バックナンバー(二十五)    第百三十話〜第百三十五話

「どうした聞新。答えてみよ。さぁ、どうなのだ。そうしたことは深い罪なのか?。地獄へいかねばならない罪なのか?」
閻魔大王がニヤニヤしながら俺の方を見つめていた。どうやら、これはからかわれているようだ。ならば・・・・。
「そ、そんなことはわかりません」
「そうだ、それでいい。今、わしが言ったことは、罪なのかどうか、厳罰を受けるべきなのかどうか、一概に答えが出せないことなのだ。いいか、聞新、ここではな、罪について厳密な判断をしているわけではない。こっちの世界に来てからのことを振り返って考えてみよ」
そういわれて、俺は死んでからこっちのことを振り返ってみた。そうだ、最初は不動明王が怖かった。しかし、確かに厳密に罪を裁かれたわけではない。多くの者が、次へ進むことが許された。否、むしろその場で地獄だ、と言われた者はいない。次は、三途の河だ。これは大雑把だ。船か、橋か、浅瀬か、深いところか、の違いしかない。身につけていたものを奪われ、木に掛けられた時も大雑把だった。罪が重いか軽いか、だけだ。それからも・・・・そう、厳密に細かく、これが罪でそれは罪ではない、という罪の整理は行われていない。どれもこれも、大雑把である。
「た、確かに、今まで細かく罪について追求されたことはありません。意外に・・・大雑把でした」
「そうであろう。だいたい、人間、生きている以上、仏様の教えにある戒律に触れることはある。つまり、何らかの罪は犯すものだ。しかし、それが果たして本当に罪なのかどうかは、状況を見てみないとわからない。よいか、聞新、自分のしてしまったことが罪なのかどうか、それを決めることができるのは、実は本人だけなのだよ。他の誰も判断できないことなのだ」
「どういうことですか?」
「そうだのう・・・。極端な例を話してやろう。極端な例だから、誤解するなよ。
たとえばだ、ここに何人もの人を殺してしまった者がいるとする。普通は、そういうものは地獄行きだな。大きな罪を犯してしまったからな。しかし、その者に『人を殺すことは悪いことである、罪なことである』という認識が一切なかったらどうなる?。その者は、人を殺していいか悪いかの判断がつかないのだ。その場合はどうなるか?。本人に罪の意識がない以上、それは罪だ!と責めても理解できないだろう?。周囲の者は、当然のことだが、地獄行きだ!というだろう。しかし、当の本人は、なぜ地獄へ行かねばいけないのか、理解できないであろう。罪の意識がないからな。他人の判断の押しつけなど、意味をなさないのだよ」
「で、では、その者は地獄へはいかないのですか?」
「いや、そんなことはない。その者は地獄へ行く。なぜだかわかるか?」
俺は、さっぱりわからなかった。なので、黙って首を横に振った。
「それはな、人を殺せば、こんなにも苦しいことだ、人の命を奪うことはものすごく苦しいことだ、ということを認識させるためだ。つまり、人を殺してはいけない、ということを教えるために地獄に行くのだよ」
なるほど、悪いことを教えるための教育機関ということなのだ。それが地獄の役割なのだ。ならば、もし、その者が、罪の意識を持っていたら・・・。俺は、それについて閻魔大王に質問した。
「もし、その、人を殺してしまった者が、罪の意識を持っていて、深く反省していたならば、地獄へはいかないのですか?」
「そんなことはない。地獄へ行く・・・・。おや、不服そうだな。よく考えてみよ、その者が、本当に反省をして、心から悪いことをした、人の命を奪ってしまった、申し訳ないことをした、と思っているならば、自ら地獄へ行くことを望むであろう。もし、地獄へ行くことを自ら望まないのなら、それはウソの反省なのだ。ウソはいかん。ウソの反省は、反省をしないより悪い。反省しているフリというのは、反省しない者よりもタチが悪い」
そう言えば、過去の裁判でも同様のことが言われていた。こっちの世界での裁判・・・死者の裁判・・・は、罪を裁くことを目的としてはいない、罪かどうかを認識すること、そして反省しているかどうかを問うているのだ・・・・と。そうなのだ、だからこそ、罪なのかどうかは本人しか判断できない、と閻魔大王は言うのだ。すなわち、七回の裁判を通じて、己の生きてきた道をよく振りかえり、何がよくて何が悪かったのか、それをよく考えよ、と言っているのだ。その上で、己で判断せよ、というのだ。
「どうやら、納得いったようだのう。そういうことだ。生まれ先が決まるまでに、己をよく振りかえり、己自身をよく知ることが大切なのだ。それができない者や、途中で放棄してしまう者、自己判断が困難だと思われる者は、自ずと消えていく。裁判の途中でいなくなっていくのだ。つまり、最後の判決を待たずして、地獄へ行ってしまうのだよ。何が罪なのか、教えるためにね」
閻魔大王は、そういうと、どうだといわんばかりの顔で、ニヤついていた。

つまりだ、たとえば、よかれと思ってやったことが裏目に出て大きな迷惑をかけたとしても、他者を助けるために別の者の命を奪ってしまったとしても、悪いことと知りつつもそれを行った結果万事がうまく回るようになったとしても、どれが罪でどれが罪でないかは、誰にも判断できないことなのだ。それは、自分自身で認識することなのだ。
よかれと思ってやったけど、かえって悪いことをしてしまった、申し訳ない・・・と反省するのか、よかれと思ってやったことだから俺は悪くない、と言い張るのか、その違いなのである。
他人を助けるために、どうしても別の者の命を奪うはめになってしまったことに対し、悪いと思うか、仕方がないと思うか、何とも思ないのか、それは己でしか判断できないことなのだ。
悪いことと知りつつ行ったことが、結果的に万事うまくいくこととなったとしても、そこに罪の意識があるのか、結果が良かったのだから帳消しさ、と開き直るのか、それはそれぞれの考え方によるのだ。
そして、ここが分かれ道なのである。悪いことは悪いこととして、認めるかどうか、なのである。とうことは・・・・。
「わかりました。カエルの命を奪ったこと自体は、悪いことです。私は快楽のためにカエルの命を奪いました。それは悪いことでしょう。たとえ、その結果、仲間意識や命に対する罪の意識が生まれたとしても、それは結果論であって、カエルの命を奪ったこととは関係のないことです。罪は罪、ですね。子供のころのいたずらにしてもそうです。迷惑をかけたこと自体は、罪なことです。それが、健全な成長過程であったとしても、そこは反省すべきでしょう。恥ずかしいことをしたのだ、という認識は持つべきでしょう。そんなのは罪じゃない、と開き直るのは、筋が違うんですね」
「そういうことだ。ようやく理解できたな。反省と結果は別問題だ、ということだ。そういう考えで言えば、よかれと思ってした行動が悪い結果になった、という場合、よかれと思った行動をもっと深く考えるべきだった、こういう結果も予想の範囲に入れておくべきだった、と反省するのが正解なのだ。他人を助けるために第三者の命を奪ってしまったならば、理由はともあれ、命を奪ってしまったこと自体を反省すべきなのだ。むしろ、理由などどうでもいいから、命を奪ったこと自体を反省しなければいけないのだ。不倫をしたら、途端に家庭仲が良くなった、という場合でも、不倫自体は反省すべきことなのだ。結果は、別問題である」
なるほど、だからこそ、こっちの世界での裁判は、厳密ではないのだ。反省しているかどうか、を問われるだけなのだ。罪かどうかを認識しているか、それを問われるだけなのだ。どこまで、己を深く見つめることができ、どこまで己の良い点悪い点を認めることができるか、そこが問題なのである。
だから、ウソの反省はいけないのだ。それは、自分をごまかしていることになる。本当の反省ではないのだ。なので、閻魔大王は、「ウソをつく者は舌を抜く」といって、脅すのである。
「よく理解したな。前の強欲じいさんはな、それがわかっているのだ。だから、すべて自分の罪だ、と認めることができるのだよ」
「はい、よくわかりました・・・。ところで、その深い反省をしていた場合、地獄は免れるということはあるのですか?」
たとえばだ、他人を助けるために第三者の命を奪ってしまい、そのことを深く反省し、もっと方法があったのではないかと模索して、さらには死の世界に来てからも地獄行きは当然です、と心より受け入れてしまう者は、地獄を免れるのだろうか?、と俺は疑問に感じたのだ。
「地獄が免れるかどうかは、それはわからん。わからんが、真実の反省ができているのならば、おそらくは免れるであろう。たとえ地獄に落ちたとしても、極々軽い地獄だろうなぁ・・・」
「それは、閻魔大王でもわからないことなのですか?」
「わからんのう。最終的には、自己判断だからな。ま、最後まで行けば、その意味がわかる」
閻魔大王は、そういうとむっふっふと笑ったのだった。その時であった。優しく温かい声が聞こえてきた。それはお地蔵様であった。

「聞新よ、仏様の教えは厳罰主義ではない。それは聞いておるな。仏教は、懐が深いものだ。現世で言われているような、罪だとか罰だとかといったことは、あまりないのだよ。仏教で大切なことは、己を深く見つめ、己の心をよく知ることなのだ。簡単にいえば、子供のときは判断できなかったことでも、大人になればやっていいかどうかの判断ができるようになる、それが分かればいいのだ。大人になっても、子供のときと変らず、やっていいかどうかの判断を誤るのが罪であろう。そして、それが罪である、罪であったと認識できればいいのだよ。罪を罪として受け入れることが大切なのだ。心より受け入れることができれば、問題はないのだ。ということは・・・わかるな」
そういうと、お地蔵様はにっこりとほほ笑まれたのだった。俺は、慌てて
「は、はい、ありがとうございます。わかります」
と答えていた。
「よいか聞新。仏様は、なにも責めたりはしない。罪だ罪だ、と責め立てたりはしないのだよ。仏様は、現代の人間の生活がいかに生き難いかもよくわかっていらっしゃる。まあ、それはいつの時代も同じであるが、仏教がその本質を忘れられ、罪と罰のみが強調されている今の時代は、実は仏様にとっては不本意なのだよ。罪の意識を持つことは大事だが、仏教はそれだけではない。むしろ、罪と罰に関しては、小さなことなのだ。大切なことは、一生懸命に生きることにある。その中にあるのだ。そこを勘違いしてはいけないよ」
お地蔵様の言葉は、心の奥に染みいるように俺の中に入ってきたのだった。
「お地蔵様の言葉が聞けてよかったのう、聞新よ。とうことで、お前の裁判を終わる、次へ進め」
閻魔大王は、、あさっりとそういうと、早く行け・・・と顎を振ったのだった。しかし、俺にはそう簡単には動けない事情がある。そう、他の人の裁判を傍聴しなければならないのだ。いや、傍聴したいのだ。特に・・・・そうあの浮気女がどうなるか、それが知りたかった。
なかなか立ち上がろうとしない俺に閻魔大王は、睨みつけて言った。
「お前の魂胆はわかっている。しかしなぁ・・・、ここはプライバシーの問題もあるしなぁ。しかも、あの鏡を他人のお前に見せるわけにはいかんだろうし・・・・。妙に変な気持ちを起こさせてもいかんしなぁ・・・・」
プ、プライバシー?、死者にプライバシーがあるのか?、と思ったが、確かに、浄玻璃の鏡を見てしまうことは問題があるかもしれない。その人の過去を見てしまうことのなるからだ。あの浮気女の場合は、特に問題があろう。男女の絡みのシーンなどが数多く出てくるに違いない。それは、やはり俺が見ていいものではないだろう。
「そうですねぇ・・・ちょっとヤバいですよねぇ・・・。今回は、傍聴は無理ですねぇ・・・」
「なに?、傍聴?・・・あぁ、そうか、いやいや、聞くだけならかまわんだろう。鏡を見るのは問題があるが、聞くだけなら大丈夫じゃ。お地蔵様、よろしいですね?」
閻魔大王は、あっさりと傍聴を認めたのだった。そうなのだ、鏡さえ見なければいいのである。話を聞く分には問題はないのだ。なので、当然ながらお地蔵様もにっこりとうなずいたのだった。
「許可が出たぞ、聞新。そうじゃのう、わしの机の下にでもいるがよい。この机は大きいから、お前が隠れるくらいは余裕だ。そういうことならば、ここを出たふりをして、こっそり机の下に潜り込むがいい」
閻魔大王は、さっさと勝手に段取りをしてしまった。尤も、俺はその方がありがたい。なので、馬頭に連れて行かれるようなふりをして、途中からこっそりと閻魔大王の机の下に潜り込んだのだった。

