『ゲーム脳の恐怖』著者森昭雄氏への質問メール
2002 Sep. 6

ポケモンのほしのや別館トップに戻る
ポケモン座談会に戻る
『ゲーム脳の恐怖』批判トップに戻る

1,挨拶
2,第一の疑問,「ゲームをすること」と「よくない脳波特性」との関連
3,第二の疑問,「ゲームをする」と「よくない脳波特性」が出るという因果関係
4,第三の疑問,「よくない脳波特性」の,何が一体「よくない」のか
5,結語




 初めまして。
 『ゲーム脳の恐怖』の巻末にメールアドレスがありましたので,著者森昭雄先生自身にこのメールをご覧頂けるものとして,読後疑問に思った点をお尋ねさせていただきます。


 まず出発点として,「テレビゲームは,脳の活動にとって好ましくない影響を与える」のではないか,との予測を立てて,それに科学的根拠を見出し,検証するための研究を進めるという方針には,感覚的に共感できます。その共感できる原因はきっと,「新しいものについては誰しもとかく不安を覚えるものだから,確かめてみたくなる」というシンプルな感情だろうと思っています。
 しかし,この本に記述された内容によって,「その予測が立証された」と結論付けることには,大きな飛躍を感じます。
 先生のさまざまな実験,観察にもかかわらず,最初の予測は猶科学的根拠のない予測という単なる「思いつき」のまま,作業仮説の域を一歩も出ずにいるのではないかと思っています。


