バックナンバー(二十七)    第百四十三話〜百四十九話

『お前さん、わかっとらんのう。いいか、この・・・お嬢さんは』
『お嬢さんじゃないわよぉ、もっと年増さ』
着物の女性はそう言ったが、まんざらそうでもなかった。
『うぅん、そうかも知れんが、わしから見たらお嬢さんじゃな。まあ、それはいいのだが、このお嬢さんは、幽霊だからここにいるのじゃ。ほかに行くところがないからな。あのお嬢ちゃんもそうじゃな。他の人たちも、この世に留まってしまい、どこにも行くところがないから、ここにいるのじゃ。が、わしの友人一家はいる場所がある。まあ、そこは苦しみの世界なのだが。だからここにはいないのじゃ』
俺は理解した。肝心なことを忘れていたのだ。この寺で供養される霊が、すべてこの寺にいるわけではないのだ。普通は、それぞれその霊のいる場所があるのだ。どこかに生まれ変わっているはずなのである。この立派なひげのおじいさんは、天界に生まれ変わっている。天界に生まれ変わっているからこそ、こちらの世界にも来れるのだ。これは、俺の女房の守護霊をしているじいさんと同じ理屈である。天界に生まれ変われば、神通力が使えるからこの世に来れるのである。
ところが、それ以外の世界に生まれ変わった場合、神通力は使えない。特に苦しみの世界・・・地獄・餓鬼・畜生・・・に生まれ変わった者は、この世の子孫にすがりつくことはあるが、この世でうろうろすることはない。したがって、ここにいなくて当然なのである。
『わかったかのう。今頃、友人一家は苦しみの世界にいて安楽を・・・少しだけ味わっているだろう』
『苦しみの世界を脱出するには、まだまだ時間がかかるのですかねぇ』
俺はそうつぶやいていた。
『あぁ、かかるだろうなぁ・・・。そう簡単に脱出はできないだろう。3年ほど供養を続けてもらって、ようやく・・・だろうなぁ』
『そういうものなんだろうねぇ・・・。ということは、あたしも成仏するには、まだまだ時間がいるんだねぇ』
その時俺は、思わず『そう、そこなんだ』と叫んでいた。着物の女性もおじいさんも、俺の叫びに顔を見合わせていた。
『な、なんじゃ、そこっていうのは』
『あぁ、すみません。つい興奮してしまいました。いや、こちらの着物の・・・お嬢さんでいいですか?・・・、あぁ、はい、では・・・お嬢さんは、この後どうなるかと思いましてね。このままここに居続けるわけではないのですよね』
『あぁ、そのことか。う〜ん、そうじゃのう、それはわしにもよくわからんのう』
『あたしゃ知らないわよ、そんなこと』
二人は同時に同じことを言った。
『そんなこと・・・あんたに言われるまで考えてもみなかった。というか、てっきりこのままここにいられるのかと・・・』
『そうじゃのう、わしは居場所があるからのう・・・。じゃが、あんたさんには・・・』
そうなのだ。この着物の幽霊さんには、行く場所がないのである。本来の居場所がないのだ。ということは、ここにいるおじいさん以外の霊の皆さんも、彼女と同様、本来帰る場所のない霊たちなのだろうか?。おそらくはそうに違いない。彼らはこの寺に来て、そこからどこへ行くのだろうか・・・。
『皆さんは、いったいどこへ行くのですか?。きっといろいろ事情があって、この世に留まってしまったのでしょう。で、またいろいろ事情があって、ここに連れてこられたり、自らやってきたりしたのでしょう。そこまではいいです。ここにいる理由が様々あって、それでここにいる、それはよくわかりましたよ。でも、この先はいったいどうなるんですか?。皆さんはどこへ行くのですか?』
俺の質問に、そこにいた霊たちは、顔をそれぞれ見合わせるだけで、何も答えなかった。きっと、誰にもわからないことなのだろう。そのうちに、先ほどまで元気そうだった・・・こういう表現はおかしいのだが・・・彼ら霊たちが、心なしか不安な表情になったような気がした。いや、明らかに不安そうにしているのだ。ひょっとしたら、俺はいけないことを言ってしまったのかもしれない・・・。彼らは、黙りこくってしまった。

『あたしたち・・・どこへ行くんだろうねぇ・・・』
ぼそっと淋しそうに着物の女性が言った。
『あたしたちは、どこの誰だか、そんな素性も忘れてしまった者が多い。まあ、あの子のように、その家の先祖の一員ってわかっている場合もあるけど、あたしのように幽霊となると・・・。あたしは、自分の名前すら思い出せないからねぇ・・・。どうなるのかしらねぇ・・・』
重苦しい空気が流れていた。
その時であった。あの少女がふてくされながら
『ふん、そんなの簡単でしょ。観音様に聞けばいいのよ』
と言ったのだ。しかし、その言葉を聞いて、そこに集まっていていた霊の皆さんは、それぞれに顔を見合わせ
『観音様に聞くって言ってもねぇ・・・。なかなか答えてもらえないじゃないの』
『そうじゃのう、本当に稀に声が聞こえる・・・という程度だからのう』
着物の女性と髭のじいさんがしみじみとそう言った。周りの霊たちもうなずきながら、ぼそぼそと話をしている。俺もそこに加わった。
『君だって、なかなか答えてもらえないって言ってたじゃないか』
俺の言葉聞いて、少女は目を吊り上げ俺をにらんできた。そして、『ふん』というと、ふてくされた様子で、横を向いてしまった。あぁ、なるほど、そういうことか。その様子を見て俺は少女の気持ちに気が付いた。
『みんなで観音様に願ってみるってのはどうですか?』
俺は、唐突にそう言ってみた。霊たちは、一瞬シーンとしてしまった。みんなが俺の方を見ている。
『あ、いや、そういうことをしてみるってのも、いいかな〜、と思いまして・・・』
『なるほど、みんなで観音様に頼んでみるのか・・・。ふむ、いい案かもしれんのう・・・』
『頼むってさぁ、どうやって頼むのよぉ』
『そうじゃのう・・・、観音様の前で合掌して、我々の問いにお答えください、って願えばいいんじゃないかのう』
『やってみる価値はありそうですよね』
いい感じになってきた。俺は横目で少女を見た。少女はふてくされながらも、表情が和らいでいる。やはり、みんなで願ってみればいい、と思っていたようだ。それを素直に言えなかっただけなのだろう。

本堂にいた霊たちの意見はまとまった。我々霊たちは、本堂のご本尊様である観世音菩薩像の前に並び合掌した。が、誰も何も言わない。
『ちょいとぉ、誰でもいいから、何とか言っておくれよ』
『う、うぅん、そうじゃのう、ではわしが言うとするか。まあ、わしは、そもそも本体は天界にいるのじゃから、ごくたまに仏様や菩薩様を遠くから眺めることはあるのだし、まあ、こういうことは慣れておる。うん』
『そんなことはいいからさぁ、早く言っておくれよ。なんだか間が悪いじゃないか』
髭のじいさん、ちょっと焦り気味な様子で、落ち着かない。そういえば、このじいさん、三十三天でも、一番下の方だと言っていた。きっと、神通力もあまり使えないし、仏様や菩薩様と話すのは慣れていないのだろう。さっきは、見栄を張ったのだ。しかし、ここはこのじいさんに任せた方がいいだろう。余計なことをして恥をかかせてもいけない。俺は、黙ってじいさんの言葉を待った。
『えー、ここのご本尊様である観世音菩薩様、我らの願いをどうか聞き入れてくだされ。えーっと・・・、願いは何じゃったかな・・・。あぁ、そうそう、えー、わしとか先祖がわかっている、居場所がある場合の霊はよいのですが、その・・・こちらさんのように、どこの誰だかわかっていないような幽霊の方は、この先どこへ行くのでしょうか?。ぜひ、教えてくだされ。お願いいたします』
ちょっとひどい言いようだったが、主旨はおおむねあっている。さて、観音様は答えてくださるのだろうか。

しばらくすると、とてもいい香りが漂ってきた。それと同時に、あの何とも言えない心地よい音楽が聞こえてきた。いつの間にか、周囲はきらびやかに輝いている。あぁ、観音様だ・・・俺は瞬時にそう思った。すると・・・。
『心配はいらぬ。汝らは行くべきところへ行く。居場所はあるのだ。詳しく知りたければ住職に聞くがよい。また、我のところに来ることを願うものは、求めるがよい。我が名を唱え、求めるがよい・・・』
とても美しい声だった。現実世界では絶対に誰も出せないであろう、声だった。我々霊体たちは、思わずその声に酔いしれていた。
ふと気が付くと、あたりはいつもの本堂に戻っていた。あの何とも言えない音楽と、とてもいい香りやきらびやかな輝きは消えていた。いったいどれくらい時間がたったのだろうか。ずいぶん経ったようでもあり、ほんの数秒だったようでもある。誰も何も言わなかった。

『い、今の・・・観音様じゃったなぁ・・・』
髭のじいさんが、力が抜けたようにつぶやいた。
『そ、そうね・・・。なんだか・・・とても・・・あぁ、今も心地いい・・・。気持ちよく酔っているみたい・・・』
『そ、そうですねぇ・・・。すごかったです。あ、そういえば・・・あの子は・・・』
俺は、ゆっくりと少女の方を見てみた。彼女は、正座したまま、頭を下げていた。よく見ると、彼女は泣いているようだった。もちろん、涙が出ているわけではない。なんとなくそんな気がしたのだ。
しばらくの間、我々は放心状態だった。しかし、それも次第に薄れてきて、いつもの自分たちに戻りつつあった。
『いや〜、素晴らしかったのう。観音様にあうのは、わしは百か日以来じゃ』
『えっ?。じゃあ、二回目なんですね。天界では会ってはいないんですか?』
『観音様には会っていないのう・・・。天界でお会いしたのは、別の菩薩様じゃ。よく教えを説きに来られるのは、お地蔵様じゃのう』
『それにしても、美しい方だったわ。声も美しいし・・・。何も心配するなとおっしゃってくださった。だから、きっと心配ないのよ』
着物の女性の言葉に、ほかの幽霊たちもうなずいていた。みんな安心したようだ。
『でも・・・あんな世界へ行きたいわよねぇ・・・。できれば・・・』
彼女は、しみじみとそう言った。
『願えばいいじゃないですか。観音様のところへ行きたいものは、求めよとおっしゃっていたじゃないですか』
『あぁ、確かにそう聞いた。わしも願うことにする。あの世界は・・・やはり行きたいのう』
髭のじいさんの言葉に、皆がうなずき、黙りこくってしまった。きっと、心の中で「願ってみたって自分には無理だろう」と思っているようだ。行きたいのだけど自分には無理だろう、と思い込んでいるようなのだ。俺は、あえて言ってみた。
『みんな、願えばいいじゃないですか。観音様は嘘はつかないでしょう。観音様のところへ行きたいと思うものは、観音様の名を唱えて願え、っておっしゃってたじゃないですか。これは喜ぶべきことじゃないですか?』
そう力説する俺の顔をみなが見ていた。しかし、その顔には、ありありと「何言ってるんだ、お前は。そんな簡単じゃないよ」という表情が浮かんでいたのだった。俺はさらに続けた。
『そんな、おかしいでしょ。願えって言ってるんだから、それを信じて願えばいいじゃないですか。皆さん、観音様の言葉を信じていないんですか?』
『あのなぁ、信じていないわけじゃないのだよ。願う、確かに願うことはいい。願えばきっとかなうであろう。しかし、それはいつなのじゃ?。どのくらい願えばいいのじゃ。その間は、どこへ行くのじゃ。願ってすぐにかなうことなのか?。わしはいいが、ここにいる霊の者たちは、少なからず罪を犯してきておる。恨み、呪い、とり憑き、生者の生命エネルギーを奪い取っておる。いわば・・・そうじゃのう、吸血鬼のようなものじゃ。そういう罪を犯してきておるのじゃ。彼らは、そのことをちゃんと自覚しておる。自覚しておるが故に、観音様の言葉をそのまま素直に受け入れられないのじゃよ。あれだけ悪事を働いておいて、願ったならばすぐに観音様のもとに行けるなんて・・・そんな虫のいい話があるかい?。それならば、悪いことし放題じゃ。彼らは、そのことをよく知っておるじゃよ』
『もういいよぉ、おじいさん。ちゃんと行くべきところはある、ってことだけでもわかったのだから、それでいいよぉ。それだけで満足さ。あたしたちは、罪を犯してきた者たちだ。そう簡単に成仏なんて無理だし、極楽へ行くことなんて期待していないさ。なに、ちょっとね、あんな素敵な世界に行けたらな、って思っただけさ。贅沢は言わないよぉ。居場所があるだけでもいいのさ』
『そ、そうなんですか・・・。でもそれじゃあ・・』
『いいのよ。いいんだったらいいのさ。あんたもしつこいねぇ。いいかい、あたしらは、行き場所が欲しいだけなんだよ。行き場所がある、ってわかったら、もうそれでいいのさ。余計なことを言うんじゃないよ。ましてや、あたしらに期待させるようなことを言わないで欲しいね』
彼女の剣幕に、俺は黙った。確かにそうだ。いくら何を言っても、彼女たち幽霊は罪を犯しているのだ。彼女たちは、ほぼ無理やりここに連れて来られた霊たちなのだ。そして、彼女たちはそのことを自覚しているのである。罪を犯した者が、そう簡単に許されるはずはない、ということを・・・。
『いいのよ。消滅しないってわかっただけでも、嬉しいよ。だから、聞いてよかった。あたしたちは、消滅はしないんだ。行く場所があるんだよ。それだけが知りたかったんだ』
『そうじゃな、消滅は恐ろしいからな。消滅しないで、生き続けられる、それでいいのじゃろう。また、生き続けることが大切なのじゃろう』
おじいさんも、彼女も、他の霊体もうなずいていたのであった。

