「キレイな所……じゃないよッ!! ここ何処ッ!?」
見惚れた様子で蛍に手を差し伸べていた桜井は、我に返り叫んだ。
懸命に周囲を見回すが、問いに答えられる者はいない。
先程までの湿地とは似ても似つかぬ場所であった。
「うるさい娘だ―――人の家ではもう少し静かにできないのか?」
億劫そうに呟きながら、男が姿を現す。
その低い声が、跳ばされる前に聞こえた囁きと同一であると気付いた龍斗は、常より更に鋭い目つきにて応じる。
「突然転移させられて、静かにできる者も少ないだろう」
「ふむ、確かに。だがお前を含めて幾人かは存在するのだ。全員に求めても罪はあるまい?」
年寄りでもなく、若くもなく。
年齢が読みがたい男が、そこに居た。
落ち着いた表情が醸し出す雰囲気か、はたまた単純に、真っ直ぐな長い黒髪のせいか。
「……奈涸を更に暗くした感じか」
「ああ、なんか分かるな、それ」
正直な感想を洩らした龍斗に、風祭がうんうんと頷いた。
暗いと、直接的に言われた男と、暗に示唆された男が、同時に顔を顰める。
抗議の声を上げたのは、直接的に言われた方だった。
「人の住居に踏み込んできて、いきなり暗いだのなんだのとは――――挨拶だな」
「ひ、人の住居――――? じゃ、ここはおじさんの家なの?」
おじさん呼ばわりの方は、さほど気にならないらしく、男は桜井の言葉に頷いた。
だが、彼は、集団の強制転移に関わる説明は、一切口にしていない。
余程素直な性格の者以外は、警戒を弛めずに男を観察していた。
誰もが押し黙った緊迫した空気の中で、足を踏み出したのは、協力してくれていても、どこかまだ、一歩引いたままであった若き仙道士。
「なるほど、こんな処に隠れていたとは、見つからないはずだ」
ひとり趣きの異なる衣装を纏った少年の姿に、素性を察したのだろう――男は口元を皮肉に歪めた。
「見つけたぞ、崑崙。この仙道士の面汚しめッ!!」
劉が強く詰る。
男の名らしきものを口にして、敵意に満ちた目で。
「俺をその名で呼ぶとは……。何者だ?」
「客家から、お前を追って来た。お前が、崑崙山から盗んだもののために龍脈が乱れ、至る所に影響が出ている。故郷の山も川も、どんどん死に絶えていっている」
仙境より秘術を盗んで逃げた男を追っているのだと、確かに劉から聞いていたな――と、龍斗は今更思い出した。
「なるほど、客家封龍の一族か。くッくッくッ……。そうか、《勾玉》を取り返しにきたという訳か」
「当たり前だッ!! 命が惜しくば、我らが秘宝――――、大人しく返してもらおうッ!!」
因縁は深いらしく、崑崙と呼ばれた男の余裕に対し、劉は厳しい表情で構える。
盛り上がりに、完璧に置いていかれていることを、龍斗は少々寂しく思った。
「貴様を倒して《勾玉》を返――――あ?」
劉の声に顔を上げると、ぽいと無造作に、龍斗の手元へ投げ込まれたものがあった。
構え、密かに氣を高めていた劉が、呆気に取られるほどにあっさりと。
劉の一族の秘宝であるはずの勾玉とやらが、龍斗の手に収まっていた。
「……何だ、いきなり?」
「お前ならば、成し遂げるかもしれない。アレほどに、奴に忠実であった『配下』の心を取り戻したお前だけが」
崑崙の脳裏に浮かんでいたのは、蟲遣いの娘。
ある意味で、柳生に造られた存在である彼女には、忠誠以外の行動は取れないはずであった。柳生でさえも解除できない支配者被支配者の関係を、死に近くなったからとはいえ、龍の宿星を持つ者が断ち切った。
崑崙は、その力に、賭けてみたくなった。
「お前と柳生、どういう関わりだ?」
掌の勾玉を玩びながら、龍斗は視線は崑崙から離すことなく訊ねる。
対して、崑崙は、遠くを見つめながら語りだした。
「柳生――――宗崇」
柳生との関わりを。
