ばっくなんばぁあ〜2


第 二 章 

「般若心経」の一

般若心経は、最も有名で、ほとんどの方が一度は聴いたことがあるのではないか、というお経ですね。そのお経自体は、大変短く、題名を抜いて「観自在」〜「菩提娑婆訶」までで262文字しかありません。
しかし、その内容は大変難しく、古来より多くの解説本が出ています。また、その解説本がと〜っても難しいものが多く、一般の方たちには、遠ざけたい本となってます。
ここでは、できるだけ簡単に、簡素に「般若心経」についてお話したいと思います。まず、第1回の今回は、般若心経の題名についてお話いたします。

1、題名「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」(ぶっせつ まーかー はんにゃーはーらーみった しんぎょう)
高野山真言宗では、題名に「仏説」をつけますが、他の宗派では、「摩訶般若波羅蜜多心経」だけです。一般に市販されている般若心経の写経用紙もお経の題名は、「摩訶般若波羅蜜多心経」になっています。
これは、他の宗派が単に「仏説」を省略している、ということではではありません。これは、般若心経の成り立ちに理由があるのです。それには、一般的な般若心経の成り立ちと、弘法大師的な般若心経の成り立ちの、二つの説があります。
まずは、一般的な成り立ちについて、簡単にお話ししましょう。

一般的に、般若心経は、膨大な量のお経「大般若経」(全600巻)の重要な部分、中心部分をまとめ上げたお経、と言われています。簡単に言えば、「般若心経は、大般若経の省略型のお経」というわけですね。
「大般若経」というのは、正しくは「大般若波羅蜜多経」といいます。略して「大般若経」といいます。このお経は、元はインドにあり、インドの古い言葉で書かれていましたが、あの三蔵法師で有名な玄奘(げんじょう)がインドから持ち帰り、漢訳しました。西遊記の旅で得たお経の中に、この大般若経も入っていたのです。

ところが、この大般若経、とてもとても量が多いんです。全部で600巻もあります。それを毎日一人で読んでいたら、何時間かかるやら・・・・。他の修行ができなくなってしまいます。しかも、そんなに長くては、仏教の教えを聞きに来る人々に、大般若経を教えることもできません。
そこで、その大般若経の重要な部分を取り出して、短いお経にしよう、ということになったのです。大般若経のテーマは、「空(くう)」であるから、その「空」を中心にお経にしてみよう、できれば、一般の人々も読める短いお経がいいだろう、ということで、できあがったのが、「般若心経」なのです。

ということは、般若心経は、お釈迦様が直接説いたお経ではない、と言うことになりますよね。お釈迦様が説いたのではなく、お釈迦様が涅槃に入ったあとから、弟子達が大般若経のエッセンスをまとめたお経、といえます。
ならば、お経の題名に、「仏説」をつけるのはおかしいだろう、となります。「仏説」とは、「仏の説きたまえる」という意味です。「仏」とは、もちろん「仏陀」のことであり、「お釈迦様」のことです。
「般若心経」は、大般若経を省略したもので、お釈迦様が直接説かれたわけではないのだから、「仏説」をつけちゃいけない、というわけです。
で、多くの宗派では、般若心経の経題に「仏説」をつけずに、「摩可般若波羅蜜多心経」と唱えるんです。

ところが、これに「それは、おかしい」と反論した僧侶がいたのです。それが、弘法大師空海なのです。
お大師さんは(普段から、我々は「お大師さん」と呼ばさせて頂いているので、ここでもそう書きます。)、「般若心経はお釈迦様が直接説いたお経である」と異論を唱えるのです。
「決して、大般若経の中心部分をまとめたお経ではない。直接、お釈迦様が説いたお経だ。なぜなら、この般若心経の内容は、『空』を教えているだけではないのだから。もっと、奥が深いのだから。」と・・・・・。
そして、お大師さんは、「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」という書(いわば論文ですね)を発表するのです。
ここで、その「般若心経秘鍵」について、内容を紹介すると大変なことになりますので(長いし、内容が難しいので)、これから般若心経のお話をしていく途中で、「これはお大師さんの考えですが」というかたちで、紹介させて頂きます。

このような理由がありまして、「仏説」をつける宗派、つけない宗派と分かれるのです。うちのお寺は、高野山真言宗ですので、「仏説」をつけるほうになります。「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」ですね。
では、その経題について、詳しく説き明かしていきましょう。(これを「開題(かいだい)」といいます。)

*「仏説」
これについては、今までお話した通りです。訳せば、「仏の説きたまえる」となります。「仏」とは、「仏陀」の略で、「お釈迦様」のことです。
ですから、「仏説」とは、
「お釈迦様が説かれた、お釈迦様の説きたまえる」となりますね。


*「摩可」
「摩可」は「まか」と読みます。これはインドの言葉の音写です。インドの言葉では、「マハー」となります。意味は、
「大、偉大なる」という意味です。
昔、「マハラジャ」というディスコ(古くてごめんなさい)がありました。「マハ」は「偉大、大」、「ラジャ」は本来は「ラージャ」と言うのですが、「王様」のことです。ですから、「マハラジャ」は、「偉大なる王、大王」という意味ですね。
「摩可」という言葉は、結構日本語の中に根付いています。皆さんも、聞いたことがあるのではないでしょうか。「摩訶不思議」とかいうでしょ。その「摩訶」と同じなんです。仏教の言葉って、意外と普段使っている言葉の中に溶け込んでいるんですよ。


*般若波羅蜜多
「般若波羅蜜多」は、これもインドの言葉の音写です。漢訳していないんです。ですから、漢字自体は、当て字になります。言語は、「プラジュナー パーラミター」です。「般若」が「プラジュナー」で、「波羅蜜多」が「パーラミター」です。「般若波羅蜜多」は、二つの言葉でできているんですね。
まず「般若」です。これは、「真実の智慧、覚りで得ることのできる智慧」を意味しています。
「波羅蜜多」は、「完成」を意味しています。
ですから、「般若波羅蜜多」は、
「真実の智慧の完成、覚りで得ることのできる智慧の完成」となりますね。


*心経
これは、「心」と「経」に別れます。
「心」は、「中心、重要な内容」を意味しています。「経」はお経ですね。これはいいでしょう。
「心経」で
「重要な内容を示したお経」という意味となります。


