あらすじ&みどころ

レンチ・コネクションというのはフランス→アメリカの麻薬密輸ルートのこと。
フランスはマルセイユからニューヨークへ、約50キロで時価3,200万ドル(あえて1ドル360円で計算してみよう。さあ早く!)のヘロインの密輸を企てる国際麻薬シンジケートの大物、アラン・シャルニエ(フェルナンド・レイ)を、NY市警麻薬課のジミー"ポパイ"ドイル刑事(ジーン・ハックマン)バディ"クラウディ"ラッソ刑事(ロイ・シャイダー)が追跡する。1961年、実際にニューヨークで起きた事件の完全映画化。

ランスはマルセイユで、ひとりの刑事が開巻早々射殺されたあと、映画は12月のニューヨークで始まります。もうここで早くもグッと来るポイントがやってくるわけですが、なんでかといえばまァ刑事2人が冒頭から張り込みですよ。しかも変装して。ポパイ刑事はサンタクロースに変装して、黒人のガキに「クリスマスには何がほしいかな〜」なんて聞いてたり。そりゃ黒人の子供のほしいものと言えばラッパに決まってるだろう、なんてつまんないことを言わせる暇もなく、ホットドッグ売りに化けたラッソ刑事と2人で麻薬の売人を町外れの空き地まで(この空き地がまた場末感満点で素晴らしい)追いかけます。全力疾走するサンタとホットドッグ屋。いいなあ。
 いい絵だ
そんなこんなでこの2人、開巻早々ブッ通しで起きて仕事しっ放しなんだが、どうにも頭が冴えちゃってしょうがないので新橋の立ち飲み屋、じゃなくてクラブ、コパカバーナに一杯やりに行く。そこで目撃したのは派手に札ビラを切りまくる1人の男。自分たちはカウンターで乾きものをバリバリやりながらサントリーの赤とか飲んでるというのに、この優男(トニー・ロ・ビアンコ)は金髪の姉ちゃん連れてVIP席でシーバスなんか飲んでやがる。いやシーバスかどうかは知りませんが。しかも一緒にいるのは暗黒街の顔役ばかりだ。これはどうにも臭い、というわけで徹夜明けのポパイ刑事、隣のラッソ刑事と一緒にこの優男を尾行してみることにした。ラッソ刑事はどう見ても心底ウンザリしてるんだが、まァ何というか徹夜明けでもう何だっていいやという時におい、もう一軒行こうぜと言われると何か帰るのも面倒臭えし別にいいか、というヤケクソな心境になっちゃうことが往々にしてあるでしょ?このときのラッソ刑事がそんな心境だった。と勝手に推察しますが、それで朝っぱらから男2人が尾行であります。もう会話もないの。「…信じられねえ もう7時だぜ」というラッソ刑事の呟きも胸にしみます。しかしこの思いつきで始めた尾行が、後にアメリカ全土を震撼させた大捕り物の幕開けとなることを、この時点では誰も知らなかったのである!

ーン・ハックマンとロイ・シャイダー、この2人が実在の刑事をモデルにしたキャラクターを演じております。そう、この映画は国際麻薬犯罪史上最大(当時)の事件を映画化しておるんですな。まだ見たことのない方は今すぐご覧なさい。ビデオ屋のアカデミー賞コーナーに必ず置いてあります(71年、アカデミー賞5部門受賞。作品・監督・主演男優・脚色・編集賞)。
世間的にはこの映画といえば、高架線の上を走る電車とその下を爆走する車との変則カーチェイスが見せ場、みたいな言われ方をされることが多いんですが、バカ100連発的な見せ場はそこじゃねえんです。もちろんその、上と下のカーチェイスも充分「そんなバカな!」という突っ走りっぷりですが。 じゃあどこが見せ場なんだ、と問われれば、これはもう全編が見せ場だ!というぐらい、全編にわけのわからない緊張感が漂っているのであります。 たって全編の7割5分近くが尾行徹夜盗聴、押収した証拠物件の検分、そして張り込みで占められておるわけです。特に尾行。もう尾行の見本市だ。もうちょっと何かあってもいいだろうと思うんですが、まァこれが地道極まりない話なのだった。