しかし、本当にそれでいいのだろうか。本当は、心から観音様のところへ行きたいと願ったほうがいいのではないだろうか。もっとすがったほうがいいのではないだろうか。彼女たち霊体は遠慮し過ぎているのではないだろうか?。俺は、なぜだかそう思った。みんなが納得していたのだが、俺は納得できなかった。彼女たちの態度に納得できなかったのだ。初めからあきらめてしまっている、彼女たち霊体の投げやりなムードがどうにも受け入れれらなかったのである。
『う〜ん、なんだか・・・虚しいですねぇ』
俺は、そうとしか言えなかった。

「俺がいない間に皆さんで会議かな?」
そういいながら先輩が本堂に入ってきた。いつの間にか、外は暗くなっていたのであった。


夕暮れの中、住職の先輩が本堂の中へ入ってきた。
「まあ、他の誰かに聞こえるわけではないから、会議も結構ですけどね」
先輩はそういうと、本尊の観音様に向かって合掌し、礼拝した。そして
「おい、もうお堂は閉めるぞ。お前、帰らないのか?。今夜はここに居座るのか?」
と、俺に向かって聞いてきた。俺は、決めかねていた。先輩と話したいこともあったし、幽霊の彼らとも話したいことがあった。というか・・・、なんとなく帰りにくかったのである。俺には、帰る家がある、しかし、彼らには帰る場所がない。いや、帰る家があるものもいるであろう。あの少女のように、帰る家はあるのだ。だが、帰ることはできない。ここに預けられている以上、帰ることはできない。自分の家の子孫に迷惑をかけた以上、帰るわけにはいかないのだ。そんな中で、俺だけ家に帰るというのは・・・、気が引けたのだ。
「なんだ、迷っているのか?・・・・あぁ、遠慮しているのか。バカバカしい。そういう遠慮はかえって彼らを傷つけるぞ。くだらない同情をするくらいなら、もう二度とここへは来るな。同情は、助けにはならないうえに、彼らが罪を償おうとしている気持ちを邪魔することにもなる。同情するくらいなら、お前自身が犠牲になれ。つまらない偽善など不要だ」
先輩は、憮然としてそう言った。
『い、いえ、同情なんてしていませんよ。ち、ちょっと気が引けただけです。わかってますよ。帰りますよ。どうせ、私には何もできませんよ』
『そんなことないわよ、あんたと話していたら、元気が出たわよ。また、おいで』
着物姿の彼女が、小声で優しくそう言ってくれた。俺は、ちょっと嬉しかった。ふと、先輩を見ると、先輩は、やれやれといった感じで苦笑いをしていた。
『明日、また来ます。今日は、これで帰ります』
「まったく暇な奴だ。あぁ、明日は、俺は忙しいからな。夕方にしか時間は取れないぞ」
どうやら、先輩は俺に付き合ってくれるらしい。なんだかんだと言いながらも、善き先輩である。
「あぁ、ただし言っておく。俺が話に付き合うのは、お前にはっきり理解させておきたいからだ。そうでないと、四十九日が過ぎても、ここに居座られそうだからな。それは困るんでね。いつまでもここでうろうろされては、うっとうしいからな。わかったか。わかったなら、さっさと消えろ」
先輩は最後まで棘のある言い方で俺を追い出したのだった。俺が外へ出ると同時に、本堂の扉が閉じられたのだった。

家に帰ればいつもの我が家である。居心地のいい、我が家である。妻は、俺の祭壇をしっかり守ってくれているし、お供えも欠かすことはない。子供たちもちゃんと手を合わせてくれている。いつまでも悲しみに暮れることなく、淋しさを我慢しながら、みんな明るく振る舞っている。いい妻であり、いい子供たちだ。俺は、あらためて家族の大切さを知った。あの幽霊たちは、この家族の団らんを知らないのだ。いや、家族さえいなかった者もいるであろう。
『家族はいいものぢゃ。たとえ、よくケンカする家族であってもな・・・』
女房の守護霊のじいさんが、話しかけてきた。俺が、妻や子供たちを眺めてぼんやりしていたので、俺の心を読んだのであろう。俺は、寺であったことをじいさんに話した。
『ほう、観音様にお会いできたのか・・・。それは、なんともいいことだったのう。ありがたいことぢゃ』
おじいさんはそういうと、静かに合掌したのであった。
『おじいさんは、観音様には・・・』
『あぁ、たまにお会いする。閻魔天に時々お説法に来られるからのう。とても神々しいお方ぢゃ。わしも・・・いずれは補陀落山に行きたいのう・・・・』
『観音様の浄土ですね。やっぱり憧れますか?』
『そりゃあもう・・・。日本人ならば、阿弥陀様の極楽浄土か、観音様の補陀落山ぢゃろうて。どちらでもいいから行ってみたいものぢゃ』
おじいさんは、遠くを見る目をしてそういった。
『でも、今だっていいところにいるじゃないですか』
おじいさんは、急に真顔に戻ると
『おぉ、もちろんぢゃ。今でも最高にいいところぢゃ。居心地はいいし、神通力も学べるし、使える。ご法話も聞ける。修行もあるが、快楽もある。天界は、基本的には快楽の世界ぢゃからな』
と、胸を張って言った。
『そうなんですか?。修行ばかりじゃないんですね』
俺の質問に、おじいさんは、ちょっとあわてた様子だったが
『ま、まあ、いずれわかることぢゃから、言ってもいいことなんぢゃがな・・・・。天界は、輪廻の世界の一部ぢゃ。つまり、欲のある世界ぢゃな。苦しみの世界に落ちたものは、その苦しみから逃れる欲しかないが、天界は逆ぢゃ。快楽にあふれている。その中で、自分をコントロールしながら生きていくのが、修行なのぢゃよ』
『あぁ、なるほど・・・。快楽の世界だから、その快楽に溺れないように・・・ということですね』
『そういうことぢゃな。まあ、これがなかなか難しいことぢゃが、それでも、慣れれば何とかなる。しかし・・・・』
『しかし?』
『天界に生まれかわってくる者は、比較的に真面目な者が多い。人間であった時、割合に慎み深く生きたものが多い。家族を大切にし、仕事をやり遂げ、周囲にあまり迷惑をかけぬようにし、信仰を持った人・・・そういう人が多いのぢゃな。ま、たまに、生きている時は、ちょっとした遊び人だったが、信仰が深く、お寺などに寄付をしたり、困っている人たちの助けにと寄付をしたものも天界にやってくるがな。どうぢゃろう・・・割合からすれば、真面目に生活を送っていたものが7割くらいぢゃろうか。そういう者は、真面目で、信仰があり、先祖を大切にしてきたものぢゃから、実は遊びに慣れていないのぢゃ。いきなり快楽の世界にやってくると、ちょっと困ったことも起きるのぢゃよ』
俺は、理解した。実は俺もそうだったからだ。そうだったというのは、学生の時のことである。
地方出身の俺は、大学は都会に出た。それまで田舎の何もないところで、真面目に受験勉強していたのだ。そういう者が、都会に出ると、まず最初の1年は、遊んでしまうものだ。いわゆる「大学デビュー」というヤツだ。都会の華やかな世界は、何もかも魅力的だった。夜になれば遊ぶところは、いくらでもあった。夕方6時になれば、シャッターが閉まってしまうような、そんな田舎とは比較にならない。眠らない街は、若者にとっては、たまらない世界だったのだ。お陰で、大学1年の時の成績は、悲惨な状態だったのだ。
『そうですねぇ。真面目だった人が、いきなり快楽の世界へ放り出されれば・・・。まあ、真面目に神通力を修行すればいいのでしょうけど・・・』
『そうでもないのぢゃよ』
『えっ?、どういうことですか?』
『神通力を真面目に修行する・・・それはいい。もともと生前の性格が、真面目だから、結構早くに神通力を手に入れることができる。しかし、そこからが問題なのぢゃ。神通力を手にいられれば、自由に行動ができるのぢゃな。天界は、快楽の世界だから、当然ながら男女の交わりもある。つまり、男女交際もあるのぢゃ。しかも、意外と自由ぢゃ。自由恋愛がOKなのぢゃよ。まあ、家庭を持つ者もいるようぢゃがな。うん?、基本的には、人間界と変わらんよ。仕事を持たねばならない世界もある。結婚して、子供をもうける者もいる。ま、わしは独身ぢゃがな』
おじいさんは、そこでちょっとにやけた。きっと、独身貴族を堪能しているのだろう。案外、モテるのかもしれない。
『ま、まあ、わしのことはいいのぢゃがな・・・・。で、そう、神通力を身に着けて、自由が手に入ると、まあ、やることは決まっておるわな。天界には、美男美女が多いからのう。しかも、自由恋愛OKぢゃ。人間・・・というか、生命体の欲望は、基本的にどの世界でも、どの生き物でも変わらぬものよ・・・』
『じゃあ、性的快楽に溺れてしまう者もいるわけですね』
『そういうことぢゃ。性的だけぢゃなく、酒もあるし、ギャンブルもある。金なんぞ必要ないのぢゃが、ギャンブルはあるのぢゃよ。ぢゃから、案外、天界も生きにくいところではあるのう・・・。下の方の天界・・・そう、その髭のおじいさんか、その人がいるところの天界の方が、真面目に修行できるかもしれん。わしのいるところは、閻魔大王が真面目なかたぢゃから、比較的平和ぢゃがな。帝釈天様の三十三天でも、下の方はいいが、帝釈天様の宮殿に近付けば近付くほど、快楽が増えていくからのう』
『ということは、天界も生きようによっては、つらい世界ですねぇ』
『そうぢゃのう。だから、本当は仏様の世界に行くことを望んだ方がいいのぢゃろうな。ま、しかし、それもなかなかに難しいことであるのぢゃが』
おじいさんは、ちょっと悲しそうな顔をしてそう言った。きっと、先輩のお寺の幽霊たちの行く末のことを気にしているのだろう。
『やっぱり、観音様の元へ行くというのは、難しいんですかねぇ』
『う〜ん、わしはよくわからんが・・・天界から極楽浄土や観音様の浄土へ行った、という話はあまり聞かないのう』
やはり、幽霊のみんなが思っているように、簡単なことではないのかもしれない。俺の方が間違っていたのかもしれない。俺は、無責任なことを言ってしまったのかもしれない・・・・。
『しかし、観音様は、願えっておっしゃってましたよ。願えばわが浄土に来られるって・・・』
『う〜ん、まあ、そうなんぢゃがな。確かに、閻魔天でのお説法でも、極楽浄土や他の浄土に行きたければ、心より願って祈ること、と教えられるが・・・』
『ならば、願えばいいじゃないですか』
『ぢゃがな、あの世界にいればわかるのぢゃが・・・いや、人の世界でもそうぢゃろう・・・しょっちゅう極楽浄土へ行きたいと、願っていられるか?。お前さん、そのことばかりを願っていられるかい?。わしは無理ぢゃ。まあ、今いる世界は快適ぢゃから、余計にそんな願いは持てないのぢゃが・・・。しょっちゅう、極楽浄土に行くことを願ってばかりはいられないぢゃろう』
なるほど、そういうことか。俺は納得した。いろいろやることがあったり、考えることがある場合は、そちらに気が行ってしまい、極楽浄土のことなど忘れてしまっている。観音様が心から願えと言ったのは、絶えず願え、ということなのだろう。そういうことならば、それは難しいかもしれない。しかし・・・。
『でも、あの幽霊の人たちならば、絶えず願うことはできるんじゃないですかねぇ。もうすでに苦しみは十分知っているのだし、優しい愛情に包まれたいとも願っているのですから』
俺がそういうと、おじいさんは、はっとした顔になった。
『そうか、そういうことか・・・。わかったぞ。そうか、なるほどそうだったのか・・・』

