バックナンバー(十六)    第八十四話〜第八十七話

しかし、まさか宋帝王があんな言葉を言うとは、俺は思っても見なかった。
・・・私も一緒に地獄に落ちよう・・・
ちょっと格好がよすぎじゃないだろうか。宋帝王らしくないというか・・・。
『その言葉に拘るでない。方便だ。』
宋帝王の声が俺の魂の中に直接響いてきた。どうやら、少々照れているらしい。
『つまらんことを考えるな。まあ、こういうこともあるのだ。これが正当な裁判なのだ。』
『はいはい、わかりました。宋帝王様も女性には優しい・・・ということですね。』
『だから、違うと言っておろう。イヤなヤツだな。お前だって心惹かれておったくせに。』
それを言われると痛い。
『冗談です。すみません。・・・えっと、私はどうすればいいでしょうか?。次の人の裁判には興味はないですし。』
『ふん、彼女の裁判が終わったからな。さっさと現世に戻ればよいであろう。この裁判所の裏手から戻れるぞ。』
どうやら宋帝王は、へそを曲げたらしい。
『そこへはどうやって行けば・・・。』
『こうやっていくんだよ!。』
宋帝王がそういった瞬間であった。俺は一瞬ふわっとしたかと思うと、野原のようなとところに出ていた。
「ここはどこだ?。」
ついつい声に出してしまった。
『周りをよく見ろ、現世に戻れる場所がわかる。では、さらばだ。』
宋帝王の声が響いてきた。そうか、これで宋帝王とも会うことはないのだろう。俺の三回目の裁判は終わったし、ここでの用事も済んだわけだ。
「さてっと・・・。おぉ、あれは裁判所だな。」
俺が立っている場所は、小高い丘の中腹であった。ゆったりとした一本の坂道が野原の中を続いている。下のほうに裁判所の建物が見えた。よく見ると、その裁判所からあの浮気女が出てきたところだった。
「とすると、現世に戻れる場所は、上か・・・。」
ここで俺は迷った。彼女を待つべきか、知らぬ顔をして先に行くか・・・。
「う〜ん、う〜ん、う〜ん・・・、よし、ゆっくり歩こう。」
彼女は、すたすたと歩いてくる。俺がゆっくり歩けば追いつくかもしれない。俺は彼女を待っているのではない。先へ進むつもりなんだ、ただ歩く速度が俺は遅いのだ、と自分に言い訳しながら俺はゆっくりと上に向かった。
「そもそも宋帝王がここに俺を移動させたのは、彼女と接触を持て、という意味なんじゃないかな。うん、そうに違いない。でなければ、現世に戻る場所に直接移動させればいいのだからな。うんうん、そうだ、だからこれでいいのだ。」
さらに言い訳を重ねた。でも、今度の言い訳は正解のような気がした。

俺はブラブラと歩いている。彼女が後から上って来ることなど知らない、という顔をして・・・。何気なくチラッと振り向くと、彼女は下向き加減で黙々と上ってきている。と、今気がついたのだが、どうやらここでは自分の意思で移動できるようだ。今までは、足が勝手に動いていくような感じで、無理やり移動させられていた。自分の意思などお構いなしだった。しかも、みんな同じ速度での移動だった。ところがここは違う。
「ということは、現世に戻ることを拒否することもできるわけだ。あぁ、でも、現世に戻れる場所には牛頭か馬頭がきっといるんだろうから、無理やり飛ばされるか。前のお返り台だっけか?、のように・・・。まあ、そこに至るまでに道をそれれば、現世に戻らなくてすむか・・・。」
俺は試してみることにした。道を外れようとしたのだ。
が、どうにもうまく動けなかった。
「道を外れることはできないんだ。ということは・・・このまま進むしかないのか。」
止まることはできるようである。しかし、後戻りはできなかった。止まっていれば、きっと後から来る死者に追い抜かれてしまうのだろう。追い抜かれれば、それだけ現世にいられる時間は減るのだろう。迷うところである。
たとえば、あの覗き見教師などは、止まりたい気分だっただろう。しかし、後ろから次の死者がやってくる。追い抜かれるのもなんだか不安だ。実際、今俺は彼女に追いつかれてもいい、と思っているが、不安な気分になってきてもいるのだ。追い越されちゃいけない・・・、と心のどこかで叫んでいるような、そんな気がしてきたのだ。妙に焦っている。
気が付くと、俺はさっきより早く移動している。振り向くと彼女との距離は縮まってはいない。彼女の動きは同じような感じだ。ということは俺の移動速度が速くなっているに違いない。
「いつの間にか、焦っていたようだ。そういう仕組みなんだな。」
と、いらぬことを考えていると、高い柵で丸く囲った場所に出た。その柵は俺の身長以上の高さだ。竹を篭目状に組んであるようだった。時代劇にでてくる処刑場を連想させた。その篭目の柵は、一箇所だけあいていた。どうやらそこが出入り口のようである。きっと、ここがこの丘の頂上であり、その柵の中が現世に戻る場所なのであろう。そこには誰もいなかった。

柵の中には、一段高く、円形の石がおいてある。直径は2メートルくらいだろうか。ピカピカに磨き上げられた白っぽい石だ。新品の墓石みたいな石である。
「御影石かな?。」
俺はつぶやいたが、何の反応もない。牛頭や馬頭が隠れているわけでもなさそうだ。やはり、誰もいないのである。
その円形の石の横に立て札があった。高札である。柵の外からは何が書いてあるか読めなかった。仕方がないので俺は柵の中に入っていき、高札に書かれていることを読んでみた。
「なになに・・・。『この石の上に乗れば現世に戻れる。乗るか乗らないかは自由である』か・・・。ということは、自分の意思で現世に戻るか戻らないかを決められるわけだな。もし、乗らなかったらどうなるのだろうか?。どこへ行くのだろうか?。」
俺はあたりを見回した。道はない。・・・否、柵の外には道があった。
柵の入り口・・・一箇所だけ柵がないところ・・・の正反対側に道がある。それは丘の下へと向かっているようだ。登ってきた方向とは反対側である。しかし、中央の円形の石を迂回してその道に行こうと思っても、柵があっていくことができない。柵が途切れているところは、柵の中に入ってきたところだけなのである。
振り返って入り口に戻ろうとしたが、振り返ることはできなかった。どうやら進めるのは一方向だけ、前進だけであるようだ。
「一周してみようかな。で、そのまま入ったところから出てみればいいのだ。」
そう思って、俺は円形の石をゆっくり一周してみた。が、一周しながら俺は考えた。もし、柵の外にでたら、もう中には二度と入れないのではないか・・・と。柵の外の道は、この円形の柵の入り口らしきところで終わっていた。ということは、そこからでれば、外にはでられるだろうけど、きっと俺は柵の反対側、下へ行く道があるほうへ移動させられるのではないだろうか?。
「乗るか乗らないかは自由である・・・か、なるほど、そういうことか。危うく罠にかかるところだった。きっとそうなっているに違いない・・・。」
石の周りを一周した。入り口が目の前にある。と、そこには先ほどまでなかった高札が立っていた。そこには
『ここから出れば、二度と入れない』
と書いてあった。予想通りである。
「なるほど、これは面白い。うまくできている。」
要は試されているのである。あの覗き見教師のように現世にあまり戻りたくないと思っている者にとっては、これはつらいであろう。迷うところである。現世に未練があるものにとっては、何の効力もないシステムだ。だが、帰りたい気持ちもあれば帰りたくない気持ちもあるという者や、できれば戻りたくないと思っている者にとっては、大変迷う仕組みなのだ。裁判官からは「戻れ」といわれているし、その理由も聞かされてる。戻らないわけにも行かないし、戻りたくもない。優柔不断の者ならば、迷って石の周りを廻っているうちに時間が過ぎていくかもしれない。
いや、そうも行かない。次の死者がやってくるのだ。決断は急がないといけない。実際、浮気女の姿が見えてきた。こっちに一直線に向かってきている。これは焦る。
死者どうし話すことはできないが、無言で突っ立ってられるのもプレッシャーだ。むしろ気味が悪い。否、ひょっとして中に入ってくるかもしれないのだ。そうなれば、追い抜かれることになる。追い抜かれても問題はないのだろうが、気分的によくない。据わりが悪い、というか、気持ちが悪いのだ。うまい仕組みである。
しかし、俺は確かめたくなった。なので、浮気女が入り口に立つまで、石の上には乗らないでいることにしたのだ。果たして彼女はどういう態度をとるか・・・。俺が声をかければ話をすることができるのだろうか?。柵の中に入ってきて俺を押しのけ、自分が先に行くのだろうか?。
俺は円形の石を背にし、入り口のほうを見ながら待っていた。

