『ゲーム脳の恐怖』批判の補足と提言
2005 Dec.11

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 『ゲーム脳の恐怖』が出版されてから3年余りが経ちました。この間、本書に対してはさまざまな反響が起こり、少なくとも「ゲーム脳」という言葉は些かの不審を伴いながらも定着した感さえあります。
 私は『ゲーム脳の恐怖』を批判します。この批判については一定の注目を得て、当サイトにもいろいろなご意見が寄せられています。この本を批判することに対する受け止め方は多様であるようです。いろいろな問題意識がなお未解決のまま「そうは言うけど・・・」という形でわだかまってしまうことも想像されます。そこで、ここではおよそ想定される主な問題点として4点を挙げながら、それについて私がどう考えているのか、補足としてまとめてみようと思います。
 また、この問題に関しては教育関係者からの関心も高く、私自身も年少者に向けてこの本に対する否定的評価を伝えたい気持ちも強いので、この補足を、子を持つ親を含め教育関係の方々への提言としようと思います。




想定される、「そうは言うけどすっきりしない問題」

1,やはり子供がテレビゲームばかりやっているのはよくないのではないか
2,子供をゲームから引き離すにはどうしたらよいか
3,素人が専門家を批判することなどできるのか
4,内容とは別にこの本の意義を認めることができるのではないか
5,結語




そうは言うけどすっきりしない問題1:
 やはり子供がテレビゲームばかりやっているのはよくないのではないか?


 同感です。私も、子供がテレビゲームばかりやっているのはよくないことだと思いますし、それを放置すべきではないと思います。これからたくさんのことを体験して心も体もバランスよく成長していくことが望まれる子供が、来る日も来る日も部屋にこもってテレビゲームばかりやっているとしたら、それは実に困ったことだと思います。
 そして、それはなにもテレビゲームに限らないことでしょう。毎日マンガやテレビばかり見ている子供、パソコンばかりやっている子供、ケイタイばかりいじっている子供、(もちろん、お手玉ばかりしている子供も、)いずれもとても心配です。さらにこのことは、勉強ばかりしている子供、運動ばかりしている子供についても、場合によっては当てはまってしまうのではないでしょうか。
 しかし、このように感じ、考えることは、何か科学的根拠に基づいてのことではありません。常識的に、或いは感覚的に、言ってみれば「なんとなく」そう感じ、考えているに過ぎません。そしてそれだけでもみんな「うんうん、そうに違いないと思う」と感じ、納得することができるはずなのです。さらにまた、これとは逆に、「でも、テレビゲームをやることで考える能力や集中力が付くこともあるのではないか?」という感じ方にも、それなりの説得力を感じるのが普通なのではないでしょうか。そして、そのように科学的根拠などによらず、常識や感覚で物事を判断することは、決して望ましくないことなどではないのです。はっきり言って、普通に生活をしている日常の中で絶えず下されていくたくさんの判断のうち限りなく100%に近いものが、科学的根拠などによらず常識や感覚に基づいて為されているに違いないのです。
 しかしながら、この本は、はしがきに見られるとおりそのような科学的根拠に基づかない共感を求めることは非科学的であって望ましくないということを、著者自らが宣言して書かれたものです。子供がテレビゲームばかりやっているのはよくない、それを感覚的に納得することのいったい何がいけないというのでしょう。この、科学的根拠などはさておいて、とりあえず誰でも共感できるはずの「子供がゲームばかりしているのはよくない」という結論について、この本は、そのことが何か科学的、論理的に証明されでもしたかのように主張しています。そうである以上、この本に関する限り、結論そのものに対する共感ではなく、それを導く過程の科学性、論理性でその是非を論評せざるを得ないのです。
 では、この本が自称するところのその科学性はどうなのでしょうか。これが実は少しも科学的ではない。電気を使った装置でピカピカバリバリやって図やらグラフやらを並べる。たったそれだけの仕掛があるだけで、その本当の中味であるはずの思考過程、地道な論理の積み重ねについては全く空っぽなのです。中味の空虚なそうした仕掛は、なんともマンガじみて映ります。所詮、波形が意味するところがろくに解明されていもしない脳波などを殊更もっともらしく振りかざして騒ぎたて、挙句科学的でもなんでもない、ただの思いつき、憶測でしかないものをあたかも論理的で科学的であるかのように触れて回っている、私がこの本を批判するのは、まさにこの点に他なりません。
 子供がテレビゲームばかりやっているのはよくない。そんなことは、もとよりあまりにも当たり前のことです。この本が言っているその結論だけに限定するのであれば私も全く異論はありません。ただ、その結論について科学的に証明したかのような僭越な、傲慢なことを言うから、「そんなものどこが科学的だ」と反論せざるをえないことになるのです。
 このように、私がこの本を批判するのは、この本が科学的であるかのように説いているその立証が実は全く非科学的であるという点なのであって、「子供がテレビゲームばかりやっているのはよくない」というその結論ではありません。科学性が問われるのは、立証の過程が論理的かどうかという点についてであり、結論がもっともらしいものであるかどうかという点についてではないのです。どんなに科学的に正しい立証を経てもその社会に相応しくない結論を叫べばガリレオのような目にもあうわけですが、反対にどんなにその社会が歓迎する結論であろうとも、科学的でないものを科学的であるかのように叫ぶとすればそれにはやはりしかるべき批判を加えなくてはならないと思います。


そうは言うけどすっきりしない問題2:
 では、どうすれば子供をゲームから引き離すことができるのだろうか?