これらをまとめてみましょう。
「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」とは、
「お釈迦様が説かれた、偉大なる覚りで得ることのできる智慧の完成について、重要な内容を示したお経」
となりますね。
まあ、簡単に言えば、
「お釈迦様が、大いなる覚りで得ることのできる智慧を完成させるための方法の、重要なキーポイントについて説いたお経」という意味になります。
つまり、覚りを得るための重要な方法が説かれている、というわけです。これが、お経の題名の意味するところです。

なお、お大師様は、経題について、もっと深く掘り下げて説かれています。たとえば、般若心経の経題そのものは、「般若菩薩(はんにゃぼさつ・・・そういう菩薩様がいらっしゃるのですよ)の名であり、曼荼羅の世界の覚りを示しており、それを人間の言葉で簡単に示しているのだ、と説いています。わかりますか、これ?。わからないですよね。簡単に書こうとしましたが、かえって、意味がわからなくなってしまいました。
もし、興味があって、詳しく知りたい、という方は、お寺まで聞きに来てください。文章では、説明しにくい部分がありますので・・・・・。

さて、般若心経の経題の意味するところ、おわかり頂けたでしょうか。般若心経の経題は、「覚りの得るための重要な方法がこの中に説かれている」、ということを示しているのです。


続きまして、いよいよ、経文の内容についてお話しいたします。一文ずつ、ゆっくりお話ししていきます。

2、「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄」
(かんじーざいぼーさー ぎょうじん はんにゃーはーらーみったじー しょうけん ごうん かいくうど いっさい くーやく)

先ずは、この一文についてお話いたしましょう。これは、漢文ですので、書き下し文にして見ます。
「観自在菩薩が深く般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空だと照見して、一切の苦厄を度したもう」
となります。あぁ、なんてわかりにくい文だ、とお思いでしょうが、まあ、勘弁してください。これからわかりやすく、一つ一つについて説明いたしますので・・・・。


*観自在菩薩
一般的に、「観自在菩薩」とは、「観音様」のことだと解釈されています。つまり「観自在菩薩」=「観世音菩薩」ということですね。
確かに、観世音菩薩−即ち観音様−は、別名「観自在菩薩」とも言われています。「観世音菩薩」は、「世の中の生あるものが苦しんでいて、助けを求めたならば、その助けを求める声を素早く観じて助けにやってきてくださる菩薩様」なので、「観世音菩薩」という名前を持っています。
「観自在菩薩」も意味的には、これと同じですよね。「世の中の生あるものが苦しんでいて、助けを求めたならば、その助けを求める声を自在に観じ取り、助けにやってきてくださる菩薩様」なので、「観自在菩薩」という名前をしているのです。
つまり、意味は同じで、言い方を変えただけ、ということですね。ですから、「観自在菩薩」=「観世音菩薩」と思っていただければ結構です。

ただし、お大師さん(弘法大師)は、そのようには解釈していません。「観自在菩薩」とは、「覚りを求めているすべての修行者」としています。つまり、特定の誰かを指し示しているのではなく、覚りを求めているものならば誰でもいい、ということですね。すべての修行者、という解釈をされています。ご参考までに。


行深般若波羅蜜多時
これは、わかりますよね。書き下し文の「般若波羅蜜多を深く行ずる時」にあたる一文です。
「般若波羅蜜多」については、前回お話しいたしました。もう一度意味だけいっておきますと、
「真実の智慧の完成、覚りで得ることのできる智慧の完成」
ということでしたね。「般若波羅蜜多」自体は、インドの古い言葉で、漢訳しないで、そのまま音写した言葉です。それについても、前回述べた通りです。詳しくは、「ばっくなんば〜2」をご覧下さい。
さて、その「般若波羅蜜多を深く修行した時」、というのが、この文の意味です。

もう一つの解釈が実はあります。それは、書き下し文を
「深般若波羅蜜多を行ずる時」
とした場合です。つまり、単なる「般若波羅蜜多」ではなく、「深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみった)」を行じた、という解釈です。一般的にいう「般若波羅蜜多」ではなく、さらに深い「般若波羅蜜多」を修行した時、という解釈です。

と言いましても、じゃあ、普通の「般若波羅蜜多」と「深い般若波羅蜜多」とどう違うのか、と尋ねられれば、ちょっと説明できないんです。「普通のより深いんですよ」としか答えられないんですよね。これは、密教的解釈なんですよ。ですから、言葉で表しにくいのです。お大師さんの解釈もちょっと難しく、説明しにくいんですよね。
あえて言えば、「般若波羅蜜多」より、一層ふか〜く、ふか〜く、掘り下げていったものが、「深般若波羅蜜多」ということでしょう。
とはいえ、密教的解釈は、よくわからないでしょうから(説明もできないし)、ここでは、「深般若波羅蜜多」の解釈は、採用しないでおきます。一般的解釈の方がわかりやすいですからね。
どうしても、密教的解釈が理解したい、と思う方は、修行してからのほうがいいと思います。体験をしないいと、わからない部分ですから。

ですので、この一文は、訳しますと
「真実の智慧の完成を深く修行した時」
となります。


*照見
これは「照らし見る」と書いてありますが、意味は、「はっきりわかる」ということです。「おぉ、そうか、わかったぞ!」というわかり方ですね。一種の覚りを開いた瞬間、とでもいいましょうか。大発見した時のようなわかりかたですね。


*五蘊
五蘊というのは、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の五つの要素のことをいいます。人間は、この五つの要素から成り立っている、と仏教では解釈しています。一つずつ見ていきましょう。

@色(しき) 
色(しき)というのは、物質全般を言います。目に見える物、のことですね。その中でも、特に肉体、身体を指し示す時にも使います。つまり、物や身体そのもの、のことですね。
色(しき)が肉体を表す意味で使われるので、そこから「色気」だの「色っぽい」だのと言う言葉が生まれてきたんですよ。肉体そのものを色が指し示しているので、女性の肉体に迷うことを「色に迷う」とか「色気に迷う」となったわけです。単に色(いろ)といえば、彼女のことを意味していますよね。元は、色(しき)が肉体を意味していることからだったのです。

