赤穂城址

(兵庫県赤穂市)

赤穂城本丸門 640*512

うんちく

赤穂城は浅野長直が1645年から13年かけて築城した海岸平城です。 築城に際しては、甲州流軍学や山鹿流軍学など最新の軍学理論を用いて築城されており、 津山城と同様、江戸幕府開府以降に築城された城としては実戦重視の構造をしています。 しかし、天守台まで作っていながら、天守を置かなかったのはやはり幕府に対する配慮 だったのではないでしょうか?

ちなみに、どこら辺が最新の軍学理論に基づいているかというと、この城の塀を見ると よくわかるのですが、塀の直線部分がある程度続いたかと思うと意味もなく途中で 折れ曲がっています。なぜ一直線にせず途中で折れているかと言うと、こうすることで、 敵を2方向から挟撃する事が出来るというちゃんとした理由があるからです。外にも、 大手門や本丸門がといった虎口が敵を討ち取ることを主眼とした枡形門になっている (こちらは外の城でもよく見かけますが・・・)など、随所に工夫がなされていて、戦うための 城として作られていることが判ります。

しかし、忠臣蔵で知られる浅野家断絶や、赤穂藩の石高減少による国力低下、明治以降の 廃城などで、当時の構造物は現存しておりません。そのかわり、発掘調査や復元によって、 いまでは三の丸までの石垣がほぼ揃った状態になっています。

撮影ポイント

赤穂城周辺地図 赤穂城は本丸門・大手門周辺の二ヶ所が復元されており、まずはこの2ヶ所が基本形・・・・ と言いたいところですが、大手門のすぐ横にある隅櫓(撮影ポイント@)は常時狭間が閉じられていて、 つぶれているかの様に見えます。不思議な事に、我が家にあるビデオや写真などなどチェックしても 何故か開いているところを見たことがありません。コンクリで再建しているはずなので、少々風を 通さなくても大丈夫なんでしょうが、せっかくなら日中ぐらい開けておけばよいものを・・・と思ってしまいます。

本丸門(撮影ポイントA)の方はかなり本格的に復元してあるようで、なかなかいい作りになっております。 ただ、大手門と本丸門との間はかなり離れているため、部分部分が点在するといった感じでまとまりがなく、 城郭としての美しさはいまいちといったところです。(塀にしても、脈略のないところで途切れている・・・) どうせ復元していくのなら、本丸から順番に復元するとか、もう少し順序を考えても良さそうな 気がするのですが・・・

赤穂城本丸門正面より さしずめ、赤穂城を築城した浅野氏は、軍学理論に従い合理的に築城したが、現代の赤穂市は兵力集中の原則 (あるいは資本の集中投資)をすっかり忘れて、漫然と復元しているといったところでしょうか?

赤穂城大手門と隅櫓 ちなみに、撮影ガイドとはちょっと外れるかも知れませんが、城内には忠臣蔵で有名な赤穂浪士を 祀った大石神社があります。ここの四十七士にちなんだおみくじが強烈で、四十七士の討ち入りの 情景が書かれていて、"敵の胴体を真っ二つにした"とか"敵の刀を奪って戦った"だの、おおよそ神社に 似つかない物騒な文言か書き連ねてあったりします。いいのか?それで・・・(おもしろいからいいけど)

あと、ちらっと見ですが、明治時代に入って日本史上最後の集団敵討ちがあったのも赤穂だったとか・・・ そうゆう土地柄なのでしょうか?(^_^;



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