 第一の疑問です。まず,いろいろな人間活動の中でもテレビゲームをすることが特に脳によくない,とする根拠が説得的に示されていないと思いました。
 そもそも先生が「テレビゲームが脳によくない」と思いついた最初のきっかけが,ソフト開発スタッフが示した脳波特性だとのことです。そのことからして既に,前頭葉前野の「ベータ波低下」という「よくない脳波特性」を引起す活動は,ゲームだけではないはずだと考えられます。他にも,遊びにせよ仕事にせよ勉強にせよ,いろいろな活動における脳波測定を多様な角度から比較し,その結果ある特定の「よくない」脳波特性が「テレビゲームを毎日長時間継続的にプレイする」ことと関連ある場合に顕著に観察されるというデータを集めて,初めて,「ゲームはよくない」ということが結論付けられるはずではないでしょうか。もしそうではなく,他にもいろいろな「よい」活動においても「ベータ波低下」が観察されるのだとしたなら,「ベータ波低下」を根拠に「テレビゲームは脳によくない」と結論することはできなくなってしまうはずだと思います。例えば,ソロバンの練習などはどうでしょうか。一生懸命「判断」して「緊張」しているのは,習いたての初心者でしょう。上手くなればなるほど,数字が目に入るとたんに「判断」も「緊張」もなく指が動いているのではないかと想像されます。楽器の演奏や編物にも,単純な動作が「判断」を経ずに繰返される似たような状況を想像できます。さらに,単語や年表,元素表などを暗記する「勉強」も,繰返すことによってだんだん眠くなってくるものだという経験があります。そうしたものについては,脳波はどのような特性を示しているのか,とても興味があります。スポーツにしても,「判断」して体を動かしているのは初心者ではないでしょうか。状況に応じて「自然と」体が動くようでなければ,その技能が身についていることにはならないと思います。そうして身についたスポーツをしているときの脳波特性はどうなっているのでしょう。もしそのような活動でも「ベータ波低下」が生ずる場合があるのだとしたら,「単語を覚えさせることは脳によくない」,「上達するまでスポーツをするのは脳によくない」ということになってしまいはしないでしょうか。しかし,本書にはそのような多様な活動での脳波測定データは示されていませんでした。
 ここで仮に,危険なのはテレビゲームそのものではなく,テレビゲームに「夢中になる」ことだとするなら,では他のことに「夢中になる」のはどうなのか,という疑問が当然出てきます。それは,もちろん受験勉強や,先生がとても「よい」こととして勧める「体を動かす」スポーツや「お手玉」についても同様です。毎日毎日5時間も6時間もお手玉の練習やサッカーのドリブル練習をやりつづけた子供の脳は,お手玉やサッカーをするとき,またしていないときに,どのような脳波特性を示すものなのでしょうか。ソロバンや編物,単語の暗記にしてもそうです。常識的に考えてみると,「テレビゲームが危険」というよりも,「同じことばかり毎日長時繰返しているのは危険」という結論の方が,感覚的には遥かに強くうなずけるのではないかと思っています。これはつまり,問題は「ビジュアル」かどうかなどという「遊び道具」の特性の方にあるのではなく,「遊び方」の方にあるのだ,という仮説の方が,感覚的には首肯しやすいということだと思います。その「感覚」的な結論を覆す「科学」的な結論を示すには,しっかりした「科学」的根拠が必要になるはずです。
 さらに別の想像を加えて,「テレビゲームそのものというより,テレビゲームに夢中になることがよくない。ただ,テレビゲームには,他の遊びやスポーツと違い,つい夢中になって漫然と繰返してしまう特性がある点がよくない」という仮説を立ててみると,これはかなり説得的かもしれないと思います。しかし,本書でそうした仮説が唱えられているわけでもありませんし,そのような仮説を「科学」的に立証するようなデータが示されているわけでもありません。
 本書では,テレビゲーム以外の活動についてのデータは,「十円玉立て」や「お手玉」についてのものが示されています。もちろん,それだけのバリエーションで,いろいろな人間活動の中でもテレビゲームはよくない,とする「科学的根拠」になるものとは思えません。なによりもそのデータは,「十円玉立て」や「お手玉」がある程度上手になって,「判断」をしなくても自然と手が動くようないわば「剣道有段者」の域になったものについてのデータではありませんでした。本書で紹介されたそれらのデータが,「それまでほとんどやったこともない活動をするときにはベータ波が高くなる」と理解できるものだとしたら,それはテレビゲームをしたことのない人がテレビゲームをしたときに「ノーマル」な脳波特性を示すのと同じ機序のものと考えられることなのではないでしょうか。
 先生が予測する「テレビゲームは脳によくないが,お手玉は脳によい」という結論を裏付けようとするのなら,小さい頃から毎日数時間お手玉を繰り返してきた人多数について,お手玉をしているときの脳波特性を調べて,テレビゲームの場合と比較するのが「科学的」な検証ではないかと思います。仮にそういうデータを取ってみたところ,お手玉の習慣で育った人の脳波が,やはり「ベータ波低下」を示す「お手玉脳」になっているとしたなら,悪いのは「テレビゲームをする」ことではなく,「同じことを長年に亘って毎日長時間繰返しつづける」ことであるという結論の方が説得的になるのではないでしょうか。逆に,そのデータによって,お手玉の習慣で育っても「ベータ波低下」は見られない,ということが示されたなら,そのとき初めて,「テレビゲームをする」ことがよくないのだと結論できるのではないでしょうか。そうしたデータがない以上,「テレビゲームは『ベータ波低下』を来たし,お手玉は『ベータ波上昇』を来たす」ということは根拠付けられないはずだと思います。本書が示すデータを拠り所とするなら,「お手玉」が脳によいのではなく,それまであまりやったことのないことをすることが脳によいのだ,という結論も,データから結論付けられるありうべき命題として維持するのが論理的だと思います。
 また,先生はテレビゲームをされないそうですが,テレビゲームにはいろいろなものがあり,それをプレイする際の脳の活動もゲームの種類だけ多様であるのではないかと思います。4種類や5種類で代表させてしまえるものなのか,疑問です。決して,「テンポが速く,思考の入るすきまが」ないものばかりではありません。さらに,そのプレイをする姿勢によっても,またプレイする人の個性によっても,いわばプレイする人の数だけ,脳の活動は多様であるのではないでしょうか。もちろんそれはテレビゲームに限ったことではないでしょう。テレビやビデオを見るにしても,どういう内容のものを,どういう心構えで見ているのかによって,脳の活動はいろいろであるのではないでしょうか。読書をするにしても,仕事や勉強をするにしても,傍目には全く同じことをしているように見える二人を比べればきっと,その脳の活動は違っているはずです。さらに,同一人物が同じひとつのゲームソフトをプレイする場合に関してさえ,そのソフトを初めてプレイするとき,少し慣れてきたとき,特に困難な局面を乗り越えようとしているとき,いよいよそのソフトをクリアしそうなとき,一度クリアして,さらに手馴れたプレイをするとき,それぞれに,脳の活動が著しく違うであろうということは,自分でプレイをしなくとも容易に思いつくことだと思います。先生も,「買った直後と2週間後」とのデータを採っておられることからして,その多様性は想定していたはずなのではないでしょうか。もちろん,多様な脳の活動について,特徴的な特性をいくつかに分類することは意味のあることでしょう。しかし,前記のような視点で,テレビゲームプレイ中の脳波特性をさまざまな状況の下に観察したというデータはありませんでした。これではまるで,ソフト自体にもその遊び方にも多様な内容を持つテレビゲームをまるっきり十把一絡げに一括りにして,乱暴にも「テレビゲーム一般」,そして「テレビゲームをプレイすること一般」として捉えている,はなはだ緻密でない考え方なのではないかと感じてしまいます。
 そうしてみると,先生が「テレビゲームを始めたとたんにベータ波が下がる」として示されているデータを目の当たりにしても,一体どういうゲームについて(本書では実験に使われたゲームを特定できるタイトルなどの具体的情報が殊更に伏せられているようです),それまでそのゲームにどの程度関わっていた人が,どういう精神状態のときに,どういう姿勢でそのゲームに臨んだものであったのか,もっともっとデータがないことには,「ほらゲームをするとベータ波が下がるんだ」という一般化をすることがためらわれてしまいます。実験のためにゲームをしたプレイ時間についても,先生が「よくない」とされる「長時間」ではなく短いものであった点が,データの信憑性という観点からはとても気になります。
 逆に,ダンスゲームを例に,先生自身「脳によいゲームもありうる」と言っておられるわけですが,では,現在市販されて出回っているテレビゲームのうちに,そうした「脳によいゲーム」がいかほどあるのか,ポイントは「体を動かす」かどうかということだけなのか,先生は関心をもたなかったのでしょうか。そうした調査をしてみもしないで,闇雲に「テレビゲームはやめなさい」とみんなに勧めているのだとしたら,子供を「脳によいゲーム」からも遠ざけてしまいかねない,却って無責任な活動なのではないかとさえ感じます。
 結局,「よくない脳波特性」が,他ならぬ「テレビゲーム一般」を「プレイすること一般」という活動と関係があるものなのかどうか,全く不明なままになっていると感じました。