「次、通普信士、前に出ろ」
馬頭の声が響いてきた。そうか、あの普通のじいさんがいたんだ。あまり目立たないから忘れ去られてしまうキャラだ。が、しかし、前の裁判では突っ込んだ質問をしたように思うが・・・、今回は閻魔大王になんと言うのだろうか。
ごく普通のじいさんは、閻魔大王の前に座ったようだ。俺は机の下のいるせいで、じいさんの表情は見えなかった。
「さて、これより汝の裁判を始める。まずは、これを見てもらおう」
閻魔大王は、じいさんに鏡を見るように指示した。きっとあのじいさんも、それなりに罪を犯しているのだろう。さて、じいさん、自分の罪を認めるのだろうか。
「さぁ、どうじゃ、今見たことは、すべて汝が行ってきたことか?」
「はい、すべて私がしたことです。こうしてみると、小さなことまで含めると、結構、罪なことをしているんですなぁ。こんなに悪いことをしていたとは・・・・忘れていることも随分とありました。懐かしい・・・こともあります」
「そうか、すべて自分がなした罪だと認めるか」
「はい、あれはまぎれもなく私ですからな。作りモノではありません。罪かどうか、それはわかりませんが、すべて私がしたことには違いありません。忘れてしまったこともありますが・・・・」
「ふむ、素直でよろしい。しかし、これだけの罪を犯したとなると・・・ほう、前回の裁判では人間界を指し示したのか・・・ふむ、しかしのう・・・」
「次の生まれ変わり先は、人間界ではないのですか?。では、前の裁判はウソだったのですか?」
「いやいや、そういうわけではない。ふむ、供養もちゃんと届いているか。どうしたもんかのう?」
どうも閻魔大王、芝居がかっている。しかし、鏡を見ている時間はあまり長くはなかった・・・ように思う。前の裁判でもそうだったように、このじいさん、ごく普通の生活を送ってきたようで、罪を犯すこともあまりないはずだ。となると、閻魔大王のお決まりの文句「地獄だな」が使えないのではないか。それで悩んでいるふりをしているのだろうか。供養も届いているのだし、何も無理して時間を引き延ばす必要はないだろう。閻魔さん、いったい何をやってるの?。俺は、ちょっとイライラし始めていた。
「閻魔よ、この者は罪の数も少なく、またその内容も深いものではない。供養も届いているのなら、次へ進ませるがよいではないか」
お地蔵様の声が響いてきた。ナイスお地蔵様!である。
「はぁ、そうですねぇ、お地蔵様のおっしゃる通りで・・・。しかし、今一度確認をしておく。汝、先ほど見たこと、すべて自分のやった行為と認めるな?」
「はい、認めます」
「悪いことをした、と思っておるな?」
「はい、悪いことをした、と思っています。随分と迷惑をかけていたのだな、と今初めて気が付いたこともありました。そんなに悪いことをした意識はないのですが・・・。私には、悪意などなかったのですが、向こうはそうは受け取ってはないようで・・・。仕方がないですなぁ。相手方が迷惑だと思っていたとは・・・。ちょっと・・・悲しいですなぁ・・・・」
どうやら、じいさん少し涙ぐんでいるようだ。おそらくは、じいさんは悪気はなかったが、相手は迷惑だと思ったことが映し出されたのだろう。つまり、じいさんはよかれと思ってしたことなのに、相手には迷惑なことだったのだ。そのことに生きている間は気付いていなかったのだ。じいさん、ちょっとショックを受けたのだろう。
「ふむ、認めるのだな。そうか、ならばよい。では、通普信士、次へ進むがよい」
閻魔大王がそういうと馬頭がじいさんの方へと歩いていった。きっと、じいさんは閻魔大王に頭を下げ、馬頭に付き添われ、閻魔堂の外に出ていったのだろう。響いていたおとなしい足音がやがて消えたのだった。

馬頭の声がした。
「次、釋尼妙艶信女、前に出ろ」
ついに俺が最も聞きたかった、浮気女の裁判が始まるのだった。


「釋尼妙艶信女、これより汝の裁判を行う。まずは、これを見てもらおう」
閻魔大王は、いつものように浄玻璃の鏡を見るように、浮気女に言った。彼女の様子がどのようなのかは俺からは見えない。その表情を俺はすごく見たかったのだが、それは叶わぬことだった。
彼女は、閻魔大王には何も答えず鏡の方を向いたようだった。時折、「あっ」とか「あぁ・・・」とか「はぁ・・・」とか言った声が聞こえてくる。しかし、しばらくして・・・。
「おい、ちゃんと見ないか。目をそらすではない」
という閻魔大王の声が聞こえてきた。それとほぼ同時に、彼女の泣き声が聞こえてきたのである。
「もうわかりました。止めてください。お願いです、これ以上・・・あぁ・・・」
あとは、泣き声だけであった。
「妙艶、これくらい見られないようでは、地獄へはいけないぞ。地獄に行けば、もっと嫌なものを見ることになるぞ。しっかり見るのだ。汝がしてきたことであろう」
閻魔大王の太い声が響いてきた。
きっと、彼女はうつむいて泣いていたのだろう。とても見るに耐えられないのだろう。それはよくわかる。ただでさえ、自分が行ってきた恥ずかしいことを見せられるのだ。普通の人でも目をそむけたくなる。彼女場合は、余計にそうであろう。浮気を幾度となく繰り返してきたのだから、それは見られたものではない。自分の浮気の状況、ベッドシーンなど目をそむけたくなって当然だ。まともに見ることができるほうがどうかしている。
しかし、閻魔大王は見ろ、という。目をそむけるな、という。それもよくわかる。本当に反省しているならば、己が罪をしっかり見ておくべきであろう。そして、心より反省するのだ。それが、この裁判の目的なのだから。
が、しかし、彼女のしてきたことは、あまりにもひどいことだ。果たして、彼女はまともな精神・・・魂・・・を保ったまま、あの鏡を見ることはできるのだろうか・・・・。俺は、心配になってきたのだった。

しばらくして、閻魔大王の声が響いてきた。
「今、見てきたことはすべて汝が行ってきたことに間違いはないか?」
すぐに答えはかえってこなかった。
「どうした?。なぜに答えぬ?。答えられぬのか?」
閻魔大王の声は、少し大きくなった。やや怒気を含んでもいる。
「は、はい・・・・。今、見たことは・・・・・すべて・・・私がした・・・ことです」
彼女の声が、とぎれとぎれに聞こえてきた。その声は、ぐったりと疲れたような声だった。
「ふむ、認めるのだな。しかし、これほどのことを行ってきたとなると・・・・、汝は地獄行きだが、それも認めるな?」
「はい、認めます。地獄行きです。当然です」
何か変な感じがした。どうも彼女の答え方に違和感がある。なんというか、ハキハキしていないというか、力強さがないというか・・・あぁ、そうだ、生きているような感じがしないのだ。
否、死んでいるのだから当然だろう、と思われるかもしれないが、死んでいても生命力というものはあるのだ。生きているときと同様、裁判官とは受け答えをしている。ごく普通の会話ができるのである。そこには、死んでいるのだけど、生きている感があるのだ。しかし、今の彼女にはそれがあまり感じられない。どうもなげやりな気がする。
「それは本心からの言葉・・・かな?」
さすがに閻魔大王も気付いたようだ。
「よいか、注意をしておく。わしの前でウソはいかんぞ。わしはウソが大嫌いだ。わしは心からの言葉、本心からの言葉しか聞かない。ウソをつけば、汝の舌をこの場で抜かねばならない。ふん、まあ、死者だからな、肉体はないから舌を抜こうにも抜けぬがな・・・。これはたとえ話だ。舌を抜くということは、汝から言葉を奪うということだ。それがどういうことかわかるな」
そ、そうか・・・。俺は今の今まで考えもしなかったが、舌を抜くことなんて初めからできないんだ。「ウソをつくと舌を抜くぞ」という閻魔大王の定番の脅し文句は、実は舌を抜くことではなく、言葉を奪うことだったのだ。俺はなんてバカだったんだ。我々死者には肉体なんてないから、初めから舌を抜くことはできないじゃないか。そんなことに今まで気がつかないとは!。
俺は、己の愚かさを呪った。もっと早くに気がついていれば、「言葉を奪う」ということに関して、もっと詳しく聞くことができたのだ。大失敗である。
「さぁ、答えよ。地獄へ行くと望むのは、それは本心からか?」
閻魔大王の声が厳しく響いたのだった。

