ばっくなんばぁあ〜5
第 三 章
「観音経」
「観音経の4」 ようやく観音経までにいたる部分の法華経のあらすじが終わりましたので、今回から、観音経の内容にはいります。題名については、すでにお話ししていますので、いきなり本文から始めます。合掌。 1、爾時 無盡意菩薩 即従座起 偏袒右肩 合掌向佛 而作是言 (にじ むーじんにぼーさー そくじゅうざーき へんだんうーけん がっしょうこうぶつ にーさーぜーごん) 書き下し:時に無盡意菩薩 即ち座より起き 右の肩を偏袒し 仏に向かい合掌し 是の言をなす この文は、あまり難しい内容はないので、先に訳しておきます。 「その時に、無盡意菩薩がさっそうと座を立って、右の肩の衣を脱いで、仏陀であるお釈迦様に向かって合掌して話し始めた。」 となります。意味的には、簡単でしょう。 前回のあらすじを思い出してください。法華経についてお釈迦様が長々と話をしてこられました。で、ここはその続きなんですね。ですので、前回からの続きのように訳せば、 「妙音菩薩についての話をし終わったとき、その時におもむろに無盡意菩薩が立ち上がって、お釈迦様に問いかけをした」 といった感じになるでしょう。この方がわかりいいですね。 無盡意菩薩(むじんにぼさつ)とは、あまり聞かない菩薩ですね。有名な菩薩ではありません。しかし、観音経では、お釈迦様に質問をする菩薩として登場しています。 この菩薩は、諸仏の無尽の功徳を求め、無尽の衆生を救済する・・・という菩薩なので、この名がついています。また、この菩薩は、東方の普賢如来のもとから、法華経を聞くためにお釈迦様のもとにきた菩薩だそうです。 この文章の中でわかりにくいのは、「偏袒右肩(へんだんうけん)」という言葉でしょう。これは、インドの習慣なんです。 インドでは、自分よりも目上の方に話しかけるときや挨拶するときは、着ているものの右肩を脱いで、右肩の肌を顕にするという習慣があるのです。ですので、お釈迦様がいらしたころから、佛弟子たちは、右の肩をだしている衣(ころも)を身に着けていました。これが、現在、お坊さんがつけている袈裟にあたります。 お坊さんが身に着けている袈裟もよく見ていただければわかると思いますが、右肩を出しています。左肩にだけかかっているんですよ。尤も、日本の場合は、インドのように暑くないので、袈裟の下に着ている衣は、右肩を出してはいませんけどね。 ですので、無盡意菩薩が右肩の衣を脱いで右肩の肌を顕にしたのは、インドの挨拶のときの習慣なんですよ。 2、世尊 観世音菩薩 以何因縁 名観世音 (せーそん かんぜーおんぼーさー いーがーいんねん みょうかんぜーおん) 書き下し:世尊よ 観世音菩薩は何の因縁を以って 観世音と名すのか この文も難しくはないので、先に訳をしておきます。 「世尊よ、観世音菩薩は、どういう因縁で観世音という名がついているのでしょうか」 となりますね。意味自体は、これも簡単ですね。 ここには難しい言葉は特にありません。 「世尊」というのは、もちろんお釈迦様のことですね。お釈迦様は「この世で最も尊いお方」と言う意味で「世尊」と呼ばれたのです。 お釈迦様の呼称は他にもいろいろあります。多くは、佛、世尊、釈尊(しゃくそん)ですね。私は、このHPの中では、親しみを込めて「お釈迦様」と呼んでいますが、本来は「釈尊」と呼びたいですね。(「釈尊」とは、釈迦族の尊いお方、という意味です。) よく、仏教学者や偉いお坊さんなんかが「釈迦は・・・」などと呼び捨てにしていますが、これはいただけません。呼び捨てにするなんてもってのほかですよね。せめて「お釈迦さん」と呼んで欲しいです。余談でしたが・・・。 さて、ここまででわかりますように、観音経は「観音様は、なぜ観世音菩薩というのか」という無盡意菩薩の質問から始まっているのです。で、この質問に対し、お釈迦様が観音様の様々な働きを説き明かしていくのです。 3、佛告無盡意菩薩 (ぶつごう むーじんにぼーさー) 書き下し:佛、無盡意菩薩に告ぐ 短い文ですが、区切りがいいのでここでとめました。意味は簡単ですね。 「お釈迦様は、無盡意菩薩に告げた」 となります。で、この後、お釈迦様の長いお話が始まるのです。 今回は、ここまでにして、以上の部分までをまとめておきます。 爾時 無盡意菩薩 即従座起 偏袒右肩 合掌向佛 而作是言 世尊 観世音菩薩 以何因縁 名観世音 佛告無盡意菩薩 (にじ むーじんにぼーさー そくじゅうざーき へんだんうーけん がっしょうこうぶつ にーさーぜーごん せーそん かんぜーおんぼーさー いーがーいんねん みょうかんぜーおん ぶつごう むーじんにぼーさー) 時に無盡意菩薩 即ち座より起き 右の肩を偏袒し 仏に向かい合掌し 是の言をなす。世尊よ 観世音菩薩は何の因縁を以って 観世音と名すのか。佛、無盡意菩薩に告ぐ。 