浮気女が入り口の前に立った。不安そうにこちらを見ている。他に道がないか、辺りを見回していた。が、道はないのだ。どうやらそれに気付いたようである。彼女は、俺を睨みつけてきた。きっと早くしてくれないか、と思っているのだろう。他に道もないし、そこに入りたいのだ、と思っているに違いない。俺は話しかけてみた。
「どうやら道がないらしいよ。この石の上に乗れば現世に戻れるらしい。石に乗ることを拒否して囲いの外に出れば、あっちの道に出られるらしいんだ。でも、そうなると現世には戻れないらしいよ。」
俺はにこやかにそういってみた。が、どうやら通じないらしい。返事は返ってこなかった。それどころか、腕を組んですごい目つきで睨んでいる。イライラしているのか、片足を貧乏ゆすりのようにしていた。ちょっと怖かった。どちらかといえば、かわいらしい顔をしていた彼女が、あんな目をするなんて驚きである。
中に入ってくることもできないようだ。あの態度から想像するに、中に入れるのなら、さっさと入って俺を押しのけて石の上に乗るだろう。どうやらそれはできないようである。
俺は両手を上に上げ、お手上げのポーズをしてから円形の石のほうを向いた。そして、石の上に乗った・・・・。

一瞬であった。石が目映いくらいに光ったかと思ったら真っ暗になった。
気が付くと、懐かしい我が家の座敷である。俺は自分の祭壇・・・俺の骨壷がおいてあり、白い位牌がおいてあり、遺影が並んでいる祭壇・・・の前に座っていた。祭壇には、たくさんのお供え物がおいてあった。和菓子、果物、ビールにお茶、ご飯・・・・。花が活けてあり、今はついていないがローソクと線香たてがあった。前に来たときと変りはなかった。俺の姿も普段着・・・ウニクーロのスウェット・・・である。これも前回と同じであった。
妙に静かである。日の光が入っているところを見ると、日中であることは確かだ。どうやら誰もいないらしい。
俺はうろうろしてみた。せっかく帰ってきたのに誰もいないというのも寂しいものだ。女房の顔も見たいし、子供たちの顔も見たかった。声も聞きたかった。やはり帰ってくれば、無性に恋しいものである。
子供部屋に行ってみた。勉強道具・教科書が机の棚に並んでいる。床には漫画が落ちていた。TVゲームが出しっぱなしになっている。いつも通りの日常がそこにはあった。
寝室を覗いてみる。懐かしい香がする。女房の匂いだ。
俺は悲しくなった。なぜこんなに早く死んでしまったのか。
「あ〜、いかんいかん、後悔しても始まらん。死んでしまったのだから仕方がない。それにもう3週間も過ぎているじゃないか。」
俺は、声に出してそういった。もちろん、その声は俺にしか聞こえない声だが・・・。

狭いダイニングキッチンに行ってみた。テーブルの上にメモがおいてある。
『買い物に行ってます。夕方には戻ります。おやつは戸棚の中。手を洗って食べなさい。その前にお父さんにお参りをすること。』
泣けてきた。いい女房である。自慢の女房だ。こんな優しい女は他にいないに違いない。いい女房を持ったんだ、俺は・・・と一人感動していた。
『何をのろけているんだ。死んだものがのろけても仕方がないぞ。ヒマなら寺へ行け。』
いきなり声が聞こえてきた。いつもその声は突然聞こえてくる。いったい何者のなんだろうか。俺は腹が立ってきた。
『あ、その偉そうな声は・・・。あんたいったい何ものなんだ?。いつも偉そうに指図しているが。いい加減に正体を見せたらどうだ。見せられるんだろう?。』
そのとき初めて感じたのだが、俺に伝わったのは声だけではなかった。気配も感じたのだ。何か、押されているような、暑苦しいような感じがしたのである。だから俺は姿を見せろ、といったのだ。
『あわてるな。まだ七七日も過ぎてはいないだろう。偉そうな態度をとるでない。死人としてはヒヨっ子の癖にな。ま、生きているときも青二才であったことには変りはないが。』
『な、なにを・・・。俺は、こうしてあの世の取材者としてちゃんとやってるぞ。普通なら、取材なんてまどろっこしいことなんてする必要はないんだ。ちゃっちゃと裁判を進めていけばいいんだから。』
『文句を言う割には楽しんでいるのではないか、自分の立場を。』
それをいわれると、俺は何もいえなくなる。確かに、取材者という立場は楽しめる。単なる死者と違い、特別な扱いを受けられることは間違いない。
『それに溺れるなよ。有頂天になるな。お前は単純だからな。』
『わかってますよ。いい立場です。で、あんたはいったい誰なんですか?。』
『ふ〜む、目上に向かっての言葉ではないな。』
『申し訳ございません。あなた様はいったいどのようなお方でいらっしゃるのでしょうか?。できれば、お教えいただきたく存じます。』
俺は、声を荒げた調子で心の中で言ってみた。
『それもまたイヤミだのう・・・。まあよい。わしのことはいずれわかる。その前に、ヒマならボーっとしていないで寺へ行け。お前の先輩の変わり者の坊主と会って来い。面白いかも知れぬぞ。』
その声の主はそういうと、いきなり気配も声も消えてしまった。
「あれ?、あれ?、ちょっと、どこへ行ったんだ?。なんなんだ急に現れたかと思ったら、いきなり消えてしまうんだから。しかも姿は見せないで、気配だけとはね。・・・しかし、いったい誰なんだろうか・・・。女房についていた守護霊のじいさんじゃないし・・・。しゃべり方からすると、若くはないだろうしな。間違いなくじいさんだろう。俺の知り合いにはあんな偉そうなじいさんはいなかったしな・・・。誰なんだ・・・。」
妙に気になった。
「寺へ行け・・・か。ま、女房もいないことだし、子供も帰ってこなさそうだし、暇だから行ってみるか。面白いことがあるかも、っていってたしな。うん、よし、行ってみよう。って、どうやっていくんだろうか?。一瞬でいけるのか、歩いていくのか・・・。まあ、ともかく外に出てみるか・・・。」
そう決意すると、俺の姿が変った。身に着けているものが普段着から、シャツにスラックスにジャケット姿になったのである。カジュアルなスタイルだ。ジャケットは、俺がよく好んで着ていたベージュのジャケットである。
「便利なものだ。外へ行くと決めたとたん、着替えが済んでいるのだから。しかも、着る物を選ぶ必要もなく、お気に入りの姿になっているのだからな。死人とは、かくも便利なものか・・・。」
俺は、椅子から立ち上がって・・・まるで生きているとき同じように・・・玄関に行き、外へ出てみた。外に出ると、ちゃんと靴も履いている。
「ふむ、時間もあるし、寺は近いし、歩いていってみるか。」
俺は、外を歩き始めた。死んでから初めての外出だった・・・。