「本心か?・・・・ふん・・・・だって・・・・地獄に行くしかないでしょ。他にどこに行けっていうんですか?。これ以上苦しいところなんて・・・。そう、私にとって・・・今が地獄です」
彼女はそういうと、泣き崩れた・・・ようだった。
「そうか、今が地獄か。確かに、汝にとっては裁判を受けること自体が地獄であろう。己の犯してきた愚かな行動を見せつけられ、現世に戻れば夫の・・・汝が最も愛する人の言動を見せつけられ、さらにはその男の本心を・・・・」
「止めてください!」
彼女はそう叫んで閻魔大王の言葉をさえぎった。
「もう、それ以上は言わないでください。何もかも私が悪いのです。あの人の心に気がつかなった、あの人の本心を理解できなかった・・・私が悪いんです。彼は・・・悪くない。だから、どんな罰でも受けます」
「よいか妙艶」
閻魔大王の声が急に優しくなった。
「汝は、救われたかったはずじゃなったのか?。五官王の裁判で汝は救われたいのだ、と叫んだそうじゃないか。その時の気持ちはどうなったのだ?。その時の汝はどこへ行ったのだ?」
そういえばそうである。俺も今の今まで忘れていたが、彼女の本心は「本当は救われたい」というものだったはずだ。自分ひとりが地獄へ行けばいい・・・というのは、地獄へ逃げているだけだ、と指摘されたはずだ。確か・・・そう、旦那のもとにいるペットに生まれ変わる可能性もあるのだと指摘されたときだ。しかも、宋帝王からは、旦那も決して彼女を恨んではない、憎んではいないと教えられているはずである。そんな状況で、旦那のもとにペットとして生まれ変わり、旦那の堕ちていく姿を見せつけられることもある、と言われていたのだ。そして、彼女は、それには耐えられない、と正直に告白し、本当は救われたい、と望んだはずだ。それなのに、今また地獄へ行くことを望んでいる。それはいったいなぜなのだ・・・・。
「わかっています。私も本当は救われたいのです。心の安らぎが欲しいのです。本当は・・・私が一番望んでいたもの、生きているときから望んでいたもの、それはお金でもなく、モノでもなく、男の肉体でもなく、快楽でもなく、ちやほやされることでもなく、愛する人からしか得られない心の安らぎ・・・・なのです。でも、どこでどう間違ったのか・・・どこで歯車が狂ったのか、私は私の望むものを見失ってしまった」
「それは汝の旦那の責任でもあったのではないか?。仕事に明け暮れ、汝を顧みなかったから・・・ということだったのではないか。汝の気持ちに気付かず外ばかり見ていたから・・・という理由からではなかたっか。だから、あのようなことをしてしまった・・・それが汝の主張ではなかったか?」
「はい、初めは私もそのように言っていました。でも、こっちの世界に来てから、これまで受けた裁判を通して、私は私の愚かさを知りました。また、私が亡くなってからの夫の姿を見て、私は自分の勝手さや我が儘を嫌というほど知りました。夫は、本当に心から私のことを愛してくれていたのだと知りました。私のことを恨んだり、憎んだり、恥だと思ったりしていないと知りました。それは嬉しかった。本当に救われた気分だった。許されたと思った。心がとっても安らぎました。でも・・・それも私の勝手な気持ちにすぎません・・・・。私は救われたい。でも、救われていいのでしょうか?。あんなことをした私が救われていいのでしょうか?。夫を苦しめた私だけが救われていいのでしょうか?。これでもし私が救われたなら、私は夫にどう償えばいいのでしょうか?。もう私は生きていないのです。どうやって罪の償いをすればいいのですか?。そう思ったとき、すべてを受け入れる決心がつきました。私は救われてはいけない、と。私が救われるのは、もっともっと先なのだと。そう思っていました。で、今、再び自分の犯してきた愚かな行動を見せつけられ、やはり自分が救われる道は地獄しかないのだと悟ったのです。地獄へ行くのは本心か?・・・モもちろん、本心ではありません。できれば地獄ではなく、あの人のもとへ帰りたい。あの人のもとへ帰って、私一人だけを愛して欲しい・・・・それが本心です。でもそれは叶わぬことでしょう。いいえ、私はそれを望んではいけないのです。そんな身勝手な、そんな我が儘が通用するはずはありません。それが通るなら、世の中悪いことはし放題です。私の望みは、決して叶わぬことです。ならば、せめて・・・せめて罪の償いだけはさせて欲しい。それがどんなにつらくとも、どんなに苦しいことであっても、今の苦しさには比べれば、なんていうことはない・・・・。逃げている・・・そう言われるかもしれません。もし、そう言われるなら・・・私はどこにも生まれ変わらず、このままの状態で苦しんでいたい。それが私の救いなのです。私が望んでいる救いとは、私への厳罰です。せめてもの償いができることが、私が救われることなのです。だから、地獄へ・・・どうか地獄へ行かせてください」
彼女が行きついた結論は、そういうことだったのだ。

心から反省をしている者、地獄へ行くことに何のためらいも持たぬ者、そうした者は果たして地獄へ行くのか?
俺が抱いていた疑問である。閻魔大王は、そうした場合、地獄へ行くかどうかはわからない、と言っていた。いくら地獄へ行くことを望んでもいけない場合もあるのだ。最終的には自己判断らしい。なにをどう判断するのか、よくはわからないのだが・・・・。
しかし、これは大変難しいケースであろう。彼女は生前罪を犯した。それも深い罪だ。それを生きているときに清算せずに死んでしまった。つまり、こっちの世界に来てしまった。で、これまでの裁判を通じ、彼女は己の罪の深さ知った。さらには、彼女に罪を犯させる原因となった夫が、実はいい人であって、彼女は大きな勘違いをしていた、ということも知った。彼女が望んでいたものを本当は夫は持っていたのだ、ということも知った。すべては彼女の勘違い、理解力のなさ、勝手さ、我が儘から生まれた罪だったということも知った。で、彼女はその罪の償いのため、地獄へ行くことを望んだ。が、地獄へ行っても救われないのだ、心の安らぎは得られないのだと知った。仏教は、単に地獄へ落とすのが教えではなく、心に安らぎを与えるのが仏教の本質であると裁判官たちに諭され、心の安らぎを望んでいいのだ、ということも知った。しかし・・・。
そう、彼女の心の安らぎとは、絶対に得られないものだったのだ。いや、得てはいけないもの、なのだ。なぜなら、彼女の心の安らぎとは、夫のもとにいること、なのだから。それは決してしてはいけないことである。もし、その望みを叶えるとしたら、彼女は幽霊となって、元夫のそばにいるしかないのだ。それは許されないことである。というか、やってはいけないこと、禁じ手だ。それを閻魔大王をはじめ、裁判官たちが認めるはずはない。認めてはいけないことなのだから。それも、彼女はわかっているのである。
じゃあ、どうすればいいのか。次に彼女の望むのは何か、そう考えた時、彼女が行きついたのは、罪の償いだった。結局は、地獄へ行くことである。それは彼女にとっては不本意ではあるが、仕方がないことなのだ。他に選択の余地はないのだから・・・・。
そうと決めてしまえば、早く地獄に行った方がいい・・・そう望むのは当然である。宙ぶらりんの状態で、反省しろ、反省しろ、わかっているのか、おまえは罪を犯したんだぞ・・・と言われたって、面白くないだけである。イライラするだけである。他に選択の余地はないと悟って、自ら地獄へ行くことを是とした者にとって、この裁判は辛いだけだ。否、茶番である。強欲じいさんのように、すべてお任せ致します・・・という境地に至れば、話はまた別なのであろうが、彼女の場合は、本当に望んだ結果ではない決意をしたのだから、蛇の生殺し状態はやめて欲しいと思うのは当然であろう。不貞腐れた様子で「地獄へ行きます。行かせてください」というのも納得ができるというものだ。
さて、閻魔大王はどう答えるのであろうか・・・・。

「妙艶、汝にとって、結論の出ない、今の状態は辛かろう。それはよくわかる。できれば、さっさと地獄に堕ちて、己の犯した罪の清算に入りたいであろう。そして、汝は、こうも思っているだろう。『どうせ地獄へ落ちるのだ、私には地獄しか行き場所がないのだ、所詮、行きつく先は地獄なのだから、早く結論を出して欲しい。いくら裁判をやっても結果は同じなのだから・・・・』とな。しかし・・・・」
閻魔大王は、そこで目を閉じた。目を閉じたまましばらく黙っていたが、再び目を開き、話し始めた。
「しかし、汝は本当は不貞腐れているだけではないか?。そうであろう?。それは心からの反省とは言えないのではないか?。そんな状態では地獄に落としてやるわけにはいかないな。罪の償いをさせて欲しい?。果たして地獄に堕ちて、罪の償いができるのだろうか?。それは・・・汝も言っていた通りに逃げではないのか?。もっとよく考えよ。もっと深く己の心を見つめてみよ。もっと己をさらけ出してみよ。そうでなければ、地獄へ行かせてやれぬ」
閻魔大王は、そう言って意地悪そうに彼女を見たのだった。
しかし、それは酷な話ではないだろうか・・・。いい加減、しつこくないだろうか?・・・。じゃあ、どうせよ、というのだろうか・・・・。俺がそう思った時、
「じゃあ、私はどうすればいいのですか?。あの人に元にも戻れない、地獄へも行けない・・・・。じゃあ、私はどうしたらいいのですか?。どこに行けばいいのですか?。どうやって償いをすればいいのですか!」
と彼女が叫んでいた。当然だ、誰だってそう思うだろう。彼女の叫びは、本心からのものだろう。何もそこまで追い詰めなくてもいいと思うのだが・・・・。

「何も汝が罰を受けることだけが、償いではないのだよ」
そう優しく声をかけたのはお地蔵様だった。その声は、砂漠のような心に潤いを与えてくれるような声だった。まるで、やわらかい真綿にくるまれているような安心感があった。
「地獄に行くことだけが償いではないのだよ」
お地蔵様は、再びそう言ったのだった。


「地獄に行き、苦しい罰を受ける・・・・それだけが償いではないのだ。いや、汝の場合、それは自己満足にしか過ぎないものになるのではないか?。本当の償いとは、汝が罰を受けることだけだろうか?。罰を受ければ償ったことになるのだろうか?。さて、妙艶よ、どう思う?」
優しい声だった。優しい声だったが、お地蔵様が言っている内容は、結構キツイ内容に思う。いお地蔵様が言ったことを言いかえるなら、「地獄へ行けば、お前はホッとするだろう。しかし、それでは罪の償いにはなっていないのだよ。よく考えなさい」と言っているのだ。これではどうすればいいのか、わからなくなってくる。
たとえば、ここに人の命を奪ってしまった者がいたとする。その者は、心から反省し、罪の償いをしたいと思う。その結果、裁判で決められた刑期を一切不平を言わず受け入れる。いや、むしろ、死刑でもいい、死刑の方がいい・・・とさえ思う。しかし、そういう判決は出なかったので、その者は静かに刑に服した。が、それで被害者側は、満足するのだろうか?。本当に償いになっているのだろうか・・・・。
そう考えれば、本当の償いなんてできないのではないか、と思えてくる。自己満足での罪の償いは、あくまでも自分のための罪の償いであって、本当の罪の償いにはなっていない・・・。そこを理解して罰を受けなければ、いくら地獄に行っても、償ったことにはならない。お地蔵様は、そういいたいのだろうか。そこまで考えろ、と言いたいのだろうか。
確かに、今の彼女の精神状態で地獄へ行くならば、それは仕方がなく地獄へ行ったことになる。自分を責める苦しみから逃げるために罰を受けたこととなる。それでは、償いにはならないのだ。償うとは、被害者側・・・彼女の場合は夫だが・・・が、もういいよと許して初めて成立することであろう。
ということは、彼女の場合、もう夫は許しているのだから・・・・、あぁそうか。お地蔵様は、「もういいのだ」といっているのだ。彼女にとって本当の償いとは、幸せになることなのだ。夫はそれを望んでいる、ということなのだ。そこに気付け、とお地蔵様は言っているのである。

