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Maria Blanka1


「ねぇ、抱いてくれない?」
「随分といきなりですね」

夜の新宿の裏道という物騒な場所で、突然見知らぬ女に抱きつかれた。

青年は、そんな特殊な状況にも動揺せず、平然と答えた。

女は二十七歳程度だろうか。

濡れたような瞳、艶やかな唇、均整のとれた肢体。
美しく、そして妖艶な女だった。

もっとも特徴的なのは、その髪と瞳の色。純白の髪に、紅の瞳。

青年の方は、二十一、二か。
長身で、淡い茶の髪に鳶色の瞳。秀麗な顔立ち。

色素の薄い青年と、色素のない女。
ふたり並ぶさまは、絵のように美しかった。

「申し訳ないが、厄介事は嫌いなので」

青年は、そんな極上の女にも反応を示さず、あっさりと言い捨て去ろうとする。
途端に女の瞳には狂的な光が宿り、解放しようとしない。抱きしめる腕に女とは思えぬ力が込められ、瞳には涙が滲んだ。

「お願い。少しの間でいいのよ」

狂っているのだと、青年は看破した。
ほぼ正常のように見える。が、薬物か教育か……この女は、性的に歪められている。

そんな女について行けば、厄介事が待っていることは、わかりきっていた。
だが、どういう気まぐれか、同情か、彼は女の後を追った。


「シャワーとかはいいんですか?」

変わらず緊迫感もなく、特にやる気もなさそうに、青年が尋ねる。
普通とは思えない、まともであれば、落ち着いてなどいられない、豪華なマンションの最上階の女の部屋で。

「貴方が先に入る?」

女のいたずらっぽい微笑みに、彼も同じ微笑を浮かべて答える。

「後がいいです」


そのままベッドに腰をかけ待っていると、青年の鋭い感覚は、いくつかの凶悪な気配を感じとった。暴力への期待に震える、劣悪な感情を。

やはり……と、少し笑いたくなる。あまりにも典型的な展開に。


「どうぞ」

長々と待たせることはなく、バスタオル一枚を纏った女が、現れ微笑んだ。
上気した肌や、形のいい太腿が艶かしい。

「ども」



青年は、外の気配には頓着をせずに、シャワーを浴びる。
シャワー中に、案の定というべきか、先刻の気配の持ち主たちが、部屋に入ってくるのを感じとれたので、彼は、服を着て慌てずに出て行った。


「人の女に手を出して、どういう了見だぁッ」

やはり、典型的な美人局だったようだ。
青年が裸でないことに、やや驚いたようだったが、脱衣所から出た瞬間から、出来損ないのヤクザもどき三人は、お約束の台詞を口々に騒ぎ立てる。

内心呆れながらも、怯えた表情で聞いていた青年の視界に、女の顔が入った。

腫れた頬は、相当な力で殴られたらしく、口から血が出ている。
なのに、浮かべた表情は、虚無そのものだった。頬に手を当てることすらしていない。
もう慣れ、疲れきっているのだろう。人に殴られる事も。男を誘う事も。

虚無と諦観。そのさまが、彼にある少女を思い出させた。
兄のいいなりで生きていた、哀れな少女のことを。

「聞いてンのかぁ、あぁ?」

チンピラは、青年の胸倉を掴み、揺さぶろうとした。
脅えて黙っている相手を恫喝する。本来ならば、手慣れた行為だった。

だが、その日の相手は根本から違った。

「ギャアァッ!!」

チンピラの絶叫が響く。


青年は、チンピラの手首を握っていた。
それだけのこと。さして力を込めているようには、見えなかった。


「はな……頼む、やめッ」

相手の必死の哀願など意に介さず、彼は握り続ける。


そう待つこともなく、バキッという嫌な音が、響いた。

「あが ぐ が」

激痛に、言葉にならない。
涙と涎を垂らしながら、転げまわる男を、青年はしばし眺めていた。
涙の溢れる怯えた目にて見上げてきた男が何かを言おうと口を開いた瞬間に、顔面無造作に蹴りつけて、黙らせる。

血飛沫が霧のように舞う。スプレーで噴射したか如く広がったそれを、彼は数歩下がって避けた。返り血すら浴びぬよう振舞う相手が、こういった事態に慣れていることに気付き、残った男達は、やっと緊張感を取り戻した。