自身の罪を。
「奴に野望を植え付けたのが――――俺よ」
この世の理を紐解かんと渇望する仙道士の男が居た。
森羅万象を司る存在を求め世を彷徨ううちに、男は、永遠の生が満ち溢れ、陽の沈まぬ地、崑崙山に辿り着いた。
満ち足りた世界で、楽園のような仙境にて平穏に過ごす内に、男は野望を、自身の渇きを忘れかけていた。
ある祠を偶然に見つけなければ、今でも山に居たままであったかもしれない。
だが、男は見つけてしまったのだ。
祠に隠されていたもの――《龍脈》を司るための鍵である《勾玉》を。
勾玉を盗み出し、海を渡り、無我夢中で逃げ続けた男は、辿り着いた小さき島国でもまた、目的を失った。
何処へ行こうとしていたのか、何を求めていたのか、分からなくなり、精神をすり減らしていた。
何が悲劇を巻き起こしたのか。
あの時、その場を通りかかったのが、崑崙でなければ、瀕死の男の存在にさえ気付けなかったはず。
『何者だ? 隠れていないで出て来い』
誰何に応じ、姿を現した傷だらけの男に、崑崙は呟いた。
『何故、限りある命を無駄にするのか。何故、平穏に生きられぬのか。闘って、何を得ようというのか。人間とは、不可解な生き物よ』
血塗れの男に対し、呆れを洩らさなければ良かったのか。
『ふんッ。国がある限り闘いは起こる。人が生きている限り、その欲望が枯れる事はない』
深く傷ついた男に、言い返せるだけの気力が残ってなければ良かったのか。
諦観と憤怒とが瞳の中で揺れ動く男のことが気になり、崑崙は誰にやられたのかを訊ねてしまった。
兄だという返答に驚愕する崑崙に対し、男は苦笑さえしてみせた。
『親父が死に、俺が目障りになったのだろう。たかが一万石で、血を分けた兄弟を殺そうとするとは、下らぬ欲望よ。我が家も、もう長くない……』
それは二百年以上も前の話。
何かを求め彷徨っていた仙道士は、力を持っていた。
力を求めていた瀕死の男は、明確な目的を持っていた。
『俺が力をやろう。俺が、お前に《力》をやる。《人ならざる力》を――――』
もっと、強い力があれば――と、死の淵でさえ、渇望する男に、何かを見てしまったのか。
崑崙は瀕死の男に――柳生に、仙道の秘術を授けてしまった。
その後に巻き起こるであろう悲劇のことなど考えもせずに。
「何て事を……。お前が、こんな事をしなければ、この国だって、平和だったんだ。一体、どうやって、責任をとるつもりなんだ!?」
劉の非難に、崑崙は龍斗の掌の中を指し、静かな声で答える。
「奴を斃す鍵は《勾玉》が握っている。その《陽之勾玉》を使い、《陰之勾玉》を封じれば――――奴が《龍脈》を制する事はできなくなるだろう」
「つまり端的に言うのならば……俺に事態の収拾を押し付ける気満々ということか」
身も蓋もない龍斗の言葉に、崑崙は、悪びれることもなく頷いた。
自分では、もはや柳生に抗するだけの力がないのだと。
お前の頭上に視える《星》と、蟲姫さえも解放した人たらしの才能に賭けると。
「……あの娘とも、柳生を殺すと約束した。――ついでに《龍脈》もどうにかしよう」
腹立たしげに、だが気負うことはなく、龍斗はあっさりと断言した。
無造作極まりない龍斗の言葉に、それでいい、その心こそがすべてだと、崑崙は頷いて、視線を劉へと移す。
「さて、客家の者よ。《勾玉》の所有者は移動した。お前は俺をどうするのだ?」
「……客家は、代々《龍脈》を護るための使命を帯びている。《勾玉》を取り戻し、元に戻さなければならない。だから――――とりあえずはこいつらにくっついていくさ」
本来の使命から判断すれば、この場で《勾玉》を取り戻し、客家へ戻ることこそが最善。生死も読めぬ柳生との闘いに赴く義理は、彼にはない。
それでも――劉は、最後まで付き合うと決めた。