「(妙音菩薩についての話が終わった)その時に、無盡意菩薩は、さっそうと座を立ち、右の肩の衣を脱いで、仏陀であるお釈迦様に向かい、合掌して尋ねた。『世尊よ、観世音菩薩は、どういう因縁で観世音という名がついているのでしょうか』と。お釈迦様は、無盡意菩薩に告げた。」 となりますね。 4、善男子 若有無量百千万億衆生 受諸苦悩 聞是観世音菩薩 一心称名 観世音菩薩 即時観其音声皆得解脱 (ぜんなし にゃくうーむーりょうひゃくせんまんのくしゅーじょー じゅしょーくーのー もんぜーかんぜーおんぼーさー いっしんしょうみょう かんぜおんぼーさー そくじーかんごーおんじょうかいとくげーだつ) 書き下し:善男子 若し無量の百千万億の衆生が有り 諸々の苦悩を受く 是、観世音菩薩を聞き 一心に称名すれば 観世音菩薩 即時に其の音声を感じ皆解脱を得。 「善男子」とうのは、「よき男性の方たちよ」と言う意味です。女性に対しては、「善女人(ぜんにょにん)」と言う言葉があります。しかし、ここでは、別に男女に関わらず、「ここに集う善き人々よ」と言う意味になります。 もっと簡単に言えば「皆さん!」と言う呼びかけですね。そういう意味の言葉です。 「若」と言う言葉は、「もし〜ならば」と言う意味の言葉です。「若い」と言う意味ではありませんのでご注意ください。お経には、この「若(にゃく)」と言う言葉がよくでてきます。覚えて置いてくださいね。 で、ここでは「もし、百千万億の無量の衆生が、いろんな苦しみを受けているとして」と言う仮定の話をしているわけですね。たとえ話をしようとしているわけです。 仏教では、話が非常にオーバーになることがあります。特に数や量を表すときは、想像を絶するような表現を使います。多いのは、「ガンジス川の砂の数ほど・・・」ですね。数の単位にもなってますね。「恒河沙(ごうがしゃ)」といいますが、聞いたことありませんか?「恒河(ごうが)」とはガンジス河のことです。「沙」は「砂」のことですね。つまり、「ガンジス川の砂の数ほどの多くの数」ということなのです。余談でしたが・・・。 とにかくやたらでかい数量の表現を使うんです。しかし、それは喩えや、ややオーバーな表現であって、本当にその数だけ・・・と言う意味ではありません。わかっているとは思いますが、一応念のために・・・・。 で、ここでも、「百千万億の人々・・・・」と言っても、その数字は「たくさんの」とか「多くの」とか言う意味です。決して、その数だけの人々と言う意味ではありません。 ですから、「若有無量百千万億衆生 受諸苦悩」というのは、「もし大変多くの人々が、いろんな苦しみを受けていて・・・・」と言う意味になるのです。 「衆生」というのは、一般的に「人々」のことを意味しますが、本来は「生きとし生けるもの、生あるもの」という意味です。ですから、何も人間に限ったことではありません。動物でも虫でも、命あるものすべてを表現している言葉なのです。しかし、話が面倒になるので、ここでは「人々」としておきます。 「聞是観世音菩薩 一心称名」というのは、「観世音菩薩の名を聞き、その名を一心に唱えるならば」と言う意味です。「若」の「もし〜ならば」の「ならば」がここに来ています。 この前の文と合わせて訳をすればよくわかるでしょう。こうなります 「もし、数多くの人々が、いろいろな苦しみに喘いでいて、その人たちが、観世音菩薩の名を聞き、その名を一心に唱えたならば・・・」 と言うことですね。 で、観世音菩薩の名を一心に唱えるとどうなるかと言うと、 「観世音菩薩は、すぐに人々が観世音菩薩の名を唱える声を観じて、みんなを苦しみから解放してくれる」 のです。 ここまでをわかりやすく物語風にしてまとめてみましょう。 善男子 若有無量百千万億衆生 受諸苦悩 聞是観世音菩薩 一心称名 観世音菩薩 即時観其音声皆得解脱 (ぜんなし にゃくうーむーりょうひゃくせんまんのくしゅーじょー じゅしょーくーのー もんぜーかんぜーおんぼーさー いっしんしょうみょう かんぜおんぼーさー そくじーかんごーおんじょうかいとくげーだつ) 善男子 若し無量の百千万億の衆生が有り 諸々の苦悩を受く 是、観世音菩薩を聞き 一心に称名すれば 観世音菩薩 即時に其の音声を感じ皆解脱を得。 「ここに集う善き人々よ、よく聞きなさい。もし、大変多くの人々が、いろんな苦しみに喘いでいて、その人たちが、観世音菩薩の名を聞き、その名を一心に唱えたならば、観世音菩薩は、その人々が観世音菩薩の名を唱える声をすぐに観じて、苦しみに喘いでいるみんなを、その苦しみから解放してくれるでしょう」 (だから、観世音菩薩という名前がついているのですよ) これは、前回お話した無尽意菩薩の「観世音菩薩は、なぜ観世音菩薩という名前なのですか」と言う質問に対する一つ目の回答なのです。ですから、()の文をつけておいたのです。 