バックナンバー(二十) 第百二話〜第百六話
『し、しっかりして下さいよ。』 じいさんの身体の色がだんだんと薄くなっていく。ただでさえ、半透明なのに、今は消えそうなくらい霞んでいた。このままでは危ない。完全に消えてしまう。きっと、美術品の鑑定結果に驚き、相当なショックを受けてしまったのだろう。なんとかしないと・・・・。俺は焦った。 そういえば、この間の道にたたずんでいた老婆もそうだった。あのときは、消えそうになっていたのをあの正体不明の声の主がエネルギーを分け与えるようなことをしたのだ。それであの老婆は助かったのだった。 『ということは、俺がこのじいさんにエネルギーを分け与えればいいんだ。しかし、どうやって・・・・。』 エネルギーを分ければいいことはわかる。しかし、その方法がわからなかった。もちろん、じいさんの身体を支えることもできない。実体がないのだから、つかむことも触れることもできないのだ。 『いったい、どうすればいいのか・・・・。』 俺は途方に暮れていた。じいさんは、まさに消えかかっている・・・。その時であった。じいさんの奥様がやおら立ち上がり、 「あぁ、あなた、あなたってなんてかわいそうな・・・。きっと、たくさんの美術品店に騙されていたのね。バカな人だわ・・・。あぁ、なんてかわいそうな・・・・・」 と泣きだしたのだ。そして、自分が座っていた後ろの襖を素早く開けた。なんと、そこには強欲じいさんの祭壇が祀ってあったのだ。 「あぁ、あなた・・・かわいそうに・・・。あなたが大切にしていた美術品がニセモノだったなんて・・・。」 奥様はそういいながら、真新しいローソクに火をつけ、長い線香に火をつけた。供えてある華はみずみずしく、つい先ほど供えたかのような新鮮さがあった。 どうやらにおう。芝居臭い・・・・。俺の直感がそう言っていた。 「チーン・・・チーン・・・。むにゃむにゃむにゃ・・・。」 奥様は、(わざとらしく)手を合わせ、洟をすすった。 「奥様、そのぉ・・・気を落とさないように・・・・。」 弁護士が後ろから声をかける。これも芝居臭い。仕組まれているような気がする。しかし、奥様が祭壇をお参りしたおかげで、隣で消えかかっていたじいさんが復活していた。 『顔色が戻ってきましたよ。っていうか、半透明ですが・・・。』 『あぁ、何とか助かった。死ぬかと・・・否、消えるかと思った・・・。しかし、女房が手を合わせるとは・・・・。』 『いや、どうもこれには裏がありそうですよ。』 『なんだと?、裏があるだと?。』 『そうです。まあ、最後まで見ていてください。』 線香の香りが座敷中に漂っていた。いい香りがする。さすがに金持ちだけのことはある。最高級の線香を焚いているのだろう。 『伽羅じゃ。しかも、最高級の伽羅じゃ。いい香りじゃ・・・・。』 隣でじいさんが悦にいっていた。 『香がわかるんですか?。』 『もちろんじゃ。茶席にも出ていたし、禅寺にも通っていた。だから、香についてはよく知っておる。わしは、伽羅よりも沈香の方が好きじゃが、この伽羅ならばいい。おかげで気分も落ち着いてきた。やはり香はいいものに限る。安もんの人工的に作った香りのお香は、ダメじゃな。』 そういうものなんだ。この話を聞いてうちはどんな線香を使っていたのだろうか、気になってきた。きっと高くないに違いない。まあ、しかし、エネルギー不足になることはないのだから、悪いものではないのだろう。 二人で、香について話していると、奥様が立ち上がって振り向きざまに妾親子を睨みつけていった。 「これ以上、主人に恥をかかせないでください。さっさとお引き取りを。あなたたちだって、主人から十分なことを受けているはず。さぁ、お帰りを・・・。」 毅然とした態度だ。お嬢様や息子さんの秘書も、奥さまの秘書も、そして弁護士も妾とその息子を睨んでいた。 「ま、ま、仕方がないわね・・・そういうことなら・・・。あははは、それにしても、あの人ってダサいわね。騙されていたなんて・・・・。あははは・・・。」 「私の父を悪く言わないでちょうだい。世話になっておいて。」 お嬢様がきつく言い放った。続いて、弁護士が冷たく言う。 「よろしいですかなお二人さん。このことは絶対に口外なさらぬようにお願いいたします。当家の皆さんは当然、このことは口にはされません。もし万が一、この話が外に漏れたならば、それはあなたたちがしゃべったということになります。ご理解いただけますね。」 あたりはシーンと静まりかえっていた。 『おい、どういうことなのじゃ。なんだかおかしな流れになっておるぞ。』 『いや、計画的みたいですよ。妾親子が帰ればわかると思います。』 『まさか、これはすべて仕組まれていると?。』 『まあ、落ち着いてください。線香のおかげでせっかく消えずに済んでいるのに、また興奮すると大変ですから。俺も助けられませんからね。』 『あぁ、大丈夫だ。落ち着いておる。・・・・ふむ、なんとなく読めて来たぞ。そういうことか。こいつらみんな組んでいるんだな。』 『おそらくは・・・。』 「は、仕方がないわね。大丈夫よ、私たちだってバカじゃない。黙っていた方がいいことくらいわかるわ。でもね、黙って欲しけりゃそれなにりにやることもあるわよね。」 「そうだそうだ。口止め料・・・。」 「あんたは黙ってなさい!。ま、そういうことよ。」 妾は弁護士を睨み、奥さまを睨み、再び弁護士を睨んだ。弁護士は、奥さまと眼をあわせ、一度うなずくと、 「よろしいでしょう。後日、小切手をお送りいたします。それでよろしいでしょうな。」 と言った、すかさず、妾が言う。 「金額は?。」 「あなたにそこまで指図される必要はありません。私どもをなんだと思っていらっしゃるの?。それ相応のことはさせていただきます。さぁ、早くお引き取りを。私の気が変わらないうちに。」 ここは奥様の迫力勝ちであった。役者が違う。妾は、「ふん」と鼻を鳴らすと、さっと立ち上がり息子に行った。 「さぁ、帰るよ。」 そして、さっさと座敷を出て行ったのだった。 『なんとまあ、人間というものは、最後まで欲の深いことで。惨めなもんだのう・・・・。』 横でじいさんが涙ぐんでいた。俺は、あなたも生前は欲深い人だったんですよ、と言いたかったが、黙っていた。じいさんの眼差しが、本当に優しかったからである。 『人間は醜いのう。金や財産を前にするとその本性が現れる。結構な金額を手にしても、さらに欲しがる。手に入らないとなっても、何とかしてオコボレを・・・としがみつく。惨めじゃ、あまりにも惨めじゃ。本人は気付いていないのだろうが、その姿はまるで餓鬼じゃ。哀れなものよ。あぁ、あのままではきっと、あの妾親子、生きたまま餓鬼となるのだろうなぁ・・・・。』 じいさんの言葉に俺は何も言えなかった。ただ、ゆっくりうなずいただけだった。 妾親子が出て行ってしばらくすると、 「ぷはぁ〜、は〜、やれやれ、ほっとしたわ。あ〜、もうダメ、笑いがこみあげてくる。」 と笑いながらお嬢様が言いだした。 「ちょっと、危ないわよあなた。笑いそうになっていたでしょ。」 奥様が指摘する。 「だってぇ〜、おかしくって・・・・。でもうまく行ってよかったわね。」 「いえいえ、お嬢様のお芝居もなかなかのものでしたよ。まあ、私たちは黙って驚いたふりをしていればよかっただけですから、助かりましたが。」 息子の秘書がニコニコとしながら言った。 「ともかく、これで一件落着ですな。」 「ありがとうございます先生。しかし、こんなにもうまくいくなんて・・・・。で、本当の金額はおいくらだったんですの?。確か、億はいくという話でしたが・・・。」 思ったとおり、お芝居である。さっきの美術品の金額は嘘だったのだ。あの妾親子はすっかり騙されたのだ。 「はい、本当の鑑定結果はですな、すべて本物であるとのことです。なお、一部にあまり価値のない古美術品も含まれておりました。これは、会長が好きで集められたものです。有名でない骨董店に顔を出し、その場で気に入った物を買ってきたようですな。そういうものは、大した金額にはなりませんでした。」 「そんなことはいいのですよ、先生。大事なことは、本物の方の金額です。」 『何をバカなことを・・・。コイツもあくまでも金なんじゃな。美術品は金じゃないのに。本当の美がわかっておらんのだ、こいつらは・・・。嘆かわしい・・・・。』 強欲じいさんが首を横に振っていた。 「お母様、そんな言い方はないのではありませんか?。金銭的に価値はないかも知れませんが、お父様が生前好きだったものですよ。たとえ価値がなくとも、大事にすべきだと思いますが・・・。」 お嬢様の言葉にじいさんの顔が明るくなった。 『おぉ、お前もそう思うか。そうか、お前だけはわしの気持ちがわかってくれると思っていた。うんうん、嬉しいのう。』 本当に喜んでいるようだ。が、次の言葉にじいさんはまたショックを受けてしまった。 「な〜んてね。どう?、なかなかいいセリフだったでしょ。」 「まったくあなたは。あなたも結局は高価なものしか興味がないのね。」 「もちろんそうでしょ。それは兄さんだって同じよ。だからこそ、自分の秘書までここによこしたんでしょ。美術品の本当の金額が気になるから。自分だけ蚊帳の外じゃあ、ねぇ。」 そういうとお嬢様は、横目で息子の秘書を眺めた。秘書は、何も言わずうなずいて額の汗を拭いた。 『くっ、どつもこいつも金金金・・・・。もう充分過ぎるほど持っておるというのに、まだ欲しがるとは。言葉遣いや態度が違うだけで、その本性はこいつらもさっきの妾どもも同じだな。あぁ〜、わしはこいつらに騙されていたんじゃなぁ。こいつらの本性を見抜けなかったんじゃ。