 次に,第二の疑問点です。仮に,「テレビゲームをする人において,よくない脳波特性が顕著に観察される」という結論がデータによって根拠付けられたとしても,「テレビゲームをすること」が「よくない脳波特性」の原因となっている,とする因果関係については,納得がいきません。
 例えば,普段から前頭葉前野の活動が不活発な人だったら,ゲームをする際にも前頭葉前野があまり活動しないだろうということも,想像がしやすいことだと思います。ここで想像されているのはつまり,「ゲームをしたから『ゲーム脳』になった」のではなく,「もともと『ゲーム脳』タイプの人だったから,『判断』も『緊張』もなく漫然とゲームをし続ける習慣に陥りもするし,またゲームをすると『ゲーム脳』の顕著な脳波特性が観察されてしまう」,という因果関係です。
 思うに,「脳の発達にとって重要な時期である10歳頃までの幼い脳にゲームがよくない」との命題を検証するための実験をする際には,「10歳頃までにゲームをたくさんやって」いたかどうかという「原因」を基準として被験者集団を分け,その集団について「結果」として予測している脳波特性を比較するべきではないでしょうか。ところが本書では,「成人した現在に至るまでゲームをたくさんやって」いるかどうかで分けています。成人した現在では全くやらないものの,10歳頃までは毎日何時間もやっていた,という人も少なくないはずです。これでは,本当に「幼い頃ゲームをやると脳によくない」という因果関係を立証できるのか,甚だ疑問です。
 そこまでの被験者の分類が難しいとしても,せめて,脳波特性4タイプの出現頻度分布状況を,幼い頃からテレビゲームをする習慣がありうる世代,すなわち概ね30歳未満の人達のそれと,幼い頃にテレビゲームをする習慣などありえなかった世代,すなわち概ね30歳以上くらいの人におけるそれとを比較して,同じなのか違いがあるのか,違うとしたらどのような違いがあるのか,というようなことを調べてみないことには,幼い頃のテレビゲーム習慣と脳波特性4タイプとの関連性に関して何か結論めいたことを言うわけにはいかないはずではないでしょうか。世代間で4タイプの頻度分布を比較した結果,例えば,家庭用ゲーム機が登場して普及してくる状況にいわば比例して,世代における「半ゲーム脳」タイプや「ゲーム脳」タイプの構成割合が増加してくるというようなデータを前にして初めて,「もしかしたら,家庭用ゲーム機と脳波特性とに関連があるかも」という予測がいくらかでも信憑性を帯びてくるものなのではないでしょうか。
 ところが本書では,そうした幼時体験の違いによる世代間比較は愚か,脳波特性の4タイプと,その特性を示した人達がゲームとどのような関わりを持ってきたかということとの関連性さえも,きちんと示されてはいません。果たして「ノーマル脳」タイプを示した被験者が全て,あるいはほとんど,「一度もテレビゲームをしたこともなく,また日ごろテレビを見ることさえほとんどない」という人だったのでしょうか。「ビジュアル脳」タイプ,「半ゲーム脳」タイプ,「ゲーム脳」タイプの人についても,それぞれそのようにテレビゲーム習慣やテレビの視聴習慣とのはっきりした関連があるものなのか,本書には明確に説くところがありませんでした。
 また本書で先生は,「ゲーム脳」人間の典型例として,10年以上前から現在に至るまでほぼ毎日数時間ずつテレビゲームをやりつづけている大学生を採りあげています。しかし,大学生で毎日数時間テレビゲームをやっているというのは,もちろん統計を取っているわけではありませんが,私の感覚からすればかなり異例な部類なのではないかと感じます。そういう脳波の特性をもともともっている人間だったから,大学生になっても毎日数時間もテレビゲームをやる生活に陥っている,という全く逆の因果関係を想定することは,寧ろ容易ではないでしょうか。
 本書によっては,「ゲームをすると,脳に悪い影響が出る」という因果関係は立証されていないと思います。