A受(じゅ)
受とは、感覚、感受性のことをいいます。簡単に言えば、触ったときの感覚を意味します。或いは、心的に感じたことを意味します。肉体的にしろ、心的にしろ「受け止め」ですね。

B想(そう)
これは、心に浮かぶ思いのことです。ぼや〜と、心に浮かんでくる事柄、とでも言いましょうか。考えるのではなくて、思い浮かんでくること。考えたりすることよりも、もっと感情が入っていますね。

C行(ぎょう)
これは、こうしようとか、ああしようとか、いう意志や行動のことです。特に、衝動的行動や衝動的欲求のことをいいます。簡単にいえば、ああしたい、こうしたいと思う気持ちや、それに伴う行動全般ですね。

D識(しき)
これは、認識や意識のことです。考えたり、区別したり、整理したり、何かを意識したり、そうした働き全般を意味しています。

ということで、仏教では、人間は、
「肉体があり(色)、感覚や感受性があり(受)、こころに様々なものを思い浮かべ(想)、いろいろな行動を起こし(行)、考えたり、意識を持もったり(識)する生き物である」
と解釈したのです。人間は、五蘊−「肉体」と「感受性」と「想い」と「行動」と「意識」−で出来上がっているのです。


*皆空
「皆空」(かいくう)という言葉があるわけではありません。ちょっと、区切り方が変なだけです。ご了承ください。
これは、「皆」と「空」です。「すべて空だ」という意味ですね。
ところで、ここでわからないのは「空」でしょう。「空」とは何ぞやですね。
「般若心経」や「般若経」の最大のテーマは「空」です。この「空」がわからなければ、「般若心経」も理解できない、と言われます。しかし、その「空」が難しいのです。
否、「空」自体はそんなに難しいものではないのかもしれません。わかってしまえば、難しくはないものだと思います。ただ、説明ができないんです。「空」を言葉で説明しろ、と言われると、さぁーて、どうしましょう、となってしまうんですね。
「空」を説明しますと、一般的に「実体がない」という説明になります。「空とは、実体がない、と言うことである」と、たいてい説明がされています。でも・・・・・。
「実体がない」って、どういうことですか?。となるでしょ。実際に、どんなものでも、手に触れたり、眼に見えたりするものですよね。実体がない、と言われても・・・・・。実際には「ある」のですから、「実体がない」といわれても納得できません。
じゃあ、どう説明すればいいのか。これが難しい。ですので、この説明は、この「般若心経」の説明が全部終わりましたら、じっくりお話ししたいと思います。きっと、そのほうが「空」を理解しやすいのではないかと思いますので。否、決して、「空」の説明がいやで、先延ばしにしているわけではないですよ。でも、本当は「空」の説明は、避けて通りたかったのですが、そういうわけにもいきませんからね。とりあえず、一通り般若心経を現代の言葉に直してから、それから「空」についてお話いたしますね。
と言うわけで、先に進みます。


*度一切苦厄
書き下しますと「一切の苦厄を度す」となります。意味は「一切の苦しみや災いから解脱する」と言うことになります。これは、特別な説明はいりませんね。


以上をまとめて見ましょう。
「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄」
「観自在菩薩が、般若波羅蜜多を深く行ずる時、五蘊は皆、空だと照見して、一切の苦厄を度したもう」
「観自在菩薩が、真実の智慧の完成を深く修行した時、人間をつくっている五蘊−色受想行識−は、みんな空であると覚って、一切の苦しみや災いから解脱することができた。」
と言う意味になります。
もっと簡単に言ってしまえば、
「観自在菩薩が、真実の智慧の完成を求めて、ふか〜く修行していたら、ある時、『そうだ、人間の肉体や、感受性や接触すること、想い、行動や欲求、意識や考えたりすることは、みーんな空なんだ』と覚ったのだよ。そして、そのおかげで、一切の苦しみや災いから脱出することができたのだ。」
ということですね。


さて、次の文へと進みましょう。次は、有名な経文が出てきますよ。
3、「舎利子色不異空空不異色」
(しゃーりーしー しきふーいーくー くーふーいーしき)

先ずは、ここまでにしておきましょう。この一文についてお話いたします。書き下し文にする前に、区切りをつけておきましょう。そして、書き下し文を並べて書いておきます。
舎利子、色不異空、空不異色
「舎利子よ、色は空に異ならず。空は色に異ならず。」
となります。相変わらず意味がわかりにくいですね。わかりやすく、一つ一つについて説明いたします。

*舎利子
「舎利子」とは、お釈迦様の高弟であった「シャーリープトラ」のことです。前にも言いましたように、般若心経は、お釈迦様が直接説いたお経です。誰に説いたかと言うと、弟子やお釈迦様の教えを信じて集まってきていた人々に対して説いたお経です。ですから、その教えを聞いている人々に呼びかけているんですね。で、「みなさん」という代わりに、すぐそばで聞いていた一番弟子である「シャーリープトラ」に呼びかけているんですね。シャーリープトラは、お釈迦様のお話を聞きに来た人々の代表なのです。
ですから、この「舎利子」というのは、「人々よ!」、「みなさん!」というように意味をとってもいいのです。或いは、自分に呼びかけているんだ、と解釈してもいいくらいなんですよ。そうすれば、般若心経が身近に感じられますからね。

ちなみに、「舎利子」は、音写と翻訳が混ざっています。「舎利」は「シャーリープトラ」のうちの「シャーリー」の部分の音写です。「プトラ」は、古いインドの言葉で、「子供」という意味です。つまり「シャーリープトラ」は「シャーリーの子供」という意味です。昔のインドでは、こうした名前のつけ方があったようです(本名は別にあって、アダナのような場合もあります)。名前自体が、「誰それの子供」という名前なんです。ちょっと変ですよね。たとえば、山田さん宅のお子さんの名前を「山田の子」という名前にするようなものです。苗字と続けると「山田 山田の子」という名前になってしまいます。変な習慣ですよね。余談でしたが。

