バックナンバー(十四)    第七十四話〜第七十八話

「な、何じゃ?。どうしたんじゃ。何をあわてておる。」
強欲爺さんはバタバタしているほうを見てそういった。
「脱走者とかいってましたが・・・。こっちに戻ってきていないものがいる、とか言ってませんでした?。」
「ふむ、そんな風に聞こえたが・・・。」
静かな禅寺風の庭を牛頭が何人か駆けていった。
「ほう、あんな牛頭でも走ることがあるんだ。ほう・・・。」
強欲爺さんは、珍しいものを見るように言った。否、確かに珍しい光景である。
今までもそうだったのだが、裁判所ではそこにいる鬼や牛頭馬頭、夜叉たちは、皆静かでおとなしいようであった。落ち着き払った感じがして、バタバタするようなことはなかった。こんな状況は初めてである。並んでいる死者たちは、物珍しそうに駆けていく牛頭を見ていた。
「しかし、この裁判所はどこでチェックしているんですかねぇ。」
「おぉ、あそこじゃ、この庭の中の道を進むと小さな門があるぞ。どうやら、あそこで順番をチェックしているらしい。」
そういわれて先を見てみると、確かに小さな門があった。そこには馬頭が座っていた。手には書類のようなものを持っている。それと、実際の死人と照らし合わせているのだろう。脱走者、というかこっちの世界に戻ってきていないものがいれば、ここでわかるのだ。
「それにしても、こっちへ戻ってこないとは、どういうことなんじゃ。ワシの場合、勝手に身体が引っ張られたんじゃが。」
「抵抗できなかったんですか?。」
「うん、できないような感じがしたんじゃが・・・。それとも何かにしがみついて・・・いや、無理か。身体がないからのう・・・。どうやって現世に留まったんだろうか。」
「そうですねぇ・・・。」
俺は、山おとこさんたちから聞いた話を思い出していた。確か、ものすごい未練や怨みがあった場合、こっちの世界に引っ張られる力を超えてしまうことがある、と言っていたように思う。死出の山からも出て行ってしまうとか、一旦こっちの世界へ来てすぐに現世に戻ってしまうとか、そういう場合もあるのだとか、確かそう言っていたように思うが・・・・。あぁ、そうだ。未練や怨みが強すぎると、現世に留まる場合があるのだ。現世に戻ってしまうのだ。しかし、それは苦難の道でもあるはずだ。あの死出の山で消えてしまった男のように・・・・。
「何を黙りこくっている。」
強欲爺さんの声で、気が付いた。
「あ、いや、考え事をしていたんですよ。こっちの世界に戻ってこないで、いったい何をしているのだろうと思って・・・。なんで現世に留まったのだろうかと思って・・・。」
「あぁ、そうか・・・。まあ、それなりに事情があるのだろうな。淋しくなったのか、遣り残したことでもあったのか・・・。人それぞれ、事情があるからな。」
「そうですね。・・・あぁ、でも、脱走者は省かれるのですよね、きっと。前に進んでいっているようですし。」
「あぁ、そのようじゃな。こっちに戻ってこなかったものは、順番を飛ばされるようじゃな。」
そうなのだ。こっちに戻ってこなかったものは、飛ばされているようなのだ。そのものが戻ってくるまで待つ、ということはないようだった。いつもの裁判所のように、我々が並んでいる列は、少しずつではあるが前・・・門に向かって進んでいたのだ。
後ろを振り返ってみた。浮気女も並んでいた。どうやら無事に裁判を受けられるようだ。なんだか俺はホッとした。しかし、彼女の方は俺には見向きもしなかった。俺が話しかけない限り、彼女は俺には気が付かないのだろうか。目に入らないようにできているのだろうか。ちょっと寂しくもあった。
「あの、ちょっと聞いていいですか?。」
「なんじゃ、改まって。」
「はぁ、あの私が話しかける前は、私に気付きませんでしたか?。」
「うん?、なんじゃ?・・・・あぁ、そういえば、お前さんに話かけられる前は・・・何をしていたのだっけ?。覚えているのは・・・・・。」
そういうと、強欲爺さんは考え込んだ。ひょっとすると、記憶が残らないようにできているのか。いや、でも俺はよく覚えている。待てよ、俺は特別なのか?。他の死人は違うのだろうか。
「う〜ん、よく思い出せんのう。一回目の裁判所や前の裁判所でのことはよく覚えているんじゃが・・・。いや、現世に戻ったときや現世でのできごとも覚えている。だが、ここでお前さんに話しかけられるまでは・・・、ただ並んでいたな。庭がいいなぁと思っていたことは確かじゃ。」
「前にいる死人の方は誰か覚えていますか?。」
「前にいるのは・・・たぶんこんな人だったんだろう、と思うがな・・・。それに後ろは、お前さんだし。順番は変わってないじゃろう。誰も抜けておらんと思うが・・・。」
「はぁ、そうですねぇ。誰も抜けていないでしょう。うんうん。」
どうやら、余分な記憶はない、らしい。これは気をつけていないといけない。重要なこと、裁判でのことや、三途の川でのことなどはしっかり覚えているが、周りの死人のことはわからないようになっているのだ。気付かないというか、視野に入ってないというか、認識されないというか・・・。ただし、俺に話しかけられたことは覚えていることは確かだ。しかし、それも再び俺のほうから話しかけなければ、思い出さないらしい。だから、強欲爺さんの前の覗き見教師も俺に気付かないし、あの浮気女も俺が振り返ってみても無視をしているのだ。彼女は、俺が振り返ったとき目が合っているのに知らない顔をしていた。全くの他人であるかのように・・・。
どうやら、そういう仕組みらしい。

辺りは静寂が戻っていた。脱走者が出た、といって騒いでいたが、いったいどうなったのだろうか。走り去っていった牛頭たちはどうしたのだろうか?。今では何事もなかったように静まり返っている。並んでいる死人も誰もなんとも思っていないかのようだ。
「静かですねぇ。」
「うん?、あぁ、静かじゃな。」
「脱走したものについてはどうするんですかねぇ。」
「あぁ、どうするんじゃろうな。」
「連れ戻すんですかねぇ。」
「たぶんそうじゃろう。脱走兵は捕まるか射殺じゃ。もう我らは死んでいるのだから、捕まるしかないだろう。」
やはり、反応が鈍い。どうやら、余分なことは考えられないようになっているのだろう。となれば、脱走者についての話は無理だ。そのことは、裁判官に直接聞いてみるしかない。
とすれば、強欲爺さんに聞くことは、爺さん自身のことになる。おそらく自分自身のことなら、話をするのではないだろうか。そう思って、俺は話を振ってみた。

「そういえば、お茶をたしなんでいるとか言ってませんでしたか?。」
「あぁ、言ったな、うんうん、そうそう、この庭を見ていて思い出した。ワシはな、お茶の趣味があったんじゃ。唯一の趣味じゃった。」
「掛け軸とかも凝っていたんですか?。」
「うんうん、そうじゃ。ワシは書が好きじゃったのう。禅僧の書は、本当にいい。いくら見ていても飽きん。」
「たくさん持っていたんですか?。」
「あぁ、随分集めたなぁ・・・。茶碗に、茶さじ、棗、釜、掛け軸に、香炉・・・・。随分金をかけた。大切にしていた。なのに、あいつらめ・・・。」
やはり、自分のこととなると、話がはずむようだ。強欲爺さんの顔つきが変わっていた。初めは、懐かしむような顔をしていたのだが、今は怒っているようだった。
「あいつら、ワシが残した骨董品をめぐって争っておった。哀れなものよ。そのもののよさを少しも見ないで、金に換算してみておる。ワシも似たようなものだったかも知れぬが、もう少し美というものがわかっておった。いいものが高い、とは限らんのだ。高くても悪いものもある。なのに、あいつらは金でしかものを見ない。あげくの果てには、誰がどの骨董品をもらうかで争いよ。困ったものじゃ。」
「遺言とか、残してなかったんですか?。」
「あぁ、しまったと思っておるよ。ある程度の財産については弁護士に任せてあったからいいのじゃが、骨董品まではなぁ・・・・。あれは、ワシの趣味じゃからなぁ・・・。まさか、あいつらがあんなに強欲とはな。我が子ながら恥ずかしい。ついでに妾どももやってくる始末じゃ。」
「現世は、揉めていたんですか?。」
「そうじゃ。まあ、弁護士が入っているからな。四十九日が終わるまでは揉めないように、と申し合わせができておったようじゃが、兄弟や親子で結託して、それぞれいろいろ作戦を考えているようじゃった。もう、いやになるよ。あんな姿の子孫は見たくないな。醜いものじゃ。あぁ、財産なんて残すんじゃなかった。」
「そんなもんですかねぇ。お爺さんの所なんて、遺産がたくさんあるでしょうから、揉めそうにないと思うんですが・・・。」
「イヤイヤ、そんなことはない。いくら金があっても、いくら資産があっても、人より多く欲しがるのが人間よ。まあ、このワシ自体がそうじゃったからな。エラそうなことは言えんが、兄弟姉妹であっても、他のものより余分にたくさん欲しいと思うものよ。」
「そんなもんですかねぇ。庶民にはわかりませんよ。だって、一人頭、何億というお金を相続するんでしょ。」
「あぁ、そうなるな。それでも、もっと欲しいんじゃよ、あいつらは。少しでも他の兄弟姉妹より多く、少しでも高級なものをたくさん手に入れたいんじゃ。まるで、餓鬼じゃのう。醜い、あぁ、醜い。哀れなものじゃ。ワシはなぁ・・・聞いてくれるか?。」
「はい、聞いてますよ。」
「ワシはなぁ、現世に帰ってみて、ガックリしたんじゃ。ワシはな、女房や娘、息子たちのところへ順に尋ねていったんじゃ。ワシが死んだことをどう思っているのか知りたくってな。ところがじゃ・・・。あぁ、まあな、ワシも悪かったんじゃ。あんな教育しかしてこなかったのだから。でもなぁ、もう少し、もう少し人間らしさがあってもいいものよなぁ・・・。」
「いったい、何があったんですか?。」
「あぁ、まずワシは女房の所へ行ってみた。すると、女房のヤツ、ワシの部屋のありとあらゆるところを探しまくっておった。ワシの書斎の鍵はワシと女房しか持っておらん。だから、ワシが死んでから、毎日のようにワシの書斎に入ってはいろいろ探しておったのだろう。」
「探すって・・・なにを?。」
「決まっておる。金になるものを、じゃ。女房のヤツ、黙っていても財産の半分は手に入るのに、強欲な・・・・。あんなヤツだとは知らんかった。確かにワシも悪い。妾がいたからな。しかし、妾は妾じゃ。必ず、女房の元へ帰っておった。しかも、あれのわがままはすべて聞いてきた。なのに、ワシの書斎を独り占めして毎日のように探っておる姿は・・・・見られんぞぉ。息子や娘たちが、ワシの書斎を見せろといっても、絶対見せないんじゃ。鍵はわたさんと言い張っておる。息子や娘たちも弁護士をたて、鍵を渡せと遣り合っていた。平等にしなければいけないのだ、とな。息子や娘にもワシの書斎に入る権利があるのだ、とな。あいつらは、もう人間じゃない、餓鬼じゃ。強欲な餓鬼じゃ・・・。」
「そ、そうなんですか・・・。それは・・・、つらいですねぇ・・・。」
俺はなんといっていいのかわからなかった。強欲爺さんも、現世を見て、結構辛かったようだ。しかし、その割には時間一杯まで現世にいたのだが、なぜだろうか。奥さんやお子さんたちの、そんな姿は見たくなかっただろうに。

