分裂と統一
前回述べたように、7世紀後半に成立した律令国家「日本」は、必ずしも統一国家とは断言できないが、一定の広域的な政治統合は果たしていた。鎌倉幕府も室町幕府も、同様に一定の広域的な政治統合は果たしていたわけであり、南北朝時代や戦国時代は、そうした政治秩序が崩壊・衰退し、各勢力が乱立した分裂の時代であるということは間違いない。だが、南北朝時代や戦国時代の分裂が新たに出現したものだったかというと、必ずしもそうではないだろう。
律令国家から室町幕府までの日本における中央政権は、統一政権と呼ぶには不備な点が多々あり、租税の賦課形態や度量衡は実に多様性に富んでいた。日本初の統一政権は豊臣政権とするのが妥当であろうが、日本国民としての意識との観点からは、真に強力な統一国家は明治になって成立した、とするのが妥当だと思う。
だが、従来の一般に浸透した見解は、統一状態が崩壊して分裂した状況が新たに出現した、というものであるように思われる。これは、第10回で触れたように、ルネサンス期の西欧に由来する時代区分論・歴史観の影響を受けていると思うのだが、そうした歴史観が日本に浸透したのは明治以降であり、幕末以前からの伝統的歴史理解と共通するところが多分にあったことが、日本への西欧的歴史観の浸透を促進したと思われる。
では、幕末以前からの伝統的歴史理解が何に由来するのかというと、それは中国的歴史観であると思う。中国史学の祖というべき司馬遷の歴史観は、対立抗争の中から新しい統一安定が生ずる、というものであり、その最初の実例は炎帝と黄帝との闘争であった、と宮崎市定氏は『史記を語る』(岩波書店1979年)で説かれている。殷から周、周から春秋戦国という動乱期を経て秦の統一が成り、楚漢の興亡を経て漢の統一に至るというのが、司馬遷が描いた中国の歴史像であり、つまり、統一状態が崩壊して分裂し対立抗争が起きるが、そうした状況の中から新たな統一政権が成立する、というのである。
司馬遷の死後の中国の歴史は、漢の統一→魏晋南北朝の分裂期→隋・唐の統一→五代十国の分裂期→宋の統一→南宋と金・元の分裂期→元の統一→明の統一→清の統一ときており、元→明→清の交替に際しても、一時的にせよ分裂状況が出現しているから、分裂と統一を繰り返しているわけで、司馬遷の歴史観に説得力を与えている。日本の伝統的歴史理解は、こうした中国の歴史観を受け継いだものであり、統一が乱れた分裂・対立抗争状態である源平・南北朝・戦国の争乱を経て、新たな統一政権が生じたと理解された。
だが、日本の伝統的歴史理解に問題が大いにあるように、司馬遷の歴史理解にも実は問題があるように思われる。殷や周を統一政権として理解するのは大いに疑問であり、現在では、秦を中国史上初の統一国家とするのが通説である。宮崎市定氏は「中国上代は封建制か都市国家か」で、春秋に弑君三十六と書けば乱世のように聞えるが、それは春秋の前に封建の黄金時代を空想するから強く耳に響くだけで、それは恰も中国上世に統一国家の存在を想像するから、春秋戦国が分裂の世と映ずるようなものである、と説かれたが、この指摘は、中国史のみならず、日本史を考察する際にも重要な示唆を与えているように思われる。
源平・南北朝・戦国の争乱も、その前に強固な統一を想定するから、新たに出現した分裂期に映ってしまうのだが、実のところ、「新たに分裂する」前に統一などはなく、「分裂」は「普通」の状態であり、歴史的展開により諸矛盾が表出して大規模な戦闘が恒常化した、と理解する方が妥当であろうと思う。
古代・上代に統一を認めて、その後に分裂状況が出現した、との歴史観は、広く世界に認められる「太古に理想的な時代が存在し、その後堕落した」という思想にも恐らくは大きく影響を受けているのであろう。日本の場合は、そうした思想の一種である末法思想の影響も強いのだろう。今回はこうした視点からは述べなかったが、いずれよく考えてみたい問題ではある。