最終回
「お経の読み方」
今回で、「やさしいお経入門」を終了いたします。そこで、今回は、最後の話として、「お経の読み方」というお話をいたします。 読み方と言っても、読経の仕方の話ではありません。内容の理解の仕方、ですね。お分かりとは思いますが・・・。 お経は、大きく分けて、初期経典と大乗経典に分類されます。さらに分ければ、それぞれの内容によって、般若部とか一乗とか密教とか・・・・に分類されます。また更に分けていけば、もっと細かく分類されていきます。また、「読むお経」、「読まないお経」という分類の仕方もあります。このようにいろいろ分類されるお経ですが、まあ、大きく分ければ「初期経典」、「大乗経典」でしょう。まずは、この分け方にそってお話しいたします。 *初期経典 これは、読まないお経にも含まれます。初期経典は、主にお釈迦様が実際に説かれた言葉に近い(そのままとは言い切れないこともある)言葉を伝えてある経典類です。なので、仏教の考え方、思想、出家者の生活の仕方、出家者の修行法などが説かれています。実践的ではありますが、内容は在家向きではなく、出家者向きですね。 とはいえ、法句経などのように、生きていくうえでの考え方を説いたお経もあります。現代に生きる我々に対し、気楽に生きられる考え方を示している内容のお経もあるのです。いや、むしろ、現代こそ初期経典の内容がもっと世間に知らされてもいいのではないか、と思うこともあります。 初期経典は、後ほど話しますが、大乗経典のように「読んでご利益がある」というお経ではありません。悟りを得るためには、このように考えよ、こう世間を見よ、こういう心を持て・・・などということを説いたお経です。仏教の生き方、考え方、心の在り方を説いてあるのです。なので、現代に生きる我々には、大変参考になる内容なのです。特に、精神的に病んでいる方、人間関係に苦しんでいる方などは、仏教の生き方、考え方、心の在り方を学ぶといいと思うのです。そこには、「こだわらない生き方」が説かれているからです。 ただし、その「こだわらない生き方」を手に入れる方法は、実は出家者向きなのです。とても在家の生活をしていては、手に入れられないでしょう。 「出家して、このような修行法を行え。そうでないと、悟り(こだわらない生き方)は手に入らないぞ」 ということなのですね。ここが障害となって、人々の間に広まらないのです。初期経典は本当の仏教が説かれているにもかかわらず、一般の人々には広まっていかないのです。 お釈迦様は、自らのことを「心の病を治す医者である」と言っております。今でいう、精神科医ですね。つまり、仏教の教えは、本来は心の病を治す役割を果たしてきた教えなのです。それは、心理学でもあります。西洋の心理学がこの世に登場するはるか以前から、仏教は心の病を治してきたのですよ。それが本当の仏教の役割なのですね。 仏教は、心理学であり、精神医学であるのです。そして、出家者は、本来は精神科医であり、カウンセラーであるのです。本当の仏教は、そうしたところにあるのです。 が、こだわらない生き方を手に入れる・・・つまり悟りに至る・・・のは、困難を極めます。特に、ごく普通の生活をしている一般の人々にとっては、それは難しいことですね。だから、人々の気持ちは、初期経典から離れていってしまうのです。 「難しいことは、わからないし、できない」 「難しいことは、やりたくないし、日々の暮らしの方が大事」 これが、多くの庶民の本音なのです。 そこで、それに応えるように、大乗経典が編纂されるようになっていくのです。誰もが簡単に理解でき、実践できる内容を重視したお経を作り始めたのです。それは、仏教という、素晴らしい教え・・・心の病を治す教え・・・を絶やさないためでもあったのです。 現在。日々の生活に追われる人もたくさんいます。いますが、日本は比較的豊かですね。初期経典が編纂された時代とは大きく異なります。様々な物質を手に入れることもできます。奴隷的な生活もありません。字が読めない、という人もいません。誰もが携帯電話を持ち、着飾って、街を歩くことができます。貧しいながらも、とりあえず働いてさえいれば、何とか生活はできますよね。 そうした中で、心の病はどんどん増えていっています。多くの物質に囲まれ、欲望をそそるものに囲まれ、人間関係に悩み、生き方そのものに行き詰っている人々がどんどん増えています。この国は、年間3万人もの人々が自殺をする国です。自殺に至らない人を含めたら、心を病んでいる人はいったいどれほどいるのでしょうか?。それが今の日本なのです。 昔のように、初期経典の内容が理解できない・・・という人は、私は少ないと思います。いろいろな心理学の本や、生き方の本、啓蒙書などが氾濫している現在、仏教が説くところの「こだわらない生き方・・・悟り」を理解できない人は、少ないでしょう。初期経典に説かれている内容を「意味がわからない」という人は少ないと思うのです。むしろ、大乗経典に説くように「読めばいい」、「極楽を信じよ」、「救いを信じよ」と説く方が、胡散臭いと思う人の方が多いのではないでしょうか?。 