寺へ行くには、一度大通りに出なくてはならない。我が家は、大通りから2本通りを入ったところにあるのだ。家の前の道は、狭くはないがセンターラインのない道路である。通学路にもなっている。
玄関を出てみた。見慣れた風景である。向かいの家が見える。俺はきょろきょろしてみた。
「妙に静かだなぁ。平日の昼間だからか・・・。どこの家も留守なんだろうな・・・。」
考えてみれば、平日の昼間のご近所など俺はまったく知らない。休みはたいてい土日だし、たまたま平日の休みをとっても家の中で寝ているだけで外など出たことがなかった。ちょっと新鮮な感じがした。
「さて、寺は・・・右に行ったほうが早いな。」
玄関を出て、形ばかりの門扉を通り抜け、通りを右に向かった。最初の交差点を左に曲がる。あとはまっすぐ歩けば大通りに出る。大通りを渡って最初の交差点を左に曲がり、次の細い交差点を右に入れば先輩の寺の狭い駐車場に至る。駐車場を抜ければ寺の門だ。我が家から歩いて15分ほどである。
それにしても静かだった。平日の昼間の住宅街は、静かで人の気配すらしない。聞こえるのは、その先の大通りを行き交う車の音だけだった。
その大通りは、どこにでもある幹線道路だ。もちろん事故もある。死亡事故もあったことであろう。犬や猫も轢かれたこともあろう。だからといって、まさかその大通りの交差点で、自分がその犠牲者に出会うとは思ってもみなかった。

初めは何がいるのかわからなかった。大通りの交差点をふと見てみると、歩行者信号の下にうっすらとした人の影のようなものがあっただけだった。
「なんだ、あれは。あのぼんやりとしているのは、なんだろう?。」
しかし、交差点に近づくにつれ、それが人であることがわかった。
それは老婆の後姿だった。着物を着ているようだ。そのおばあさんが歩行者信号の下で通りのほうを向きボ〜ッと立っているのである。ただし、そのおばあさんは、半透明だった。しかも、ゆらゆら揺れている。たまに消えそうになっている。つまり、俺と同様、死人であるのだ。近づいてよく見てみると、なかなか上品そうなおばあさんである。着物も高価そうな感じがした。
俺は声をかけてみた。
「あの〜、おばあさん、こんなところで何をしているんですか?。」
「は、はぁ〜、び、びっくりした〜。ど、どなたですか、あなた・・・。」
「あぁ、驚かせてしまいましてすみません。私は、この近所のものなんですが・・・、えっと、なんて言えばいいのかな?。」
「あなたも未練があるのですか?、この世に・・・。」
「えっ?、どういうことですか?。」
「あなたも死人でしょう。私がわかるんだから・・・。あぁ、でもたまに生きている人でも私がここに立っていることがわかる人もいるようですが・・・。でも、あなたは死人。身体が透けているから・・・・。」
「はい、私は死人です。あぁ、でも未練があってここにいるんじゃないんですけどね。」
「あら、そうなの?。じゃあ、どうしてここに?。」
「今、裁判中なんですよ。あの世の裁判。ご存知でしょう?。」
俺は、その老婆が当然あの世の裁判を知っているものだと思っていた。「未練」という言葉と今までの知識から、きっとこの老婆は裁判中にあの世から逃げ出した・・・・否、逆だな・・・この世に戻ってきているうちにあの世に帰ることを拒否した死人だと判断したのである。あの牛頭や馬頭たちが言っていた「脱走者」である。ところが老婆の反応は違っていた。
「あの世の裁判?。なんですかそれは・・・・。」
「えっ?、裁判をご存じないんですか?。」
「私は・・・そんなの知りません。私は、ずっとここにいますから・・・・。」
「裁判を知らない・・・、ずっとここにいる・・・・。どういうことですか?。」
「どういうこと、といわれても・・・・。私は、死んでからずっとここにいるんですよ。」
その老婆は明らかに混乱し始めていた。目が泳いでいる。おろおろし、焦り始めたようだ。俺はよく考えてみた。今まで聞いてきた話の中で、こうしたケースがあったかどうか実体のない脳をフル回転させたのだ。