で、このあと同様の回答が続きます。お経は、同じような内容を何度も何度も繰り返すのです。ちょっとくどいくらいなんですが、ま、省略するわけにもいきませんので、「何だ同じじゃないか」と思うかもしれませんが、ご了承ください。 ところで、言い忘れましたが、この上の文の中で、大変重要な言葉が含まれています。この言葉は、大乗仏教の実践に関わることなので、覚えて置いてください。それは 「一心称名」 です。 意味は、「一心に御仏様の名前を唱える」ということです。しかし、この「一心」にはなかなかなれないんですよ。わかりますか? 大乗仏教では、御仏様の名を一心に唱えてお祈りしなさい、と言うことがよく言われます。「南無阿弥陀仏」しかり、「南無妙法蓮華経」もそう、「南無大師遍照金剛」もそうですね。真言もそうです。これらの文言をただ唱えるだけではダメなんですよ。「一心に」唱えなければね。 ここのところをちゃんと抑えておいて欲しいのです。勘違いをされている方が多いですからね。 親鸞さんにしろ、法然さんにしろ、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えていればいい・・・といったわけではないのですよ。「一心に」唱えよ、といってるんです。大事なのは、この「一心に」なんですよ。 ところが、この「一心に」なれないんですよね、人は・・・・。ついつい邪念が入ってしまう。 我を忘れて真剣に、何の邪念もなく、心から仏様の名を唱える・・・・。それが大事なんですが、そういう状態にはなかなかなれないですよね。よほど追い込まれていない限り・・・・。 そうなんです。人は、切羽詰った状態にならないと、本当のぎりぎりの状態にならないと、真剣に、一心に、救いを求めることはできない・・・・ようなのです。心のどこかに、ほんのちょっとだけかもしれませんが、余裕みたいな、「大丈夫だろう」みたいな気持ちが残っているんですよ。そういう状態では、「一心に」なっていないわけです。それじゃあ、ダメなんですよ。助からない。余裕があるうちは、まだまだなんですね。大事なのは、「一心に」なんです。 ですから、これから見ていく観音経に出てくるたとえ話は、どれもこれも切羽詰ったぎりぎりの状態の話ばかりです。そんなぎりぎりの状態じゃなきゃ救われないのか、切羽詰らないと救われないのか、と思うかもしれません。 しかし、そうじゃないんです。切羽詰らないと、人は「一心に」ならないんです。切羽詰る前に「一心に」なっていれば、なにもぎりぎりまで待つことなく救いがあるでしょう。 そのところをよく踏まえて観音経の内容を読んでいきましょう。 5、若有持是観世音菩薩名者 設入大火 火不能焼 由是菩薩威神力故 (にゃくうーじーぜーかんぜーおんぼーさーみょーしゃー せつにゅうだいかー かーふーのーしょう ゆーぜーぼーさーいーじんりっこ) 書き下し:若し是の観世音菩薩の名を持つもの有って たとい大火に入りても 火焼くことをあたわず 是れ菩薩の威神力によるが故に。 「若」と言う言葉は、前回にも登場しましたが、「もし〜ならば」と言う意味の言葉です。「若い」と言う意味ではありません。これはたびたび出てきますので、覚えて置いてくださいね。 ここでは、後の「設入大火」と絡んできますので、まとめて訳しておきます。まず、いっぺんに意訳してしまいますね。「若〜大火」までです。 「たとえ大火事の中にいても、もし観世音菩薩の名を唱えるものがいたなら」 となります。 漢文の勉強のようになりまして申し訳ないのですが、意味を知るためにちょっと説明だけしておきますね。 「設」という字は、「たとえ〜であっても」という意味です。「設」の次に来る言葉で、仮の状況を設定している言葉です。ですので、ここでは、「たとえ大火事の中にあっても」という意味になります。 「火不能焼」は、わかりますよね。「焼くことが不能である、焼くことができない」となります。 「なぜなら、それは、観世音菩薩の威力のある神の力によるからなのです」(「由是菩薩威神力故」)。 「威神力」といのは、簡単に言えば、「すごい力。人知を超えた力」という意味です。菩薩なのに「神の力」とはどういうこと?と思った方は、仏教に詳しい方ですね。菩薩は神を超越した存在ですからね。 それは、神通力のことを言っているんですよ。 神通力は、お釈迦様ももちろん持っておりました。今で言う、一種の超能力ですね。修行をしていく過程で、自然に身についていく不可思議な力のことです。覚りを得る得ないに関わらず、ある程度の修行が進みますと、神通力が使えるようになることがあるんですよ。 この神通力は、神々以上が持つ力のことです。お釈迦様の弟子は、修行の過程において、神の世界を超えていきます。輪廻の世界に入っている天界の世界に住まう神々よりも上に行くんです。ですから、当然、神通力が使えるようになるんですよ。 