 それは分かりません。何時でも何処でも、どんな子供にでも効果的に通用する決定的な方法などというのは、ありえないと思います。その子供の状況に応じて、もっとも身近な人、普通は親が、いろいろな方法で子供を誘導したり諭したりすることで対処するほかないのではないでしょうか。
 また、何事もそうだと思いますが、何かに夢中になることそのものは決して困ったことばかりではないと思います。ゲームに夢中になるのも、それが直ちに悪いことだとは思いません。ただ、頭の中がそれでいっぱいになっているかのように、他のことはなにもできずにゲームにばかり向かっているという状況とか、或いは、熱心に夢中になっているというわけでもなく、他になにもすることがなくてだらだらとゲームばかりやっているという状況とかが、何時までも続くようだとそれは(ベータ波がどうこう言うまでもなく)要注意だと思います。
 でも、自然な状態で生活していさえすれば、子供の関心がゲームにしか向かないなどというはずはないと思うのです。子供は、いろいろなことに興味を持って、あれにもこれにも首を突っ込みたくなってしまうのが、その本来の特質だろうと思います。そういう子供の自然な関心を狭めてしまうのは、もしかすると親を中心とする環境に原因がある場合も多いのではないでしょうか。世の中にはこんな面白いこともある、こんな楽しいこともあるという刺激的な毎日を、親が身をもって率先して子供に提供することができていれば、そんなに面白いことがたくさんある中でなおいつまでたってもゲームにしか関心が向かないという事態は、考えにくいと思います。ところが、せっかく子供の関心がいろいろな方向に伸びていこうとしているのに、その関心の芽が伸びにくい環境があるとしたらどうでしょうか。私自身を反省しながら考えてみると、例えば子供が学校の帰りに見つけた面白いものの話をしようと思ったところ、今ちょっと手が離せないからと親が話を聞いてやるのを煩わしがってばかりなどということはないでしょうか。また、「これはとっても楽しいんだぞ」と親のほうが乗り気になって連れ出しさえすれば子供もつられて楽しむことができるはずの休日の過ごし方にしても、日曜日はくたびれているからと家でゴロゴロしているようなことはないでしょうか。そもそも幼い頃からついつい安易にテレビに子守をさせてきてしまったなどということはなかったでしょうか。さらには親自身が、日々の仕事、会社勤めにせよ或いは家事にせよ親戚づきあい近所づきあいにせよ、それらを楽しまずに不平と敗北感とにまみれながらいやいややっているとしたら、それを見て聞いている子供たちはどう感ずるでしょう。面白いことはゲームばかりじゃないんだということを肌身で感じ取るのに骨が折れやしないでしょうか。こんなことが積み重なって、結局は子供と楽しくかかわる方法をきちんと身に着けず、また、生きることを楽しむ手本となることもできなかった親が、子供の世界を次第にゲームに囲い込んでしまっている、そんな状況が想像されてなりません。
 エスキモーは、寒い冬には長期間ほとんど外出さえもままならず、自然の成り行きで、退屈しのぎ半分に屋内で幼い子供と遊ぶ習慣が進んだという話を聞いたことがあります。エスキモーのアヤトリは、両手両足に口まで使った手の込んだものだとか。それが事実かどうかはさておいても、確かにそういう環境では、親と子とのかかわりが自然と保たれていくものかもしれないという気になります。そうなると、親が一年中朝早くから夜遅くまで子供とは隔たった場所で働かなくてはならないような社会のあり方が、子供をゲームに追い込んでしまっているとさえいえるのかもしれないと思ってしまいます。
 少なくとも、怪しげな脳波グラフを見せて、何の根拠もない「痴呆患者との類似性」を振りかざして、「大学のセンセが言っているんだ」とばかり無自覚に高圧的な態度で子供にゲームをやめさせようとするような、文字通り子供だましの姑息な手段に、大人はゆめゆめ頼ろうとすべきではないと思います。そのような、楽屋を暴けば自分で子供を正面から説得する覚悟さえできていない、実のところまるっきり腰の引けてしまった大人の臆病で怠惰な心のうちを、そしてその引け目を無理にも取り繕おうとする卑怯な大人の姿勢を、子供は必ず見透かしてしまい、問題は一層深刻なねじれを加えるようになるばかりではないでしょうか。
 子供がゲームばかりしている状況を何とかしようと思ったら、大人はまず自分をよく振り返って、自分の責任で問題と真正面から取り組む覚悟をすべきだと思います。『ゲーム脳の恐怖』のような本を盾に子供を説得するような嘆かわしい失態を、教育現場で目にすることのないことを祈ります。


そうは言うけどすっきりしない問題3:
 脳波のことをなにも知らない素人が専門家を批判するのはおかしいのではないか?