「まさか、ひょっとして、亡くなったことがわかっていないってことはないですよね・・・。」
以前、山おとこさんたちか、あるいは、俺の葬式のときであったか、死に気付いていない人はこの世にとどまることがある、と言う話を聞いたことを思い出したのだ。が、老婆の反応は違っていた。
「自分が死んだことくらいは、わかっていますよ。私はボケてませんから。」
「じゃあ、なぜあの世に行かないんですか?。」
「そんなこと、私に聞かれても・・・・。私も知りたいくらいです。なんで、私はここから動けないのか。」
「先ほど未練があるとか言ってましたが。」
「未練?、私が?。未練・・・そんなこといったかしら。」
ひょっとしたらこの老婆、亡くなるときボケが始まっていたのかもしれない。ついさっき俺に向かって言った言葉を忘れているようだ。
「先ほど私に向かって『あなたも未練があるんでしょ』とおっしゃいましたが・・・。」
「あら、そう・・・、私そんなこと言いましたか・・・・。未練・・・ですか。」
そのまま、その老婆は考え込み始めた。頭を横に振りながら、何かブツブツ言っている。このままでは、話が進まないかもしれない。俺は亡くなった経緯を聞くことにした。
「あの、ちょっと伺ってもいいですか?。」
「えっ、あぁ、はいはい。なんでしょう。」
老婆はあわてた様子だったが、それでも落ち着きを取り戻したようだ。
「あの、お葬式はされたんですよね?。」
「葬式?、あぁ、確かにしたわねぇ、あれはいつだったかしら・・・。」
「そのときには、ここにいなかったんでしょ?。」
「どうだったかしら・・・。お葬式ねぇ・・・。あの時、私どこにいたのかしら・・・。」
老婆は再び考え込んだ。ひょっとしたら、なくなったのは随分前なのかもしれない。この老婆、うまく思い出せるのだろうか・・・。焦らせると、余計に混乱するであろうから、俺もしばらく待ってみることにした。
道路は、相変わらず車が激しく行きかっている。老婆が立っていた交差点の信号は、住宅地の信号なので、押しボタン式だ。車も滅多に通ることはないので、それで十分なのだろう。幹線道路優先なのだ。ふと老婆のほうを見ると、老婆も激しく行き交う車の流れをぼんやりと眺めていた。
「あぁ・・・私は・・・、この横断歩道を渡ろうとして・・・。」
どうやら思い出したようである。
「で・・・、あら、私、何のためにここを渡ろうとしたのかしら?。」
「はぁ、私に聞かれても・・・・。まぁ、思い出せないのでしたら、それはいいんじゃないですか?。」
とりあえず、話を先に進ませることにした。
「そうねぇ、まあいいわ・・・。そう、横断歩道を渡って・・・そのとき猛スピードで走ってきた車がいたのよ。私に向かってきたの・・・・、あぁ、あぁ、あぁぁぁぁ・・・。」
どうやら老婆はその瞬間を思い出したようだった。顔を両手で覆って震え始めた。悪いことをしてしまったのだろうか?。嫌なことを無理やりに思い出させてしまったのだろうか。ちょっと申し訳ない気分になった。
老婆が落ち着くまで、俺は再び待つことにした。が、それはそれほど時間がかからなかった。
「そう、そうよ。私はあの車に・・・・撥ね飛ばされたんだわ。そこよ、その辺りよ・・・。」
老婆はそういうと、横断歩道の真ん中辺りを指差した。
「私はちゃんと信号を守って渡っていたのに・・・あの車は・・・。突っ込んできたのよ。あっ!。」
そう叫ぶと、老婆は辺りをキョロキョロし始めた。何かを探しているようである。
「私の荷物・・・どこへ行ったのかしら。ない、ないわ・・・。確かに持っていたのに。」
「手荷物を持っていたのですか?。大きなものですか?。」
「いいえ、風呂敷包みの、これくらいの・・・。」
老婆は手で大きさを示した。それは、一般的な手土産の大きさだ。お菓子の包みだったのだろうか。そうした土産を持っているということは、どなたかの家を訪問する予定だったのか・・・。
「ない、どこへ行ったのかしら。あぁ、それと手提げの巾着袋・・・。ない、ないわ・・・。」
老婆は、またオロオロし始めてしまった。足は動かないのだが、身体をひねり、首を回し、手土産と巾着袋を探している。足は動かすことができないのだろうか?。その場から動けないのだろうか?。
そんな疑問の答えも興味があったが、ここは話を戻したほうが賢明ではないかと、俺は判断した。
「あの、それは、後で探して見ましょう。私も協力しますから。」
「あら、助けてくださるの?。すみませんねぇ・・・。」
「はい、えっと、それで・・・おばあさんは、車に轢かれてしまったんですね。」
言い難いことだったので、サラッと言ってしまった。老婆は、今度は興奮することもなく
「えぇ、そうなのよ。私、車に轢かれたのよ。」
と落ち着いて答えた。順に思い出し始めて、落ち着きを取り戻したのだろうか。
「そのあとは?。」
「え〜っと、そうねぇ。確か・・・ここに立っていたわ。」
「えっ?、ここに立っていた?。」
今度は俺が混乱する番である。車に轢かれたまではいい。そこまでは思い出したようだ。が、そのあとはいきなりこの場所、歩行者信号の下、横断歩道を渡る前、に戻ってしまっている。これはどういうことなのだ?。理解できなかった。
「そう、ここに立ってたのよ。でね・・・あぁ、思い出したわ。私見てたのよ。」
「見てた?。何をですか?。」
「救急車が来て、パトカーが来て、あぁ、私を撥ねたのは若い男の人だったわ。真っ青な顔をしてオロオロしてた。何をこの人あわてているんだろう・・って思ったら、そうか、あの人、私を跳ねた人なんだって・・・。」
「その人に怒りとか、思わなかったんですか?。」
「怒り?・・・・そのときは・・・・思わなかったわ。救急車に乗せられたのよ、私。血だらけだったような・・・。」
「そのあとは、どこへ行ったんですか?。」
「どこにも行ってないわよ。私はここにいたの。」
「ここに?、この場所にいたんですか?。」
「そうよ。さっきから何度も言っているでしょ。私は初めからここにいたのよ。ここから、見ていたの。」
わからなかった。俺には理解できなかった。こんな話を聞いたのは初めてだった。誰か説明をして欲しい。今まで俺は、あの世でいろいろな話を聞いてきた。消える死人を見て驚いたりもした。三途の川を流されていった死人を見て哀れにも思った。いろいろな理由で裁判中に泣き叫び、あるいは怒りを顕わにする死人に出会った。しかし、その都度、そうなった理由を誰かが教えてくれていた。それは、山おとこさん・山おんなさんであったり、裁判官であったり、船頭さんであったり・・・。が、今は誰も解説してくれない。誰もこの老婆の状況を説明してくれる人はいないのである。
この老婆、いったいどうなっているのか?。
「そのまま、ここから動いていないんですか?。」
「動いて・・・いないわ。どこへも行っていない。」
「じゃあ、あなたのお葬式は?。亡くなっているんですから、お葬式してもらいましたよね?。」
「・・・・どうだったかしら・・・。」
また考え込まれると話が進まなくなるので、違う質問をしてみた。
「あの、ご家族はいらっしゃいますよね?。」
「えぇ、それはもちろん。」
「どなたがいらしたんですか?。」
「息子に嫁に、孫が二人・・・。で、私の5人家族だったんですよ。嫁もいい嫁でね。明るくて・・・、孫たちもよくできた孫で・・・。あぁ、あの子達、元気かしら。あぁ・・・私・・・なんでここから動けないのかしら?。そういえば、私のお葬式はどうだったのかしら?。私、いったい何をここでしてたのかしら・・・。私、私・・・家に帰りたい・・・。どうして動けないの?。いつまでここにいればいいの?。あなた、助けてくださいな。私を助けて・・・。」
老婆はそういうと、俺にしがみついてきた。といっても身体をつかめるわけではない。
「あぁ、つかめないのね・・・あなたも死んでいるのね・・・。あぁぁぁ、もうどうしようもないのね・・・。」
老婆は両手で顔を覆って泣きだした。が、泣き崩れることもなく、立ったままである。立ったまま、しゃがむこともできないようなのだ。哀れなものである。どういう理由でこうなったか、さっぱりわからないから、余計に哀れであった。
「た、助けたいのは山々ですが・・・。ご存知の通り私も死人ですし・・・。どうしていいのかも・・・。」
なんと言っていいのか、正直わからかなかった。どうすればいいのか・・・。

俺は話を整理してみた。この老婆は、どこかへお使いに行く途中だったのだ。誰か知り合いの家を訪ねるところだったのかもしれない。手土産を持って、巾着袋を提げて、この老婆は家を出た。で、その途中、この横断歩道を渡ったのだ。信号は歩行者側が青。が、そこへ信号を無視した暴走車が突っ込んできた。老婆はその車に撥ねられ死亡した。そのあと、老婆は、どこへ行くともなく、この場所に戻り、それ以来、ここに立っていると言うのである。それが老婆の語ったところだ。あぁ、もう一つある。それは「未練」だ。老婆が語った言葉の中で、この言葉は重要な意味を持つに違いない。本人は言ったことすら忘れているようだが・・・。おそらくは、この「未練」がキーワードなのだろう。その未練とは何なのか・・・。
「あの、お宅はどちらなんですか?。この近所ですよね?。」
「えっ?、あぁ、私の家ですか・・・。それは・・・・えっと・・・、あぁ、思い出したわ。」
そういと老婆は後ろを振り返り、指を刺した。
「あなたが来たほう・・・あなたそっちから来たんでしょ・・・そっちのほうよ。で、最初の交差点を左に曲がって数軒行ったところよ。」
俺が左に曲がった交差点の次の交差点である。そこを我が家から来ると、右に曲がるのだろう。我が家とは一本並びが違っている。幹線道路に近いほうの通りだ。案外ご近所だったのだ。
ということは、もし、その老婆の事故が、我が家が引っ越してきた後ならば、当然俺の記憶にあってもいいはずだ。が、俺にはそんな覚えはない。この大きな幹線道路の交差点で、老婆が撥ねられたと言う話など聞いたことがない。
家が引っ越してきたのは、それほど前ではない。まだ3年ほどである。新築の家を建ててあまり住み慣れていないうちに俺は死んだのだ。残念な話である。ま、それはいいことなのだが・・・。
ということは、である。この老婆が事故にあったのは、3年以上前だということになる。おいおい、この老婆、いったい何年ここにいるのだ?。
「おばあさん、おばあさんは、いったいここに何年いるんですか?。」
「は?、何年?・・・。そ、そんなこと・・・わかりませんよ。」
「わからないって・・・。あぁ、じゃあいいです。えっと、じゃあねぇ、おばあちゃん、ここに立っていて、知っている人に会いませんでしたか?。」
俺は親しく話すことにした。どうも話が難しくなりそうだったからだ。
「あぁ、会いましたよ。そりゃあ、会いますとも。嫁も孫もたまにここを通りますからねぇ。ご近所の知っている人もよく通りますよ。」
老婆は明るい顔でそう言った。しかし、すぐに顔が曇り始め
「でもねぇ、誰も私に気付いてくれないんですよ。あなたが初めてよ、声をかけてくれたの・・・。」
と寂しそうに言ったのである。

