私たちは、同じ高校、同じ美術部で知り合った。
私が二年になってすぐのこと、体操部をやめてフリーになっていたとき、美術担当の先生と、
三年生の美術部の部長さんがやってきて美術部に入ってくれというのだ。
一年生のときには選択コースで、美術、音楽、書道の3コースに分かれていて、私は音楽コースを選択したのだが、
なぜか二次志望の美術コースに回されてしまった。
美術といっても、商業高校だったからもっぱら商業美術、レタリングやデザイン中心の授業だった。
その美術教師が、一年のときのセンスがよかったから美術部に入らないかというのだ。
そこまでいわれて断る理由もなく、体操部を一緒にやめた友人2人を引き連れて入部した。
家内は一年後輩、新入生として私と同時に美術部に入ってきた3人の女性の中のひとりだった。
あとで分かったことだが、私たちが三年になったとき、その三年生が所定の人数に達していないと廃部になるか、
生徒会から部費の助成がなくなってしまうので、センスや成績ではなく、その動員のために私は勧誘されたのであった。
そんなことはどうでもいいことだが、私は、そこで笑顔が可愛い、純朴な彼女と知り合えたのだ。
私たちが卒業したN県立商業高校は、もともとは男子校だった。
そこに女子が少しずつ増えていき、その当時、1クラスに男子40人、女子10人程度の比率であり、女子用のトイレさえ数が足りないほどだった。
5つ上の姉しかいない私にとっては、彼女は妹のような存在であり、初恋のひとでもあった。
卒業後、私は東京の一流企業に就職が決定していて、まもなく上京し、独身寮に入ることになっていた。
しかし、彼女はまだ三年生で在学中、しばしの別れである。
上京前、はじめてふたりで写真館にいき記念の写真を撮ったのが左の写真。若き日のもっとも大切な想い出のツーショット。
ちょっと浪花節調だが、私は、『将来、必ず君といっしょになりたいから絶対に迎えにる
来る』と約束し、故郷をあとにした。
その彼女も一年遅れで就職、私の後を追うように上京、町田のNデパートに就職、女子寮に入っていた。
お互いの、住んでいた路線の接点・東横線菊名駅で待ち合わせ、そのまま東横線で渋谷までいき、上京後、久々のデートもした。
彼女の門限ギリギリまで逢っていて、タクシーで町田までおくっていったことも昨日のように思い出す。
私は、入社後、まる4年で母が病気になり、退社を決意、帰省することになった。
彼女も、やはりお母さんの看病で帰省していたのである。しばらくして再会し、約束通り婚約する。
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何年経っても、彼女は私にとっては昔からの可愛い恋人であった。
その婚約時代の写真が上のもの。
高校で知り合ってから6年後、ようやく私たちは結婚を果たした。
東京の浅草で生まれ、一家で疎開先のこの富士山麓に定住するようになった私。
一方、沼津市の片浜という海辺の街で生まれた彼女。
私たちは、いくつもの、いくつもの偶然が重なって出逢い、愛し合い、結婚し、こうして、ともに生涯を歩むことになったのである。
結婚後、1年三ヶ月後には長男が誕生、その後、長女、次女も生まれ、初恋の恋人も、堂々としたママに成長していった。
代々商家であった我が家の母は、『商売家にとって、「いらっしゃいませ」、「ありがとうございます」と愛想よくいえることは、
長男の嫁としては最大の宝だよ』と、よくいっていた。
そして、父が戦死している母子家庭の私にとって、この結婚は妹と妻とが同時にできたようなことでもあった。
それからの彼女は、持ち前の明るさと、天真爛漫な笑顔がよく、誰彼ない愛想の良さで立派な母、オーナー婦人として生長していくことになる。