小路田泰直『日本史の思想』(前編)

 

 柏書房より1997年に発行された。副題は「アジア主義と日本主義の相克」である。小路田氏の著書『「邪馬台国」と日本人』は第3回でも取り上げたが、こちらの方が先に発表されている。『「邪馬台国」と日本人』の内容は、本書を踏まえてのものでもあるので、なるべく早く読んでおこうと思っていたのだが、信長について色々と調べていたので、読み終えるのが遅れてしまった。小路田氏の関心は、現在の日本の民主主義の在り様である。「辺境」に押し付けて解決する日本の戦後民主主義は、もはや成り立たず、変わらねばならない。では、どうすれば変われるのか。そのためには日本の民主主義の成り立ちを深く知る必要があり、本書はそのための模索である。以下、先ず概略を、次に雑感を述べていくが、長くなりそうなので、2回に分けて掲載する。雑感は、後編の最後に述べることにする。

 

 

 戦後歴史学は、大正デモクラシーと戦前ファシズムとの間に越えがたい断絶を認めてきたが、両者の間には連続性が認められ、大きな差はなかった。15年戦争を、「我々」の政治参加の存在した大正デモクラシーの必然的帰結ではなく、天皇制や軍部によって抑圧された独裁時代の過誤として戦後歴史学は認識した。その結果、戦後歴史学の歴史認識は、歴史の変化を自らの主体的行為の帰結ではなく、「我々」にとってはどこまでも他者である誰かの作為や状況に帰せて説明する、没主体的なものとなった。
 大正デモクラシーは、社会的同権化と政治的民主化という二つの要素の組み合わせであった。一般に、両者は同じ民主主義の中で調和すると考えられているが、そうではない。社会的同権化は議会制民主主義の大衆政治(衆愚政治)化=形骸化と巨大な官僚集団の誕生=政治の官僚化を齎す。政治の官僚化は政治の無秩序化を齎すから、それを矯正するには政治の民主化が必要だった。故に、民主主義が政治風土として定着していようがいまいが、大正デモクラシーは必要とされたのだが、それは政治の官僚化の必要から生まれた民主主義であって、国民の欲求・参加意識に支えられたものではなく、故に大正デモクラシーは脆くも崩壊した。
 当時の日本には、社会的豊かさと、社会的同権化を進め「官僚的行政」を肥大化させていくために必要な民主主義を、それでも民主主義だと理解して受容するだけの強固なナショナル・アイデンティティが存在しなかったのである。何故なら、日本の歴史学が、国民共同の過去の記憶を創出することに失敗し続けたからであった。その理由を史学史の中に探ろうとするのが本書の課題である。

 

 日本近代国家の完成された形態を大日本帝国憲法体制に求めるとすると、それは水戸学的名分論とアジア主義の二つの歴史観・思想によって支えられていた。前者は、国民の信頼(世論)という客観的で具体的な基準を設けた点と、世論を祖法(皇祖皇宗の法)に名を借りた法として規範化し、叡慮(天皇の意思)に名を借りた命令として意志かした点に、特徴があった。また、仏教伝来以前に真の日本文化を認めた点も特徴と言える。後者は、自らの伝統の中に、自立した個人を前提に形成される市民社会の伝統を発見しようとして、アジア規模における文明の交流に着目した内省的なナショナリズムで、日本においては、仏教伝来以降の歴史に真の日本文化が認められた。
 このままでは、両者は重要な点で相容れないが、アジア主義において、日本はアジア文明の博物館である、と想定されることにより、両者の接近が可能となった。つまり、他に征服されることなく、途切れなく主権が続いてきたこの日本は、アジアの文化の貯蔵庫となった、という想定である。絶え間ない征服と王朝の興亡のあった中国の文化は、日本において保存され、遂には中国の学者自身、知識の源泉を日本に求めるようになった、というのである。
 この「日本=アジア文明の博物館論」により、日本文化の形成はアジア文明の圧倒的影響下で行なわれたとするアジア主義と、万世一系の天皇が日本を統治することを正当視する名分論的国体論とが融合しやすくなった。「日本=アジア文明の博物館論」はまた、モンゴルの膨張によりアジア文明の破壊、モンゴルを阻止した日本と西欧という観点を提示することにより、日本と西欧の対等性・日本とアジアの非対等性という認識を提示し、同時にモンゴルを退けたという点を強調することで、名分論的歴史観との間に神国思想という接点を持つことができた。

 

