バックナンバー(二十一)    第百七話〜第百十一話

「人間ってさ、なんだかかわいそうだよね・・・。」
小柄の馬頭は、しんみりとそう言った。
「ここにいるとさ、つくづくそう思うんだよ。人間って、つらいよなぁ・・・って。嫌なことを我慢して、言いたいことも言えずに、経済的に縛られ、あくせく働いてもなかなか報われず・・・。苦しいことばかり多くってさ。ため息ばかりの毎日・・・・そう思わないかい?。ここに来る早死にの元サラリーマンは過労死が多いだろ、だからみんな元気がないよね。・・・・あぁ、君も過労による早死にだったね。ゴメンゴメン、今の話はなかったことにしてくれ・・・・。」
そういうと、その馬頭は手元にある書類のようなものに目を向けた。もう話は終わり、という意味だろう。しかし、これだけは言っておきたかった。
「確かに人間ってつらいことが多いかも知れませんが、楽しいこともたくさんありますよ。嫌な上司だって、考え方によってはからかいの対象にだってなるんだし、満員の通勤電車だって、見方によっては人間観察だってできるし・・・・。考え方次第でつらいことも楽になるんじゃないですか?。それに、実際に楽しいことだってあるし。家族や友達、恋人との触れ合いは・・・・やっぱり楽しいですよ。つらいこともありますけどね。いいこともあれば嫌なこともある。そういうものでしょ。」
俺がそういうと、小柄の馬頭は顔を俺の方に向け
「あんた・・・・幸せだったんだな・・・・。」
と一言いって涙ぐんだのだった。そして
「裁判が全部終わったら・・・・一杯やりたいなぁ・・・・。」
とつぶやき、寂しそうに笑ったのだった。
「チャンスがあれば、そのときは。」
俺はそう言ってほほ笑んだ。
きっと、この馬頭は、馬頭になる前はつらい人生を送っていたサラリーマンだったのだろう。自分でも言っていたように、万年ヒラの、奥さんや子供にバカにされ、それでも健気に働いていた、寂しいサラリーマンだったのだろう。きっと、その時の記憶がぼんやり残っているに違いない。それにしても、彼は馬頭になることを希望したのだろうか・・・・。
裁判をする建物に入るために並んでいる死者の列は、順調に進んでいた。小柄の馬頭からも徐々に離れて行っている。もう小声では彼には届かないだろう。彼に対する最後の質問はできずに終わってしまった・・・・。

「随分、進みましたね。」
気分を変えて、俺は強欲じいさんに話しかけた。
「おぉ、あの馬頭と何やら随分熱心に話していたな。」
「あぁ、あの小柄な馬頭さん・・・馬頭さんにもいろいろつらいことがあるようですよ。俺が死者じゃなきゃ一杯やりたいって言ってましたよ。」
「ふ〜ん、彼らも・・・・一種のサラリーマンみたいなものなのかのぅ。わからんものだな。大した仕事をしているようには思えんがな・・・・、まぁ、それなりに考えることもあるのかな。」
「そのようですねぇ・・・・。」
なぜか俺も強欲じいさんもしんみりとしてしまったのだった。強欲じいさんも、生きているときのことを思い出しているのだろう。いくら「吹っ切れた」といっても、何度「自分は死者だ」と言い聞かせても、心のどこかには寂しさが漂っている。それは仕方がないことなのだろう。
「そうか・・・これが未練か・・・・。」
「何をつぶやいておる。」
「い、いや、なんだかんだと言っても未練はあるものなんだな、と思いましてね。」
「あぁ、そうだのう。それは・・・・なくならんだろ。未練などさらさらない、と強がって見せても・・・・それはやっぱり単なる強がりだな。わしも・・・・あんなヤツらに未練などない、憎たらしい連中だ、と思っていたが・・・・こうなってみるとなんだか懐かしさを覚えたのう・・・・。」
「あぁ、政治家たちにあってきたんでしたよね?。」
「あぁ、そうじゃ。生きているときは、なんてわからず屋の糞ジジイだ、政治家というものは何と汚い連中だ、と思っていたが、死んでから会ってみると、あの言い争いをしていたことも、いい思い出じゃなぁ・・・・。」
「そういうもの・・・なんでしょうねぇ。」
「それにしても、政治家っていうのは・・・・どうしてあぁ愚かなんだろうな。相変わらず世間が見えておらん。しかも、それを一喝するような豪快なヤツが今はおらん。わしで最後だったのかのう。時代は・・・・小さくなったのう。」
「今の政治家なんて目の前しか見えていないし、大御所と呼ばれる人もいませんよ。昔は、天下の御意見番・・・な〜んて人がいたようですが、そんな時代じゃないですね。みんな小さくまとまってしまっています。」
「昭和は遠くなったのう・・・・・。」
「昔のことは色よく見えるんですよ。あぁ、随分進みましたよ。いよいよお堂に入る見たいですね。」
ぺらぺらとしゃべっているうちに裁判を待つ死者の列は、随分と前に進んでいた。後ろを振り返れば、死者の列は絶え間なく続いている。例の図体と態度のでかい馬頭が、何事かを叫んでいる。きっと静かにしろだの、質問はするなだの、言っているのだろう。そんなことは、誰も聞いていないようだった。俺より後方の死者たちは、誰もが暗い顔をして下を向いていたのだった。

大きな入り口だった。両手を広げた人間が二人ほど並んで入れるくらいの入口だ。中がよく見えた。といっても、大きな広間があるだけである。そこに死者が列をなして、蛇腹折りに並んでいるのだ。死者は右端からスタートして、蛇腹に折れながら・・・五列ほど重なっているだろうか・・・進んでいくのである。真っ直ぐ進んでUターンする。真っ直ぐ進んでUターンする。この繰り返しだ。で、最後には、上が丸くカットされている入口に入っていくのだ。誰も何もしゃべらず、黙々と死者の列は進んでいった。暗い死者とは対照的に部屋はやたらと明るかった。
上が丸くカットされている入口に入ると、短い通路を経て、また広い部屋に出た。今度は天井もやたらと高い。大きなホテルのホールのようだ。ただし、何の飾りっけもない、ただただ広い、というだけの場所である。その中を死者たちは一列に並んでゆっくりと進んでいる。
奥の方が随分見えてきた。どうやら部屋の奥には階段があって、死者はそこへ一人ずつ昇っているようだった。階段の先は広めの壇になっている。その壇の上には・・・なんだろうあれは・・・、俺のいる場所からは、それが何かはっきり見えなかった。何かの機械なのか?。まさか、そんなことはないだろう・・・。
その妙な機械のようなモノの向こうに裁判官らしき人が座っていた。その後ろには・・・・巨大な象に乗った菩薩様がうっすらと見えた。まるで霧の向こうに浮かんでいる巨大な仏像のようだった。部屋は明るいのだが、菩薩様だけが霧がかかったようになっているのだ。
死者は一人で奥の階段を昇っていく。そして、壇の上にある機械のようなものに乗った。ここからではよく見えないが、機械のようなものに乗った死者は、裁判官に何か言われたらしい。頭を抱えている。やがて顔をあげると、肩を落として機械のようなものを降りて、左の方へ進んだ。左側にも階段があるようだ。いや、よく見れば右側も階段になっている。正面と左右に階段がある、ピラミッドのような壇になっているのだ。四角すいの途中を横に切ったような壇である。
俺の順番も近付いてきた。前には10人ほどか・・・。死者を呼ぶ声は聞こえるが、壇の上で何が行われているのか、それはわからなかった。死者は、名を呼ばれると階段を一人で登り、何か裁判から言われると機械のようなもに乗る。で、また裁判官から何かを言われ・・・頭を抱えるもの、ペコペコ頭を下げるもの、ふらふらと倒れそうになるもの・・・リアクションはそれぞれ違っていたが、そのあとは深々と頭をさげ、左側の階段を降りて行った。階段を降りると、その奥へと消えていったのだった。