だが、それすら無駄であった。

「運がいいな……私をここまで苛立たせる出来事は、滅多にないぞ」

静かに呟いた青年は、無表情とその所業とがあいまって、まさに悪魔そのものだった。


男たちは、今頃やっと気付けた。
手を出すべきではなかったと。今や贄は自分達の方なのだ、と。

それでも、残ったふたりの、ナイフを取り出し構えた根性だけは、見上げたモノだった。
残念ながら、その判断は間違っていたが。

青年には、追うほどの積極性はなかったのに。
そして、向かってくる者を許すつもりは、欠片もなかったのに。


蹴り一閃

それだけで、一人目のナイフを持つ手首を砕き、その足を薙ぐようにして背中を蹴りつけ、床に叩きつける。
そして、そのナイフで、男の左手を床に縫い付ける。
骨の隙間を縫うのではなく、わざわざ神経も骨も通すように、刃を横にして。

「ぎゃああああああ」

更に、柄を踏みつけて深く貫く。

軽く蹴り、傷を広げることも忘れない。
男に許される行為は、悲鳴を上げることだけであった。

ナイフを抜こうにも、右手の手首は完全に折れていて、力を入れることもかなわない。


最後の男は、涙さえ浮かべて青年を凝視している。
恐怖のあまり、逃げることも考えられないらしい。

「あ、……あ」
「もう抵抗は無し……ですか? つまらない」

言葉が終わる頃には、男は壁に叩きつけられていた。
既に意識が飛びかけたが、壁に張付けられた右腕の激痛に、ほどなく覚醒させられる。

彼の右手は、自分の持っていたナイフで壁に縫い付けられていた。

あとは、ひたすらに蹴りが叩きこまれる。
痛みが大きく、しかし、致命傷にはならない場所を選んで。痛む箇所が十を越え、いつ何処に蹴りを喰らったのか分からぬほどに、全ての箇所が常に激痛となったところで、男は幸運にも気を失った。


「終わった? じゃあ抱いて…」

三人を瞬く間に、容赦なく叩きのめした青年に、女は嫣然と笑い、すりよった。演技ではなく、本気で欲情した目であった。
おそらくは暴力と血に、そう反応するように、『設定』されているのだろう。

「お願いよ」

青年の本性を知るものなら、奇跡と驚いたであろう。
事情も全ての面倒事も察した上で、同情からではあったが、彼はこの厄介極まりない女を抱く事を選択した。

「ちょっと待っててください」

にっこりと微笑むと、まだ唯一意識のある者――床に縫い付けられていた男の後頭部に、足をのせて、床へと叩きつけた。


「見られながら燃える性質でもないもので」

呻き声すらあげずに崩れおちる男には目もくれず、青年は女を抱き上げて、ベッドへ降ろした。
唯一残されていたバスタオルをとると、予想通りの身体が出てきた。

豊かな胸と腰、引き締まったウエスト――理想のラインを描く姿態。
そして胸元から下腹部にかけて、黒く見えるほどの内出血による痣が、いくつも密集していた。

そこまで予想通り。
アルビノは、軽くぶつけただけでも痣になるという。しかしここまでくると、結構な力で打撃を受けた痕としか思えなかった。



青年は、ほんのわずかだが、眉を顰めた。無意味に、他者を傷つけるだけの人間たちに、嫌悪を覚える。
動きの止まった青年に対し、女は不思議そうに首を傾げ尋ねる。

「どうしたの?」

今まで彼女を組み敷いてきた男達は、この傷を見てもなんとも思わず行為を続けたのだろう。いや、むしろ新たに付け加えてきたのかもしれない。

「いえ、なんでも」

青年は優しい笑みで応じ、軽くくちづけをしながら、両手で優しくゆっくりと乳房を揉む。
掌から、わずかに気を放出し、少しでも女の痣を薄くしようと試みる。

女の高まる喘ぎを聴きながら、青年は、手を、舌を動かし続ける。

「あ……ん……あぁ」

しがみつく女の首筋に舌を這わせ、ひときわ高く鳴かせる。
片手が腹部を伝わり、両足の間へおりていく。

そこが充分に潤っている事を確認すると、ゴムを取り出して、自然な動作で装着する。
この辺り、青年の性格が、よく表れていた。



いったん突き入れれば、女が絶頂に達するまで、そう長くはかからなかった。



緩やかに起き上がった女は、半身を起こして髪をかきあげた。
服を来ている最中の青年の背中に、声をかける。

「ありがとう。でもアレはどうするの?」

彼女が示すのは、未だ気を失ったままの三下たち。
身動ぎすらしないそれを、蔑んだ目で眺めて、青年は答える。

「始末の当てはあります。……もう、大丈夫なのですか?」
「ええ、もう平気。大丈夫じゃないのは、あなたの方。私を飼っているのは、暴力団の跡取よ。早く逃げた方がいいわ」