甘っちょろく、それゆえに真摯な答えに、崑崙は僅かに笑みを見せる。
「そうか……」
「崑崙さんはこの後、どうするの?」
遠慮がちに尋ねる桜井に、崑崙は軽く肩を竦める。
「役目は終わった。もう、この世に留まる必要もない」
「え……? そんな」
崑崙の姿が霞むのは、目の錯覚ではない。
肉体は、とうの昔に朽ち果て、精神だけが、訪れるであろう者を待っていたのだと、彼はゆっくりと薄れながら語った。
「おい、俺たちにどうやって元の場所に戻れというのだ?」
「柳生の居る場所は結界で護られている。一番近くまで送ってやろう」
泣きそうになる桜井とは違い、あくまであっさりとした様子の龍斗に、崑崙は苦笑しながら術式を紡ぐ。
多人数を捕捉し、転移先の座標を設定する。
『俺は、この場所で、これからの世の行く末を見護る事にしよう。お前たちの進む道、お前たちの世界を――――』
崑崙の声なき声が、皆の心に直接届く。
呼ばれた時と同様に、浮遊する感覚に包まれ、意識が僅かに飛ぶ。
「ここは……《不死山》か」
「この山のてっぺんに、柳生 宗崇がいる―――。いよいよって訳かいッ」
開いた視界に飛び込んできたのは、辺り一面の雪。
崑崙は、言葉通りに、洞窟を抜けた先――富士山にまで送ってくれたようであった。
「うう、寒ッ。何とかならないのかよ、この寒さは……ッ」
風もない穏やかな暖かい空間――快適な環境であった崑崙の住む場所に居た身には、雪山の寒さは耐え難かった。
震え、文句を零す風祭に、蓬莱寺は混ぜっ返す。
「ヘヘヘッ、これくらいの寒さで音を上げるとはねェ……、まだまだ修行が足りねェなァ、お坊っちゃんよ」
「誰がお坊ちゃんだッ!! オレは――――――へ、へッくしゅ」
抗弁しかけ、だが、途中でくしゃみをする風祭に、九角は思わず笑う。
「はは、寒いのなんのといっていられるのも、今のうちだけだぞ、澳継。この山の頂へ到着したら、そんなことを感じる余裕は――」
だが、言葉は途切れた。
原因は突如響いた地鳴り――いや、地震か。
「なッ……、この気配は――――」
「雪崩――――ッ!!」
悲鳴が交錯する。
身を隠す時間もない。無慈悲なる雪が、全てを飲み込んでいく。
龍斗が意識を取り戻したとき、周囲に人影はなかった。
瞳を軽く閉じ、気配を探ろうとしたところで、舌打ちして精神の集中を解いた。
『あああああああ〜』
『肉……ダ……。血ノ……匂イダ』
苛立ちの原因は、純白の世界を穢す者たち。
生ある存在に気付き、喰おうと歓喜の声を上げる気味の悪い怨霊たちに対し、龍斗は焦ることも怯えることもなく首を振った。
「貴様らがいるとな――周囲の気配が混じってしまう。ゆえに失せろ」
それは説得ではなく断言。
言葉と共に放たれた氣が、集団の一角を穿つ。
無造作に揮われた力によって、霊核そのものが破壊され、消される。
目の前の人間は、喰われる側の存在ではないのだと、怨霊たちは今になってやっと気付けた。
だが、全ては遅かった。
「ああ、今更逃がさんよ。近くに居られると探索の邪魔なのでな――完全に消え去れ」
辺り一帯が穿たれ、雪がごそりと融ける。
一挙に見晴らしが良くなった状況にて、龍斗はもう一度目を閉じる。
微かに感じ取れたのは、慣れた――大切な気配。
いつもの冷静さなど欠片もなく、弾かれたように龍斗は走り出した。
「おうい……。おうい、こっちじゃ、そこの者――――!!」
相手も気付いたらしく声を上げる。
予想通りの声に、龍斗は更に速度を上げる。
「あ……龍様。助かった。手を貸しておくれ」
「む――――!? いかんな。どこか屋根となりうるものを探そうではないか」
風の湿り具合から、吹雪が近いと読んだ雹の言葉通りに。