今こそ、初期経典に説かれている生き方、考え方、心の在り方を、私は説くべきだと思うのです。あるいは、初期経典に親しむことが大事だと思うのです。そこには、「楽な生き方」が説かれているのですから。 ただ、経典は、初期経典であっても、奇跡的なことが書かれています。絶対人間には無理だろう的なことが説かれています。たとえば、お釈迦様が生まれてすぐ七歩歩いたとか、上半身炎で包まれ下半身は水を放ったとか、空中を飛び回ったとか、遠いところへ一瞬で移動したとか・・・・。そうした超人めいた内容は、読み飛ばしてください。そんなことは、どうでもいいことなのです。それは、いわゆる「釣り」です。出家して悟りを得ると、こんな力がつくぞ、という釣りですね。実際は、そんな超能力はありません。そんな「釣り」は無視してください。大事なのは、初期経典に説かれている「考え方」です。そこだけを読んでください。ここの部分を読み間違えると「なーんだ、胡散臭いじゃないか」となってしまいます。仏教は、「超能力を得るための教え」ではありません。「楽な生き方を教える」ものです。ここを誤解なきよう、お願いいたします。ここさえ間違わなければ、心を病んでいる方にとっては、初期経典は大変、参考になると思います。 *大乗経典 大乗経典も、読むお経と読まないお経にわかれます。読むお経は、読むこと自体が大事、とされています。読まないお経は、やはりその内容を読み取って、考え方を変えていきましょう、というお経ですね。あぁ、ただし、密教経典はちょっと異なります。密教経典の読まないお経は、いろいろな作法や曼荼羅の書き方が説かれていますので、読まないだけです。いわば、密教経典で読まないお経は、ハウツー書のようなものですね(大雑把にわけてあります。その辺、誤解なきよう)。 大乗経典で読むお経は、「読むことで徳が積め、罪が消えて、そのお陰で気持ちが楽なる」ということを説いています。なので、まず読むことが大事なのです。ただし、ただ単に読んでいるだけでは、本当はいけません。まあ、ただ単に読んでいるだけでも徳は積めるのですが、もっと大事なことは、「信じる」ということです。 大乗経典に書いてある内容は、それを詳しく知ってしまうと、荒唐無稽なことが多く出てきます。とんでもない多くの数の菩薩や天人が現れたり、全く別世界の宇宙空間のようなところへ瞬間移動したり、空中を飛んで行ったり、黄金やダイヤで覆われた世界を見せて見たり・・・・。 その世界観を実際のものと勘違いしてしまうと、いっちゃっている人になってしまいますよね。「おいおい、大丈夫かよ、そんなこと言って。そんなこと、本当に信じてるの?」と思ってしまいますよね。で、「やっぱり宗教って怖いよねぇ」となってしまいますな。 あるいは、火の中に落ちても菩薩の名前を唱えれば救われるとか、がけから落ちても助かるとか、どんな罪を犯してもその菩薩を拝めば罪が消えるとか・・・・。 まともにそれを受け取ってしまうと、これもちょっとおかしい人になってしまいますよね。極端な話、「何をやっても、どんな罪を犯しても、拝めばいいんだろ」ということになってしまいます。法律違反を認めてしまうことにもなりかねません。「罪を犯しても、救われるんだから何をやってもいい」という考え方を植え付ける可能性もあります。特に密教経典は、ちゃんとした理解力がなければ、恐ろしい思想に走ってしまいます。古くは「真言立川流」の邪教を生み、現代では、ウム事件を生んでしまいました。大乗経典や、密教経典は、解釈を間違うと、危ない内容でもあるのです。 大乗経典、密教経典に書いてある内容は、あくまでも「方便」です。人々を引き付けるため、日々の暮らしに疲れ切っている人の心をいやすため、自分の犯した罪の意識に悩み苦しんでいる人を救うため、そうしたことのための方便なのです。 「大丈夫だよ、あなたがものすごく反省し、後悔しているのなら、このお経を読みなさい。そうすれば、仏様はその罪を許してくださる」 ということですな。このあたりは、キリスト教の教えと似ていますね。実際、大乗仏教は、キリスト教的な教えが多いですね。「罪を悔い改め、もう一度生きなおす」ということが、大乗経典に多く説かれていることですから。大乗経典も、キリスト教も、「祈ることで心の安らぎを得る」ことを説いているのです。それは、仏教やキリスト教だけでなく、すべての宗教に共通した理念でしょう。そして、その根底にあるのが「信じる心」なのですね。 「大乗経典って、その内容が荒唐無稽だよね。だから信じられないよね」 と、思ってしまう方も多いことでしょう。しかし、それはあくまでも方便です。方便ですが、「経典を読めば救われる」ということだけは、とりあえず信じていいと思います。また、大乗経典に説かれているような「仏像や菩薩像などに手を合わせるだけで救われる」ということも信じていいと思います。なぜならば、仏様に手を合わすと、日本人はなぜか心が安らぐからです。大いなるものに対し、跪き、手を合わせると、なぜか心が静かになります。