おじいさんの顔は、見る見るうちに晴れやかになっていったのであった。
『いったい、どうしたのですか?。なにがわかったんですか?』
おれは、あわてて聞いた。しかし、おじいさんは一人で
『うんうん、そうか・・・、なるほどな。いやいや、そういうことだったのか・・・』
とブツブツいっているだけだ。やがて、一つ大きくうなずくと
『お前さんには、感謝するよ。ありがとう』
と言って、俺に向かって頭を下げたのだった。
『ちょ、ちょっと、いったいどういうことですか。説明してくださいよ』
『あっ?、あぁ、すまんすまん。えー、あぁ、あのな、悪人正機のことぢゃよ』
『悪人正機?』
『あぁ、親鸞聖人の教えでな、悪人ほど極楽浄土へ行けるっていう教えがあっての。まあ、それはよく誤解されるのぢゃが、その真意というか、親鸞さんの心は、そういうことだったのか、悪人正機とはそういう意味ぢゃったのか、ということが分かったのぢゃ。この年にして・・・ようやく分かったのぢゃ。なるほどのう・・・・』
おじいさんは、また一人で納得していた。が、
『お前さんの先輩の寺にいる幽霊のみんなにも関係のあることぢゃ。まあ、あの和尚さんならば、当然知っていることとは思うが、和尚さんの話に耳を貸さないものもおるぢゃろう。なので、お前さんが、明日話してやるがいい。というか、お前さんだって、いいところまで気付いているのだぞ。もうあと一歩なのに、なぜ気付かんかのう』
『と言われましても・・・。その悪人正機っていうのを知りません』
『なんぢゃ、そこからか?。お前さん親鸞さんは・・・』
『名前だけは知っていますが・・・えっと・・浄土真宗の開祖でしたっけ?』
『あぁ、そうぢゃ。で、悪人正機は知らんのか?』
俺はうなずいた。知らないことは知らないのだ。知ったかぶりをして始まらない。
『そうか、ぢゃあ、まずは悪人正機からの説明ぢゃな』
おじいさんは、そういうと、真顔になって話を始めたのだった。



『それにしてもお前さん、雑誌記者にしては悪人正機も知らんのか』
おじいさんは、やれやれといった顔で俺を見た。
『いや〜、宗教関係のことはよく知らないですよ。それにうちは三流雑誌でしたから』
俺は、憮然として答える。ジャーナリストだからと言って何でも知っているわけではない。特に宗教関係は、上っ面くらいしかしらない。あるいは、新興宗教の教祖のスキャンダルくらいだ。ま、特に俺が担当していた雑誌なんぞは、三流だったので芸能ゴシップや風俗くらいしか掲載されていない。たまに政治家や経済人の悪口を書く程度だ。まあ、どこの雑誌も似たようなものだが・・・・。
なので、宗教のことに関しては、ど素人だ。
『まあ、そんなものぢゃろうなぁ・・・。まあいい。悪人正機とはな、親鸞さんが言った言葉ぢゃ。よく聞け。「善人なおもて往生す。如何にいわんや悪人をや」という言葉ぢゃ。意味は分かるか?』
古文なんぞ、すっかり忘れている。意味なんぞ分からない。俺は素直に『わかりません』と答えた。
『まあ、そうぢゃろうな。いいか、これはちょいと難しい。聞きようによっては誤解を生じる。わしもようやくその真意がわかったところぢゃ。まあ、とりあえず、うわべの意味を教えてやろう。「善人は極楽へ往生する。そうであるから、悪人が極楽へ往生できないわけがない」という意味ぢゃな』
『ちょっと待ってください。それだと、善人よりも悪人の方が極楽へ往生できるってことになっちゃうじゃないですか。おかしくないですか、それ?』
『そうなのぢゃ。だから昔から、「なぜ善人よりも悪人なのか」という疑問が論じられておるのぢゃ。わしも長年それが疑問ぢゃった。が、お前さんの話を聞いて、それが解けたのぢゃ』
『いやいやいや、わからないですねぇ、それ。意味がおかしいでしょ。善人が極楽へ行けるのはわかりますが、悪人が極楽に行っちゃあだめでしょ』
『お前さんがそれを言うか?。お前さん、さっきどんな話をわしにした?』
俺は、おじいさんに話したことを振り返ってみた。今日、先輩の寺であったことだ。
『えーっと、先輩の寺で幽霊に会って、その幽霊たちは居場所がなくて・・・で、少女の幽霊が観音様に聞いてみればと言って・・・観音様が現れて、祈ればいいと・・・』
『で、皆はどう思ったのぢゃ?』
『祈れって言ってもねぇ、罪を犯しているし・・・あっ!』
『気が付いたか。そうぢゃ、その幽霊さんたちは、皆罪を犯しておるな。いわば悪人ぢゃ』
『はい、ですが、その悪人が善人よりも極楽に往生できるというのは・・・』
『わからんか。そうぢゃろうなぁ。さて、どう説明したらわかりやすいか。こういうことはな、一種の悟りぢゃ。ぢゃから、それを説明するのは難しい』
そういうと、おじいさんはしばし考え込んだ。俺は、おじいさんが「意味が分かった」と言っていたから、てっきりすぐに説明してくれるのだと思っていた。まあ、自分でわかったと思ったことを口で他人に説明するのは、確かに難しいことではある。俺も、取材で得た内容を文章にするときにずいぶん苦労した。事実だけを伝えるならば簡単だが、そこに考えや感想、思想を入れ込み、読者をある程度誘導しなければいけない場合は、言葉に気を遣う。読者にわかってもらおうという文を書くのは、難しいことなのだ。俺は、おじいさんが次の言葉を発するまで、しばらく待っていた。

『お前さん、さっきこう言っていたな。「でも、あの幽霊の人たちならば、絶えず願うことはできるんじゃないですかねぇ。もうすでに苦しみは十分知っているのだし、優しい愛情に包まれたいとも願っているのですから」と』
おじいさんは、唐突に語り始めた。
『はぁ、まあ、そういいましたが。あの幽霊たちならば、それができると思いますから』
『善人は、絶えず祈ることは無理なのか?』
『えっ?。どういうことですか?』
『ぢゃから、善人は、絶えず極楽へ行きたいと願うことは無理なのか?、と問うたのぢゃ』
俺はすぐには答えられなかった。善人は絶えず願うことは無理か・・・。あぁ、そりゃ無理かもしれないなぁ。むしろ、善人ならば、そんなことは願わないのではないだろうか。本当の善人であるならば、自分はどうなってもいいから、周りの人が幸せになってほしいと、そう願うのではないだろうか。善人の振りをしている者ならば・・・いわば偽善者ならば・・・こんなにいいことをしているのだから極楽へ行けるに違いない、と思うかもしれない。そう、本当の善人は、いいことをしているという意識すらないのではないか。善行を積極的に行おう、極楽へ行くために善行をしよう、と考えるのは、むしろ本当の善人ではないのではないか。そうだ、ここでいう善人とは、いったいどのような人間をさすのか?。何をもって善人というのか?。そこがまずわからない。そこで俺は逆に尋ねてみた。
『何をもって善人というのですか?』
『そこぢゃ。そこが不明ぢゃな。しかし、まあ、善行をすれば、死後には極楽へ行ける、と阿弥陀様は説いている・・・と親鸞さんは人々に伝えた。なので、まあ、偽善だろうがなんだろうが、善行をした者は、極楽へ行けるらしい。だから、善人なおもて往生す、なのぢゃな。善人は極楽へ行けるのぢゃな』
『はぁ、たとえ偽善でも、ですか』
『偽善であってもぢゃ』
俺は、ちょっと納得できなきなかった。なので、
『偽善者ならば、こんないいことをしたから極楽へ行ける、と思うでしょうね。真の善人ならば、善行をしたという意識すらないでしょう』
と答えた。そういう俺に対し、おじいさんは
『偽善者は、絶えず極楽を願うぢゃろうか?』
と質問してきた。初めの質問に偽善者が足されたのだ。
『絶えず・・・となると、無理じゃないですかねぇ。偽善者は、きっと善行をした時だけ、これで極楽へ行ける、と思うのではないですか?。それは願うのではなく、思う、でしょう。極楽へ行くことを願うのではなく、確信してしまう、と言ったほうがいいですね』
『ふむ、つまり、偽善者は極楽往生を願うのではなく、極楽に往生できる、と思い込んでいるわけぢゃな』
『そうでなければ、善行などできないでしょう。本当の善人ならば、極楽へ往生できるかどうかなどということは、どうでもいいと思いますよ』
『そうぢゃな』
おじいさんは、そういうとニヤニヤとしたのだった。
『そう、偽善者は極楽往生を願うのではなく、確信するのぢゃな。絶えず願うのではない、な』
ニヤニヤしながら、おじいさんは念を押した。俺は、少々戸惑いながらも、首を縦に振ったのだった。
『では、悪人はどうぢゃ?。彼らは、絶えず極楽に往生したいと願うか?』
あっ、と思った。それは、さっき俺が言ったことじゃないか、と。
そう、俺はおじいさんに『あの幽霊たちなら、絶えず極楽往生を願うことができるのではないか』といった。だから、答えは決まっている。それ以外を答えるわけにはいかないのだ。
『絶えず極楽に往生したいと願うでしょうね』
『ふむ、そうぢゃな。それができるな』
おじいさんは、一人納得してうなずいている。
『さて、さきほど、偽善者は、極楽往生を願わない、といったな。願うのではなく、確信しているであろう、そう言ったな?』
『えぇ、そういいましたよ。おじいさんも納得していたじゃないですか』
『うん、そうぢゃな。わしもそう思う。確信と願うこと、この違いはどうなのぢゃろうか?』
俺は意味が分からなかった。おじいさんは、いったい何を言いたいのか?。俺は、どう答えていいかわからず、言葉を探した。