菩薩は、そのさらに上を行きますから、当然、神通力を使用できます。菩薩は、その神通力を駆使して、人々を救ってくださるのです。 以上のところをまとめておきましょう。 「たとえ大火事の中にいても、もし観世音菩薩の名を唱えるものがいたなら、その火難から逃れることができる。それは観世音菩薩の偉大なる神通力によるからなのだ。」 となるのです。 6、若為大水所漂 称其名号即得浅所 (にゃくいーだいすいしょうひょう しょうごーみょうごうそくとくせんじょ) 書き下し:若し大水の為 漂う所あらば 其の名号を称えれば 即に浅所を得。 この文も前の文章と同様、観音様の力はこういうものだ、というたとえ話になってます。そんなに難しい言葉はありませんので、そのまま訳しましょう。 「もし大水により流されてしまうことがあっても、観世音菩薩の名を称えれば、すぐに浅いところへと導かれるのだ。」 わかりますよね。 このように、「何か不運なことがあっても、観世音菩薩の名を称えれば、救われるのだよ」ということを例をあげて説いているのです。「観世音菩薩は、人々の苦しみの声を聞いて、すぐに救いにやってきてくださるから、観世音菩薩という名がついているのだよ」ということを説くために、例をあげているわけです。 初めの無盡意菩薩の質問は、「なぜ観世音菩薩というのですか」ということでしたからね。覚えていますか? さて、表面上は、このような意味なのですが、ここで少々深読みしましょう。 ここでいう「大火」とは、実は「煩悩の火」のことなのです。欲望は、よく「火」に喩えられますよね。「欲望の火」だとか「メラメラと燃え上がる欲望」などと表現されますよね。それと同じように、5でいう「大火」は我々が持っている煩悩−欲望−そのものを指しているんですね。 つまり、欲望の焔で苦しんでいるとき、観世音菩薩の名を一心に称えれば、その欲望の焔は自ずと消え、欲望の焔で焼かれることはなくなるのだよ、苦しみはなくなるのだよ、と説いているんです。 同様に「大水で流される」というのは、「迷いの海に流される」ということなんですね。観音様の名を一心に称えれば、その迷いから解放される・・・・ということなのです。 もちろん、実際に火難や水難に遭遇したとき、観音様の名を称えたならば、その災いから救われる・・・・ということもあります。つまり、実際の救いの場合と精神的救いの場合、両方の意味を説いているんです。 奥が深いですよね。 この意味も踏まえて、今回のところをまとめておきましょう。 「若有持是観世音菩薩名者 設入大火 火不能焼 由是菩薩威神力故 若為大水所漂 称其名号即得浅所」 若し是の観世音菩薩の名を持つもの有って たとい大火に入りても 火焼くことをあたわず 是れ菩薩の威神力によるが故に。 若し大水の為 漂う所あらば 其の名号を称えれば 即に浅所を得。 「たとえ大火事の中にいても、もし観世音菩薩の名を唱えるものがいたなら、その火難から逃れることができる。それは観世音菩薩の偉大なる神通力によるからなのだ。 もし大水により流されてしまうことがあっても、観世音菩薩の名を称えれば、すぐに浅いところへと導かれるのだ。」 もう一つの意味。 「おのれの欲望により、苦しんでいても、観世音菩薩の名を称えれば、その欲望から解放されるだろう。 また、迷いの中にいても、観世音菩薩の名を称えれば、その迷いも消え去るだろう」 (このように人々の苦しみの声を聞き、救ってくれるから、観世音菩薩というのだよ) 7、若有百千萬億衆生 為求金・銀・瑠璃・蝦蛄*・瑪瑙・珊瑚・琥珀・真珠等寶 入於大海假使黒風 吹其船舫 飄堕羅刹鬼国 其中若有乃至一人称観世音菩薩名者 是諸人等 皆得解脱羅刹之難 以是因縁名観世音 (*蝦蛄<シャコ>・・・は、当て字です。本来は、石偏に車でシャ、石偏に渠でコと書きます) (にゃくうひゃくせんまのくしゅーじょー いーぐーこんごんるりーしゃこーめのーさんごこーはくしんじゅーとうほー にゅうおーだいかいけーしーこくふう すいごーせんぼう ひょうだーらーせつきー ごーちゅーなくうーないしいちにんしょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃ ぜーしょうにんとうかいとくげーだつらーせっしなん いーぜーいんねんみょうかんぜーおん) 書き下し:若し百千萬億の衆生有って 金・銀・瑠璃・蝦蛄・瑪瑙・琥珀・真珠等の寶を求め 大海に入る 假使黒風 其の船舫に吹き 羅刹鬼国に飄堕す 其の中に若し乃至一人観世音菩薩の名を称する者 是の諸人等 皆羅刹之難を解脱するを得 是の因縁を以って観世音と名す。 ちょっと長いですが、これで一つの段落になってます。そんなに難しい内容はないので、先に訳しておきましょう。 