女は理性の戻った目で、忠告する。
淀んだ色は、もう存在しない。

「こんな低レベルのを置いておいて?」

呆れ返った青年の言葉に、女は眉を顰めて頷く。
あいつは狂ってるのよ――と、暗い声で己の境遇を語りだす。

「私が誰かに抱かれたことを、責めるのが好きなの。構成員でさえない下っ端に、手を出させて。そして、こいつらは小遣い稼ぎと、破壊衝動の解消を兼ねて、私に美人局をさせるわけ」

そして吐き捨てるように続ける。

「私は、暴力を振るわれれば、欲情するように調教されているから。ただ……殴ればいいんだもの」

しばらく対応について考え込んだ青年は、面を上げて女の様子を観察する。
それから、長々と溜息を吐いて、苦々しく訊ねる。

「欲情中に幼児退行しているのは、防衛本能なんですね。このままじゃマジ狂いますよ。逃げます?」

女は、乾いた笑みを浮かべた。
先程までのとろんとした受け答えからは想像できないほどに、苦渋に満ちていた。

「どうやって? 私、戸籍も無いのよ。四歳のときにあいつに買われたの。ねえ、信じられる? その時の飼主は、まだ十二歳だったのよ。そんな子供が、あれが珍しい色をしてるから飼いたいって、自分で決めたのよ」

人身売買。そんなことを有り得ないと断じるには、青年は世の暗部をいくらか見知っていた。
女の悲劇は、売られるほど不幸な環境にて、美しすぎる容姿を得たところから始まっていたのかもしれない。

「すぐに殴られるようになって、八歳から犯されて。ずっとこんな生活なのよ」
「確かに信じられない。……それでも、そいつが好きなのですか?」

首を振り、青年は静かに問うた。
嫌悪と恐怖と――そして、信じ難い事に、狂おしいまでの想いが、女の瞳には存在した。

問いに、女はたっぷりと沈黙してから、小さく答えた。

「そう思わないと、生きていけないのよ。どうせ逃げられないなら、愛するしかないの。数少ない大切にされた記憶だけ、繰り返し思いだして」


大切にされた記憶。
おそらくは一回。せいぜいが数回だろうに。
酷い扱いを受ける度に、その記憶を反芻して正気を保つ。今の彼女の状態は、綱渡りよりも危うい。一本の細い糸の上で、もう歩む事も出来ず、震えながらしがみついているに過ぎない。精神の均衡は、とうにぐらつき、わずかな細い糸が切れるまで、そうは保つまい。


「また、来ても良いですか? せめて、身体の傷だけでも癒したい」

帰り際、三下連中を持って、青年は言った。
他者への心配りなど、皆無に等しい青年には珍しいことに、本当に心からの言葉であった。

「ええ、ありがとう。強い人は優しいのね。ううん、優しい人が強いのかしら」

微笑む女の言葉が、青年に心に引っかかる。
優しい相手に、彼女がまっとうな手段で触れ合えるはずがない。

あるとすれば、美人局の被害者。
いや、己と同じと考えれば、傷害の加害者か。

青年の怪訝な表情に気付き、女は屈託無く言葉を続ける。

「この前も、同じようなことがあって、ある人が、一番嫌な奴を、殺してくれたの。その人もすごく優しかったのよ」

青年は、今頃気付いた。
連中を半殺しにする彼を、女が全く恐れなかったことに。

一般的な善悪を、教えられていないということだ。四歳から監禁され続けているのだから、当然と言えば、当然の話なのだが。おそらく一般常識にも、かなり欠けることだろう。

また『優しい人』の説明に、青年はなんだか嫌な予感を覚えたのだが、あえて今は気にしない事にしておいた。

「血だけ拭いておいて下さいね。そうすれば、知らないって言えばOKですよ」

平然と告げると、彼は瀕死の三人の足を持って歩き出す。ずるずると引きずったままで。

「はーい。あ、そういえば、あなたはなんていう名前なの? 私は碓氷。へんな洒落みたいでしょ」

「綺麗な名ですね」

本名を名乗るべきではない事ぐらい、青年にはわかっていた。
それでも、彼は微笑んで応えた。

「私は、龍麻です」


マンションを出たところで、青年は、荷物達を投げ出した。
彼は、男達を一瞥して、携帯を取り出した。
何処かへと掛け、軽い口調で話していた。

「あ、ミサちゃん? 遅くにごめん。こないだ精神操作の実験、したがってたじゃん? 三人狂わせたいのがいるから、思う存分いじって欲しいんだ。で、最後に狂わせて。そうすれば、あとで俺が捨てるから。……そう? さんきゅー。持ってくのは、学校でよい? ……わかった。じゃ、今から持ってくね」

物騒かつ恐ろしい内容を。
親しい人間にしかわからぬ程度であったが、笑みの中凄惨な光を宿しながら。