「誰も私に気づいてくれなかったのよ。あなただけだわ。あぁ、でも、たまに私に気づく人もいるみたいだったけどねぇ・・・・。そういう人は、変な顔をして逃げるようにどこかへ行ってしまうのよ。なんで逃げるのかしら・・・。私にはよくわからないのよねぇ。私が死人だからかしら・・・・。何にもしないのにねぇ・・・・。」
「あぁ、そうですか・・・・。はぁ・・・。あの、ちょっと整理しましょうね。」
「整理?。どういうことですか?。」
「おばあさんが、ここから動けない理由を知るためにですね、その話を整理してみようかと・・・・。」
「動けない理由・・・・ですか。それって、大事なことですか?。」
「えぇ、きっと大事なことだと思いますよ。え〜っとですね。数年前のこと・・・あぁ、たぶん数年前というだけのことですから・・・・おばあさんは、何か用事があって、この道の向こうへ手土産を持って渡ろうとしていました。」
「そうそう、そうです。あなたよく知ってるわねぇ。」
どうやら、やはり多少ボケが入っているようだ。自分で話したことをすでに忘れている。俺は、老婆の反応は無視して話を進めた。
「で、この道を渡ろうとした時、信号を無視した車に撥ねられた。それ以来、おばあさんはず〜っとここに立っている。理由はよくわからない・・・。これでいいですよね。」
「えぇ、その通りよ。」
「で、わかっていないことは、まず葬式をしたかどうか、ですよね。」
「お葬式?。私の葬式よね?。・・・・う〜ん、どうだったかしら・・・・。」
「よく知っているお友だちとかご近所の方とか来られませんでしたか?。」
「あぁ、来たわ来たわ。でね、来てくれてありがとうって言ったのよ。遠くからも近くからも、わざわざ来てくれて・・・・。あんな人だったのに亡くなったら、結構みなさん悲しんでくれて・・・・。」
あんな人?。それって誰だ?。どうやらこの老婆、勘違いをしているようだ。
「いえ、あの私が聞いているのは、おばあさん、あなたのお葬式ですよ。あなたのお葬式でありがとうってお礼は言えないでしょ?。」
「あぁ、そうかしら・・・・あぁ、あれは主人の葬式だったのね・・・・・。はぁ・・・私の葬式って・・・・。どうだったかしら。」
「お寺さんは?。おばあさんのお宅がお世話になっていたお寺さんは、どこなんですか?。ご近所なんですか?。」
もし、近いのなら先輩の寺かも知れない・・・とそう思ったのだ。
「この近所じゃないんですよ、うちのお寺さんは。ちょっと遠いんです。確か・・・・お車でいらしたわねぇ・・・あぁ、あれも主人の葬式の時だったですわねぇ・・・・。」
「そうですか、遠いんですか。・・・で、おばあさんの葬式ですが。」
「たぶん、やったのだと思います。わたし死んでいるんですから。でもねぇ・・・よく思い出せないんですよ。なんだか、ずいぶん前のような気もするし、ちょっと前のような気もするんですけどねぇ・・・・。」
「はあ、じゃあ、まあいいです。じゃあねぇ、おばあさん、この近所にお知りあいはいらっしゃいますか?。」
「えぇ、いますよ、俳句の会のお友達がね。主人と一緒に通い始めて、で、主人が亡くなってからも続けていたんですよ。みなさんいい人ばかりで・・・・。そうそう、会の仲間と旅行も行ったりしましたよ。温泉旅行へね。楽しかったわ〜。」
ひょっとするとヒットかもしれない。
「その会の場所っていうのはどこなんですか?。この道を渡ったところですか?。」
「俳句の会の場所ですか?、この道の向こうじゃないですわよ。」
はずれた・・・・。
「じゃあ、どこに・・・。」
「俳句の会の会合場所は、コミュニティー広場の中の建物ですから、私の家の前の通りを真っ直ぐに学校のほうへ行くのよ。」
老婆の家の前の道・・・我が家からすれば一本幹線道路に近い道・・・を我が家とは反対方向へ進めば、小学校がある。その近くに、コミュニティー広場があり、児童館や老人用の娯楽設備などがある。たぶん、そこのことを言っているのだろう。だとすると、俳句の会へ行く途中で事故にあったわけではないようだ。ならば・・・。
「俳句の会のお知り合いの方は、ご近所なんですか?。」
「えぇ、ご近所の方が多いですのよ。」
「この通りの向こう側の人もいらっしゃいます?。」
「えぇ、もちろん。この道の向こうには・・・・あっ、あぁ・・・私・・・・大事なことを・・・お土産・・・大作さんへのお土産を・・・あぁ大変、どうしましょう。そうだわ、大変よ、お土産を探さなきゃ。あぁ、どこへ行ったのかしら・・・・。俳句を・・・・あぁ、そう、俳句を見てもらおうと・・・、あぁぁぁ・・・・。私!、思い出したわ!。」
どうやら大当たりのようである。

「思い出しました・・・・。あの日、そうあれはもう何年前になるのかしら、ずいぶん前のことのようだわ。あぁ・・・そうねぇ、幼稚園に行っていた孫がランドセルをしょって歩いているのを見たことがあるから・・・3・4年はたっているかしらねぇ・・・・。」
「4年前くらいだと思います。うちがこの近所に引っ越してきたのが、3年前ですから。」
「あら、そう・・・・。もう4年もたってるの・・・・。はぁ・・・・。時がたつのは早いもの・・・。
あの日、私は老人会で行った温泉旅行のお土産を持って、この道の向こう・・・この道を渡って右に折れたほうのお宅にお邪魔する予定だったのよ。大作さんっていう男性の方がいらして・・・。その方に旅行先で作った俳句を見ていただこうと・・・そう思ってね。年寄りなのに恥ずかしいことなんですけど・・・・。」
「いえいえ、恥ずかしくなんてないですよ。その大作さんって方は、彼氏だったんですか?。」
「いえいえ、そんな・・・そんな関係ではないですよ〜、おほほほ・・・。」
「行ってみますか、大作さんの家に。」
俺は思いきって言ってみた。それでいいのかどうかわからないが、この老婆が初めに言っていた「未練」という言葉が気になっていたのだ。きっと、老婆にとって、大作さんの家に行けなかったことが「未練」なのだろう。だとすれば、その未練を無くせば、ここから離れられるに違いないのだ。
「だ、大作さんの家に・・・・ですか・・・・。でも、動けないんですよ、私。」
「動けますよ。たぶん・・・ですけど・・・。」
「そ、そうかしら・・・。あぁ、でも手土産が・・・・。」
「土産なんていいじゃないですか。もう見当たらないんだし。もう腐っちゃってますよ。」
「あぁ、そうですねぇ、もう4年もたってるんですものねぇ・・・・。手土産なしで、行くんですね。」
「そうです。さぁ、行きましょう。」
「待ってください。あの・・・その・・・。」
「どうしたんです?。」
「なんだか、恥ずかしいんですよ、その・・・急に行っても大丈夫でしょうか?。」
「あぁ、大丈夫ですよ。私たちは死んでるんですから、大作さんには見えないですからね。」
そう言ってしまってから、しまったと思った。案の定、老婆はとたんに萎れてしまったのだ。
「そうですよねぇ・・・・。私は死人ですからね。行っても仕方がないですよねぇ。おぅ、おぅおぅ・・・。」
泣き出してしまったのだ。

