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Maria Blanka


閨にて穏やかに目を閉じる青年に、白髪の女が微笑み、もたれかかった。
男の前髪を軽く撫でながら、優しく声をかける。

「ねぇ、まーくん」

まどろみかけていた青年が、感触と声に目を覚ます。

「碓氷?」
「ふふふ。あのね……名前をつけて。違う名で呼んでほしいの。だって碓氷は、あの男が勝手につけた呼び名だから」

青年は、軽く頭を捻った。

「名前ねぇ。――だって私、ネーミングセンスないですよ」
「それでもいいの」

くすくすと楽しそうに女は笑う。
女の笑顔を、まじまじと見つめていた青年は、少し考えてから口を開いた。

「うーん……紅とか? そのまんまかな?」
「ふふふ、全く同じこといった」

女の顔に浮かぶのは、童女の如き微笑。心底楽しそうに、ころころと笑む様に、青年は首を傾げる。確かに彼女の印象そのまんまではあったが、笑われるほど妙なことを口にしたとは思わなかった。

「ネーミングセンスがないってところから紅って名まで、あの人と同じ。絶対仲良くなれると思うな」

そういうことか――と、青年は黙り込んだ。『あの人』とは前にも聞いた人物。彼の他にも存在した、美人局の末に連中を殺したという男。彼もまた、時折此処へ通っているとは聞いていた。

……普通、女性を共有する男同士が、仲良くできるか?
答えは……否だろう。

「いや、普通の男の人は、嫌がりますよ。同じ女性と関係を持つのって」
「そうなの? へぇー、わかった。じゃあ、もうあまり言わないようにするわ。でね、これからは、私のことは紅って呼んでね」

紅はそう言って、青年に軽くキスをして、立ち上がった。
その見事な裸身に、青年は目を細めた。彼女の身体に常にあった痣は、大分薄れてきている。

青年や『あの人』が、訪れるたびに三下の記憶操作なり『教育』なりをしているからだろう。
洗脳も、徐々にとはいえ、弱まっている。

彼らがはじめて会ったときに、腰まであった白の髪は、彼女自身の意思で、肩の辺りで切ってしまった。

儚げで妖艶な印象も薄れて、凛とした美貌になりつつある。
このままならば、普通の生活に戻れる時も、そう遠くはないかもしれない。



目が覚めてしまったらしい青年は、しばらくはもそもそと蠢いていたが、やがて諦めたのか半身を起こし、煙草を取り出した。
しばらくは、心ここにあらずといった風情で、煙草をふかしていた。

「まーくん」

紅は、青年に背後からぺたりと抱きついた。
呆としていた意識を取り戻し、青年は首を捻じ曲げて背後を見遣る。

「何スか?」
「なにかあった? 今日はいつもと違う感じがしたわ」

彼女の瞳は心配そうに細められていた。抱きつく腕の力も、かなり強い。
青年は彼女の鋭さに、舌を巻いた。確かに、彼にはここ数日、心配事があった。

「ちょっと友人がひとり行方不明になってまして。見た目の割に小心者なんで、心配なんですよ」
「そう。でも大丈夫よ。あなたの友達だもの」

そう言って、彼女は『まーくん』 ―― 緋勇龍麻を正面から抱きしめた。
そして、彼の頭をあやすようにゆっくりと撫でる。
しばらくは、されるがままでいた緋勇は、辛そうに口を開いた。

「紅」
「なに?」

緋勇は真剣な表情になって、彼女をみつめた。

「これは、愛とやらじゃないんでしょう。同情が一番近いんだと思います。でも私は、あなたが好きです。幸せになって欲しいです。こんな所さっさと逃げましょう。戸籍なんかどうにでも……」
「ありがとう。でもね」