わしを大切に思ってくれているのは、本当の妾だけだったんじゃなぁ・・・。』 がっくりと肩を落としたじいさんに、かける言葉が見つからなかった。 「まあまあ、お話はその位にして。では、本当の金額を発表いたします。会長が残された美術品の鑑定結果は、なんと、12億5千万円でした。美術品の相場が下がっておりますゆえ、今はこの程度ですが、世界経済が復活すれば、日本画ブームも訪れる可能性があります。そうなれば三倍以上は行くということでした。」 「三倍!。ということは12億ずつ分けることも可能ということね。ふふふ、まあいいわ、それならば。」 お嬢様はにやにやし出した。息子秘書は、早速携帯電話で連絡を取っていた。お嬢様が続ける。 「ということは、今はその美術品は売らないほうがいい、ということね?。」 「はい、会長が造られました保管庫は大変しっかりしております。ですから、そのまま保管して、タイミングを見て売却をしたほうがいいかと思います。」 弁護士の言葉に、奥様が言った。 「そうね、それで提案があるのよ。保管庫の鍵をこちらの弁護士先生にお預けしたらどうかと思うのよ。そして、美術品の目録を作り、私たち親子でお互いに持っているの。で、定期的に保管庫の点検をしたらどうかしら。」 「つまり、3人で協力し合い、抜け駆けはしない、ということね。」 息子の秘書も携帯電話で確認を取っている。 どうやら、3人で美術品を保管しあうことになったようだ。お互いにお互いを見張る意味もある。抜け駆けは禁止だ。話は、そうまとまったようである。 誰もいなくなった広い座敷の空中に漂いながら、俺はじいさんと話をしていた。 『よかったじゃないですか。とりあえず、美術品がバラバラにならなくて。』 俺は、努めて明るく言った。 『まあ、そうじゃがのう・・・。しかし、こいつらの欲の深さにはあきれ返ったわい。誰がこんな風にしたのか・・・・。』 『あの・・・それなんですがね、誰って。』 『言われなくてもわかっておる。全部身から出た錆、自業自得、わしのせいじゃ。わしは、子供たちの教育を間違った。嫁に対する態度も間違っていた。それも仕方がなかろう。わしは欲の中で生きてきた人間だからのう。お前の考え方は間違っている、そのままじゃ欲に復讐されるぞ、と教えてくれる者はだれ一人いなかった。高名な僧侶でさえ、わしに説教をする者はいなかった。誰もがわしに媚を売り、おこぼれを頂戴することばかりを考えていたのだ。人間というものは、それがどんな種類のものであっても、欲を離れたはずの僧侶であっても、金の魔力には勝てないのじゃのう・・・・。』 死んだ人間にこう言うのもなんだが、強欲じいさん、不動明王と言いあった時に比べ、ずいぶんと老け込んでしまったように思う。あの時の迫力は今はもうない。すっかり好好爺である。それはとてもいいことなのだろう。あの時のじいさんは、迫力があり生き生きとしていたが、それは虚勢を張っていただけであって、じいさん本人の自然な心ではなかったように思うのだ。自然な姿ではなかったのだ。今は、そう、すべての鎧を脱ぎ去って、故郷に帰ってきた平和を楽しむ戦士、のようなのだ。俺は、じいさんの姿に気持ちが安らいだ。いつまでも眺めていたい、そう思ったのである。 『しかし、まあ、一件落着でよかったですね。人間の欲深さもよくわかったし。』 『あぁ、そうじゃのう。しかし、思うのだが、案外、一般庶民の方が心はきれいなのかも知れんのう。たとえば、お前さんの女房が、わしの美術品がもらえる、となったらどう反応するかのう。』 『うちの女房ですか?。さぁ、どうでしょうか。案外、欲しい!と飛びつくかも知れませんよ。でも、全部とは言わないでしょうけど。』 『好きなだけ持っていけ、と言われたら?。』 『う〜ん、全部欲しいとは言わない、と信じたいですね、心情的には。しかし、人間ですから、じゃあ全部ください、というかも知れません。でもね、それでもいいんじゃないですか?。』 『どういうことじゃ。お前さん、女房が欲深いところを見せても平気なのか?。』 『平気ではないと思いますが、それもいいのではないかとも思います。だって、人間って欲が深い生き物でしょ。自分だってきっと全部欲しいな、と思いますよ。』 俺は、にこやかにそう言った。俺は、真実そう思っているのだ。さらに続けた。 『奥さまやお嬢様だって、別に醜いなんて思いませんよ、私はね。欲が深いなぁ、汚いなぁ、ずるいなぁ、とは思いますが、でも、奥さまたちがしたことを否定はしません。自分もあの立場に立ってみたら、同じことをすると思いますからね。よく考えてみたら、妾親子を騙したことにはなりますが、美術品やお家のメンツなどは保たれたわけでしょ。もめ事もとりあえずは収まったのだし。世界の景気がいつ上向くかなんてわかりませんから、時が流れれば、奥様達の考え方も変わるかも知れません。会長がおっしゃっていたように、あの弁護士さん、なかなかのやり手ですよ。』 『そうかのう・・・・。そう言われてみれば、そうかも知れぬのう。人間は欲が深い、と嘆いていても仕方がないのかも知れぬのう。むしろ、欲が深くて当たり前、だからこそ、その欲とうまく付き合っていくことが大事なのかも知れぬのう。』 『その通りですよ。そう思えば、嘆くこともないし、人間らしいとも思えます。』 『そうじゃな、確かにお前さんの言う通りじゃな。一番賢かったのは、あの弁護士かも知れんのう。うまく人間の欲を利用して、ことを荒立てず、納めてしまったのだから。』 『そういうことですね。でも、安心しました。これであの世に戻っても心配ないじゃないですか。』 『あぁ、そうじゃ。わしもこの世に思いを残すことはなくなった。安心して裁判を受けられるわい。そう思ったら、あの世に帰りたくなったなぁ。帰るとするか?。』 『えぇ?、いや、私は、もう一回家に戻ってですね、女房や子供顔を見てからにします。』 『そうじゃのう、お前さんはまだ若いから、女房子供に未練があるからのう。そうじゃ、ちょっと聞いてみたいのだが、もし、お前さんの女房に彼ができたら、お前さんどう思うよ?。』 考えてもみなかった。まさか、女房が新しい彼を・・・・?。急に、俺はそわそわしてきた。なんだか、早く帰らねば、という気持ちになってきたのだった。 『なにを慌てておる。そんなに慌てなくても・・・・。案外気の小さい男じゃな。』 『いや、しかし・・・はぁ・・・、でもそうは言っても・・・・。』 『わしは、もしも・・・と言っているだろう。しかし、お前さんの奥さんはまだ若い。これから先、恋をするかも知れんだろう。そうは思わんか?。』 『う〜ん・・・そうですねぇ・・・・。』 俺は思わずうなっていた。 『う〜ん・・・・、う〜ん・・・・。』 『何をそんなにうなっておるのじゃ。便所じゃあるまいし・・・。わしはな、心構えを言っているんじゃ。心構えな。お前さんの女房に男ができた・・・あぁ、言い方が悪いかな、言いなおそう・・・お前さんの女房が恋をした・・・まあ、どっちも同じか・・・いずれにせよ、そういうことも考えられるだろう。否、むしろ一人で過ごさせるのは酷なんじゃないかのう・・・。』 強欲じいさんの言っていることはよくわかる。確かに女房は若い。まだ30歳代だ。容姿だって悪くないし、スタイルだって悪い方じゃない。今、俺が見ていても素敵だと思う。思う、確かにそう思う・・・・。ということは・・・・。 『未亡人ですかぁ・・・。女房は若い未亡人、なんですねぇ・・・。』 『男なら、その言葉の響きの意味がわかるじゃろ。むっふっふっふ。』 『あのですねぇ、そういうイヤらしい笑いをしないで下さいよ。あぁ〜、なんだか・・・あぁ〜変な気分です。』 『あぁ、悪い悪い・・・まあ、それにしても、心の準備だけはしておいたほうがいいのじゃないか?。わしはそう思う。お前さんは死んでしまっているんだからなぁ・・・。』 よくわかっている。否、どうすべきかはわかっている。俺は死人だ。死んでしまっているのだ。いつもでも女房に未練たらしくくっついているわけにはいかないだろう。この世には留まれない存在なのだから。だから、女房に彼ができたなら、快く思うべきなのだろう。俺の思いで、執念で女房を縛るわけにはいかないのだ。しかし、実際その場面になったら・・・・。俺は自信がなかった。 勝手なものだ。俺は俺で、死んだ世界で気になる女ができている・・・。どうにも気になって仕方がないという女ができてしまった。まだ、死んで間もないというのに・・・・。じゃあ、女房に気になる男性ができていたとしよう。それは是か非か・・・。 俺は浮かれ過ぎていたのかも知れない。あの世の取材者ということで、あまりにも女房たちへの思いを後回しにしていたのかも知れない。 『俺って…結局仕事人間なんですね。家庭を大事にはできない男なんです・・・。』 『あぁん?、どうしたのじゃ?。』 『否、なんでもありません。さてと・・・そろそろ帰りますよ。』 『帰るって・・・あの世へか?。』 『いいえ、自宅ですよ。一度家に戻って女房と子供の顔を見てきます。少し、家の中でのんびりしたいですし・・・。』 『あぁ、そうじゃな。それがいい・・・・。いつまでこっちの世界に来られるかもわからんしのう・・・。こっちの世界の愛すべき人たちをもう少し眺めているのもいいのかもしれん。否、憎むべき人を眺めるのもいいのかもなぁ・・・。』 『憎むべき人・・・ですか?。』 『今じゃあ、何とも思わんがな、生きているときは敵はいっぱいおった。なんでわしの言うことを聞かないのだ、こいつは!、と思うようなヤツは何人もいたよ。