「もし、多くの貿易商人がいて、金銀や瑠璃、シャコ、瑪瑙、琥珀、真珠などの財宝を求めて大海原を航海しているとき、たとえば、暴風が吹き荒れ、その船を悪鬼羅刹の住む島へ漂着させたとしても、その漂着した人々の中に、観世音菩薩の名を唱えるものが一人でもいたならば、漂着した彼等は、みな羅刹の島から脱出できるであろう。このような因縁から観世音と言う名があるのです。」 となります。 この場合の「百千萬億の衆生」とは、内容から、貿易商の人々を意味しています。お釈迦様がいらした当時のインドでは、すでに貿易船による商売が成立していました。インドやその周辺国の商人は、金や銀などの様々な宝石類を求め、海へと乗り出していたのです。ここで登場する宝石類は、皆さんご存知でしょう。わかりにくいのは、シャコですね。これは貝の一種だそうで、装飾品に使われたそうです。瑠璃は紫がかった紺色の珠のことです。瑠璃石のことですね。 こうした財宝や、絹や珍しい食料品などを求めて、貿易が盛んに行われていたのですよ。インドは文明が進んでいたのです。 海に出ればやはり暴風雨に遭うこともあります。本文中の「黒風」とは「暴風雨」のことです。この「黒風」の前の「假使」は、「仮令(たとえ)」のことで、意味は「たとえ〜であっても」という言葉です。ですので、ここでは、「たとえ暴風雨に遭って、羅刹鬼の国に流されようとも」となるのです。 羅刹(らせつ)とは、インドの言葉で「ラークシャサ」と言います。これの音写ですね。悪鬼(あっき)と訳されます。じゃあ、鬼って何だ、となりますが、それについて話をすると、大変長くなりますので、省略します。一応、羅刹の説明だけをしておきましょう。 羅刹とは、妙な力を使って人を誘惑し、食べてしまうという魔物のことです。鬼というより、魔物と言ったほうがわかりやすいですね。今の世の中にも、羅刹のようなものはいます。甘い言葉で誘惑し、金を巻き上げてしまうような悪者。いますよね、そういう輩が。そういうものは、現代の羅刹といえましょう。 羅刹は、後に、お釈迦様に諭され、仏教の守護神になります。お釈迦様は、羅刹のような悪者でも、罪を悔い改めれば、それを許し、役立たせようとします。その許容力、懐の深さが仏教の特徴でもありますね。 そういう羅刹の国に流されても、その貿易商人の中のたった一人が観音様の名を唱え、助けてくれと願えば、その羅刹の国から脱出できるようになるのです。 とんでもない目にあって、そこから脱出するような映画のようですね。そういう映画でもよく神に助けを祈るシーンが出てきますが、まさにそれです。 つまり、この文は、冒険ものの映画を想像して頂ければ理解できるでしょう。 大海原に財宝を求めて旅立った貿易商人たち。ところが途中、大嵐に遭い、悪者が住まう島に流されてしまいます。さあ、大変です。手に入れた財宝は盗まれてしまう。それどころか、その島の悪者は人を食べてしまう未知の生物であった! 果たして脱出はできるのか?、悪魔の手から逃れられるのか?。 そんな中、貿易商人たちの一人が観世音菩薩に救いを祈り始めます。熱心に、熱心に・・・・。すると・・・・。 空中に観世音菩薩が現れ、災難にあっている貿易商の人々を脱出路に導いてくれるのです。こうして、貿易商の人々は、船を取り返し、海へと逃げ出すことに成功するのです・・・。 まあ、よくあるパターンの映画のようですね。 現代風に当てはめれば、悪者の甘言によって、多くの人々が高い契約をしてしまった。おかげで大金を払う羽目に・・・。さて、お金を取り戻すことはできるのか?。ここで、被害者たちの中の一人が、観世音菩薩に必死に祈ります。何とか、お金が取り戻せますように・・・と。すると、犯人たちは捕まり、お金は無事被害者の下へ・・・。といった感じでしょうか。 深読みして、羅刹は心に救う魔であるとしてもいいです。自らの心にすくう魔の迷いから救って下さる・・と読んでもいいですね。 このように、観世音菩薩・・・観音様は、人々の必死の救いの声を聞いて、観じて、助けに来てくださるんですね。だから、観世音菩薩、というのです。 8、若復有人 臨當被害 称観世音菩薩名者 彼所執刀杖尋段段壊 而得解脱 (にゃくぶうにん りんとうひーがい しょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃー ひーしょうしゅうとうじょうじんだんだんねー にーとくげーだつ) 書き下し:若し復人有って 当に被害に臨む(のとき) 観世音菩薩の名を称する者なれば 彼の執る所の刀杖尋ぐと段々に壊れる 而して解脱を得 ここでも、難しい言葉はないですね。注意する点は、「尋」だけでしょう。これは「尋ねる」と言う意味ではなく、「次々と、すぐに」と言う意味です。こんな意味もあったんですね、この文字に。漢文の勉強ですな、こりゃ。 この点を注意して直訳しますと、 「また、ある人が、今まさに被害にあおうとしている時に、観音様の名を唱えれば、彼が持っている刀や杖は、次々と壊れていくであろう。