「宗真、前に。階段を昇れ。」
馬頭が俺の3人前の死者を呼んだ。お坊さんじいさんである。お坊さんじいさんは、一人階段を昇って行った。生前、こんな世界があるなんて教えられたこともなかった・・・彼はそう言っていた。仏教も宗派によって教える内容が大きく異なるのだ。極楽と地獄だけしか教えられていなかった宗派の坊さんは、いろいろと戸惑うことが多いのだろう。肩を落としてお坊さんじいさんは、ゆっくりと階段を昇って行ったのだった。
お坊さんじいさんが階段を上り詰めると、裁判官が何かゴニョゴニョ言っている。何を言っているのか、まだ聞き取りにくい。うっすらと聞こえたことから想像するに、自己紹介をしているような感じであった。で、前にある機械のようなものに乗れと言っているようだ。俺は早く知りたかったので、強欲じいさんに裁判官の声が聞こえたか聞いてみた。強欲じいさんは、
「いや、もそもそ言うだけで、何を言っているのかよく聞こえん。う〜ん、じれったいのう・・・・。」
どうやら、誰もが上で何が行われているか気になって仕方がないのだろう。気が短いものならチリチリしてくるに違いない。まったく聞こえなければあきらめもつくのだが、なんとなくうっすらと聞こえてくるから、余計に気になる。俺もイライラしてきた。じれったいのだ。
『ふむ、そんなに知りたいか。まあ、そうでなくては取材者は務まらぬだろう。盟友のヤマ・・・君たちは閻魔大王と呼んでいるようだが・・・の頼みだ。汝にも聞かせてやろうか。どうせ、汝もそうなることを期待していたのであろう。そうそう、私は五官王である。汝の心に直接話し掛けている。わかっているな。』
なんと、次の裁判官が俺の心に直接話しかけてきた。と、一応は驚いては見せたが、実はこうなることは期待していた。五官王の言う通りである。なので
『ありがとうございます。実はその通りでして、声が聞こえてくるのを待っていました。よろしくお願いいたします。』
『ふむ、宋帝王たちから話には聞いておるが、話の通り、調子のいいヤツだのう。まあ、よい。よく聞き、よく見ておくがいい。』
『はい、ありがとうございます。あのしかしですね、声は聞こえるのですが、その場所が高い壇の上なので、どうなっているのかよく見えません。その・・・・なんとか、状況が見える方法はないのでしょうか?。』
『ふむ・・・修行が足りないようだのう。よいか、甘えるな。見えないのなら仕方がなかろう。・・・・まあ、しかし、それも困るであろうから、ヒントだけ与えておく。目で見るな。心で観よ。わかったな。』
『心で・・・・はい、わかりました。なんとかやってみます。』
目で見るな、といわれてしまった。心で観よ、と。しかし、そんなことができるのだろうか。声が聞こえるのは、これは裁判官さんたちの神通力によるものであろう。俺の能力などではない。俺は、まだ死んで28日めだ。天界にも行っていないのだから、神通力など使えるわけがない。修行が足りない、といわれても、修行どころでもない。ただ、こうして自分の裁判の順番を待っているだけである。その他は、現世に戻って家族にあっているだけである。どこで修業をしろというのか。どんな修行をしろというのか・・・。おれは、ちょっと不服だったが、ここで逆らってはいいことはないので、素直に五官王の言葉に従ったのだ。
『よし、ではしっかり見聞きせよ。・・・が、知らないほうがよかった、と思うかも知れないが・・・。』
えっ、いったいそれはどういうことなのか。知らないほうがよかった・・・・とは。それは、恐ろしいことなのだろうか・・・・。そんなことを考えていても仕方がないので、俺は神経を壇上に集中してみた。肉体があるならば、眼を閉じて心静かにした、ということである。
声が聞こえてきた。
「よいか、それは『転生の秤(はかり)』というものだ。そこに地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天、と六種類の生まれ変わり先の世界の名が書いてあろう。汝がその秤に乗れば、針が自動的にその六種類のどれかを指し示してくれる。そこが汝の生まれ変わり先だ。さぁ、宗真、そこに乗るがよい。そこに乗れば、汝の生まれ変わり先がわかるのだ。」

この声を聞いて、俺は驚いた。・・・なんと、壇の上にあるあの機械のようなものは、秤だったのだ。いわば、罪の体重計、とでも言おうか。五官王は「転生の秤」と言っていた。冗談じゃない。そんな恐ろしいこと・・・。体重計に乗ったら、「お前の生まれ変わり先は『地獄』と、表示されるようなものである。しかも、乗る前にそれを教えられるのは過酷だ。普通の体重計だと思って乗った体重計が、実は生まれ変わり先を表示する体重計だった、というのなら、驚きはするが・・・というか驚くだけであろう。まあ、そのあとに嘆くかも知れないが。しかし、それが生まれ変わり先を表示する体重計と知って乗るとなれば・・・・それは恐怖である。どこが表示されるか、恐ろしくて乗れないだろう。こ、これは・・・知らないほうが幸せだったかもしれない。否、知らないほうがいいことだ。こんなことなら、前もって知らないほうがいいのだ。知らずにその場で聞いたほうがいい。俺は、他の人より、長く恐怖を味わうこととなったのだ・・・。
『そういうことだのう。取材もいいが、それは時として、恐怖をともなうことがある。直前に知ったほうがいいこともあるのだ。知ってしまった以上、もうどうしようもない。他の死者の恐怖を知りながら、汝の番が回ってくるのを耐え忍ぶことだな・・・・。』
五官王の声は、冷たく耳に鳴り響いたのだった。
確かに、その秤は恐怖の秤である。あの何も考えていないような、鈍そうなお坊さんじいさんですら、その秤に乗ることをためらっているようだった。
「さぁ、宗真、早く乗るがよい。」
未だに俺には下からしか見えないが(結局、心の目で観よ、と言われてもよくわからないので、普通に見ていた)、お坊さんじいさんは、身体をゆらゆらと揺らしていた。戸惑っているのだろう。もたもたしている、ように見える。見ているとじれったくなるが、当事者としては当然だろう。恐怖の秤である。乗ることをためらうのは当然だ。
「何をしている。早く乗るがよい。」
五官王の声がきつくなった。お坊さんじいさんは、手を強く握ると・・・・その秤に乗った。
すると・・・・、お坊さんじいさん、なんだか驚いたようなそぶりをした。
「ほう・・・残念ながら秤の表示は『地獄』ですな。さて、どうしますか?。地獄へ行きますか?。」
な、なんとお坊さんじいさんの表示は「地獄」だった。あの人畜無害の、何の罪もないような、しかも、お坊さんであるじいさんが、なんと地獄の表示である。ならば、他の人は・・・ほとんどの人が地獄であろう。俺は・・・ビビった。
「あ、あ、あの・・・なぜわしが地獄なんでしょうか・・・」
お坊さんじいさんが五官王に問いかけた。その質問は当然であろう。しかし・・・。
振り返ってみれば、あのお坊さんじいさんは、坊さんとしての責務を果たしていない、とのことだった。お坊さんの責務を果たしていないお坊さんは、地獄へ落ちても仕方がない、とも言われていたようだ。いくら罪を犯していない、とはいえ、あのじいさんはお坊さんとしての役割も果たしていない。いわば、お坊さんとして何もしていないのだ。五官王も、そのことを指摘したのだった。
「以前の裁判で言われませんでしたか?。あなたは出家者であるにもかかわらず、仏法を学ぼうともせず、人々を導こうともせず、ただ葬式をし、法事を務め、形だけの念仏を唱えていました。念仏の意味も知らず、修行もせず、口先だけで念仏を唱える日々でした。それは、出家者としては失格でしょう。そう言われていますね?。」
「は、はい・・・・。確かに、そのように・・・。しかし、わしは何も知らなかったのです。仏法などというものは、学んでいませんからのう・・・。」
「汝に向学心があるのなら、いやいや、悟りを得ようという、救いを得ようという心・・・菩提心・・・があれば、自分でいくらでも学べるのですよ。出家者である以上、そのいいわけは通用しません。御安心なさい、地獄といっても汝の場合、一番軽いクラスでしょうから。」
五官王は、そういうと少しだけニヤリとしたのだった。


転生の秤は怖い。俺はそう感じた。言葉で「地獄行き」と言われるよりもキツイと思う。はっきりと自分の行き先が示されるのだ。それは絶望感を死者に与えるだろう。「地獄」と表示されてしまったお坊さんじいさんの気持ちは、ものすごく辛いに違いない。
「さて、どうしましょうかねぇ。宗真さん。」
五官王は、片方の口の端をあげてそういった。五官王の表情だけは、その神通力により、俺に伝わってくる。しかし、お坊さんじいさんの表情はわからなかった。
『知りたいかね?。どうやら精神統一ができてないようだな。ここが見えないらしい・・・。死者の表情も見たいかね?。』
五官王が俺に語りかけてきた。俺は・・・
『い、いや・・・そこまでは・・・いいです。」
とだけ答えた。これでは、取材者は失格であろう。そんなことはわかっている。わかってはいるが、ちょっとこれは俺には堪える。今まで三回の裁判を行ってきたが、今回ばかりは・・・・。確かに、前回も大猫だの大蛇だのが出てきて怖かったが、この転生の秤だけはその比ではない。死者の表情が見えなくても、その気持ちは十分に伝わってくる。
「さぁ、どうしますか、宗真さん。黙っていないで何とか言ったらどうですか?。このまま黙っていれば、地獄行きが決定してしまいますよ。」
五官王の言葉に、お坊さんじいさんは、顔あげた。何か言うのだろうか。
「あの・・・私の罪はそれほど大きいのでしょうか・・・。確かに、私はお坊さんでありながら、お葬式や法事をただただこなしてきただけで、仏様の話といってもこれといってはしてきませんでした。ただ、南無阿弥陀仏と念仏すればいいんですよ、それで極楽に行けますよ・・・、とだけしか説いては来ませんでした。お寺に生まれ、お寺に育ち、親の跡を継いで僧侶になることが初めから決められており、なにも逆らうことなく、何も考えることなく、贅沢も言わず、ただただ親に教えられた通り、日々お経をあげ、念仏を唱え、葬式をし、法事をし、女房をもらい、子を育て、跡を継がせて、やれやれ私の役割も終わったわいと思い、こうして死を迎えたら・・・・地獄行きですか?。それではあまりにも辛すぎます。確かに・・・・、確かに積極的に仏教を学ぼうとはしませんでした。でも、お釈迦様の教えを誰も教えてはくれなかった。親も、ただ檀家の皆さんに気に入られるようにすればよい、と教えてくれただけです。小さなころから、こぼんさん、といわれ親について回ってお経をあげて・・・・。そりゃあ、子供のころは壇家さんからかわいがられもして、楽しい時もありました。しかし・・・初めから決まった人生、初めから決まった職業で、何の夢もなく・・・、否、夢を持つことを許されず、そんなつまらない人生を歩んできたのです。おかげで、つまらない、面白くもない人間になりました。女房からはなじられ、子供からは反発され、それでも檀家の手前、誰かに跡を継がせなきゃならないと、私なりに苦労し、子供をなだめ、いやいやながらも跡を継がせてきました。それなのに・・・それなのに・・・、出家者のくせして教えを説いてこなかった、正しい教えを伝えなかった・・・ただそれだけで地獄行きですか?。私は、他のお坊さんのように女遊びもしなかったし、酒も飲まなかった、風俗にもいかなかった、浮気もしなかった、高級車にも乗らなかった、夜な夜な繁華街に出ることもなかった、いやらしいビデオ鑑賞に耽ることもなかった・・・・。あぁ、確かに、うちの寺があったところは田舎で、繁華街もなく、色気もなく、誘惑もなかったですが、そういうことをしようと思えばできなくもなかった。私の知り合いのお坊さんは、うちよりも田舎の寺なのに、しょっちゅう夜遊びに出かけていた。贅沢をしていた。高級な外車に乗っていた。亡くなった時は派手な葬式だった。私には程遠い生活だった・・・。私は地味で、贅沢を言わず、怠りなく、寺の仕事をしてきたのに・・・・地獄ですか・・・。」
そういうと、お坊さんじいさんは、その場にへたり込んでしまったのだった。