死んだすぐは、アイツラのせいで寿命が縮んだ、と思ったくらい腹が立っておったが、今では何とも思わなくなったのう・・・。これも、仏様や裁判官様やお前さんたちのおかげだのう・・・。』 じいさん、遠くを見つめるような目になっている。生きているとき、政財界の裏側で暗躍したころを懐かしく思っているのだろうか。今となっては、いい思い出なのだろうか・・・。 『なんだか、懐かしいくらいにすら思えてきた。まだ死んでそんなにたっていないというのに・・・。そうだな、わしも敵方のヤツらの面でも拝んでくるかな。』 『ムカついて興奮しないで下さいよ。』 『あぁ、大丈夫だ。もう興奮なんぞせんよ。バカなヤツラだなぁ、と思って見てくる。こっちの世界に来たら、いろいろ教えてやるってな。わっはっはっはっは〜。』 『それはいいですね。生きているときの欲の深さの捨て方とかね、教えてあげられますよね。』 『お?、なんじゃ、それは。嫌味か?。』 『いえいえ、嫌味じゃありませんよ。』 『あははは、本当じゃのう・・・。さて、こうして考えると、会っておいたほうがいい者が結構いるようだのう。こりゃ、まだあの世へは戻れんわい。』 『まだ、次の裁判まで日にちはあるんじゃないですか。日にちが迫れば、勝手に連れ戻されるようですし。』 『そうじゃのう。ならば、期限ぎりぎりまでふらつくか。お前さんは家に帰るのだな?。』 『はい、帰ります。用も済んだし。』 『用?。』 『あ、いや、何でもありません・・・・その、会社での用ですよ。』 『あぁ、そうか・・・。ところで、知っている人間のところへ行くにはどうすればよいのじゃ。』 『あぁ、たぶんですが・・・その人のことを強く念じればいいんじゃないですか。直接知っている人間ならば、行くことは可能だと思いますよ。』 俺は先輩から聞いた知識を披露した。 『ただし、相手が知らない人間だと行きにくいらしいです。今いる場所とかがわかっていれば、なお行きやすいようですよ。』 『ほう、そんなものか。う〜ん、アイツラは・・・あぁ、いま国会会議中か。ならば簡単に行けるな。』 相手は政界の人間らしい。まあ、このじいさんならあり得るか。 『あ、でも、エネルギーをためてからのほうがいいですよ。消えると大変ですから。』 『エネルギー?。あぁ、そうか、さっきのように消えかかるといけないからのう。あれはびっくりしたし、つらかった。でも、さっきの線香で随分回復したんじゃが・・・。そうだ、妾のところへ行けば、エネルギーも取れるのう。よし、まずはあそこへ行くか。』 『それがいいですね。あぁ、そうそう。緊急のときは、懇意にしていたお寺に行くといいそうですよ。エネルギーが回復します。むしろ、先に寺に行ったほうがいいかも知れません。』 『懇意にしていた寺か・・・。あの強欲な坊主の寺へ行くのはムカつくのう。わしは、あの寺の檀家総代もやっていたんだがな、わし以上に強欲な坊主だったから、顔を見るとムカつくんじゃが・・・。あんな強欲坊主がいるところでもいいのか?。』 『そういうことは関係ないみたいですよ。まあ、多少はあるのかも知れませんが・・・。とりあえずは、お寺は死者の憩いの場所、オアシスらしいですからね。』 『ふ〜ん、そういうものか・・・。しかし、お前さん、何でそんなことを知っているんじゃ?。妙に詳しくないか?。』 『あ、いや、その・・・うちの寺の和尚さんが女房にそう話していたんで・・・。』 『ふ〜ん、そうか・・・・。あのな、前々から思っていったのじゃが、お前さん、なんか怪しくないか?。何か、隠し事ををしておるのじゃないか?。』 『隠し事ですか?。』 さすがにじいさん、鋭い観察力である。自分の家のことばかり気にしているのかと思っていたが、ちゃんと見ているところは見ているのだ。これはちょっと注意しなければいけない・・・と俺は思った。 『隠し事なんて何にもないですよ・・・・あぁ、ただ、私が葬式をしてもらったお寺は、檀家寺じゃないんですよ。御祈祷とかするお寺なんですよ。だから、何だか知りませんが、あの世の世界のことをよく知っているんですよ。』 『怪しい坊主じゃないのか?。』 『ちょっと変わり者ですが、怪しくはないですよ。騙して金を巻き上げたりはしていませんから。むしろ、TVなどに出ているような霊能者とか拝み屋のような連中を嫌っていましたからね。邪道だ!って。』 『ふ〜ん、そうなのか。わしの寺の坊主は金勘定しかしない欲深坊主じゃったのう・・・。まあ、檀家が千軒以上もある寺じゃからのう。仕方がないのかも知れん。さてと・・・、無駄話をしていても仕方がいのう。時間の無駄じゃ。さぁ、行くか。』 『あ、はい、そうですね。どうもお邪魔しました。じゃあ、私は帰ります。たぶん、フッと消えると思いますんで・・・。』 『おぅ、わかった。了解じゃ。わしも行きたい相手を念じればいいのじゃな。』 『そうです。でも、その前に・・・。』 『あぁ、寺によってみる。力を蓄えんとな。じゃあ、またあの世で会おう・・・それも変な言い方じゃのう。わははは。』 俺も声を出して・・・生きていればの話だが、大笑いしたのだった。そして、俺は先輩の寺を強く念じた。 「なんだ、もう帰ってきたのか。」 寺についたとたん、先輩の声が響いた。 「予定より早いじゃないか。何かあったのか。」 『いや、何も問題ありませんでしたよ。行ってみてよかったです。』 「目的の人には会えたんだな。」 『はい、もうしっかりと・・・・。』 俺は、強欲じさんのところについてからのことをすべて先輩に話をした。 「ふ〜ん・・・、確かにその弁護士、なかなかの人だねぇ。まあ、ウソがばれなきゃいいが、当分骨董品は塩漬けなんだから差支えないか。」 『あ、先輩ももちろん黙っていてくださいね。』 「わかってるよ。誰にもしゃべらないさ。ともかく、取材はうまくいったんだな。」 『はい、それはもう充分に。強欲じいさんも、すっかり丸くなりましたし・・・まあ、消えかけたときはびっくりしましたが・・・家族の欲深さについても踏ん切りがついたようで・・・。まあ、これから国会に行くとか言ってましたから、ライバルだった連中を見るとどうなるかわかりませんけどね。昔の・・・昔と言ってもほんの数週間前ですが・・・血が騒ぐかもしれません。』 「う〜ん、まあ、大丈夫だろう。あの年で一度丸くなったなら、そうそう無茶はしないだろう。よほどのことがない限りな。というか、お前の話によれば、悟りの境地に近付いているような感じもする。すべて納得してきているというか・・・。うん、うまく言えないけどな。」 『あ、それは感じます。すべてを受け入れようとする心というか、そういう受け皿のようなものができているんじゃないかと。今回の古美術品の相続問題で、それができてきたような、そんな気がしますよ。』 「うん、受け皿ね、うまいこと言う。これからどうそれが大きくなるか、見ものだな。時々教えてくれ。」 『はい、わかりました。・・・ということは、こっちに戻った時には、ここに寄れということですね。』 「寄れと言わなくても来るだろう、お前のことだから。」 俺は、生きているときならば、微笑んだような状態になった。やはりここは居心地がいい。心が穏やかになる。が、先輩の方は、穏やかにはならないようだった。 「ところで、お前、他に何があった?。」 『何がって・・・特に何も・・・。』 生きていれば、眼が泳いでいるか、眼をそらしているか、どちらかの行動をしただろう。折角、穏やかにしていたのに・・・・。 「ふ〜ん、そうかねぇ・・・。微妙に波長が違うんだけどなぁ・・・・。まあ、お前が何もいいたくないなら無理には聞かないけどね。あぁ、そうそう、死者でも悩みはあるからな。それは生きている人間と変わりはないから。お前ならわかるだろうけど。」 『はぁ・・・まあ、わかりますよ、それは・・・・。』 「煮え切らんなぁ。悩みを抱えるのはいいけど、それは四十九日以降に持ち越すなよ。」 『えっ、どういうことですか?。』 「死者には七日ごとに裁判があることは前に話したな。お前もよく知っていることと思う。」 『はい、知っています。』 「で、その七日ごとの裁判は7回あることも知ってるな。7回目、すなわち四十九日目に死者は、自分で門を選ぶことになる。」 『六つある門のうち、どれか一つを選んで中にはいる・・・のでしたよね。』 「そうだ。そして生まれ変わり先へ移動することになる。」 『はい、知ってます。』 「うん、それはいいのだが、それまでに悩み事は解決しておいたほうがいいのだよ。悩みごとを引きずったまま門を選ぶと、その悩みの内容や深さによって、行き先に影響が出る。」 『ということは、生まれ変わりの先に影響が出る・・・ということですか・・・。』 「そういうことだな。考えてもみろ。四十九日までに悩みを抱え込んでしまえばどうなると思う?。それがひどい悩みならば、どうなるよ?。」 俺は考えてみた。今までの見聞きしたことを思い出しながら・・・・。 『ひょっとして、こっちの世界、この世の方に留まることに・・・?。』 「そういうことだ。悩みが深くなれば、執着心が湧く。そうした悩みは、たいていはこっちの世界に関することだ。ならば、こっちの世界に執着心が湧くということだな。執着心というものは、その思いが遂げられないほど強くなるものだ。望みが叶わないことほど執着心は強くなるものだ。ということは?。」 『こっちの世界に戻ってしまう・・・・。』 「そういうことだな。お前が何を抱え込んだのかは知らないが、まあ、早めにけじめをつけることだな。悩んでも仕方がないことだろうから。」 『はぁ・・・まぁ・・・。』 俺は黙り込んだ。 「ま、いいさ。どうしていいかわからなければ聞きに来い。