ばっくなんばぁあ〜3


第 二 章 

「般若心経」の二

般若心経の前半部分が終了しましたので、そのまとめを致します。また、前半部の最大のテーマ、「空」についても触れてみたいと思います。
先ずは、般若心経の前半部分のまとめからです。

一応、経文も書いておきましょう。
「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至 無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至 無老死 亦無老死尽 無苦集滅道無智亦無得 以無所得故

これを書き下し文にしますと、
「観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆、空と照見して 一切の苦厄を度したまえり。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、受想行識もまた是の如し。舎利子よ、是の諸法は空の相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増えず減らず、是の故に空の中には色は無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無く、眼界も無く、乃至 意識界も無い。無明も無く、また無明が尽きることも無い。乃至、老死も無く、また老死が尽きることも無い。苦集滅道も無智もまた無得も無い。無所得を以っての故に。」
となります。

さて、その意味をざっとおさらいしておきましょうね。
般若心経は、お釈迦様が説かれたお経ですから、お釈迦様が説いているような、そんな書き方をします。そのほうがわかりやすいですからね。

「人々よ、これより、偉大なる仏の智慧−般若波羅蜜多−についての重要な教えを説きましょう。
観自在菩薩が仏の智慧である『真実の智慧』の完成を求めて、ふか〜く修行していたら、ある時、『そうだ、人間の肉体や、感受性や接触すること、想い、行動や欲求、意識や考えたりすることは、みーんな空なんだ』と覚ったのだよ。そして、そのおかげで、一切の苦しみや災いから脱出することができたのだ。

シャーリープトラをはじめ、ここに集う人々よ、この現実世界は、空そのものなのだよ。また、空とは、この現実世界そのものなのだよ。


現実世界は空そのものなのだよ。空は現実世界を含んでいるのだよ。感受性や感覚も(受)、心に持っている想いも(想)、行いも(行)、意識も(識)、すべて同じなのだよ。みんな空であり、空の中にあるもの、空に含まれているものなのだよ。

シャーリープトラよ、この世で起こりうる、感じられるすべての現象や思いなどは、ぜーんぶ空の姿なのだよ。
だから空の観点からすれば、生まれることも無いし、死することも無い。清いとか汚いとかも無い、増えるとか減るとかも無いのだ。
すべては空なのだから、空の世界から見れば、現象も無ければ、感受することや想い、行い、意識なども無いのだよ。眼も耳も鼻も舌も身体も心も無いのだから、眼で見ることも、耳で聞くことも鼻で嗅ぐことも舌で味わうことも、身体で感じることも、心で想うことも無いのだよ。
眼で見る世界も無いし、同様に耳や鼻、舌、身体で感じる世界も意識の世界も無いのだよ。

すべての悩みや苦しみの根本原因である真理を知らぬ無智も無く、その無智が無くなってしまうということも無いのだよ。
だから、無智の結果である老いや死も無いし、その老いや死が無くなるということも無いのだよ。
この世は苦しみの世界であるという真理も、その苦しみの元である煩悩も、その煩悩を滅し、心安楽な世界へ入ることも、そのための八つの正しき修行も、無智もとらわれのない境地も無いのだよ。
それは、なんのとらわれも無い境地に入ったからこそなのだよ。」


以上が、前半部分です。通して読んでみると、わかりやすいのではないでしょうか。まあ、簡単にざっくばらんに言ってしまえば、
「観自在菩薩という方がね、仏さんの究極の智慧の修行をしていたの。で、その修行中にハッとひらめいたの。世の中はすべて空なんだ、ってね。で、空なんだから、この世にあるものは、目に見えるもでも、聞こえるものでも、においでも、なんでもかんでも、ぜーんぶ無い、んだな。何にも無いんだよ。空の世界から見たら、何にも無いんだよ。空である、ということすらないんだよ。それはね、何にもこだわりのない、とらわれの無い世界なんだよ。その世界に入っちゃえば、すべての苦しみや災いなんかなくなっちゃうんだよ。空ってのは、そういうものなんだよ。」
となるでしょう。わかりやすいでしょ。


さて、ここで問題となるのは、やはり「空」でしょう。「空」とはなんぞや、ですよね。上の訳文を読めばわかると思いますが、「空」というのは、簡単に言えば、
「なんのとらわれもない、こだわりのない心の状態」
のことです。