「ワシの子孫たちは、毎日、争い、争い、争いじゃ。ワシが女房や子供に残したものは、争いだけじゃ。いたたまれんわい。」
「でも、制限時間ギリギリまで現世にいたんですよね。早く戻ってくることは考えなかったんですか?。」
「そんなことは思わなんだ。」
「なぜです?。そんな姿、見たくなかったんじゃないですか?。辛いでしょう。早くこっちに来てしまえば、そんないやな姿を見なくてもすみますよ。」
「責任じゃよ。責任・・・・。ああなったのは、ワシのせいだからじゃ。」
「あぁ、そういうことですか。お爺さんのせいで奥さんやお子さんたちが争っている、ということだからですか。」
「そうじゃ。ワシのせいじゃ。ワシが、あいつらにろくな教育をしなかったから、今のあいつらがあるのだ。いくら学歴があってもこればかりはどうしようもない。人間の心の問題だからな。だからこそ、ワシが悪いのだ。だから、ワシはあいつらのことを最後まで見る義務がある、そう思ったんじゃ。ワシは、見なければいけないんじゃ。」
流石である。こっちの世界へ逃げ帰ってしまった覗き見教師とは大違いだ。やはり日本を背負ったほどの大物となると、責任のとり方もよくわかっているのだろう。その辺の小物とは大違いである。
「女房や子供たちが、あんな餓鬼のようになってしまったのは、ワシの責任じゃ。ワシは、できることなら、責任を取りたいのじゃ。自分のケツは自分で拭きたいんじゃ。だがなぁ・・・。ワシは死んでしまった。というか、死んだからワシの愚かさに気が付いたのだがな。あぁ、バカじゃった。生きているときは、ワシには何も見えていなかった。もし、もし、生き返ることができるなら、『この強欲者たちが!』と一喝してやりたい。いや、生き返らなくてもいい、声さえ届けばいいんじゃ。大声で怒鳴り倒してやりたいんじゃ・・・・。そう思って見ていたら、時間が来てしまった。」
「そうだったんですか。それは、辛かったですよねぇ・・・。」
「あぁ、つらかったなぁ・・・。で、ここに来て、この庭を見て、ホッとしていたところよ。静かないい庭じゃ、とな。生きているとき、よく禅寺に行って庭や書を眺めておった。そういえば、禅僧とも何度か話をしたなぁ・・・・。そ、そうじゃ、あの坊主ども、死後にこんな世界があるなんて一言も教えてくれなかったぞ。茶の話ばかりしておった。利休がどうのとか、掛け軸がナンボとか、抹茶碗のいいのが出たとか・・・。まあな、確かに茶を通じて空ということは教えてはくれたが・・・・。今から思えば、坊主どもも欲の塊であったか。誰一人、ワシに『強欲なのも程々にせよ』と一喝してくれなんだなぁ。『この世は空じゃ』とわかったようなことばかりっていたが、あの坊主らも何もわかっていないのだろうな。はぁ、虚しいばかりじゃ。あぁ、死んでからわかっても遅いなぁ、なぁ、そう思わんか?。」
「えぇ、そうですねぇ。確かに、死んでからわかってもね、遅いです。」
「そうじゃろ。しかし、坊さんというのは、死後の世界のことは知らんのかなぁ。死んでから、子孫を見て、辛く思うこともある、後悔することもある、とは教えてくれなんだぞ。」
「死後の世界を信じていない坊さんもいるらしいですからね。まあ、今は葬式してナンボの時代ですから。」
「そうじゃなぁ、そういう時代じゃな。それにしても、我が子孫よ、困ったものじゃ。」
強欲爺さん、相当なショックだったようだ。それもそうであろう。自分の奥さんや子供たちが、自分の残したもので争っているのである。骨肉の争いをしているのである。そんなことなら、何も残さなければよかったと思うに違いない。
財産、お金・・・。人を狂わし、苦しめるものなのだ、と俺はつくづく思った。そして、俺が残してきたものはいったいなんだったのだろうと考えてみた。
俺は、いったい何を女房や子供に残すことができたのか・・・・。それは、あまりにも少なかった・・・・。


「お前さんは、どうだったんじゃ?。帰ってみて、どうだった?。」
強欲爺さんが俺に質問してきた。
「そうですねぇ。まあ、お爺さんの所みたいに財産争いって言うのはないですけどね・・・。でも、やっぱり辛かったですよ。私は早死にですから。」
「あぁ、そうじゃな。悪いことを聞いたな、すまんのう。」
「いえ、いいんです。もうあきらめてますから。今更、現世に戻ることもできないし。戻ったところで肉体はないですからねぇ・・・・。女房を抱くこともできなければ、子供を抱きしめることもできません。どうしようもないです。」
「そうじゃな。死んでしまえば、おしまいじゃな。生きている、というのは、大事なことじゃな。死んでからでは、何もできない。後悔ばかりじゃ。」
「そうですね。私ももっと女房に優しくすればよかったとか、もっと早い時間に家に帰って子供たちと遊べばよかったとか、そんなことばかりしか頭に浮かんでこないですよ。ホント、後悔ばかりです。もっと身体を大事にすればよかった、無理するんじゃなかった・・・・とかねぇ。今更、遅いです。」
「そうじゃ、死んでしまえばどうしようもない。はぁ・・・、自殺するヤツの気が知れんよ。死んだっていいことなんか一つもない。生きているとき、如何に愚か者だったか、それを思い知らされるだけじゃからな。それで現世に戻って、さらに後悔させられるんじゃあ、死んでからの方が辛いわい。」
「ホントそうですよね。生きているときの方が楽しいですよ。嫌なことも多かったですが、救いもありましたからね。楽しいこともありましたからね。」
「そうじゃ。こういうことを宗教者はまったく教えてくれなかった。今の坊主はロクなもんじゃないのう。霊能者とか言う連中は、胡散臭いだけだしのう。」
「そうですね。確かに、こんなことは誰も教えてくれませんでした。でも、教えてもらっていても信じませんでしたけどね、私の場合。」
「あぁ、そうか、お前さんは無信心じゃったなぁ。ワシはな、昔話や鬼の話は聞いて育ったが、こういうしっぺ返しがあるとは、誰も教えてはくれなかったのう。まあ、昔話や鬼の話、それに寺に庭や茶などは、本当の仏教というのかな、それとは違っているようだがな。よくはわからんが・・・・。」
「そうかも知れませんね。おや、いつの間にか、随分進みましたよ。もうすぐ門番のチェックです。」
「おぉ、そうじゃな。相変わらずの馬面か・・・・。見飽きたな。」
「聞こえますよ。ほら、こっちを見て睨んでます。」
「平気じゃ。馬面が裁判するわけでもなし。チェックだけだからな。」
強欲爺さん、現世でのことが余程こたえていたのか、ちょっとふてくされ気味であった。ぶすっとした表情のまま、門番のチェックを受ける番が回ってきた。
「見飽きた顔で悪かったね、え〜っと、強欲院金泥腹黒厚顔大居士・・・長い名前だな、長けりゃあいいってもんじゃないが・・・。ま、名前がないよりはマシだな。よし、よく帰ってきた、中へ入れ。」
強欲爺さんは、返事もせず、ぶすっとしたまま、門の中に入っていった。
「次、釈聞新か。お早いお帰りで。仕事ははかどっているか?。」
「あ、はい、あのそれは秘密で・・・・他の人に聞こえちゃまずいんじゃ・・・。」
「他のヤツには聞こえないよ。前の強欲爺さんのチェックでの会話は、お前は聞こえるが、他の死者には聞こえないんだよ。そういうことだ、前に進め。」
「へぇ、そうなんですか。ところで・・・。」
「質問は、ダメだ。チェックに忙しいんで。そうそう、強欲爺さんに言っておいてくれ。俺らの顔も、よく見ればみんな違っているってことを。それがわかれば飽きないってな。」
「はい、わかりました。」
馬面はそういうと、俺に早く進むように言って、次の死者の戒名を呼んでいた。妙にあっさりしている馬面だった。
どうやら各裁判所の前にいる馬頭や牛頭、夜叉、鬼たちの性格は、それぞれの裁判所で異なっているように思われる。一番初めの裁判所にいた鬼や牛頭・馬頭たちは、妙に強そうだったし、確かに威張ってもいた。二番目の裁判所の夜叉たちは、大変礼儀正しく静かであった。無言で働いていた。ここの馬頭や牛頭も静かではあるようだ。威張ってもいない。落ち着いた雰囲気がある。しかも、いざというときは、さっさと動く身軽さがあるようだ。先ほどの脱走者の騒ぎでも、素早い行動をしていた。さらに、門番の馬頭は妙にあっさりしている。的確にものを言うような、そんな感じがしたのだ。裁判所によって、使われる者たちの性格も変わってくるのだな、などと俺は感心していたのだった。