もう一つ余談。「舎利」は、仏舎利(ぶっしゃり)の時と同じ字を使っています。仏舎利とは、ご存知だと思いますが、「お釈迦様の遺骨」です。白い粒状をしています。形がごはん粒に似ているので、ご飯のことを「舎利(しゃり)」といいます。
紛らわしいのですが、単に「舎利」と言えば、それは「お釈迦様の遺骨の仏舎利」、または「ご飯」を表しています。シャーリープトラの場合は、必ず「子」がついて、「舎利子」となっています。お間違えの無いように・・・・。

ちなみに、もう一つ。シャーリープトラについて、少々。この方は、お釈迦様のお弟子さんの中でも、もっとも優れた方でした。「智慧第一」といわれ、お説教も上手でしたので、お釈迦様の晩年などは、疲れたお釈迦様に代わって、集まった人々の前でお話をしたりもしました。優秀だったのです。しかし、お釈迦様よりも先に、若くしてこの世を去っています。逸話も多く残っています。機会がありましたら、またお話しいたしましょう。


色不異空空不異色
さてさて、難しい話になってきますよ。いよいよ、わかりにくい部分がやってきます。
「色」といいますのは、現象のことです。現実世界のことです。前回も五蘊のところでお話しいたしましたよね。詳しくは、その項をご覧下さい(ばっくなんば〜2)にあります。
で、その現実世界は「空」に異ならない、と言っているんですね。また、逆に「空」は現実世界なんだ、とも言っているのです。わかりますか?

前回、「五蘊は皆、空だ」という一文について、お話しいたしました。五蘊というのは、「色・受・想・行・識」でした。それらが、皆、空だ、と覚って、一切の苦しみから脱出した、という内容でしたね。その「五蘊は空だ」という真実の内容を「舎利子〜」以降で述べていくのです。
で、その第一段が、「色不異空 空不異色」なのです。五蘊のうち、まず色について「色は空と異ならない。空は色に異ならない」と説明をしているのです。

が、その説明がよくわからないんですね。なんせ、空がよくわかりませんからね。
前回も申しましたが、空の意味については、最後にまとめてお話しします。なので、ここでは、表面的な意味だけを書いておきます。「色不異空 空不異色」の意味は、
「現実世界は、空と異なることは無い。また、逆に空は現実世界と異なることは無いのだ。」
となりますね。

で、これらをまとめて、もう少しわかりやすい文にまとめて見ましょう。
「舎利子 色不異空 空不異色」
「舎利子 色は空に異ならず 空は色に異ならず」
「舎利子(シャーリープトラよ、もしくは、人々よ)よ、この現実世界は、空そのものなのだよ。また、空とは、この現実世界そのものなのだよ。」
となります。続いて、次の一文にいきましょう。


4、色即是空空即是色受想行識亦復如是
(しきそくぜーくー くーそくぜーしき じゅーそーぎょーしき やくぶーにょーぜー)
この部分は、有名ですよね。色即是空です。よく耳にする言葉だと思います。まずは、原文を区切ってみて、書き下し文にして見ましょう。
色即是空、空即是色、受・想・行・識、亦復如是
「色は即ち是れ空 空は即ち是れ色 受・想・行・識もまたまた是の如し」 
となります。順番に意味を見ていきましょう。

色即是空空即是色
これは、前文の「色不異空 空不異色」のいい直しですね。というより、ずばり真実を言い切った、という感じです。前文では、「現実世界は空なんだよ」と、やや軟らかい表現でしたが、ここでは、スパッと言い切っています。つまり、
「現実世界は、即ち空なんだよ! 空は即ち現実世界なんだよ! わかるかい?」
というような感じですね。前文の強調なのです。


受想行識亦復如是
受・想・行・識は、いいですよね。前回の五蘊の項を参考にしてください。五蘊のうちの色以外のことですね。
で、これらも、色と同じようなのだ、とここでは言っているのです。
どういうことかわかりますよね。五蘊のうち、色については、「空である」と断言しました。で、他の受・想・行・識も、色と同じように空なのだ、ということを言ってるのです。また、逆に、「空は色だ」と同じように、「空は、受・想・行・識だ」ということなのです。それぞれ書き上げると、
色は即ち空  空は即ち色  (現実世界は空そのもの  空は現実世界そのもの)
受は即ち空  空は即ち受  (感覚は空そのもの  空は感覚そのもの)
想は即ち空  空は即ち想  (想いは空そのもの  空は想いそのもの)
行は即ち空  空は即ち行  (行いは空そのもの  空は行いそのもの)
識は即ち空  空は即ち識  (意識は空そのもの  空は意識そのもの)
となるのです。

左側の列については、何となく意味がわかると思います。すべては空、といっているようなものですからね。しかし、真中の列、つまり逆バージョンは、わかりにくいのではないでしょうか。これが、「色」のみならば、まだ理解できたかも知れません。単独ならばね。ところが、複数ですからね。空に対して複数が、「そのもの」と言っているのですから、わかりにくいのです。

ですから、これは、こう考えてください。
「空の中には、すべてが含まれる」と。
こう考えればわかるでしょう。つまり、上の文の( )内の後半部分に、「を含んでいる」と付け加えればわかるのではないでしょうか。
空は色そのものを含んでいる、空は受そのものを含んでいる、空は想そのものを含んでいる、空は行そのものを含んでいる、空は識そのものを含んでいる・・・・・。
これならば、わかるでしょう。算数の集合の問題ですね。空は、すべてを含んでいるのです。

ですから、「色即是空」だし、「空即是色」なのであり、他の受・想・行・識も「即ち空」であり、「空は受・想・行・識」でもあるのですよ。

以上、まとめてみましょう。
「色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」
「色は即ち是れ空 空は即ち是れ色 受・想・行・識もまたまた是の如し」
「現実世界は空そのものなのだよ。空は現実世界を含んでいるのだよ。五蘊の他のもの、感受性や感覚も(受)、心に持っている想いも(想)、行いも(行)、意識も(識)、すべて同じなのだよ。みんな空であり、空の中にあるもの、空に含まれているものなのだよ。」
となります。


5、「舎利子是諸法空相」
(しゃーりーしー ぜーしょーほうくうそう)

