ばっくなんばぁあ〜6

第 三 章 

「観音経」

12、無盡意観世音菩薩摩訶薩 威神之力 巍巍如是
(むーじんにーかんぜーおんぼーさーまーかーさ いーじんしーりき ぎーぎーにょーぜ)


書き下し:無盡意 観世音菩薩摩訶薩の 威神力は 是の如く巍巍なり


無盡意は、初めのほうで紹介しました。この観音経の聞き手でもあります。
観世音菩薩は、観音様のことですが、その後の「摩訶薩(まかさつ)」というのは、初めて出てきた言葉ですね。
「摩訶薩」の「摩訶」は、インドの言葉の「マハー」の音写です。「マハー」とは、「偉大な」という意味です。
「薩」とは、「薩垂(本来は土へんがつく、さった)」の略です。「薩垂」とは、インドの言葉の「サットヴァ」を音写したもので、「求める人」という意味があります。
以前にも解説したと思いますが、「菩薩」とは、「菩提薩垂(ぼだいさった)」と言う言葉の略です。略して「菩薩」と言っているんですね。「菩提薩垂」とは、インドの言葉の「ボーディーサットヴァ」を音写したものです。意味は、「覚りを求める人」と言う意味です。「菩提」が「覚り」で、「薩垂」が「求める人」というわけですね。


ですから、ここでの「観世音菩薩摩訶薩」は、厳密に言えば、「観世音という覚りを求める人で、偉大なる人」となりますが、「観世音菩薩」がすでに名称のようになっていますから、そう訳さずに、「観世音菩薩は偉大なる菩薩」、と訳したほうがいいでしょう。

さて、次にわからない言葉がありますね。そう「巍巍(ぎぎ)」です。
「巍巍」の「巍」とは、「高い、高大なさま」を意味しています。で、「巍巍」は、やはり「高大なさま」を意味しています。これは、熟語ですので、辞書にも載っている言葉ですよ。

ということですので、ここの文の訳は、

「無盡意よ、このように観世音菩薩は大菩薩であり、その神通力は、大変高大ですばらしいものなのだ。」
となります。



13、若有衆生 多於淫欲 常念恭敬観世音菩薩 便得離欲 若多瞋恚 常念恭敬観世音菩薩 便得離瞋 若多愚癡 常念恭敬観世音菩薩 便得離癡 無盡意観世音菩薩 有如是等大威神力 多所饒益 是故衆生常応心念
(にゃくうーしゅじょう たーおーいんにょく じょうねんくーぎょうかんぜおんぼーさー べんとくりーよく にゃくたーしんに じょうねんくーぎょうかんぜおんぼーさー べんとくりーしん にゃくたーぐーち じょうねんくーぎょうかんぜおんぼーさー べんとくりーちー むーじんに かんぜおんぼーさー ゆーにょーぜとうだいいーじんりき たーしょうにょうやく ぜーこーしゅーじょうじょうおうしんねん)


書き下し:若し衆生有って 淫欲多かれば 常に観世音菩薩を恭敬念ずれば 便ち欲を離れるを得 若し瞋恚多かれば 常に観世音菩薩を恭敬念ずれば 便ち瞋を離れるを得 若し愚癡多かれば 常に観世音菩薩を恭敬念ずれば 便ち癡を離れるを得 無盡意 観世音菩薩は 是等の如くの威神力 多少の饒益有り 是れ衆生常に心の念ずるに応じるが故に

ちょっと長いですが、説いている内容は同じパターンの繰り返しです。それは、
多於淫欲 常念恭敬観世音菩薩 便得離欲
若多瞋恚 常念恭敬観世音菩薩 便得離瞋
若多愚癡 常念恭敬観世音菩薩 便得離癡
です。で、このあとに、まとめの言葉が入るだけです。

ここでは、「欲・淫欲」、「怒り・妬み」、「愚痴・愚かさ」の煩悩に悩まされた場合、常に観世音菩薩を念じていれば、そうした煩悩から離れることができる、と説いているのです。なお、「便得離欲」も「便」は、「すなわち」と読みます。意味も「すなわち」です。
ですので、先に「若有衆生〜便得離癡」まで訳しておきましょう。
「もし、たとえば欲望や邪淫の心に悩まされている人がいたら、そういう者は常に心に観世音菩薩を念ずるがいい。そうすれば、その者は、その者を苦しめている欲望や邪淫の心から離れることができるであろう。同じように、怒りや妬み、怨み、羨みの心にとらわれている者がいたならば、その者は、観世音菩薩を心から念ずるがよい。そうすれば、そうした心から離れられることができよう。また、愚痴を言ったり、愚かな考えにとらわれている者がいたならば、その者は、観世音菩薩を心から念ずるがよい。そうすれば、そうした愚かさ離れられることができよう。」
となりますね。

次の「無盡意〜常応心念」をみてみましょう。ここで難しい言葉は「饒益(にょうやく)」でしょう。これは、「仏様のご利益」のことを意味しています。他には難しい言葉はないので、訳しましょう。
「無盡意よ、このように観世音菩薩の神通力は偉大であり、多くの利益を人々に与えるのだよ。それは、人々が救いを求め心に観世音菩薩を念ずることに応じてくれるからなのだよ。」
つまり、観音様が、私たちを救ってくれる、私たちにご利益を与えてくれるのは、私たちが「救って欲しい、観音様、助けて下さい」と心に念じるからなのです。私たちの求めに応えてくださる、のですね。