おじいさんの気持ちはよくわかる。寺が世襲式である以上、寺に生まれた時点で人生がほぼ決まってしまっている。そんなつまらない人生はないだろう。子供なら誰もが「○○になりたい」と夢見るものだが、それができないのだ。否、夢を見るくらいはできるだろう。しかし、成長するとともに、跡を継ぐという現実が目の前に迫ってくる。「なんだ、いくら頑張ってみても将来はあれか・・・」と親の姿を見て、自分の人生をあきらめてしまうのではないか。それは、つまらない人生であろう。が、しかし・・・・。本当に跡を継ぐことが嫌だったのだろうか。本当に嫌ならば、逆らえばいいのだ。壇家なんか放っておいて、寺など捨てて、自分の好きな人生を歩めばいいのだ。もちろん、リスクは大きく、また苦労は多大であろうが・・・・。それでも、決められた人生に対し、不平不満を言うのなら、リスクを取るべきではないか。決められた人生を取るならば、その人生で最大限、己を生かすべきではないか・・・・。とはいえ、それは理想論なのかも知れない。現実には、なかなかそう言うわけにはいかないのかもしれない。己の個性を生かすこともリスクが高いからだ。壇家から反発を食らったら、元も子もない。無難に過ごすのが得策とも言えよう。
俺の頭の中は、目まぐるしく廻った。

「そうだね、宗真さん、あなたは確かに贅沢はしなかった。お坊さんとしては、マシなほうです。ちなみに、あなたのお知り合いのお坊さん、今は地獄の奥底の方にいますよ。その方は裁判なしで地獄へ行きましたからね。まだ、ここで裁判を受けているあなたは、マシなほうなのです。
確かに、つらいでしょう。真面目に生きてきて、その結果が地獄行きとは酷すぎるでしょう。私もそう思います。理不尽だと思うでしょう。しかしね、それは、あなたも悪いことなのですよ。嫌なら親に反発すればよかったでしょう。あなたのお子さんだって、反発したのでしょう?。お坊さんになるのは厭だって、そう言ったのでしょう。それを無理やり、なだめすかし、甘やかし、贅沢を言わせて嫌々ながら継がせたのはあなたでしょう。また、そうした世襲が美徳のような伝統を植え付けた、あなたの父親も悪いでしょう。何も考えず、楽に生きていく事を教え込んだ、あなたの父親も悪いのです。いや、それもこれも、あなたの宗派の本山も悪いことです。本来の、お釈迦様が説かれた仏教とは異なる教えを、あなたの宗派の宗祖の教えとは異なる教えを、堂々と説いている、あなたの本山も悪いことなのです。ですから、あなただけに罪があるとは言いません。しかし、罪がないとも言えません。いや、出家者とは何者であるか、衣を着て、袈裟を身に着けるとはどういうことであるか、それを考えてこなかった、あなたには罪があるのです。それを理解はできないのでしょうかねぇ。」
五官王の話に、お坊さんじいさんは、頭を抱えうずくまってしまった。

五官王の話は、納得はできる部分とできない部分があった。贅沢したり、風俗遊びをしたり、夜な夜な繁華街へ出かけてばかりいるお坊さんが、裁判を受けずに地獄へ直行しているという話には納得できる。しかし、このお坊さんじいさんのように、何も知らず、真面目に生きてきた人が、お坊さんだからという理由だけで地獄行きというのは、行き過ぎではないだろうか。ちょっとひどすぎるように思う。あの転生の秤は、壊れているに違いない、と思えるくらいだ。
そりゃあ、五官王の言うように、お坊さんじいさんだけに罪があるわけじゃないだろう。あのじいさんの親だって、ちゃんと教えなかったからいけないのだ。寺を継ぐことだけに執心して、僧侶の本分を教えてこなかった、それは大きな罪であろう。だから、あのじいさんだけが悪い・・・・あぁ、そうか。あのじいさんの親に大きな罪があるならば、あのじいさんも同罪か。あのじいさんも寺を継ぐことだけを子供に教えて、仏教を学ぶことは教えていないだろう。他宗派の教えや、本来の仏教はどうであったか、ということは教えてはいないだろう。壇家に対し、壇家を怒らせないようなことは教えているだろうが、壇家を教え導く必要があるのだ、ということは教えてこなかっただろう。そう言う意味では、罪がある、と言える。俺は五官王の言っていることが、少しではあるが、納得できてきた。しかし、それにしても、そうであったとしても、地獄行きは、重すぎるように思う。
『聞新、汝の気持ちはよくわかる。まあ、黙って見ていなさい。』
五官王は、そう俺に言った。いったい何があるのだろうか・・・・。

お坊さんじいさんは、涙ながらに訴えた。
「わかりません、わかりません、わかりません、何が罪で、何がいけないのか、わかりません。悪いことは何もしていないのに、お坊さんというだけで悪いといわれても・・・・。あぁ、こんなことなら私も遊んでおけばよかった。もっと贅沢をすればよかった。こんな、こんなつまらない人生を送るんじゃなかった。どうせ地獄へ落ちるのなら、もっと遊んでおけばよかった。親にだって反発すればよかった。街に出て好きな人生を送ればよかった。私のことをバカにした女房など、追い出せばよかった。あぁ、何もかもやり直したい!。死んでからそんなこと言われたって・・・・。」
確かにそうだ。死んでからお坊さんの罪は大きいと言われても仕方がない。同じ地獄行きなら、生きているときにもっと遊べばよかった、そう思うのは当然だ。
しかし、五官王も引き下がらなかった。
「お坊さんなら、生きているときに知っていなければいけないことなのですよ、私が説いたことは。」
これも確かに!、だ。お坊さんなら、当然のことながら、その役割は知っていなければならない。知らないほうが悪いのだ。人々を正しい方へ教え導くための宗教なのだ。その宗教の中に籍を置く以上、宗教者である以上、人々を教え導くのは当然のことである。五官王の言うこともわかる。が、しかし・・・じいさんの言うこともわかる。どちらも正しいのではないかとも思う。それとも、俺はただ感情的に納得がいかないだけなのか。
「仕方がないですねぇ。あなたは何も知らなかったのですから。困ったものです。はぁ〜・・・・。」
五官王は大きくため息をついた。

「さて・・・どうしたものでしょうか・・・。秤の表示は地獄。しかし、確かにそれは辛すぎるでしょう。しかし・・・、あなたの立場、僧侶という立場を考えると・・・ねぇ・・・。」
その時であった。別の声が響いてきたのだ。その声は、澄んだ美しい声だった。が、同時にその声には冷たさも感じられた。その声は
「知ると知らざると、誰の罪科であるか・・・。」
と、一言だけ言ったのだ。
「こ、これは・・・普賢菩薩様・・・。あぁ、確かにおっしゃる通りで・・・。知っている・知らないは、罪があるのなら、それはまさしく本人の問題です。ならば・・・。」
声の主は、普賢菩薩であった。普賢菩薩は、お坊さんじいさんを地獄へ送れ、と言っているのだろうか。お坊さんじいさんは、不安になったのだろう、頭をあげ、五官王を見ているようだ。
「しかし、事は簡単ではない。知る機会がなかったという場合もある。また、日本の仏教のあり方もある。杓子定規では計れないこともあろう。」
普賢菩薩は、そう続けた。さらに・・・。
「釈迦如来の教えは、慈悲の教えでもある。この者が己を深く見つめ、何が悪かったのか、己のどこが間違っていたのか、それをわからせるのも慈悲であろう。厳罰は、如来の教えではない。わかるかね、宗真よ・・・。」
その声は、冷たさの中に優しさを含んでいた。そうだった、この裁判は、罰を与えるためのものではなく、深く己を見つめさせるためにあるのだった。それを教えてくれたのは、どの裁判官だったか・・・・。

「普賢菩薩様のご指導の通りにいたします。宗真、この死者への裁判は、普賢菩薩様のおっしゃるとおり、己を深く見つめさせるためにあります。自分のどこが間違っていたか、何がいけなかったのか、それを知るための裁判なのですよ。決して、厳罰を与えるためではありません。それがどういう意味かわかりますね?。」
「はぁ・・・・何となくは・・・。」
「宗真さん、これより、出家者とはいかなる存在であるべきか、ということをよく考えることです。現世に戻ったら、よくよくそのことを考えてみることです。そうそう、あなたは普賢菩薩様のことはご存知でしたか?。・・・・・あぁ、知らないのですね。まあ、仕方がないですか。現世に戻って、よその寺を眺めてみるのもいいかも知れませんねぇ・・・。あまりにもあなたは世間を知らなすぎるように思います。そう言う意味では・・・・多少なりとも、世間のことを知るために一般の方がする遊びなどを知っておく方がよかったかも知れませんねぇ・・・。ただ、臆病であることと、積極的に欲を慎むことは、結果だけを見ていれば似ているようですが、内容は全く違いますからね。あなたがどちらの人間かは、よくわかっていることでしょう。人を導くには、己が泥にまみれることも大事なのですよ。」
五官王は、優しく語りかけた。お坊さんじいさんは、何度もうなずいていた。きっと、わかっているのだろう。面倒だから、臆病だから、積極的な行動に出なかっただけである、ということを。それは、すべて自分で決めたことである、ということを。非は誰にあるか、ということを・・・。
「宗真、汝に判決を下す。次の裁判にいってよろしい」
五官王が言った。その声は、凛とした声だった。
「さぁ、汝の左手の方の階段を降りるがいい。右の方へ行ってはならぬぞ。」
お坊さんじいさんは、合掌して深々と頭を下げた。そして、左手の方へ肩を落としたまま、ゆっくりと進み、階段を下りて行ったのだった。