とりあえず、ここで切れますので、ここまでにしておきます。これを書き下し文にしますと、
「舎利子よ、是の諸々の法は空の相にして」
となります。これでは、何のことかさっぱりですね。わかりやすく、一つ一つについて説明いたしますが、舎利子については、いいですよね。お釈迦様の高弟、シャーリープトラのことでした。忘れた方は、バックナンバーをご覧下さい。ですので、その後の文についてお話します。

*是諸法空相
「是」は、「これ」です。「諸」は、「もろもろの」「いろいろの」です。極普通の解釈です。特別な解釈はありません。問題は、次の「法」です。
一般に、仏教では「法」というと、お釈迦様が説かれた教えのことをいいます。しかし、ここでは違います。この「法」は、単に「お釈迦様が説かれた教え」だけでなく、眼に見える、耳で聞こえる、匂いでわかる、舌で味わう、身体で感じられる、心で感じられる、すべての現象を意味しています。つまり、人間が体験するすべての事柄を意味しているのです。そのすべての現象が、「空」の「相」をしている、ということなのです。「空」の「相」というのは、「空の姿」とでも思ってください。すべてが、「空の姿」、あるいは、「空の顔」をしているのだよ、ということなのです。
ですから、簡単に言えば、
「この世で起こりうる、感じられるすべての現象や思いなどは、ぜーんぶ空の姿をしているんですよ」

ということですね。こうやって、簡単に言ってくれればいいのに、お経はどうして、こう難しい表現をするのでしょうか。

まとめて見ましょう。
「舎利子是諸法空相」
「舎利子よ、是の諸々の法は空の相にして」
「舎利子よ、この世で起こりうる、感じられるすべての現象や思いなどは、ぜーんぶ空の姿なのだよ。」
となりますね。さて、次に行きましょう。


6、「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
(ふーしょうふーめつ ふーくーふーじょう ふーぞうふーげん)

これも、般若心経の中では、有名な一文なのではないでしょうか。書き下し文にして見ましょう。
「生まれず滅せず 垢つかず浄(きよ)からず 増さず減らず」
となります。さて、これの意味、わかりますか?。
先の文で、この世の事柄、現象はすべて空である、と断定いたしました。誰が何といっても、この世の出来事は、この世のことは、すべて空なのである、のです。
すべてが空であるならば、それらは変化しているようでも変化してないはずです。なぜなら、現象そのものは空だからです。変化ということも空なのですから、変化している、と断言はできないわけです。
すべては空。ならば、「生まれることも無いし、死することも無い。清いとか汚いとかも無い、増えるとか減るとかも無い」、のです。
なぜなら、すべては空だからです。わかりますか?。わからないですよね。わたしにもわかりません。

私達はこの世に生まれています。実際にはね。ですから、日々生活していれば、垢もつきましょうし、汚れもしましょう。風呂に入って、その汚れを落とすこともしましょう。給料が増えたとか、体重が増えたとか、ボーナスが減ったとか、中性脂肪が減ったとか、一喜一憂する毎日を送っていることでしょう。
しかし、般若心経によれば、そんなことは気にするな!となるのですよ。なぜなら、そういった現象は「空」なのですから。「空」の世界から見れば、生まれるだの死ぬだの、汚いだのきれいだの、増えるとか減るとか、そんな現象は、ちっちゃなことに過ぎないんですね。
この世で起こること、感じること、それらは、みーんな小さな小さなことなのですよ。「空」の観点からすればね。だから、いちいちこだわるな、悩むな、ということなのです。このことを次の文で多少具体的に述べています。それについて、お話する前に、今までのところをまとめておきましょう。
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
「生まれず滅せず 垢つかず浄(きよ)からず 増さず減らず」
「(だから)生まれることも無いし、死することも無い。清いとか汚いとかも無い、増えるとか減るとかも無い」


7、「是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」
(ぜーこーくうちゅう むーしきむーじゅーそうぎょうしき むーげんにーびぜつしんに むーしきしょうこうみーそくほう)

ここから、「無」シリーズが始まります。まずは、書き下し文にします。
「是の故に、空の中には、色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無い」

この世に起こりうること、或いは、人々の思い、それらすべては、空なのですから、その空の観点からすれば、何にも無いのと同じなのです。みんな空なのだから、現象はもちろん、感受することや想い、行い、意識なども空なのです。ですから「こだわるものでは無い」のですね。すべては空なのですから、眼も耳も鼻も舌も心も無いのです。なので、眼で見ることも、声も香りも味も接触も何もかも無いんです。
空という世界、その世界からみれば、この世にあるものは無いのです。カッコイイ男も、不細工な男も、美人もブスも、そんな見てくれなんてどうでもいいんです。空なのですから。こだわってはいけないんですね。

彼女への思いも、彼への思いも、かわす愛の言葉も、無意味なのです。空なのですから。こだわってはいけないんです。
あそこの店が美味しいとか、香りが身体にいいとか、優しく奏でる音楽に心奪われるとか、そんなことは、どーでもいいことなのです。空なのですから。
熱い口づけも抱擁も、いとおしく想う気持ちもないんです。こだわってはいけないんです。とらわれてはいけないのです。なぜなら、空なのですから。
「すべては空なのですから、空の世界から見れば、現象も無ければ、感受することや想い、行い、意識なども無いのです。眼も耳も鼻も舌も身体も心も無いのですから、眼で見ることも、耳で聞くことも鼻で嗅ぐことも舌で味わうことも、身体で感じることも、心で想うことも無いのです。」
そう、すべては空なのですから、いちいち現象にこだわっていてはいけないのです。

ここの部分をまとめて見ましょう。
「是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」
「是の故に、空の中には、色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無い」
「すべては空なのですから、空の世界から見れば、現象も無ければ、感受することや想い、行い、意識なども無いのです。眼も耳も鼻も舌も身体も心も無いのですから、眼で見ることも、耳で聞くことも鼻で嗅ぐことも舌で味わうことも、身体で感じることも、心で想うことも無いのです。」
となります。この「無」の例は、まだまだ続きます。


8、「無眼界 乃至無意識界」
(むーげんかい ないしむーいしきかい)