大失敗である。あと一歩のところで、大きな失敗をしてしまった。不用意な一言だった。いくら反省しても、もう後戻りはできない。さて・・・困った。真剣に俺は困っていた。
老婆は、立ったまま泣いている。なんとか、打開策を考えないといけない。どうすれば・・・。
「えっと・・・・、その・・・あなたの俳句っていうのはどういう俳句だったんですか?。」
「えっ?、私の俳句?。」
「その大作さんに見せようと思っていた俳句ですよ。」
「あぁ・・・、あぁ・・・。えっと・・・・。あぁ、思い出せないわ。何だったかしら・・・・。あぁ、あんなに大事なことだったのに・・・・。思い出せない・・・。困ったわ、どうしましょう。」
これはかえって逆効果だったか。しかし、ここで何とかいい方向に向けないと、困ったことになりそうな、そんな予感がした。
「じゃあ、あの、ゆっくり思い出しましょうよ。えっと、季節はいつごろだったんですか?。」
「季節・・・・いつだったかしら。あれは・・・。確か、秋だったような・・・・。」
「秋ですか。じゃあ季語は何を?。」
「季語?。季語・・・・季語・・・・あぁ、だめだわ。思い出せない。覚えてられないからって、紙に書いておいたのよ。大事なものだからと・・・・あぁ、巾着袋に入れて持ってたのよ。そ、それもない・・・。手土産もない、見てもらおうと思った俳句もない・・・・。これじゃあ、大作さんの家には行けないわ。」
そこだ。俺は妙案を思い付いた。
「なんでですか?。なぜお土産や俳句がないといけないんですか?。」
「だって・・・・。それがなきゃ、大作さんの家に行く理由がないですから。」
「理由なんて・・・そんなの何でもいいじゃないですか。顔が見たくなったからちょっと寄ってみたでもいいし、近所まで来たから寄ってみたでもいいんじゃないですか。いけないんですか?。」
「そ、そんなはしたない・・・。理由もなく男性のお宅にお邪魔するなんて、そんなはしたないことできません。」
「いやいや、今はそんな時代じゃないですよ。気軽に『来ちゃいました』でいいんです。」
「それでは、ご迷惑に・・・・。前もって連絡を入れて・・・、あのときも電話で連絡をしておいたんですよ。それなのに・・・・。あぁ、私ったらなんてついてないんでしょう。」
もうひと押しだったろうか。ともかくこの線で攻めないと動かしようがなさそうだ。
「理由なんていいんですよ。前もって連絡なくてもいいんです。どうせでき・・・あっと、そうじゃなくて・・・。」
危ないところだった。また口が滑ってしまうところだった。
「えっとですね。親しい友人ならば、突然の訪問も嬉しいものですよ。迷惑なんて思いませんよ。親しいご友人だったんでしょ?。」
「親しい・・・そう親しかったです。俳句を教えていただいてました。優しいお方でした。」
「優しい方ならなおさら怒りませんって。さぁ、行ってみましょう。まずは動くことが大事です。」
「そ、そうねぇ。ここから動いてみましょうか。動くことのほうが大事ですわね。」
「そうです。じゃあ、行きましょう。えっと、道を教えて下さい。大作さんの家はどっちです。渡って右ですよね。」
「えぇ、はい、じゃあ、今行きます。動きます・・・・。あらあら、どうしたのかしら。足が動かないわ・・・。せっかく動く決心をしたのに・・・・。」
どういうことなのだろうか。生きているわけではないので、足を動かす、動かない、という問題ではないのだが・・・・。ここにいなきゃいけない理由はもうないのである。むしろ、ここを動かねばならないのだ。それなのになぜ・・・・。そうだ、気持だ。きっともっと強い気持ちを持たなきゃいけないんだ。あっちの世界に帰るときだって、途中で帰りたくなった時は「強くあの世へ帰りたい」と念じろ、って言われていた。現実世界に居たたまれなくなって、強くあの世へ戻りたいと思うと、自然に戻ってしまう・・・。そうだ、覗き見教師も浮気女もそう言っていた。ならば・・・。
「おばあさん、足を動かすんじゃないんですよ。動かそうと思ってもうまく動かないんですよ。それよりも、気持なんです。強く大作さんの家に行きたい、って念じるんですよ。」
「気持ち?、念じる?。」
「そうです。念じるんです。こう・・・なんていうかな、強くですね、気持ちを込めってですね、大作さんの家にどうしても行きたい!、って思うんです。そうすればきっと動きますよ。」
「わ、わかりました・・・。強く念じてみます。えっと・・・。だ、大作さんの家に行きたい!。」
「そうです。まだ、ちょっと恥ずかしがってますよ。もっと強く!です。」
「はい、大作さんの家に・・・。」
そういうと老婆は目を閉じ、胸の前で両手を強く握った。
「大作さんの家に行きたい・・・・。」
それは静かだが、すごく強い祈りだった。・・・・だが、何も起こらなった。
「あぁ、だめだわ。やっぱり動けない。動かないわ。やっぱりだめなのね。動けないのね・・・。あぁ、どうしましょう。どうしたらいいのかしら。」
「そ、そんな・・・。そんな、一回の失敗でくじけないでください。もう一回やってみましょうよ。」
「もう一回ですか?。はぁ、でも、なんだか、ちょっと苦しくって・・・。」
「苦しい?。そんなはずは・・・。肉体はないし。」
苦しいわけはない、肉体はないのだから。だが、このとき俺は大事なことを失念していた。エネルギーである。
「ちょっと苦しいんですよ。なんだか、思いっきり走った後のようだわ。強く念じたせいかしら。」
「強く念じたら、走ったあとのように苦しくなった・・・・・???。あっ、まさか、でも・・・。」
「あら、私・・・なんだか、ちょっと息苦しいような・・・・。なんだか、私薄くなってませんか?。」
我々は死人だから、もともと半透明である。うっすらとした存在だ。陽炎のようなものである。老婆も俺もその点は同じだった。
が、老婆に言われて、ようやく気がついた。確かにこの老婆、初めに出会ったころより、色が薄くなている。なるほど、老婆の向こうがよく見えるようになっていた。
「こ、これは・・・・。あ、ひょっとして・・・。」
そうなのだ。俺が失念していたのは、魂を維持するためのエネルギーのことである。老婆は、俺との会話や過去を思い出すこと、そして強く念じるということに多大なエネルギーを使ってしまったのだ。

我々魂のエネルギーは、供養が一番の供給元である。供養されることによって、魂は多くのエネルギーを得るのだ。そのほかには、線香やお供え物の「気」である。しかし、線香やお供え物の「気」はおやつのようなものである。まあ、お腹はふくれるが、長くは持たない。ほんの一時しのぎである。ところが、お坊さんの供養となると別だ。一か月に一度供養をしてもらえば十分だと聞いた。エネルギーの貯金ができるくらいだと・・・それは、女房の守護霊のおじいさんの話だったと思う。
お彼岸やお盆、祥月命日程度の供養でも結構維持できるが、貯金ができる程ではない・・・ということだったと思う。
きっと、この老婆もある程度は供養されていたのだろう。お彼岸や年忌くらいの供養はされていたのだろう。その供養のエネルギーは、この場所でじ〜っとしている分には十分なエネルギーだったのだろう。特に考えることもなかったろうし、過去を思い出し、なぜここにいるのかを追求することもなかったようだから、今まで消えることなく維持ができたのだろう。
しかし・・・・あぁ、俺は余計なことをしてしまったのだろうか。一気にエネルギーを使うことを老婆にさせてしまったのだ。その結果、老婆は消えかかっている。明らかに、エネルギー不足なのだ。
「あなたの家で、線香でもつけてくれればいいのだけど・・・。あるいは、お供えをしてくれるか・・・・。」
「ど、どういうことかしら・・・。」
「あぁ、あまりしゃべらないほうがいいですよ。その・・・おばあさんは、今エネルギー不足状態なんです。あぁ、こんなことを言ってもわからないか・・・。かえって混乱するな。どうしようか・・・・。いったいどうすればいいんだ・・・。」
その時だった。
『お困りのようじゃな・・・。助けてやろうか?。ふっふっふ。』
また、あの謎の声が聞こえてきたのだった・・・・。