愛してるの。

緋勇の言葉を遮って、紅は微笑む。強がりでも、強迫観念でもない。気負いの感じられない、自然な言葉。

彼女は、気付いてしまった。
己を虐げ続けた最低の男への想いを。精神が、正気に戻りつつあるからこそ。

それこそ愛ではないだろう。逃避でも刷り込みでも、心理学の事象を辿れば、説明がつきそうな、己を護るために育てた考え。
だが、彼女は、愛と信じた。


既に何度も繰り返された問答なのだろう。
緋勇は、疲れたようにため息をつき、それでも続けた。

「殺される可能性だってあるんですよ」
「ええ。わかってる。でも、彼は、私が居なくなったら、きっと狂うから。側にいなくちゃ」

浮かんだ表情は、慈愛・優しさ。そういったもの。

「あー、もう。どうしてそんな奴を……。ともかく、ちょっとしばらくは来られないので、本当に気を付けて下さいよ」
「わかったわ。ありがと」


ピンポーン

「はい?」

チャイムの音にいそいそと、紅は出た。
きちんとチャイムを鳴らすのは、たったふたりに限られていたから。

楽しそうに出てしまった。


にやり――と笑う男がいた。

そこにいたのは、西香 徹哉。とある組織の跡取で――『碓氷』の飼い主だった。



「なぁ、碓氷。なんで俺を裏切るんだよ。どうしてだよッ!」

激昂しながら、西香は、彼女を殴り続ける。儚く美しい顔を、なんの加減もせずに。
それなりに整っているはずの顔を、醜く歪めながら。

「お前が、俺以外の者に優しく触れられるなんて、愛されるなんて許さない」

お前は、俺だけの……

正気の組員ふたりは、寒気がした。
これが、あの切れ者の跡取りの、真の姿かと。
妄執に目を光らせ、女を力いっぱい殴りつけるこの男と、表の事業を着実に伸ばし、実業家の如く振舞っている彼とは、本当に同一人物なのか、と。

女の運命は、既に決まっている。
正気をふたり、そして薬物中毒者を三人、連れてきたのだ。

させることは、おそらく―――実行と後始末。



彼女は本当に、運が悪かった。
ここ数ヶ月、彼女を癒し、護ってくれたふたりが、今現われる事は決してない。

なぜなら、緋勇は結界に封じられた新宿中央公園にて、無限に現われる鬼と闘っていたから。
そしてもうひとりは、その結界を張り、虎を堕とすための罠を構築していたから。


「……碓氷。間男はどこのどいつだ。それを白状すれば、お前は助けてやるよ」

西香は、碓氷の髪を掴んで、半身を起こさせ問い詰める。
鬼のような形相とは、これのことだろう。目は血走り吊り上り、口元は歪んでいる。

愛と呼ぶには、あまりにも狂った情念であった。


碓氷は、吹っ切れたように微笑んだ。
彼とは二十年以上の付き合いがある。初めて抱かれたのすら、もう二十年も昔の事。

彼は、常に演じてきた。父に、組に求められた冷静で頭の切れる跡取という役を。本当は短気なのに。気が小さかったのに。
だから反動があると、こうやって彼女にあたった。

優しくされたのは、たったの二回。彼の父が再婚した時と、彼が親の用意した妻と結婚させられたときと。

散々殴られて、そして、その後、彼は泣きながら謝った。こんなことをするつもりじゃなかったと。すまないと。俺はお前にしか心を見せられないのだと。

そのことを緋勇に話したとき、彼は眉を顰めた。

『己で傷付けて謝るなど、欺瞞にすらならない。まさか、その二回だけが優しくされた記憶とか言いませんよね』

その時だけよと答えたら、なんともいえない顔で、やっぱり逃げましょうと言ってくれた。
もうひとりに話したときは、凄かった。押し黙り、たった一言『殺させろ』とだけ呟いた。荒れた機嫌を宥めるのは大変だった。

彼らが正しい。この男は凶悪に狂っている。
そして、今回は謝られないだろう。

だって、きっと自分は殺される。

全てを分かった上で、紅は微笑み、男の瞳を見つめて告げる。

「可哀想な人。私が愛しているのは、貴方だけなのに」

こんなにも愛しているのに。

マリア・ブランカ――純白の聖母。
そんな言葉が自然と男達の脳裏に浮かぶほどに、それは無垢で優しく凛々しく、そして哀しい微笑みであった。

西香は無表情に、立ち上がる。

「タイムオーバーだ。やっちまえ。お前らはちゃんと始末しろよ」

正気を失ったものたちをけしかけ、組員たちには冷たく命じる。
彼らが頷いたことを確認し、最後にもう一度、長い間付き合った愛玩人形に視線を向ける。


「あばよ。碓氷」

「さようなら、私の愛しい人。徹哉―――愛してるわ」

暖かな声にもふりかえらずに、西香は出ていった。

信じたくなかったから。
人形が己の意思を持った事を。

信じられなかったから。
その上で、彼を愛すると微笑った女が。