こうして、解脱を得るのだよ。」 となります。 がしかし、これではよく意味がわかりませんね。ですので、補足しましょう。 これは、処刑をされようとしている場面なのです。前の文から考えて見ますと、どうやら悪者に捕まってしまって、まさに殺されそうになっている瞬間なのですね。その瞬間に、捕らえられている者が観音様に一心に救いを求めたならば、処刑をしようとしていた者が持っていた刀などが全部壊れてしまい、それで助かった・・・・、と言う意味なのですね。ですので、ここの文は、 「また、ある人が、悪者に捕まってしまい、今まさに殺されそうになっているとしよう。そんな時、その者が観音様に一心に救いを求めたならば、処刑をしようとしていた悪者の刀などは、みんな壊れてしまい、その捕まっていた者は助かってしまうんだよ。」 となるんですね。 実際にこれを経験した方がいます。それは日蓮上人です。日蓮さんは、無実の罪で捕らえられてしまいます。まあ、その性格の激しさ故の結果・・・ともいえるのですが、日蓮さんには捕まってしまう様な罪はありません。ちょっと過激だっただけですね。 で、日蓮さんは、首をはねられることになってしまうんです。 まさに、その刑が執行されるとき・・・・。日蓮さんの首をはねようとする刀が大きく振りかざされます。日蓮さん、一心に法華経を唱えるんですね。「南無妙法蓮華経・・・・」と。 すると、雲ひとつない空だったのに、突如雷が振りかざされた刀に落ちるんです。こんなことが起きたら、もう処刑なんてできませんよね。 「天は日蓮さんに味方した! 仏様が怒っておられる!」 となります。こうして、日蓮さんは、無実の罪で処刑される難を逃れたんです。 日蓮さんが唱えたのは「南無妙法蓮華経・・・・」ですが、これはどんな仏様を唱えてもいいんです。お題目でも、南無阿弥陀仏でも、南無観世音菩薩でも・・・・。 一心に御仏に救いを求める、その心が大切なのですよ。 そう、その一心に救いを求める心、これが大事なのです。一心に御仏に救いを求めれば、その時に何かがおこるんです。大切なのは、一心に祈る心、救いを求める心なんですよ。 今回のところをまとめておきますね。 若有百千萬億衆生 為求金・銀・瑠璃・蝦蛄*・瑪瑙・珊瑚・琥珀・真珠等寶 入於大海假使黒風 吹其船舫 飄堕羅刹鬼国 其中若有乃至一人称観世音菩薩名者 是諸人等 皆得解脱羅刹之難 以是因縁名観世音 若復有人 臨當被害 称観世音菩薩名者 彼所執刀杖尋段段壊 而得解脱 (にゃくうひゃくせんまのくしゅーじょー いーぐーこんごんるりーしゃこーめのーさんごこーはくしんじゅーとうほー にゅうおーだいかいけーしーこくふう すいごーせんぼう ひょうだーらーせつきー ごーちゅーなくうーないしいちにんしょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃ ぜーしょうにんとうかいとくげーだつらーせっしなん いーぜーいんねんみょうかんぜーおん にゃくぶうにん りんとうひーがい しょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃー ひーしょうしゅうとうじょうじんだんだんねー にーとくげーだつ) 若し百千萬億の衆生有って 金・銀・瑠璃・蝦蛄・瑪瑙・琥珀・真珠等の寶を求め 大海に入る 假使黒風 其の船舫に吹き 羅刹鬼国に飄堕す 其の中に若し乃至一人観世音菩薩の名を称する者 是の諸人等 皆羅刹之難を解脱するを得 是の因縁を以って観世音と名す。 若し復人有って 当に被害に臨む(のとき) 観世音菩薩の名を称する者なれば 彼の執る所の刀杖尋ぐと段々に壊れる 而して解脱を得。 「もし、多くの貿易商人がいて、金銀や瑠璃、シャコ、瑪瑙、琥珀、真珠などの財宝を求めて大海原を航海しているとき、たとえば、暴風が吹き荒れ、その船を悪鬼羅刹の住む島へ漂着させたとしても、その漂着した人々の中に、観世音菩薩の名を唱えるものが一人でもいたならば、漂着した彼等は、みな羅刹の島から脱出できるであろう。このような因縁から観世音と言う名があるのです。 また、ある人が、悪者に捕まってしまい、今まさに殺されそうになっているとしよう。そんな時、その者が観音様に一心に救いを求めたならば、処刑をしようとしていた悪者の刀などは、みんな壊れてしまい、その捕まっていた者は助かってしまうんだよ。」 9、若三千大千国土満中夜叉羅刹 欲来悩人聞其称観世音名者 是諸悪鬼 尚不能以悪眼視之 況復加害 (にゃくさんぜんだいせんこくどまんぢゅうやーしゃらーせつ よくらいのーにんもんごーしょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃ ぜーしょーあっき しょうふーのういあくげんじーしー きょうぶーかーがい) 書き下し:若し三千大千国土の中に夜叉羅刹が満ちて 人を悩まし来るを欲す 其の観世音菩薩の名を称するを聞かば 是の諸悪鬼 なお悪眼を以って之を視ることあたわず いわんやまた加害をや この文も難しいことはないので、先に訳をしておきましょう。 