その時であった。俺の魂に直接声が響いてきた。
『見事だ。その通りである。聞新、よくわかったな。償うというのは、相手の許しを得ることなのだ。それまでは、どんな苦しみをも受けると覚悟を決める。それしか償いへの道はないのだな。だから、深い罪を犯した者は地獄へ行くのだよ。地獄で厳罰を受け、これが償いである、と理解し、ひたすら許しを乞う・・・それが償いなのだよ。そして、罪が許された瞬間、償いが終わるのだ。かの女性の場合、すでに夫は許している。むしろ、苦しまないで欲しいと望んでいる。ならば、その通りにしてあげることが、償いになるのだ。まあ、あの者は自分を許してくれる夫が理解できないようだし、何も罰を受けないということの方が、かえって苦しいことになるのだろうが・・・。罪と償い・・・難しいものよ・・・・』
それはお地蔵様の声だった。
「妙艶、お地蔵様の話はわかったか?」
それは閻魔大王の声だった。それは彼女に語りかけられた言葉である。彼女はすぐに答えなかった。しばらく考えていたのだろう。やがて
「よくわかりません。地獄へ行くことだけが償いになるとは限らない・・・そういうことですよね?。でもそうならば、どうやって償っていいかわかりません・・・・。私はどうすればいいのか・・・・。地獄へ行き罰を受けること、それは確かに自己満足でしょう。逃げているのだと思います。そのほうが楽なんです。地獄へ行った方がホッとするんです。救われるんです・・・。でも、それもダメだと言われれば、私はいったいどうすればいいのでしょうか・・・・」
と、女は泣き崩れた・・・ようだ。
「ふむ、なかなかに難しい問題だな。しかし、その答えは、汝の夫が持っていよう。もう一度、夫のもとに戻り、夫の気持ちを知ることだな。本心を知ることだな。そこに答えはある」
閻魔大王は、そういうと、
「この者、次へ行って良し」
と厳かに言った。すると、馬頭が二人やって来て(のだろうと思う)、彼女を抱えたようだ。おそらくは、一人で進めないのだろう。だから、馬頭が抱えて連れだそうとしたのである。
「ふむ、骨の折れる裁判だのう。なかなか難しいわい。なぁ、聞新」
閻魔大王は、そういうと、机の下の俺を除いて、ニヤッと笑ったのだった。そして、
「さて、どうする?。お前が聞きたかった裁判は終わったが、このままここにいるのか?。それとも現世に戻るか?」
と聞いてきた。俺は、
「そうですねぇ、戻ります。次の死者はあまり興味がないし」
と言った。
「失礼なヤツだのう。興味がないとは。まあ、いい、では現世に戻してやる。ホレッ!」
閻魔大王がそう言った瞬間だった。俺は、自分の家にいたのだった。あっという間だった。現世に戻るポイントまで行かなくても、あっという間に現世に戻されていたのだ。
「まあ、しばらく楽しんで来い。7日後に戻れよ」
閻魔大王の声が響いてきたのだった。

家の戻る・・・と言ったものの、実はやることがない。こんなことを言うと、薄情なヤツと思われるかもしれないが、もう死んで35日も過ぎると、あきらめもつくというものだ。うじうじしていても仕方がない、といい意味での開き直りができてくる。あの世とこの世を行ったり来たりしていくうちに、死そのものを受け入れることができるし、家族との未練も断ち切ることができるようになるのだ。しかも、裁判も受けているから、死者は気が気でない部分もある。こっちに戻ってくれば、家族への思いも当然湧いてくるが、死者にとっては裁判の結果も気がかりだ。正直言えば、家族のことばかり気にかけてもいられない。それも日にちが過ぎるにつれ、この世への思いが薄れていく。なるほど、亡くなってすぐにあの世のどこかに生まれ変わらせるのではなく、49日間という猶予期間を設けるのは、死者にとっては大変ありがたいことなのだ。この世や家族、その他もろもろに対する執着心を断ちきることができるのだから。本当の意味での死への覚悟ができていくのだから。誠にありがたいシステムである。
と、俺は自分の家の座敷に寝転がりながら考えていた。今は、昼間である。誰も家にはいない。子供たちは学校だ。女房は買いものか?。まあいい、家でボーっとされているよりは、どこかに出かけていてくれた方が安心だ。横を見れば俺の祭壇である。新しい塔婆が建っている。五七日供養とある。昨日が俺が死んで35日めなのだ。先輩がやって来てお経をあげてくれたのだろう。お陰で俺は元気である。死者なのだが、元気である。裁判もすんなり通れる。供養のおかげだ。俺たち死者にとっては、7日ごとの供養はありがたいのだ。エネルギーの補給はそれでしか賄えないのだし、裁判を有利に進めるには供養が欠かせないのだから。
『うむ、いい気分だ。お供え物も新しい。ご飯もちゃんと供えてある。よかったよかった。俺は嫌われていなかった』
今さらながら、女房のありがたさがひしひしと感じた。また、俺も家族に嫌われていなかったことが、妙に嬉しかった。
『いい家庭だった。いい家庭でよかった』
あぁ、これが満足なのか、と俺はその時感じた。これが本当の幸せなんだ、と。死んで、35日間が流れて、初めて人に幸せがなんなのか、それがわかったような気がした。そうだ、この感覚、この満足感、これが幸せなのだ。俺は幸せだ・・・・。

『まあ、そういうことが理解できれば、お前さんもいうこと無しだのう』
その声に俺は起き上がった。女房の守護霊のおじいさんである。
『お久しぶりです。といっても、一週間ぶりですけど』
『ふっふっふ。閻魔大王はどうぢゃった?』
おじいさんは早速聞いてきた。このじいさん、現在は閻魔大王の天界・ヤマ天に生まれ変わっているのだ。なので、閻魔大王のことはよく知っているのである。
『いや〜、もっと怖い方かと思いましたが、意外とやさしい方でしたねぇ。まあ、厳しい面も持ってはいますが、それはそういう顔をしているだけで、本当はユーモアのある優しいオジサン・・・なのだと思いましたよ』
『まあ、その通りぢゃな。閻魔大王は決して恐ろしい方ではない。あれは、そういう姿を見せているだけぢゃな。お前も、生まれ変わり先がヤマ天になるといいのう。面白いぞ、この世界は』
『そうですねぇ、出来ればそう願いたいですね。ヤマ天でのおじいさんの姿も見てみたいし』
そう、ヤマ天に生まれ変わったこのおじいさん、ヤマ天ではおじいさんの姿をしているわけではない。それはもう、いい男、なのだそうだ。こうしてこっちの世界に降りてきているときは、生きていた時の姿をとっているのだそうだ。そうでないと、気がつかれないから、ということらしい。別に見えない存在なのだから、何も生前の姿をしなくてもいいのだろうが、どうやら生前の姿になるのは、約束事らしい。
それは、霊の世界と現実の世界、両方を感じることができる者に、いつ出会うかわからないから、生前の姿をしているのだ、という理由かららしい。まあ、そうだろうな、と思う。霊の世界が見える人に「あれ、すごいイケメンの男が見えるだけど、で、絢爛豪華な服をきているんだけど」なんて言われても、それが誰なのか、わからないだろう。なので、誰かに見られてもいいように、生前の姿でこっちの世界にやってくるのだそうだ。
ただし、こうして守護霊になれるのは、天界以上の世界に生まれ変わった者に限るのだそうだ。しかも、神通力が使えるようにならないといけないのだそうだ。天界に生まれ変わってすぐに、子孫の守護霊になれるわけではないらしい。生まれ変わってからも、なにかと大変ようだ。
『まあ、しかし、天界もいろいろだからなぁ。お前さんの好みあったところだといいがのう』
なんだか、もう俺は天界に生まれ変わることが決まっているような言い方である。
『あのー、まだどこに生まれ変わるか決まってないんですけど・・・』
俺がそういうと
『あぁ〜、そうぢゃったそうぢゃった。イヤイヤすまんのう。できれば、一緒のところに来て欲しいからのう、先走ってしもうたわい。まあ、ヤマ天に来れば、いろいろ教えてやれるしな、と思ったんぢゃよ。いかんいかん、先走った、あははは』
おじいさんは、豪快に笑った。どうも今日は御機嫌なようだ。何かいいことでもあったのか?。まさか、閻魔大王に俺がスカウトされたのか?。「こいつはヤマ天に迎える」とか。
『おじいさん、何か知っているんですか?。ひょっとして、俺の生まれ変わり先を知っているとか?。もう決まっているとかじゃないでしょうねぇ』
『いやいや、知らん。どこになるかは、49日にならないとわからないことだ。まあ、しかし、おおよその予想はつく。まあ、お前さんは、天界になることは間違いなかろう。あくまでも予想だがな』
それくらいの予想なら、俺でもできる。予測不可能は、強欲じいさんやあの浮気女くらいである。でも、強欲じいさんはきっと天界だろうな、と思う。いくら罪深いことをしてきたからと言っても、今までの裁判の経過から推測すると、あそこまで潔くなっているのだから、きっと天界なのだろう。
覗き見教師は、強制的に地獄へ行ったのだろうな、と思う。あれじゃあ、裁判にならない。あれだけ取り乱してはどうしようもないから。落ち着くまで地獄で反省させられるのだろう。
あの平凡なおじいさんは、きっと人間界の待機所かな、あるいは天界か?。お坊さんのじいさんは、どうなるだろうか?。結構、厳しいことを言われていたが・・・。
『お前さん、他人の裁判も見聞きしてきたのぢゃろ?。どうぢゃ?、だいたいのところは、推測できるぢゃろ』
『まあ、そうですねぇ。でも・・・・どうも俺の周りは、特殊な人が多いみたいで・・・』
『ほう、なかなか難しいか』
『裁判官も悩むような・・・・。あの強欲なじいさんは、どうも悟りに近いところにいるようだから、天界へ行けるんじゃないかと思うんですけどね』
『お前さんが気にしている女は?』
『ちょ、ちょっと、そんな気にしていないですよぉ』
『ほほう、そうかのう。まあ、いいけどな』
ときどき嫌みを言う。あなどれないじいさんである。というか、神通力で俺の心は見透かされているのだ。仕方がないか・・・。
『あの女性は・・・・、わかりませんねぇ。でも、裁判官も仏様も、随分彼女には肩入れしているような・・・』
『そんな気がするのか?』
そうなのだ。それは前々から思っていた。裁判官は特にである。妙に彼女に肩入れしているような感じがするのだ。尤も、他の人でも、ある程度は諭すような言い方を裁判官はする。しかし、彼女の場合は、奥深くまで彼女の心に踏み入れ、彼女に気付かせよう・・・そうだ、気付かせようという言葉がぴったりだ・・・としているように思うのだ。他の人と同じような扱いならば、「地獄だな」で終わりのような気もするのだ。で、「供養も届いているから、とりあえず次へ進め」という決まり文句で終わりそうな、それでいいように思うのだ。だが、実際は、とことん彼女の心情に踏み入れ、彼女を救おうとしているようだ。
『それはな、きっと、彼女を供養している坊さんの力が強いか、あるいは、彼女の夫の思い・・・妻を許して欲しい、成仏して欲しいという思い・・・が強いのぢゃろう。まあ、おそらくは、後者かのう』
『そういう思いが強いと、やっぱり裁判官や仏様に伝わるんですね』
『そりゃそうぢゃ。残された者・・・遺族・・・の思いによって、あっちの世界にも影響はある。遺族が未練たっぷりならば、裁判はその点を注意されることになるし、死者もこの世に未練を残すことになる。遺族が、死者のことをどうでもいい、と思えば、裁判もどうでもよいものになっていくぢゃろう。遺族が、さっさと49日を済ませ落ち着きたい・・・などとしか思っていなければ、裁判もさっさと進んでいくな。まあ、今はこういうパターンが多いぢゃろ。「罪が深いな、地獄だな。そうか、地獄はいやか。まあ、それなりに供養も届いているから、次へ進むがいい」・・・・お決まりのパターンだな。ところが、遺族の思いが強かったり、お経をあげるお坊さんの力が強かったり、お坊さんの思い・・・成仏されよ、という思い・・・が強かったりすれば、それはあの世の裁判にも大きく影響をするのだ。そのように、あの世の裁判官に届くのだからな』
なるほど、そういうことだったのか。あぁ、それであの覗き見教師は、あれほど取り乱すのか。彼の場合、奥さんがショックのあまりうつ状態になってしまっているということらしいから、おそらくは供養などロクにされてはいないだろう。それに奥さんや子供たちの彼に対する恨みも強いに違いない。ということは、あの世の彼自身にもいい影響はない、ということだ。それで、あんなに取り乱した姿になってしまうのか・・・・。
『そうぢゃな。遺族の思いは、死者の姿にも強く影響するんぢゃな。遺族がその死者を深く恨んでいれば、あの世の裁判で取り乱したりもするぢゃろうし、裁判官からも責めらるぢゃろう。遺族の未練が強ければ、死者は弱々しくなるし、こっちの戻りたくもなる。遺族が死者に対し、成仏を願えば、死者はあの世でも活力を得られるというものぢゃ。そこに七日ごとのお経をあげるお坊さんの力量・・・思いの強さ・・・も加味される。そうした「思いの総合的な力」が死者に影響を与えるんぢゃよ』
おじいさんは、俺の思考を読み取ってそう言った。
『俺の場合は・・・』
『お前さんの場合は、いい影響を及ぼしているんぢゃないか?』
女房は、悲しみを表には出さず、けなげに動いている。もう35日も終わって、随分と落ち着いてもいる。俺に対する未練も・・・全くないということないだろうが、ほとんどないだろう。その辺は、割り切ろうとしているのではないか。むしろ、あの世でしっかりやってくれ、と思うのが、女房の性格だろうし。それに、お経をあがてくれる坊さんが、あの先輩である。
そうか、先輩はどういう思いでお経をあげているのだろうか・・・・。
『聞きに行ってくればええぢゃないか』
おじいさんは、そう言ってニヤリと笑ったのだった。