これはね、本当に説明しにくいんですよ。観念的なことですからね。で、古来より、坊さん達も、空とはなんぞや、と問答をしてきたんです。しかし、これは問答してもわかるものじゃないでしょう。ある日、ふとわかるものなんです。
空の説明を受けても、「頭の中にその言葉はあるけど、よくわからない」、という状態が普通じゃないでしょうか。空って何?と聞かれれば、「何のとらわれもない心の状態らしい」とは言えますが、実感としては無いのではないでしょうか。
ところが、ある日、ふとしたことで、これがわかっちゃうことがあるんです。禅で言う「覚悟しました!」とか「大悟した!」というものですね。空がわかる時とうのは、そう言う時なんです。
ですから、今わからなくていいのです。いつか、「あー、そういうことだったのか」という時が来るでしょう。(もしかしたら、来ないかも知れませんが、その時は来世でわかればいいことだし・・・・。)
それでいいのですよ。

ただ、頭の中にこれだけ入れておいてください。
「空とは、何のこだわりもない心の状態である」
ということをね。

空について少しでもわかることができるように、二つのお話しを紹介しておきます。参考になればいいかな、と思います。
一つは、えいろくすけ(漢字をすっかり忘れました)さんの本(確か「大往生」だったと思います)に載っている「空」の説明です。興味のある方は、読んでみてください。それによると、「空とは、ドーナッツの穴のようなものだ」なのだそうです。どう言う事かというと、「ドーナッツの穴はあるのだけど、無い」でしょ。ドーナッツの穴は、確かにありますよね。でもつかめないでしょ。触れないし、見ることもできないし、穴そのもののにおいも無い。穴はあるけど、実際にはない。
これが「空」なんです・・・・。
確かに、なるほど・・・・ですよね。言い得て妙、ですよね。確かに、空ですよ、ドーナッツの穴は。面白い説明だな、と思いました。皆さん、どう思いますか?。


もう一つは、聞いた話です。ちょっと長いですが、空についてわかりやすいので・・・。
ある雲水(修行僧のことです。雲の如く水の如く生きる、ということから修行僧のことを雲水と言います。それこそ空なのですが・・・。)が二人、住職に頼まれ、隣山の寺まで行く事になりました。二人は、傍から見るとライバルのような存在で、いつも競っているような、そんな仲の雲水でした。確かに片方は、いつももう一方の雲水を意識していたようでした。わかりにくいので、いつも意識していた雲水をチンネンさん、もう一人のほうをエイネンさん、としておきましょう。
さて、チンネンさんとエイネンさん、隣山の寺まで歩いていきました。隣山の寺まで行くには、途中で川を渡らなければなりません。そこは橋が無く、歩いて渡るのです。船などありません。普段は浅い川なのですが、その日は、前日の雨のため、増水していました。

二人が、その川まで来ると、そこに一人の若い女性がたたずんでいます。チンネンさんが声を掛けました。
「どうされたのですか」
すると若い女性が答えました。
「川を渡って、山の上のお寺まで行きたいのですが、この通り、増水してしまって、怖くて渡れないのです。」
「あー、そうですか。それは困りましたね。今、しばらく待っていなさい。私たちが、川を渡って、お寺で綱でも借りて来ましょう。それに捕まれば、渡れますから。」
「えぇ、でも・・・。」
「なーに、心配は要りませんよ。」
と言って、チンネンさん、川を渡り始めました。その時、エイネンさんは、何を思ったのか、
「お嬢さん、私がおぶってあげましょう。どれ、背中に捕まりなさい。」
と言って、その若い女性をおんぶしたのです。

雲水にとって、女性に触れる事はもってのほかです。僧侶は女性に触れてはいけない決まりなのです。修行の妨げですからね。ですから、チンネンさんは、おんぶなどと言うことは思いもよりませんでした。
ところが、エイネンさん、さっさとその若い女性をおんぶして川を渡ってしまったのです。
「もう大丈夫ですよ。あとは一人でいけますね。では、私たちは先を急ぎますんで・・・。」
「あ、ありがとうございました。」
こうして、川を渡れず困っていた女性は、おんぶしてもらい川を渡る事ができたのです。