「そ、その声は・・・・。あんたはいったい・・・・あぁ、今はそれどころじゃないな。くっそ、いったいこれはどういうことなんだ?。」
『お前も気が付いただろう。お前のせいで、エネルギーを使いすぎたんだ。このままにしておくと、下手すればやがて消えるぞ。さぁ、どうする。』
どうするもこうするもない。俺にはどうしようもない。あの声の主に頼みごとをするのは癪に障るが、こうなったのも俺の責任だ。わがままは言ってられない。仕方がないので、俺はその声の主に頼んだ。
「どうするもこうするも・・・助けられるのなら助けてください。私にできることなら何でもしますから。」
『ふむ、えらく殊勝だな。いつもの勢いはどうした?。』
「そ、そんなことはこの際いいでしょう、どうでも。とにかくこのおばあさんを何とかして下さい。このままだと消えるんでしょ。」
『ふっふっふ。まあ、仕方がないか。一人の魂がかかっていることだからな。とりあえず、エネルギーをわしがこのばあさんに少し与えよう。それで息をつなぐことはできる。が、それはほんのひと時しか保てぬ。お前は、その間に先輩の寺へ急げ。行けば何とかなるであろう。よいか?。』
「えっ?、エネルギーを与えることなんてできるんですか?。」
『わしにはできるんじゃ。いいから早く行け。こっちは任せておけばいい。早く行け。』
「はい、わかりましたよ。行きますよ。おばあさんのこと、お願いしますよ。」
『わかったから、早く行け。お前が行かねば、わしは何もせんぞ・・・・。』
見抜かれていた。声の主がおばあさんにエネルギーを与えるところを見たかったのだ。同時に、声の主の正体も見ることができるかも知れない。俺の腹はすっかり読まれていた。俺は苦笑しながら、
「じゃあ、行きます。後は頼みます。・・・あ、いいんですが、この大通り、そのまま渡っていいんですか?。車に轢かれませんか?。」
『まあ、轢かれてもどうということはないが、エネルギーは多大に消費するな。轢いたほうは、感じやすい人間ならばぞっとするだろうし、風邪をひくヤツもいるかも知れん。まれに、大きな音がする場合もあるがな。心配なら、信号が変わるのを待つか・・・時間がないな・・・、仕方がない、飛んで行け。』
「と、飛べるんですか?。」
『お前、こっちの世界にどうやってきた?。飛ばされてきたんだろ。飛ばされるなら、飛べるだろう。』
否、それは無理じゃないかと思う。飛ばされるのと自分で飛ぶのとは大きな違いだ。
『いいから、ちょっと念じてみろ。向こう側へ渡りたい、とな。多少エネルギーを使っても、寺へ行けば回復するから大丈夫だ。さぁ、やってみろ。』
やってみろといわれても・・・・と思いつつ、なるほど要領は同じか、と俺は思いなおした。さっきまで、俺がおばあさんに言っていたことと同じである。あのときは、そこまで考えていなかっただけである。念じれば、彼の家に行けるだろう・・・くらいしか考えていなかったのだ。それが、いざ自分がやるとなるとしり込みをするのは・・・・勝手なものだ。
「わかりました。念じてみます。」
俺は道路の向こう側へ飛んでいきたい、と強く念じたのだった。

一瞬、頭がクラっとした気分だった。気がつくと俺は道路の反対側にいた。
『できるじゃないか。さぁ、さっさと寺に行け。』
俺は、首を縦に振って、寺のほうへと歩き始めた。声が出なかったのである。結構、エネルギーを使ったのかもしれない。俺は、ちょっともたつきながらまっすぐ進んだ。最初の交差点を左に曲がって、次の交差点を右に曲がれば寺の駐車場だ。
俺は、フラフラとしながらも、交差点を曲がるとき、大通りの向こうを見てみた。そこには・・・。
誰かがいた。老婆の姿はうっすらと見える。うっすらとした人の姿がゆらゆらとしている。まるで、陽炎のようだ。その横に、誰かがいる。いるのはわかる。しかし、はっきり見えなかった。なぜなら、光っていたからだ。その光が一瞬強くなった。鏡に太陽の光を反射させたような感じだ。思わず、俺も手で目を隠していた。
そのあとは、老婆がたっていただけだった。老婆は、色合いが濃くなっていた。
「くっそ、見えなかったか・・・。それにしてもあの光は・・・。」
『やっぱり見ておったか。光はな、生命エネルギーじゃ。わしのエネルギーを凝縮してばあさんに与えた瞬間、強く光ったんじゃ。わかったな。わかったら、さっさと行け。じゃないと、お前も力尽きるぞ。言っておくが、お前を助ける気はないからな。こうなったのも自業自得だからな。』
返事をしたかったが、言葉を発するのも億劫だった。ひどく疲れた状態だ。寺に向かって移動するのも厭々だった。しかし、俺は一瞬だが見えた・・・ような気がした。確かに、光が強く輝いたあと、何かが消えたような感じがしたのだ。その何かだが、それは黄色いものだったような気がする。黄色いマントのようなものが翻ったように見えたのだ。ほんの一瞬だったので、何とも言えないし、すごく疲れた状態だったので、見間違いかもしれないが・・・・。でも、確かに黄色いマントがふわっとしたような気がするのだ。
「わからん・・・。ともかく急ごう・・・。」
小さな交差点を右に曲がる。すぐそこが寺の駐車場である。先輩の寺は大きな寺ではない。壇家寺ではないからだ。相談事やお祓い、御祈祷、御祈願、水子供養などで寺を維持している。初めは、ちょっと怪しい寺かと思っていた。TVに出てくるような怪しい、インチキくさい坊さんだと思っていたのだ。そういえば、一時期、水晶玉を眺めてお祓いをする坊さんがいたが、ああいうたぐいだと思っていたのである。一度、取材に行ってから話を聞くようになり、誤解は解けたのだが、どちらにしろ一般の寺とは異なる。めったに葬式はしないのだ。かといって、暇な寺ではない。相談者が毎日のように寺に来るのである。
その時も寺の本堂横の小部屋では、作務衣姿の先輩と相談者の女性が何か話をしていた。