門の中に入ってからは、話をするのが憚られるような空気が流れていた。シーンと張り詰めた、緊張感がみなぎっていたのだ。この雰囲気は第二裁判所と似てはいるが、あそこ程は張り詰めてはいなかった。
「静かですね。」
俺は小声で強欲爺さんに話しかけてみた。
「あぁ、黙っていた方がいいように思うぞ。」
「やはりそうですか。前の裁判所と似てますね。」
「おぉ、あそこ程じゃないがな。が、しゃべらない方がいいだろう。」
「わかりました。」
それだけのやり取りをして、俺は口を閉じた。黙って、順に前に進むだけである。
門内は、砂利を敷いた庭であった。枯山水の庭園である。左右にその庭を眺めながら、まっすぐに続く道を前へ前とゆっくり進んでいた。といっても、自分で歩いているわけではない。勝手に身体が進んでいくのである。したがって、立ち止まることはできないし、走り出すこともできない。順番を入れ替わることもできないのだ。ただただ、黙って自分の順番が来るのを待つだけである。俺にとっては退屈極まりない状態であった。おそらく、他の死者は何も感じてはいないだろう。何も考えず、何も感じないまま、まっすぐ進んでいるだけなのであろう。
「それは違う。」
ふいに声が聞こえた。俺は、あちこち振り返ってみた。だが、俺に声をかけたらしい者は見当たらなかった。
「何が違うんだ?。」
小声でつぶやいてみた。
「お前の考えじゃ。」
「あ、その声は・・・、確か、俺が死んだとき話しかけたきた・・・、あの世の取材を持ちかけてきた・・・。」
「そうじゃ、よく覚えていたな。久しぶりじゃな。取材は順調に進んでいるようだが、一つ困ったことができたな。」
「困ったことですか?。」
「あぁ、そうじゃ。」
「それはなんですか?。私は別に困ってませんが。」
「お前さんは、特別扱いじゃ。それはわかっているな。」
「はい。重々承知しています。確かに、こっちの世界では優遇されているようで・・・。」
「そうじゃろ、それが困ったことなんじゃ。」
「いっている意味がわかりませんが。」
「そうじゃろうな、気が付かないだろう。あのな、お前さんは特別扱いじゃ。だから、他の死者の気持ちというか、状況が今ひとつ理解できていない。」
「どういうことです?。他の死者の状況って・・・理解できてますよ。」
「いや、今もそうじゃ。他の死者は何も感じていないで、ただ呆然と前に進んでいっている、としか思わなかったろう。」
「はぁ、まあ・・・。」
「それが違うというておる。」
「違うんですか?。」
「あぁ、違う。他の死者は、これから始まる3回目の裁判の行方がどうなるか、恐れおののいているんじゃよ。お前さんは、罪もあまりなく、自分は特別だからという意識があるから、安心していられるが、他の死者はそうではない。」
「どんな裁判になるか、心配していると・・・・。」
「そうじゃ、それが普通であろう。お前の前にいる爺さんだって、自らの罪を認め観念しているようだが、不安はあろう。平気なわけではない。そこのところが、お前さんは理解できていないんじゃ。特別扱いを受けているから安心しきっているのだろう。困ったのう。これでは、裁判の恐怖が現世に伝わらん。妙に緊張感のない、だらけた様子しか来ないんじゃ。さて、どうしたものか・・・。」
緊張感のないだらけた様子といわれても、俺自体緊張感はない。次の裁判も、何か生前の罪を責められるのではあろうが、俺に判決が出ることはないのだ。俺にとって見れば、裁判は他人事である。いや、インタビューの場でしかない。それに、裁判は七回ある、ということも知っているし・・・。だから、何も取材できないときは、緊張感はまるでない。だらけて当然だ。
「あぁ、そういうことですか。なるほど、私は今だらけてますよね。そうか、他の死者の人たちは、緊張したり不安がったりしているんですね、きっと。あぁ、そうですよね。ひょっとしたら、判決が出るかもしれないし。そうなれば、確かに緊張はしますよねぇ。」
「緊張はしますよねぇ、じゃないぞ。はぁ〜、弱ったものじゃ。たとえばなぁ・・・、ほら、お前の前の爺さんの前の中年の男、そいつなんてどう思っているだろうな。」
「ど、どこから見ているんですか?。あなたは、いったい何ものなんです?。」
「まあ、いいから、その中年男は、今どう思っているかのう?。」
「あぁ、そうですねぇ・・・。」
俺は、何だかわけがわからないまま、考えてみた。

「そうですねぇ、きっと不安でしょうね。裁判で、例の覗きのことがまた責められるでしょうから。緊張しているでしょうね。ひょっとしたら、地獄へ行け、といわれるかも知れないし。そうですね、ドキドキものでしょう。」
「まあ、なんと言うか、語彙が少ないな、お前さんも。現代のジャーナーリストっていうのは、こんなものかねぇ。三流じゃあしょうがないか。」
「悪かったですね、三流で。どうせボキャブラリィ〜が少ないですよ。」
「まあいい、そういうことじゃ。お前さん、思慮が少し足りないぞ。よくよく、周りの人間を観察せい。わかったな。」
「わかりましたけど、で、あなたは誰なんですか?。」
俺の問いかけには誰も答えなかった。俺は、またキョロキョロしてみたが、それらしい人物、牛頭や馬頭はいなかった。いったい、あの声は誰なんだろうか・・・・。
それにしても、俺も慣れ過ぎていたのかもしれない。確かに緊張感は全くなかった。しかも、他の死者も自分と同じような感じで捉えてしまっていた。ご指摘の通りである。慣れとは恐ろしいものだ。もうすっかり死者に慣れてしまっている。
「ちゃんと観察してみるか・・・。」
声に出していってみた。自分に気合を入れたつもりである。そして、あたりを何気なく見回してみた。
なるほど、この静けさはみなさんの緊張感の表れなのかもしれない。前の死者の表情は伺えないが、後ろを振り返ると、誰もが緊張しているのがよくわかる。死者とはいえ、なんとなく顔が引きつっているのだ。一人飛ばして後ろにいる浮気女ですら、そのかわいらしい顔が引きつっているようだ。両腕で自分を抱えるようにして、たたずんでいる。不安なのだろう。そうやって見れば、誰も彼もが不安そうな顔つきである。ニヤニヤしているものなど一人もいないのだ。当たり前といえば当たり前だった。
「そうか、他の死者にとってみれば、これは地獄へ行けといわれるかもしれない裁判なのだ。緊張して当たり前なんだな・・・・。」
俺は、これが死者の裁判であることをすっかり失念していたのだ。ちょっと浮かれていたのかもしれない。俺は、就職したてのころ、三流とはいえ取材者になったころのことを思い出した。
「そういえば、観察力が足りない、ってよく編集長に怒られたなぁ・・・。」
俺は、一人寂しくつぶやいていた。今となっては、いい思い出である。急に、編集長の怒鳴り声が懐かしくなった・・・・。