ところが、面白くないのはチンネンさん。自分の案が無視されたばかりでなく、エイネンさんが若い女性と触れたことが気にいらない。チンネンさんもエイネンさんも若い修行僧です。女性に興味がないと言ったらウソになるでしょう。で、チンネンさん、ムスッとして黙りこくってしまいました。
『ナンデェー、エイネンのやつ。女なんか背負いやがって・・・。どうだったんだろうなぁ。女性を背負うと言うのは。胸なんか当ったりして気持ちよかったのかな。いいなぁ、うらやましいな。俺もおんぶしてあげればよかったかな。面白くないな、クッソー』
そんなことばかり考えていました。で、とうとう黙っていられなくなって、突然、立ち止まり、
「エイネン、お前、戒律破ったな。女性を背負うとはなんだ。寺に帰ったら和尚様に報告するからな。」
と怒り出しました。エイネンさんは、えっ?と言うような顔をして、
「なんだお前、まだ背負っているのか。俺は、河原で下ろしてきたぞ。」
と一言だけ言って、さっさと歩き出したのです。
チンネンさんは、返す言葉も無く、呆然としてしまったそうです。

わかりますか?。空とは、エイネンさんのとった行動そのものなのです。エイネンさんにとって、川で渡れなくて困っていたのは、人間であって、女性とも思っていなかったんです。エイネンさんは、それが動物であっても、老人であっても、若い女性であっても、誰であっても背負って川を渡っていたでしょう。
そして、その功績というか、「俺が助けてやった」という思いも持たなかったでしょう。背負っていた人物を、川を渡って下ろした瞬間に、「背負っていた」ということも下ろしてしまったのです。

「空」とは、何のこだわりもないことです。エイネンさんのように、何にも心にひっかからない、そういう状態です。いつまでも背負っていない状態です。また、やったことを誰かに認めてもらいたい、ということもないんです。ただ淡々と雲が行くように、水が流れるように、自然にとった行動なのです。そういう生き方が「空」なんですね。
(雲水と言うのは、こういう意味なんですよ。「雲行流水」がもとの言葉です。雲が行く如く、水が流れる如く、何にも引っ掛からないで、周りの状態に合わせて、無理なく、角も立てず、自然に生きていくことを意味しています。)

ところが、人は、ついつい引っ掛かってしまうんです。いつまでもこだわってしまうんです。成功した事は自分の手柄にしたいし、失敗した事は他人のせいにしたい。人がいい思いをしたら面白くないし、不幸にあえば密かに喜んだりする。自分を振った相手をいつまでも思っていたり、望みの無い相手と結ばれる事を夢見たり。
いや〜、人間って、空とは程遠いですね。いつも何かにこだわっている。

うまい店なんてどうでもいい、一流レストランなんて関係ない、ブランドなんて知らない、ただ自然に、なにもこだわらず生きていければいい・・・・。それが「空」の生き方ですね。
さてさて、あなたは何を背負っているのでしょう。そろそろ、下ろしてみてはどうですか?。

空の意味、少しはわかって頂けましたでしょうか。頭で理解しようとするとわかりにくいかもしれません。感覚で知ってください。世の中には、「空」について説明した小難しい本がいっぱいありますが、それこそ「空」からは程遠いような気がします。理屈をこねるのではなくて、背負っているものを下ろす。これが「空」ですね。


今回から、般若心経の後半部に入ります。前回は、「空」についても触れてみましたが、ご理解いただけたでしょうか。よくわからない、という方は、メールまたは、直接ご質問してください。
では、後半戦にはいりましょうか。番号は、前半部から引き続きます。

13、「菩提薩埀 依般若波羅蜜多故」
(ぼーだいさった えーはんにゃーはーらーみったこ)

書き下し文にしますね。
「菩提薩埀は、般若波羅蜜多に依るが故に」
となります。ここでわからない言葉は、「菩提薩埀」でしょう。先ずは、この言葉の意味についてお話しいたしましょう。

*「菩提薩埀」
初めにお断りしておきますが、「菩提薩埀」の「埀」の字は、一般的には、土偏がつきます。土偏に「垂」という字ですね。
さて、「菩提薩埀」というと、なんだか難しい言葉のように思えますが、この言葉は普段は「菩薩」と略して使っています。そう、「菩提薩埀」というのは、
「菩薩」のことなんですよ。
菩薩は、わかりますよね。観音様とか、お地蔵様とか、文殊様とか・・・・ですね。如来になっていない仏様のことです。もう少し詳しくお話ししますね。