『ふむ、答えようがない?、かな。では、聞き方を変えよう。確信は誰が確信しておるのぢゃ?』
『それは、本人でしょう』
『本人が、必ず極楽へ行ける、と信じているのぢゃな。偽善者のくせに』
『そうですね、偽善者のくせに、です』
『それは本当に、確実なのか?。確実に、極楽へ行けるのか?。保証はあるのか?』
あっ・・・。そうなのだ。確信している、というのは、結局は自分の思い込みなのだ。「私は確信しています」と言った場合、それは「私」が「固く信じている」だけであって、そこには何の保証もないのだ。ひょっとしたら、その確信が裏切られることもある。
『どうぢゃ。保証はないぢゃろ。しかしぢゃ、それでも善人は極楽へ往生する。それは阿弥陀様の約束なのぢゃからな。さて、では悪人ぢゃ。悪人は、強く願う、絶えず願うな、極楽へ往生することを。その強さは、善人と比べてどうであろうか?』
このおじいさんの質問で、俺はピンときた。
確信をしている者は、願うことはない。確信している以上、願わなくてもいいからだ。ところが、その確信がない者は、真剣に願う。願うしか救われる方法がないからだ。
観音様は、「願え」といった。願えば通じる、とも言った。それを信じて、心から真剣に願ったとき、その思いは、善人の確信を上回るのではないか。
確信は、あくまでも思い込みである。保証はない。しかも、確信しているから油断をしている。思い込みは怖ろしいものだ。実際とは異なることがある。善人は、願うことはない。強く願わなくても、極楽へ行けると信じているからだ。
しかし、悪人は願うしかない。強く、強く、強く願うしかない。あきらめずに願うしかないのだ。救われる方法はそこしかない。
果たして、極楽へ通じるのは、確信か強い願いか・・・。

『強い願いなんぢゃよ。極楽へ行ける道は、強い願いを持ってこそ開かれるのぢゃ。阿弥陀様はそう説いている。極楽を願え、とな。確信しろ、とは言ってない。極楽に往生することを強く願って、南無阿弥陀仏と唱えよ、と説いているのぢゃ。だからこそ、善人よりも悪人なのぢゃ』
『なるほど、わかりました。善人は、悪い行為はしないから、そのままでも極楽往生できます。しかし、阿弥陀如来が説いたことは、極楽往生を強く願え、強く願った者こそを救ってあげよう、ということだったのですね。それが悪人であれ、極楽往生を強く願うことが大事なのですね。その強く願うというのは、どちらかというと、悪人の方ができることです。悪人にとっては、救われるにはそこしかないからです。悪人が救われるには、強く強く極楽往生を願うしかないのです。その願いは善人をはるかに上回るものでしょう。なので、善人よりも悪人・・・なのですね』
『そういうことぢゃ。となれば、お前さんの先輩の寺にいた幽霊たちも、お前さんが言うように、観音様のところへ行きたいと強く願えばいい、というわけぢゃな。お前さんの考え方であっていたのぢゃよ』
『あぁ、私は深い考えで言ったわけじゃないんですけどね。観音様が願え、と言ったから、素直にそうすればいいんじゃないかと思っただけで』
『その素直さ、単純さが大事なのぢゃ。仏様の言ったとおり、そのまま受け入れそれに従う・・・それが大事なのぢゃ。それが救われる道なのぢゃよ。今回は、お前さんの、その単純さでわしも教えられた。感謝するよ』
俺は照れ臭かった。思ったことを素直に言ったまでのこと、と思ったのだが、それがよかったらしい。実際、あの世での裁判を通して考えてみると、素直に従っていた方が得であり、楽である、ということがわかる。「お前はこんなことをしただろう」と責められた時、下手な言い訳をするよりも、素直に「はい、いたしました、ごめんなさい」と謝ったほうがいいのだ。自分の罪や至らなさ、未熟さを素直に認めたほうが楽なのである。それは、現実社会での生き方にも通じることなのではないだろうか。
『そうぢゃな。どの世界に生きていても、周囲の意見には素直に耳を傾ける必要があるな。まあ、自分自身が完璧な人間ならば、その必要はないがな。しかし、そんな者はいない。誰もが欠陥だらけの未熟者ばかりぢゃ。ならば、その未熟さを素直に認めるべきぢゃな。そうすれば、人間関係もうまくいくようになるぢゃろうし、イライラすることも少なくなろう。不安も少なくなるぢゃろう。人間は弱いものぢゃ。素直に仏様にすがるのも、たまにはいいと思うのぢゃがのう・・・』
おじいさんは、俺の心を読み取ってそう言った。
『明日、先輩の寺にまた行って、幽霊さんたちにこの話をしてきますよ。素直に願え、と』
『それがよかろう』
おじいさんは、そう言って微笑むと、スーッと消えたのだった。気が付けば、もう深夜だった。俺の家族たちも、すかっかり寝入ってしまっている。俺は、女房や子供たちの寝顔をしばらく眺めていたが、俺の遺骨が祀られている座敷へと戻っていった。

翌朝、俺はまたまた先輩の寺へと向かった。
『おや、朝早くから今日も参拝かい?。熱心なことだねぇ』
着物のお姉さん(お嬢さんと呼ぶには、ちょっと抵抗があった)が、色っぽい声で出迎えてくれた。
『おはようございます。皆さん、元気そうで』
『お前さんは、バカ者か?。わしらは死人じゃぞ。元気もくそもあるか』
髭のおじいさんが、そう言って豪快に笑った。昨日の暗い雰囲気はもうない。皆、明るかった。
『今日は、あんたの先輩の住職は、忙しいらしいわよ。もう相談者が来てる。話を聞いていると・・・ちょっとうんざりするねぇ。あたしらも、生きているときは、あんな勝手なことを言っていたんだねぇ』
そういって、着物のお姉さんは、本堂横の座敷の方を見た。そこには、若い女性が、先輩の前に座って、何事かを訴えている。
『生きるってことは・・・・大変だねぇ・・・』
着物の女性は、そういってため息をついたのだった。



『あたしらも生きているときは大変だったけど、今の人たちの方が何だか大変そうねぇ』
着物の姉さんは、しみじみとそう言っている。しかし、自分も大変な人生を歩み、死んでからも大変だったはずである。それなのに今は他の人のことを大変だ、と言えるようになっているのだ。案外、この人たち・・・いや幽霊たちか・・・は、気持ちが落ち着いているのかもしれない。昨日は、不安でいっぱいという感じだったのに、一晩で何かが変わったのだろうか。
『今日は、妙に皆さん落ち着いてますね。どうしたんですか?』
俺の問いかけに幽霊のみんなは、お互いに顔を見合わせた。しばらくそうしていたが、やがて髭のおじいさんが口を開いた。
『あれからな、みんなで話をしたんじゃ。でな、考えても仕方がない、となったんじゃ』
あまりにもあっさりした答えに俺は肩透かしを食らったような感じだった。
『ちょっとぉ、そうれじゃあ、簡単すぎるでしょうよ。もっと話をしたんだから、その辺も教えてあげなよ』
『うぅん、そうなんじゃが、どういっていいのか・・・。まあ、そうじゃのう・・・ともかくいろいろ話し合った。どういう気持ちでいるべきか、とな。そんなときに、住職がなお勤めを始めたんじゃよ。お経をあげ始めたんじゃな。まあ、いつものことなんじゃが、その日は特に・・・気持ちが落ち着いたんじゃよ』
『なんだかねぇ、考えているのがバカみたいって思ったのさ。あぁ、このままここで毎日お経を聞いていてもいいかって・・・そう思ったんだよ。いつにもまして、お経が心にしみてねぇ・・・。あたしらの居場所は、ここでもいいんじゃない、って思えるようになったのさ』
『はぁ、そうなんですか。それはよかったですねぇ・・・』
『なにさ、あんた。その拍子抜けしたような言い方は』
さすがに着物の姉さんは鋭い。
『いや、その・・・昨日の観音様の言葉を皆さんどう思っているか、ってことをあれから考えましてね』
おずおずと俺は話し始めた。みんな「何を今さら」みたいな顔をしていたが、俺は、そのまま続けた。
『その・・・悪人正機って言葉、ご存知ですか?』
『あぁ、親鸞さんの言葉じゃな。善人なおもて往生す、如何にいわんや悪人をや・・・じゃったかな』
『さすがですね、そうです。その通りです。あっ、実は僕も知りませんでして、教えてもらいました』
『ふん、で、その何たらショウキ?、それがどうしたのさ』
『悪人正機です。親鸞さんは、善人は極楽浄土に往生する、ならば悪人は間違いなく往生できるであろう、と言ったんですよ』
『ちょっと待ってよ、なんで悪人が極楽へ往生できるのさ』
『そう、そこなんですね。それが昔から議論されたそうで・・・』
俺は、女房の守護霊のじいさんから教えてもらった話を幽霊のみんなに披露した。

『ということは、わしらのようなつらい思いをした者の方が、極楽を願う気持ちが強いから、そういう者の方が極楽へ行ける、ということなのか?』
『そういうことです。大事なのは、極楽往生を願う、その気持ちなんですよ』
俺の言葉に、幽霊のみんなは顔を見合わせた。そして、ぼそぼそと話をしている。「ほんとうかしら」、「うそくさいよ」、「悪人がねぇ・・・」という声が聞こえてきた。
『疑っちゃだめなんですよ。疑うことなく信じること。それが大切なんです』
『あんたの言いたいことはわかるよ。観音様の言葉を疑うことなく信じて願いなさい、そうすれば観音様の元へ行ける・・・ってことでしょ』
『そういうことです』
『うふ、うふふふ』
着物の姉さんが、急に笑い始めた。
『な、なんですか?』
そのうちに、幽霊のみんなが笑い始めた。普段は、陰気くさくうつむき加減の人も、いつも怒ってむくれているあの少女も、みんな笑っている。
『あれ?、俺、何かおかしいこと言いましたか?』
『い、いや・・・いや、おかしなことは言ってはおらん。いや、あまりにも住職の言ったとおりになったんでな、それがおかしくって・・・、いやすまん』
髭のおじいさんが、笑いながら答えてくれた。
『あんたが、あまりにも真剣に「疑っちゃだめなんです」なんていうから、おかしくてね。ごめんよぉ』
俺には何が何だかさっぱりわからなかった。ふと、髭のおじいさんが真顔になり、話し始めた。
『お前さんが帰ってからのことじゃ。住職さんが、いつものごとく勤行を始めたんじゃ。それはさっき言ったな。わしたちは、不安に駆られていた。不安で不安で仕方がなかった。この先どうなるんじゃろうか、とな。しかし、その不安な気持ちも、お経を聞いていると、不思議と落ち着いてくるんじゃ。あぁ、お経はこんなにもわしらを安心させてくれるんだ、とあらためて実感したよ。いつも聞いているが、昨日ほどお経のありがたさがわかった日はないな。さっきも言ったが、こんなに気持ちが落ち着くならば、このままここに居座るのもいいんじゃないか、とわしらは思うようになった。みんな共通してそう思ったわけじゃ。あの少女もな』
そういうと、おじいさんは少女の方を見た。少女は、ちょっと照れくさそうに横を向いた。しかし、その表情は昨日までとは全く異なっていた。
『そう思うと気が楽になってな。それまでの不安もどこへやら、じゃ』
『そんな心境になった時よ、住職が話し始めたの。お経が終わって、あたしたちに向かって言ったのよ。「観音様のところへ行きたいと思う者は願えばいい。行きたいと願えばいい。しかし、何も急ぐことはないさ。ここだって、観音様の極楽の一部だ。お前さんたちは行き場がないわけじゃない。ここにいればいいのさ。何も焦ることはないだろ。気が済むまで、ここにいればいいじゃないか」ってね。それを聞いて、益々安心したわよ』
『そうなんじゃ。言われてみれば、ここも観音様の足元じゃ。ここも観音様の浄土なんじゃ。そうわかったんじゃよ。だから、みんな安心したんじゃ。これで行き場所ができたってな』
なるほど、それでみんな妙に落ち着いていたわけだ。なんだかんだと言っても、先輩も優しいところがあるじゃないか、と俺は思ったのだが、それは笑ったことの答えにはなっていないとすぐに気付いた。
『それはわかりました。確かに、ここも観音様の浄土の一部ですよね。ここにいると気持ちいいですからね。でも、それはわかるのですが・・・』
『あぁ、話には続きがあるんじゃよ』
おじいさんは、そういって、再び話し始めた。