俺は、ほっとした。あんな人のよさそうな、田舎のおじいさんが地獄へ行くなんて、ちょっとかわいそうだし、地獄行きはひどすぎる。もちろん、五官王や今までの裁判官の言い分もわかる。確かに、お坊さんとして、やるべきことをやっていない、だから地獄だ!、そう言われるのも理解できないではない。しかも、面倒を避け、臆病風に負け、積極的に仏教を学ぶことや、壇家に教えを説くことをしなかったのはいけないことであろう。非は己にある、のだ。しかし、日本の壇家制度や世襲式の寺にも問題はあろう。それを今さら変えるというのも・・・・。
『汝の思うところはよくわかる。確かにそうなのだが、お坊さんというものは、そう言うわけにはいかないものなのだよ。本来、お坊さんは積極的に人びとを導かねばいけない立場にあるものなのだ。ところが、日本の仏教は曲がってしまった。政治が寺院に関与したせいでもあろう。特に、江戸時代の壇家制度はよくなかった。僧侶に安易な利益を与えてしまったのだ。僧侶は、何も考えることなく、壇家の葬式や法事を行うことで、暮らしていけるようになってしまった。それが僧侶を堕落させたのだ。そう言う意味では、彼もその犠牲者だと言えるのかも知れぬ・・・。が、それを改革しなければならない、という気持ちが・・・少しは欲しいではないか。壇家に胡坐をかくのではなく、本来の仏教を少しでも取り戻そう、という気持ちが欲しいではないか。実際、そのように活動している僧侶もいるのだ。たとえ、自分自身は汚れようとも、それでもいいから世間に溶け込み、世間の人々に教えを説こう、と活動する者もいるのだよ。僧侶だからといって、清廉潔白であることが、必ずしも良いことではないのだ。親鸞上人も、そのことで大いに悩んだ末、念仏に至ったのだ。悩んだ末に至る念仏は大変尊いが、それを真似るだけの口先だけの念仏では意味がないであろう。そのことを彼の宗派の僧侶である宗真は気付かねばならぬのだよ。』
五官王は、そうしみじみと言った。なるほど、奥が深い。俺は、ようやく心から納得できた。壇家制度、世襲式、この二つの習慣が寺や僧侶を堕落させたことは間違いない。そう言う意味では、お坊さんも制度の犠牲者ではあるのだろう。しかし、大事なことは、その中で間違っているのかいないのか、正しいのかどうか、を考えることなのだろう。
人はそれぞれに、いろいろな事情を抱え、いろいろな犠牲を強いられている。つらくない人生というのは、存在しないのかも知れない。問題は、その人生をどう生きるか、なのだ。
『その通りだ。お釈迦様は、そう説かれている。それが重要なことなのだ。さて、つぎの裁判に進むか。』
五官王は、そういうと気持ちを切り替えたようだった。


「覗見教師信士、前へ。階段を昇れ」
馬頭の声が響いた。あの覗き見教師が階段を昇る。その足取りは重かった。それは当然であろう。彼は、決して許されることができない行為をしたのだから。本人も、当然「地獄行き」と言われることは、わかっているであろう。足が重くなって当然である。緊張感もあるのだろう。彼は、階段の途中で、何度か踏み外して転んでいた。
「早く昇れ!」
馬頭の声が飛んできた。その馬頭は、階段の下で覗き見教師を睨んでいた。階段にへばりつくようにして昇っていた覗き見教師は、意を決したかのように立ちあがった。そして、大きく息を吸うと、そのあとは駆け足で階段を昇りきったのだった。
「覗見教師信士、これより汝の裁判を始める。私の名は、五官王という。うしろで裁判を見守って下さるのは、普賢菩薩様である。」
五官王が覗き見教師に言った。
「汝の前にあるのは『転生の秤』というものだ。その秤に乗れば、汝がこれから生まれ変わる先が示される。」
五官王は、転生の秤について説明をした。
「さぁ、その秤に乗るがよい。」
覗き見教師は、大きく深呼吸をすると、あっさりと秤に乗った。意外であった。否、もうすでに覚悟はできているのか・・・・。表示は・・・・予想通りであった。
「ふむ、地獄行き・・・か。当然だな。汝もわかっていよう。」
「はい、わかっています。覚悟もできています。私がしたことは、決して許されることではありません。教師の身でありながら・・・・じょ、女子生徒の更衣室の盗撮をするなんて・・・・。」
「それだけではないな、汝の罪は。」
「はい。そのことにより、妻や子供に大きな迷惑をかけてしまいました。それなのに・・・それなのに・・・妻は・・・妻は・・・、ため息をつきながらも私の供養を・・・・う、うぅぅぅ。」
覗き見教師は、泣き崩れていた。
「よい奥さんをもったものだな。それなのに汝ときたら、自分の奥さんのよさを理解せず・・・・。自分の性癖のことを奥さんに相談すればよかったものを。」
転生の秤にすがりながら、覗き見教師は言った。
「はい・・・。今ではそう思っております・・・・女房は、実家に帰っていますが、実家の親からは『あんな男の供養をする必要はない』と言われています。当然です。こんな自分の供養を・・・私ならとてもできない・・・・。女房は・・・できた人です。私は・・・・あんなことをする前に女房に相談していれば・・・。彼女なら、きっとこんな私を受け入れてくれたでしょう。そのことに気づいていれば・・・、子どもを不幸にすることにはならなかった・・・・。家庭を壊すことにはならなかった・・・。」
「ふむ、宋帝王の裁判のときとは、大きく違うようだな。どうやら心から反省しているようだ。しかし、地獄行きは免れないな。それは覚悟できているな。」
五官王の声が冷たく響いた。
「はい、覚悟できています。今なら、前の裁判の大蛇に締めあげられても・・・取り乱すことはありません。今すぐ、この場で地獄に落ちても・・・いや、そうして欲しいくらいです。」
覗き見教師は、土下座をしてそう言った。
「ふむ、その言葉にウソはないようだ・・・・。しかし・・・。」
五官王は、そこで言葉を止めた。
「しかし?。・・・しかし、なんでしょうか?。」
覗き見教師が尋ねた。
「そうだな。ここで地獄行きを決定するわけにはいかないな。」
「ダ、ダメなのですか・・・・。それはなぜ・・・・。」
覗き見教師はあっけにとられている。そこに五官王の声が響いた。
「そう、ダメなのだ。次へ進んでもらおう。いや、深い意味はない。汝の妻に免じて、だ。汝の妻からは、ちゃんと供養が届いている。その場合、ここで判決を出さないで、次へ送る決まりなのだ。供養が届いている以上、判決は出せないのだよ。汝にとっては、それも苦しいかも知れん。むしろ、あっさりここで地獄行きと決定され、この場で地獄へ送られた方が楽であろう。だが、そう言うわけにはいかぬ。苦しいかも知れんが、地獄へ行く覚悟があるのなら、この裁判を受けること自体が地獄だと思いなさい。わかるね?。」
「は・・・はい。私の罪は、簡単に地獄へ落とすほど軽いものではないと・・・・。確かに、裁判を受けながら、現世に戻り妻や子の姿を見ることは・・・つらいです。ひょっとしたら地獄より苦しいことかも知れません。地獄に行ったことはないのですが、現世の妻や子の姿を見ることは・・・・本当に耐えられません。できれば・・・現世は見たくない。でも、見なくてはいけない。私には現世の妻や子供の姿を見る義務がある・・・・。」
「ふむ、よく言った。それだけの気持ちがあるなら、閻魔大王の前に出ても大丈夫であろう。このまま次に進んで、閻魔大王に叱咤されるがよい。さぁ、汝の左手側の階段を下りるがよい。」
五官王の声が優しく響いた。

覗き見教師は、ゆっくり立ちがあると、肩を落としたまま、足を引きずるように秤を降りた。そして、深々と五官王に頭を下げると、うなだれたまま左手の方へ進んでいった。そして、左側の階段をゆっくり下りていく。判決を下されなかったことは、かえってつらいことであろう。むしろ、今が地獄のようなものである。彼にとっては、奥さんの供養は、きっと彼への復讐のようなものになっているのかもしれない。しかし、それでいいのであろう。彼は、そのことによって、罪の償いをしているのだ。そう、彼の罪の償いは、もう始まっているのである。