そうこうしているうちに、裁判所の建物が近付いてきた。順調に前へ前へと進んでいるようだ。この第三裁判所は、大きなお寺のような建物であった。これも京都や奈良のお寺を思い出させるものだ。石庭に大きなお寺・・・。日本人にはなじみの風景である。
そのお寺の階段を上がる。といっても、勝手に足が動いているのだが・・・。お寺の扉は開いている。そこへ死者の列が一列になだれ込んでいるのだ。
縁側まであがった。扉はもうすぐそこだ。そのとき、
「にゃ〜、にゃ〜、にゃ〜。」
と猫の声が聞こえてきた。続いて
「ひゃあ〜、か、勘弁してください。ち、ちょっとこれ、と、とってくださ〜い。お、お願いします。」
と、情けない声が聞こえてきた。何が起こっているのか、首を伸ばしてみたが、中の様子は見えなかった。そこで、強欲爺さんに小声で聞いてみた。
「中の様子みえますか?。何が起こってるんですか?。」
爺さんも小声で答えた。
「ワシにもまだ見えん。扉の中に入ればわかるかもしれん。じゃが、あれは猫の声であろう。」
「やっぱりそうですか。なんで猫がいるんですかねぇ。」
「う〜ん、よくわからん。」
そう言ったきり、爺さんは黙り込んだ。

爺さんが扉の中に入った。しばらくして、俺も中に入った。
扉の中は、広間ではなく、扉の幅のままの廊下であった。廊下というより、左右に壁が作ってある、という状態だった。その壁は天井まであるわけではない。本来は広間であったのだが、衝立で廊下状にしてある、という感じだ。だから、前で何が起きているかはわからなかった。横にはみ出そうにも無理なのだ。列をはみ出て、前を除いてみることはできなかったのだ。ただ、
「にゃ〜。」
という猫の声と、続いて、
「ひゃ〜、や、やめてください。そ、そんな・・・。」
という半泣きの震えた声しか聞こえないのだ。老若男女問わず、誰もが恐れ慄いた声を出していた。
中に入ってから、列が進むのが早く感じられる。どうやら、左右の衝立は、もう少しで終わるようだ。その先は、ちょっと薄暗い感じがした。
強欲爺さんの前にいる覗き見教師が、衝立の切れ端までやってきた。そこには、扉があった。
「覗見教師信士、中に入れ。一番左に座れ。」
その声は、大変小声であった。俺が聞こえるのがやっとであろう。俺の後ろの死者には聞こえないに違いない。実際、あの覗き見教師の前の人が呼ばれた声は俺には聞こえなかった。その小さな声で呼ばれた覗き見教師は、開いた扉の中に入っていった。そして
「う、うわっ!。こ、これは・・・。」
扉が閉まる瞬間、確かに覗き見教師の驚きの声が聞こえた。いったい中に何があるのだろうか・・・。
しばらくすると、
「にゃ〜、にゃ〜。」
という猫の声である。そして、
「あ、あ、ちょっと、それは・・・、あぁ、や、やめてください。」
という、本当に嫌そうな声が聞こえてきた。しかし、その声は覗き見教師のものではなかった。ということは、覗き見教師の前の方の誰かである。まだ、彼の順番は回ってきてはいないようだ。ゴトゴトと音がした。かすかな音ではあったが、聞こえてくる。何かゴニョゴニョ言っているようでもある。しばらくして、静かになった。すると、
「強欲院金泥腹黒厚顔大居士、中に入れ。一番左に座れ。」
と小声の指示があった。俺の前の強欲爺さんは緊張した面持ちだった。静かに開いた扉の中に入ると、
「おぉ、こ、これは。あ、悪趣味な・・・。」
扉が閉まる瞬間、俺には確かにそう聞こえたのだった・・・。

いったいどういうことなのだろうか。悪趣味ってどういうことなんだろうか?。俺は、俄然興味がわいてきた。なんといってもこっちの世界は、仏様の世界である。単なる「宗教的お話だけ」だと思っていた不動明王が実際に存在し、お釈迦様が鎮座しているのである。鬼がおり、馬頭や牛頭や恐ろしい顔をした夜叉がパシリをやっている世界である。そういう世界で「悪趣味」なことはないのではないだろうか。いわばこちらの世界は、「清浄なる世界」というものであろう。現実世界のように欲望や策略にまみれた、汚れた世界ではないのだ。それなのに「悪趣味」だという。それも、あの強欲爺さんが、である。興味が湧かずしてなんといおうか。
「にゃ〜。」
また、猫の声である。今回の猫の声は短いものだった。今までだったら、そのあとに「助けてくれ」とか「勘弁してくれ」とか叫び声とかが聞こえてくるのだが、今回の場合は
「う、うぅぅぅ。」
としか聞こえてこなかった。どういうことなのだろうか・・・・。俺は、早く中に入りたくなってきた。と、ここで俺は気付いた。
興味を抱き、ワクワクしているのは俺だけなのである。俺以外の一般の死者は、この声を聞いて、恐れを抱いているのだろう。猫の声とそのあとの救いの叫びに、恐怖を抱いているに違いない。次は自分の番だ・・・と。
ところが、俺には恐怖はあまりない。そういえば、前回の裁判のときには、恐怖心を抱いていたように思う。のどが渇くような、冷や汗が出てくるような、そんな緊張感があった。それはあの場所の空気がそうさせていたのかもしれない。第二裁判所の空気は、張り詰めたような緊張感にみなぎっていたから。
しかし、今は恐怖心はない。全くないかといえばウソになるが、恐怖心よりも、興味が勝っているのだ。ここが俺と他の死者との感覚の違いである。あの声の主は、このことを注意したのだ。俺の感想を伝え聞いている皆さん、俺は興味津々だが、普通の死者は恐怖に慄いているのですよ、いったいどのようなことで責められているのか、わかりませんからね。こうして、順番を待っているというのは、本当は怖いものなのです。心臓があれば早鐘のようにドキドキしているだろうし、肉体があれば血の気は引いて、緊張で身体はコチコチになっていることでしょう。冷や汗もたっぷりかいているに違いありません。裁きの順番を待つというのは、ものすごく恐怖なんですよ、皆さん・・・・。
俺は誰にともなく、注釈を入れておいた。そして、これでいいだろ、声の主さん、と付け加えておこう・・・。

そうこうしているうちに
「釈聞新、中に入れ。一番左に座れ。静かに見るだけにしろよ。」
と呼ばれ、俺だけ、一言余分に付け加えられた。質問はなし、ということである。
中に入る。俺は、
「うわっ、こ、これは・・・。」
と思わず声がでてしまった。確かに、悪趣味かもしれない。そこには、怪しげな大型の黒猫と巨大な蛇がいたのである。
俺は指示された通り、静かに一番左に正座した。正座したのは、隣の強欲爺さんも正座していたからだ。前回の裁判も正座して待っていたから、きっと椅子に座るということはないのだろう。だいたい、肉体はないのだから、今の姿は仮の姿のようなものだから、正座しても足はしびれないし、腰も痛くはならないのだ。足が不自由な人でも簡単に正座できる。肉体があるようには見えるが、実体はないのである。まあ、いわば幽霊と同じなのだ。
しかし、あれは怖い。あんな大きな蛇に近付かれたら、いくら肉体はないといっても怖い・・・・。
その大型の猫は、裁判官の向かって右側(つまりは裁判官の左手側)に座っており、巨大な蛇は裁判官の向かって左側(つまりは裁判官の右手側)にとぐろを巻いていた。どちらも、鋭い眼で我々を睨んでいる。眼が赤く光っていて、妙に気持ちが悪い。怖いというより気味が悪い、といった方がいいだろう。