ちょっと、ここで切ります。次のところまで・・・とも思ったのですが、説明が長くなりそうなので、それは次回に廻します。今回はここまでです。書き下し文にしましょう。
「眼の世界も無い 乃至 意識の世界も無い」
となります。
これは、前文の続きのようなものです。前文で、「眼耳鼻舌身意」について空であるということを説明しましたね。また、「眼耳鼻舌身意」そのものも空であるから、それらが行うことである「見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、感じたり、思ったり」することも空だと説きました。
で、その続きで、「眼で見る世界も無い」と説くのです。まあ、範囲を広げたわけです。ただ「見る」ことが空なのではなくて、「眼で見るすべての世界」も空なのだ、ということですね。同様に、「聞こえる世界、臭いの世界、味の世界、触れることの世界」も空なので、「無い」のですが、ここでは「乃至」ということばで省略しています。で、最後の「意識の世界も無い」で、締めくくっているのですね。
まったく難しいものです。ただ単に、見えること自体が、見ること自体が「空」なのではなくて、眼に入るすべての映像が空なのだ、とここで言っているわけですね。
何ゆえそこまで強調するのか。それは、眼で見えているのに、見えてないこともあるからです。いわゆる見落としですね。見たはずなのに、見落としてしまう。そういうこと、ありますよね。まあ、それこそ空なのですけどね。そういう見落としも含めて、眼に映るすべての世界は無、としたのです。漏れが無いように強調しているのです。とりあえず、まとめておきましょう。
「無眼界 乃至無意識界」
「眼の世界も無い 乃至 意識の世界も無い」
「眼で見る世界も無い、同様に耳鼻舌身もそうだが、省略して、意識の世界も無い」

あ、そうそう、言い忘れておりましたが、この「眼耳鼻舌身意」は、仏教の言葉で「六根(ろっこん)」といいます。富士山に登るとき、「六根清浄」などと掛け声をかけて登りますよね。これは、「六根」即ち「眼耳鼻舌身意」が「清浄」である、ということを意味しています。つまり、聖地である富士山を登るのですから、「眼も耳も鼻も舌も身体も心も清浄である」と唱えているわけです。また、そうなるように願っているわけですね。
清浄である、というのは、「眼耳鼻舌身意」で罪を犯さないことをいいます。たとえば、「偏った見方をしない、のぞき見をしない、盗み聞きしてはいけない、偏った聞き方をしてはいけない、いい匂いばかり嗅いではいけない、匂いにこだわってはいけない、味に文句をつけない、身体での罪を犯さない、心がきれいであるようにする」といったところでしょうか。富士山に登るときだけでなく、普段から「六根清浄」を心掛けたいものです。


さて、以上を全部まとめておきます。意味は、わかりやすいようにしておきます。通して読めば、わかりいいですからね。
「舎利子是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界」
「舎利子よ、是の諸々の法は空の相にして 生まれず滅せず 垢つかず浄(きよ)からず 増さず減らず 是の故に、空の中には、色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無い 眼の世界も無い 乃至 意識の世界も無い」
「舎利子よ、この世で起こりうる、感じられるすべての現象や思いなどは、ぜーんぶ空の姿なのだよ。だから空の観点からすれば、生まれることも無いし、死することも無い。清いとか汚いとかも無い、増えるとか減るとかも無い。すべては空なのだから、空の世界から見れば、現象も無ければ、感受することや想い、行い、意識なども無いのだよ。眼も耳も鼻も舌も身体も心も無いのだから、眼で見ることも、耳で聞くことも鼻で嗅ぐことも舌で味わうことも、身体で感じることも、心で想うことも無いのだよ。眼で見る世界も無いし、同様に耳鼻舌身の世界も意識の世界も無いのだよ。」


9、「無無明 亦無無明尽」
(むーむーみょう やくむーむーみょうじん)

これを書き下し文にしますと、
「無明も無く また無明が尽きることも無い」
となります。ここでわからない言葉は、「無明」でしょう。では、これについて、詳しくお話いたします。

*無明
「無明」とは、別の言い方をすれば「無智」となります。これは、「頭が悪い」とか「大馬鹿者」とか「ドアホウ」という意味ではありません。これは、「真理を知らない、理解しようとしない」という意味です。
お釈迦様は、人々がこの世に生まれ苦しみを受ける理由として、「十二因縁」と言う真理を覚りました。ちょっと難しいかも知れませんが、「無明」を説明するには避けて通れないものですので、説明いたします。

「十二因縁」とは、この世のすべての現象には、必ず「原因」があり、その原因を発動させる(成長させるとでも言いましょうか)「作用」(これを「縁」といいます)があり、そして「結果」が生まれる、という原因と結果のつながりを具体的に説いたものです。つまり、物事すべてには、そうなった種(原因)があって、その種が育った働き(縁)があって、そして結果が生まれてくる、ということです。
お釈迦様は、先ず初めに「なぜ人は老い、死するのか」ということを考えました。ここから始まり、根本の原因を探っていったのです。これが十二因縁の教えです。そのまま書くと、わかりにくいので、現代風にアレンジします。その点ご了承ください。(本当は、12種類のからみを説いていくのですが、わかりやすくするために割愛しました。)


人が「老い、死ぬ」原因は、この世に「生まれる」ことにあります。この世に生まれてくるから死ぬんです。この世に生まれてこなければ、死ぬことはありません。当然ですよね。
でも、この世にあなたは生まれてきてしまった。なぜ、生まれてきたのか・・・・。
それは、前世において、この世に生まれる原因を作ったからです。その原因とは、「この世に生まれて来たい」という「思い」です。

なぜ、そういう「思い」を持ったかと言うと、それはこの世にあるものに「執着心」を持ってしまったからです。
その「執着心」の相手は、人かもしれませんし、お金かもしれません。宝物かも知れませんし、権力かも知れません。その相手は何でもいいんですが、なぜかその相手に「執着心」を持ってしまったんです。
なぜ、執着心を持ってしまったのか。それは、その相手を「愛してしまった。欲しくなってしまった。熱望してしまった」からでしょう。だから、その相手に執着してしまったのです。心がとらわれちゃったんですね。
じゃあ、なぜ、その相手に虜になってしまったのか。それは、その相手に「出会ってしまった」からです。
出会ってしまい、それを「見たいと思い、触れたいと思い、味わいたいと思ったり」しちゃったんですね。そういう「感情」を持ってしまったんです。