『住職はな、そのあとでこういった。「きっと明日の朝、聞新がやってきてこういうだろう。皆さん、悪人正機ですよ、ってな。善人でも極楽へ行けるくらいだから、いろいろと苦しみを知っている者ならば必ずや極楽へ行けるだろうという・・・親鸞さんが説いたことなんだけどね・・・それを話しに来るだろう。極楽へ行けることを願うことが大事だ、疑うことなく一生懸命願え、それができるのは世の中の辛さを知っている悪人や苦労をした者だけだ、ってね。まあ、その通りなんだよ。悪人には後がないからな。地獄へ行くしかない。でも、それは嫌だろう。ならば、極楽へ行くことを、行けることを信じて願うしかないのだよ。そして、その願いは通じるんだよ。それが仏様の救いなんだよ。でもなぁ、願いっぱなし、絶えず願う、ってのも難しいことだよな。のべつまくなしに願うってのも、現実的じゃないよねぇ。だから、そんなことはしなくていいさ。ただ、仏様は見捨てはしない、ということだけを信じていればね。まあ、いいじゃないか、ここにいてさ、お経の中に漂っていれば。気が楽だろう。あるいは、たまに高野山に行くから、その時に一緒に高野山に行けばいいだろう。それでいいじゃないか。お前さんたちの居場所は、どこにでもあるんだよ」ってな。まあ、その言葉通り、お前さんが悪人正機の話を持ってきたというわけじゃ』
おじいさんは、ニコニコ笑いながら、そう言ったのだった。
全く先輩も人が悪い。俺があれだけ真剣に悩んでいたことをあっさりとみんなに話して、簡単に安心させてしまった。これでは、俺の悩んだ立場がないし、悩んだかいもないではないか・・・。
俺は少しムッとした顔をしたらしい。

『おやおや、ムッとしちゃったよこの人。案外、可愛いところがあるじゃないかぁ』
『はっはっは。まあ、そう怒らんでいいじゃないか。それにしてもお前さんの先輩は大したもんじゃのう。よくわしら死者の気持ちがわかっておる。いや、生きている人の気持ちもわかっておるのか・・・。あの住職は、違う世界に生きているのかのう・・・』
妙にしみじみと髭のおじいさんはそういった。ちょっとうらやましいような、そんな感じだった。
『そうかもしれませんが、ムカつきますよぉ。私が話をしようと思っていたのに』
『これだ!って思ったんでしょ。でもさぁ、それでいいんじゃない?。あんたも勉強になったんだから』
そういわれればそうである。おそらく、昨日の時点で先輩に悪人正機の話を聞かされていたら、そのことについて今ほど深く考えなかったのではないか。へぇ〜そうなんだ・・・で終わっていたかもしれない。いや、終わっていただろう。となると、聞き流している可能性もある。
『誰が話をしようと、わしらは落ち着いた。居場所もあるとわかった。極楽へ行ける可能性だってあることも知った。それでいいじゃないか。それを語ったのが誰であってもな・・・。結果は同じじゃ』
確かにそうである。俺が言おうが、先輩が言おうが、結果がよければいいことなのだ。俺自身も勉強になった。確かにそうだ。しかし、なんだか面白くないのだ。

「そういうことにこだわるからダメなんだよ!」
突然、座敷の方から先輩の大きな声が聞こえてきた。
「誰がそれを行ったか、なんてどうでもいいじゃないか。それで社内の問題が解決したんだろ。ならばいいじゃない」
「でもですね、そのアイディアを出したのは私なんですよ。こうすればうまくいくって案を出して、計画して・・・。それに骨を折ったのは私なんです。でも、あの子は、まるで自分がすべてやったかのような顔をして・・・。全部自分の手柄のような顔をしているんです。それってムカつくじゃないですか」
「はぁ〜、溜息が出るね。あなたは、褒められたいんだ。みんなから、あなたのお陰だわ〜、って言われたいんだね。ちやほやされたいんだ。そんなことにこだわっているんだ。だからダメなんだよ。そんなことはどうでもいいじゃないか。それにね、知っている人は知っているし、見ている人は見ているさ。あなたが裏で頑張っていることをね」
「まあ、そうなんですけど。確かに、周りからは『君が出した案なんだから、もっと自己主張すればいいのに』っていう人もいますけど、なんだかそれもイヤじゃないですか」
「イヤな人間だよね、それを言ったら。つまり、あなたは、そのあんたの手柄を横取りした人物に、謝ってもらうとか、あなたのお陰ですとか、これは私じゃなくあなたがやったことなんですとか、みんなに公表して欲しいわけですね」
「いや、そんな・・・そういうことじゃない・・・」
「そういうことでしょ。手柄を横取りされたことが面白くないんだから」
「えっ?・・・えぇ、まあ、そういうことになりますかねぇ・・・」
「で、どう思います、そういうことって」
「あっ、はぁ・・・。あんまり・・・みっともないです」
「でしょ。あなたのことを知っている人もいるのだから、むしろ謙虚にしていた方がいいと思いませんか?。『いいのよ私は。問題が解決できれば、それでいいの』と言っていた方が評価は上がると思うけどねぇ。まあ、見ていなさいよ。その手柄を取っちゃった子、そのうちに困ったことになるよ。実力もないくせに大きなことをやってしまうと、後が大変だからねぇ。メッキはすぐにはがれるさ。放っておいてもね。たとえばね、今度また何か問題が起きたとするよね。そのとき、その子はこういわれると思うよ。『また、何かいい考えはないかい?、頼むよ、この間みたいに』ってね。その時に助けなきゃいいんでしょ、周りの人が」
「あっ・・・そんなことをしていいんですか?。それじゃあ、なんだか可哀そうですよね・・・」
「だって、あなた、面白くないっていったじゃない。ぎゃふんと言わせたいんでしょ?」
「いや、その・・・はぁ、すみません。私が間違っていました。小さなことにこだわっていました。別にその子に復讐がしたいとか、そういうことじゃないです」
「わかってますよ。ないがしろにされたのがちょっとムカつく、イラつく、ってことでしょ。でもね、それを放置すると、他のことでもその子のことがムカつくようになるんですよ。その子のことがイチイチ気になり、イライラするんですよ。だから、早めにガス抜きしておくか、自分が小さなことにこだわっていてみっともない、って気づくことが大事なんだよね。そうすれば、明日から、その子に会っても、ムカつかないでしょ・・・。初めは、あなただって問題を解決したかっただけだよね。誰が、なんてことはこだわってなかったんじゃないですか。何とか問題を解決しなきゃ、と思い、必死に考えた。で、『これだ、これなら何とかなる』と思いついた。で、それをみんなに話すと、みんな賛同してくれた。そこで終わっていればよかったのに、他の子がその案を持っていてしまったので、面白くなくなっただけなんだね。その子にしても、きっと初めは自分の手柄にしようなんて思わなかったんじゃないの?。早く言わなきゃ、って考えただけでしょう。その結果、その子が表に出ただけだよね。ただ、それだけのことでしょ。そこに妙なこだわり、『私が』という我を持ち込むから話がややこしくなるんだよ。どうでもいいじゃない、そんなこと」

なんのことはない。俺も同じ心境だ。手柄が欲しかった、幽霊のみんなにすごいねって言われたかった、それだけなのだ。もとは違っていた。みんなが意気消沈していたから、元気づけたかっただけだ。それが、「これだ!」と思った瞬間から、当初の心持が変わってしまったのだ。初めは純粋だった。しかし、そこに「手柄、尊敬」などという思いが割り込んできたのだ。なるほど、こういうところから、人間関係に軋轢が生じるのか。「誰が」なんてことはどうでもいいのだ。当初の目的を忘れてはいけないのだ。当初の目的は、幽霊の皆さんの不安が解消されること、だったのだ。今、そうなったのだから、それでいいのだ。しかも、俺は、そういうことに関しては素人だ。先輩はプロである。素人の俺がしゃしゃり出ることではないのだ。
俺は、座敷の方を見ながらそう考えていた。そこで相談をしていた女性も、
「そうですね。私が考え違いをしていました。どうでもいいですね、そんなこと」
と言っている。どうやら、それで相談事はすべて終わったようだ。その女性が、本尊様の正面のお参りできる所に座って手を合わせている。そして、その人は、頭を下げて帰って行った。見送っていた先輩が、ふと俺の方を振り返って
「そういうことだ。お前さんは、自分の心配をすればいい。余計なことに口出しすると、火傷するぞ」
と言ったのだった。あぁ、そういえば、そろそろ俺もあっちへ戻される頃だ。俺は、次の裁判が気になり始めたのだった。


『そうだったのう、お前さんは裁判待ちだったのう』
髭のおじいさんが、先輩の言葉を受け、そう言った。そうなのだ、俺はまだ裁判中の身なのである。
『裁判かぁ、あたしは受けたことがないからわからないんだけど、怖いのかい?』
着物の姉さんがそう聞いてきた。
『あぁ、そうですねぇ、怖いって言えば怖いですが、特に罪を犯していなければ怖がることはないですよ』
『罪ねぇ・・・。じゃあ、もしあたしが裁判を受けることになったら、いろいろ責められるんだろうねぇ』
『そうですねぇ、まあ、そうなりますね』
『あたしが恨んだあの男も・・・裁判を受けたのかねぇ』
『どうなんでしょうか・・・。あまりにもひどいことをしていれば、裁判なしで地獄へ行くこともあるということらしいですけど・・・』
『そこまでひどい男じゃあなかったからねぇ・・・。ふん、きっと裁判官に責められたのよ。いい気味だわ』
そう言ったお姉さんは淋しそうな顔をしていた。
『お前さん、何回裁判を受けたのじゃ?』
髭のおじいさんは、その場を取り繕うかのような質問をしてきた。きっと、着物のお姉さんをいたわったのだろう。
『はぁ、35日が終わったところですから、5回ですね』
『おぉ、そうか、閻魔大王の裁判を受けたんじゃな。怖かったじゃろう?』
『えぇ、そうですね、初めはビビりましたよ。でもね、案外優しい方でした。あの怖い顔は、実は演技らしいですよ』
『ほう、そうじゃったのか。わしも結構ビビったが、まあ、一応、いいことをしてきたからのう、あまりとがめられなかった。しかし、わしの前の者は、結構いびられていたような・・・』
きっとその人は、素直に自分の罪を認めなかったのだろう。閻魔大王は・・・いや、それ以外の裁判官も・・・自分の罪を素直に認めれば、案外優しい人たちなのだ。ウソをついたり、言い訳したりすると、しつこく責められるのである。
『まあ、人は、図星をつかれると、怒ったり言い訳したりするものじゃからのう。みっともない話じゃが・・・。素直になれば楽なんじゃがな』
そのとおりである。そういえば、あの少女は、少しは素直になったのだろうか・・・。俺はそう思って、あの少女を探してみた。
『あの子を探しているのかい?』
『えっ?、あぁ、はい、そうです。あの子、少しは落ち着いたかな、と思いまして』
『そうねぇ、だいぶ素直になったよ。あんたが帰った後なんかに、ボソボソと話すようになったからねぇ。今日は、隠れているんだねぇ』
『お前さんの顔を見るのが恥ずかしいんじゃろ。妙につっかかったからのう』
バツが悪い・・・のだろう。まあ、今日のところはそれでいいのかもしれない。急には、素直な態度はとれないだろう。きっと、あの少女はまだここにいるだろうから、いつかは会うことができるし、話すこともあるだろう。俺も、まだ裁判は続くのだから・・・。
『お前さんの裁判は・・・後2回か。6回目が・・・』
『えぇ、もうすぐです。明日にはあっちの世界に戻ろうかな、と思っています。まあ、今日でもいいんですけどね』
『家族には・・・未練はなさそうじゃのう、その様子じゃ』
『奥さんとかは?。お子さんもいるんでしょ?』
髭のおじいさん、着物のお姉さん、二人して俺に尋ねてきた。なんだか、立場が逆転しているような気がしてきた。
『女房は・・・そりゃ、未練がないと言ったらウソになるでしょうけど、まあ、落ち着いています。取り乱すようなことはないですよ。なかなか気丈な女ですからねぇ。子供たちも・・・元気を取り戻していますよ』
『いい奥さん、いいお子さんなんだねぇ。あんた、いいお父さんだったんだねぇ』
『いやいや、できた奥さんじゃ。奥さんがいいから、お子さんたちも気丈でいられるんじゃ』
髭のおじいさんの言う通りだろう。俺がいい父親であるわけがない。普段、留守が多かったのだから。すべては女房のお陰である。あの女は・・・俺にはできすぎた女房だったのだ。今頃そのことがわかるなんて・・・。
『人はのう、失って初めてそのものの本当の価値がわかるのじゃ。物にしても人にしてもな。自分の手の内にあるときには、それの本当の価値はわからぬものじゃ。失って初めて・・・わかるものなのじゃよ』
『その通りですねぇ・・・。本当に・・・そう思います』
『お前さん、こっちの世界に戻ってこられるのは、もうわずかしかないぞ。もうすぐ6回目の裁判じゃろ?。それが終わって一週間後には7回目の裁判じゃ。7回目の裁判の後は、こっちの世界には戻ってこられないのだぞ。もし、明日にでもあの世に戻ったならば、こっちの世界に帰ってこられるのは、残り7日間じゃ。ギリギリこっちにいたとしてな。お前さんに残された時間は、それだけじゃ。いいのか、こんなところで油を売っていて』
おじいさんは、真剣な顔をして俺に尋ねてきた。