俺は先輩の寺を目指した。何度めだろうか。振り返ってみれば、こっちの世界・・・現実世界に戻るたびに、先輩の寺に行っているように思う。まあ、俺にとっては居心地がいいのもあるが、何よりも先輩は生きている人間で唯一話ができる相手でもあるのだ。しかも、俺の疑問に答えてくれる存在だ。足が向くのは当然だろう。
今日は、俺は歩いて・・・寺に直接飛んでいかないで・・・先輩の寺に向かった。そういえば、以前に歩いて先輩の寺に向かった時は、あの世に行っていないお婆さんに出会ったのだ。大通りの交差点だった。あの時俺は、大慌てで先輩の寺に向かい、交差点でたたずんでいるお婆さんをあの世へ送ってくれと頼んだのだ。俺自身もエネルギーを使い過ぎて、危うく消えそうになった。無謀なことをしたものだ。今は、この交差点にあの老婆の姿はない。先輩があの世へ送ったのだ。
先輩の寺へ行く道中、今日は何も怪しいものには出会わなかった。静かな平日の昼下がりである。
「死人も板についてきたな」
先輩の寺の狭い駐車場に着いた時であった。車を降りたばかりの先輩から声をかけられた。
『そんな独り言を言っていると、近所の人に変な目で見られますよ』
俺はスーッと先輩に近付いて行った。
「大丈夫だ。近所の人は、ここは怪しい寺って思っている。先々代以来な」
先輩の寺は、先々代が初代である。歴史の浅い寺なのだ。だから壇家はほとんどない。数軒だけらしい。初代の・・・先輩から見れば祖父にあたる・・・住職は、かなりやり手の人で、一代で寺を築き上げた。先輩の父親は、それなりの人だったらしい。温厚な性格で、まあお坊さんとしての資質は優秀だったらしいが、先輩のようなアクの強さはなかったようだ。それでも、信者を減らすことなく、壇家のない寺を維持してきたのだ。立派なものである。先輩に言わせれば、
「オヤジは人柄だけで寺を維持した人なんだよ」
らしい。で、先輩は超変りモノである。だが、それが受けているらしく、毎日忙しくしている。
『まあ、普通の寺じゃないですからね。どっちかというとオカルト系だ』
「バカモノ、オカルトなどと一緒にするな。うちは立派な拝み屋だ。わはははは」
俺は先輩が、寺に向かって歩いて行く横に付き添っていた。
『そんな大声で笑うと、本当に怪しまれますよ。頭がいかれているんじゃないかと』
「ふん、いくらうちが小さい寺でも、俺の笑い声はよそへは聞こえないさ。いまじゃあ、どこの家も昼間は留守が多い。誰もいやしないさ」
そんなものである。みんな働きに出ているのだ。だから静かなのだ。人の気配がしないのである。
「今日は何の用だ」
本堂に上がるなり、先輩は手に持っていた荷物を片づけながら俺に聞いてきた。
『いや、ちょっと聞きたいことがあって・・・・。それはいいのですが、それって何ですか?』
俺は、先輩が片付けている・・・おそらくは仏具であろう・・・ものについて聞いた。
「あぁ、これか?。これは、お祓い道具だ。まあ、仏具だな。真言宗・・・いや、密教系の専用仏具だ。午前中、家のお祓いに行っていたんだよ。幽霊が出るっていうんでな」
先輩はそう言うと、俺の方を見てニヤッと笑った。
「今日は、いつぞやみたいにタダ働きじゃあないぞ。ちゃんとお布施を貰っている。まあ、施主がお前みたいに死人じゃないからな」
嫌みである。以前、俺が頼んだ交差点のお婆さんのお祓いは、タダ働きだったのだ。なんせ、依頼主が俺だから。死人には、お布施はできないから仕方がない。あの時は、余計なことはするな、と散々怒られたのだ。そういえば、あの時も、道具を持ってきていたっけ。
「思いだしたか。あの時もこれを使った。さてと、これから俺は昼飯を食う。戻ってくるまで、ここでゆっくりしていろ。今日は、夕方まで誰も来ない予定だからな」
『お昼、まだ食べてないんですか?』
「あぁ、お祓い先で食うのは嫌なんでね。寺に戻ってから食事を取る。まあ、遠方の場合は仕方がないが、近場ならそうするんだよ」
そう言って先輩は、庫裏へと姿を消したのだった。
『何か理由があるのかな?。まあ、いいか・・・』
そうなのだ。今日は、遺族の思いやお坊さんの思いが、あの世の裁判に与える影響について聞きに来たのだ。まずは、それを聞いてからだ。俺は、そんなことを思い先輩の寺の本堂、本尊さんの正面に座った。
観音様である。先輩の寺の本尊だ。正しくは、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)と言うらしい。いろいろな観音様・・・千手観音とか十一面観音とか・・・の大元だそうだ。
『そういえば、まだ観音様に会っていないなぁ。最初が不動明王でしょ、次がお釈迦様だ。で、文殊菩薩に普賢菩薩。で、この間がお地蔵様だ。裁判は後二回だな。観音様には会うのかな?。まあ、いいや、これもあとで聞いてみよう』
そんなことを考えながらじっとしていると、どこからともなく声が聞こえてきた。いや、周りの景色が急に変ったのだ。
『あれ?、ど、どうなっているんだ?、えっ?』
周囲はきらびやかだった。優しい光に輝いていた。ものすごく気持ちがよかった。ものすごく安心感があった。綺麗な音楽が流れていた。美しい声で誰かが歌っている。心地よかった。いや、言葉では言い表すことなどできない。あぁ、なんとも言えぬこの境地・・・・。ふと、声が聞こえた。
『あなたに会うのは、もう少し先ですよ』
それだけだった。たったそれだけの言葉だったが、魂に染み込んだ。それはとても美しく綺麗な声だった。もう一度、もう一度聞きたい。いや、できれば話がしたい・・・、そう思わせる声だった。
が、ふと気が付くと、いつもの本堂である。
『なんだったんだ。今のは、何だったんだ・・・・』
俺は、茫然としていた。すると、今度は
『うふふふ、うふふふ』
という、笑い声が聞こえてきた。その声は、かわいらしいものだった。俺は、声の主を見つけるべく、あたりを見回した。が、誰もいない。本堂はあけっぱなしだが、誰も人はいないのだ。
『誰もいないよ。でも、いるの。ほら、ここよ、ここ』
声の方を見ると、そこには少女が立っていた。本尊さんの右手の方、俺から見れば左の端の方に少女は立っていた。ただし、その少女は、透き通っていた。つまり、俺と同じ、死者なのである。

『き、君は・・・死者なのか?』
『そう、あなたと同じ。違うのは、私はもう随分前に亡くなった死者。あなたは亡くなって間もないでしょ』
『あ、あぁ、35日が終わったばかりだけど・・・・。君は、その・・・』
『私はね、もう随分前・・・昭和40年代に亡くなったのよ。それ以来、ずーっといるの、こっちの世界に・・・・』
その時、納得できたことがあった。それは、その少女の服装である。妙に古いのだ。昔のアニメで見るような服装だったのだ。そう、現代とは全くセンスが異なる。今時の小学生でもそんな恰好はしない、と言うような服装だったのである。
『昔に死んで・・・・そのまま忘れ去られていたの。ううん、死にたくなかったから・・・、だからこの世に残ったの。残って生き続けてきたの・・・。だけど、それは迷惑だったみたい。私は悪いことをしているわけじゃないのに。ただ、この世にとどまりたかっただけなのに・・・』
『この世にとどまりたかったって・・・。でも、君は死んでいるから、それはいけないことじゃないのか?』
『そうみたい。いけないことみたいね。でもね、行けなかったのよ、亡くなった人が行く世界へ。気が付いたら、家にいたの。でも、なんか変だった。だって、誰も私に気がつかないし、みんな泣いてるし、私の写真が飾ってあったし、お坊さんが来ていたし・・・・』
それは通夜か葬式だったのだろう。俺もそうだった。気が付いた時は枕経の時だ。で、通夜があり、葬式があったのだ。葬式の終わり頃、自然に身体が・・・身体はなかったけれど・・・吸い込まれたのだ。で、気が付いたらあの世だった。この少女の場合も同じではないのか?。
『いや、誰でも気が付いたら家じゃないのかい?。で、そのあと、葬式があって、そのときにあの世に送られるんだよ。たぶん、みんな同じだと思うけど、君は、あの世に送られなかったの?』
『うーん、わからない・・・。わからないけど・・・・でも、家にいたの。葬式ってあったのかなぁ・・・。覚えがないわ・・・・』
どうなっているのか。葬式の記憶はないのか?。そういえば、あの交差点でたたずんでいたお婆さんも、葬式などの記憶ははっきりしていなかったようだった。気が付いたら、あの交差点にいた、ということだった。
『わからないけど、家にいちゃいけないって言われて、この間、ここに連れて来られたの。無理やり』
どうやら、その少女はこの寺に連れて来られたのが不服のようだった。
『私は、家にいたかったのにぃ。ずーっと、ずーっと、家にいたかったのにぃ。あぁあ、つまんないの・・・』
『それはダメなんだって。我々は死んだ者なのだから、こっちの世界にいちゃいけないんだよ。いつまでも家にいちゃいけないんだよ』
『そんなことわかってるもん!』
その少女は脹れっ面で叫んだ。
『でも、だって、私みたいにこっちの世界にとどまっている人だってたくさんいるじゃん。なんで私だけダメなの?。どうして、こっちの世界にいちゃいけないの?』
そんなこと言われても困る・・・と言いたかったが、俺は大人で、相手は子供だ。とりあえず、大人の答えをしておいた。
『それは、死人だからだよ。死んだ者は、こっちの世界にいてはいけないルールなんだよ』
『だ・か・ら、そんなことはわかっているって。私が聞きたいのは、死んだ人で、こっちの世界に残っている人もたくさんいるのに、なんで私だけがこっちの世界にいちゃいけないのかってこと。あぁ、それと、一言いっておくわ。あのねオジサン。オジサンは大人かもしれないけど、死んでからの年数は、私の方が年上なのよ。もし、生きていたら、私の方が年が上なの。うーん、そうね、こっちの世界に存在している年数は、私の方が長いの。わかる?』
そうなのだ。少女の姿に、てっきり子供だと思っていたが、彼女がなくなったのは、昭和40年代とのことだ。遅くとも昭和49年ということになる。その時に少女・・・小学校6年生くらいか・・・なのだから、生まれた年は昭和30年代だ。俺よりも年上である。しかも、死人としての年数も彼女の方が長い。
『う〜ん、何だか納得できないなぁ・・・』
『なにがよ。何が納得できないの?。オジサン、バッカみたい。私は少女だけど、少女じゃないの。本当は中年のオバサンなのよ。失礼しちゃうわ』
何が失礼なのか、よくわからないが、どうも怒っているようである。『あー、イライラする』などとつぶやいている。
あれ、なぜ彼女が急に表れたんだ?。確か、得も言われぬ美しい声・・・「あなたに会うのはもう少し先」という声・・・を聞いて、どうなっているんだろうと考えていた時・・・。そう、笑い声が聞こえてきたんだ。この、今、本堂の本尊さんの向かって左の方にいる少女が、笑って立っていたんだ。そうだ、あの時、この少女はなぜ笑ったんだろうか・・・。