「菩提薩埀」というのは、原語のインドの言葉を音写したものです。原語では、「ボーディーサットバ」といいます。「菩提−ボーディー」は「覚り」のことです。「薩埀−サットバ」とは「求めるもの、修行者」と訳されます。
ですので、「菩提薩埀」は、
「覚りを求めるもの、求道者」と訳されます。しかし、覚りを求めるものは、何も仏教の修行者だけではありません。お釈迦様がいらした当時も様々な宗教があり、それらの宗教も究極の目的は「覚り」でした。また、「求道者」といえば、その道を極めたいと思っている人、すべてを示します。(もとは、仏教の言葉で覚りを求める者だったんですけど、今では仏教以外のことに使われるようになってしまいました。)。 
それが、剣道であれ、弓道であれ、柔道であれ、書道であれ、何であれ、その道を極めようとする者のことを「求道者」と言い表わすことがあります。
ですので、仏教の覚りを求めるものは、原語を訳さずに、「菩提薩埀」と音写したのです。で、略して「菩薩」と呼び習わすようになりました。

「菩薩」というと、一般的に観音様とか、お地蔵様のことを思い浮かべることでしょう。しかし、そういう菩薩様と呼ばれる仏様だけでなく、覚りを求めるものは、みんな菩薩になるのですよ。先ほどの説明からもわかると思いますが・・・・。
もっと広い意味でいえば、「覚り=心の平穏」ですから、いつも心が平穏な状態にあることを望むものは、すべて「菩薩」になるのです。ですから、あなたも「菩薩」なんですよ。心の平穏を望むならね。
だからといって、「私は菩薩です」と言っても、通用はしませんけどね。

参考までに、菩薩と如来の違いについてお話ししておきます。
如来というのは、すでに完全なる覚りを得てしまい、一切の欲望を超越した存在です。すべての真理を知り得たもののことです。如来には、釈迦如来をはじめ、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来などがいらっしゃいます。
菩薩は、先ほどもいいましたように、覚りを求めるもののことを言います。観音様やお地蔵さん、文殊さんなど、「○○菩薩」と呼ばれる仏様が、一般的な菩薩様ですね。
しかし、観音様などの菩薩も、実は覚りを得ているんです。如来と同じ覚りを得ています。覚ってないわけではないんですよ。本当は、如来になれるんです。
ところが、「如来にはならない」といって、この世に留まっているのが菩薩なのです。「生きとし生けるものを救う」という誓いを達成するまでは、如来にならないのです。それが菩薩です。菩薩様は、我々を救うために存在している仏様なんですよ。


*依般若波羅蜜多故
般若波羅蜜多については、般若心経のお話の一番初めに解説いたしましたね。お忘れの方は、バックナンバー2に詳しく載ってますので、それを参考にしてください。
意味は、
「真実の智慧の完成」でしたね。ですから、この文は、「真実の智慧の完成に依るがゆえに」という意味なります。

さて、以上をまとめますと、
「菩提薩埀 依般若波羅蜜多故」
「菩提薩埀は、般若波羅蜜多に依るが故に」
「覚りを求めるものである菩薩は、真実の智慧の完成に依るがゆえに」
となります。


14、「心無圭礙 無圭礙故」
(しんむけげ むけげこ)

先ずは、書き下し文にしましょう。
「心に圭礙無し 圭礙無きが故に」
となります。
ここでわからない言葉は「圭礙(けげ)」でしょう。
尚、圭礙の「圭」の字は、本来は、あみがしら(四に似てる。罠の字の上の部分のこと)が付きます。
で、肝心の意味なのですが、これは簡単に言えば「疑い、こだわり」のことです。ですので、ここの意味は、
「心に疑いやこだわりがない。疑いやこだわりがないから」
となりますね。

前の文と続きで考えてみましょう。前文は、
「菩薩は、般若波羅蜜多に依るが故に」でした。で、次が、「心に圭礙無し、圭礙なきが故に」です。ということは、
「菩薩は、般若波羅蜜多を得たから、心に何の疑いもこだわりもない。そういう疑いやこだわりがないから・・・・」となります。続けてみると、意味がわかりやすいですね。


15、「無有恐怖遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」
(むーうーくーふー おんりー いっさいてんどう むそう くぎょう ねーはん)

これも、まず、書き下し文にします。
「恐怖有ること無く、一切の顛倒夢想を遠離し、涅槃を究竟す」
ここでわかりにくい言葉は、顛倒夢想、究竟、涅槃でしょうか。一つずつ見ていきましょう。

*顛倒夢想
現在では、顛倒と夢想は、一緒にくっついていませんよね。顛倒は顛倒で「ひっくりかえった様」を意味しています。夢想は「夢見ること」ですよね。どちらかというと、あまりいい意味じゃなく、現実不可能な事を夢見るときに使われることが多いようです。いずれにせよ、顛倒も夢想もあまりいい意味では使われない言葉ですよね。
ここでは、「顛倒夢想」は二つに分けず、一つの言葉として扱います。意味は、
「正しくものを見ることができない迷い」のことです。