巌琉と雹を抱えた龍斗が、よろよろと洞穴に着いてすぐに、外が吹雪く。
「これで凍えることはないだろう」
「ああ、そうじゃな。……あ、その」
奥へ移動し、寒さを凌ぐのに適当な場所にて、薪を集め火をおこす龍斗の姿を、所在なく眺めていた雹は、口ごもりながら話しかけた。
「わらわの傍へ来ぬか? 他人より冷たいわらわの体温も、雪風よりは暖かいぞ。それに――――、そなたがそばに来てくれれば、そなたの体温でわらわも暖かくなれる」
「……あー」
返す言葉に困ったように。
ばりばりと前髪をかきながら言いよどむ龍斗に、雹は顔を曇らせた。
「そのような場合ではないというのか……。すまぬな、龍様。配慮が足りなかっ――なッ!?」
そばどころではなく。
龍斗は雹を背後から抱きすくめて、その細い身体を腕の中に閉じ込めた。
愛しさが限界を超えてしまう――と呟き、即座に赤みを帯びてきた雹の耳元に口付ける。
「雪崩に感謝してしまう。武蔵だの柳生十兵衞だの相手に忙しくて――ふたりきりになれたのは初めてだな」
「な、なな、ナヌを……」
顔を真っ赤に染めてじたばたと暴れようとする雹を、より強く抱きしめて、龍斗はずりずりと移動する。
壁に背が当たったところで止まり、前の雹の身体にきちんと掛かるように上着を被せ、訊ねる。
「この辺りが一番暖かいだろう」
前には火の温かみ、背後には人の暖かみ。
「ああ……そなたは暖かいな」
こくんと素直に頷き、凭れ掛かってきた雹の身体を、龍斗は少しだけ力を込めて抱いた。
溢れる想いのままに抱きしめれば、壊してしまいそうで、気を紛らわせる為に、雹の美しい黒髪を梳く。
「俺も体温が低めだが――ふたりでなら寒くない」
囁きに頷きながら、雹は顔を曇らせた。
「人間とは不便なものじゃな。暑いだの寒いだの苦しいだの痛いだのと、年中騒がねば生きていけん」
抑揚のない呟き。
怪訝そうな龍斗の顔を見ることなく、前を向いたままで雹は言葉を紡ぐ。
「わらわは――人間をやめて人形になれたら、どんなによいかと想っていた」
「雹?」
表情すら消した――いや、押し殺した恋人の顔を、龍斗は覗き込む。
それでもまだ目線を合わせない。
己が両手を見つめたまま、雹の独白は続いた。
まるで罪の告白。鬼の村の教会を訪れ、懺悔する者たちのように。
「苦難や苦痛をその身一杯に抱え込み、それでもなお、それとともに、生きていかねばならぬ。そんなものが人間というものの証であるなら、いっそそれをかなぐり捨てて人形になってしまいたい」
人間への絶望と人形への羨望。
それが、彼女に抜け殻のような日々を送らせた。
「そう分からず屋なことばかり言っていると――手っ取り早い最適な手段で暖め合うぞ」
「最適なとは? ――――こら、止めぬかッ!! 違うのじゃッ!! 想って『いた』と言うたであろうッ!!」
真顔で、かつ、無言での素早い行動。
既に胸元に潜り込んでいた龍斗の手を抓り、雹は慌てて否定する。人形になってしまいたかったのは――過去の話なのだと。
「わらわはそなたを信じた」
不安な心は持ったまま。
朧な記憶を信じて、夢をかき集めて、思い出せた。
愛した男のことを。
人を愛していたことを。
「わらわは今――そなたと同じ人間でいる事の喜びを感じている」
想いを正直に告げた雹は、急激に不安になった。
反応がない。龍斗は今、完璧な無表情となっていた。
「……重かったのならば、忘れておくれ。そなたに嫌われとうないのじゃ」
長らく何も返ってこない状態に、唇を噛み締めて言葉を搾り出す。
嫌われるくらいならば、ただの仲間として見て欲しいと続ける雹に、龍斗は慌てて首を振った。
「ちがう……驚いているだけだ」
ぶんぶんとすさまじい勢いで首を横に振りながらも、表情はないまま。