「強欲院金泥腹黒かん顔・・・ち、噛んじまった、何て長い戒名だ、クソッ・・・。えー、強欲院金泥腹黒厚顔大居士、前へ。そして階段を昇れ。ふぅ〜。」
おかしな馬頭だ。俺はつい笑いそうになってしまった。
強欲じいさんは、軽くうなずくと、すたすたと階段を昇って行った。
「強欲院金泥腹黒厚顔大居士、汝の裁判をこれより行う。私の名は五官王という。うしろで裁判を見守って下さるのは、普賢菩薩様である。汝の前にあるのは、『転生の秤』という。そこに乗れば、汝が生まれ変わる先の世界を表示してくれるものだ。」
五官王は、お決まりの秤の説明をした。前の死者の裁判のことは、俺にしか聞こえていない。強欲じいさんには聞こえていないことだ。ただ、何かに乗ったりしたことは見えている。で、左の階段を下りて言ったことも見えてはいる。しかし、内容についてはわかっていない。強欲じいさんにとっては、初めて聞かされることである。前もって知っているのは、俺だけだ。
「ふむ、皆が乗っていたのは、これか・・・。秤のようなものだとは思っていたが・・・、転生の秤とは、すばらしい。現世にもこれがあれば罪を犯す者は少なくなるだろうし、現世での裁判もこんな秤があればよいのだろう。」
「汝、面白いことをいう。この秤に乗るのは怖くないのか?。」
「そうですなぁ・・・怖くないと言えばウソになりましょう。しかし、覚悟はできています。もはや取り乱すこともない。地獄もよかろうと思っております。それよりも、この秤はこちらの世界ではなく、現実世界にあったほうがいいと思いますな。現実世界での裁判でも、この秤に乗らせれば、それがどれほどの罪なのか、懲役何年なのか、執行猶予がつくのか、実は冤罪だったのか、たちどころにわかるでしょう。ぜひ、現世にあるといいと思いますな。」
「ふむ、確かにそうだが、そう言うわけにはいかない。本来、人間は、人間が生み出した罪を、自分たちで処理せねばならぬものなのだ。それが責任というものであろう。自分に責任をもってしっかり生きておれば、罪を犯すことはなかろう。また、たとえ罪を犯すことがあったとしても、それを認めることができよう。本当は、生きているときに、己の罪を認めることができるようにならなければいけないのだ。また、現実世界の裁判で、罪を認めたのなら、出された判決に文句を言ってもならぬであろう。その判決は重過ぎる、などというのは、心から反省をしてるとは言えない。本来ならば、人間は生きているうちに、己の罪をすべて認め、どんな罰も受け入れる覚悟を持つべきなのだ。それが『よい死に方』であろう。」
「はい、私もそう思います。いや、生きているときは気がつきませんでしたが、これまでのこちらの世界での裁判を通して、己の罪を認めることがいかに重要であるかということが、よくわかりました。そして、真実の反省とはどういうことか、よくわかりました。なので、私はいいわけはしませんし、この秤がどんな表示をしようとも、嘆きもしません。判決に対し、嘆くこと自体、自分の罪を認識していないことなりますし、心から反省しているとは言えないことになりますからな。」
「よくぞそこまで達した。そこまで理解した者は、久しぶりである」
その声は五官王ではなかった。なんと、普賢菩薩の声だったのである。
「こ、これは・・・普賢菩薩様。」
「ふ、普賢菩薩様?。」
五官王と強欲じいさんが同時に声を出した。
「汝、よくぞそこまで理解した。すべてを受け入れることこそ、悟りへの第一歩である。汝は、すでに悟りへ歩み始めている。今の心の状態を忘れぬように。どの世界へ行こうとも・・・。」
「ありがとうございます、菩薩様。お言葉の通り、どの世界へ行こうとも・・・・現実世界で私の家族の醜い姿を見ようとも、私の心は水鏡のように静かであるように、心掛けます。」
強欲じいさんは、深々と頭を下げた。その姿は、今までの強欲じいさんからは想像もできなかった。
振り返ってみれば、強欲じいさんは、不動明王にさえくってかかった人物である。その態度は、不遜・ふてぶてしい、としか言いようがないじいさんだった。確かに、裁判を通して、変わっていく姿を目にはしていた。しかし、ここまで変わるとは・・・。そういえば、守護霊のじいさんが言っていたっけ。強欲じいさんは、悟りに近づきつつあると・・・。強欲じいさん、すべてが吹っ切れたのだろうか。

「ふむ、本当にすばらしい見解だ。これまで長きにわたって裁判をしてきたが・・・汝の見解にまで達した者はいたであろうか・・・、ふむ、思い当たらんのう。いやはや、見事だ。」
「ありがとうございます。これも、こちらの世界で裁判官様からいろいろな話を聞けたおかげです。また、いろんな人間の罪を見さしてもらったおかげです。そして、現世での姿を見て、あぁ、はかないな、哀れだな、と気付かせてもらったおかげです。私は、裁判をしてよかったと思っています。直接地獄へ行かなくて本当によかった。これも不動明王様のおかげです。初めての裁判のとき、私は地獄へ落とされても仕方がないような態度をとっていた。それを不動明王様は・・・・。仏教とは、本当に懐が深い教えですなぁ・・・。生きているとき、あくどいことばかりしていたら、今頃は裁判を受けずに地獄でしょう。しかし、ほんの少しでも、世の中のためになることもしておいたがために、ここに来ることができた。たとえ、その善いことが偽善であっても、ここへ来ることを許して下さった。ありがたい・・・。」
そういうと、強欲じいさんは、目頭を押さえた。泣いているのか・・・。
「ふむ、汝の気持ちよくわかった。しかし、一応、秤には乗ってもらうが、よいな。」
「もちろんです。乗る覚悟はできています。」
そういうと、強欲じいさんは、あっさりと秤に乗った。が、しかし、秤の針は・・・。
「な、なんと・・・転生の秤が・・・・。」
五官王は、驚いて立ち上がった。なんと、転生の秤の針は、左右に揺れ続けているばかりで、どこの世界も表示しないのだ。針は止まらないのである。
「こ、こんなことが・・・・あるのか?。」
あきらかに五官王は戸惑っていた。
「転生の秤が決めかねている。・・・・お、下りてみてくれ。で、もう一回乗ってみてくれるか。」
五官王は慌てていた。強欲じいさんは、言われたとおり秤を降り、もう一度乗り直した。しかし、結果は同じだ。秤の針は左右に揺れ続けているばかりで、どの生まれ変わりの世界でも止まらなかった。
「ふむ・・・はやりな。これは・・・。」
「ほっほっほっほ。どうやら転生の秤でも決められないようだな。このようなこともあろう。五官王、よいではないか。」
そう声をかけてきたのは、もちろん普賢菩薩である。その声は、明るいものだった。
「は、はい、そうですね。そうです・・・ね。では・・・。ご、強欲院金泥腹黒厚顔大居士、ここでは判決はだせぬようだ。汝の左手側の階段を下りるがよい。そして、次の裁判に進むのだ。」
五官王の声は、ちょっと興奮気味だった。本当に珍しいことだったのだろう。
「はい、わかりました。ありがとうございます。しかし、なんでこの秤が・・・。なんでなのでしょうか?。」
「そ、それは・・・私にもわからん。こんなことは初めてだ。一体どうして・・・。」
悩める五官王を救うように
「よいのだ、よいのだ。それでよいのだ。答えはおのずと知れよう。今は、先へ進むがよい。」
と普賢菩薩の声が響いてきた。その言葉に、五官王も強欲じいさんも、深くうなずいたのだった。
こうして、強欲じいさんの裁判は、不思議なままに終わった。強欲じいさんは、ゆったりとした足取りで階段を下りて行った。その姿は、なぜか堂々として見えたのだった。しばらくは、誰も何も言わなかった。

「・・・・あっ、あぁ、えっと・・・・次、釈聞新、前へ。そして、階段を昇れ。」
我に返ったかのように馬頭がそういった。すっかり忘れていたが、次は俺の番だ。俺は、前に出て、階段を上り始めた。わかっていたこととはいえ、緊張する。強欲じいさんは、この緊張感すらなかったのだろうか。今思えば、すごく自然に階段を上っていたように見えた。まるで、家の階段を上るような、そんな感じに見えたのだ。何の緊張もなかったのだろうか。それが、悟りへの入り口なのだろうか・・・・。
そんなことを考えているうちに、俺は階段を登り終えた。
「ようこそ、聞新。ようやく顔が見れた・・・かな?。」
五官王は、そう言ってにやりと笑ったのだった。


「あっ、そうですね。はい・・・・。ようやくお顔を拝見することができました。」
俺は、五官王の対応にちょっとびっくりした。もう少し厳しく声をかけられるかと思っていたのだ。意外と砕けた対応だ。
「ほう、聞新よ、汝は緊張しているのかな?。汝もこちらの世界に来て、変わりつつあるようだ。まあ、多くのものが変化を見せるのだが・・・。汝は、周囲によい死者に恵まれたようだな。変な言い方だが・・・・。」
確かにそうである。あのお坊さんじいさんにしても、覗き見教師にしても、強欲じいさんにしても、そして浮気女にしても・・・。ごく普通の人たちとは異なった、個性のある死者に囲まれている。むしろ、自分が一番平凡なくらいである。おかげでいろいろなことが学べた。
「そうだな。周囲の死者に感謝することだな。」
五官王は、真顔でそう言った。
「はい、変な言い方かもしれませんが、周囲の方たちにはいろいろ教えてもらっています。死してこれほど学ぶことがあるとは・・・。生きているときに学ぶことができていれば、もっと深い人生が送れたかもしれません。少し惜しい気がしますね。」
「まあ、そういうものだな。生きているときは気がつかぬことが多いものだ。死を迎え、肉体をなくし、こうして死者の裁判を平等に受けることになって、初めて気がつくことが多々あるのだ。本来は、ここで伝えることは現世において僧侶が伝えるべきことなのだが・・・・。ま、汝も聞いていたように、現代の僧侶は・・・あんな感じであるからなぁ・・・・。」
「はぁ・・・私にはよくわかりませんが・・・・。そうですねぇ、現代のお坊さんは、みんなあんなような感じですねぇ。昔の高僧のような、気骨のある人はいないんじゃないですか。僧侶じゃなくても・・・ですが。」
「ふむ・・・そうかもな。長年ここで裁判官を務めているが・・・ここへ来る死者は、小粒になったなぁ・・・・。おぉ、いかんいかん、そんなことを言っている場合ではないな。釈聞新、汝の裁判を始める。」
五官王は、急に気を取り直して裁判を始めたのだった。そのギャップが、人間くさくて面白かった。