 素人が専門家を批判することはおかしくないと思います。
 専門外の私が、「専門家」の提示する「ゲーム脳」という見方に批判を加えることも、それなりにとても意味のあることであるはずだと自負しています。
 というのも、人が生活している中で、自分が専門にしていることにめぐり合うことよりも、自分が専門としていないことに出くわすことのほうが、はるかに多いはずだという確信があるからなのです。どれほどたくさんの分野について専門的な研鑽を積んだところで、世の中には自分が専門としないことのほうが多いに決まっていると思います。では、自分が専門としない問題に出くわしたときに、我々はどうしたらよいのか。自分は専門家ではないからと無批判でいることが望まれるのでしょうか。それとも、もっと別の自分が望む結論を叫んでくれる専門家を盾と恃むべきなのでしょうか。どちらにせよ、自分が自分の足で歩むほかない自分の人生にそんな姿勢で臨むのは残念だと私は思います。といってもちろん、問題にぶつかるたびに慌てて専門的知識を仕入れようとしたところで、到底おっ付くはずはないでしょう。つまるところ、そんなときには、他人の借り物の専門的知識やら或いは自分が付け焼刃で身に着けた泥縄の専門的知識やらなんぞより、そのものずばりのむき出しの論理を足場と頼ったほうが、ずっと頼りがいがあると思うのです。
 よしんば、脳科学についての基礎的な素養のない私がやっつけ仕事で脳波の勉強をしてみたところで、その知識の拠って立つ土台そのものが脆弱であるという状況からは逃れがたいはずです。また、私が脳波について教えてくれる本を読んでみたとして、そこに説かれていることを無批判に鵜呑みにして「なるほどそうなのか」と思ってしまうとしたら、そのこと自体、『ゲーム脳の恐怖』を読んで無批判に「なるほどそうなのか」と鵜呑みにしてしまうことと、まるっきり同じことじゃないでしょうか。そこにあるのは、誰かエライ人が言ったことを鵜呑みにして、そのエライ人に比べたらいくらかでもエラくなさそうな人に対して、そのエライ人の権威を笠に着て付和雷同する、なんともお粗末な姿勢に他ならないのではないかと思ってしまうのです。
 もちろん、専門外のことにぶつかって、そのことについて少しでも詳しく知りたいと思う気持ちは大いに共感できますし、そうして新たに勉強することはとても楽しいことでもあると思います。でも、「知らないけれど怪しいこと」に出くわしたときにそれについて自分なりの評価を下すという目的からする限り、やっぱり自分の中にあるはずの論理をひたすらに頼るほうが、より効果的で、そしてより爽やかなことだと思うのです。
 そして一層根本的なことに、専門的知識などなくても論理で批判可能なものというのは、実はとても多いのではないかという気もするのです。「AはBだからCである」という主張があったとします。この「AはB」という点について、それが専門的知識に属する事柄で、専門家でなければ「AはB」なのかそれとも「AはB’」なのかはたまた「Aはw」なのか全く判断がつかなかったり、あるいは専門家の間でも見解が分かれたりする、ということもあるでしょう。こういうときに、その「AはBだからCである」という主張に対して、「いや、『AはB』ではないのだから、したがってCという結論は誤りである」という批判を専門家でない者がすることは無理でしょう。また、「自分は分からないけど別の専門家が『AはB』ではないと言っているのだから、従ってCという結論は誤りである」などと批判してみたところで、なんとも心細い話にしかなりません
 しかし他方、そもそもこの「AはBだからCである」という主張に対して、「AはB」だとしたところで「だからC」などという結論になんかなりっこない、という批判を、なんの専門知識がなくとも論理によって加えることのできる場合というのもたくさんあるのです。そういう場合には、こうした批判は専門家でなくとも誰にでもできることであるわけです。私が『ゲーム脳の恐怖』に対して加えている批判も、こうした類のものに他なりません。そして、そのような批判をする目を持つということは、自分の目で世の中を見て、自分の手応えで世の中を生きていくうえで、とても大事なことなのではないかと考えます。特に、若い人たちには、そういう考え方ができてくれたら頼もしいな、と感じます。
 専門家に対して素人の私が敢えて加える批判こそ、誰にでも自分の理解力で納得することのできる批判として、専門家が加える批判よりも寧ろ広汎な意義のあるものとさえ、実は自負しているのです。


そうは言うけどすっきりしない問題4:
 この本の科学性はともかく、重要なテーマを採りあげて社会の関心を惹き起こしたことには功績を認めるべきではないだろうか?


