統治機構の発達(其の二)

 

 第10回で高柳光壽氏の「わが国に於ける国家組織の発達」を引用してこの問題について述べたが、私自身の考えは殆ど述べていなかったので、今回は古代日本列島における統治機構の発達について、ざっと私見を述べてみたい。

 日本列島において、最初に国家か否かの問題になる組織は、中国の史料にも見える弥生時代の各集落であろう。この問題については第29回で述べたので繰り返さないが、日本列島における国家成立を考える際、弥生集落にその出発点を求めるのは妥当なところだと思う。無論、縄文集落が一定水準以上の社会機構を備えていたことも、無視はできないだろうが、国家成立の問題を考える際には、縄文時代と弥生時代の間に画期が認められると思う。
 弥生集落は中国の史書では「国」と呼ばれ、戦争・外交・植民などを通じて政治的統合を進めていき、やがて倭国が成立することとなったが、倭国は多数の「国」から形成されていた。これは特に変なことではなく、「国」は元来は小規模なもので、それが次第に統合されていって大規模なものとなったのだが、大規模な国が成立する段階になっても、元来の国の意味合いが失われたわけではなく、規模が小さくても纏りのある地域や、より規模の大きい国に従属する地域を国と称することがあった。漢代には、漢王朝という国に属する諸王の封邑地やそれよりも小さい諸侯の封邑地をも国と称したわけであり、倭国が多数の「国」から形成されていたとしても、不思議ではない。無論、これはあくまで中国史書での認識であり、実態がどうかというのはまた別問題であるが、ともかく中国の知識人は、2世紀前半には倭国という政治秩序が成立していたと認識していたのである。
 では実態はどうなのかというと、倭国とはいっても時代ごとに大きな違いはあろうが、その基本的性格は交易を重視する政治同盟だったと思われる。つまり、平和と安定した資源の配分が倭国「中央政権」に求められたのであり、そのために中国諸王朝に「全国」を代表して朝貢したのだろう。倭国「中央政権」が握っていたのは、「全国の」規範となる祭祀の施行権と外交権と資源の配分権で、到底統一国家とは言えないような政治組織だったと思われる。もっとも、当初の倭国が有していたのは外交権と配分権で、祭祀施行権をも有する倭国の成立は3世紀前後だったであろう。
 この倭国「中央政権」は次第に地方に浸透していき、7世紀後半の律令国家の成立となる。普通はこれを以って中央集権的統一国家の成立とするのだが、律令国家といえども政治同盟的性格は払拭できておらず、従って統一国家ではないと私は思う。
 また、律令国家の成立で中央集権化が完成したわけではないだろう。よく、律令制はすぐに弛緩したとされるが、実はそうではなく、律令国家の理念である一元的支配は、その後長い時間をかけて徐々に達成されていったのではなかろうか。高柳光壽氏も仰るように、荘園の発達は中央政権の衰退を意味するのではなく、逆に中央政権の地方への浸透を示していると思う。とはいえ、律令国家成立の意味はやはり大きく、その後の「日本」の枠組みを大いに規定したところがあるのは間違いないところだろう。

 

 

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