限界を超えて、感情がついてこないらしい。
何しろ彼は直視してしまったのだ。
頬をほんのりと染め、幸せそうに、満開の笑みを浮かべる雹を。
「美人なお前は見慣れていた。毅然としているのも同じく。だが――あんなにも可愛らしいのは……初めてだったのだから」
「…………う、あ」
直截な表現が頭に染み渡り、雹の顔が火を噴いた。
恋人の愛らしさに余裕を取り戻したのか、今はにやりと笑いを浮かべた龍斗が、雹の耳元で囁く。
「寒いな。やはり――最適な手段で暖め合うか」
「待……あ、ああ。……じゃが、うむ……やはり……むぅ」
即座に断ろうとした雹は、別段断る理由もないことに気付いた。想いはとうに確かめ合ったのだし、そもそも、嘗ては、そういう関係にあったのだ。
だが矢張り恥ずかしく、悩み込んでしまう。
思考の迷宮を巡り巡って結論を出した雹は、首を横に振った。
「どうも……最中に、皆が探しにきてくれるような気がするのじゃ」
「確かに喜劇としてはありがちだ……仕方ない。我慢しよう」
残念そうに、偉そうに、龍斗は頷いた。
「行為自体は見られて困るものでもないが、雹の身体が他の男に見られるのは、勿体ないからな」
「行為自体、見られて困るわッ!! どうしてそなたは常識をどこかに投げ捨てているのだッ!!」
龍斗の両の頬を掴み、持ちうる限りの力でもって引っ張る雹であったが、飄々とした男は少しも堪えない。
「前を向け。俺に身体ごと凭れた方が寝やすい」
笑顔のままの龍斗の頬を勢いよく離し、雹は、ぷいと前を向く。
不機嫌なまま、だが、龍斗の指示には従い、胸に寄りかかる。
「ゆっくりと眠れ」
からかわれたことへの報復に、雹は応じずに瞳を閉じた。
暖かさと暗闇とに、睡魔は予想より早く訪れた。
龍斗に何かを言う余裕もなく、意識が途切れる。
「今度こそ――お前は俺が守る」
眠りに落ちる寸前に、雹は、龍斗の声を聞いた気がした。
いつも、いつでもふざけているくせに。今だけは、真摯に、誓うかのように、優しい声で。
何時の間にか、ふたりして眠ってしまったのだろう。
朝の光に、雹は目を開ける。
今もまだ龍斗の腕の中に居ることに気付き、わたわたと慌てるが、反応はなかった。
「……龍様? まだ眠っておるのか」
振り向いた雹は、目を閉じたままの龍斗を間近から直視してしまい、顔を赤らめる。
龍斗は、整っているが、険のあるきつい顔立ちをしている。
だが、今は無防備に、穏やかに、眠っている。
血の気は薄く、不安に思うほどに静かなまま。
微かに聞こえる呼吸音だけが、彼が生きていることの証だった。
不意に、九桐から聞いた話を思い出した雹は、龍斗の長い前髪をそっと分けた。
話の通り。
残ったままの酷い刀傷を、まじまじと見つめる。
『身体が、心が、俺の意思が残している。あの無念を、痛みを、想いを――決して忘れることがないように』
まだ正体が知れぬ頃――鬼道衆が、忘れたままであった頃に、九桐の問いに、龍斗はそう答えたのだという。
「なんという――酷い傷じゃ」
血は流れ出してはいない。
だが、まるで負ったばかりの傷のように、深く抉れへこんだまま。赤い肉が見えている。
「もう要らぬであろうに」
癒し手が、幾度か治そうとはしたらしい。
だが、龍斗は断固として拒み、ならば実力行使をと複数に囲まれようとも逃げきった。
眠りの中ならばどうだ――と寝込みを襲った者たちも、野の獣の如く鋭く反応し、即座に消え去った龍斗の前に、流石に諦めたという。
「なぜ……わらわには、癒しの力がないのかのう」
折角、目の前で、無防備のままの龍斗がいるのに。
いつまでも、こんな傷を抱えて欲しいはずがないのに。
雹には癒す力がない。
「……龍様」
何かを意図していたわけではなかった。
ただの衝動のまま、動いていた。