なぜ、言葉が分かれていないのか・・・・。それは、原語が一つだからです。
お経は、もともと、インドの古い言葉で書かれています。その元の言葉・・・顛倒夢想にあたる言葉・・・が、一語なのです。元が二つの言葉じゃないんですね。
で、それを訳した時に、「顛倒夢想」と訳したのです。つまり、そもそも、「顛倒夢想」は、これでで一つの言葉だったのです。「顛倒」と「夢想」に分かれたのは、後の事です。ややこしいのですが・・・・。
そして、意味は、「ひっくり返った様」でもなければ、「夢見ること」でもなく、「正しくものを見ることができない迷い」となるのです。元は、こういう意味だったのですよ。

*究竟
何となく文字から意味がわかりそうじゃないでしょうか。簡単にえば「究極の、極めつくしたところ、最終到達点」とでもいいましょうか。単に
「最終の目的」と言ってもいいですね。

*涅槃
これの意味をご存知の方は多いのではないでしょうか。ただし、間違って覚えている方も多いように思いますが・・・・。
どう間違っているかと言うと、「涅槃」=「死」と思っている方がいないでしょうか。これは、意味が全く違います。「涅槃」は、「死」と同じ意味ではありません。
「涅槃」とは、インドの古い言葉の「ニルヴァ−ナ」を音写したものです。本来の意味は「迷いの火を吹き消すこと」です。この「火を吹き消す」という意味から、死を連想したのでしょう。
また、お釈迦様が、肉体の死を迎えた時を「涅槃に入った」と言いますから、そこから「死」と混同するようになったのかもしれません。
いずれにせよ、「涅槃」は、「死」ではなく、
「心の迷いや欲望などを、火を吹き消すように消してしまうこと」を意味しているのです。それは、「心にまったく曇りがなく、迷いも欲望もなくなった、静かなる心の状態」を意味しているのです。決して、「死」を意味しているのではないのですよ。

さて、15の文について意味などをまとめておきましょう。
「無有恐怖遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」
「恐怖有ること無く、一切の顛倒夢想を遠離し、涅槃を究竟す」
何の恐怖もなく、正しくものを見ることができないすべての迷いから離れ、心にまったく曇りがなく、迷いも欲望もなくなった、静かなる心の状態を究極の目的とした
となりますね。


今回は、ここまでにしておきますので、今までのところ(13〜15)をまとめてわかりやすく訳しておきます。
「菩提薩埀 依般若波羅蜜多故
 心無圭礙 無圭礙故 無有恐怖遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」
「菩提薩埀は、般若波羅蜜多に依るが故に 心に圭礙無し 圭礙無きが故に 恐怖有ること無く、一切の顛倒夢想を遠離し、涅槃を究竟す」
「覚りを求めるものである菩薩は、真実の智慧の完成・・・つまり如来の智慧・・・を得ているので、心に疑いやこだわりがないのだよ。疑いやこだわりがないから、恐れることや不安は全くなく、正しくものを見ることができないすべての迷いからも離れているから、心にまったく曇りがなく、迷いも欲望もなくってしまったんだよ。そういう、心静かなる状態を究極の目的としたのだよ。
となります。つまり、ここでは、菩薩の心の状態を教えているわけですね。そして、その菩薩の心の状態に行き着いたわけは、般若波蜜多の習得にあったのだ、といっているのです。般若波蜜多を得ることができれば、心静かなる状態になって、何の迷いも苦しみも無い、菩薩の心に至れるのです。
ここでは、そのことを説いているんですね。



16、「三世諸仏 依般若波羅蜜多故  得阿耨多羅三藐三菩提
(さんぜーしょーぶつ えーはんにゃーはーらーみったこ とくあーのくたーらさんみゃくさんぼーだい)

書き下し文にしますね。
「三世の諸仏は、般若波羅蜜多に依るが故に 阿耨多羅三藐三菩提を得
となります。この文の前半部、どこかでよく似た文を見ていませんか?。
そうです、前回の最初に解説した文、
「菩提薩埀 依般若波羅蜜多故
とほとんど同じなんですよ。違うのは、「三世諸仏」と「菩提薩埀」だけです。ここを入れ替えただけなんですよ。ですから、般若心経を読むとき、この部分を間違えやすいんですね。同じところを繰り返し読んでしまうことがあるんです。
「三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得
阿耨多羅三藐三菩提・・・・・
と読まなければいけないところを、
「三世諸仏 依般若波羅蜜多故 心無圭礙 無圭礙故・・・・・」
と読んでしまうことがあるんですよ。前の文に戻ってしまうんですね。この箇所は、般若心経を読むときに注意したいところです。