裁判を受けているのは、お坊さんじいさんである。
「さて、宗真、汝の裁判を始めよう。裁判官である私の名は、宋帝王である。この裁判を見守ってくださるのは、文殊菩薩様である。」
裁判官の冷たい情のない声が響いた。
猫と巨大な蛇にばかり眼がいっていてすっかり気付かなかったが、裁判官の後ろには仏様が鎮座していた。裁判官・・・宋帝王という名らしい・・・によれば、その仏様は文殊菩薩である。
文殊菩薩といえば学問や智慧の仏様だったはずだ。三人寄れば文殊の智慧、のあの文殊さんであろう。宋帝王という裁判官の後ろに控えている文殊菩薩は、右手に剣を持ち、左手には蓮の華を持っていた。その花の上には巻物が浮かんでいた。
文殊菩薩は、厳しい顔をしていた。俺のイメージでは、文殊菩薩といえばもっと優しい感じがしていたのだが、実際は違うようだ。妙に眼が鋭い。
宋帝王の声に、お坊さんじいさんは、かしこまって「はい」とも「へい」とも区別がつかないような返事をした。宋帝王は、そんなことにはお構いなしに話を進めていった。
「ここでは、邪淫の罪について問う。邪淫とは、どういうことかわかるかね?。」
「は、はい、わかります。えっと・・・淫らな性行為をしてはならない、だったと思いますが・・・。」
「そう、それでよい。まあ、汝も一応出家者ではあるから、説明は要らぬであろう。では、汝に問う、汝は邪淫を犯したか?。」
ズバリ、宋帝王は聞いてきた。宋帝王の声そのものが、情のない冷たい感じがするので、その聞き方は余計に冷たさを秘めたものに感じられたのかもしれない。まさに鋭いナイフで切られたかのような、そんな非常さが感じられたのだ。
「私は、そのようなことはやっておりません。女房一筋でした。女房にすら欲情を感じるほうではありませんでした。」
「ふむ、ウソはついてはいないな?。」
「はい、ウソは申しておりません。」
「では、調べよう。行け!。」
宋帝王はそういうと左手を上げ、お坊さんじいさんの方を指差した。すると、今までじーっと座って睨んでいた大型の猫がゆっくりとお坊さんじいさんに歩み寄ってきた。赤い眼で睨みつけながら・・・。
お坊さんじいさんは、思わずのけぞったが、逃げることはできなった。勝手に身動きは取れないのだろう。座ったまま身体をそらすだけである。猫はお坊さんじいさんの周り廻り、身体をこすりつけるように一周した。そして
「にゃ〜。」
と小さな声で鳴いたのだった。その声を聞いて、宋帝王が言った。
「よろしい、ウソはないようだ。出家者である汝は、本来裁判などを受けるべきではい。出家者は修行をして覚りを得ていなければならない身であるゆえ、輪廻から解脱すべきである。しかし、出家者は堕落した。覚りどころか地獄へ落ちるものが増大している。そんな中で、汝の罪は軽い。その点は、誉められても善いことであろう。しかし、前回の裁判で初江王に注意されたであろうが、出家者としては物足らないのも事実である。汝の生き方を、欲のない生き方を説くべきではあったろう。尤も、汝自身は、自覚もなく、ただ面倒ごとを避けたいがための生き方だったのであろうが・・・・。
まあ、いいであろう。ここでは邪淫の罪のみを問う。汝は、その罪を犯してはいない。次へ進むがよい。以上だ。連れて行け。」
宋帝王の冷淡な声が響いた。馬頭が左右の脇のほうから、一人ずつ出てきた。お坊さんじいさんの両脇を抱え上げると、そのまま奥へと連れて行ってしまった。次へ進んでよい、というのだから、地獄とか監獄のようなところへ連れていかれるわけではないのだろうが、なんだか罪人扱いのようで、嫌な感じがした。自分で立って、自分で外に行くようにさせればいいのではないだろうか。俺はそう思った。
「罪人なのだ、あなたたちは。」
冷たい声が聞こえた。俺は、驚いてキョロキョロした。
「宋帝王だ。汝の魂に直接話しかけている。他の死者には聞こえない。」
俺は、びっくりして宋帝王のほうを見た。当の宋帝王はそ知らぬ顔をしている。
「汝の方など見なくても、話はできる。汝を見ていないということは気にするな。そのまま聞くがよい。」
「は、はい。」
その語りかけは、全く無駄のない、逆らうことを許さない強さを感じる話し方であった。
「よいか、汝ら死者は、罪人なのだ。勘違いしてはいけない。現実世界で様々な罪を犯してきたものなのだ。現実世界の法律には触れることはしていないかもしれないが、人間としての戒律には触れることを多々しているであろう。ここでは、それを問うているのだ。従って、汝らは罪人なのである。人間として犯してはならぬ罪を犯したかどうか、それを裁くのだ。ここへ来た以上、汝らは罪人である。そのことを忘れないように。よいな。」
宋帝王は冷たく言い放った。有無を言わせぬ強さがあった。それは、高圧的ではあったが、反発などできそうにない、隙の全くない言葉だった。だから
「はい、わかりました。自覚いたします。しかし、ここへ来た以上、ということは、ここへ来ていないものは罪人ではないのですか?。」
俺は思わず質問をしていた。
「妙な突っ込み方だな、揚げ足をとるとは。素直ではないな。否、むしろ素直か。疑問をそのままに口にできるのだから。」
無論、揚げ足を取ったつもりはない。単に疑問に思ったことを口にしたまでである。素直なのだ、この俺は・・・・。宋帝王は続けた。
「まあ、よい。ここへ来ていない死者でも罪人はいる。地獄へ直行したものだ。裁判を受けずに。また、天界へ直行したものは罪人ではない。あるいは、稀ではあるが、極楽へ行く死者もいる。そういう死者は罪人ではない。従って、ここに来ない死者のうちでは、罪人もいれば、そうでないものもいる、というのが正しい。」
理屈屋である。宋帝王は理屈屋なのだ。いい言い方をすれば、理論家といってもいい。情が感じられないのだ。
「理屈屋・理論家・・・どちらでもよい。無駄な言葉が嫌いなだけだ。情は裁判には不要である。それだけだ。」
俺の心を読んだようである。というか、会話の続きだったのだから仕方がない。俺は素直に
「すみませんでした。」
と謝った。
「無用である。おしゃべりはこれまでだ。」
冷たい言葉が飛んできた。
「やりにくい・・・。」
それが正直な俺の感想であった。

「次、覗見教師信士、前に。そこの二人、ずれろ。」
馬頭の声が飛んできた。
「通普信士、中に入れ。一番左に座れ。」
同じように、次のものが呼ばれた。
前に出るように呼ばれた覗き見教師は、よろよろとおぼつかない足取りで宋帝王の前に座った。
「さて、覗見教師、汝の裁判を始めよう。裁判官である私の名は、宋帝王である。この裁判を見守ってくださるのは、文殊菩薩様である。」
宋帝王は、あらためて自分と文殊菩薩を紹介した。全く無駄のない会話ばかりのこの場に、それはそぐわないような気がしたが、きっと決まりごとなのだろう。そう思った俺の疑問には、先ほどのような答えは、なにもなかった。やっぱり、やりにくい。宋帝王の言葉が続いた。
「ここでは、邪淫の罪について問う。邪淫とは、どういうことかわかるかね?。」
そう問われた覗き見教師は、素っ頓狂な声を出した。
「は、はい、わ、わかっております。あ、あ、あ、あの、あの、許してくださ〜い!。」
そう叫ぶと、彼は床にひれ伏していた。

「ど、どうか、お許しください。わ、私は・・・と、とんでもないことをしてしまいました。」
床にひれ伏しながら、覗き見教師は泣き叫んでいた。しかし、宋帝王は、相変わらずの表情だった。冷たい視線を向けて
「質問にのみ答えなさい。邪淫とはどういうことかわかるかね?。」
といい放ったのだ。なんと冷たい、なんと嫌なヤツなんだろう、俺はそう思った。他にかけてあげる言葉があるんじゃないかと、憤りさえ感じた。
しかし、覗き見教師は、その冷ややかな声に驚いたのか、宋帝王に顔を向け
「あ、あ、あぁ・・・、す、すみません。取り乱しました。・・・邪淫の意味はわかります。」
と答えた。その反応は意外であった。むしろ、反発したり、喚いたりするのかと思ったが、意外にも覗き見教師は落ち着きを取り戻したようなのである。
泣き叫んでいた男が、宋帝王の冷たさに、自分を取り戻したのだろうか。そうなのかもしれない。今のように、取り乱した人物を目の前にした場合、かえって冷静な言葉をかけられた方が落ち着くのかもしれない。話を聞く側は、落ち着き払っていないといけないのだろう。泣き叫ぶものや、取り乱しているものに対したとき、自分もあわてていては、相手の話などを聞けないであろう。怒ったり、なだめたりするよりも、初めの質問を冷たく繰り返した方が、効果があるのかもしれない。まあ、いずれにせよ、覗き見教師は、落ち着きを取り戻したようだった。

「ふむ、邪淫の意味はわかるか。では、どんな意味だね?。答えてみよ。」
宋帝王の冷たい声が響いた。
「はい、邪淫とは・・・・性的に淫らな行為をすることです。性的な秩序を守らないといいますか、性的なことに関し、人間としてはやってはいけないことをすることです。」
「ふむふむ、そうだ。では、具体的にどんな行為があるかね?。」
「はい・・・・わ、私のように・・・・の、覗きをしたりとか・・・・。あ、あぁぁぁ・・・・。」
「他には?。」
「ほ、他には・・・・ふ、不倫とか、浮気とか・・・・。で、でも私の罪は・・・そんなことよりも深くて重いです。私は、私は・・・・。うおぉぉぉ、おぉぉぉ・・・・。」
「罪が重いか深いかを判断するのは、我々の方だ。あなたではない。まあ、反省しているという点は、よいことなのだが・・・・つまり、あなたには邪淫の罪がある、ということだな。」
「は、はい、私には邪淫の罪があります。」
「そうか、よし、では調べよう。さぁ行け!。」
宋帝王がそういい、左手を上げると、あの真っ黒な大猫が覗き見教師の方へゆっくりと近付いてきた。そいつは真っ赤な目を光らせ、覗き見教師を睨んでいた。よく見ると、その顔はニヤニヤしているようにも見えた。
大猫は、覗き見教師の周りを身体をこすりつけながらゆっくり一周すると、すばやく覗き見教師のまん前に行き、彼の顔を睨みつけ、全身の毛を逆立て、今にも覗き見教師に飛び掛りそうになった。そして、
「うにゃ〜、にゃにゃにゃ〜、うぎゃにゃ〜、うにゃ〜!!!!!。」
と大声で鳴いた。それは、鳴き声というより、相手を威嚇しているような攻撃的な声であった。
「う、うわ、うわ〜、た、助けてくれ〜。」
大猫の姿に驚いたのか、はたまた猫に襲われると思ったのか、覗き見教師は後ろへひっくり返ってしまった。
さすがに俺もびっくりした。覗き見教師があの大猫に噛み付かれるのではないか、と思ったくらいである。隣を見ると、強欲じいさんもびっくりした顔をしていた。誰だって、こんな状況を見れば、驚くであろう。ただ一人を除いては・・・・。
そう、宋帝王だけは、冷静そのものだった。
「ふむ、なかなか邪淫の罪が深いようだな。よし、下がれ。」
その言葉に、毛を逆立てていた大猫は、すっと毛を戻すと覗き見教師に尻を向け、元の場所に戻っていった。もはやすっかりおとなしい大猫の状態である。宋帝王の隣にうずくまって目を閉じていた。一瞬で緊張感が緩んだ。