『ねぇ、君。あ、いや、俺よりも年上なのだから、なんて呼べばいいのか。奥様・・・じゃあないし。オバサン・・・と言うのも・・・』
『君、でいいわよ!。これだから中年オヤジは・・・・まったくもう』
火に油だったか・・・。少女は、カンカンに怒っているようだった。あたりの空気が急激に冷えて来たように感じた。
『いや、あの・・・すみません』
俺は素直に謝った。
『その・・・さっき、君が現れた時、君はなんで笑っていたの?』
俺の質問に、彼女は初めびっくりしたような顔をしたが、すぐに腕を組み、考え込むようなそぶりをした。やや斜め上を向いている。思いだしているのだろうか。やがて
『あぁ、そうだったわね。あなたが観音様の声を聞いてびっくりしていたから笑ったのよ』
『か、観音様の声?』
『そう、すごくきれいな声を聞いたんでしょ。あなたの周りも違う世界に見えたでしょ?』
その通りだ。
『綺麗な、心休まる音楽が流れていたでしょ。綺麗な高い声で誰かが歌っていた』
俺は、うんうん肯いていた。
『あれは、観音様の世界よ。音楽を演奏しているのは天女。歌っているのも天女。で、あなたに会うのはもう少し先って言ってくれたのが、観音様。観音様は、いつも私たちを見ているし、私たちの話も聞いているわ。でも、なかなか答えてはくれないの。なぜだかわかる?』
俺は何も答えられなかった。それは驚いていたからであった。あの時、ほんのちょっと見た世界は、観音様の世界だったのだ。あの時聞いた歌声、音楽は、観音様の世界に流れている音楽なのだ。演奏者は天女、歌っているのも天女らしい。素晴らしい声だった。あんな声を聞いたら、あんな音楽を聞いたら、この世の音楽も歌声も、雑音にしか聞こえない。素晴らしい音楽だった。
そして、あの声だ。観音様の声。心に染み込む、温かい、安らぎのある声。あれは、観音様の声だったのだ。
『ちょっと聞いているの?』
いや、聞いていなかった。
『あ、あぁ、そうなんだ、あの声は観音様で、あの世界は観音様の世界なんだ・・・。あぁ、そうなのか』
『もう、何言っているの。私が言ってるのは、そうじゃなくって、観音様は、なかなか答えてくれないってこと!。まったく、何を聞いてるの?』
「うるさいなぁ」
少女が叫んだ時であった。先輩の声が割って入ったのだ。
「まったく君は・・・。文句を言っても始まらんぞ。お前は死人なんだ。グダグダ言ってないで、大人しくしてろ。でないと、強制的にあの世に送るぞ」
『ちっ、あの坊主、大っ嫌い』
そういうと、少女の姿は消えたのだった。
「嫌いで結構だ。俺もガキに用はない。まったく、供養もせずに放っておくと、ロクなことがない。やれやれ、面倒なことだ」
先輩はそういうと、俺の方を見て、ニタ―と笑ったのだった。


俺は混乱していた。何がなんだかさっぱり分からない。わかっているのは、少女の幽霊がいたこと、すばらしい声や音楽を聞いたこと、その声は観音様で、俺がほんの少し垣間見た世界は観音様の世界であるということ、だ。ただし、観音様のことに関しては、幽霊の少女が言っていることにすぎないので、本当かどうかは分からない。それにしても、なんなのだ、あの少女は・・・。
「子供の時に亡くなった場合は、本当に手厚く葬式をし、供養をしないとなぁ・・・・。いったい、あの子の葬式をした坊さんは何をやっていたのか・・・・。困ったものだ」
先輩は、なぜだかぷりぷり怒っていた。
『あ、あの〜』
「なんだ、どうした?」
『あ、いや、その・・・・何をそんなに怒っているんですか?』
「怒っている?、俺がか?・・・・はっ、怒ってはいない。ウザイだけだ」
先輩はそういうと、本堂脇の座敷に行き、おいてある椅子に座った。
「あぁ、やれやれだ、まったく・・・・。子供の幽霊は聞きわけがなくていかん。ま、今も聞いているから、あえて言っておくんだが、長年、この世界にとどまっていたんだから、死者と生者の区別くらいはつくだろうに。智慧も当然のことながらつくだろうに。感情の部分だけが子供のままだから、始末に悪い。まあ、怨みつらみを抱えている幽霊よりは、マシだけどな」
『あの、何がどういうことなのか、よくわからないのですが・・・・』
「あぁ、そうか、お前は知らないんだったなぁ・・・」
先輩はそういうと、大きく伸びをした。肩が凝っているようだ。首を左右に回している。
「ある家のお孫さんが、おかしなことを言うという相談があったんだ・・・・」
先輩の話よると、その家の三歳くらいの子供が、暗がりに向かって「お姉さんがいる」といいだしたそうだ。その家族によれば、思えばその子がもっと小さいころから、暗がりを指さして「あーあー」言っていたらしい。言葉を発するようになってからは、ときどき「お姉さん、お姉さん」と言っていたのだが、家族は取り合わなかった。単語だけでなく、ちゃんと言葉を話すようになって、初めて家族はその孫が言っていることが気になりだした。で、その子に聞いてみると、
「いつもお姉さんがいる。暗い所にいる。僕が泣くと怒るから怖い」
ということだったのだ。その子は、その見えないお姉さんに時々怒られるらしい。で、最近、夜泣きが激しくなったのだそうだ。「夜になるとお姉さんが怒りに来る」のだそうだ。これは怖い。うすらぼんやりしたお姉さんが、夜になると、というか暗がりから睨んでくるのだ。で、怒っているのだ。子供にとってみたら、ものすごい恐怖だ。いや、大人だって怖い。暗がりから少女の幽霊が現れて怒っていたら・・・それは怖い。
『なるほど、そういうことですか。で、その少女というのは?』
「あぁ、随分前に亡くなった、その家の子供だよ。昭和40年の頃だそうだ。今の親世代から言えば、父親の妹になるな。つまり、孫から見れば、おじいちゃんの妹さん、だな。孫の親から見れば、叔母にあたる。ま、小姑だな」
『それがなぜ、今ごろになって現れたんですか?』
「今ごろになって出てきたわけじゃない。ずーっと昔から、その子が亡くなった時からそこにいる」
『でも、じゃあ・・・・その亡くなった少女の家族、この場合はおじいちゃんにあたる人ですか、その人や・・・あぁ、そもそもその亡くなった少女の親は気が付かなかったんですか?』
「気付かなかったんだなぁ、これが。みんな鈍感でねぇ。いや、なんとなく何かがいるような気がする、気配がする、っていうのは、そのおじいちゃんも、おじいちゃの連れ合い・・・おばあちゃんだな・・・もわかっていたらしい。おじいちゃんは、妹が亡くなった時のことは、割り合い覚えているらしいんだが、亡くなってしばらくは、妹の気配がした、感じた、と言っている。が、次第に分からなくなったそうだ。まあ、他に興味が行くから、気付かなかったんだろうねぇ。で、その家に嫁に来たおばあちゃんも気付かなかった。嫁に来た当初、何となく違和感みたいなものは感じたそうだ。視線というか、見張られているような気がした、そうだ。ただし、言われてみれば、そうだったかも・・・という程度だ。霊感体質とは程遠い人だからねぇ、ここの家族は。だから、言われてみれば・・・なんだな。で、その息子も感じないタイプだ。息子の嫁も同じ。天然系だな。気が付いたのは、孫の言動がおかしかったからなんだよ」
『あぁ、そういうことですか。霊的に鈍い体質の一家なんですね』
「そういうことだ。その孫だって、怖いと思わない気の強い子供だったなら、あるいは、目に見えない少女とも友達になれるような、ある意味ニブイ体質の孫であったなら、誰もあの少女には気付かなかっただろうねぇ」
『その場合は、どうなるんですか?』
「いつか、その少女エネルギーが尽きかけて、トラブルが起こるだろうな」
『エネルギーが尽きる・・・あぁ、そうなると消えてしまうんですよね。じゃあ、今は、エネルギーが保たれているんですね』
「幸か不幸か、毎日仏壇に線香、ローソクが灯っていた。お供え物もあった。で、たまに坊さんもやってきている。盆と彼岸だけ、だがな。あぁ、それ以外にも、その少女を除外して、少女の親たちの年忌供養はやってたようだ。つまり、法事はやっていたんだな。ただし、その少女に関しては、法事をした記憶がないそうだ。つまり、放りっぱなし・・・というわけだな」
『よくそれでエネルギーが持続できましたねぇ』
「あぁ、まあ、簡単に言えば、おこぼれをもらっていたんだな。盆や彼岸は、先祖代々で供養するから、その少女にもエネルギーの一部が廻ってくる。その少女の親の法事があれば、親たちはその少女を憐れんで、エネルギーのおすそ分けをしていたんだろう。まあ、これがかえってアダになるんだがな。そんなことをするから、ずるずると幽霊のままにしてしまうのだ。親たちの霊は、その少女に、何かお知らせをして供養をしてもらえ、と諭すべきだったんだな。ま、今は、大いに反省しているが・・・」
『えっ、その少女の親は反省しているんですか?』
「あぁ、反省しているよ。やり方を間違った、ってな」
『やり方を間違った・・・』
「生きている人間と同じだよ。たとえばだ、子供が困っている・・・まあ、金銭的に困っているとしよう。子供と言ってもある程度は大人の領域にいる子供だ。そういう場合、親は子供に全面的に援助をしたりすれば、子供は自立しないだろ。金銭的なことじゃなくてもいい、子供が困っているときに、簡単に親が手を出したり、口出しをしたりすれば、子供は自分で解決する機会を失い、自立ができないだろう。亡くなった場合も同じだよ」
『なるほど・・・・』
亡くなった者・・・霊であっても、生きている場合と同じように考えろ、ということなのだろう。この場合、あの世に行っていない少女の親は、生きているときはその少女の霊の供養を怠っていた、まずそのことを反省しているそうだ。そして、自分たちが亡くなってからも、その少女があの世に行けず、この世をうろうろしていることに対し、見て見ぬふりをしてしまった。これが一つ。さらに、それどころか、供養をしてもらえないので、その少女がエネルギー不足になると、自分たちのエネルギーを渡してしまっていたのだそうだ。そのため、その少女は、いつまでも両親の霊に甘えて、おこぼれをもらって魂を維持してきたという。本来ならば、供養が足りないと言って、親族の誰かにお知らせ・・・病気やけが、揉め事など・・・を与えて、あの世に行っていない霊がいることに気付かせるのだ。が、そうするように諭すこともしなかった。これも反省点である。なんだか・・・、引き籠りの子供に手を焼いている親の話のようだ。俺はそう思ったので、そのまま先輩に言ってみた。
「おぉ、うまい譬え方だな。さすが、ジャーナリストだ」
半分は嫌みである。

