多くて五名程度までを対象とするはずだ。次は術の効きにくい人外たちで行く。姐さん、天戒、美里、次に罠の兆候がきたら振り向くぞ。で、坊主ふたりは残って金剛仁王陣を頼む」
敢えて罠に嵌る気なのかという、術士たちの非難に、彼は肩を竦めてごく軽い調子で断ずる。
「我らが結界を崩せるだろう。血に宿る力でいけば、この人選が最適だからな」
空間に働きかける術は、大抵の場合、術士の心が空間に影響し、それゆえに、術式が術士個人に由来する。
一般的な解呪が通じにくく、独特な術式を読み、解かなければならず、手間も時間も掛かる。
よって、解決策として、無茶な手法を選択する。
技術により術式を解いていくのではなく、空間そのものを強引に破壊する。
本来ならば、文句の一つや二つや三つでも言いたい術士たちであったが、時間に余裕がない現状、代替案が出せないのでは、従うしかない。
確かに龍斗の言っていることは、無茶で無謀ではあるが、無理ではないのだから。
龍斗の指示は、簡素極まりなかった。
次に『振り向きたくなったら』、指名された者たちだけが振り向き、他の者は抵抗する。
あとは、引きずり込まれた先の空間の空間を、力任せに破壊するから、混乱するであろう敵を捕縛する。
全ては順調に。
予定通り、かつ、不意に龍斗たちの姿が消え、僧侶たちが言の葉を紡ぐ。
少しの後に、先に消えた蓬莱寺たちも含めて帰還し、百鬼だとか名乗った愚かな呪言士は、光の結界に捕縛される。
「た、助けてくれ。何でも話すから」
絶対の人数差。
そして、実力差も絶望的。
禁術から自力で抜けた九角天戒に、そもそも効いてさえいなかった緋勇龍斗。
弱者を虐げ、強者に媚びてきた男は、新たな相手に尻尾を振ろうとした。
へりくだろうとも厳しい視線が揺るがぬ連中に、更に下手に出る。
「柳生の大将のとこでしたら、俺が案内してやってもよゥござんすよ。……あ、あ」
だが、千切れんばかりに振っていた尻尾は、踏みにじられた。
己の命さえ助かるのならば。
全てを洗いざらい話すと、頭を地べたにこすり付ける男の言葉は、途中で止められた。
「あ……あ、蛆ッ、蛆ッ。ば、化け物みてェな蛆がッ!!」
はじめは、皆、百鬼が何を騒いでいるのか、理解できなかった。
「の、登ってくるなァ!! うブ、ぶ」
悲鳴を上げ、己が身体を掻き毟る。
事態を掴めたときには、既に手遅れだった。
百鬼にしか、その蠢く音が認識できなかったのも道理。彼の恐怖の原因は、外部からではなく内部のもの。
監視者か。はたまた処刑者をも兼ねているのか。
男の身体を食い破り蹂躙するのは、無数の虫、虫、蟲。少し前まで紛れもなく人の身体であったものは、今では蟲の集合体。
凄惨な光景に言葉を失う者たちの中で、龍斗は顔色も変えずに呟く。
「ふん、これが本当の蟲の知らせというやつか」
「龍、その手の冗談は悪趣味だ。……蜉蝣とやらか」
眉を顰めた九角の言葉に、くぐもった嘲笑が応じた。
「ふふふふッ―――。可愛いだろゥ? そいつはねェ、火末蟲ってんだ。親蟲が一匹でも体に入ったら、ものの半刻で二万ほどに増える」
既に人の形は残っていない。
百鬼であったモノ――蠢く蟲に向かい、龍斗は無言で手を振り下ろす。
一瞬の裂光。
蟲は跡形もなく消失し、ただ穿たれた大穴だけが残る凄まじい一撃を見ても、女の余裕は揺らがなかった。
「ほほほほほほッ!! 久方ぶりだねェ、鬼道衆」
「貴様ひとりで、我ら全てを相手にする気か」
背を見せぬように、一塊に集った鬼と龍。
人数差に、気遣うような言葉すら発した鬼の頭領に、蜉蝣は嫣然と微笑んだ。
緊迫した痛いほどの静寂の中で、キチキチと虫が鳴く声だけが響いた。
虫の合唱は、段々と、大きくなっていく。
聡い者たちは、女の笑みの理由を理解し、顔色を失った。
包囲されている。敵に――虫に。
暗く湿った洞窟は、彼女の独壇場。
岩場に、湿地に、その影に。何処にでも虫は潜む。
一対多の戦いではなかった。これは多対無数の戦いであった。
「アタシのとびきりな蠱毒―――たっぷりと味わっておくれよ?」
王の、いや女王の呼び声に従い、肉と血を求めて無数の蟲が姿を現す。
生理的に嫌悪感を催す身体を震わせ、ギイギイと蟲が捕食の喜びに啼く。
「残念だったな、蟲女」
虐殺の命を待つ臣下に、勝ち誇る女王に、龍斗は苦笑さえ浮かべて話しかけた。
「以前より大体の能力が判明している敵を相手に、対策を立てないとでも思うのか?」
龍斗は嘗て見た。目の当たりにした。
力なき村人たちを喰らう蟲の群れを。
無慈悲に蹂躙する数の暴力を。哄笑し愉悦に耽る蟲の女を。
「皆、任せるぞ。では美里、比良坂」
彼の言葉を口切として、ひとりひとりが、前もって出されていた指示に従う。
嫌悪に顔を顰めながらも、手にした得物で蟲を切り、潰す。
恐怖に身体を震わせながらも、氣で、術で、蟲を屠る。
そして、胸の前で手を組み、祈るは、癒しの聖女。
低く高く――澄んだ声で歌いだしたのは盲目の少女。