「汝、反省しているか?。」
ぼんやり猫を見ていた覗き見教師に宋帝王は尋ねた。
「えっ、あ、はい、反省しております。」
「心から反省しているか?。」
「はい、反省しております。どんな罰でも受けます。今すぐこの場で、どんな苦しみを受けようとも、私は構いません。」
「本当にそう思っているか?。」
「はい、そう思っています。反省しております・・・。」
「ふむ、よし、では試そう。」
そういうと、宋帝王は右手を上げ、
「行け!。」
と言って、覗き見教師のほうを指差した。すると、それまで宋帝王の右側でとぐろを巻いていた大蛇がゆっくりと動き始めたのだった。
その大蛇は、本当に大きかった。現実世界に存在する蛇とは比べ物にならないくらいでかかった。その巨大な蛇は、赤い目を輝かせ、不気味な舌をチョロチョロ出しながら、覗き見教師に近付いていった。
「う、うわ〜!!!!、や、やめてくれ〜、助けてくれ〜!!!!。」
あまりの恐怖からだろう、覗き見教師は叫び声を上げていた。そこから逃げようとしているのだが、腰が抜けたようになっているのか、一向に立ち上がることもできなければ、這いずることもできないようだ。足が座ったまま床に張り付いたようになっている。覗き見教師は、それでも大蛇から逃れようとして、身体を後ろへそらした。
大蛇は、ゆっくり覗き見教師の顔に、自らの顔を近づけていった。チョロチョロと出ている舌で、覗き見教師の顔を舐めていた。
「かっ、かっ、あ、はっはっ・・・くぅ・・・った・・・、は・・・。」
覗き見教師は声にならない声をあげ、後ろへのけぞった。顔が引きつっているのがよくわかる。そりゃあそうだ、恐ろしくて声も出まい。
大蛇は、そのまま覗き見教師の周りを廻り始めた。一周、二周、三周・・・そして、その大きく長い身体で、覗き見教師を締め付け始めたのだ。
「う、うわ〜、やめてくれ、し、死ぬ〜、助けてくれ〜、やめてくれ〜!!!!。」
あらん限りの声を振り絞って、彼は叫んでいた。しかし、大蛇は締め付けることをやめようとはしなかった。
ギュ〜っと締め付けたかと思うと、大蛇はその顔を覗き見教師の目の前にもっていった。そこで、締め付けは止まったようだった。彼は、今にも失神しそうな顔をしていた。
「おかしいねぇ、汝、ウソをついたな。」
宋帝王の冷たい声が響いた。
「先ほど、汝はどんな罰でも受ける、今すぐここで受け入れる、といったな。ところが、汝は助けてくれと叫んだ。本当に反省しているのかね?。」
それは酷だ。いくら反省していても、あんな大蛇に絡まれたら、本能的に助けを求めるだろう。泣き叫ぶに違いない。反省とこれとは別じゃないか。
「ふむ、どうやら、不服のようだな。よいか、そもそもは、汝が言ったのであろう。反省している、どんな罰をも受け入れる、今すぐここで罰を受けても構わない、どんな苦しみでも構わない、そう言ったのは汝だな?。」
宋帝王の問いに、覗き見教師は首を立てに振りながら、かすれ声でいった。
「は、はい、確かに・・・そういいました。しかし・・・。」
「しかし、なんだ?。」
「こ、これは・・・・。こ、怖い・・・。」
「どんな罰でも受けるといったではないか。これがその罰であるなら、汝は黙って受け入れるべきであろう。本当に反省しているならば、たとえ恐怖に慄こうとも、助けてくれ、はないであろう。大蛇はいきなり絡みついたわけではない。ゆっくり汝に近付いたのだ。これが汝への罰である、と想像くらいはつくであろう。助けてくれ、やめてくれ、という言葉が出るのは、汝が心から反省しているわけではない、ということだ。そう思われても仕方がなかろう。」
宋帝王の言葉に、覗き見教師は目を閉じて何も答えなかった。
「汝は、反省した振りをしていただけだ。確かに、悪いという気持ちはあったろう、とんでもないことをしてしまった、という思いはあったろう。しかし、それでもどこかに舐めたところがあるのだ。
仕方がないじゃないかぁやってしまったことだ、性癖なんだから仕方がないだろ、勘弁してくれよ反省してるよ、悪かったよ、謝るよ・・・・。
一種の開き直りでもあるし、反省している振りをしていれば許してもらえる、という甘えでもあるのだ。否、むしろ、反省している自分に酔ってしまっているところも見受けられる。
本当の反省はそんなものではない。本当に心から反省しているものは、大蛇に絡まれようとも、ここでその大蛇に飲み込まれようとも、叫び声はあげるが、苦しみの声はあげるが、助けてくれとは言わないものだ。そうではないかね?。」
冷たく鋭い視線が、覗き見教師を貫いた。彼は、うなだれ、何もいえなかった。

確かに理屈はそうであろう。本当に反省しているならば、助けてくれ、などと叫ばないかもしれない。確かに、どんな罰でも受ける、今すぐでもいい、といったのは覗き見教師自身だ。
しかし、あんな大蛇に絡みつかれたら、反省なんて頭の中からすっかり飛んでいるだろう。恐怖心で、ここがどこかも忘れてしまうに違いない。肉体がないことすら忘れてしまっているのだ。死者であることすら忘れているのである。それぐらい怖いのだ。
確かに宋帝王の言っていることは正論である。しかし、理屈でどうもならないこともあるのだ。俺は、ちょっと腹がたってきた。
「どうだ?、本当に反省していたのか?。」
宋帝王はあらためて聞き直した。
「は、はい・・・・。ほ、本当に心から反省しては・・・いませんでした・・・・。」
なんと、覗き見教師は意外なことを言ったのだった。本当に反省していない?。どういうことなんだ・・・・。覗き見教師は、苦しそうな声で続けた。
「しょ、正直にいえば・・・・、泣いていれば、泣いて頭を下げれば許してもらえると・・・・、そう思っていました。泣いて謝れば、許してもらえるだろうと・・・・、思ってました。で、でも、・・・・悪いことをしたと思っているのは本当です。取り返しのつかないことをしてしまった、いけないことをした、家族を不幸にしてしまった、そのことはわかっています。それは、本当です。」
「それが真実だな。よし、下がれ!。」
宋帝王がそういうと、大蛇はサササッと絡んでいた身体を解き、元いた場所へと戻っていったのだった。
「は〜、は、は、は・・・。」
解放された覗き見教師は、前にのめりこんで、両手を床に着き、うなだれていた。
「反省していなかったわけではありません。言い訳に聞こえるかもしれませんが、反省はしています。悪いことをしたという、反省はしています。しかし、罰を受ける覚悟ができていませんでした。どんな罰でも受ける、と口では言いましたが、それは真実ではありません。ポーズでした。そういえば、反省しているように見えるからです。私は、醜い男です・・・・。」
そういうと、彼は両手で顔を覆い、泣き始めたのだった。

なるほど、これは現実世界での裁判の判決と同じなのだ。俺はそう思った。
たとえば、現実世界において、罪を犯したものが裁判で懲役○十年の判決を受けたとする。その裁判で、その罪を犯したものは、深く反省していると述べていたから、極刑や無期ではなく○十年になったんだと裁判官が説明したとする。よくある裁判である。被告人が反省しているようだから、情状酌量して求刑よりも減らしましょう、という判決である。ところが、判決を受けた本人は、それが不服で控訴することがある。俺は、かねがねこれはおかしいと思っていたのだ。
本当に反省をしているならば、どんな判決が下りようとも、それを不服に思うことは間違いであろう、そう思っていた。本当に反省しているならば、どんな罰でも受け入れるはずである。不服を申し立てるということは、本当に反省していないのではないか、そう考えていた。
いま、その答えがわかった。俺の考えは正しかったのだ。心から、本当に反省しているものは、たとえどんな判決を下されようとも、不服には思わないものだ。素直に受け入れるものなのだ。判決を不服に思うものは、心から反省などしていない。
まさにそのことを宋帝王は示したかったのだろう。本当に反省しているならば、どんな罰でも受け入れる覚悟をしなさい、ということなのだ。その覚悟ができないなら、それは本当の反省とはいえぬのだ、ということを教えているのである。ただ単に、
「悪いことをしたとは思っている」
程度なのだ。
現実世界で、判決を不服と思って控訴するものは、本当に心から反省しているとはいえないのである。本当に反省しているのなら、どんな判決を受けても、素直に受け入れるべきであろう。現実世界も、死人の世界も同じである。人間はずるいのだ。所詮、我が身がかわいいのである。
俺は、宋帝王を誤解していたようである。嫌なヤツだ、と。でも、それは間違いであった。