「しかし、生きている人間と違って、霊の方が扱いはしやすい。霊の方が聞きわけがある。肉体もないしな。生きている人間の引き籠りは・・・・厄介だけどな」
『霊の方が・・・あぁ、そうでしょうねぇ。で、こいう場合、どうするんですか?』
「簡単だよ、その少女の供養をするだけだ」
『供養ですか?』
「あぁ、方法はそれしかない。というか、それがベストだ。供養して、彼女を納得させて、自然にあの世に行けるようにしてやるんだよ」
『自然に行けるものなんですか?。あの時のお婆さん・・・あの交差点にずーっと立っていたお婆さんは、自然にあの世に行けない霊じゃなかったですか?』
「あの時とこの少女の場合は、ケースが違う。今回は依頼者は身内だしな。身内が依頼しているんだ、自然にあの世に送り届けたほうが、彼女にとっても、身内にとってもいいだろう。無理やりあの世に放り込むわけにはいかない。まあ、そうしたところで、結局は供養をしなきゃいけないこととなるんだし」
『どういうことですか?』
「だから、自立させてやるんだよ。無理やりあの世に放りこんだって、自立しないだろ。今回のケースは、この世にとどまっている理由もわかっているし、あの時の婆さんのようにどうしてあの場所に立っているのかわからない、という状態じゃないんだ。自分が、どこにいて、何をしているか、ちゃんとわかっている。しかも、本来は、この世にいちゃいけないこともわかっている。だから、供養すればいいんだよ」
『でも、あの少女、無理やりここに連れて来られた・・・って言ってましたが』
「あははは、無理やりねぇ・・・まあ、無理やりかな。まあねぇ、一応、その家に行って、ちょっとお祓いのようなことをしたんだ。まあ、簡単に言えば、その少女の霊を縛って無理やり寺に連れてきたんだな。だから、まあ、無理やりだな。彼女はウソはついていないな。あははは」
『だから、彼女は先輩を嫌っているんですか?』
「そういうことだな。住み慣れた我が家から、この寺に連れて来られたのだから・・・、まあ、怒るかな。言わば、引き籠りの子供を更生施設に連れて来たようなものだな。でもな、そのうち・・・というか、もう気付いているはずだ。ここは居心地がいいってことにな」
『あぁ、そうですねぇ。ここは・・・というか、お寺は死者にとっては、楽園ですからねぇ』
そうなのだ。お寺にいれば、死者はエネルギーがもらえる。しかもめいっぱい、だ。たとえ、幽霊であっても、それは同じだろう。彼女は、今まで味わったことのない満腹感を味わっているはずだ。
「そう、ここに来れた幽霊は、実は幸せなのだ。十分満たされるからな。しかも、仏様の世界を垣間見ることができる。うちの寺の場合は、観音様の世界だな。観音様の慈悲にも触れることができる。霊にとってみれば、こんな幸せなことはないさ」
『あぁ、そうそう、それで思い出しました。さっき、実はなんとも言えないほど心地よい世界を見た・・・いや違うな、感じた・・・そう、感じたんですよ』
「ほう、で、どんなだった?」
『はい、そうですね、とても美しい音楽が流れていて、とても美しい歌声が聞こえました。空気がものすごく澄んでいるような感じがして・・・で、声を聞きました』
俺は、先輩にその時の状況を説明し、そして「あなたに会うのはもう少し先ですよ」と言われたことを話した。
「ほう、それはそれは・・・、お前なんぞに・・・。いやいや、うちの御本尊様は、本当に慈悲深いなぁ」
先輩は、ものすごくニコニコして一人でうんうんうなずいていた。
『ちょっと、どういうことなんですか?。そのお前なんぞにって、どういう意味ですか?・・・あぁ、そうそう、それでその時にさっきの少女が現れて・・・』
「その声は観音様の声よって、教えてくれたんだな」
俺は、は、はい・・・と言ってうなずいていた。

しばらく、先輩は下を向いて黙っていたが、ふと顔をあげると
「その時に聞いた音楽を・・・あぁ、メロディでいい、歌えるか?。鼻歌程度でいいから」
と俺に聞いてきた。俺は
『あんなすばらしい曲、忘れませんよ。歌えますよ。じゃあ・・・』
といって、あの時聞いた曲を歌おうとした。が、曲が出て来ない。頭では・・・というか、意識内ではその曲が流れているのに、いざ歌おうとするとわからなくなってしまうのだ。
『あれ・・・おかしいなぁ・・・。えっと、待ってください。えっと、あぁで、こうだから・・・えっと、行きますよ』
ダメであった。いざ、歌おうとすると、出て来ないのだ。
『あれ、おかしいなぁ、あれ?、えっと、忘れているわけではないんですが・・・』
「もういいよ」
慌てている俺に、先輩は、手をあげ「もういい」といって、下を向いてしまった。いったいどういうことなのか。先輩は、あきれ返ってしまったのか。怒っているのか・・・。しかし、俺が聞いたことはウソではない。そうだ、あの少女に聞けば、何か真相がわかるかもしれない・・・。
と思っていたら、小さな笑い声が聞こえてきた。
「くっくっく。何を心配そうにしているのだ。心配するな。お前さんが聞いた音楽、歌声は、まさしく、正真正銘の天女の音楽であり、天女の歌だよ。その歌が流れていたのは、観音様の世界だ。あの少女の言う通りさ」
『えっ?、だって・・・・えっ?、でも・・・どういうことですか?』
「天界の歌や天人の歌、天女の奏でる音楽というのは、人間は歌えないのだよ。う〜ん、まあ、選ばれた者は歌えるかもしれないが、な。でも、現代ではいないだろうなぁ。もし、天女の奏でる歌や音楽を人間がコピーして、世に広めたならば・・・」
『広めたなら?』
「人間は働くことをやめるだろうな。あまりにも心地よくって、何もしなくなるだろう。一種のトランス状態だな。もうすべて失ってもいい、くらいに思ってしまうだろうな。お前だって、そう思ったろう。その世界にどっぷり漬かりたい、と。我を忘れてしまっただろ?」
確かにそうだ。今でも思う。あの音楽が聴ける世界があるのなら、すぐにでも行きたいと。あの音楽が聞けるならば、何も要らないと。あぁ、そうだ、一種の麻薬効果だ。そうか、もし、あの音楽がこの世に出てしまったなら、誰も働かなくなるし、誰も生きていくことをしなくなるだろう。それほどの快感なのだ。そうなることは、仏様の本意ではないのだろう。
「理解できるだろ?。あの音楽を一度でも聞いたことがある者は、俺の言っていることがわるはずだ。あの音楽は、麻薬のようなものだ。ただし、身体は壊れないし、精神を病むこともないがな。が、人間には、聞かすことはできない音楽だ」
先輩はそういうと、ちょっと厳しい顔をした。
『先輩は、あの曲を聞いたことがあるんですか?』
「あるよ。一度だけな」
『それは、どんなときに?』
「まあ、とても悩んでいたときがあって、観音様の前で瞑想をしていたんだ。で、その時に観音様の声が聞こえてきてな・・・。観音様の声が聞こえる前と、観音様の声が聞こえ終わった後に、あの得も言われぬ美しい曲が流れていた。頭の中では、今もその曲を思いだすことはできるが、いざ、口ずさもうとすると出て来ない。あの曲は、そういうものなのだよ」
『せ、先輩も聞いていたんですか・・・・』
「そうそう、観音様が言った言葉、あなたに会うのはもう少し先っていう言葉、あれは、そのうちにわかるから、今は何も言わない」
俺が聞きたかったことを先に封じられてしまった。これでは、何も聞けないではないか。さて、困ったと思っていたら、
「しかし、うちの本尊様・・・観音様は、慈悲深い。こんなヤツに声をかけるなんて。あぁ、俺は観音様にはなれないなぁ・・・」
などと、横目で俺を眺めて嫌みを言っている。全く、嫌な先輩である。だから、あの少女に大嫌いと言われるのだ。
『だって、そもそも観音様って、慈悲深い方なんでしょ。こんな俺にでもぉ』
「くっくっく、面白いよなぁ、ちょっとからかうとムキになる。からかいがいがあるよな。うわははは」
本当に嫌な先輩である。が、この先輩が、あの世でも知られているというのだから・・・、いったいどうなっているのだか・・・。
「ところで、お前、何をしに来たんだ?」
先輩は、俺の方をまじまじと見つめてそう聞いてきた。


いきなり「何をしに来た」と先輩に聞かれ、俺は一瞬ぼんやりとしてしまった。
「お前、死人が板についてきたな。ボーっとして。お前、柳の下に立っていたほうがいいぞ。こうやってな」
先輩は、両掌をだらりとお腹あたりで下げて、うらめしや〜のポーズを取った。ついでに、顔もうらめしや〜風になっている。どうやら今日は、機嫌がいいらしい。
『なんですか、それは。まったく・・・。先輩がいきなり聞くから、びっくりしたんですよ』
俺がそういうと、先輩は全く興味がないかのような顔をして「あら、そう」などといっている。相変わらず、変な人である。
『今日はですね、遺族の思いやお坊さんの思いが、あの世の裁判に与える影響について教えてもらおうと思ってきたんですよ』
「ほう、お前にしては高尚な話題じゃないか。いったいどうした?」
『どうしたって・・・いえね、あの世の他の人の裁判を傍聴していて思ったんですよ。裁判官が妙に肩入れしている死者もいれば、お決まりのパターンで進んでいく死者もいる。中には、暴れるというか、ビビりまくって裁判にならず、たぶんなんですが、そのまま地獄へ行ってしまったらしい死者もいるんです。で、女房の守護霊のおじいさんに聞いてみたら、この世の遺族の思いや、供養するお坊さんの力によっても、影響が出てくるんだって教えてもらったんですよ。で、そういうことは・・・・』
「俺に聞け、か?」
俺は、そうなんです、とうなずいた。
「そういうことか。そうだなぁ、まあ影響は出るよ。否、結構大きな影響があるな、生きている側の死者への思いというものは。たとえばだ・・・」
と言って、先輩は黙り込んだ。話を整理しているのだろう。俺は、先輩が話し始めるのを黙って待った。
「遺族の嘆きや悲しみが深いと、その思いは死者に伝わるよな。たとえば、大事なお子さんが不慮の事故や病気で突然亡くなったとする。親の悲しみは、めちゃくちゃ深いよな。できれば、もう一度生き返らせて欲しいと、そう思うよな。七日ごとの供養が進んでも、いくら時が過ぎても、親の悲しみは消えないし、亡くなった子供への未練は消えない。そうなると、亡くなった子供も親元から離れたくはなくなるよな。できれば、あの世などへ行かず、このままこの世にとどまりたい、そう思うよな。そうなるとあの世の裁判も受けなきゃいけないんだけど、じれったいよな。裁判なんか受けている場合じゃない、私の居場所はここじゃない、現実世界の、両親がいる家だ・・・と強く想うようになる。そうなれば、その亡くなった子供は、裁判の時にあの世に戻らずに、あるいは戻ることを拒否してしまうな。あの世の裁判官は、裁判を拒否した者やあの世へ帰ることを拒んだものを強制的にあの世に連れ戻すことはしない。こうして、あの世へ行けなかった霊は、この世にとどまることとなる。その原因を作ったのは、遺族の強い未練だな。そこでだ」
先輩は、口を挟もうとした俺を止めた。
「そこで大事なのは、お坊さんの力だ。お坊さんは、亡くなった者をちゃんとあの世へ送ることも仕事のうちの一つだ。そして七日ごとの供養のお経によって、亡くなった者の未練を断ち切らせるようにし、また遺族に法話をすることにより、遺族の未練を断ち切らせるようにしなければならない。これがお坊さんの重要な仕事だな。
いいか、お坊さんは、お経をあげながら、亡くなった者に対し、心の中で教えを説いているのだ・・・あなたの居場所はここではない、あなたは亡くなったのだ。あの世で修行をし、生まれ変われる状況が整ったなら、再びこの世に生まれてくるもいいし、天界へ生まれ変わるのを望んでもいい。ただ、今は、親と別れる苦しみや悲しみをこらえ、ただただ御仏様に縋るがいい。御仏様が今日からあなたの親であるのだ。この世の両親と別れるのは辛いだろうが、こればかりは仕方がないことなのだ。よいか、今は御仏様に縋り、いずれまたこの世に生まれ変わってくればいいのだよ・・・などと心の中で話しかけているのだよ。これが、結構大きな影響を及ぼす。この訴えは、あの世の御仏様に通じ、うまく行けば裁判なしで御仏様・・・子供の場合は特にはお地蔵様だが・・・が、安楽の世界に連れて行ってくれる。お坊さんの思いが強ければ強いほど、それは通じる。また、お坊さんが遺族に同じような話をし、いつまでも悲しみに沈みこんでいてはいけない、お子さんの生まれ変わりを望め、と説き、遺族と一緒に亡くなったお子さんの安楽な世界への生まれ変わりを望めば、早くにそのお子さんは成仏するよ。それができていないと、さっきのお嬢様幽霊のようになってしまうわけだ」
なるほど、話がつながったわけである。