 第三は,一層根本的な疑問です。仮に,第一,第二の疑問がそれぞれ解消され,先生が主張されるとおりであったとしても,そもそも,先生が「よくない」としている脳波特性,つまり痴呆者と「ゲーム脳」人間とに顕著であるところの,前頭葉前野の「ベータ波低下」を脳が示すことは,本当に「よくない」ことなのだろうか,という疑問です。
 確かに,痴呆が進んで自分で基本的な生活を維持できなくなってしまうのは(ひとまず)「よくない」ことでもあろうと思います。本書では,「ゲーム脳」人間の脳波特性について,そうした痴呆者の脳波特性との類似性が説かれています。しかし,そこで説かれている「類似性」の意味するものがなんなのか,不明のままなのではないでしょうか。
 前頭葉前野が「人間らしい」活動と関係があるようだ,ということはいえるのかもしれませんが,その「人間らしい」活動と「ベータ波低下」との関係については,ただ痴呆者が例示されているだけでした。犯罪者に関する福島章氏の文章を引用した例や,鉄道作業員の例などは,先生の測定方法で脳波を測定したものではない以上,前頭葉前野の活動が低下している例ではありえても,「ベータ波低下」の例とは言えないと思います。また,「ベータ波低下」が見られる被験者について下された「人間として好ましくない」との評価は,先生の主観的印象以上のものとして位置付けるわけにはいかないと思います。ところが,先生も言っておられるとおり,その唯一の例示であるところの痴呆者と「ゲーム脳」人間とは,全く同じ精神活動,知的能力を示しているものではないわけです。もちろん,「ゲーム脳」人間がみな痴呆になるなどという主張も立証もありません。これはつまり,等しく「ベータ波低下」の脳波特性を示すもののうちでも,自分で生活することができなくなってしまっている「よくない」者とそうではない者とがあるということと理解せざるを得ないと思います。また,情動抑制が効かないことや,他人とコミュニケーションが取れないこと,ひいては犯罪を犯してしまうことなどの「よくない」ことと「ベータ波低下」特性との関連についても,「そうなるに違いない」という先生の憶測があるだけで,「科学」的にはなにも解明されていないままです。
 そうだとしたら,その「よくない」という脳波特性が意味していることが一体どういうことなのか,結局何も分かっていないのと同じではないでしょうか。「ベータ波低下」を示すことの,一体何が「よくない」のでしょうか。先生は,「ゲーム脳」タイプを示した被験者達を全員,「よくない」人間達と評価したのでしょうか。そうではなく,「このまま放っておいたらよくない」ということなのでしょうか。しかしそんな憶測の「科学的根拠」はもちろんなにも示されていません。たまたまある特定の波形特性が痴呆者と「ゲーム脳」人間とに共通しているというデータが出たからといって,それだけではそのデータが意味していることがなんなのかは何もわからないはずだと思います。そのデータを寧ろ検証の出発点として,他にはどういう人にそういう特性が見られるのかを調べ,また脳波特性と精神活動や知的能力との因果関係をも,それこそ何千人,何万人という規模で,しかも何十年にも亘って定期的に脳波特性を記録しつづけるという,膨大で詳細な調査を経た上で,初めてそのデータが含み持っている意味を「科学的立証」の下に理解することができたとするのが,謙虚な「科学」的姿勢なのではないでしょうか。
 ついでながら,「ノーマル脳」の脳波特性を示したという,大学生でテレビゲームをやったこともなく,テレビもほとんど見ないという被験者も,これまた「普通」ではないと思います。「テレビゲームをやったこともなくテレビも見ず,礼儀正しく成績が普通より上位の大学生」,などと言われると,まるで怪しげな新興宗教の団体にのめりこんで社会性を失った不健康な若者の姿さえ連想されてしまいます。もちろんそうした想像は極端に過ぎるとしても,一方で「ノーマル脳」の被験者ばかりを「よい」ものとし,他方で自分の「ゲーム脳」波形に忸怩としてゲームをきっぱりやめ,従容としてお手玉を2週間続けた大学生を「よくない」ものとするのが,「ベータ波低下」という脳波特性に基づく人間評価であるのだとしたら,到底納得のいくものではありません。ましてや,その「ゲーム脳」の大学生は「2週間で治った」というではありませんか。
 「ノーマル脳」が「よい」ことで,「ゲーム脳」が「よくない」ことだと「科学」的に結論するには,まだまだ埋めていかなくてはならない論理的な溝,そして人生観,価値観の多様性という越えがたい断絶は大きいのではないでしょうか。