「笑っている場合ではないぞ、聞新。自己紹介と説明は省く。汝は、すでによく知っているからな。さて、秤に乗りなさい。どんな結果が出るか楽しみだな。」
五官王は、意地悪そうにそういうと、俺に秤に乗るように促した。俺は、ちょっと緊張したが、ためらっても仕方がないので、さっさと秤に乗ることにした。結果はどうなのか・・・楽しみが半分、不安が半分である。
「おぉ、なるほど。まあ、そうだろうな。」
五官王は、ちょっとつまらなさそうにそう言った。俺もなんだか、ちょっと拍子抜けだった。転生の秤が示した結果は
「人間界」
だったのだ。俺の次の行き先は、どうやらまた人間界らしい。強欲じいさんのときのように、迷ってくれれば面白かったのに・・・。あるいは、天界と指示してくれればよかったのだ。誠に残念な結果である。俺は半ば本気でそう思った。
「何を贅沢なことを思っているのか。人間界ならば、ありがたいではないか。それにだ、人間界といっても、すぐに人間界に戻れるわけではない。縁がないところには生まれることはできないからな。しばらくは、こちらの世界の待機所で待つことになるだろう。」
「はぁ、まあ、そんな話は聞いたことがありますが、なんだか、ちょっと中途半端なような・・・・。」
「バカモノ!。じゃあ、お前、地獄へ行くか?。」
「あっ、いや、それは遠慮します。はい、ありがたいです。人間界、嬉しいですよ。」
「いい加減なヤツだ。まあ、尤も、ここで判決を下すわけではない。今のところ、人間界が妥当、というだけだ。まだ、先の裁判があるからな。おまえも知っている通り。」
「はい、そうですね。しかし、私にはあまり罪がない、ということは確かなようで安心しました。そう思えば、人間界というのは・・・・いい結果ですね。すみませんでした、贅沢言ってました。」
「ふむ、わかればよろしい。では、左の階段を降りなさい。特に何も言うことはないからな。」
「はい、ありがとうございました。」
と俺は階段を下りて行こうとした。何かが違う。そうだ、素直に降りてはいけないじゃないか。危ういところだった。
急に立ち止まった俺を見て五官王は
「どうしたのだ。早く行きなさい。」
と声をかけてきた。
「あぁ、違うんです。っていうか、そのお願いがありまして。」
「願いだと?。」
「はい、次の次の人の裁判を傍聴できませんか?。」
俺は、素直に尋ねてみた。
「次の次・・・あぁ、なるほど。気になるのか?。」
「えぇ、まあ、ちょっと・・・・。」
「個人的感情なのか、それとも取材者としてなのかは知らぬが、まあ、いい取材の対象者ではあるな。」
そういうと、五官王はニヤリとしたのだった。
「あ、あくまでも取材ですが・・・。まあ、個人的な感情がないとは言えませんが、お互いに死人ですし。そこは、その・・・・。」
「まあいい、わかった。取材してもいいでしょう。さてと、では、どうするかのう・・・。」
「先ほどと同じように声だけ聞かせていただければ十分なんですが。あぁ、そうか、俺の居場所が問題ですね。」
「そういうことだ。ふむ、仕方がないな。後ろの普賢菩薩様が乗っておられる象の下にでも座っているか?。」
五官王の提案に驚いてしまった。

普賢菩薩様は、白い大きな像の上に座っていらっしゃる。五官王のすぐ後ろで、である。で、俺にその象の下に入れと五官王は言うのだ。そんなことが許されるのだろうか?。
「聞新、汝が良ければ、象の下に入るがよい。」
それは普賢菩薩様の声だった。
「よ、よろしいので?。」
「構わぬ。この白象の下に座るがよい。なに、踏みつぶされることなどないから安心するがよい。」
普賢菩薩様の反応に俺は拍子抜けしてしまった。なんだか、調子が狂う。普賢菩薩様にしろ、五官王にしろ、もっと厳しい方たちだとばかり思っていたのだ。意外にゆるいので、どう反応していいのかわからなくなる。
「どうするのだ、聞新。象の下が嫌だとなると・・・・他には・・・。」
五官王は、眉間にしわを寄せて唸っている。
「いえ、大丈夫です。象の下でよろしいのなら、私はもう喜んで、そこに行きます。」
俺はあわててそう答えた。
「そうか。ならば、象の下で待機していなさい。そうだな、考えてみれば、普賢菩薩様の足元に入れるのだ。こんなありがたいことはなかろう。」
五官王は、満足そうに微笑んでいたのだった。俺は冷や汗ものだ。考えてもみなかった。象の下だとはわかってはいたが、それが普賢菩薩様の下だとは・・・。当たり前の話である。気付かないほうがどうかしているのだ。俺は、急に緊張してきた。
「何をしている。早く象の下へ行かぬか。次の裁判が始められぬではないか。」
五官王の言葉に、俺はあわてて象の下に入り込んだのだった。

普賢菩薩様が乗っている象は、色々な装飾品で飾った大きな白象である。といっても、うすぼんやりしていて、実際に象の体が存在しているわけではない。もちろん、普賢菩薩様も肉体があるわけではない。かといって、半透明とも少し違っている。なんともいえぬ淡い感じがする肉体、とでもいおうか・・・・。とはいえ、実体がない以上、触れられるものではない。まあ、我々死者も肉体がなく、うすらぼんやりとした半透明の存在ではあるのだし、お互いに死者どうしが触れ合えるものでもない。どういう理由なのかはわからぬが、蛇に絡まれたり、秤に乗ったり・・・ということとはできるのだ。肉体はないのだけれど。魂が触れていると、そう感じているだけなのかもしれない。いずれにせよ、俺は普賢菩薩様の象の下で座って裁判を見守ることになったのだ。
「次、通普信士、前に。そして階段を上れ。」
馬頭の声に一人のじいさんが前に進み、階段を上り始めた・・・・ようだ。なにせ、象の下からはでは、何も見えないのだ。俺の目の前にあるのは、椅子に座った五官王の後ろ姿が見えるだけである。ただ、音はよく聞こえた。階段を上る音が響いてくるのである。肉体がないのにちゃんと階段を上る音はするのだ。不思議なものだ・・・。
『現世においても、よく幽霊の足音がする、という話を聞くであろう?。』
いきなり五官王が俺の魂に話しかけてきた。一瞬、びっくりして返答が遅れた。
『えっ、あぁ、そうですね・・・。あぁ、びっくりした・・・・。』
『何を油断しておるのだ。居心地がいいからといって、だらけているのではないだろうな。』
『いえ、決してそのような・・・。』
確かに油断していた。この象の下は、本当に居心地がいいのだ。何とも言えぬよい香りがしているし、すごく気分がいい。このまま消えてなくなりたい・・・と思うほどである。
『当り前であろう。菩薩様の下にいるのだ。菩薩様のお徳によって、その場所は極楽と同じ状態にあるのだ。気持ちよくて当然である。が、汝は極楽気分に浸ってなどいれぬはず。本分を忘れるでないぞ。』
『は、はい、わかりました。・・・・で、なんでしたっけ?。』
すっかり忘れてしまっている。五官王のタメ息が聞こえてきた。
『はぁ・・・。足音だよ。足音。』
そうだった。足音のことだった。
『現世でも、幽霊の足音が聞こえた、という話はあるであろう。それと同じように、肉体がなくても、触れるという感覚は残っている以上、音は出るものなのだ。魂が生前同様に音を出している、あるいは、魂の記憶に物質が共鳴している、そういえばわかるであろう。魂というものは、物質にも働き掛けることが可能なのだ。それは、生きているときの記憶を魂が引きずっているのだよ。』
親切にも、五官王は、俺の疑問に答えてくれたのだ。五官王、案外世話好きなようだ。
『教えてくださって、ありがとうございます。』
俺は心の中で手を合わせ、感謝の意を表しておいた。五官王のニヤッとした顔が思い浮かぶ。