それまでは、大いに悩むがいいさ。」 『はい、そうします。というか、そのときはお願いします。』 「で、これからどうするのだ?。」 『はい、とりあえず、家に帰ろうかと・・・。』 「それがいいな。取材も大事かもしれないが、家庭も大事だぞ。それに家庭に戻って奥さんや子供の顔を見る時間もそんなにないからな。生まれ変わった先によっては、そうそうこっちへは来られない場合もあるからな。ま、今のうちにたっぷり会っておくんだな。それに・・・時の流れは、残酷なこともある・・・。」 先輩は、まるで俺の心を見透かしたように意味深なことを言った。 『な、なんですか、それ・・・。時の流れは残酷って・・・。』 「あぁ、まあ、いいじゃないか。それは。さぁ、さっさと帰るんだな。」 俺は憮然とした。肉体があればふてくされたのだ。 「なんだ、俺の言い方が不服だったか?。それとも、悩みの内容が図星だったか?。」 俺は慌てた。オロオロしたわけだ。 「何を慌てているんだ。まあ、いいじゃないか。家に帰れば解決するかも知れないし。まあ、おいおい考えていけよ。」 やっぱり先輩は俺の悩みについてだいたい察しがついているようだ。俺は結局そのことについては何も語らず、 『じゃあ、また来ます。今日はこれで帰ります。』 といって、家に戻ったのである。 家には誰もいなかった。女房は、おそらく買い物だろう。夕飯の支度に出かけているのだろう、たぶん・・・。いや、まさか、女房に限って・・・・俺が死んでまだ三週間しかたっていないし・・・。ま、まさか・・・俺が生きているときから?。いやいやいや、それなら女房の守護霊のおじいさんが何か言うはずだし・・・。ふぅ〜・・・。俺は思いっきりため息をついた。 三七日が過ぎて、現実の世界に戻ってきて三日間が過ぎた。長いようで短い、短いようで長い三日間だった。 『あとどれだけあの世とこの世を行き来できるのかな・・・。いったい、俺は何を考えているんだ。しっかりしろ!、俺!。』 ちょっと気合を入れてみた。しかし、あの強欲じいさんの言った言葉が引っ掛かる。女房はまだ若い。これから・・・恋をすることもあるかも知れない・・・・。生きている人間なのだから、それもありうることだ。 『心のけじめねぇ・・・。はぁ・・・。いつかはつけなきゃいけないんだなぁ・・・・。』 自分ではけじめはついているつもりだった。もう俺は死んでいるんだ、こっちの世界には関われないんだ・・・。そんなことはわかっているつもりだった。しかし・・・・。 「ただいま〜、って、誰もいないわよね。」 女房が帰ってきた。俺はなぜかドキドキしたのだった・・・。 「誰もいないのは、いつものことか・・・・。でも・・・なんか違うのよねぇ・・・。」 女房は独り言をいいながら買い物袋をさげて台所の方へとやってきた。買ってきたものを手際よく片付け始める。 そう、確かに、女房が買い物から帰ってきても家には誰もいない。それは、俺が生きているときからも変わってはいない。子供たちは学校で、俺は会社だ。女房は家に一人。外出先から帰ってきても、家には誰もいない。それは結婚して、子供ができて、女房が仕事を辞めたときからずっと変わらないことだ。だけど・・・・。 「だけど、なんか寂しいのよねぇ・・・。以前と何も変わっていないというのに。毎日、家に一人だって言うのに・・・。はぁ〜あ。」 女房は大きくため息をついた。 「でも、まあ、もうすぐ子供たちも帰ってくるか。よし、おやつの用意だな。うん。」 自らに気合をいれる女房を見て、懐かしさを覚えた。彼女はそういう女だった。いつでも明るく、強く、頼りになるお母さん、安心できる女房だった。あらためて・・・いい女だったと思う。俺にはもったいないくらいに・・・・。 「さてと、私を残して勝手に死んじゃった旦那様に線香でも上げるか。」 女房はそういうと、そそくさと座敷にしつらえてある祭壇に向かった。ローソクに火を灯し、線香に火をつけ、買ってきたお供え物を置いた。 「はぁ・・・。まだ若い女房を置いて先に死んじゃうなんて・・・。まったく勝手なヤツ!。もう、泣きっぱなしだったから涙もでなくなったわよ。・・・・・そっちはどんな世界なのかしら。亡くなった人たち同士で話とかできるのかしら。もしそうだったとしても、周りはジーちゃんバーちゃんばかりかもね。若くてかわいい女の子なんていやしないわよね。残念でした。まあ、バーちゃんたちに可愛がってもらうといいわ。もし、若い綺麗な人なんかに言い寄ってたら・・・。」 「ただいまぁ〜。」 娘が帰ってきたようだ。 「あら、おかえり〜。おやつが置いてあるわよ〜。手を洗って食べなさい。」 「お母さんは?、あぁ、お父さんのところか。・・・また泣いてるの?。」 「泣いてなんかいないわよ。お父さんに文句言っていたところ。」 「苦労ばっかりかけて!って?。あはははは。」 「あはははは。ホント、そうねぇ。」 「今頃お父さん、おろおろしてるわよ。」 二人は大笑いしていた。 「ただいま〜。あぁ、お腹すいた〜。」 息子も帰ってきた。明るい我が家が戻ってきた。 『お前さんが何を心配しているのか知らんが、家のことは心配ないぞ。』 『あぁ、おじいさん。いや、その・・・・。』 『まあ、いいわい。若いうちに亡くなったのだから、未練があって当然ぢゃ。いろいろとな・・・。』 『はぁ・・・まあ、そうなんでしょうねぇ。』 『ところでぢゃ、目的は少しは果たせたのか。』 『目的って・・・あぁ、知り合いの死者ところへ行ってみることですか?。』 『そうぢゃ。それが目的で先輩の寺へ行ってみたんぢゃろう。』 『はい、そうです。それがそう簡単な話ではなくて・・・。いくらあの世で知り合ったからといっても、こっちの世界でその人のところへ行くのは難しいそうです。』 『ほう、そういうものか。』 『尤も、相手が有名人であればそうでもないそうですけど。なので、強欲じいさんのところへは行ってこれました。』 『あぁ、政界のフィクサーだった人だからか。なるほど、有名人だな。ぢゃあ、一般人の知り合いのところへは行けないのだな?。』 『行けなくはないのでしょうが・・・・なんというか、相手の所在がはっきりしないと、飛ばせないのだそうで・・・・。』 『あぁ、そういうことか、目的地がわからなければ送れない、ということぢゃな。そりゃそうだろうな・・・・。で、強欲じいさんはどうぢゃった?。』 俺は、強欲じいさんのところで見聞きしたことを話した。 『そうか、すっかり未練は断ち切れたようぢゃな。ふむ、いい精神状態ぢゃな。一種の悟りに近付いておる。もともと、そういう素養があったのぢゃな。』 『先輩もそう言ってましたが・・・。ところで、もし、精神状態が悟りに近付いているというのなら、罪の部分はどうなるのですか?。あの強欲じいさん、結構罪が多いようなんですが。』 『まぁなぁ、あそこまで上り詰めた人間ぢゃ、叩けば埃はたくさん出るぢゃろうて。』 『えぇ、裁判でも結構罪が多いと責められていますからね。尤も、最初の裁判だけは抵抗しましたが、そのあとはすごく素直になってますが・・・・。』 『罪を認めているわけぢゃな。』 『はい、地獄へ落ちても仕方がない、と。それだけのことはしてきたと・・・・。』 『お前さんたちは、きっと仏教を誤解しているんぢゃないかと思うが、どうぢゃな?。』 『仏教を誤解しているって、どういうことですか?。』 『ふむ、仏教では悪いことをしたら地獄へいかねばならない、そう思っているぢゃろう?。』 『えっ?、そうじゃないんですか?。』 『もちろん、悪いことをしたら地獄へ落ちることもあろう。』 『じゃあ、誤解じゃないですよ。』 『いやいや、そうぢゃない。悪いことをしたら何が何でも地獄に落ちる、そう思っているぢゃろう?。』 俺は考えてみた。仏教は、というか、日本人はみなそう思っているのではないだろうか?。よく「そんなことをしたらバチが当たる」ということがある。何か悪いことがったら「バチが当たったんだ」ともいう。いいことがあると「日頃の行いがいいから」、悪いことがあると「日頃の行いが悪いから」などという。これは年齢に関係なく、年寄りはもちろんのこと若い人でもそういうことがある。で、それが仏教の教えだと思っている節がある。確かにある。だから・・・。 『そうですね。悪いことをしたら、絶対に地獄へ落ちますよね。そう思ってる節はあります。無神論者で信仰心のない俺でもそう思うんですから、一般の人はほとんどの人がそう思っているんじゃないでしょうか。』 『やっぱりのう・・・。そこが誤解なんぢゃよ。』 女房は、夕食したくをしているようだ。美味しそうな匂いが漂ってくる。懐かしい香りでもある。あぁ、生きているとき、なるべく早く家に戻って、もっとたくさん女房の手料理を暖かいうちに食べておけばよかった。死んでしまったら、もう食べたくても食べられない・・・・。人はいつ死ぬかなんてわからないのだ。「俺は死なない」なんてことはないのだ。いつ死ぬかわからないのだから、生きているときに愛する人を大切にしておかねばいけないのだ。死んでしまったら、話すことも、触れることも、抱くことも、ケンカすることも・・・・何もできないのだから。 『お前が今思っていることこそが、仏教の教えなんぢゃよ。』 『はい?、どういうことですか?。今、俺が思っていることって・・・。』 『世は無常だということぢゃ。いいか、仏教というものは、ああしちゃいかん、こうしちゃいかん、というのが教えぢゃない。ましてや、悪いことをしたから地獄へ落とすぞ、という教えでもない。それは付録のようなものぢゃ。』 『付録・・・・ですか・・・。』 