「ようやく気がついたようだな。汝が思ったとおりだ。ここでは、邪淫の罪を問うと同時に、心から反省いているのかどうかをも問うているのだ。」
その声は、俺の魂に直接響いてきた声だった。他の誰にも聞こえてはいない。
「そういう目で、よく見ているがよい。」
「はい、わかりました。」
俺は心の中で返事をした。

「さて、覗見教師信士、心から反省するという意味がわかったかな?。」
「はい、わかりました。私はまだまだ甘えていました。」
「ふむ、幸い、汝の家族は・・・特に配偶者は、気持ちはどうあれ、汝の供養をしているようだ。三七日の供養もされておる。近頃では珍しいことだがな。それに免じて、ここで判決を下すことはやめよう。従って、次へ進んでよし。」
「つ、次へ進むのですか?。」
「そうだ。次の裁判を受けるのだ。従って、次の裁判までは現世に戻ってよい。否、むしろ戻るべきだ。現世に戻って、迷惑をかけた人々の所へ行くがよい。行って、反省を深めるがよい。わかったな。」
「は、はい、わかりました。」
覗き見教師は神妙な顔をしてうなだれたいた。
「よし、この者を連れて行け。」
宋帝王がそういうと、馬頭が二人現れ、覗き見教師の両脇をそれぞれ抱えながら奥へと連れて行ったのであった。


「次、強欲院金泥腹黒厚顔大居士、前に。そこの二人、ずれろ。」
あの覗き見教師が連れ出されると、強欲じいさんを呼ぶ馬頭の声が響いた。そして、
「釈妙艶信女、中に入れ。一番左に座れ。」
と呼ばれたのは、あの浮気女である。俺は、少し気になって横目で見てみた。しかし彼女は、
「ひっ。」
と、小さく叫んだきり、神妙な顔つきで座っただけだった。やはり、俺のほうは見ていない。やはり、気付かないのだ。
「さて、強欲院金泥腹黒厚顔大居士、汝の裁判を始めよう。裁判官である私の名は、宋帝王である。この裁判を見守ってくださるのは、文殊菩薩様である。」
いつもの通り、宋帝王は自己紹介をし、早速、強欲じいさんの裁判を始めたのだった。
「ここでは、邪淫の罪について問う。邪淫とは、どういうことかわかるかね?。」
いつもの宋帝王の質問に強欲じいさんは落ち着いて答えた。
「はい、わかっております。性的に淫らな行為をすることを邪淫といいます。たとえば、妻がありながら他の女性と深い関係になる、あるいは複数の異性と深い関係を持つ、または幼児や少年・少女に性的な行為をしたりする・・・・、それらはすべて邪淫です。」
「ふむ、その通りだ。よい回答だな。では、汝に問う。汝は邪淫を犯したか?。」
宋帝王は厳しい目つきで質問をした。強欲じいさんは、その宋帝王を真っ直ぐ見て答えた。
「はい、邪淫の罪を犯しています。」
「ほう、それを認めるか・・・。では、問う。それは、どんな邪淫の罪か?。」
「わしには、妻以外に深い関係があった女性が、数人おりました。その日限り・・・という女性を入れるならば、その人数はわからないですな・・・。世の男性ならば、付き合いや酒の席での行きがかり上、女を抱くこともあります。そういう場合その女性は、抱かれる職業・・・売春婦ですな・・・そういう者たちでした。金で買ったのです。今の世の中、否、随分昔からそうした習慣というか慣わしというか、そういうものがあるのですから、ただそれに従ったまでですな。まあ、それはその日限り・・・という女性ですな。
他に、わしには妾がおりましたからな。妾が数人、おりました。中には、ほんの何ヶ月かの付き合いで切れたものもいますが、だいたい数年、関係が続きましたな。最後の妾は、付き合いが長かったですな。わしもいい年でしたから、肉体関係というより、女房にない癒しを求めていただけですが・・・・。」
そこまで話をすると、強欲じいさんは、首をひねり、考え込むような素振りをした。そして、
「そうですな・・・、わしは、癒しを求めていたんですな。それにあの妾たちを心から愛しておった・・・・。そういうことから思えば、わしは邪淫の罪を犯してはいませんな。あれは邪淫でもなんでもない・・・そうじゃ、ようやくわかった。わしは、邪淫の罪など犯してはいません。」
と大きな声で宋帝王に告げたのである。俺は驚いた。前回の裁判では、自分は罪深い人間だということを認めた強欲じいさんだったのに、ここでは全く逆になってしまったのだ。しかも、初めは自分の罪を認めたのにも関らず、である。邪淫の罪がある、と認めたにもかかわらず、話している途中で、それは邪淫ではない、といいだしたのだ。いったい、どういうことなのだろうか?。
宋帝王もさぞ驚いたことだろう、と思って、宋帝王の顔を見ると、別に驚いてはいなかった。普段と変わらぬ顔つきだったのだ。
「ふむ、気が変わったのかね?。それとも、汝には邪淫の罪は犯していない、という根拠があるのかね?。」
宋帝王がそう問いかけると、強欲じいさんは、真剣な顔をして答えたのだった。
「思うに邪淫というのは、自分勝手な思いで、異性の肉体を弄ぶ・・・否、肉体だけでなく精神もじゃな、それを弄ぶことを邪淫というのではないかな。相手の意思を無視して、己の性欲に従い、相手を弄ぶ・・・肉体も精神も弄ぶ・・・・それが本当の意味での邪淫なのではないだろうか、そう思うんじゃ。お金を払うこともなく、ただ肉体を貪る、それを邪淫というのではないだろうか。ここ最近では身体だけの関係を持つ友達、というのがあるそうだが、それこそが邪淫なのではないだろうか。性的関係を持つだけの友人、性的関係だけの間柄、性的欲求を満たすことができればいいという関係、それを求める心こそが邪淫なのではないだろうか。わしは、そう思うのです。そうであるなら、わしの場合は邪淫ではない、そう断言できますな・・・。
否、イヤイヤイヤ、そうではないな。邪淫は邪淫なのだな。うんうん・・・。そう、間違いました、訂正します。わしには、邪淫の心はあったが、罪は犯してはいない、のですな。異性の肉体を求める心はあったから、それは邪淫ですな。しかし、お互いに契約は成立しているから、それは罪とはいえないのではないかな?。あぁ、しかし、そうすると、肉体だけの関係も契約が成立しているのか・・・・。う〜ん、わからん、わからなくなってきた。邪淫とは、どういうことじゃ・・・・。」

強欲じいさんは、頭を抱えてしまった。邪淫とは、ということを考えすぎたのだろう。なるほど、邪淫にもいろいろ考え方があるものだ、と俺は思った。あの覗き見教師は、邪淫を
『性的なことに関し、人間としてはやってはいけないことをしてしまうこと』
と答えていた。これも正解であろう。邪淫とは、と尋ねられればこのように答えても間違ってはいない。また、単に、
『性的に淫らなことをすること』
でも正解だし、
『不特定多数の異性と肉体関係を持つこと』
でも間違ってはいないだろう。しかし、お互いに納得していたら、それは罪になるのだろうか?。相手が嫌がることをした場合、罪になるのではないだろうか?。
たとえば売春は、お金を求めている女性が体を商品として売って金銭を得ているのであって、それは一種の商売だ、と思えなくもない。
「他に売るものがないのだから、身体を売っているのだ」
といわれれば、それまでであろう。何が悪いんだ、と当の本人はいうだろう。しかし、売春は罪である。それは道徳的に罪である。人間として、やってはいけないことだから罪である。
しかし、なぜ人間は身体を売ってはいけないのか?。本人がいいと思っているのなら、いいじゃないか。それのどこが罪なのか・・・・?。社会秩序が乱れるから?。病気が流行るから?。人間の尊厳が失われるから?。人間だから?・・・・。そうか、人間だから身体を売ってはいけないのだ。そうに違いない。それ以上の理由はないし、それ以下の理由もないのだ・・・。

「わしの場合、確かに、肉体的欲望だけで抱いた女性もいるが、それは金で買った場合のみじゃ。相手は、金銭を要求していた。その代わり肉体を提供した、それだけに過ぎん。それは、いわばビジネスじゃな。お互いの間で契約が成り立っておる。お互い、合意の上のことですな。それが果たして邪淫の罪といえるのだろうか?。それが邪淫の罪になるといわれても、わしには納得ができんですなぁ・・・。
妾の場合、あのものたちは満足しておった。家も与えた、給与も与えた。お手当て、というものじゃな。わしは、肉体的・・・というよりも、家庭的な安らぎを求めた。それは、邪淫といえるのじゃろうか?。・・・・確かに、女房以外の女性と関係があったのだから、邪淫といえば邪淫なのじゃろうが、それは罪なのか?。誰も泣いてはおらんが、果たして罪になるのじゃろうか?。
わしの前の男のように、覗き見をしたり、痴漢をしたり、強姦をしたりすれば、それは罪じゃな。間違いなく罪じゃ。だが、わしの場合はどうなんだ。すべて契約で成り立っておる。誰も泣いておらん。むしろ喜んでいた。それなのに邪淫の罪になるのじゃろうか?。・・・・そこのところが、わしにはわからなくなってきたのじゃ。
わしの順番が廻ってくる前までは、素直に邪淫の罪があることを認めるつもりじゃった。ところが、果たしてわしの場合は罪なのかどうか、わからなくなってきたのです。罪かそうでないか、邪淫か邪淫でないか・・・。わしは、妾たちを愛しておった。本当に愛しておった・・・。それでも、邪淫になるのですかな?。愛なのか、邪淫なのか、教えていただきたい・・・・。」
強欲じいさんは、そういうと、深々と頭を下げたのだった。