 盗聴


督のウィリアム・フリードキン、『エクソシスト』でお馴染みですが、この人ドキュメンタリー上がりのせいか、特にこの当時はたぶん演出という概念の持ち合わせがなかった。『エクソシスト』の撮影現場でも、「本番いきま〜す!」と言ったところで何の予告もなしに猟銃をブッ放し、ビビって失禁寸前のキャストをそのままフィルムに納めるという、演出ってさあ…そういうことじゃねえだろ、と言わざるを得ない監督であります。 そんな『エクソシスト』に先立つこと2年のこちら『フレンチ・コネクション』撮影現場でも、犯罪を追う刑事のイライラをスクリーンの上に再現するために、フリードキンはジーン・ハックマンと顔を合わせる度に「バカバーカ、この能なし、大根」とか罵声を浴びせ続けて実際イライラさせたというから、演出とは何かそして演技とは何かということを深く考えさせられます。 さらにこのポパイ刑事のモデルになったエディ・イーガンという本物のデカ、この人が実際にどうしようもないレイシストだった。捜査の中で有色人種を殴ったり蹴ったりが当たりまえという、映画で描かれた以上に腐ったデカだったわけですな(映画の公開後、証拠物件のヘロインの申告を怠ったとの理由で懲戒免職。本人は「忙しかったんだこっちは!そんな申告なんかいちいちやってられっか」と逆ギレ)。ところがジーン・ハックマンは非常にリベラルだった。オレは演技でも黒人を殴ったりできないよ、どうしようと思っているところに監督からは顔を合わせる度にバカバカ言われるからもうたまったものじゃない。毎日毎日寒いし。寒いといえばこの映画、セットは一切使わず、ニューヨーク86カ所のオール・ロケを敢行。しかも真冬に撮ってるから、吐く息が真っ白であります。それである時、氷点下の街頭でブルブル震えながら演技に打ち込んでいると「ハックマン君さあ、全然寒そうに見えないんだよね!」と監督の声が。あんた寒そうに見えないも何も、実際寒いんだからどうしろと言うのか。それでも演技の鬼だ。性格俳優だ。ハックマンは度重なるNGにも負けず、寒さに発狂しそうになりつつ演技を続けた。だがそれでもフリードキンは納得しない。「どうも演技が違うんだよなあ!」いままで何度NGを食らったか。「じゃあどうすればいいんですか!寒いんだよオレは!演技も何もあるか!」とうとうハックマンがブチ切れた。するとフリードキンが「だからお前、演技なんかしないで、そこで寒がってりゃいいんだよ!」それでハックマンはカメラの前でブルブル震えてOKを貰い、その日は何も言わずに現場から上がった。それから数日間、ハックマンは監督をシカトし続けたという。 というわけで映画に漂う並々ならぬ緊張感は作りでも何でもなくて、要はホントに緊張してたんですな。現場が。

んな緊張感と倦怠感が同居した、どうにも居心地の悪い空気の中で繰り広げられる張り込み。そして尾行。ヘロイン密輸の黒幕シャルニエとその片腕、ピエール・ニコリ(マルセル・ボザッフィ)、このニコリが名前の割にニコリともしない(あー…失礼)無気味な存在感を醸し出してますが、この2人がフランス料理屋で優雅に晩ご飯を食べるその向かいの路上でピザをベチャベチャ食ってるポパイ、というのは非常に有名なシーンですな。このピザの他にも完全に冷え切ったコーヒーだとかあんまり旨そうには見えないホットドッグとか、ちょっとあんたもう少し考えたほうがいいんじゃねえかと言わざるを得ないポパイ刑事の食生活も、この映画の見どころであります。でまァ何ごとも形から入る、ということを旨とするオレことホークはちょっと寒くなると仕事中にわざわざ外でホットドッグを買い食い、「あぁ……オレって刑事さんみたい…」とウットリするのである。悪いか!

コーヒーも冷えちゃった 



というわけでそんな、たまらない食生活を送りつつポパイとラッソの地道すぎる捜査は続く。そんな2人が邪魔でしょうがないシャルニエに地下鉄で撒かれて地団駄を踏んだり、思うに任せない捜査状況にイヤミばかり言う役人と大喧嘩を演じてみたり、直々にポパイを狙撃しに来たニコリを追って例の電車VS自動車のカーチェイスを繰り広げたり、えらい目に遭いつつもポパイはついにシャルニエを追い詰めるのである。えらく端折りすぎな気もするがまァそういう話ですよ。

 知らないオバサンが撃たれた!