『そうぢゃ。もちろん、してはいけないことは説く。教えの中にもある。しかし、それは細かいことではなく、人として最低限守らねばならないことだけぢゃ。しかも、あまり大袈裟に考える必要はないものばかりぢゃ。あれしちゃいかん・これしちゃいかん、そんなことをしたら地獄ぢゃ、などとばかり言っておったら、息が詰まってそれこそ死んでしまう。仏教は、そんな窮屈な教えではないのぢゃよ。もっとおおらかなんぢゃな。』 『おおらかですか・・・。でも、死んでから、生きていた時の罪を裁く裁判がありますよ。しかも7回も。』 『そりゃ、そうなんぢゃが、よく考えてみろ。今までに、罪を犯したからお前は地獄ぢゃ、と言われて、そく地獄へ落とされたものはいるか?。』 そう言われて、俺は振り返ってみた。確か、裁判を受けられずに落ちていってしまったのは・・・あぁ、あのインチキ霊能者のおばさんだけだ。しかも、あのおばさんも本当なら次に進めたはずである。何を勘違いしていたのか、三途の川を渡る船をよこせと言って騒いだあげく、川を渡りきれなかったのだ。 『そのおばさんにしても、裁判官が地獄行き、と決めたわけではなかろう。』 守護霊のおじいさんの言葉に 『はい、そうですね。自分で勝手に流されたんです。』 『そういうことぢゃ。裁判官様たちは、誰も地獄へは送っていない。否、判決すら出していないぢゃろ。皆、次へ進め、とおっしゃるはずぢゃ。』 『はい、その通りですね。しかし、それは自分の犯してきた罪を理解するというか、正面から向き合わせるため、じゃないですか?。』 『そうぢゃよ。そこが仏教なんぢゃよ。いいかい、仏教が厳罰主義ならば、そんな面倒なことはせず、さっさと地獄へ落としているぢゃろう。しかし、実際はそうぢゃない。ちゃんと裁判を行う。特別な例を除いてはな。』 『特別な例?。』 『そうぢゃ。地獄への直行便ぢゃ。お前さん、見たことはないか?。火の車を・・・。』 火の車・・・見たどころではない。俺が死んですぐのことだ。その車にぶつかりそうになった。 『会いましたよ、その火の車に。死んで間もなくのことです。』 『あれは、地獄行きの直行便ぢゃ。あれに乗せられたら、裁判なしで地獄行きぢゃな。』 『裁判なしで・・・ですか。』 そういえば、あの時、車を引いていたヤツもそう言っていたような・・・。 『しかしな、それに乗るには、とんでもなく非道なことをしなければ乗れないものなのぢゃ。否、非道なことだけぢゃ火の車には乗れないな。非道なことをして反省しない、というものが火の車に乗せられるのぢゃ。よいか、仏教は厳罰主義ぢゃない。たとえ、どんな極悪非道なことをしても、反省し、後悔し、心を入れ替え、自らの罪深きを認め、どんな仕打ちにあっても受け入れるという心に至ったときは、悟ることすらできるのぢゃよ。』 『ちょ、ちょっと待ってください。ということはですね、地獄へは行かない、ってことですか?。』 『あぁ、そういうことぢゃな。』 『え〜っと、ちょっと待ってくださいよ。ということはですね・・・・。』 俺は少々混乱していた。それもそうだ。おじいさんの言っていることを具体的に解釈すれば、たとえ殺人を・・・しかも大勢の人を殺傷するような・・・犯しても、心から反省し、後悔し、自分の罪を認め、現実世界においてどんな刑罰を受けようとも、なにも不服を言わず、すべてを受け入れることができれば、悟ることも可能だと、そう言っていることになるのだ。 それはちょっと・・・過激すぎるのではないか。 『それは、ちょっと・・・・極端ですよね。』 『もちろん、極端な例をいったのぢゃが、真実でもある。』 『でも、それって・・・。じゃ、じゃあ、たとえば憎たらしいヤツの命を奪ってですね、反省してます、どんな刑罰でも受けます、といえば、許される、ってことですか?。』 『許される、とは言ってないぞ。』 『あ、そうか・・・・。えっ?、そういうことではないのですか?。』 『そこが勘違いぢゃというておる。そもそも許すとか許さないとか、いったい誰が決めるんぢゃ。誰が許してくるんぢゃ?。』 『それは・・・・あぁ、そうか・・・。えーっと、神様?ですか?。』 『お前さんの口から神様とはのう・・・。無神論者だったよのう。』 『はぁ、まあ・・・。しかし、今では神も仏もいるって知ってますから。』 『で、犯した罪を許したり許さなかったりするのは。神様か?。そんな話を聞いたか?。』 『いや、聞いてません。』 『そうぢゃろ、ぢゃあ、誰が罪を許すのぢゃ?。』 そんなことは考えたことはなかった。誰が罪を許すのか・・・・。 『誰も・・・ぢゃよ。否、強いて言うなら己自身かな。』 おじいさんも俺も黙りこんでしまった。俺の場合は、意味がわからなくて考え込んだのだが、おじいさんは・・・・俺が混乱しているので、落ち着くまで待ってくれているのだろう。 我が家では食卓を囲んで家族の会話が弾んでいる。もともと、俺は会社人間で家に帰ってくるのは遅く、こうした一家団欒の時を過ごすことは少なかった。だから、何と言うことはないのだが、死んでしまってからは別である。もっと子供たちとも会話をしておけばよかった・・・と、何度もそう思う。今、生きているサラリーマン諸君よ、家族がいるなら、少しでも多くの時間を家族と過ごすべきだ。死んでしまってからでは遅すぎるぞ、会社のためなどと言っていてはいけないぞ、いつ死ぬかわからないぞ、家族を大切にしたほうがいいぞ、絶対に未練が残るから・・・。俺は、誰にともなく、そうつぶやいていた。虚しさだけが残った。 いかんいかん、冷静になろう。 『あのな、もっと取り乱してもいいんぢゃ。お前さん、自分を抑え過ぎぢゃないか?。泣きたいときは泣けばいいぢゃないか。未練があるなら、思い切って言葉にしてみればいいぢゃないか。言いたいことは言ったほうがいい。どうせ死人ぢゃ。誰にも聞こえやしないぢゃろう。わしがいて言いにくいなら、しばらく消えてやるぞ。耳を閉ざしてやってもいい。もう少し、自分の心に素直になったらどうぢゃ。というか、ここにきて、そうした思いが募ってきたのぢゃろう。そんなもんぢゃ。お前さんが決して薄情者ではないから、そう思うのぢゃ。多くの者が、死後2〜3週間たってから、家族への思いが募ってくるものなんぢゃよ。』 おじいさんの言葉が心に沁みた。そう、俺は自分で薄情者だと思っていたのだ。家族への未練というか、想いがまったくなかったわけではない。ただ、それが日に日に強くなっていくのだ。初めからこんなに強かったわけじゃない。だから、自分は薄情者なのかな、と思っていたのだ。 日にちがたつにつれ、家族への思いも強くなる・・・・。 そうかもしれない。それは、やがて会えなくなる、こうしてこっちの世界へ戻ってこれなくなる、という思いが強くなっているからなのだろう。 『いいか、苦しみに耐えたり、悲しみを忍んだり、辛抱したりすることが善いことではない。まあ、それも仏教の教えでもあるのぢゃが、我慢しなければいけない、と言っているだけではないのぢゃよ。そんな苦行に耐えるようなことをする必要はないのぢゃ。とりあえず、悲しいときは悲しい、未練があるときは未練がある、と認めたほうが、心は楽になるものぢゃ。そうしたマイナスの思いに無理やり蓋をして、我慢して、辛抱して、見て見ぬふりをしたって、それは解決しないぞ。仏教はな、そうしたマイナスの思いに正面切って立ち向かい、しっかり見つめ、認めることから始まるのぢゃ。それが仏教よ。それが仏様の教えよ。戒律を守っていればいい、戒律を犯したら地獄へ行く、そういうのが仏教ではないのぢゃ。裁判官様もそういっておらなんだか?。己の心を正面から見てみろ、と。』 おじいさんの言葉が俺の魂に大きく響いた。生きていれば、肉体があったなら、俺は涙を流していたに違いない・・・。 そうなのだ。裁判官は言っていた。自分の本当の心の中を覗いてみよ、そしてそれを認めよ・・・と。 『よいか、仏教は決して厳罰主義ではない。罪を犯したから地獄へ落とす、ということはないのぢゃ。それを決めるのは自分なのぢゃ。仏様が判断するのでもなければ、菩薩様が決めるのでもない。裁判官様のような神々が決めることでもない。』 『でも・・・よくバチが当たるっていうじゃないですか。あれはどうなんですか?。』 『バチは誰かがあてるものぢゃない。ましてや仏様があてるものでもない。いわば、自業自得なのぢゃ。悪いことをして、しばらくたったら別の形で痛い目に遭うと、人はバチが当たったというが、それは単に自分の犯した悪いことの報いが来ただけぢゃな。誰かがバチをあてているわけぢゃないのぢゃ。それをバチが当たったと表現しているに過ぎないのぢゃ。ただし・・・。』 『ただし?。』 『神様に対して不敬なことをするとバチは当たるぞ。神様は覚りの世界の方ではなく、欲界におわします方々だからぢゃ。怒ることもあるのぢゃな。だから、神様に対して不敬な行為をすれば、神様も怒って罰を与えることはある。祟る神もいるしのう。』 『そういうものなんですか?。』 『そういうものぢゃ。まあ、それはよい。今の話と関係ないことぢゃ。わしが言いたいのは、仏教は厳罰主義ぢゃない、ということぢゃ。心から反省し、自分の罪を認め、どんな報いも受け入れるという気持ちになれば、穏やかな心が得られるのぢゃ。その穏やかな心が得られるように導くのがお釈迦様の説かれた教えぢゃ。よいか、迷い苦しめ。考えろ。己の弱い心を真っ直ぐに見つめろ。目をそらすな。深層心理に至れ。奥深い所の本当の自分を見つめるのぢゃ。己はいったい何者なのか、それを知るのぢゃよ。そのためには、もっともっと悩んで、苦しんで、泣いて喚いて、絶望してもいいのぢゃ。』 