「汝のようなことを、詭弁でいう者がここには多数いる。そういうものは皆口をそろえてこういう。
『金で異性を買って何が悪い、売っている方が悪いんだ、買っちゃいけないのなら売らなきゃいい・・・。』
『お互い、満足していたんだ。誰も不幸にしていない。お互い、欲しているものを与え合っただけなのにそれが罪になるのか』
汝が疑問に思ったことと同じだ。しかし、そう嘯くものは、自分が悪いことをしているという意識があって言っている。だから、本当にそう思っているのか、と睨めば縮み上がってしまう・・・。
ところが、汝は違うようだ。本当に迷っているようだな・・・・。」
「はい、わしは、いいわけとか詭弁で言うとるのではありません。本当にわからなくなってきたんです。」
「ふむ、わかっておる。では、教えてあげよう。邪淫とはどういうことか、なぜ邪淫が罪なのかということを。
そもそも、汝らは勘違いをしておるのだ。邪淫とは、男女の関係が成り立つとか契約ができているとか、そういうことには関係がないのだよ。行為そのものを問うているのだ。
よいか、たとえば痴漢とか覗きとか強姦とか幼児への性的虐待とかは、説明しなくても罪だとわかるな。」
強欲じいさんを始め、順番を待っている我々も肯いた。
「当然のことだな。相手が嫌がることをしてはならない、相手が嫌がることは罪である、それは間違いなかろう。
ところが、邪淫は相手が嫌がることばかりではない。汝が言ったように、契約ができて、お互いに欲しいものを与えることによって、関係が成立する場合もある。それは、罪ではない、と思える。一見そう思えるであろう。誰も損をしていない、誰も泣いていない、皆喜んでいる、なのになぜ罪なのか・・・・、そう考えるものが大変多い。
ところが、よく考えてみよ、汝が妻以外の女性と関係していることを妻はどう思うであろうか?。喜ぶであろうか?。泣かぬであろうか?。
たとえばだ、一夫多妻制の国であるならば、それはその国の習慣であるから、生まれたころより一夫多妻制の教育を受けているから、女性は一夫多妻制が当然だと思っていよう。そこに疑問をはさむことはないであろう。しかし、それでも本来は一夫多妻制はおかしいのである。なぜなら、男女は平等であるべきだからだ。本来、男女において差があってはならぬからだ。性の区別はあっても、男女間で差別があってはならないからだ。それは、魂は平等だからなのだ。
しかるに、片方が多くの異性を抱えることができて、片方は一人で満足せよ、というのは不平等であろう。
そこでだ、汝に問う。汝の妻が、不特定多数の男性と関係を持ったら、汝はどう思うか?。嫌か構わぬか、どっちだ?。」
この問いに、強欲じいさんは唸った。
「う〜ん、そうか、そういうことじゃっか・・・。なるほど、男女は平等であるべきですからなぁ・・・。うん、答えは、嫌です。もし、わしの女房がわしと同じように若いつばめを抱えていたら、『年甲斐もなく、何たることを!、恥を知れ!。』と怒鳴っておったでしょう。なるほど、わしは男の理屈でものごとを考えていました。男女は平等でなければいけないのですな。」
「そういうことだ。しかるに、いくら契約が成立していても、妻が嫌がっている以上、嫌な思いをしている以上、それは罪なのだ。」
「では、結婚をしていない場合はどうなのでしょうか?。」
「それも簡単だ。人間は動物ではない。本能の赴くままに性行為を繰り返していては、それはもはや人間とはいえぬであろう。
人間にはなぜ発情期がないかわかるか?。それは、人間は性欲をコントロールすることができるからなのだ。動物に発情期があって、性行為をする期間が決められているのは、動物は性行為を抑制することができないからなのだ。これは、脳の問題である。動物の脳では、性欲をコントロールするだけの能力がないから発情期でコントロールしているのだ。そうして、増えすぎないようバランスをとっているのだよ。ところが、人間にはその発情期がない。放っておけばいくらでも性行為をし、人口は増え放題だ。そうなれば、人類は滅亡へ向かうであろう。
ところが人間の脳は、そうなることを防止するようにできていたのだ。それが理性や道徳というものなのだ。あるいは、宗教心といってもよいであろう。性的に乱れないことが美徳である、という情報が初めから脳に入っているのである。また同時に、性欲を抑制しコントロールする能力が初めから脳にインプットされているのだ。
ところが、たまにその情報をうまく引き出せないものや、抑制が効かず、動物的本能の赴くままに行動してしまうものが出てくる。
誰でもいい、性欲が満たすことができれば誰でもいい、性行為をしよう・・・・。
それは、動物なのだよ。人間は、本能をコントロールする生き物なのに、それができなくなってしまったら、もはや人間ではなくなるのだよ。
わかるかね?。だから、初めにいったのだ。邪淫とは、行為そのものについて問うているのだ、と。」
「なるほど、わかりました。わしは勘違いをしておりました。そうですか・・・。邪淫は、行為そのものなんですな。なるほど・・・。人間に生まれた以上、節度を保て、ということですな。妻があるなら、夫があるなら、一人で満足せよ、ということですな。独身であるなら、本能の赴くまま、欲望の赴くままに行動をするな、ということですな。」
「そういうことだ。考えてもみなさい。妻であろうが、夫であろうが、妾であろうが、つばめであろうが、若い女性であろうが、イケメンであろうが、行為をすれば皆同じであろう。行為そのものはなんら変わることは無い。下品な表現をすれば『やることは一緒』なのだよ。相手が変わることは、邪淫には関係のないことなのだ。」
「わかりました。確かに、行為そのものは同じですな・・・。そうですか・・・・。確かに、わしは妻を泣かせ続けてきたのでしょうな。あんな女房にしてしまったのは、わしも悪かったのでしょうな・・・・。」
強欲じいさんは、何を思い出しているのか、しみじみとその言葉を吐いたのだった。

なるほど行為そのものは皆同じだ。相手が変わるから変わったように思うが、実際行為そのものは変わらないのである。確かに、人間には発情期はない。言い換えればいつでも発情期だ。本来、性行為は子孫を作るためにあることなのだ。人間のみが快楽として行為を楽しむことを許されている。許されているというのも変だが、性行為を楽しめるのは人間だけなのだ。
だからといって、性行為にのみ耽っていては、人間の生活は成り立たない。人間の仕組みはうまくできているものである。人間が人間であるには、本能をコントロールしなければいけないのであろう。したいと思うことをしてしまっては、人間は生きていけないのだ。本能のままに生きれば、必ず行き詰ってしまうであろう。
そう考えれば、性的に乱れることは、やはり罪なのである。人間は人を殺してはいけない、人のものを奪ってはいけない、ということと同じように、性的に乱れてはいけないのだ。それは、本能の中に、
「邪魔なものは排除したい、時には殺してもいい」
「欲しいものは手に入れたい、時には奪ってもいい」
「性行為はしたい、時にはそれに溺れてもいい」
という危険要素が含まれているのであろう。だからこそ、それをうまく抑制する鍵がちゃんと人間の脳の中には刻み込まれているのである。たまたま、その鍵が外れてしまったか、壊れてしまったものが、殺人を犯したり、泥棒になったり、性的に乱れたりするのであろう。そして、もっともその鍵が外れやすいのが、性的なことなのだろう。なぜなら、そこにはお互い求めている、という理由が成り立つからであろう。言い訳であろうが、自己弁護であろうが・・・、だ。
俺は、そっと浮気女のほうを見てみた。宋帝王の言葉を彼女はどう聞いているのであろうか、俺は気になるところであった。
彼女は、悲しい眼でまっすぐに宋帝王を見つめていたのだった・・・。

「近頃は、簡単に男女が淫らな行為ができる時代になってしまった。ただ単に行為そのものを求める者もいるであろうし、何かの埋め合わせとして多数の異性を求める者いよう・・・。しかし、理由はどうあれ、行為そのものには変わりはないのだよ。罪は罪なのだ。」
宋帝王は、静かにそう言った。誰に向けた言葉なのか・・・。否、誰にでもない、普段から宋帝王は、そう思っているのであろう。いわば、すべての人類に向かっていっているのである。
「わかりました。よくわかりました。そういうことでしたら、わしは邪淫の罪を犯しております。多々犯しております。」
「そうか、わかったか。本当に罪を犯していると、そう思うのだな。」
「はい、わしは邪淫の罪を犯しています。」
「ふむ、では、どの程度の邪淫の罪なのか調べて見よう。さぁ、行け。」
宋帝王の指示に、強欲じいさんは
「よろしくお願いします。」
と小さくつぶやいた。あの大型の猫がゆっくりと強欲じいさんに向かって歩き始めた。その眼は、強欲じいさんを捕らえて離さなかった。


つづく。



バックナンバー(十五、79話〜)



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