『なるほど、それでさっき先輩は「子供の時に亡くなった場合は、本当に手厚く葬式をし、供養をしないとなぁ・・・・」と言ったんですね』
「そういうことだ」
『たとえば、七日ごとの供養をしなければ、いったいどうなるんですか?』
「簡単なことだ。最悪の場合、裁判なしで地獄行きだ。まあ、その亡くなった者が生前に罪をそれほど犯していない者ならば、一応、7回の裁判は受けさせてもらえるが、まあ、ひどい裁判になるだろうなぁ」
『たとえば、どんな感じですかねぇ』
「それはお前の方がよく知っているだろう。実際に見ているんだから」
『いや、さすがに七日ごとの供養がないという人は周りになくて・・・。あっ、一人いましたが、その者は罪が深くて閻魔大王のところで取り乱しましてね、たぶんですが地獄へ連れて行かれたかと・・・・』
「そんなものだよな。七日ごとの裁判がないと、罪が深い死者はビビりまくって取り乱すし、罪が少ない死者でもオドオドして落ち着きがないだろうな。で、裁判自体も至極冷たいものになるだろうな」
『たとえば?』
「うん、そうだな・・・。たとえば・・・お前、供養が届いてないから地獄行きだな。うん?、嫌か。そうか、嫌なら次へ行け・・・みたいな感じだろうな」
『えっ、でも、そんなあっさりしているんなら、いいんじゃないですか?』
そう聞いた俺の顔を先輩は、お前はバカかっ!、みたいな目で睨んできた。何か、まずいことでも言っただろうか・・・・。
「お前さ、何回裁判受けている?」
『5回ですが・・・・、なにか?』
「それだけ裁判を受けていて気がつかないか?。あの世の裁判が何のためにあるのかってことを」
『あっ』
「あっ、じゃねぇだろうが。お前はアホか。このバカモンがぁ」
そう言って先輩は笑っていた。
そうなのだ。あの世の裁判は、あっさりしていては何のためにもならないのだ。それは、あの世の裁判が、己の罪を認識して、深く反省することができるかどうか、ということを問うているのと同時に、罪と徳の仕組みや、罪への考え方、生き方、生きている者への償いなどを教えてくれるからだ。あっさり「お次へどうぞ」では、こうした教えを聞くことができない。それはもったいないことなのだ。我々死者は、裁判を通して、自己を徹底的に見つめるようにさせられているのである。生きているときには、到底そんな時間は持てなかった。そんな余裕などないのだ。
「わかったか。まったく、何だろうねぇ、こいつは」
『いやはや、面目ないです。じゃあ、その・・・こっちでの供養がなければ、死者は裁判官と深く話をすることもできないし、間違った考え方を正されることもないんですね』
「そういうことだな。しかも、供養がないというデメリットは、49日めに加算される」
『えっ、どういうことですか?』
「49日め、死者は生まれ変わる先が決まるな。そのときに、供養がなかったということが、マイナス点として加味されるんだ」
『あっ、じゃあ、たとえば本当ならば天界へ行けるところが、人間界の待機所とか、その下の修羅界とかにランクを下げられるってことですか?』
「まあ、そういうことだな」
多くの人は亡くなって通夜がある。仏教で葬儀を行うならば、通夜の席からお坊さんがお経をあげにやってくる。本来は、枕経があって、死者は自分の死に気付かされるが、今は枕経は省略されることが多い。で、死者は遅くとも通夜のお経で自分の死を自覚する。そして、葬儀において、あの世へ送りこまれるのだ。
その後、七日ごとのお経が7回続く。その度にあの世では死者の裁判が行われている。死者の生まれ変わり先が決まるのは、最後の七日供養の日・・・49日だ。死者は、7回にわたる裁判で、己の罪や生き方、誤った考え方などを指摘される。そうして、己を見つめ直すように説かれるのだ。
七日ごとの供養がないと、裁判官との交流もなくなり、機械的に先に送られるだけでなく、最終的には生まれ変わる先が決まるときにランクダウンの可能性も出てくるのだ。つまり、己を磨くこともできず、わけもわからず生まれ変わり先に送られてしまう、ということになる。裁判官との話がしっかりあれば、なぜその世界に生まれ変わったのか、よく理解できているのだ。ところが、七日ごとの供養がない場合は、裁判官との話もないから、なぜその世界に生まれ変わったか、理由がわからないのだ。いきなり動物になっていることだってありうるのだ。それは・・・面くらう。

「どうだ、理解できたか」
考えこんでいた俺の様子を見て、先輩が声をかけてきた。
『はい、わかりました。やっぱり七日ごとの供養は大事ですねぇ』
「当たり前だ。しかも、その供養だって、たとえば遺族がいい加減な気持ちでやっていたら、それはそのまま、あの世の裁判にも反映するからな」
『どういうことですか?』
「いや、そのまんま、言葉のまんまだよ。こっちでの七日ごとの供養がおざなりな供養ならば、あの世の裁判もおざなりになるってだけさ。たとえば・・・一応、供養も届いているから、判決は出ないけど、ちゃんと反省はしなさい、供養がなければ地獄行きだったところですよ・・・程度の裁判になるな」
『あっ、なるほどね・・・。供養がない場合ほど冷淡ではないけど、親切な裁判ではない、ということですね』
「まあ、そういうことだ。遺族が、仕方がねぇなぁ、てな思いで供養していたり、面倒だなぁ、という思いで供養していたら、あの世の裁判の裁判官も、そういう態度になるな。そうそう、当然のことながら、死者は遺族の気持ちは気付くからね。これはショックだろうねぇ」
そうだ、死者は供養がないことや、供養がいい加減であることに気付くのだ。死者は49日の間は、この世に戻ってこれるのだから。
「自分の家族が、亡くなった自分に対し、七日ごとの供養をしなかったとなれば、まあ、ショックだろうねぇ。まあ、多くの場合、そうしたことは死者の遺言である場合が多いけどね」
『あぁ、そうですね。そういう場合はどうなんですか?。最近は、葬式はやらなくていいとか、葬式後の供養はしなくていい、なんてことを言い残して亡くなる方がいますが、それはその通りにしてやったほうがいいんですか?』
「そう言い残しているなら、そのようにしてやればいいんじゃないか。まあ、供養するしないは、残された者が自由に選択すればいいことだけどな。ただし、死者の方は、あの世でこう言われる。『お前は、亡くなったあとの供養はいらないといったな。本来ならば、それはこっちの死者の世界での裁判は不要だ、ということになる。そうなると、行先は地獄になるのだが、それは忍びない。なので、一応裁判は行う。行うが、情状酌量は期待しないように』とな。まあ、それくらいのことは言われるだろうな。でも、亡くなった本人も覚悟の上だからいいんじゃないか」
『えっ、亡くなった者はそんなことになっているなんて知りませんよ』
「知っていようがいまいが、覚悟してそういったんだろ。死んだあとは放っておいてくれって。そうならば、それを受け入れるべきじゃないか。死んだあとは、どうなったって構わない、余計なことはするな、と言い残した以上、それを受け入れるのは当然だろう」
『いや、だって、死んだ世界があるなんて知らなかったんですから』
「死んだ世界があることは、巷にいっぱい流れているだろう。昔から言われていることだし。ただ、それを信じなかったんだろ。それならそれでいいから、信じないということを通すべきだろうに。そんな世界があるなんて知りませんでした、だったらもっと早く言ってくれれば・・・って、それは都合のいい、いい訳だな。勝手だよ、そういうのは。いいか、死に臨んでいうことならば、それなりの覚悟をもって言えよ。死んだら何もなくなるのだから、葬式はいらん、供養もいらん、戒名もいらん、というのなら、そのあとあの世でどうなろうとも、子孫には頼らない、すべて自分で引き受ける、という覚悟をもつべきだろ。死んだ先で、えっあの世ってあったの、なんだ、昔話とか本当だったの、ありゃどうしよう、こんなはずでは・・・助けてくれ・・・って、それはないよな。それは筋が通らん」
確かにそうである。宗教を信じないのなら、死んだあとで知ったことも信じないつもりでいないといけないのだ。その覚悟なく、死んだ先でいろいろ言われたことでブレてしまうようなら、生きているときに宗教を少しはかじっておいたほうがいいと思う。まあ、俺もその口ではあったのだが・・・・。やはり、先輩もそこを指摘してきた。
「まあ、もっとも、お前もそうだったけどな。お前の場合は、遺言で『葬式はするな、戒名はいらない。骨は海へ捨てろ』なんてことを言い残す暇がなかったから救われたが、これがもっと年を食って死んでいたならば、そういうことを言い残しただろう、無信心のお前はな」
『まことに面目ないです』
俺は素直に頭を下げたのだった。
「お前なぁ、少しは感謝しろよ、奥さんや、この俺に」
そう言って、先輩は、自分の方を指さして、身を俺の方へ乗り出していった。
「お前の面倒を見た坊さんが、俺であってよかったよなぁ。俺はな、通夜の時も葬式の時も、七日ごとの供養の時も、無信心な者ですが、何卒ご指導のほどよろしくお願いいたします、と心から願ってお経をあげているんだぞ。奥さんにしてもそうだ。無信心な夫でしたが、どうかあの世で苦労しないようにお願いいたします・・・って思いで手を合わせているんだよ。お前は幸せ者だよなぁ、無信心のくせにぃ」
俺は、いい返す言葉がなかった。すっかりへこんだ俺を見て、先輩はニヤニヤ笑っている。全く人が悪い。
『なんですか、からかっているんですか?』
「バカモノ、からかってなどいるか。お前が聞きたかったことの答をいっただけだ。よく聞いてなかったのか?」
先輩の憎たらしいドヤ顔がそこにあった。

つづく。


バックナンバー(二十六、136話〜)


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