 先生は,子供や親に脳波計やグラフを見せてゲームを止めさせようとされているそうです。ビックリしてゲームを止める者もあるとか。はたして彼等は,「科学的根拠」に納得して「ビックリ」したのでしょうか。そうではないと思います。「なんのことかよく理解はできないけど,『ビジュアル』的にはっきり痴呆者と似た形をしているのでビックリした」ということなのではないでしょうか。誰でも,例えば自分とそっくりの顔をした殺人犯の写真でも見せられたらビックリすることでしょう。しかしそうしたやり方は,言ってみれば,克明なCGでダニをテレビ画面いっぱいに蠢かせる気色悪いコマーシャルを流して,ダニ退治の殺虫剤を買わせようとするのと同じことではないでしょうか。そこで結論された「ダニは退治すべき」という当為の根拠は,科学でもなんでもないと思います。「アラ,気持ち悪い」という感覚でしかないはずです。先生自身「根拠がない」と難じている,「テレビゲームをすると集中力がつく」という主張と,全く以って同じ次元の非科学的説得ではないでしょうか。そのような「ビジュアル」な説得で「なるほど」と感心した者がいると言われても,その説得が「科学的根拠」に基づくものであると得心することはできないと思います。


 こうしてみると,先生の仮説を検証する作業は,今まさに緒に付いたところというほかはないのではないかと感じます。先生が本書で示されたデータからは,「ゲームは脳によくない」という結論も可能だろうけれど,それが可能であるのと全く同じ程度に,正反対の結論も依然として可能なままだと思います。つまり,この本によって「科学」的に立証されたとされる,「ゲームは脳によくない」という命題は,しかし実際には,「テレビゲームをすると集中力がつく」という主張と全く同じ程度に,いまだに非科学的な「思いつき」のままに留まっているということです。結局,本書では何も「科学」的に立証されてはいないのではないでしょうか。
 この本を読んで,テレビゲームに関して日ごろから自分が抱いている考え方は全く変化しませんでした。それは,「テレビゲームそのものが悪くなどない。しかし,そればかりやっているのはよくない」という,ショッキングでもセンセーショナルでもない,そして「科学的根拠」に基づくこともない,常識という感覚に基づく当たり前のものです。そして,この命題の「テレビゲーム」の部分には,他にもさまざまな活動を入れることができるはずだと思っています。
 仮に,今後別の研究によって,「幼い頃のゲーム習慣が,脳によくない影響を及ぼす」ということが「科学」的に立証される日が来るとしても,本書による「立証」がそれに対して何か積極的にかかわっていることにはならないのではないかと考えています。


 以上の疑問点は,『ゲーム脳の恐怖』を読んだ限りで感じられたものです。本書の背景として,本書には直接示されなかったデータをどれほど先生が検討されたのかについては,私は何も知りません。あくまでも,学会発表のためのものならぬ,一般向け,さらには子供向けまで想定し,印象や感覚に訴えざるを得ない場面も多かったことであろう本書だけを対象にした疑問点ですので,その点はご了承下さい。
 ここに示した疑問点に関し,先生がどう考えておられるのか,改めてお聞かせ頂けたらありがたいと思います。


このメールに対して,森昭雄氏自身からは結局その後なんの応答もありませんでした(2005年12月11日現在)。