さて、ここの文の意味ですが、ここでわからない言葉は、「三世諸仏」と「阿耨多羅三藐三菩提」ですね。先ずは、「三世諸仏」についてお話しましょう。

*三世諸仏
「三世諸仏」というのは、「三世の諸仏」ということなのですが、「三世」とは、「ル○ン三世」の三世とは違います。「三世」とは「過去世、現在世、未来世」のことをいいます。ですので、「三世諸仏」は、
「現在・過去・未来の諸々の仏陀」という意味になります。

過去・現在・未来の仏陀とは、どういうことかわかりますか?。
仏陀というのは、如来のことです。阿弥陀如来、大日如来、薬師如来、釈迦如来などなど、皆さんもよくご存知だと思います。実は、皆さんがよくご存知の如来は、現在の如来です。三世のうちの「現在世の如来」ということですね。
では、過去の如来とは?。
お釈迦様が覚りを得て、如来になられる前に6人の如来がいらっしゃったそうです。お釈迦様は7番目の如来、というわけです。
では、未来は・・・・。これは、弥勒如来のことですね。お釈迦様が入滅されてから、56億7千万年後に現れるという、弥勒如来のことです。現在は、弥勒菩薩として兜率天(とそつてん)という天界で教えを説いています。尤も、如来となられたとき、「弥勒如来」という名前かどうかはわかりませんけどね。
このように、過去・現在・未来には、様々な如来が存在するのです。密教では、三世の仏陀は、各世三千仏存在する、といわれています。過去・現在・未来に三千の如来がいるのですから、全部で九千の如来が存在するわけです。しかも、ちゃんと、名前もついているんですよ。

阿耨多羅三藐三菩提
さて、次の「阿耨多羅三藐三菩提」ですが、これもインドの言葉を音写したものです。もとは「アヌッタラ サムヤック サムボーディー」といいます。一応、訳もあります。「アヌッタラ」は「無上、この上ない」と訳されます。「サムヤック」は「正、等」と訳します。「サムボーディー」は「覚り」のことです。で、これらを続けますと、阿耨多羅三藐三菩提」は「無上等正覚(むじょうとうしょうがく)」となるのです。
こう訳をされても意味はわからないですよね。「無上等正覚」とは、「これ以上等しいものが無い正しき覚り」ということです。簡単に言えば
、「これ以上ない覚り、究極の覚り」ということですね。
こうして訳をしてしまうと、どうも軽くなってしまうんです。ですから、「阿耨多羅三藐三菩提」と音写するだけにしたのです。

以上をまとめてみましょう。
「三世諸仏 依般若波羅蜜多故  得阿耨多羅三藐三菩提
「三世の諸仏は、般若波羅蜜多に依るが故に 阿耨多羅三藐三菩提を得
「過去・現在・未来の諸々の如来たちも、真実の智慧の完成によって、これ以上のものはない究極の覚りを得たのだよ。」
となるのです。


17、「故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(こち はんにゃはーらーみった ぜーだいじんしゅ ぜーだいみょうしゅ ぜーむーじょうしゅ ぜーむーとうどうしゅ)

先ずは、書き下し文にしましょう。
「故に知る。般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり 是れ大明呪なり 是れ無上呪なり 是れ無等等呪なり」
となります。

ここで注意したいのは、「呪」という言葉です。これは、もちろん「呪い」ではありません。強いて意味を言えば、「言葉」ということになりましょうか。あるいは「真言」と意味をとってもいいですね。
ですから、「大神呪」とは「大いなる神の言葉(または真言)」となりますし、「大明呪」とは「大いなる素晴らしい言葉」ですし、「無上呪」は「この上ない言葉」ですし、「無等等呪」は「等しきものがないほどの言葉」となります。簡単に言ってしまえば、「この上ない、究極の言葉・真言」ということですね。

では、その言葉とは、どんな言葉なのでしょうか。それは、後ほど明らかにされます。それまでお待ちください。気付いている方もいると思いますが・・・・・。

以上をまとめてみましょう。
「故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
「故に知る。般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり 是れ大明呪なり 是れ無上呪なり 是れ無等等呪なり」
「だから、あなたたちも知るがよい。是は、大いなる神の言葉なのであり、大いなる素晴らしき言葉なのであり、この上ない言葉なのであり、これと等しきものはないほどの究極の言葉なのである。」
となりますね。