ふたりの間に立ち、軽く瞳を閉じるのは、鬼であり龍である男。
一撃一撃で、多くの蟲を倒す者たち全てが、時間稼ぎ。
目を閉じて静かに待つ三人こそが、無限の捕食者たちへの対抗策。
「なんだって――――こんな?」
蜉蝣が驚愕に叫ぶ。
絶対の陣地であるはずの暗闇が、力を殺がれていく。
原因は、柳生の結界である富士の内には届くはずのない暖かな光。
白く気高き鮮烈な力。
菩薩眼の娘の祈りが光を呼び、常世の唄姫の唄が世界を代え、黄龍の器の魂が、力を増幅する。
光が闇を駆逐する。
「アタシが負ける? アタシの蟲たちが? そんな事がある――もんかッ」
騒ぎ、動揺するだけで、彼女は何も手を打てなかった。
並外れた妖力、無限に近いほどの再生力を持ちえていようとも、元より彼女は、使役する者であり、戦闘者ではない。
光に浄化されていく蟲たちに混乱する彼女は、己が身体に迫った危機にさえ、反応できなかった。
「く、口惜しい――、お前らのようなガキに――――ガキにッ」
身体を貫く幾本もの刃。
万全の状況ならば、新たな蟲にて傷を補充すれば良い。
だが、清く美しく換えられた空間では、蟲は生きられない。
「……うぎゃああああああッッッ」
絶叫を上げて、女の身体が――ほどけた。
身を構成していたものが次々に崩壊していく。
「や……な、なにこれ!?」
「きゃあああぁッ!!」
美里と桜井ら普通の女性陣が悲鳴を上げ、気丈な桔梗や涼浬らも息を呑んだ。
先の呪言士とほぼ同じ末路。
崩れるそばから、女の身体は蟲に変わる。
夥しい数の蟲が苦しみもがき、そして止まる。
「イヤダ……アタシハ……シネナイ」
ただ一匹、大きい百足だけが、震えながら呟いた。動かぬ身体で、少しでも逃げようと足掻く。
「シニタクナイ……アノカタヲ……ヒトリニ……デキナイ」
妖女の核。人体を形成していた蟲を統べる統率者。
何人かの目には、それ以上に詳しい事情が視えた。
「あんた……あいつに」
「これは惨いな」
呟いたのは最高の陰陽師の娘と星詠み。
高い術力を持つがゆえに、核の更に奥――妖女の素が理解できた。
「奴は殺す」
物騒な言葉と裏腹に、龍斗の表情は穏やかで優しかった。
龍の力を宿す者も、彼女の全てを視た。
「だから――安心しろ、かげろう。奴は独りで遺されない」
「アタシハ……私は」
蟲が言葉を取り戻す。
黄龍の器の持つ増幅機能により、ずっとずっと失われていた自我が、本当の己が戻る。
「たったひとり、私の為に哭いてくれたあの人が大切だった。――お願いします、どうかあの人に――」
――安らかな眠りを。
最期の願いを告げて、蟲は、安心したように動きを止めた。
その身をひどく優しく塵に返してから、龍斗は新たに指示を出す。
協力し、純然たる光にて、場を浄化している美里や比良坂などの姿を遠目に眺めていた蓬莱寺は、暇を持て余したのか、鬼の頭領の着物の裾を引っ張った。
振り返った相手に、周囲を気遣ってか、小声で尋ねる。
「よォ、九角。さっき蠱毒って奴は何だよ?」
「蠱毒とは、蟲鬼――――、つまり人に害をなす蟲の霊の事だ」
実感が湧かないのだろう。
不可解な表情で首を捻る生粋の剣士に、鬼道を操る剣士は、呪法を丁寧に解説する。
「数多の蟲を壷に押し込み、餌を与えずにこれを共食いさせる。そして最後に残った一匹が蠱としての強い能力を持つようになる。貪欲な生への渇望が、強い呪詛となって蟲の魂に宿るのだ」
己の語るおぞましき内容に、知らずのうちに、九角は顔を顰めていた。
「蠱を作り、それを自在に操る法は代々、その家系に伝えられ、その蟲遣いの家系の者は、持ち筋、または憑きもの筋と呼ばれ、忌み嫌われてきたという」
「そういう事なんだな。あの蜉蝣って女は」
鏡に映したかのように。
ふたりしてしかめっ面となった剣士たちの会話に頷いたのは、実際の声ではなかった。
『その通りだ。――それにしても、あれ程に苛烈な蟲姫を手懐けるとは、見事な人たらしだな』
感心しているような低い男の声。
それは、全員の心に、直接に響いた。
同時に辺りが光に包まれる。
術であれば、高い抵抗力を持つはずの者たちも例外なく、ひとりひとり消えていく。
「これは異界からの……呼び声?」
不思議そうに呟いたのは、自身もまた、世界に対する干渉力を有する常世の唄姫。
危機感もなく、首を傾げたまま消えた彼女の独り言に、最後に残された少年が頷き、それから首を横に振る。
「……ああ。いや、正しくは擬似的な仙境からの召喚か」
仙道士の苦りきった呟きを聞く者は居ない。
苛烈な眼差しで虚空を睨んだまま、彼もまた、ゆっくりと消えていった。
跳ばされた先で、皆がまず見たものは蛍。
「……キレイな所」
呆然と、桜井が呟く。
周囲は先までの湿った洞窟とは全く違っていた。
螢の舞う美しい空間であった。
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