赤黒い傷に、唇を近付け口付ける。
それでも反応のない寝顔に勇気付けられた雹は、恐る恐る舌を出し、獣のように、傷の端をそっと舐める。
治りきらぬ傷口を舐められる――それはただ痛いだけの筈なのに。
傷が僅かに、だが、確かに薄れた。
「消え……た?」
はじめは、おずおずと。
傷が確かに消えていくと分かってからは、段々と大胆に強く。
一心不乱に続けていた雹は、いつの間にか龍斗の目が開いていることに気付き、動きが止まった。
「……雹」
固まった雹の名を、龍斗は呆れたように呼ぶ。
「龍様ッ!? これは、その、あの。あ……傷がな……い?」
今では薄い傷跡が残るのみ。
そこに傷が在ったと知らなければ、跡にも気付けないほどに。
「元々、憎しみで無理に残していた傷だ。……お前にそこまでされては、憤怒を保てんよ」
慣れきった、ぐじぐじとした痛みが、完全に消えていた。
触っても最早自分では分からぬ傷跡の辺りを触りながら、龍斗は深々と溜息を吐いた。
ただの傷ではなかった。
誓いであった。呪いであった。忘れぬ為の痛みであった。
それが、癒えてしまった。消えてしまった。
「……よかった」
衝撃に、龍斗は息を呑んだ。
額の傷跡を撫で、感極まったように頬擦りし、抱きしめる雹に、言葉を失う。返すべき反応が分からない。
「良かった。……良かった。本当に良かった」
雹は泣いていた。
雹は笑っていた。
泣きながら、笑いながら、微かに残る傷跡に、もう一度口付ける。
「そなただけが、いつまでも苦しみを負い続けることはないのじゃ」
涙を滲ませながらの笑顔に、龍斗はぼそりと呟いた。
「もう無理だ」
雹に、聞き返す余裕はなかった。
一瞬後には、優しく、だがしかと組み敷かれていた。
「この時空では、まだお前を抱いていなかったな」
「や、止め――ん、ぁッ、今は、それどころでは……くぅ、あ……ん」
制止する声が、甘い悲鳴に変わる。
時間と状況を考えず、全力で前へ疾走しようとした龍斗を止めたのは、遠くから聞こえる声であった。
「お―――いッ!! 龍斗―――ッ!!」
「雹―――ッ!! どこだ―――ッ!?」
仲間の呼び声。
頼もしい救援の出現に、龍斗はぎりぎりと歯を食いしばり、血の涙を流さんばかりに悔やんだ。
「なぜ、今来るのだッ!? ええい……もう一度、雪崩で流すか」
「止めぬかッ!! さっさと退けいッ!!」
圧し掛かっていた男の首を、ごきりと音が鳴るほど強く押し上げて、雹は下から逃げ出した。
「ここじゃ。今すぐに、そちらへ行く!!」
応答の言外に、来るなと含ませ、手早く衣を纏い支度する白い背中を、龍斗は捻った首を擦りつつ、心底惜しみ、眺めていた。
隠されてしまった胸やへそを、しつこいほどに明瞭に目に焼きつける。
こういう場合でも、『はじめて』扱いになるのだよな――と阿呆な感想を抱き、ひとり頷いた。
「ふむ。これはこれで、生き残る為の良い未練かもしれぬな」
「……うつけ」
ぼそりと呟くと、身支度を整えた雹は巌琉を起動し、定位置である肩に乗る。
愚か者のことなど知らぬわ――と振り返りもせず、ずしんずしんと重々しい音を立てながら、先に洞穴を出て行く。
「柳生を完全に斃し終えるまで、わらわは待っているぞ」
但し、耳まで赤く染めながら、一言だけを残して。
「くくく……ははは」
消えてしまった傷に触れながら、龍斗は笑う。
生き延びる為の楔。
柳生倒したら消すつもりであった痛み。
それは、雹によって消されてしまった。
だが、新たな楔を生みつけられた。
愛しい――愛しすぎる女を、まだ抱いていない。
こんな未練は大きすぎる。
「余程死に切れん」
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