「通普信士、これより汝の裁判を行う。私は裁判官の五官王である。」
どうやらあまり目立たない、ごく普通のじいさんの裁判が始まったようである。五官王は、お決まりの転生の秤の説明を終えると、
「さぁ、その秤に乗りなさい。」
と普通のじいさんに促した。じいさんは、軽くうなずくとひょいっと秤の上に乗った。何のためらいもなく。そして、秤の表示は・・・・「人間界」だった。俺と同じである。
「ほう、地獄とかの表示でなくてよかったですね。あぁ、そうか、これまでの裁判でも・・・ほう、悪いことは言われていないようですね。遺族の供養も届いていますし、先へ進んでよろしい。」
簡単なものである。なにも問題のない、ごく普通に過ごしてきた人の裁判はこんなものなのだろう。しかも、一般的な7日ごとの供養もちゃんと遺族は行っているようである。五官王としても、特にいうことはないのであろう。俺は、次の浮気女のことが気になっていたから、ひそかに
『じいさん、早く階段を下りてくれ・・・・。』
と願っていた。ところが、であった。
「あの〜、ちょっとお尋ねしてよろしいでしょうか?。」
何の反応も示さず、ただ流れに任せて行動しているかのようなじいさんが、なんと質問をしたのである。早く次に進んでほしい俺としては、少々イラだった。いったい何を聞くことがあるのか、と。
「なんですか、何なりと尋ねていいですよ。」
「前の裁判でも問題ない、人間界が妥当かな、と言われたのですが、それでも次へ進めとおっしゃられる。ここでもこの秤の表示は人間界です。いったいいつになったら判決は出るのでしょうか?。いっそのこと、人間界へ行けという判決を出していただいたほうがよろしいのではないでしょうか?。これ以上、同じような裁判を受けることに何か意味があるのでしょうか?。」
このじいさん、何の考えもないような、ふわ〜っとしたじいさんかと思いきや、意外と鋭い質問をしたのだった。俺は俄然興味が出てきた。いい加減なものである。
「ふむ、なかなかよい質問ですね。まあ、端的にいえば、ここでは最終判決は出してはいけないことになっているんです。裁判は7回あります。一応、すべての裁判を受けることになっています。それは、何か見落としがあるかもしれない、という意味もありますし、裁判中に、あなたたち死者の心のありようが変化することもあるからです。あなたのようにごく普通の方でも、人間界ではなく天界へ行きたいな、という希望が生まれてくるかもしれません。明らかに地獄行き、と表示された方でも、裁判を繰り返すうちに反省がなされ、己を見つめなおし、心が清浄になっていく方もいます。そういう方は、喜んで自ら地獄へ行くことでしょう。いやいや地獄へ行かされるのと、好んで自ら地獄へ出向くのでは大きな隔たりがあります。我々裁判官は、何度も裁判を繰り返すうちに、己を見つめなおす、ということをして欲しいと望んでいるのです。なので、判決を下さないで、次へ進むように言うのですよ。それに・・・、遺族からの御供養が届いていれば、次へ進めるという決まりもあります。また、その功徳によって、地獄行きがワンランク上がるかもしれません。人間界が天界になるかもしれません。我々裁判官は、あなたたちにできるだけいいところへ生まれ変わってほしいのですよ。地獄へ落とすのが仕事ではないのです。御理解いただけたでしょうか?。」
普通のじいさんは、五官王の説明をうなずきながら聞いていた。ちゃんと分かっているようである。このじいさんにしてみれば、こうした説明は欲しいと思うことであろう。何度も似たような裁判を繰り返されては、無駄なのではないか、という疑問を持つのは当然である。しかし、裁判の意味自体がわかれば、それが無駄ではないと理解できるのだ。
「なるほど、よくわかりました。納得できました。決して無駄なことをしているのではないのですな。」
そういうとじいさんは、にっこりとほほ笑んだようだ。好々爺という言葉がぴったりのじいさんのようである。
「まあ、あせらず、こちらの世界を楽しんでください。現実世界へもまだいけますしね。そうそう、それに次はあの閻魔大王が裁判官を務められています。有名な閻魔大王と対面するのも悪くはないでしょう。」
「ほう、閻魔さまですか。恐ろしいお顔をされていらっしゃるのでしょうなぁ。」
「さ〜て、どうでしょうかねぇ・・・・。さて、ほかに質問はありますか?。」
五官王は、閻魔大王については、なぜか話を逸らせたのだった。
「いえ、取り立てて特に質問はありません。」
「そうですか、では、左へ進んで階段を下りてください。」
普通のじいさんは、五官王に一礼すると、階段を下りて行ったのである。そして、
「釈尼妙艶信女、前に出て階段を上れ。」
という馬頭の声が響いた。いよいよ、あの浮気女の裁判が始まるのである。


まるでヒールで階段を上るような音が響いてきた。それもゆっくりとした足音だった。俺は、ちょっと緊張してきた。彼女がどう変わっているのか気になった。あのときの宋帝王の言葉
「それでも汝の夫は汝を恨んでいない。」
は真実だったのだろうか。もし、真実でなければ宋帝王は、彼女と一緒に地獄へ落ちるとまでいっていたのだ。結果はどうであったのだろうか・・・・。
そんなことを考えているうちに、五官王は自己紹介と転生の秤の説明を終えていた。
「では、その秤に乗るがよい。」
浮気女は「はい」と答え秤に乗った。転生の秤が示した行き先は・・・・。
「ふむ、やはりというか・・・地獄界だな。」
五官王の渋い顔が目に浮かぶ。
「さて、この結果に不服はあるかね?。何か言いたいことはあるかね?。」
五官王の質問に浮気女は小さな声で答えた。
「いいえ、何もありません・・・・。その通りだと思います。」
「ふむ・・・・。本当にこれでいいのかね?。」
「はい、当然の結果です。」
五官王から、やりきれない・・・といった空気が漂ってきた。二人ともなにも言わなかった。重苦しい空気が流れていった。その沈黙は、五官王の溜息で破られた。
「はぁ〜、宋帝王の言葉、覚えてますよね?。」
ここからは想像が入っている。なにせ顔が見れないので、彼女の表情は分からない。その場の雰囲気や話の内容で想像したのである。
彼女は、さびしそうな表情で五官王を見上げてか細い声で言った。
「もちろん覚えています。主人は私が地獄へ落ちることを望んでいない、ということでした。」
「ふむ。で、それでどうだったのかね?。」
「主人は・・・主人は・・・・。」
きっと涙をこらえているのだろう、彼女は言葉に詰まったのだった。
「そ、宋帝王のお言葉通り・・・・私のことを・・・・。あっ、うっ、うぅぅぅ・・・・。」
彼女はその場に泣き崩れたのだった。
「さぁ、話してみなさい。他の誰も聞いてはいない。胸の内を洗いざらいさらけ出すのだ。そのほうが楽でしょう。」
五官王は、優しく声をかけた。しばらく、彼女は泣きじゃくっていたが、落ち着いてきたのだろう、ゆっくりと立ち上がって、
「前の裁判のとき、私は即座に地獄へ行くことを望んだのですが、宋帝王の言葉により、現世に戻ることにしました。主人の本心を知るために・・・・。」
と、現世であったことを語り始めたのだった。

「その日・・・私が現世に戻った日・・・・主人は、相変わらず飲んだくれていました。しかも、知らない女を抱いていました。
『なんだ、やっぱり嘘だったじゃないか。あの裁判官の嘘つき!。こうなったら、一緒に地獄へ落ちてもらうわ!』
私は何だか無性に腹が立って・・・・主人がほかの女を抱いていたから腹が立ったんじゃなくて・・・、きっと宋帝王の言葉が嘘だったと思ったから腹が立ったんだと思うのですが・・・・、で、イライラしてきて主人とその女のやってることを見ててやることにしたんです。できれば、その辺のモノを投げつけたりして脅してやろうと・・・。その・・・・心霊現象ですか、そういうものを起こしてやろうと、そう思ったのです。私の怒りは頂点に達していました。魂の奥深くから大きなエネルギーが湧いてくるのがわかりました。あぁ、こうして心霊現象は起きるのだ、とそう思いました。私のこの透き通る手が、ベットの横の灰皿を持ち上げたのです。このままこの灰皿を主人めがけて落してやる。どれだけ驚くことか!、いい気味だ!。このバカ女も驚くがいい。心霊現象の恐怖を味わうがいい。そう思って、私は灰皿を投げつけようとしたのです。が、そのとき・・・・。
主人は、泣きながら私の名前を呼んだのです。他の女を抱いてるくせに、私の名前を呼んだのです。お前だけを愛しているよ!って。私は驚きました。もちろん、驚いたのは私だけではありません。抱かれている女も驚いて起き上がり『その女って誰?』と怒って聞きました。
『こんなときによその女の名前を叫ぶなんて、最低!』
そういうと、その女はベットを下り、さっさと衣服を身につけ始めました。その様子を見て私はまた腹が立ってきたのです。もちろん、その女に対してです。幸いまだ灰皿を手に持っていました。私はその灰皿を女の洋服めがけて投げました。実際には、ベッドサイドのテーブルから、女の洋服に向かって灰皿落ちただけです。でも、それは普通ではありえない距離を飛んでいます。当然、女は驚きました。
『キャー、なんでこれがこんなに飛ぶの?。な、なによ!、何なのよ!』
女はあわてて洋服についた吸殻や灰を振り払うと、着替えもそこそこに転がるように部屋を出て行ったのです。残された主人はベッドに座ったまま茫然として言いました・
『お前なのか?。帰ってきてるのか?。なぁ、返事をしてくれよ。お前なんだろ?。今、灰皿を飛ばしたのはお前なんだろ?・・・。し、心霊現象だろ?。だって・・・あり得ないよな、灰皿があんなに飛ぶなんて・・・・。なぁ、お前が女を追い払ったんだろう?。』
主人は、力のない声でそう言いました。
『俺が悪かったよ・・・・。俺が悪かった。俺も寂しかったんだ。帰ってきてるんだろ?。』
主人は、ベッドに正座しなおしました。そして、語り始めたのです。
『お前が死んで・・・いなくなってから、俺はどうやって生きていけばいいのか分からなくなっているんだ。お前のやってたことは知っている。お前が死んだ場所も・・・・俺にとっては屈辱だけど、でも、俺は許せるんだ。全部俺が悪いのだから・・・。仕事仕事でお前を放っておいた俺が悪いんだ。俺の都合のいい時だけお前を連れ出し、あとは放りっぱなし・・・・。浮気されても仕方がないよな。俺だって、毎日のように接待だ何だと言っては銀座や六本木を飲み歩いていたんだから。華やかな女たちに囲まれて、浮かれていたんだから・・・・。そりゃ、腹が立った時もあったよ。この淫乱女め!と思ったこともあった。でも・・・・でも・・・なぜか責めることはできなかったんだ。その時はなぜだか自分でもわかっていなかった。俺自身も遊びまわっているから平等だ、くらいにしか思っていなかったのだろう・・・。だけど、お前が死んでから・・・・お前がいなくなってから初めてわかったんだ。俺はお前を愛していたんだと・・・・。心から愛していたんだと・・・・。こんなことなら、もっとお前を大切にすれば良かったと・・・・。いまさらこんなことを言っても信じてもらえないかも知れない。だけど、だけど、俺にとって女はお前だけなんだ。お前じゃなきゃ満たされないんだ・・・・。もっと早くに気付くべきだったんだ。すべては俺が悪いんだ・・・・。
お寺の住職にこっそり聞いたんだ。妻は死んだあとどうなるのですかって。住職は、ある程度事情を知っていた。まあ、こういう話はすぐに噂になるからね。浮気相手のところで死んだ妻、残されたみじめな夫・・・・。葬儀に来たみんなは、そう思ったに違いないし、実際そう噂をしていた。真相は全く違うのにね。住職もその噂話を聞いたのだろう。だからこういったよ。
『正直な話ですか?。・・・・そうですなぁ・・・奥様の場合、よくて餓鬼道、地獄も当然・・・ですかねぇ・・・。極楽へはちょっと無理でしょうなぁ』
『それは決定なんですか?。妻は地獄へ行ってしまうんですか?。もう一度、私のもとへ生まれ変わってくることは無理なんですか?』
『うぅむ・・・。私にはよくわかりませんがね、その・・・ちょっと待ってください。こういうことに詳しい友人のお坊さんがいますので』
その住職は、知り合いのお坊さん・・・なんでも霊感があるとかないとか、俺はそういうの信じてないんだけどね・・・で、その知り合いのお坊さんに電話で聞いてくれたんだ。
『彼が言うには、一生懸命供養すれば、地獄は免れる可能性はあるだろう。そばに生まれ変わってほしいのなら、状況的に人間としては無理だろうから、たとえば猫や犬など、畜生に生まれ変わらせてもらうことを願うことだ、とのことだったよ。しかし、あなたの奥さんは・・・・』
『いいんです。みんな誤解しているんですよ。妻はそんな悪い女じゃありません。こうなったのも、すべて私の責任なんです。あぁ、でも安心した。供養すれば、地獄へ行くことはないし、俺のそばに生まれ変わってくることも可能なんですね。ありがとうございます。和尚さん、今後とも妻の供養をお願いします。地獄へ行かなくて済むように、俺のそばに妻が再びやってくるように、ちゃんとお経をあげてやってください』
俺は、嬉しくって住職に頼んだのだよ。住職は言っていた。
『亡くなった方は49日が終わるまで、この世とあの世を行ったり来たりしている。奥さんがあなたのそばに帰ってくることもある。その時にあなたの気持ちを伝えるがいいでしょう』
だけど、俺はすっかりこの言葉を忘れていた。葬儀が終わり、初七日が終わり、そうこうしているうちに仕事は忙しく、気がついたら再び酒と女の日々が始まってしまっていた。こんなんじゃいけない、またお前は同じ過ちを繰り返すのか・・・・、そう何度も自分に言い聞かせたんだけど・・・、お前も知っている通り、俺って意思が弱いし寂しがり屋だろ、仕事のことはテキパキできるんだけど、それ以外は誰かがそばにいないと、全く駄目なんだよ・・・・。バカだよな、俺。だから、酒を飲んだ後、女を連れ込んでしまう・・・。でも、お前も見ただろ、どの女も怒って帰って行ってしまうんだ。そりゃそうだよな。その・・・最中に違う女性の名前を呼んで叫べば・・・・お前の名前を呼んで愛してるよって叫べば・・・、怒るのは当たり前だよな。どの女も『私は身代わりじゃない』っていうよな・・・・。
でも、今回が初めてだ、お前がそばにいるのを感じるのは。今までどうしていたんだい?。こっちに戻ってこれたんだろ?。あぁ・・・まさか・・・別の男のところへ行っていたのか・・・。それもそうだよなぁ・・・。あぁ、それとも、ひょっとして俺が飲んだくれて違う女と戯れているのを見て、さっさとあの世へ戻っていたのかなぁ・・・・。だとすると・・・俺は大間抜けな男だ。はぁ・・・・バカな男だ・・・・。
なぁ、何でもいい、合図をくれよ。電気を消したりとか、物を飛ばしたりとか、TVを破裂させるとか。よくそういう話きくじゃないか。本当にできるかどうかわからないけど、あの灰皿を飛ばしたんだ、なにか合図は送れるんだろ?。なぁ、頼むよ、お願いだ、お前じゃなきゃダメなんだよ・・・・。』
主人はベッドに泣き崩れました。」