『素直に・・・・ですか・・・・。絶望・・・ですか・・・、ならばもうしているかも知れません。死んでいるんですから・・・・。』 『いやいや、お前さんは、まだ心の中で見ようとしない部分がある。わかってはいるが、あえて見つめない、あえて見ようとしない部分がある。そこを見なければ、そして認めなければ、己の心はわからないぞ。』 『あぁ・・・はぁ・・・・、そうなんですかねぇ・・・・。』 わかってはいる。実は俺もわかってはいるのだ。だが、認めたくないだけだ。俺は、他の男とは違う、そんなみっともなくないし、あっさりしている、そう思いたいだけだ、ということもよくわかってはいる。そして、それが己の心の奥底に潜んでいることも知っている。知ってはいるのだが・・・・・見たくないのだ。見てしまえば、きっと・・・・取り乱すだろうから・・・。 『取り乱せばいいのぢゃ。醜く取り乱せ。我慢して、心にふたをして、見て見ぬふりをしていたって苦しいだけだぞ。それは耐え忍ぶ、のではなく、ただ単に避けているだけぢゃ。よいか、お前の死者の仲間のじいさん、今はすっきりした顔をしておるのぢゃろう。』 『はぁ、そうですね・・・・。』 『それはな、自分のやってきたこと、考えてきたこと、自分の心の中のことをすっかり知ってしまったからぢゃ。おそらくは、自分で自分のことをどうしようもないやんちゃな子供のような男だ、と思っているぢゃろう。女に甘えなければ生きていけない、と知っているのぢゃろう。それを認めているのぢゃろう。だから、今は穏やかな状態でいられるのぢゃ。』 それは確かであろう。確かに、強欲じいさん、すっかり穏やかになっている。自分のコレクションの骨董品がニセモノと聞いたときはショックで消えかかっていたが、すぐに自分を取り戻していた。なにも線香の香だけが、あのじいさんを救ったわけではないのだろう。ニセモノという現実(実際は本物だったのだが)をすぐに受け入れることができたのであろう。自分の趣味で集めたものだ、ニセモノだろが、本物だろうが、己の眼が選んだのだからそれはそれでいいじゃないか、と・・・・。だからこそ、早く立ち直れたに違いない。 わかってはいるのだ。己のすべてを認めてしまえば、楽になるということくらいは。だが・・・。 『ま、少しはあがいてみるのもいいからのう。悩め、苦しめ、はははは。』 おじいさんは、豪快に笑ったのだった。その横で俺は・・・しぼんでいたのだった。 いつの間にか食卓は片付き、子供たちはテレビの前に座っていた。 「もうそろそろお風呂に入ったらどう?。テレビばかり見てちゃだめよ。」 女房の声に娘が弟の腹を指でつついている。 「このドラマが見たいから、あんたが先に入りなさいよね。」 息子はしぶしぶお風呂に向かった。女房が息子のあとに続く。一人で入れないから、見ててやるのだ。 「いいから一人で入る〜、男だもん!。」 息子の抵抗する声が聞こえてくる。女房のなだめる声が続く。どこにでもある家族風景なのだろう。普通の家庭はこうなのだろう。で、父親がそこにいれば 「よし、お父さんと一緒に入るか。」 などと声をかけるに違いない。俺ならそうしていただろう。あいにく仕事人間だった俺は、そんな時を過ごしたのはほんの数えるほどしかない。 『認めろ・・・・か・・・。わかっている、わかってはいるんだが・・・・。』 俺は、俺の骨が祀らている祭壇のある座敷の方へ行った。居間にいるのがいたたまれなかったからだ。 祭壇に飾られている俺の遺影を眺める。 『遺影なんて飾ってもらわなきゃよかったな・・・・。悲しすぎる・・・・。俺は、俺は・・・・夫としての、父親としての・・・・責任をなにも果たさないで・・・・死んでしまった。なのに・・・・あの世の取材者になれと言われ、いつの間にか浮かれてしまっていた。女房や子供たちの気持ちも知らないで・・・・。なんて男だ・・・・なんてバカな親だ・・・・。クソッ!、何で死んでしまったんだ、この俺は!。働き過ぎか?、タバコか?。あぁぁぁぁぁぁ、もういやだぁぁぁぁ・・・・。』 俺は頭を抱えてその場にうずくまっていた。 どのくらいその場にうずくまっていたのだろう。ふいに座敷の明かりがついた。 「さてと、今日もお疲れ様・・・・ローソクつけて、線香つけて・・・・っと。」 女房は歌うように言いながらローソクに火をつけ、線香を焚いた。ちーん、と鈴の鳴る音が響く。 「今日も子供たちは無事だったわよ。あの子たちもあなたがいない生活に少しずつ慣れてきているわ・・・・。私も・・・・ね・・・・。」 女房の目から涙がこぼれ落ちた。 「あはっ、もう泣かないって決めたのに・・・。だってぇ〜、もともとあなた家に帰ってこなかったしぃ、子供たちだってそんなの慣れっこよ。父親らしくない父親だったからね。仕事人間だったから。私だってあなたがいない生活なんて慣れっこよ。・・・・・だから、平気だから・・・・寂しくなんかないから・・・・。」 『ああやって、毎日泣いているんぢゃ。健気にしている日もあるんぢゃがな。今日は、ちょっとひどいようぢゃな。』 ふいにおじいさんが俺の隣に現れた。 『わしは、ちょっと消えるから、後は頼む。夫であるお前さんの勤めぢゃな・・・。』 そういっておじいさんは姿を消した。残されたのは、女房と姿の見えない俺だけだった。 どうしろというのだ。夫の責任っていったって・・・・。 女房は、祭壇の前で泣いていた。泣き声をこらえながら、泣いていた。じいさんは、俺にいったいどうしろというのだろう。死んでしまった俺にはもう何もできないというのに・・・。 生きていれば、簡単なことだ。そっと後ろから抱きすくめればいい。強く、強く抱きしめてあげればいい・・・・。でも、俺には、女房を抱く身体がない。あるのは、想いだけだ・・・・。 想い、想い、想い・・・・。 そうだ、想いがあれば伝わるかもしれない。 俺はふとそう思った。だから、後ろからそっと近付き、女房を抱きしめた。身体があった時のように・・・。 感触はなかったが、何か温かいものが俺の魂の中に流れ込んできた。 あぁ、これが愛する人の心か・・・・。 「ありがとう・・・。あなた、ありがとう・・・・。私、くじけない。頑張る。でも、つらくなったときは、今みたいにそっと抱いてね・・・。」 伝わっていた。俺の想いは伝わっていた。 そうか、言葉も身体も要らないのだ。気持ちを伝えるには、言葉も身体も必要ないのだ。このままとろけてしまいたかった・・・。 「もう大丈夫。ゴメン、そして、ありがとう。」 女房はそういって立ち上がると、俺の遺影の前でピースサインをした。にっこり笑っている。俺が大好きだった笑顔だ。俺の心は安らいだ。よくわかった。俺はこの女が大好きだ。今でも愛しているのだ。心底愛しているのだ。ならば、俺の願うことはただ一つ・・・・。 明かりが消えた。女房は座敷を出て行ったのだった。 翌朝、いつものような我が家は朝の喧騒を迎えた。女房はすっきりした顔をして、いつものように子供たちを急かしている。子供たちは、バタバタと学校へと急いだ。 「さ〜ってと、今日も頑張るか。まずは洗濯だ!。」 腰に手を当て、女房は元気よく叫び、子供たちの部屋へとかけて行った。 『いい夜を過ごしたようぢゃの。まあ、深くは追求はせんがのう。』 おじいさんが現れ、にこやかに笑っていた。 『お前さんも少しは吹っ切れたか。』 『あぁ、はい。すべてとは言いませんがね。でも、ずいぶん軽くなりましたよ。この先、まだ悩むこともあると思いますが、でも・・・・、否、いいです。大丈夫ですよ。』 『うむうむ、お前さんの顔を見ればわかる。さて、今日はどうするのぢゃ?。』 『はい、とりあえず、このまま家にいようかな、と。もう少し我が家を楽しんでいたいんです。いつ来れなくなるかわからないし。』 『そうぢゃな。まあ、裁判のあるうちは、ちょくちょく来れるがな、四十九日がすむと、その先はどうなるかわからんからな。お前さんは、特別扱いかも知れんしのう。』 『なんですか、それ?。どういう意味ですか?。』 『いやいや、お前さんは取材者ぢゃ。取材者なら、取材者らしく、どこかの世界へ飛ばされるかも知れないぢゃないか。』 『な、な、なんですって?。』 そんなことは考えたこともなかった。どこかの世界へ飛ばされるぅ?。 『いや、決まっているわけぢゃない。そういうこともあるかも知れぬ、というとるだけぢゃ。』 『ひょっとして・・・・、俺だけ生まれ変わり先へ行かずに、別の世界・・・・たとえば地獄とか・・・に行かされるかも知れないってことですか?。』 じいさんはまずいことを言ったなぁ・・・というようなしかめっ面をしていた。 『まあ、そういうこともあるかも知れん、ということぢゃ。ただ、想像で言ったまでぢゃ。深い意味はない。忘れてくれ。』 『忘れてくれと言われても・・・・。まあいいです。どちらにしろ、まだまだ先ですからね。』 俺はちょっと憮然としたが、気分はよかった。こうしたたわいもない会話が嬉しいのだ。本当ならば、女房とビールでも飲みながらしたいところである。 おじいさんは、やれやれという顔で、なにかブツブツ言っていたが、聞かないことにした。今日は、休みだ。取材はお断りだ。一日中、家でゴロゴロしてやる。俺はそう決めていたのだ。 こうして、俺は目いっぱい開放期間を楽しんだ。もうすぐ強制的にあの世に呼び戻されるだろう。なんとなく、それがわかるようになっていた。なので、俺は、先輩の寺へと足を向けた。ちょっと挨拶だけしておこうと思ったのだ。 「おっと、どうした?。今日はなんだ?。」 先輩は、庭に出て木から葉っぱをとっていた。 