少し気楽過ぎたのだろうか。それとも俺の性格がおかしいのだろうか。他の人は、もっとこの世に未練を抱くものなのだろうか。
きっと、俺の性格なのだろう。女房のことや子供のことは気になるが、それよりも気になることが多いのだ。所詮俺は死んでしまった身である。今さら、女房や子供のことを気にしてみても仕方がないのだ。未練はある。無いと言ったらウソだろう。しかし、その未練にしがみついても、どうしようもないのだ。今さら、生き返れるわけでもない。もし、生き返ることができたならば、そりゃあ、それこそ、女房も子供も大事にするだろう。その本当の価値を知っているのだから。
しかし、生き返ることはできないのである。ドラマや小説のように、女房や子供に俺の姿を見せることができ、言い残したことを伝えるなんてこともできないのだ。まあ、そんなことができたとしても、余計に別れの苦しみを増長するだけ、と俺は思うのだが・・・。そう、死んでしまったものは仕方がないのである。俺はそういう人間なのだ。
しかし、そうは言っても・・・。もうこの世に来れる期間は、残り少なくなったことも事実だ。そうか・・・。今日一日くらい、家でゴロゴロして過ごすのもいいかもしれない。一日中、女房のそばにいるのもいいかもしれない。そんな日があっても・・・。考えてみれば、俺は死んでからも取材をしているようなものだ。死んでからも、取材の仕事をしているのだ。それも休みなしで・・・。
『たまには休みますよ。なんだか、死んでからこっち、ずーっと仕事をしていたような、そんな気がしてきましたからね。家に帰ります。あっちの世界に帰るのは、ギリギリでいいですからね。時間がある限り、女房や子供のそばにいますよ』
『そうじゃな、それがいいと思う』
『あたしもそのほうがいいと思うわよ。私たちのことは大丈夫だから。あの子も・・・もう住職さんに反発はしないわよ』
二人はそういうと、俺を見送ってくれたのだった。そして、俺は家に戻ったのである。

一日半ほど、俺は自宅でゴロゴロして過ごした。特に何をするでもなし、女房や子供の姿を見て過ごしていた。こういうのもいい。こういうことも、やがてできなくなるのだから・・・。
そして、俺はあの世に戻ってきた。6回目の裁判を受けるのだ。いつものように俺は死者の列に並んでいた。俺の前は、強欲じいさんである。
「お久しぶりです」
「あぁ、お前さんか。もうこっちの世界に来て、随分と日にちがたったものだのう」
「そうですね。6回目の裁判ですから、もう42日が過ぎたことになります。早いものですね」
「あぁ、早いものじゃ。しかし、もうすっかり死人が板についておる」
強欲じいさんは、そう言うと、優しそうに笑った。初めて会ったころは、なんて嫌なジジイだ、と思ったのだが、いまではすっかりいいおじいさんになっている。
「わしはな、これまでの裁判で、随分と考えさせられてきた。わしの人生をな・・・。人間は、虚しいものだのう」
もはや強欲ではなくなった強欲じいさんは、しみじみとそう言っている。見渡せば、他の死者も妙に落ち着いた雰囲気であった。閻魔大王の裁判を乗り切った、という安堵感があるのかもしれない。閻魔大王は、死者にとっては最大の山場のようなものなのだろう。あの顔で、過去の罪を悉く責めたてられた後ならば、もう何も怖いものはないのだ。もうこれ以上、責めたてられても、同じだからである。きっと、どの死者も同じように感じているのだろう。だから、妙に死者の列は大人しかったのだ。
後ろを振り返ってみた。あの浮気女もいる。彼女も妙に落ち着いた様子だ。すっきりしている・・・という印象ではなかったが、落ち着いているようだ。以前のように、悲しげな、そんな様子は見られなかった。穏やかな表情になっている。
「なんだか、妙に落ち着いていますね」
俺は思わずそう口にしていた。
「そうじゃな。今までの裁判所の様子とは違った雰囲気じゃ。凛とした厳しさも感じられないし、かといって騒々しいわけでもない。妙に落ち着いておる、という表現が一番合っているな」
そうなのだ。静かだか、緊張感が漂っているわけではない。冷たさもない。厳しさも感じられない。あたたかな、落ち着く感じがするのである。周囲は木々に囲まれている。森の中の一本道をまっすぐに進んでいるのだ。気分はとてもよかった。いつまでもこの場所にいたい・・・そう思わせるところだった。
「並んでいる死者も穏やかな顔をしているように見えます」
「そうじゃな。もう気持ちの整理もついているころだろうしな。閻魔大王の前を通ったのだ。一種のあきらめもあるじゃろう」
そういうことなのだろう。俺が感じていたことと同じことを強欲じいさんも感じていたようだ。

死者の列は、ゆっくりとしたスピードで前へと進んでいっている。
「おや、なんじゃ?」
ふと、強欲じいさんが前の方を見てそう言った。
「ほう、どうやら道が三つに分かれておるようだのう」
「えっ?、どういうことですか?」
俺はそう言って前を眺めてみた。すると、死者の列が三方向に流れているではないか。どうやら、道が三方向に分かれているのだ。そこには、牛頭が立っていた。俺は耳をすましてみた・・・まあ、死人だから、生きている者のように聞こえてくるわけではないのだが、牛頭の方に意識を集中してみたのだ。
遠くから小さな声が聞こえてきた。様子を見ながら、何を言っているのか想像してみた。どうやら、どの方向を選ぶか、と死者に尋ねているようだ。
「道を選択しろって言っているようですね」
「ふむ、そんな感じじゃのう。はぁ、どっちに進んでも、結局は同じなんだがな」
強欲じいさんは、そんな悟ったようなことを悟ったような顔をして言っていた。ま、確かにそうであろう。どの道を選ぼうが、きっと似たようなものなのだ・・・と思う。が、こういう時、人はちょっとドキドキするものなのだ。くじを引くときの、その感覚のような感じだ。俺は、そのことを素直に言ってみた。
「でも、くじを引くみたいで、ちょっとドキドキしますよね」
「はっはっは。まあ、そうとも言えるがな。しかし、どれを引いても同じじゃないか。きっと、自分の罪と徳にあった道を選ぶのだろうよ。ふむ、そういう意味では、くじと同じだな。運を天に任す・・・じゃな」
強欲じいさんは、笑いながらそう言って、一人納得しているようだった。もはや、強欲じいさんにとっては、どの道に進もうが、どうでもいいことなのだろう。

いよいよ順番が回ってきた。強欲じいさんの前には、道が三方向に分かれているのが見える。まっすぐ真ん中の道と、斜めに左右に進む道だ。
「強欲院金泥腹黒厚顔大居士、どの道を選ぶ?」
牛頭が強欲じいさんにそう聞いた。じいさんは、牛頭の方を見もしないで、まっすぐ前を見て
「まっすぐ、我が道を」
とだけ答えた。
「そうか、では、まっすぐ進め」
牛頭がそう答えると、強欲じいさんは、前を見たままゆっくりとまっすぐに進んでいった。しばらくすると、その姿はふと消えたのだった。
「あ、あれ?、どこに行った?。そ、そういえば、じいさんの前の人も消えてしまったなぁ。確か、あの人は左の道を行ったように思うのだが・・・」
俺が独り言を言っていると、
「聞新、何を言っているのだ、静かにせんか」
と牛頭が注意してきた。俺は、素直に頭を下げた。そして、素直に質問をした。
「いや、前の人が消えてしまったから・・・」
「あぁ、消えたのではない。消えたように見えるだけだ。消えたように見えるが、彼らは裁判所の中に入っている」
「はぁ、そういう仕組みですか」
「まあ、そういうことだ。さて、聞新、どの道を選ぶ?」
牛頭にそう聞かれて俺は正直迷った。しかし、先ほどの強欲じいさんの返答が格好良かったので、そのまま真似してみた。
「まっすぐ我が道を進みます」
そう答えると、牛頭は苦笑しながら言った。
「いいんだな、まっすぐで」
強欲じいさんの時はそう問い返さなかったじゃないか、と俺は心の中で思ってしまった。ちょっと不安になるが、しかし、口にした以上、ブレないことにした。それに、強欲じいさんも言っていたではないか、「どの道を選ぼうが同じだ」と。だから俺は、「はい」と答えたのだった。
「では、まっすぐ進むがよい」
牛頭はそういうと、俺を通したのだった。
俺は、まっすぐ進んでいった。すると、周囲の風景ががらりと変わってしまった。目に飛び込んできたのは、森ではなく、死んでからこっちの情景・・・裁判を受けてきた自分の姿だったのだ。