「うん?、なんだ?、今、妙な音がしなかったかね?。」
先輩が相談者に聞いている。
「いえ、私は何も・・・・。どうかしましたか?。」
「いや、ちょっとね・・・・。あぁ、なんだ、そうか。いやいや、君には関係ないよ。大丈夫だ。」
先輩はそう言うと、俺のほうを見てニヤッとしたのだった。
「どうしたんですか、そっちのほうに何か?。和尚さん、何か見たんですか?。」
相談者の女性が先輩に心配そうに尋ねている。俺は、本堂の中、参拝者が線香を立てる大きな香炉の前で座っていた。ほっとした。急激に疲れが取れていくようだった。
「いやなに、大丈夫ですよ。ちょっと知り合いのね、え〜っと霊が来たんで。今、そこで休んでいます。なにかあったのかな?。」
「し、知り合いの霊って・・・こわ〜い、大丈夫なんですか?。私が帰るとき、くっついてきません?。」
「大丈夫ですよ。いくらあなたが綺麗だからといっても、いくらそいつが女好きであっても、付いていくことはありません。何か私に用があるみたいですからね。」
「そうですか。よかった。じゃあ、家のほうはお願いします。」
「はい、じゃあ、来週お祓いに伺います。用意していただくものは、大丈夫ですね。」
「はい、書いておきましたから。それで、家の中の変な現象は収まりますよね。」
「大丈夫ですよ。そんなに悪い状態ではないですから。一回のお祓いで落ち着くでしょう。ということで、それまでに何か変わったことがあったらご連絡ください。」
「じゃあ、よろしくお願いいたします。」
そういうと、その女性は帰って行った。どうやら、先輩は彼女の家にお祓いに行くようである。彼女自体のお祓いはしなかったのだろう。なぜなら、彼女と一緒に、奇妙な姿をした、うすらぼんやりした者が一緒にいたからである。あれは何なのだろうか・・・。
「土地にいる霊だよ。彼女の家の土地に昔からいる霊だ。あまりいい土地じゃないところに家を建てたものだから、いろいろ面倒事が起きてるんだ。お前も気づいたように、ああやって妙な霊を連れて歩いている。霊自体は、ホッとしただろうな、お祓いされなくて・・・。まあ、いずれ祓われるんだけどね。それでも、ここで祓われるより、自分の馴染みの土地で鎮められたほうが気持ちはいいだろうからな・・・。ところで、何の用だ?。」
相変わらず、よくしゃべる先輩である。何の用だ?と問われてもどうやって答えていいか分からない。どうやって伝えればいいのか・・・。
「あぁ、そうか・・・。思い浮かべればいいのだ。お前が訴えたいことを思い浮かべよ。順に状況を説明するようでもいいぞ。言葉に出してもいい。こっちの人間には聞こえないからな。」
どうやらお見通しのようである。なので、俺は自分が置かれている状況を説明した。老婆と出会ったこと、老婆が動けないこと、その原因が老婆の未練にあるのではないかと思ったこと、その未練を断ち切るために遂げられなかった思いを遂げさせようとしたこと、そのために老婆が多量のエネルギーを消費してしまったこと、俺にあの世の取材をするよう依頼した声の主が現れて助けてくれたこと、その指示によってここに来たこと・・・を俺は一気にまくしたてた。
「は〜ん、なるほどねぇ。お前さんもなかなかやるじゃないか。修行したら、お祓いができるようになるかもな。いい勘してるぞ。おそらく、その老婆が動けないのは未練があるからだし、その未練は彼のところへ行きたかった、というものだろう。俳句が見つかれば一番いいのだが、それは無理だからな・・・・。まあ、とりあえずは、今は消えずに済んでいるのだな?。」
普通に会話が成り立ているのに俺は面食らった。
「あのな、ここは特殊なんだ。よそではできないと思うよ。まあ、俺も大きな声だ話をすると、はたから見れば気が変と思われるから、小声で話しているんだがな。というよりも、心の中で会話しているんだ。」
なるほど、実際の声は、そんなに大きくないのだ。落ち着いて聞いてみれば、先輩は声を出すか出さないかのような声で答えていた。
『まあ、とりあえず謎の声の主のおかげで助かりました。・・・ところで、あの声の主は一体誰なんでしょうか?。』
「そうか、大丈夫なら・・・・どうしようかな・・・。」
俺の質問には答えず、先輩は考え込んだ。
「仕方がないな、強制的に動かすか。で、あの世に導くしかないな・・・・。しかし、おい、何で俺がそんなことしなきゃいけない。たまたま、今日はこのあと誰も来ないからいいが、予定が詰まっていたらどうするんだ。しかも、お前、このお祓いのお布施払えるのか?。」
払えるわけがない。俺は死人である。
「仕方がないなぁ・・・。ただ働きか・・・。まあ、たまにはいいか。近所のことだし。」
『先輩は、あそこに老婆がいることは知らなかったんですか?。』
「知っていたよ。知っていたけど、俺には関係なからね。うちの信者でもないし。」
『関係ないって・・・。それでいいんですか?。』
「その家の人間から依頼がない以上、俺は何もしないよ。そんなことを気にかけていたら、そこらじゅうで俺はお祓いをしなきゃいけなくなる。霊がぼんやり立っているのは、なにもあの交差点だけじゃないからな。そういうのを見つける度に俺はその霊を何とかしなきゃいけないのか?。」
『いや、そういうわけでは・・・。』
「じゃあ、どういうわけなんだ。」
『すみません。』
「そもそも、今回のことでもお前が余計なお節介をするからこうなったんだろ。ああいうその場から動けない霊を見ても、今後は関わらないことだな。関われば、そのたびに苦労することになるぞ。最後まで自分の力で救えるのなら関わってもいいが、自分一人で助けられないのなら、関わらないことだ。大きなお世話だ。余計なことをして、かえって不幸にしてしまうからな。今回も、もう少しでその老婆を消してしまうところだったんだからな。反省しろ。」
『はぁ、そんなもんなんですねぇ・・・。もう、今後は関わりません。』
「どうだかねぇ。野次馬だからな、お前さんは。さてと、じゃあ、現場へ向かうか。準備するから待ってろ。」
そういうと、先輩は本堂の奥へと向かったのだった。「あぁあ、ただ働きか・・・」と文句を言いつつ。

しばらく待っていると、先輩が本堂に戻ってきた。すっかり坊さんの姿に着替えている。黒い衣に黄色い袈裟をつけていた。俺は、ハッとした。黄色い袈裟である。あれは、あの時見たのは黄色い袈裟だったのかも知れない・・・。
「どうかしたか?。行くぞ。」
先輩の手には、黒いかばんが下げられていた。もう片方の手には、紙の手提げ袋があった。中身は・・・。
「塩と酒と水だ。現場には水はないだろ。あと線香ね。お祓い用の。あぁ、面倒くさいのう。今日は久しぶりに時間があるから映画のDVDを見るつもりだったのに・・・。仏様は俺に休みをくださらない・・・かわいそうな俺・・・。」
まだ、文句を垂れていた。俺の葬式の時の偉そうな態度とは大違いだ。普段は、こんな調子なんだろう。まったく、クソ坊主である。
「坊さんも人間なんだよ。疲れる時もあるさ。欲は捨てきれないもんでねぇ・・・。俺も聖人君子じゃないからね。悪いけど。さて、歩いていくか。」

外へ出ると、大通りに至る交差点のところで、先輩はあちこちを見まわしていた。その眼光は鋭く、ちょっと俺もビビったくらいだ。
「ふん。なるほど。あの老婆はあの家・・・ふ〜ん、あの家か・・・。未練があったんだな。しかし、確かあの家のじいさんは亡くなったはずだが・・・。」
『亡くなった?。大作さんは亡くなったのですか?。』
「確かそうだと思うぞ。お前、ちょっと行って確かめてこいよ。なに、表から表札を見ればわかる。古い家だから、表札は当主の名前になっている。もしかしたら、新しく表札を作り直しているかも知れん。」
俺は大作さんの家に向かった。寺でエネルギーを十分いただいたので、思うように動くことができる。しかも、厄介事を頼んだ立場なので、逆らうことはできなかった。
大作さんの家の前に立ってみる。表札を探した。先輩の予想通りだった。表札の名前は「大作」ではなかった。しかも、門や玄関が新しい。どうやら最近リフォームしたようだ。門には、モダンな洒落た表札が付いていた。そこには、ローマ字で名前が書かれてあった。
『こりゃあ、老人がいるような感じじゃないな。おそらくは、大作さんが亡くなって、それからリフォームしたに違いない。なんともまあ・・・。世の中そんなものなのかなぁ・・・。』
俺は交差点のところで待っている先輩のところへすぐに戻って報告した。
「まあ、そんなもんだろう。いろんな意味でな。」
先輩の感想は一言であった。
大通りを渡るべく、歩行者用の押しボタンを押した。信号が変わるのを待つ。信号が変わって先輩は大通りを渡った。今回は俺も通りを飛び越えずに歩いて渡った。エネルギーの消費はものすごく少ない。この通りを飛び越えるだけで、ずいぶんとエネルギーを使うものなんだ、と俺はぼんやり考えていた。
「念というのは、結構エネルギーを使うものなのだ。だから、人を強く怨んだりすると、うまく行かなくなるんだよ。怨むことで大きな霊的エネルギーを使うから、本来の運勢に回るエネルギーを消費してしまうんでな。つまらないことに霊的エネルギーを使えば、ますます運が悪くなる、ということだな。だから、怨みが強ければ、自滅するんだよ。ま、怨むほうはそれになかなか気がつかないんだがな。」
今の俺はこの話がすんなり受け入れられる。生きているときだったら、何をバカな・・・で終わっていたのだろうが・・・。死んでからわかることは随分と多い。いや、たんに生きているとき、理解することを拒否していただけなのだが・・・。

老婆がたたずんでいる歩行者信号の下までやってきた。
「ばあさん、そろそろここを動く時が来たようだ。」
先輩は老婆にそう声をかけた。


つづく。


バックナンバー(十七、88話〜)


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