『いや、そろそろあの世に戻るころなので、ちょっと挨拶をと思いまして・・・。』 「それは殊勝な心がけだな。ま、何も出ないが、死者へのエネルギーだけはたくさんあるから受け取っていくがいい。」 そういって先輩は笑っていた。 『何をしているんですか?。』 「あぁ、樒(しきみ)の葉っぱをとっているんだ。護摩に使うのだ。」 『ごま?、ごまって・・・。』 「あぁ、知らんのか。火をたいて不動明王に願い事をする儀式だ。ちょっと乱暴な説明だけどな。」 『あぁ、なんとなくわかりました。よく成田山とかでやってるヤツ。』 「ヤツってことはないがな。まあいいや。それだ。成田山のは略式だが、うちはちゃんと焚いているよ。まあ、それはいいんだが。どうやら、落ち着いたようだな。少しは気分が晴れたか。」 『はぁ、まあ、とりあえずは、落ち着きました。まあ、全く問題なし、とは言いませんけどね。』 「人間だからな、決意をしてもまた迷うさ。わかったと思っても、また悩むこともある。それの繰り返しといってもいいくらいだ。まあ、そやって少しずつ、悟りに近づくこともあるからな。いくら死んだ者といっても人間なのだから、考えかたや感じ方は同じだよ。」 『はい、死者でも、泣いていいんだ、ということがよくわかりました。」 「ほう、素直にそれが言えるとはな、お前がな。ふむ、たとえ鈍いものでも進化するのだな。」 『なんですか、それは?。あはははは。さて、そろそろ呼ばれると思います。』 「おぉ、わかった。じゃあ、またな。次の裁判は、四・七日目だな。」 『はい、そうです。供養、よろしくお願いします。』 俺は、先輩にそういい残して寺を後にした。消える瞬間に見た先輩は、軽く手を振っていた。 気がつくと、並んでいた。俺の前には強欲じいいさんがいる。 「戻ってきましたね。」 俺はさっそく声をかけて見た。 「あぁ、お前さんか、どうだった家は。」 「はい、久しぶりに堪能してきました。」 「ほう、それはよかった。」 俺と強欲じいさんが、そう話しているときだった。 「こら、そこ、こそこそ話をするな。うるさいぞ!。」 大きな怒鳴り声が飛んできたのだった。胸板が厚い馬頭だった。妙に態度がでかい。 「よいか、死者の者よ、ここは静かに並ばねばならない。姿勢を正し、ふらふらするな。よいな。特別扱いはしないぞ。文句は言わせない。よいな。」 馬頭はそう叫ぶと、ニヤッと笑い 「ひひん」 と奇声を発したのだった。 (な、何を威張っているのだ、あの馬面は。せっかく人がいい気分で仕事に取り掛かろうと思っていたのに・・・。ムカツクやつだなぁ。何が特別扱いはしない、だ。くっそ〜。) 俺は、無性に腹がたった。俺の記者魂に火がついたのだ。 「君、ちょっと、何ですか?。特別扱いはしない、ってどういうことでしょうか?。それは、私のことを言っているのですか?。」 俺は、馬面を睨みつけて言ってやった。馬面は 「なんですか?。私に逆らうとでもいうのですか?。いいでしょう。その通りです。特別扱いはしないとは、お前のことだ!。ケッ!。」 胸を張ってそう大声で言うと、俺を指さし、叫んだ。そして、 「オレ様に逆らうな!。ヒン!。」 と大声で言ったかと思うと、こちらに大股で歩み寄ってきたのだった。 馬頭は、馬だけあって身体が大きい。馬と言っても、首から上だけが馬である。身体は人間だ。しかし、妙に身体が大きい。きっと、馬の顔と身体のバランスをとっているためだろう。頭に身体を合わせているので、身体が大きくなってしまうのだ。力も強い。暴れ出す死者もいるかもしれないし、逃げ出す死者もいるかもしれない。あの三途の川で流されたオバサンのときにも、その力を発揮していた。 馬頭は、いつも死者に対して威圧感を示している。中には、人のよさそうな感じがする、おとなしい馬頭もいるが、多くの場合、馬頭は威張っているほうだ。どちらかといえば、牛頭はおとなしい。黙って黙々と働いている姿がよく見られる。きっと、力は強いのだろうが、威張っている姿はあまり見かけなかった。身体も牛頭よりも馬頭の方が大きい。牛頭はちょっとでっぷりとした感じがする。たまに、カリカリに痩せた牛頭がいるが、それは稀であった。 そういえば、恐ろしさで言えば、夜叉が一番怖かった。しかし、彼らも威張ったりはしないで、静かに黙々と働いている。見かけと随分違うのだ。ここで、威張り散らしているのは、多くは馬頭である。 その馬頭が俺に迫ってきた。ゆっくりと・・・・。 「お前、死人の癖に生意気だな。オレ様に逆らうとは。」 「逆らったわけではないです。何もうるさくもしていませんでしたし。それに・・・。」 「それに?。それにナンダ?。」 馬面は、並んでいる俺の真横に立った。俺は、馬面の方を向いた。ちょっとビビっていたが、現実世界でいい時間を過ごせたので、調子に乗っていたのである。俺は馬面を睨んだ。ちょっと見上げなければならない。真っ直ぐ見ると、馬面の胸のあたりに視線が行ってしまうのだ。 「それに・・・、それに、死者は無闇にはしゃべれないはずでしょう。死者同士は、話ができないんじゃないですか?。」 他の死者が俺と馬面のやり取りに注目している。馬面との会話は聞こえるはずだ。相手が死者ではないから。ここでは、死者同士は話ができない。馬頭や牛頭などとは話ができる。馬頭や牛頭は、こちらの世界のガードマンであり、案内人でもあるから、たまに質問をする死者もいるのだ。そうした馬頭や牛頭と死者との会話は、他の死者にも聞こえる。しかし、死者同士は会話はできないのだ。俺は特別なのである。何といっても、あの世の世界の取材者なのだから。しかし、いくら特別扱いでも限度があり、会話にも条件がある。たとえば、俺からは話掛けられるが、相手から俺には話しかけられない。簡単に会話は成立しないのである。しかも、俺がある死者と話しているとき、その会話は他の死者には聞こえない。俺と話をしている相手だけが聞こえているのだ。しかし、馬頭や牛頭との会話は、他の死者同様、みんなに聞こえてしまうのだ。 だから、大きな声で言えないこともあった。なので、どうしても小声で言わなければいけないこともあるのだ。 「死者同士は会話ができないんでしょ。」 と大声で言った俺は、そのあとに小声で 「俺以外はね。」 とつけ加えた。さらに小声で、 「ということは、先ほどの注意は、俺に向けての注意、ということですよね。」 と言った。 馬頭は俺を見下ろしている。馬は一般的に優しい目をしていると言われている。確かに、馬頭の目も優しい目をしている者が多かった。しかし、この馬頭は、違った。馬頭の顔にも個性があったのだ。目が細く、つり上がっていたのだ。この馬頭は、キツネ目であった。 そのキツネ目で俺を睨みつけると、 「その通りだ。お前に言ったのだ。ふん、面白くない。」 と小声で、ただし、野太い声でそう言ったのだった。 「面白くないとは、どういうことなのだ?。」 小声でさらに聞いた。きっと、周囲の死者は、いったい何をささやきあっているのだ、と思っているに違いない。 「何が取材者だ。そんなことならオレがしてやるのに。つまらん。人間ごときがこちらの世界を取材するとは!。まあ、いい。それはそれだ。それは、上の方が決めたことであって、オレには関係ないことだからな。」 ここまでは小声であった。馬頭も一応は、声を大にして言っていいことと悪いことの区別はついているようだ。急に大声で言い出したのだ。 「しか〜し、ここはオレ様が管理するところだ。だから、オレ様に逆らうことは許されん。ヒヒン・・・。」 勝ち誇ったようにいなないた。 「へぇ〜、そうなんですか。じゃあ、お聞きしますが、なぜここでは静かに、姿勢を正し、きちっと並んでいなければならないのですか?。周囲を見ることもいけないのでしょ?。そんなことはできませんよ。それじゃあ、苦行と変わらない。」 俺も、声を大にして質問した。この内容ならば、他の死者に聞こえてもいい。否、むしろ聞こえたほうがいい。 「それはな、」 馬面は俺に覆いかぶさるような態度で言った。 「それはな、ここが普賢菩薩様の菩提道場だからだ!。」 俺も、俺と馬面の会話を見守っていた死者も、みな一斉にキョトンとした。馬面の口から普賢菩薩の名前が出るとは思わなかったのだ。もっと、勝手でいい加減な理由から、静かにしろとかふらふらするなとか言っているのだと思っていたからだ。他の死者もそう思っていたに違いない。単なる馬面の横暴だ、と・・・・。 「いいかぁ〜、お前ら!。ここはな、普賢菩薩様の世界なのだ!。普賢菩薩様とは、どんな菩薩様か、お前ら知っているのかっ!。」 馬面は天を仰ぐようにして、両手を大きく広げて、そう叫んだ。どうも芝居がかっていて嫌だ。 周りを見てみると、みんな珍しいものを見るような目で見ていた。ちょうどいい、自分の裁判の順番が来るまで、退屈しなくてもいいかも知れない。 「知らないだろ、知らないだろ、知らないだろっ!。わははは。お前ら運がいい。こんなことは滅多にないぞ。このオレ様自らが、普賢菩薩様について教えてやろうじゃないか。嬉しいだろ、嬉しいだろ、嬉しいだろ、わははは。よく聞けよ。わはははは。」 少々狂気じみているのが心配だが、面白そうなので、俺は、その馬面にそのまましゃべらせてみようと思った。 馬面は、並んでいる死者をゆっくり右から左へと見渡すと、大きくうなずいて、 「うんうん、みんな聞きたいようだな。よし、教えてやる。」 と言って、後ろに下がると、大きな石の上に乗った。その石は、ちょうどいい台になっている。背の高い馬面が、さらに高く見える。どうやら、仕込みであるようだ。俺がいようがいまいが、コイツはいつも演説をしているに違いない。