「あぁ、あれは初めての裁判を受けた時だ」
目の前に現れたのは、初めての裁判を受けている自分の姿だった。目に見えるのはそれだけだった。あとは真っ暗である。いつの間にか、俺の足は止まっていた。前に進んでいるという感覚がなかったのだ。
「いったいどういうことなのだ・・・」
もちろん、周囲には他の死者の気配もない。ただ俺一人である。見えるのは、自分が裁判を受けているときの姿だけなのだ。
「初めは秦広王さんだったなぁ。あの方は、いろいろと教えてくれたなぁ・・・。閻魔大王の過去とかね。懐かしいなぁ・・・」
と思っていると、三途の川を渡っているシーンに場面は変わった。
「あぁ、あの時だ。あの時、強欲じいさんが俺が乗っている船に捕まって助かったんだ。本当は流されたかもしれないのに。あ、そうだ。あそこで・・・賽の河原で鬼が出てきて・・・あれ以来、強欲じいさんは大人しくなったんだっけ・・・」
と思っていると、奪衣婆が現れ、身ぐるみはがされたのだった。そこには裸の俺がいた。
「死んでしまえば、みんな裸にされる・・・みんな平等なんだな・・・」
そう、こっちの世界では肩書など通用しない。皆同じだ。生きていた時の地位や名誉なんぞは、まったく意味がないのだ。それを死者に知らしめるために死者は丸裸にされる。身に着けているのは、葉っぱだけである。
目の前に初江王の姿が現れた。
「今思えば、やさしい裁判官だったなぁ。いろいろ教えてくれたし、アフターケアもしてくれたし・・・。ちょっと粘着質だったけど。なんだか、懐かしいなぁ・・・」
初江王には、随分とお世話になった。こっちの世界のこともよく教えてくれた。と、そんなこと思って懐かしんでいると、宋帝王が現れた。
「あ〜、猫とヘビを使って邪淫の罪を裁いたんだっけ・・・。あれは、ちょっと不気味だったなぁ。気持ちが悪いというか、怖いというか・・・。そういえば、宋帝王、あの浮気女にはカッコいいこと言ってたなぁ。まあ、彼女も立ち直ったみたいだし、宋帝王も内心ほっとしているんだろうなぁ、きっと・・・」
その時の様子を思い出して、俺はついニヤニヤしてしまった。と、場面は次の五官王に変わった。ここでの裁判は、あの秤に乗せられるのだった。あれは、ちょっとドキドキしたのを覚えている。
「あの秤は嫌だったなぁ。転生の秤だったけか・・・。なんせ、秤に乗ると、生まれ変わり先が表示されるんだもんね・・・。秤に乗ったっとたん、『地獄』なんて表示されたら、嫌だよなぁ。口で言われるのと、視覚で確認するのとでは、重さが違うからなぁ。そういえば、五官王もあの浮気女には結構親切だったなぁ。あぁ、そういえば、供養がきっちり届いているから、施主の気持ちがこもっているから・・・なんてことを言っていたなぁ」
そうなのだ。現実世界での供養や遺族の想いは、こっちの世界にいる死者に大きな影響を与えるのだ。7日ごとの供養をしっかりと行い、遺族が死者に対しいいところへ生まれ変わることを願ってくれたならば、裁判官は死者に対し、丁寧に裁判を行ってくれるのだ。7日ごとの供養がない場合は・・・滅多にないらしいが・・・地獄へ送られる場合もあるのだ。また、遺族が死者に対し恨んでいたり、未練が強かったりすれば、これまた裁判もややこしいことになる。機械的な供養だったり、いい加減な供養だったりすれば、裁判もそれなりの裁判となってしまう。機械的に「次へどうぞ」ということだ。俺は、7日ごとの供養や遺族の想いが如何に死者に影響を与えるか、この時に学んだのである。
そうこうするうちに場面は閻魔大王のいかつい顔のアップになっていた。
「おっと、さすがにアップで見ると怖いなぁ。本当は優しい神様なんだけどねぇ。しかし、閻魔様も大変だよねぇ。人間は嘘つきだからなぁ。言い訳もするし。まあ、人のことは言えないが・・・」
こっちの世界での裁判は、生きていた時の行為を善悪はともかく、それが自分の行ったことかどうかを素直に認めることが大切なのだ。閻魔大王は、それを死者に聞いているのだ。しかし、人間は先に言い訳をしてしまうのである。
閻魔大王は言う。あの生きていた時の姿すべてを映す浄玻璃の鏡を見せつけ
「これはお前がやったことか?」
と。そこには、自分の行為のなかで、褒められない行為、注意されるべき行為ばかりが映し出されている。こういう場合、人間は、なかなか素直になれないものである。後ろめたさがあるし、それが悪いことだとわかっているからだ。だから、「いいえ、それは自分じゃないです」などとウソをついたり、「えっと、それは私が幼くて、事の善悪がよくわかっていなくて・・・」などと言い訳したりするのだ。閻魔様は、そんなことを聞いているわけではないのだけど・・・。
そう、閻魔大王は、「お前がやったことなのか、それとも違うのか?」ということを聞いているのだ。行為の善悪を責めているわけではない。もっとも、悪いことをした場合、「じゃあ、地獄だな」というお決まりのセリフは言うけれども・・・。
しかし、閻魔大王の真意は、「素直に自分の行為をすべてを認めるかどうか」なのである。これは、閻魔大王だけではない。すべての裁判官がそうなのだ。こっちの世界・・・いわゆるあの世・・・での裁判は、いかに素直に自分の行為を認められるかどうか、それが問われているのである。

「その通りです。よくこっちの世界の裁判を理解していますね」
突然、そう声をかけられ、俺はびっくりしてしまった。思わずあたりを見回した。
「あぁ、まだ目が慣れてませんね。まっすぐ前を御覧なさい」
そういわれて、俺は言葉通りにまっすぐ前を見てみた。そこには、裁判官らしき人が、大きな机に両手をおいて座っていたのだった。
「6・7日目・・・42日目・・・の裁判へようこそ。私は、変生王(へんじょうおう)と申します。これより、釋聞新、汝の裁判を行います」
その裁判官・・・名前は変生王というらしい・・・は、いきなりそう言ったのだった。
「あ、あの・・・えっ?、いきなりですか?。その・・・私の前の人は?・・・あの強欲じいさんは?」
「強欲じいさん?・・・あぁ、あの方ですか。あの方の裁判は、もう終わりましたよ。今頃は、現実世界に戻っていることでしょう」
「えっ?、あぁ、そうなんですか・・・。えっと、ここでは、裁判はいきなり・・・」
「そうですよ。ここでは死者は並ぶことはありません。こうして、いきなり始まります。では始めましょうか」
「あぁ、そうなんですか・・・。あっ、あの・・・」
「まだ、何かあるんですか?」
「ここの仏様は・・・?。あの、他の裁判所には裁判官様の後ろに仏様が控えていらっしゃったのですが、ここは・・・」
「聞新、まだよく見えていないようですね。汝は、意外とあわて者ですか?。よく私の後ろを見てみなさい」
そういわれて、俺は変生王という裁判官の後ろを見てみた。しかし、そこには派手な布が下がって見えてだけだったのだ。俺は?という顔をしたのだろう。裁判官は、上を指さした。すると・・・。
なんと、裁判官のはるか上空に美しく、派手に着飾った仏様らしき人物が浮かんでいるではないか。しかも、その仏様は巨大だった。奈良の大仏様よりも大きそうだ。そんな大きな仏様が、空中に浮かんでこちらを見て・・・いるのだろう。にっこりとほほ笑んでいた。
「弥勒菩薩様ですよ。約56億7千万年後に次の如来となられる菩薩様です。まあ、そんなころは、地球という現実世界は、無いですけどね。あぁ、でも安心しなさい。他の生命体が住む惑星に弥勒菩薩様は下生(げしょう)されて・・・えっと、その世界の人間として生まれ変わって、という意味です・・・如来になられるのですよ。よろしいですか、聞新?」
そういわれて、俺は思わず首を縦に振っていた。
「では、釋聞新、汝の裁判を始めます」
「は、はい・・・、よろしくお願いいたします」
なんとなく、そう答えるべきだと思って、俺はそう答えていた。

「釋聞新、汝はこちらの世界・・・死者の世界・・・の裁判をよく理解している。他の裁判官からいろいろなことを学んだが故のことでしょう。また、他の死者の裁判を特別に傍聴していますね。そのお陰でもある。さらに、現実世界では、汝の周りには特殊な方が存在していることも影響しているようです。そうしたことから、死者の裁判の意味をよく理解できているのでしょう。ですので、私からは何も言うことがありません。次に進んでください。以上です」
「はい?」
俺はびっくりして言葉が出なかった。何なのだ、これは・・・。
「ですから、以上です。次に進みなさい、と言っているのですよ」
変生王は、真面目な顔をして俺を見つめていた。
「あ、いや、ちょっと待ってください。あの・・・こんなんでいいのですか?」
「どういうことですか?」
「いえ、その・・・こんな裁判でいいのですか?。その・・・もうちょっと、お前は罪を犯したなとか、このままじゃ地獄だぞとか・・・そんな・・・」
「そんな必要がありますか?」
変生王は、机から身を乗り出すような恰好をして、俺を見据えた。
「えっと・・・、必要があるかと言われましても・・・」
俺は何といっていいのか、言葉に詰まってしまった。こういう手合いは、非常にやりにくい。何を言ってもさらっと返されそうで、質問がしにくいのだ。しかも、ものすごく機械的な感じがして、取り付く島がないという印象を受ける。しかし、このまま引き下がって、次へ進むのもなんだか癪だ。そういえば、他の裁判所では「次へ進め」と言われれば、すぐに牛頭だの馬頭だのがやってきて、腕を抱えるようにして退席させるのだが、ここには裁判官以外誰もいなかった。どこにでもいる牛頭や馬頭がいないのだ。
「何をしている聞新。さっさと立って、次へ進みなさい」
「あの・・・ここには、牛頭も馬頭もいないのですか?」
「あぁ、いませんよ。自主的に、その扉へ進めばいいのです」
変生王が指さした方には、確かに扉があった。どうやら、そこへ自分で進んで行け、ということらしい。
「あ、あの・・・」
「まだ何か?」
これで引き下がるわけにはいかない。俺は、生前は記者だったのだ。三流とはいえ、取材で飯を食ってきたのである。しかも、死んでからもそんなような役目をやってるのだ。
「あの、この裁判の仕組みは、こういうスタイルなんでしょうか?。もう少し詳しく教えていただけませんか」
そうだ、この言葉だ。これでいい。まずは、この裁判の仕組みを聞こうじゃないか。
「そうですよ。こういう仕組みです」
変生王の答えは、ものすごくあっさりしたものだった。変生王は、そう答えて「まだ何か?」みたいな顔をした。
「で、ですから、もっと詳しく教えていただけませんか?」
「詳しくと言われましてもねぇ・・・。こういう仕組みです」
仕方がないので、俺が説明することにした。
「では、私が言いますので、間違っていたら訂正してください」
「はい、いいですよ。では、言ってください」
「6・7日目・・・死後42日目・・・の裁判は、裁判所の前までは他の裁判所と同様、死者は並んでいました。他の裁判所と異なるのは、門の中に入ってからです。門番に、戒名を呼ばれて、私は門の中に入りました。そして、門番に『三つの道があるが、どれを選ぶか?』と問われました。確かに、目の前にはまっすぐ進む道と左右斜めに別れる道がありました。三方向に分かれているのです。私はまっすぐを選びました。すると、急に目の前が暗くなり、死んでからこっちの出来事が映し出されたのです。私は、それを見ながら歩いていたような気がします。多分、前に進んでいたのだと思います。私は、過去5回の裁判での情景を見ていました。裁判を受けている自分を見たのです。そして、過去の裁判すべてを見終わった途端、変生王、あなたが目の前にいました。そして、あなたは言いました。『次へ進め』と。これで裁判になっているのでしょうか?」
「うまくまとめましたね。特に訂正する必要はありませんでした。ここでの裁判は、これでいいのですよ。汝には、特にいうこともありませんからね」
変生王は、そういうとニコニコして俺を見つめていた。なんだ、その笑いは・・・。俺は、何か重要なことを見落としてはいないか?。あの笑いは、俺に気付けというサインではないのか?。その証拠に、俺は外へ連れ出されようとはしていない。確かにここには牛頭も馬頭もいないが、裁判官の力をもってすれば、俺をさっさと追い出すことくらいはできるはずなのだ。いきなり、現世へ送ることもできるのだ。それをしないのは、変生王は、何かを待っているのではないか。その何かとは、俺に気付け、ということなのではないか?。それは一体・・・。
あっ、そうか、そういうことか・・・。俺は、ようやく気が付いたのだった。
「今、変生王は、『汝には』と言いましたね。ということは、他の死者には、言うべきことや伝えるべきことがあるのですね?」
俺は、変生王の方をまっすぐ見て、そう言ったのだった。すると、変生王は、
「ふん、ようやく気が付きましたか。これでも気が付かなかったら、どうやってヒントを出そうか、悩むところでした。ほっほっほっほ・・・」
と笑ったのである。なんとも、意地の悪い裁判官である。
「意地悪じゃないですよ。他の裁判官とも話をしてね、汝がどれくらいこっちの世界の裁判に関して理解しているか、ここの仕組みを利用して確かめさせてもらったのです。そして、他の者はどうだろうか、と汝が気が付くかどうか、それも試させてもらったのですよ。これは大事なことです。人間は、どうしても自己本位になりがちですからね。いくら汝が理解をしていても、他人の理解はどうなのか、という考えを持たねば、取材者としては問題でしょ」
変生王は、そういうと、にっこりとほほ笑んだのであった。


