上杉謙信

 

 前回は武田信玄について述べたので、今回は信玄の好敵手として何かと信玄と比較される上杉謙信について述べていくことにする。謙信も大河ドラマでも取り上げられており、あまりにも有名な存在ではあるが、前回と同様に、先ず最初に永原慶二監修『岩波日本史辞典 CD−ROM版』(岩波書店2000年)から事跡を引用しておく。

1530‐78(享禄3.1.21‐天正6.3.13) 戦国大名。はじめは長尾景虎。のち山内上杉家を嗣いで政虎,ついで輝虎と改名し、入道して謙信と号する。越後守護代長尾為景の子で、兄晴景との争いに勝利し守護代となり、越後一国を統一。その後上杉憲政から山内上杉氏の家督と関東管領の職を譲られ、関東に出兵して北条氏康と戦う。また甲斐から信濃に侵攻した武田晴信(信玄)とも川中島でたびたび対戦した。越後の武士たちを統率して関東や信濃への出兵を繰返し、さらに越中・能登に進んだが、急死した。

 謙信は不思議な人である。戦国最強の武将と多くの人から評価される一方で、領土欲が薄く義理堅いとの評価も根強くある。では一体、謙信は何のために戦っていたのだろうか。果たして従来の謙信評は妥当なものなのだろうか。色々と疑問が湧いてくる。
 領土欲が薄いとの指摘は、半ば当たっているようにも思われる。越後を領国化し、更には越中・能登・信濃と加賀と上野の一部を領有した謙信に領土欲がなかったとは思われないが、関東管領に就任してから10回以上に及ぶ関東出兵では、上野の一部を領有できたくらいで大した成果はない。無論、謙信の不手際ということも考えられるが、武田信玄や北条氏康のような名将も一目置いた戦国最強の武将である謙信がこのような無駄をしたわけだから、謙信は関東管領という旧秩序や人間関係を重んずる義将で、領土欲はなかったとの評価があるのも分からないではない。
 だが、視点を変えてみると、また別の解釈も可能となる。謙信は、北条と武田が武田の駿河侵攻を機に対立した際には北条と手を組んでいるが、その時北条に上野の「返還」を要求しているから、関東でも領土欲が皆無だったとは言い切れないが、北陸と比較して領国化には熱心ではなく、やはり関東での領土欲は薄かったように思われる。では、何が目的で謙信は10回以上も関東に出兵したのかというと、端境期における口減らしと物品の略奪と奴隷狩りだったと思われる。これは、謙信の関東への出兵時期から推測されることで、秋冬から春夏にかけての長期越冬型が多いのである。二毛作のできない越後においては、冬場の口減らしは切実な問題であった(藤木久志『雑兵たちの戦場』、
第7回の読後雑感参照)。
 そうすると、謙信の関東出兵は、関東管領という地位を大義名分にした略奪行為であり、領土獲得はあまり視野にはなかったということになる。端境期に口減らしをして新たな「雇用」を創出してくれる謙信は、越後人にとっては救世主的存在だったのではなかろうか。現在でも越後で謙信の人気が高いのは、一つにはこうした遠因もあるだろうし、また謙信軍の強さの一因は、無論謙信自身の優れた才能もあるだろうが、略奪行為の機会が多く与えられていることによる兵の戦意の高さにもあると思う。無論、戦国大名による略奪は珍しくはなかったが、領国化を考慮して、村や町での略奪を禁止し安全を保障することも多かった。だが謙信の場合、関東の領国化についてはあまり真剣に考えていないか、略奪よりも優先順位を低く置いていたと推測される。

 戦国大名としての謙信は、家督を継いだ時点での所領が10万石程度で、死亡時点での所領が150万石前後だったと推測されるから、領国化が北条氏など他の大名家と比較して劣っていたとはいえ、これだけの所領拡大は見事なもので、戦国時代でも十指に入る名将と言えよう。
 では、最大の好敵手とされる武田信玄や関東で争った北条氏康と比較するとどうかというと、どうも劣っている面が目立つように思われる。戦国大名として優れている者は、外交・調略で勢力を拡大していくものだが、謙信はこの点で両者、特に信玄と比較して大いに劣っているようで、信玄の調略により家臣が離反し、そのために好機を逸したことも屡々である。所領の領国化が劣っていて、家臣統制も必ずしも上手くはいっていなかったようである。この点、信玄の手腕は見事なもので、駿河侵攻により今川・北条・上杉氏を同時に敵に回した時も、外交・調略と素早い軍事行動で三氏を釘付けにしたり翻弄したりし、危機を脱している。
 これに対して謙信は、直接武力に訴えることが多く、徳川家康との同盟や織田家との友好関係に見られるように、無論外交努力も完全に怠っていたわけではないが、どうも後手後手に回ることが多く、折角北条氏と結んだにも関わらず、無理難題を言って北条氏を武田氏の側に再度回してしまっている。
 だが、直接武力に訴えることが多かったことは、後世高く評価される要因にもなったようで、その意味では無駄ではなかったかもしれない。普通、戦国大名は損害の大きい主力決戦は避けるもので、氏康も信玄も謙信との直接対決は避けることが多く、何だか謙信は信玄と氏康にあしらわれているようにも思われるのだが、戦国大名の中でも特に高く評価されている両者が忌避したというこで、謙信は実力以上の評価を受けることになった、と言えるかもしれない。

 謙信の死因については、脳卒中というのが一般的な見解である。謙信は大酒飲みで、梅干を肴にすることが多かったそうだから、何とも因果関係が分かりやすい。

 

 

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