誰も一言も発しなかった。ようやく五官王が言った。
「ならば・・・宋帝王の言ったことは・・・。」
「えぇ、本当でした。主人は私が地獄へ行くことは望んでいません。それどころか、私に戻ってきてほしいと願っています。今、主人の気持ちが痛いほどよくわかります。身代わりなんです。私も・・・・私も・・・・主人の身代わりを求めて・・・・浮気をしていたのです・・・・。主人は、そんな私を許してくれて・・・・。」
彼女は涙ながらに話していた。
「ならば、地獄へ行くことは・・・・。」
「いいえ、だからこそ当然地獄へ行くべきだと思うのです。これ以上、主人に甘えるわけにはいきません。私は、恐ろしく大きな罪を犯してしまったのです。邪淫・・・そんな程度の罪ではありません。私は、主人という、一人の人間を壊してしまったのです。この責任は・・・・地獄にでも行かなきゃ、償えないでしょ!。また、再び主人のそばに行くなんて、そんなことできません。これ以上、主人を苦しめたくはない!。どうか、どうか、お願いです。私を・・・・私を早く地獄へ・・・・。主人には私のことなど忘れさせて欲しい・・・・。お願いですから・・・・。」
再び、あの浮気女は泣き崩れたのだった。

「ふむ、そういうことですか。いやいや地獄へ行くのと、進んで地獄へ行くのとは、大きな差がある。まさにそのままですね。しかしねぇ・・・。うん、あなた、地獄ってどんなところか知っていますか?。」
五官王は、唐突にそんな質問をした。そうか、なるほどそうだ。今まで、我々死者は地獄へ行くぞ、これでは地獄だな、と言われてきた。中にはそう言われない者もいるが、多くは汝の罪は地獄に値する、みたいなことを言われてきている。死者はその言葉に怯え、勘弁してくれと懇願する。反省するからと・・・。しかし、地獄とはどんなところなのか、みんな知っているのだろうか。苦しい世界、だということは分かる。地獄、という言葉の響きがそう感じさせるし、なんとなく地獄は恐ろしいところである、ということは知っているからだ。しかし、具体的にどうされて、何をされて、苦しめられるのかはよく分かっていない。昔話に、血の池だの、針の山だの、鬼が切り刻むだの、とあるが、その程度の知識しかないのだ。ただ、鬼がいて、苦しめられるのだろうな、というイメージでしかない。こうして、地獄の苦しみを知っているのか、と問われれば、具体的には湧いてこないのだ。生きているときのほうが辛いことだってあるかもしれない。
地獄は恐ろしいところ、という固定概念だけが先行してしまっている。
果たして、彼女は何と答えるのだろうか・・・・。

「じ、地獄って・・・・その・・・とても苦しいところで、鬼が追っかけてきて、私たちを捕まえて、血の池へ放り込んだり、針の山へ投げたり・・・そういう所じゃないかと・・・・。」
やはり、彼女も同じイメージの地獄なのだ。おそらくほとんどの日本人がそうイメージするだろう。
「まあ、そんなものでしょうねぇ、あなたたちのイメージは。まあ、それはそれでいいのですが、そもそも地獄とは、その人にとって最悪な場所、であらねばならないのですよ。その人が犯した罪の償い場所ですからね。ですから、その人が最も苦しいと思うようなことをされなければ地獄ではないはずでしょ。たとえば、鬼に追いかけられる・・・これは確かに怖いでしょう。でも、誰もが怖いですかねぇ?。中には、それこそ鬼ごっこだと思えばいい、と開き直り、楽しむ者も出てくるのではないですか?。針の山でもそう。肉体的に苦しいだけで、それよりももっと辛いことだってあるんじゃないですか?。犯した罪は違うのに、誰もが同じ責め苦に遭うのはおかしいでしょ。あなた、針の山に刺されて苦しいですか?。」
なんだか、間抜けな質問である。五官王は何が言いたいのだろう。苦しいに決まっているだろうに・・・・。
「はぁ・・・きっと痛いとは思いますし、苦しいと思いますが・・・・。」
「そうですか?。それよりももっと苦しいことがあるのではないですか?。」
「もっと苦しいこと・・・・・あっ。」
「そうでしょ。そんなことをされたら、それこそ地獄の苦しみでしょ。地獄とはそういう世界なのですよ。あなたはきっと、地獄という監獄のような世界を想像しているでしょう。で、そこに入れば、辛いことから解放される、そう思っているのでしょ?。だからこそ、進んで地獄へ行こうという気になるのです。確かに、自分の犯した罪の重さは分かっているでしょう。でも、その罪に見あった地獄というのなら、あなたが最もされたくないことになるのですよ。それでもいいのですか?。それでも地獄へ行きたいのですか?。」
なるほど、そういうことだったのか。地獄よりも苦しいことだってあるのだ。いや、そうじゃない。それでは順序が逆だ。最も苦しいことをさせられるのが地獄なのだ。

針の山に刺されたり、鬼に追いかけられたり、金棒でつぶされたり、血の池に放り込まれたり・・・・それが地獄だと思っていた。生きているときに犯した罪により、そうした罰を受けるところが地獄なのだと、そう思っていた。しかし、考えて見ればそれはおかしいとすぐにわかる。人が犯す罪は人それぞれだ。それに対して一律に同じ罰が与えられるのは、ちょっと変であろう。中には、
「あぁ、よかった肉体的苦痛を与えられるだけで・・・・」
と思う者もいるかもしれない。ちょっと聞いた話だが、地獄では何度も何度も殺されるという。するとそのうちに、「また殺されるんだ」と予測がついてしまい、恐怖心がなくなるのだそうだ。それでは、地獄の意味がなくなってしまう。地獄が地獄でなくなってしまっては、地獄の役割を果たさなくなる。地獄とは、生前に犯した罪に見合っただけの苦しみを与えられる場所でなければならないのだ。ならば、その罪を犯した者にとって、もっとも辛く苦しい罰が与えられるはずである。
となれば、彼女にとっての地獄とは、当然ながら鬼に追いかけられたり、針の山に投げられたりすることではないだろう。彼女にとっての地獄とは、旦那のそばにいさせられ、旦那がほかの女を抱き、彼女の名前を叫んで女を怒らせ、惨めな姿をさらす、その場面を見させられることであろう。ならば・・・。
「そ、そんなことは・・・・とても・・・嫌です。」
浮気女は、そう言って五官王を見つめたのだった。

つづく


バックナンバー(二十二)


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