「ここでの裁判の目的は、こちらの世界の裁判について、あなたたち死者が理解しているかどうかを確かめることにあります」
変生王は、ニコニコしながらそう言った。
「門よりここに至るまで、死者は過去の裁判の様子を見させられます。そして、この場に来て、私は問います。『これまでの裁判に不服はないか』と」
俺は、静かに変生王の次の言葉を待った。
「多くの死者は、『あれは罪だ、これも罪だ、お前は罪ばかり犯してきている、だから地獄だ・・・と言われるのは納得がいかない。自分は善いこともしてきた。それは考慮されないのか?』と、問い返してきます。5回も裁判を受けてきて、まだこちらの裁判の真意が理解できていないのです。多くの死者の現状は、そんなものです。困ったことですね。あなたの前の・・・あなたが言う強欲じいさんは、本当にこちらの裁判の趣旨をよく理解していました」
「あの人は、なんて言ったんですか?」
「彼はね、『私は悪いこともたくさんしてきました。善いこともたくさんしてきました。いろいろなことをして、いろいろなことを考え、いろいろな思いを持ってきました。ここに至るまで、私は、私がしてきたこと、しなかったこと、思ったこと、思わなかったこと、口にしたこと、しなかったこと・・・などをすべてを見させられました。それは、どんなことであろうとも、私自身に関することに間違いはありません。善も悪もない、すべて私の行為です。私の業です。私は、その裁きに従うまでです』と言いましたよ。実に潔いですね。私は、『あなたには何も言うことはありません。次に進みなさい。次の裁判であなたへの判決が出ますから』と言って、送り出しました。彼は、大変穏やかな顔をしていました。あのような死者は、実にめずらしい」
変生王は、しみじみとそう語ったのだった。
確かに、あの強欲じいさんらしい、と俺は思った。あの強欲じいさん、随分と心境が変わっていた。初めのころの勢いは、すっかりなくなり、穏やかな・・・まるで禅僧のような落ち着いた人へと変わっていたのだ。あのじいさんにもいろいろあったのだ。特に応えたのは、遺族の財産争いであろう。自分が残してきたこと、残してきたもの、自分が築き上げてきたこと、そうしたことがもとで遺族が争いを始めている・・・・。親としては、こんな惨めなことはないであろう。自分がやってきたことが仇になっているのである。家族のために良かれと思ってやってきたことが、禍を生んでいるのである。ショックが大きかったのだろうと思う。財産の多寡にかかわらず、死者が残した財産で、遺族が争うのを見るのは、やはりつらいのだ。
「そうですねぇ。彼の場合、残してきたこと、やってきたことが大きかったですから、余計でしょう。家族のためだけでなく、日本のためにと思ってやってきたこともありますからね。それらがすべて、自分が死んだらないがしろにされ、さらには争いまで生んでしまった。虚しいことだったでしょうな」
変生王は、一人うなずきながらそう言った。
「そういえば、あのお坊さんのおじいさんはどうだったのですか?。随分と他の裁判官から責められていましたが・・・」
「あぁ、あのお坊さんね。まあ、あの方もお気の毒ですなぁ。面食らっていましたからね。まさか、死の世界かがこのようになっているとは、夢にも思っていなかったでしょう。父親から引き継いで、何も考えずお坊さんになってしまい、ただただ葬式と法事と報恩講などをこなしてきただけのお坊さんですからね。お坊さん本来の目的の『悟りを得る』なんてことは、考えてもいなかったでしょう。まあ、あの方の宗派は、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽へ行けるという宗派でしたからね。あぁ、でもね、それは間違っているわけではないのですよ。南無阿弥陀仏と心より唱える瞬間の心の落ち着き、それこそが極楽浄土だと気が付けばいいのですからね。そこが彼の宗派の真髄なのですが・・・まあ、わかっていませんでしたからね。ですから、随分と愚痴っていました」
あの坊さんじいさん、やっぱり愚痴っていったんだ。

そりゃ、そうだと思う。あのじいさんにしてみれば、父親に言われた通りに生きてきたのだ。檀家を維持するため、寺を守るため、何も考えず、ただただ寺の業務をこなしてきたのである。それを「間違っている」と言われても、いまさら納得できないであろう。それで地獄行きだ、と言われても「はいそうですか」とは言えまい。
「そうなのですよ。今までの裁判では責められる一方ですが、ここでは異なります。言いたいことがあればどうぞ何なりと・・・と言いますので、こちらの裁判の趣旨をちゃんと理解していない、気付いていない死者の皆さんは、文句言いたい放題ですからね。あのお坊さんの方も随分と文句を言っていました。『わけのわからないことで一方的に責められても納得ができません。こちらの世界のことは誰も教えてはくれなかった。私は、ただただ言われた通りに、父親から教えられた通りに葬式をし、法事をし、檀家さんの要望を聞き、寺を守ってきただけなのです。それがまさか罪なるとは・・・。これでは、神も仏もありません』とね」
「そういう場合、どのように答えるのですか?」
「彼の場合は、こう答えましたよ。『あなたの気持ちはよくわかります。あなたにしてみれば、知りもしないことで責めたてられ、それでは坊主失格だの、修行が足りんだの、と言われても、チンプンカンプンでしょう。どう答えていいのかわからないでしょうし、どうすればいいのかもわからないでしょう。お気の毒です。ですが、あなたも本当はわかっているのでしょ?。自分がやっていることが、本当の仏教と言えるのかどうか、そういう疑問を持ったことだってあるでしょ?。これでいいのか、葬式だけでいいのか、何か教えを説くべきではないのか、そう迷ったこともあるでしょう。思い出してみてください。如何ですか?』とね。すると、彼の坊さん、『実は、若いころ父親にそうした疑問をぶつけたことがあります。しかし、父親は、そんなことは考えなくていい、ただ寺を維持していくことだけを考えよ、と言いました。それ以来、悩むことをやめたのです。しかし、寺を維持することも実は大変なことなのですよ。田舎ですから、檀家は少ないし、その上、若い人たちはみんな都会へ行ってしまう。檀家はますます減っていきます。それに・・・あそこの坊さんに聞いても何も知らん。拝み屋のばあさんの方がよっぽどいいお話をしてくれる・・・などと、何度も言われました。これではいけない、と思ったことも多々あったのですが、どうしていいかわからないというのが本音でして・・・・。そうですなぁ。それは確かに、私の勉強不足でしょうし、修行が足りないと言われれば、その通りです。努力をしてこなかった、と言われれば、まさにその通りで、言い訳などできません』とね」
「あぁ、わかってはいるのですね?」
「そうですね。なので、私はこう言いました。『おやおや、あなたはちゃんとわかっているではありませんか。初めから、素直にそう言っていれば、他の裁判官も、そうそう責めたりはしなかったでしょうに』とね。すると、『はぁ、なんだか、素直になれなくて・・・。そうですか、今のように、自分の非をちゃんと認めればよかったのですね』と言いましたからね、ここでの裁判の意味を説明したのですよ。こちらの世界の裁判は、素直に自分のしてきたことを認めることが大事なのだ、とね。自分のしてきたこと、してこなかったことを素直に見つめ、認め、反省すること、それが大事なのですよ、とね。それができれば、地獄へ行け、なんてことは言われないのですよ、とね・・・」
「そういわれれば、きっとあの坊さんじいさんも、ホッとしたのではないですか?」
「そうですねぇ。随分と恐縮していました。素直になれない自分は、本当に修行が足りない、もう一回修行のし直しをすべきだ、なんて言ってましたねぇ」
こういうことが、この裁判の目的なのだろう。今まで受けた裁判への不服を言わせ、「だけど、それは自分のしたことだよね」とあらためて認めさせるのだ。ここは、再認識の場になっているのだ。
「そうなのですよ。人はね、責めたてられると、その時は「うんうん」とうなずくのですが、それは心から認めているわけではないのです。裁判官が怖いから、ついつい認めてしまうのですね。ですから、心の中には不平不満がいっぱいです。心の中は私たちは見えてしまいますから、死者の不平不満もすべて承知しています。ですから、どこかでガス抜きをしないとね、いけないのですよ。で、そのガス抜きのついでに、己を見つめるということを説いて聞かせるのです。人はね、一通り心の中に溜まっている泥のようなものを吐き出すと、素直になれるものなのですよ。案外、不平不満を言った後は、大人しいものですねぇ」
それはよくわかる。人は言いたいことや、溜まっていた文句などを洗いざらい言ってしまうと、すっーとするのだ。すっーとすると、気分がいいし、冷静になれる。案外、文句を並べたてた自分が恥ずかしくもなってくるものなのだ。そういう時は、他人の言葉も素直に聞ける。普段は、絶対聞き入れないような言葉すらも、だ。ましてや、死者は想像もしていなかった経験をした後である。恐怖もあったろうし、怒りもあったろう。そうしたことをいっぺんに吐き出してしまえば、そのあとはシュンとしてしまうに違いない。
「そういうことですね。さて、他の死者の皆さんの裁判は、大方このようです。ここでこちらの世界での裁判の意味を知って、最後の裁判に臨むのですよ。あやふやな気持ちや不平不満を抱えたまま、最後の裁判に行くのは、あまり良くはありません。最後の裁判の仕組みに面食らうどころか、納得できないでしょう。そのためのここ、なのですよ。もうよろしいかな、聞新さん?」
変生王は、優しく微笑んでそう言った。俺は、その時素直に「はい、もういいです」と思わず言いそうになった。アブナイアブナイ。俺には、もう一つ大事なことがあったではないか。
「いや、お願いがあります。実は、私の後の裁判を傍聴したいのですが」
「ふむ・・・。後というより、後の後、ですね?。えーっと、釋尼妙艶信女の裁判ですね?」
変生王は、ニコニコしたままそう言った。あからさまにそう言われると、ちょっと恥ずかしいものだ。俺は顔を赤くしていたかもしれない。
「は、まあ、そうです。お願いできますか?」
「いいでしょう。まあ、聞くくらいならね」
変生王は、ニコニコ顔のまま、許可をくれたのだった。
「次の方はいいのですね?。そうですか、では、妙艶が来たら呼びますから、そちらの扉の外で待っていてください。あぁ、出口ではありません」
変生王が示した扉は、先ほどまではなかった扉である。もう一つ、初めからある扉は、裁判所の外へ出る扉だ。何もなければ、その扉を開けていけ、と言われた扉である。確か、扉はそれしかなかったはずだ。しかし、今、その初めからあった扉とは反対側に扉が現れていた。
「まあ、その中に入って、ゆっくりしていってください」
変生王の言葉に従い、俺は示された扉を開けてみた。

中は暗かった。静かである。俺は中に入った。すーっと音もなく扉が閉まったような気がした。
「ま、真っ暗だ。何も見えないじゃないか」
「静かに過ごせるでしょ。ゆっくり休んでいてください」
変生王の声が響いた。俺は、不安だったが、真っ暗で何も見えないし、何も感じられないので、そのままそこで過ごすことにした。生きている場合で言えば、そこに胡坐をかいて座った状態になった。
シーンとしている。真っ暗だから、自然に精神が統一されて言った。すると声が聞こえてきた。
「ほう、ではあなたは、特に不平不満はない、とおっしゃるのですね」
「えぇ、ここに至るまでに今までの裁判で聞いてきたことを振り返ることができました。それで気が付いたんですよ。この裁判の目的は、生きていた時の自分をしっかり見つめることであると・・・」
どうやら、あのごく普通のおじいさんのようだ。確か、五官王に「同じような裁判を何回もやるのは無駄じゃないか」と質問したおじいさんである。あの時、意外とこのおじいさん鋭いぞ、と思ったが、やはりこちらのでの裁判の意味にも気が付いたようだ。
「ふむ、まさにその通りです。いいところに気付きました。そこに気付いたならば、私からは何も言うことはありません。次へ進んでください。次の裁判が最後になります。そこで、あなたの生まれかわり先が決まります」
「いよいよ最後ですか。ちょっと緊張しますな。ということは、現実世界に変えることができるのも最後になりますか?」
「そういうことですね。最後の猶予です。どうぞ、楽しんできてください」
変生王にそう言われ、きっとあのおじいさんはうなずいたのであろう。そして、素直に外へ通じる扉を開けたに違いない。ごく普通に見えたおじいさんでも、気が付く人は気が付くのだ。人間は、愚かな者ばかりではないのだ。
と思っていると、変生王の声がまた聞こえてきた。
「6・7日目・・・42日目の裁判にようこそ。私はこの裁判を務めます変生王といいます。汝は、釋尼妙艶信女ですね」
変生王にそう声をかけられたあの浮気女は、
「はい、そうです」
といつになくか細い声で答えたのであった。

つづく。


バックナンバー(二十八、150話〜)


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