 大日本帝国憲法体制が、水戸学的名分論だけでなく、これと歴史観が大いに異なるアジア主義を必要とし、アジア主義の側に水戸学的名分論との接点が模索されたのには、理由があった。名分論の論理は、必然的に大政委任論、更には天皇親政論にまで行き着かざるを得なかったが、名分論が成立するには天皇が不執政の君主である必要があり、矛盾が生ずることになる。故に、名分論を成立させるには、「天皇の意志=覇者の意志」という虚構が成立し、その覇者に大政が委任される必要があった。明治政府は、当初、英国型責任内閣制を導入し、議会多数党の党首=覇者にしようとしたが、議会を通じて形成される世論に全幅の信頼は置けず、責任内閣制を断念せざるを得なかった。
 そこで政府は、個人の天賦の自由を前提に成立させる立憲制を、国家の伝統に規制された特殊な制度として成立させようとし、そのために、特殊主義と歴史主義の合理化が要求された。そこで必要とされたのが、一つには社会有機体説または社会進化論であり、もう一つがアジア主義であった。アジア主義を用いて、日本の伝統が立憲的に読み換えられたのである。
 アジア主義は、日本のナショナリズムに普遍的価値を与える役割を果たした。アジア主義は、差異はあれど、西欧の侵出に対してアジアに広く見られたものだった。アジア主義は、自らの文化的自立性を主張し、尚且つ価値相対主義に陥ることなく文化的多元主義として理念化された。未開・野蛮として(半)植民地化されてきたアジア諸国が、自らの文化的個性を強調することによって独立を達成しようとした時、頼るべき唯一の普遍思想だった。
 アジア主義が広まったのは、アメリカのアジアにおける発言力が拡大したからであった。世界は、強国が小国を併合して文明化させる天賦の権利を有する国際法秩序から、全ての民族に天賦の国権を認める国際法秩序へと移り変わっていった。つまり、建国の条件が、完全な文明化(西欧化)から、民族存在の事実=伝統へと変わっていたのである。そこで、伝統の近代的読み換えが必要とされたが、その際に活用されたのがアジア主義であった。
 だが、アジア主義と名分論との蜜月は長続きせず、南北朝正閏論争においてアジア主義者の喜田貞吉が敗れると(1911年)、正式に体制のイデオロギーから排除されることとなった。そして、アジア主義の凋落を示すのが津田左右吉の登場であった。以下、やや詳しく津田の歴史学について見ていく。

 

 津田は、中国思想の停滞・非普遍・反社会性を強調した。それは、中国文明の感化力の乏しさと日本への影響をできるだけ過小評価し、中国思想が近代国民国家の思想足り得ないことを証明するためであった。近代日本国民国家の淵源を外来のアジア文明に求めようとしたアジア主義者とは正反対の主張である。続いて津田は、日本の地理的孤立性とそれに起因する文化的後進性を証明したが、それは、日本文化よりも高度な中国文化を日本は理解できなかった、従って日本文化への中国文化の影響が皮相なもの(中央貴族段階)に留まった、と主張するためであった。故に津田は、記紀の中国思想やインド(仏教)思想で書かれた箇所は、潤色としてあっさりと切り捨ててしまった。津田は、古代以来中国文明の日本への影響は大きなものではなかった、日本と中国とは別個の世界で、一つの東洋という世界を形成していない、と主張するためにその膨大な歴史研究を行なったのである。
 津田の神代史(神話)研究が高く評価されたのは、記紀を史実を記した史書として読むのではなく、編者の精神を今日に伝える物語として読む立場を確立したからであった。津田は、本居宣長のように『古事記』を完全な史書と見做す立場だけでなく、記紀の記事を、確たる証拠もなく何らかの史実の反映と見做す立場でさえ、徹底的に排斥し、7世紀前後の日本の支配層の思想を解明する手法を確立した。従って、津田の神代史研究は、神代史を物語として成立させている基本精神の発見し、その基本精神に沿って神代史を物語として再構成させ、改めてその基本精神を確認する、という方法になった。

 津田の考えた基本精神とは、気に乗じ、折にふれて、皇室の由来を世に示さうとする特別の意思であった。津田の推量した神代史の形成のされ方は、神代史は皇祖を日神とするといふ思想が中心となってゐて、それを一方に於いて大和奠都・出雲退譲の歴史的事実と結合するために、日孫降臨及びオホナムチ国ゆづりの物語が出来、一方に於いて、それを国家に於ける皇室の位置と調和させるためにイザナギ・イザナミ二神の国土及び日神生産の物語が出来たのである。さうして、その二つを連結するためにスサノヲの物語が作られたのである、というものであった。津田は、こうした物語を作った古代国家が、氏族制的言説(祖先崇拝・族制制度の時代に起る思想)によって統合された、極めて凝集性の高い国家だと考えたのである(氏族制=血縁社会は観念にすぎなかった)。
 津田は、上代史については、『日本書紀』をあくまで史書として読むことを心掛けた。その結果、記紀の原型が形成され始めた頃には、日本は氏族制社会を出て国家段階の社会に入っていたとした。また、大化改新の意義を低く評価し、大化改新によって「廃罷」された氏族制度は「政治上」に残った「旧慣」にすぎなかった、とした。また津田は、日本における古代国家形成は、外部の影響は受けず、内部の刺激だけで行なわれたとし、古代日本は、
天を以て帝権の象徴とし地を以て民衆に擬し、天子を以て高いところから民衆を見下ろすものとする支那思想とは反対に、皇室があらゆる氏族の宗家であって、それと同じくし血統を同じくせられ、国民といふ一大家族の内部にあって其の核心となってゐらせられる、といった、主権者に対する恰も同族の長に対するが如き親愛の観念によって統合された、極めて特異な国家だったとした。つまり、日本がアジアの一角に位置しながら、例外的に近代国民国家の形成に成功し得た理由を科学的に証明しようとしたのである。そして、このように証明するには、日中間の文化的な溝の深さを強調するしかなかった。

 津田の学問の動機は、学問をする動機の最も重要なるものは、それによって国家の発達、国民文化の進歩に貢献しようとするところにあり、学問の効果は国家の隆盛となって現はれるのであります、であり、その目的は、国民の精神生活を豊かにし、特色ある国民的文化を形成し、人類の文化の発達に寄与し、またそれによって国家の品位と権威とを世界に高める、だった。更に津田は、(神代史をその形成された時代の思想によって解明した結果は)過去のいろいろの学者の考が、おのづから皇室の尊厳と国体の本質とを傷つけることになってゐるのとは反対に、ますますそれを明らかにする、とより明確にその目的を語っていたのである。

 

 

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