なぜそんな感情を持ったかと言うと、この自分の身体には、感情を生み出させる「肉体があり、心の働き」があるからです。感情を生み出してしまう心があるからいけないんですね。
なぜ心は働いてしまうのか。それは、真理を知らないからです。その真理を知らない無智がいけないんです。真理を知っていれば、心も働きません。ならば、余分な感情も生まれないでしょう。感情が無ければ触りたいとか、見たいとか、味わいたいとかいう思いも無い。そういう思いがなければ、愛することも無いんです。
愛が無ければ執着心も生まれない。ものに執着しなければ、この世に未練などさらさら無い。
未練が無ければ、この世に生まれたい、という思いも無い。この世に生まれたい、と望まなきゃ、この世に生まれてこない。そうすりゃ、老いも死も無い。

つまり・・・・。我々の苦しみは、すべて真理を知らない無智が原因と言うわけなんです。真理を知らない無智が、欲望を生み出し、その欲が私たちを悩まさせるのです。
ですので、お釈迦様は、悩みたくなければ、無智を捨てなさい、と説くわけです。つまり、真理を知りなさい、ということです。

ところが、般若心経では、その無智(=無明)は無い、と説いています。しかも、その無智が尽きることも無い、と説いているのです。
なぜか・・・・。それは、空だからです。空の中には、様々な感覚など無い、というお話を前回しまたね。その空の世界から見れば、すべての悩みや苦しみの原因である無智も無いのです。無智が無いのですから、無智が無くなるということもないんです。
これが、「無無明 亦無無明尽」の意味なんです。たったこれだけの文字で、こんなにも説明が要るんですよ。それでも、まだ、すべてを語っているわけではないんですが・・・・。恐るべし!般若心経ですね。
一応、まとめておきます。

「無無明 亦無無明尽」
「無明も無く また無明が尽きることも無い」
「すべての悩みや苦しみの根本原因である真理を知らぬ無智も無く、その無智が無くなってしまうということも無いのだよ。」
となりますね。ふぅー、ここまでで疲れてしまいますね。次に行きましょう。


10、「乃至無老死 亦無老死尽」
(ないしー むーろうしー やくむろうしーじん)

書き下し文にして見ましょう。
「乃至 老死も無く 老死が尽きることも無い」
前の文で、老いや死の根本原因である「無智」が無い、と説きました。ですので、当然無智が生み出すものは無くなりますよね。だから、老いも死もなくなるんです。
同様に、無智がなくなることも無いのですら、老いや死がなくなることも無いのです。

あぁ〜、わけわからんぞ〜! と思った方。あなたは正常です。ご安心下さい。これがわかってしまったあなた。道を間違えています。聖者への道を歩んでください。
忘れちゃいけないのは、「空の世界観から見れば」ということです。あくまでも、今は、空の感覚でものを見れば、と言う前提のもとでお話をしていますからね。
とりあえず、まとめておきましょう。
「乃至無老死 亦無老死尽」
「乃至 老死も無く 老死が尽きることも無い」
「だから、無智の結果である老いや死も無いし、その老いや死が無くなるということも無いのだよ。」
で、次に行きます。

11、「無苦集滅道 無智亦無得」
(むーくーじゅうめつどう むーちーやくむーとく)

書き下し文にします。
「苦集滅道 無智また無得も無い」
ここでわからない言葉は「苦集滅道(くじゅうめつどう)」(この4文字で一組です。)と「無得」でしょう。順にみていきます。

*苦集滅道
この言葉は、「四諦(したい)」と呼ばれています。普通は、苦・集・滅・道の下に諦の字をつけます。つまり
「苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)」というものです。

「苦諦(くたい)」とは、「この世は苦しみの世界である」という真理を意味しています。
「この世は苦しみの世界」と、あなたは思いますか?。そんなことはない、いいこともあるよぉ〜、という方もいますでしょう。でもね、この世は、やっぱり苦しみの世界なんですよ。いいことは、ほんの一時のことにしか過ぎないんですよね。
たとえば、老いることは苦しいことでしょ。病気になることも苦しい。死はもっと苦しい。いやな相手や憎い相手と出会うことは苦しいでしょ。別れたくないものと別れることは苦しいでしょ。手放したくないものを手放すのはつらいでしょ。欲しいものが手に入らない、いやなこともしなきゃいけない、そういう時、とってもつらいし苦しいでしょ。感情が抑えきれず、身体と心のバランスもとれず、心が勝手にいろんなことを思ってしまうというのは、とっても苦しいことでしょ。誰でも、一度や二度は味わったことがあるのではないでしょうか。この世は、本当に苦しみが多い世界なのですよ。否、苦そのものなんですよね。

「集諦(じったい)」とは、「苦しみの原因は煩悩、即ち無明にある」という真理を意味しています。
この世は苦しみの世界なのですが、そう思うのには原因があります。それは、煩悩です。煩悩とは、欲望ですね。ああしたい、こうしたい、あれが欲しい、これが欲しい、ああなりたい、こうなりたいなどなど・・・。そうした欲望がもとで、苦しみは生まれてくるのです。で、その煩悩が生まれる原因は、やっぱり無智なんですね。すべての苦しみの原因は、己の無智がいけないんですよ。というのが「集諦」の意味です。

「滅諦(めったい)」とは、「その無智を滅してしまいましょう」という意味です。無智を滅してしまえば、心すっきり、なーんにも愁うこともないし、心配することも無い。苦しみもなーんにもなくなります。つまりは、覚った世界ですね。その世界に入りましょう、というのが「滅諦」の意味するところです。

「道諦(どうたい)」は、「その苦しみの無い世界に入る方法があるんだよ」ということを意味しています。「道」とは手段のことですね。つまり、修行方法です。その方法の一つに八正道(はっしょうどう、または八聖道)があります。
八聖道(はっしょうどう)とは、
1、正見(しょうけん)−正しく見ること。正しい見解。偏った見方をしない、欲にとらわれた見方をしない、ということですね。