だ世間的にはそういうポパイ刑事のものすごい執念が取り沙汰されがちですが、オレがここで声を大にして主張しておきたいのはロイ・シャイダー演じるバディ・ラッソ刑事の存在感である。この人基本的にはポパイ刑事の隣で呆れる、というのが主な仕事なんだが、実際問題このラッソ刑事がいなかったら『フレンチ・コネクション』は始まらんのですよドンドンドンドン(机をたたく音よ)。黒人のプッシャーに腕を切られてえらく疲れてるにもかかわらず、ポパイに尾行を付き合わされる冒頭から始まって、まァだいたいポパイ刑事が突っ走るたびにヤレヤレという顔をする、このロイ・シャイダーが見たくてオレは何度もこの映画を見たのである。
それがあなた、最後の最後にポパイがシャルニエを追い詰めるも間違ってFBN(麻薬取締局)の役人を射殺、「お前これ、味方撃っちゃったよ」とラッソは突っ込むが「あの野郎、まだこの辺にいるぞ…やってやる」もはやポパイはまるで聞いちゃいなかった。「………」絶句するラッソ。これ!このロイ・シャイダーの絶句ぶりが何とも言えず素晴らしいですよ。まさに世界一の絶句俳優だ。ここまでは呆れつつも相棒を信じて一生懸命やってきたラッソ刑事が、こりゃダメだ、もう俺は付いていけねえという顔をするんですな。この顔があるから、ポパイ刑事がとうとうあっち側に行っちゃったという状況が見ているこっちにズーンと響いてくるんですよ。もうオレはここで泣かずにはいられない。 いや泣いてるのはオレだけかもしれないが。そう思うと何だか、寂しいのはお前だけだと言われているようでさらに涙がこぼれます。
拳銃を握りしめてシャルニエを追うポパイ。その姿が見えなくなったところで銃声が一発響き、暗転。そうやって映画はスパッと終わる。そのあと、写真1枚にキャプションという『アメリカン・グラフィティ』もしくは『アニマル・ハウス』方式で登場人物のその後が語られる。それぞれに逮捕、釈放、起訴、または行方不明。最後に「ドイル刑事とラッソ刑事 麻薬課から転出、その後復帰」と2人の写真。しかし復帰と言われたところで例の、ラッソ刑事の絶句があるから「あーきっとまた仲良くやってるんだろう、ヤレヤレ」とはならない。だからこのキャプションも、それに続編『フレンチ・コネクションII』もオレにとっては何とも寒々しいものにしか映らないのだ。だからこそ、きっと『II』にラッソ刑事は出てこないのである。何でも物事こじつけてみりゃいいってもんでもないが。

リードキンにしてみれば「結末はどうでもいいんだ」そうである。これが普通ならお前どうでもいいことあるか、真面目にやれ真面目にと思うところだが、こと『フレンチ・コネクション』に関してはこういう結末以外にどんな終わり方があるんだ、としか思えないからさすがだ。だって例えばこれでポパイ刑事が普通にシャルニエを逮捕して何か気の利いたことのひとつやふたつ喋って終わってごらんなさい。もう台無しですよ。ここまで付き合ったオレは何なのよと思いますよ。
実際フリードキン的には事件の顛末とかそういうことより、ポパイ刑事が最終的にあっち側に行っちゃった、ということのほうが重要だったのだろう。あっち側ってどっち側なんだと思いますが、こっち側じゃないことだけは確かだ。あっちだのこっちだの、オレは3歳の迷子か?ただとにかく「原作は読んでない。ていうか敢えて読まなかった」なんてことを言ってますけれども、だからフリードキンにしてみれば実話だろうが何だろうがそんなことはどうでもよくて、要はそこに登場してくる人間にだけ興味があった。
考えてみればフリードキン映画ではいつでも、主人公があっち側に行ってしまうではないか。『エクソシスト』のカラス神父しかり、『クルージング』も『LA大捜査線/狼たちの街』もみんなそうだ。要するに刑事も犯罪者も聖職者も悪霊も結局は一緒、どっちがどっちという境界線なんて実に頼りないものなんだということだろう。という何となく偉そうな締めで次項に続く!

それで結局、男の仕事って何なのよ

登場人物

おまけ企画 ロイ・シャイダーの香ばしいファッションギャラリー

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