「もし、この広い世界の数多くの国々に夜叉や羅刹が満ち溢れ、人々を悩ましても、観世音菩薩の名を唱えるものがいれば、悪鬼たちは悪意に満ちた目で見ることはできなくなるし、ましてや害を加えることなどできなくなるのだよ。」 となります。 この文の「三千大千国土」とは、「世界中の国々」と言う意味です。仏教では、この世の世界すべてをさして「三千国土」と言います。お経の中や、仏教関係の本などを読んでいて、「三千国土」とでてきたなら、それは「世界中」のことだと思ってください。 夜叉は、羅刹と同じような魔物です。人を騙して暴力を振るったり、食べてしまったりする魔物のことです。後にお釈迦様により、仏教を信じるものの仲間に入り、毘沙門天の家来となります。 ここでは、深読みをしたほうが本来の意味を取れるでしょう。つまり、こうなります。 「あなたがいる環境の中で、周りの人間に誤解されたり、意地悪されたり、いじめられたり、いわれのない誹謗中傷を受けて悩まされても、観世音菩薩に祈れば、そうしたいじめや誹謗中傷はなくなるであろう。」 ということですね。「悪眼視之」とは、今で言えば、「いじめ」や「誹謗中傷」の類になるでしょう。ですので、現代的な意味合いに取ったほうがわかりやすいと思います。 10、設復有人 若有罪若無罪 紐械枷鎖検繋其身称観世音菩薩名者 皆悉断壊即得解脱 (文中で、アンダーラインの文字「紐」は本来「木偏」です。手かせのことです。) (せつぶーうにん にゃくうーざいむーざい ちゅうかいかーさーけんげーごーしんしょうかんぜーおんぼーさーみょうしゃー かいしつだんねーそくとくげーだつ) 書き下し:復人有って 若し有罪無罪で 紐械枷の鎖で其の身を繋がれたとしても 観世音菩薩の名を称する者あれば 皆悉く断し壊れ即解脱を得 ここでは、難しい漢字が出てきます。それは「手かせ足かせ」のことです。 文字がなかったので代わりの字を当てましたが、「紐」の糸偏を木偏に変えた文字は、「ちゅう」と読みまして、「手かせ」を意味します。「械」は、「足かせ」のことを意味しています。「鎖検繋」は、「鎖で首などを繋いだ様子」を表してます。 つまり、ここでは、有罪無罪に関わらず、手かせ足かせ首鎖で繋がれたものが、観世音菩薩の名を唱えれば・・・というお話になっています。ですので、訳をすれば、 「たとえば、有罪や無罪に関わらず、手かせ足かせ、或いは首に鎖を巻かれ繋がれる者があったとしよう。その者が、観世音菩薩の名を唱えれば、その者を繋いでいた鎖はすべて切断されて壊れてしまい、即座に助かってしまうのだよ。」 となります。だけど、ちょっと変ですよね。無罪の人の手かせ足かせ、縛っていた鎖が壊れるのはわかります。ですが、有罪の者まで繋いでいた鎖が切れてしまうのは、どうなんでしょうか? おかしいじゃないか、そう思いませんか? これには、昔から疑問があったようです。ですので、ちゃんと解説が存在します。それによりますと、 「観世音菩薩は、たとえ有罪のもであっても、深い罪を犯したものであっても、心から悔い改め、懺悔し、観世音菩薩に救いを求めるならば、その者を捨て置くことはない。必ずや、救ってくださるのだ。罪を犯していても、心から観世音菩薩を信じ、祈れば、観世音菩薩は、その者を救ってくださるのだ。そして、その救いによって、その者は二度と犯罪を犯すことはなくなるのだ。」 とあります。これでご理解いただけたでしょう。それほど、観音様は慈悲深いのです。ですから、罪を犯したものも、観音様に祈れば、救われるのですよ。罪深い我々としては、ありがたいことですよね。 11、若三千大千国土満中怨賊 有一商主将諸商人 斎持重寶経過険路其中一人 作是唱言諸善男子勿得恐怖 汝等応当一心称観世音菩薩名号 是菩薩 能以無畏施於衆生 汝等若称名者 於此怨賊当得解脱 衆商人聞倶発声言 南無観世音菩薩 称其名故即得解脱 (にゃくさんぜんだいせんこくどまんぢゅうおんぞく うーいちしょうしゅしょうしょーしょうにん さいじーじゅうほうきょうかけんろごーいちにん さーぜーしょうごんしょーぜんなんしもっとくくーふー にょうとうおうとういっしんしょうかんぜーおんぼーさーみょうごう ぜーぼーさー のーいーむーいーせーおーしゅーじょう にょうとうにゃくしょうみょうしゃー おーしーおんぞくとうとくげーだつ しゅーしょうにんもんぐーほっしょうごん なーむーかんぜーおんぼーさー しょうごうみょうこーそくとくげーだつ) 書き下し:若し三千大千国土の中に怨賊が満ちて 将に諸商人と一商主有って 重き寶を持し険路を経て過ぎるの斎 其の中の一人 是の唱えるを作さば諸の善男子恐怖得ること勿れ 汝等当に一心に観世音菩薩の名号を称するに応じ 是の菩薩 能く畏れ無きを衆生に施すを以って 汝等若し衆商人言の声と倶に発するを聞き名を称すれは 此の怨賊より当に解脱を得 南無観世音菩薩 其の名を称するが故に即解脱を得 ここも特に難しい言葉はありませんし、9の文節と似ていますので、少々長いのですが訳しておきます。 