18、「能除一切苦 真実不虚」
(のうじょいっさいくー しんじつふーこー)

これも、まず、書き下し文にします。
「よく一切の苦を除く 真実にして虚しからず」
これは、意味がわかると思います。そのままですよね。つまり
「よく一切の苦しみを除いてくれて、真実にして、虚しいものではない」
という意味ですね。


19、「故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」
(こーせつ はんにゃーはーらーみったしゅ そくせつしゅーわつ)

書き下し文にします。
「故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く」
となります。
意味もわかりますよね。
「だから、般若波羅蜜多の言葉を説きましょう。即ちその言葉をこれから説いて話しましょう。」
となります。ちょっと、くどい言い回しですね。まあ、お経には、こういうくどい表現が多いですが・・・。


さて、気になる「般若波羅蜜多の呪」ですが、それは次回に致しまして(まあ、だいたい気付いていると思いますが・・・・)、今回のところ(16〜19)をまとめておきましょう。
「三世諸仏 依般若波羅蜜多故  得
阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」
「三世の諸仏は、般若波羅蜜多に依るが故に 阿耨多羅三藐三菩提を得。故に知る。般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり 是れ大明呪なり 是れ無上呪なり 是れ無等等呪なり。よく一切の苦を除く。真実にして虚しからず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く。」
「過去・現在・未来の諸々の如来たちも、真実の智慧の完成によって、これ以上のものはない究極の覚りを得たのだよ。だから、あなたたちも知るがよい。これは、大いなる神の言葉なのであり、大いなる素晴らしき言葉なのであり、この上ない言葉なのであり、これと等しきものはないほどの究極の言葉なのである。
その言葉は、よく一切の苦しみを除いてくれて、真実にして、虚しいものではない。だから、その般若波羅蜜多の言葉をこれから説こう。そう、その言葉をこれから説いてきかせようではないか。」
となりますね。つまり、いままでの如来も、これからの如来も、すべては真実の智慧の完成によるのだ、ということを説いているわけです。しかも、その真実の智慧の完成のための言葉−真言−がある、とここで説き明かしているんです。その言葉は、素晴らしい言葉であり、すべての苦しみを除いてくれる言葉なのです。



20、「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提娑婆訶
(ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそうぎゃーてー ぼーぢーそわか)
これは、真言なので、書き下し文にはできません。漢字自体も当て字です。元は、インドの古い言葉ですね。それをそのまま音写したものです。
これは真言ですので、本来は意味を解釈したりはしません。それをしても意味が無いからです。何度も何度も読むことに意味があるものです。
ですが、それではお話になりませんので、一応の解釈を述べておきます。それをどう捉えるかは、あなた次第・・・・・ということですね。

*「掲諦」
掲諦は、般若心経を読むときは、「ぎゃーてー」と発音します。説明する時などは、「ぎゃてー」と読みます。実際のインドの発音は、「ガテー」に近い発音です。意味は、
「行った。至った」或いは「往ける者よ」です。
ですから、「掲諦 掲諦」は、簡単に言ってしまえば、
「行った、行った・・・」であるし、「至った、至った・・・・」ともなるし、ちょっと気取って言えば、「往き往きて・・・・」と訳されるでしょう。
いずれにしても、
「行ってしまった」という意味であることには変わりはありませんね。

*「波羅掲諦 波羅僧掲諦」
「波羅」は、「ハラ」と読みます。元の言葉は、「パーラ」です。この言葉は、強調する言葉なので、その言葉自体意味はありません。つまり、「掲諦」を強調しているだけなんですよ。
ですから、訳をすると、
「とうとう行った」とでも言いましょうか。
同じく、「波羅僧掲諦」の「波羅僧」も強調するための言葉です。発音は「パーラサム」ですね。
ですので、訳は、
「ついに至った」とでもなりましょう。

もう一つ、訳があります。実は、この「パーラ」と言う言葉と「彼岸」を表すインドの言葉が大変似ています。彼岸は、インドの言葉で「パーリマン ティーラム」とか、単に「パーラム」と言います。確かに「パーラ」と似ています。ひょっとしたら、語源は同じかも知れません。
ですので、般若心経の「パーラ」もしくは、「パーラサム」を「彼岸」と訳す場合もあります。そう捉えると、「波羅掲諦 波羅僧掲諦」は、
「彼岸に至った。ついに彼岸に至った」となるでしょう。