 そうした功績は認め難いと思います。この本に懐疑的な目を持ちながらも内容そのものの信憑性とは別に、本書が発行された意義を重視する向きもあるようです。或いは、本書の結論には同意したいのだけれどどうやらとかくの批判の声も大きいようだし、本書を正面から受け入れるのがはばかられてそっと裏口から招きいれようとする気持ちでそうした功績を強調しようとするのであるのかもしれません。いわく、本書の説くところはなお科学的には未熟ながら、この重要な事柄に世の中の目を向けさせた功績は大きい云々・・・。
 でも、本当にそうでしょうか。子供がゲームばかりやっているのはよくないということぐらい、世の中はとっくに関心を持っていたのではないでしょうか。はたしてこの本が出るまで、世の大人は子供がゲームばかりやっていることについてまるっきり無頓着だったのでしょうか。仮にそうなのだとしたら、子供がゲームばかりやっていることそのものよりも、それに大人が無頓着でいるというその状況のほうがはるかに恐るべきことだと思います。しかし、そんなはずはないと思います。子供がゲームばかりやっていることについて、やはり大人達はそれぞれが強い関心を持っていたことは間違いないと思います。この本が初めてそうした関心を呼び覚ましたかのような見方には、強い疑問を感じます。
 また、ゲームが脳に及ぼす影響という科学的な視点をこの本が提供したというような評価も疑問です。寧ろ事態は正反対であると感じます。この本が意味もなく脳波のグラフなどを引き合いに出したせいで、本当に論理的に科学的に物事を考えるという大事なことが等閑にされ、機械を使ったり表を描いたりすればまるでそれが何か科学的な調査であるかのように短絡する風潮が助長されてしまうのではないかとさえ懸念されます。なればこそ私は、こういうものの考え方を決してまねしてはいけないということを訴えて、子供たちが惑わされないようにしたいのです。そもそも物事を考えることができるごく普通の人ならば、ゲームが脳に及ぼす影響を本当に科学的にきちんと検証することなど、とても厄介なことであって、こんなに安直に本になってポンと書店に並べられるようなものではなさそうだということが、直感的に感じられていたはずだと思います。なればこそ、そんな安直な本を敢えて公刊するほどあつかましい出版事業がこれまで出現しなかっただけなのではないでしょうか。普通の判断力のある大人ならよもや思いもよらないほどずさんな本だからこそ、そんなものはこれまで発行されなかったというに過ぎないと、この本の登場という現象はそのようにこそ位置づけるべきだと思います。実のところはまさかと思うほどずさんであるがゆえに、まさかそんなずさんなものであるはずがないと逆に疑心暗鬼を招いて、この本の見かけのもっともらしさが出来上がってしまったのではないでしょうか。
 本書の結論に同意することは決して本書の意義を認めることにはならないのです。本書の「科学性」に疑問を持ったら自信を持って毅然と批判を向けてほしいと思います。

 道端にゴミが落ちていたことがきっかけとなって、社会人としてのモラルやら公徳心一般、さらには自己決定の問題とか環境の問題とかに関心が高まったりすることがあります。でも、そうした議論の高まりをそのゴミの功績であるなどと評価することは見当違いでしょう。そのゴミは、汚らしくて嫌がられるからこそ、きちんとそれを取り除き、またそうした不徳を予防できる仕組みが望まれるのです。昨今、テレビゲームが子供に及ぼす影響や脳の機能との関係について、公的機関が大規模な調査を行うといった報道を目にします。これなども、『ゲーム脳の恐怖』のようなずさんな調査をそのままにしておくわけにはいかないからこそ、そうしたまやかしの言説を巷間から取り除き、その影響力を減殺する目的で為されるプロジェクトであると理解すべきことです。

終わりに


 私は『ゲーム脳の恐怖』を批判します。しかし、本書を公刊した著者の動機について勘繰った揚げ足取りをしたり、はては著者を人格的な面から非難したりするつもりはありません。寧ろ、子供がテレビゲームばかりしている状況を何とかしなくてはという、誰にでも共感できる思いが、著者にとって本書執筆の動機になっているのだろうとさえ思っています。この際著者には、この本のでたらめさをきちんと認識していただいて、いわばこの本は反故にしたうえで、ご自身の身に着けておられるものでなしうる研究、執筆を、今後改めてきちんと進めてほしいと思います。そして、この本とは違った方法で、子供がゲームばかりしている事態に対する対策を提案していただけることを期待します。


なお、本稿は随時加筆訂正しております。