「たとえば、この広い世界の数多くの国々に盗賊が満ち溢れているとし、その中をたくさんの宝物を抱えた商人の隊列が危険な道を越えてやってくるとします。しかし、その商人の隊列の中に一人でも、『南無観世音菩薩』と唱えたならば、その商人の隊列の者たちは、恐怖を覚えることはありません。それは、その商人が一心に『南無観世音菩薩』と唱えたことに応じて、観世音菩薩が彼等を救いにきたからです。観世音菩薩は、人々に恐れがないようにしてくれるのです。 さらにその商人の隊列のみんなが、『南無観世音菩薩』と唱えれば、盗賊たちから脱出ができるのです。それはすべて、『南無観世音菩薩』と唱えたから、助かったのですよ。」 となります。 「怨賊」とは「盗賊」のことです。お釈迦様がいらした当時のインドでは、貿易商がすでにありまして、馬などに乗り、集団で他の国へ様々なものを買い付けに行ったり、売りに行ったりしていました。そうした商売の旅の途中、やはり様々な困難があったのです。道は険しいし、悪者も出てきます。盗賊に襲われ、折角手に入れた商品も奪われたりもします。そんな危険なめにあったとき、「南無観世音菩薩」と一心に唱えて救いを求めれば、そうした危険から救われる、とうことをここでは説いているわけですね。 で、今まで説いてきた、こうした不思議な救いは、すべて一心に「南無観世音菩薩」と唱えて、救いを求めているからおきるのだ、と説いているのです。 大切なのは、一心に観音様に救いを求めること、なんですね。 今回は、ちょっと長いですが、以上をまとめておきますね。 若三千大千国土満中夜叉羅刹 欲来悩人聞其称観世音名者 是諸悪鬼 尚不能以悪眼視之 況復加害 設復有人 若有罪若無罪 紐械枷鎖検繋其身称観世音菩薩名者 皆悉断壊即得解脱 若三千大千国土満中怨賊 有一商主将諸商人 斎持重寶経過険路其中一人 作是唱言諸善男子勿得恐怖 汝等応当一心称観世音菩薩名号 是菩薩 能以無畏施於衆生 汝等若称名者 於此怨賊当得解脱 衆商人聞倶発声言 南無観世音菩薩 称其名故即得解脱 若し三千大千国土の中に夜叉羅刹が満ちて 人を悩まし来るを欲す 其の観世音菩薩の名を称するを聞かば 是の諸悪鬼 なお悪眼を以って之を視ることあたわず いわんやまた加害をや 復人有って 若し有罪無罪で 紐械枷の鎖で其の身を繋がれたとしても 観世音菩薩の名を称する者あれば 皆悉く断し壊れ即解脱を得 若し三千大千国土の中に怨賊が満ちて 将に諸商人と一商主有って 重き寶を持し険路を経て過ぎるの斎 其の中の一人 是の唱えるを作さば諸の善男子恐怖得ること勿れ 汝等当に一心に観世音菩薩の名号を称するに応じ 是の菩薩 能く畏れ無きを衆生に施すを以って 汝等若し衆商人言の声と倶に発するを聞き名を称すれは 此の怨賊より当に解脱を得 南無観世音菩薩 其の名を称するが故に即解脱を得 「もし、この広い世界の数多くの国々に夜叉や羅刹(心のない者たち)が満ち溢れ、人々を悩ましたとしても、観世音菩薩の名を唱えるものがいれば、悪者たちは悪意に満ちた目で見ることはできなくなるし、ましてや害を加えることなどできなくなるのだよ。 たとえば、有罪や無罪に関わらず、手かせ足かせ、或いは首に鎖を巻かれ繋がれる者があったとしよう。その者が、観世音菩薩の名を唱えれば、その者を繋いでいた鎖はすべて切断されて壊れてしまい、即座に助かってしまうのだよ。(たとえ罪を犯した者であっても観世音菩薩を信心すれば、罪を再び犯すことはなくなり、慈悲の心を起こすのだよ。) たとえば、この広い世界の数多くの国々に盗賊が満ち溢れているとし、その中をたくさんの宝物を抱えた商人の隊列が危険な道を越えてやってくるとします。商人たちは、恐ろしい眼に遭うことでしょう。 しかし、その商人の隊列の中に一人でも、『南無観世音菩薩』と唱えたならば、その商人の隊列の者たちは、恐怖を覚えることはありません。それは、その商人が一心に『南無観世音菩薩』と唱えたことに応じて、観世音菩薩が彼等を救いにきたからです。観世音菩薩は、人々に恐れがないようにしてくれるのです。 さらにその商人の隊列のみんなが、『南無観世音菩薩』と唱えれば、盗賊たちから逃げ出すことができるのです。 このように、今までお話してきた不思議な救いは、すべて人々が一心に『南無観世音菩薩』と唱えたから、なのですよ。」 さて、今回は、ここまでにしておきます。続きは次回ですね。合掌。 |