どちらの訳を取るにせよ、「至った」のは、覚りの世界なのですから、それはつまり、「彼岸」でもあるのですから、後者の訳を採用してもいいと思います。

ところで、ここで「彼岸」という言葉が出てきましたが、これは皆さんよくご存知でしょう。春と秋にやって来る「お彼岸」の「彼岸」ですよね。
春と秋にやって来る「お彼岸」は、「ご先祖の供養をする日」と解釈されています。別にそれで間違っているわけではありません。お彼岸の供養は、先祖の霊を彼岸に渡すために行うものですから。
「彼岸」というのは、「彼の岸」のことです。つまり、「向こう側の岸」ですね。「向こう側」というのは、言うまでもなく「覚りの世界」です。決してあの世のことではありません。
よく「彼岸」のことを「あの世」、「死者の世界」のことと勘違いしている方がいますが、これは間違ってます。「彼岸」とは、「あの世」のことではなく、「覚りの世界」を表す言葉なのです。
それに対し、迷いの世界を表す言葉を「此岸(しがん)」といいます。この言葉は、彼岸ほど使われてはいませんね。

我々のいる世界は、迷いの世界です。世界といいましたが、これはあくまでも喩えていっているんですよ。別の世界があったりするわけではありません。私達の心が迷いの状態にある、という意味です。
で、覚りを得ると、私達の心は覚りの状態になるのです。その時の状態をさして、「彼岸に至る」というわけですね。「彼岸」とは、覚りを得たものが到達することのできる心の状態のことをいうのです。
心の状態を「岸」に譬えているわけですね。
で、心の状態が迷いにあるときを「此岸」といい、覚りの状態にあることを「彼岸」と言ったのです。その間には、深くて大きな河があるのです。その河を渡ることが修行なんです。

修行をすることによって、迷いや欲の状態である此岸より、覚りの状態である彼岸に渡るのです。その河を渡ることは大変困難がつきまといます。流れは急でしょう。深くて足をとられるかも知れません。川幅がとてつもなく広く、向こう岸まで渡れないかもしれません。
しかし、そこを渡してくれるのが、御仏であり、菩薩なのです。単に一人で修行しているわけではないのですよ。御仏の導きがあり、菩薩の救いがあるんですね。そして、その手伝いをしているのが僧侶なのです。自らも迷いながら、修行をしながらね。
そうして、彼岸に至るのです。それは、覚りの世界まで至らなくても構いません。心が安定した状態になればいいのです。心に不安がなくなればいいのです。心が荒れ狂わなければいいのです。
心が、大変静かな状態、波立たない状態になればいいのです。それが、彼岸なのです。そういう状態になれば、彼岸に至ったのです。

話は、それましたが、「波羅掲諦 波羅僧掲諦」は、心の状態が安定した状態を現してもいるのです。ですから、「彼岸に至った。ついに彼岸に至った」と訳されるのです。


*「菩提娑婆訶
「菩提」は、これまで何度も出てきた言葉ですね。
「覚り」を意味しています。インドの言葉では、「ボーディー」と言います。
「娑婆訶」は、やはりこれもインドの言葉で、「スワーハ」の音写です。
「幸多かれ」とか、「バンザイ」などと訳されます。幸運や喜びを表す言葉ですね。英語の「グッド ラック」のようなものです。
「娑婆訶」は、他の真言の最後にもよく出てきます。その場合の意味も同じです。娑婆訶は、幸運を表す言葉なのです。

さて、以上をまとめてみましょう。
「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提娑婆訶
「至った。至ったのだ。ついに至ったのだ。とうとう彼岸に至ったのだ。あぁ、覚りの世界は何て素晴らしいんだ!」
と訳されます。
しかし、何度も言いましたように、真言は本来訳さないものです。その言葉には、もっともっと深い意味があるからです。一字一字、膨大な意味が含まれているからです。それは、単に言葉の意味をとっただけでは、解説しようがないのです。弘法大師でさえ、「劫を経ても尽くしがたし」(ものすごい歳月をかけても、説明のしようがない)と説いています。
じゃあ、その真意は絶対わからないのか、といいますと、そうではありません。誰にでも、その真言の真意がわかるチャンスがあります。しかし、それには、初めにも言いましたように、読み込まないといけません。何度も何度も般若心経を読んでみないことには、わからないことです。それは、自分でつかむものなのです。




ばっくなんばあ〜4


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