俺はちょっとガッカリし、うんざりもした。が、もう馬面は止まらなかったのだ。 「そもそも普賢菩薩様は、文殊菩薩様とともに、お釈迦様の隣にいつもいらっしゃる菩薩様だ。御二方で、お釈迦様を挟んでいる形だな。わかるかっ?。うんうん、わかっているようだな。よしよし。で、文殊菩薩様は智慧の菩薩様だな。お釈迦様の叡智を現している菩薩様だ。そして、我らが普賢菩薩様だ。普賢菩薩様は、戒律の菩薩様だ。修行の菩薩様だ。お釈迦様の厳しさを現しているのだ。いいか、お前ら普賢菩薩様は厳しいお方なのだ。お釈迦様はな、その真理に至った如来の智慧と自己に対する厳しい姿勢があって、お釈迦様であるのだ。それを文殊菩薩様と普賢菩薩様で表現しているのだよ。いいか、普賢菩薩様は、己への厳しい目、自分を律するということを忘れるな、と教えていらっしゃるのだぁ〜。素晴らしいだろ、なぁ、おい。・・・・お前ら自分に対して厳しい目を持っているか?。己の態度を省みているかっ。あぁ、どうなんだっ。・・・お前ら、そんな目を持っていないだろ。あははは、そりゃそうだ。そんな目を持っていたら、ここには来ていないもんなぁ・・・・。グヒヒヒヒン。」 だんだん、興奮してきたのか、笑い方が下品になっていった。馬面の本性が出てきてしまったようだ。話の内容がいいだけに、惜しいところだ。もう少し、高尚な話し方ができれば、この馬面も尊敬されるのに・・・。しかし、馬面は、それにはお構いなく、さらに興奮して話を続けた。 「いいか、それだけじゃないぞ。普賢菩薩様はそれだけじゃないんだぁ〜。ブヒヒヒン。普賢菩薩様はな、一切の菩薩様の願いや修行の完成を示現しているのだ。わかるか、わからんだろ。難しいもんなぁ、ブヒヒヒン。普賢菩薩様はな、一切の菩薩様の願いや修行のシンボル、象徴なのだっ!。みんな普賢菩薩様を目指しているのだ!。それほど素晴らしいのだ、普賢菩薩様はなっ!。わかるか、今度はわかるかっ。ぐひひひ、わかるよな、わかるように言ったからな。まあ、ともかく、いずれにしても、普賢菩薩様は厳しいお方なのだっ!。だから、ここでは厳しくしなければいかんのだ!。だから、オレ様も厳しいのだ!。こら、聞いているか。姿勢を正せ!。気をつけぇい。まっすぐだ、真っ直ぐになれ!。そうだ、できるじゃないか。ぶひひひん。」 話がずれてきた。しかし、逆らうと怖いので、誰も逆らわず、馬面の方を向いていた身体をまっすぐ前に向けた。が、俺だけは逆らったのだ。 「こら、お前、お前だ。特別扱いはしないと言っただろう。まっすぐ前を向け。俺の方を見なくていい。」 「真っ直ぐ前を向いたら、せっかくのいい話が聞きにくいので・・・いけませんか、こうやって聞いていては?。馬頭さんの顔を見ながら話を聞きたいじゃないですか。やっぱり・・・。」 俺は、心にもないことを言ってみた。すると、 「えっ、そ、そうか、そうなのか・・・。お前、本当はいいヤツなんだな。オレの顔を見たいのか。オレの話を聞きたいのか・・・。ヒ〜ッヒヒヒン。そうかそうか、俺が悪かったよ。よしよし、もっと話をしてやろう。」 馬面は大喜びだった。思った通り単純なヤツだ。 「普賢菩薩様はな、あまり目立たないほうだろ。どちらかというと地味だな。観音様やお地蔵様はメジャーだな。文殊菩薩様も受験の時期になると、もてはやされる。しかしな、普賢菩薩様は、そんなに目立たない。それはな、普賢菩薩様の厳しさにあると、オレはそう思うんだな。」 口調が急にくだけてきた。 「普賢菩薩様はな、密教の教えになると、その厳しさをさらに増すんだな。修行者が怠らないよう、菩薩の心を忘れないように、といつも修行者を守っていらっしゃる。しかし、それは厳しい戒律でもあるのだな。密教の修行者は、何が何でも人々を救います、という戒律「三摩耶戒」を受けている。その戒律の象徴が普賢菩薩様なんだな。あぁ、やっぱり厳しいお方なのだな、普賢菩薩様は。だから、目立たないんだな。オレ様としては、もっと世に知れ渡って欲しいのだが・・・。でもな、普賢菩薩様もいろいろな働きをされるんだぜ。延命法もあるからな。普賢菩薩延命法という祈願の法もあるんだ。そっちの方じゃ、御利益はすごいんだぜぇ。しかしな、延命といえば、お地蔵様に持っていかれてしまっている。うぅ〜ん、どうもなぁ、地味だなぁ・・・。」 最後の方は、まるで愚痴であった。 「あのですね、その菩薩様っていうのは、目立ちたいとか、メジャーになりたいとか、思っているのですか?。」 質問をされたことがなかったのだろう、その馬面はびっくりしたような顔をして、しばらく何も答えられなかった。 「なななな、何を何を何をいうか。きききき、キサマ死者の分際で、オレ様にそんなことを言って、いいのか、いいのか、あん?。」 「いいんじゃないですか?。あなたが答えられないのなら・・・・あぁ、あそこにも馬頭さんがいらっしゃいますね。あの馬頭さんに聞きますよ。」 前方に、あまり見立たないほっそりした馬頭がいた。背も目の前にいる馬面よりも低いようだ。おとなしそうな馬頭である。 「あ、あんなヤツに聞いても、何も答えられないぞ。し、仕方がない、お、オレ様が答えてやる。で、何だって?。」 おかしな馬頭だ。どうやら、コイツは自分が目立ちたいようだ。まあ、こういうヤツは現実世界でもたくさんいる。やたら威張って、やたら説教じみて、やたら目立ちたがる・・・。そのくせ、質問をすれば答えられない。そんな人間は掃いて捨てるほどいるのだ。人間界では珍しいことではないが、馬頭にしては珍しいのだろう。この馬頭は人間臭いのだ。 「ですから、菩薩様は、目立ちたいとか、メジャーになりたいとか、有名になりたいとか、思ってないんじゃないですか、と尋ねたんですよ。」 「オオオオ、オレ様はそんなことは言ってないぞ。普賢菩薩様は戒律の菩薩様だから、ここでは己に厳しくしろ、と言っただけだ。わかったか。」 「あぁあ、やっぱり誤魔化しましたねぇ。もういいです。答えはわかっていますから。菩薩様は、そんな下品な欲望なんて持ってないことくらい、ちゃんと知っていますよ。もういいです。」 「な、なんだ、その言い方は。」 「だって、ウソついちゃってますからね。自分が言ったことを言ってないなんて・・・。ここは、厳しいところ、普賢菩薩様の菩提道場なんでしょ。己に厳しくしないといけないんですよね。ならば、自己批判してみたらどうですか?。」 「なななな・・・。こっ・・・・。」 馬面は目を白黒させた。 我々は、ゆっくりとであるが、前方へと進んでいる。当然のことだ。我々死者は、裁判を待って並んでいるのだ。並んでいる先には、大きなお堂のような建物がある。みんなそこへ向かっているのだ。したがって、馬面の演説を聞きながら、少しずつ前に進んでいたのである。馬面は、俺を意識していた。だから、俺の移動に合わせて自分も移動していた。つまり、自分の持ち場を離れて、俺たち死者と一緒に前へと進んでいたのだ。このでかい馬面は、そのことに気がついていいなかった。 「お前、持ち場を離れるんじゃねぇ!。」 突然、大声がしたのだ。見れば、前の方にいたおとなしそうな小ぶりの馬頭だった。 「またお前は・・・。これで何度目だ。いい加減にしないと、閻魔様に報告するぞ。仲間だから今まで黙っていたが、今度という今度は・・・・。こんな前の方に来てるじゃないか。」 「すまぬ。許せ。」 「何を威張っているんだ。・・・あぁ、あんたか・・・えーっと。」 そこで、その小ぶりの馬頭は小声になった。 「取材は大変だと思うが、こいつには質問しないほうがいい。馬頭の中には、たまにできの悪いのがいるんだ。コイツは・・・前世がきっと威張り腐ったサラリーマンだったんだろう。威張るだけで無能なサラリーマンっているだろ。そういうヤツが馬頭に生まれ変わったんだろう。だから、勘弁してくれな。」 「馬頭さんって、人間が生まれ変わったんですか?。」 「いや、そうとも限らないが・・・。もとサラブレッドの馬、というものもいるし、元は人間、というものもいる。閻魔様が神通力で造り出した場合もある。まあ、多くは、元人間かなぁ・・・。あまり、その記憶はないだろうけど、癖や態度はどうしても残っちゃうんだよねぇ・・・。」 「そうなんですか。じゃあ、たとえば人間から馬頭さんや牛頭さんに生まれ変わった場合も、こうした裁判のあとだったんですか?。」 「まあな、みんな同じだよ。裁判を七回受けて、生まれ変わり先が決まるからね。俺たちのように馬頭や牛頭に生まれ変わることもあるさ。そうした場合、人間のときの記憶は・・・・なんだか、ぼんやりと残っているようなないような・・・・。なんだか、変な気分だ。普段は意識していないんだが、問われると・・・あぁ、じれったくなるな。」 「あぁ、すみません。かえって悪いことをしました。」 「いや、いいんだよ。きっと、俺も元は人間でさ、こうやってコツコツ文句も言わず、仕事をしていたしがない平凡なサラリーマンだったんだろう。出世とも縁がなくってさ、万年ヒラってやつだよ。あははは・・・。」 その馬頭は力なく笑った。 「でもね、今は幸せだなぁ。こうやって死者の顔を見て、ちゃんとこっちの世界へ帰ってきているかどうかを見ているだけだし。気楽なもんだよ。ここには、パソコンもないし、家を買わなきゃいけないってこともない。いつも働きっぱなしだけど、変な欲望も生まれない。こんな身体だから、死者に好かれることもないし、死者に恋することもない。何も食べなくてもいいから、お金も必要ない。こういう生活も幸せなんだよねぇ。人間ってさ、なんだかかわいそうだよね・・・。」 その馬頭はしんみりとそう言った。 つづく。 |