2、正思惟(しょうしゆい)−正しい考えのことです。偏った考え方をしない、ということですね。

3、正語(しょうご)−正しい言葉遣いのことです。うそを言ったり、流行言葉を使ったり、おべんちゃらをいったり、悪口を言ったりしないで、正しい言葉を使うことです。

4、正業(しょうごう)−正しい行いのことです。よいことをして、悪いことはしないということです。具体的には、泥棒しない、殺生しない、浮気をしない、ということですね。

5、正命(しょうみょう)−これは、正しい生活習慣を送ることです。夜更かししたり、怠惰な生活を送ったりしないで、日常生活を正しく生活することです。

6、正精進(しょうしょうじん)−これは、正しい努力のことです。正しい努力とは、怠りなくしかもやり過ぎず、適度な努力のことを言います。

7、正念(しょうねん)−正しい思慮のことです。2の正思惟とよく似ていますが、2は考え方であって、これは、思いを重視しています。

8、正定(しょうじょう)−正しく瞑想することです。座禅でもいいです。何もにもとらわれること無く、瞑想することを言います。
こうした8つの修行をすることにより、覚りへと向うわけですね。

苦集滅道とは、この世は苦しみの世界であると知り、その元である煩悩を滅し、心静かなる世界に入るために、八つの正しい修行をしなさい、という教えなのです。

*無得
無得とは、何もにもとらわれない境地のことを言います。執着心がなくなった状態のことです。

以上をまとめてみましょう。
「無苦集滅道 無智亦無得」
「苦集滅道 無智また無得も無い」
「この世は苦しみの世界であるという真理も、その苦しみの元である煩悩も、その煩悩を滅し、心安楽な世界へ入ることも、そのための八つの正しき修行も、無智もとらわれのない境地も無いのだよ。」
となるのです。


12、「以無所得故」
(いーむーしょっとこ)

前半最後です。書き下し文にしましょう。
「無所得を以っての故に」
となります。
いままで、空の世界から見れば、「何も無い」ということを様々な例をあげて述べてきました。その「無い」理由は何かといと、「無所得」であるからなんですよ、とここで説いているわけです。
「無所得」とは、実は「無得」と同じ意味です。つまり「何のとらわれも無い境地」のことです。「執着心が全くない境地」のことです。

そりゃ、おかしいじゃないか・・・・と思うでしょ。私もそう思います。
先ほど、「とらわれの無い境地も無い」と説いたばかりなのに、そのすぐ後で、「その理由は、とらわれの無い境地によるものなのだ」と説いている。矛盾してますよね。

これはね、何のとらわれもない世界に入ってしまうと、とらわれのない心と言うものもなくなってしまう、ということが言いたいのですよ。
つまり、「私は、とらわれの無い境地に達した」という段階では、「とらわれの無い境地にいる」という「とらわれ」があるでしょ。まだ、「とらわれの無い境地」に執着しているんです。
本当に「とらわれの無い境地」に達したら「とらわれの無い境地に達した」という気持ちもなくなるはずです。
覚ったという気持ちがあるうちは、本当に覚ってないんです。本当に覚ったのなら、覚ったことすら感じなくなるんです。
知識が知識であるうちは単なる知識ですが、知識が自然に言動に現れるようになれば、それは知識ではなくなっている、ということと同じです。あー、余計にわからなくなってしまったかな?。

まとめますと、
「以無所得故」
「無所得を以っての故に」
「なんのとらわれの無い境地に入ったからこそなのだよ。」


さて、今回のところを全部まとめておきます。
「無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故」
「無明も無く また無明が尽きることも無い。乃至 老死も無く 老死が尽きることも無い。苦集滅道 無智また無得も無い。無所得を以っての故に。」
「すべての悩みや苦しみの根本原因である真理を知らぬ無智も無く、その無智が無くなってしまうということも無いのだよ。だから、無智の結果である老いや死も無いし、その老いや死が無くなるということも無いのだよ。この世は苦しみの世界であるという真理も、その苦しみの元である煩悩も、その煩悩を滅し、心安楽な世界へ入ることも、そのための八つの正しき修行も、無智もとらわれのない境地も無いのだよ。それは、なんのとらわれも無い境地に入ったからこそなのだよ。」
さて、どうでしょうか。お分かりいただけたでしょうか。
以上で、般若心経の前半部分が終わりです。ですので、次回は前半部のまとめをいたします。また、空についてもお話いたします。合掌。



参考にしてください
1、なぜ漢訳しないのか?
漢訳すると、本来の意味が損なわれてしまう場合があるからです。例えば、「般若」を「智慧」と訳すと、ちょっと意味が違ってくるんです。単なる智慧じゃないですからね。覚りを得た仏陀の智慧、なのですから。
で、一般的な言葉との違いを示すために、あえて訳さなかったんです。
仏教の言葉には、言葉では伝わらないものが多くあります。実際に経験してみないとわからない部分ですね。言葉にしてしまうと、かえって意味がぼやけてしまう、そういう部分があります。それを埋め合わせるためにも、漢訳しない方がいいだろう、と思われた言葉は、そのままにしてあるんですね。真言などは、その代表で、訳すとまるっきり意味が薄っぺらになってしまうんです。
言語を越えたところに真実の覚りがあります。それは、その世界に飛び込んでみないとわからない部分なんですね。

2、インドの古い言葉って?
インドの古い言葉には、サンスクリット語とパーリー語があります。大まかに言って、サンスクリット語は身分の高い人々の言葉で、パーリー語は庶民の言語です。これらは、発音が多少異なります。例えば、「般若」は、サンスクリット語では「プラジュナー」ですが、パーリー語では「パンニャー」となります。インドの言葉で書かれたお経には、サンスクリット語で書かれたものやパーリー語で書かれたものが混在しています。なので、音写された時も、元がパーリー語なのか、サンスクリット語なのか、バラバラです。「般若」の場合は、パーリー語が近いですね。
ここで、お話するときは、サンスクリット語を中心にお話します。たまにパーリー語を使うかもしれませんが。学者ではないので、その時その時、発音しやすい方や、一般的に通用する方を選びたいと思います。
ご了承くださいね。合掌。


追記・・・お経の読み方などは、私どもの宗派「高野山真言宗」のお経本に従っています。他宗派の読み方は異なる場合があります。詳しくは、あなたの家の菩提寺でお聞きください。合掌



ばっくなんばあ〜3


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