その瞬間は、別世界に行っているような気になるのです。そう、これが大乗仏教の功徳なのですよ。 人は一人では生きていけません。この世の中、つらいことが多すぎます。一人で抱え込むには、とても息苦しく辛いことがたくさんあります。そうしたとき、お寺の本堂内で、一人で手を合わせてみましょう。心の中で愚痴を言ってもいいです。泣き言を言ってもいいです。涙を流してみるのもいいでしょう。するとなぜか、次第に心が安らいでいくのですよ。それが大乗経典に説かれている「手を合わせればいい、拝むだけでいい」ということなのですね。さらに、お経を少しでも読めるようになれば、次第に心強くなっていくものなのです。 信じるものがある、ということはすごく強い精神力を生みます。何かを信じている人は、揺るぎがありません。新興宗教にどっぷりつかっている人がいい例でしょう。その新興宗教が、明らかに金銭目的であっても、それを信じている人は揺るぎません。周りが何を言っても聞く耳を持たないですよね。それが信心の力なのです。 一向一揆でもわかるように、信心は絶大なエネルギーを生みます。素直に、純粋に、疑うことを全く持たず信仰する人は、自然に大きなエネルギーを生んでいるのです。これが、信仰の力ですね。 大乗経典に説かれていることで最も重要なことは、「信じる」ということなのです。 「信じることは、大きな力生む」 これが、大乗経典の説こうとしている内容なのです。それは、どの大乗経典も同じです。阿弥陀如来であっても、薬師如来であっても、観音様であっても、お地蔵様であっても、弁天さんであっても、お稲荷さんであっても、毘沙門天であっても・・・・どの仏様、菩薩様、天界の神々であっても、同じですね。信じることが大事なのです。 大乗経典には、荒唐無稽なこと、にわかには信じられないようなことが書いてありますが、それは方便であって、そこが重要なのではありません。それは、「釣り」です。大事なのは、「とにかく信じなさい」ということなのです。「ゆるぎない信心は、大きな力生み、生きる勇気を与えるよ」ということが大事なのです。 そして、その信心をもっているからこそ、「意外なご利益」や「不思議なこと」という奇跡が生まれてくるのです。すなわち、信心がない者には、ご利益も不思議なことも奇跡も起きないのですね。まとめますと 悩みや苦しみがある→仏様の前で手を合わせる→心が安らぐ、なんとなく落ち着く→生きる勇気がわく→これが仏様のご利益と知る→仏教を信じてみようと思う→信心を持つ、信仰心を持つ→心が強くなる→大きな力を生む→信仰を続ける→思いもよらぬことが起きる→ますます信仰を深める・・・・。 こうして、最終的には、心の安定・・・日々なにがあろうとも動揺しない心・・・を得るのですね。これが大乗経典に説かれていることなのですよ。 初期経典は、自分で考えを変え、自分で努力することにより、悟りを得るための教えでした。自分自身の努力により、苦しみを乗り越えていくのです。大乗経典は、頼り祈ることから始まり、信じる心を持ち、そこからエネルギーを得て、苦しみを乗り越えていく教えです。初期仏教と大乗仏教の違いは、この点にあるのです。 ちょなみに、密教はどうかと言いますと、その両方の良いところをミックスしてあります。つまり、 「自分の努力+祈り、頼る、信心を持つ」 ということですね。それにより、自分の思うようになるという道を切り開いていくのが密教です。そのためには、あらゆる方便を使います。もちろん、法律に触れない範囲ですが・・・。そこが難解な部分であり、加減も必要であり、自分自身の心のコントロールなども必要となってきます。なので、密教は難しいと言われるのです。教義と実践、両方をバランスよく身に着けていかないと、密教は理解できませんね。なので、密教を学びたいという方は、ある程度、実践もしておかないと意味がありません。ですから、できれば密教には手を出さない方がいいでしょう。中途半端に手を出せば、「拝み屋」のような、「怪しい行者や胡散臭い人」になってしまいます。そして、その末路は、哀れなものになってしまいます。私も何人もそうした行者崩れを見てきました。中途半端に密教の領域に手を出した者の最後は、大変みじめです。なので、できれば、密教には手を出さないことです。もし、手を出すなら、善き指導者のもとで、正しい導きをしてもらうことですね。 さて、長い間、お経のお話におつきあいくださり、ありがとうございました。内容が難しいと言われているお経の意味を、できるだけわかりやすく説いてきたつもりです。その目的は果たされたかどうかはわかりませんが、今回をもちまして、この「やさしいお経入門」を終了させていただきます。長い間、読んでいただき、ありがとうございました。 また、お経について何かご質問がございましたら、遠慮なくメールをください。別のページで・・・となりますが、お答えいたします。 合掌。 |
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