合理主義の発達(其の三)
前回は中国について述べたので、今回は日本についてである。
他者との接触機会との増大ということで言うと、日本の場合、東アジア交易圏という概念が重要だと思われる。無論、古代より東アジアにおいて交易は行なわれていたわけだが、それが活発になったのは、10世紀頃からであった。これは、唐代後半以降大いに発展してきた華南の経済力によるところが大きく、中国を中心とした一大交易圏が東アジアにおいて成立していったのである。
日本も東アジア交易圏の構成員であり、時代が下るに連れて交易は盛んになっていき、戦国時代ともなると東南アジアや西欧との接触・交易も頻繁となった。こうして他者をより多く知り知見が増大したことは、合理主義の発達を大いに促したと思われるが、日本の事例に即してもう少し詳しく見てみると、中国文化の流入も大きな意味を持っていたように思われる。
中国から日本への輸出品の中で、書物は重要な地位を占めている。中国は、日本より遥かに早く紀元前の春秋戦国期に俗的世界・合理主義的社会に突入したので、中国の書物の輸入、つまり中国文化の流入は、日本における合理主義の発達を大いに促進したと思われる。無論、古くは奈良時代以前にも中国の書物は日本で読まれていた筈だが、当時は中国の合理主義的文化が浸透するだけの社会的状況ではなかったわけである。
中国文化の流入と浸透の度合いは、遣唐使の廃止によってそれ以前よりも弱くなったのではなく、寧ろ遣唐使廃止以後、日本の内的発展と東アジア交易圏の隆盛化とによって一層強くなったのであるが、こうした傾向は、既に鎌倉時代より明確に認められると思う。こうした中国文化の流入は、鎌倉新仏教や建武の新政などにも大きな影響を与えていると思われ、戦国時代には、狭義の文化だけではなく農業技術や採掘技術など、様々な分野で大きな影響を及ぼし、合理主義の発達に大いに貢献したと思われる。
日本の戦国時代における合理主義の発達・大きな変化についても、どうにもよく纏らなかった。この点については、第2回で紹介した勝俣鎮夫『戦国時代論』(岩波書店1996年)のP3の一節に実に的確に述べられていると思うので、以下引用する。
つぎにこの時代(筆者注:戦国時代)は、原始社会以来の自然のさなかの、自然に支配された、いわば「野生の時代」から、人間の生活、人間社会をしだいに分離独立させつつあった、いわば文明の時代へ離陸する第一歩となった時代である。もちろん、この過程は長い時間をかけて徐々に進行したのであり、律令・儒学・仏教などに代表される一種の普遍的価値観と体系性をもつ高度な中国文明が、なお未開性の強い土着文化のなかに浸透し、両者が混じり合って、広義の文化を生みだしたのもこの時代であった。今日、日本の伝統文化とされる芸能など多くのものがこの時代に形をととのえて姿をあらわした。これらの芸能は、神々を喜ばす神事芸能から、人々が楽しむ芸能へとしだいに移行した。農業でいえば、「田遊び」の農業から、農書の成立などにみられる生産を目的にした農業への移行であった。そして、このような技術革新の時代とされる戦国時代は、貨幣経済の発達、村や町にまでおよんだ文字の普及によって、西欧が生みだしたそれとは異なるとはいえ、一種の近代的合理主義の観念を社会的に定着させた。