以上をまとめておきます。
無盡意観世音菩薩摩訶薩 威神之力 巍巍如是
若有衆生 多於淫欲 常念恭敬観世音菩薩 便得離欲 若多瞋恚 常念恭敬観世音菩薩 便得離瞋 若多愚癡 常念恭敬観世音菩薩 便得離癡 無盡意観世音菩薩 有如是等大威神力 多所饒益 是故衆生常応心念
(むーじんにーかんぜーおんぼーさーまーかーさ いーじんしーりき ぎーぎーにょーぜ
にゃくうーしゅじょう たーおーいんにょく じょうねんくーぎょうかんぜおんぼーさー べんとくりーよく にゃくたーしんに じょうねんくーぎょうかんぜおんぼーさー べんとくりーしん にゃくたーぐーち じょうねんくーぎょうかんぜおんぼーさー べんとくりーちー むーじんに かんぜおんぼーさー ゆーにょーぜとうだいいーじんりき たーしょうにょうやく ぜーこーしゅーじょうじょうおうしんねん)


無盡意 観世音菩薩摩訶薩の 威神力は 是の如く巍巍なり
若し衆生有って 淫欲多かれば 常に観世音菩薩を恭敬念ずれば 便ち欲を離れるを得 若し瞋恚多かれば 常に観世音菩薩を恭敬念ずれば 便ち瞋を離れるを得 若し愚癡多かれば 常に観世音菩薩を恭敬念ずれば 便ち癡を離れるを得 無盡意 観世音菩薩は 是等の如くの威神力 多少の饒益有り 是れ衆生常に心の念ずるに応じるが故に


「無盡意よ、このように観世音菩薩は大菩薩であり、その神通力は、大変高大ですばらしいものなのだ。
もし、たとえば欲望や邪淫の心に悩まされている人がいたら、そういう者は常に心に観世音菩薩を念ずるがいい。そうすれば、その者は、その者を苦しめている欲望や邪淫の心から離れることができるであろう。同じように、怒りや妬み、怨み、羨みの心にとらわれている者がいたならば、その者は、観世音菩薩を心から念ずるがよい。そうすれば、そうした心から離れられることができよう。また、愚痴を言ったり、愚かな考えにとらわれている者がいたならば、その者は、観世音菩薩を心から念ずるがよい。そうすれば、そうした愚かさ離れられることができよう。
無盡意よ、このように観世音菩薩の神通力は偉大であり、多くの利益を人々に与えるのだよ。それは、人々が救いを求め心に観世音菩薩を念ずることに応じてくれるからなのだよ。」


14、若有女人設欲求男 禮拝供養観世音菩薩 便生福徳智慧之男 設欲求女 便生端正有相之女 宿植徳本 衆人愛敬 無盡意観世音菩薩 有如是力 若有衆生 恭敬禮拝観世音菩薩福不唐捐
(にゃくうーにょーにんせっちょくぐーなん らいはいくーようかんぜおんぼーさー べんしょうふくどくちーえーしーなん せっちょくぐーにょー べんしょうたんじょううーそうしーにょ しゅくじきとくほん あいきょう むーじんにかんぜーおんぼーさー うーにょーぜーりき にゃくうーしゅーじょー くーぎょーらいはいかんぜーおんぼーさーふくふーとうえん)


書き下し:若し女人あって設えば男を求むを欲せば 観世音菩薩摩を禮拝供せよ 便ち福徳智慧の男生す 設えば女を求むを欲せば 便ち端正の相有る女生す 宿より徳本を植え 衆人に愛敬せらる 無盡意観世音菩薩 是の如くの力有り 若し衆生あって観世音菩薩を禮拝供養すれば福は唐捐ならず

この部分の冒頭の「若し女人あって」というのは、「ある女性がいて」という意味なのですが、少し省略されているんです。というのは、この女性は、あとの文を見るとわかると思うのですが、「ある夫婦の奥さんのこと」なんです。
ここの文は、簡単にってしまえば、「子供を欲しかったなら、観音様を礼拝せよ」ということについて述べているんです。
まずは、「若有女人〜衆人愛敬」まで、訳していきます。省略されている部分は、補足していきますね。


「ある夫婦がいて、その奥さんが、男の子を欲しいと望むのなら、観世音菩薩を礼拝し供養するといい。そうすれば、福徳と智慧がそなわった男の子に恵まれるであろう。女の子を欲しいと望んで礼拝し供養すれば、美しい女の子が生まれるであろう。その女の子は、前世から深い徳を持ち越しており、多くの人々にかわいがられ、大事にされるであろう。」

となります。

わかりにくいのは、「端正有相之女 宿植徳本 衆人愛敬」でしょう。
「端正有相之女」は、いいですよね。「端正整っている女の子」という意味です。まあ「別嬪さん」ということですね。「宿植徳本 衆人愛敬」はちょっとわかりにくいです。
「宿」は「前世」を意味しています。「植」は、文字通り「植えつけて」ということです。「徳本」は、「深い徳」という意味です。ですので、「宿植徳本」は、「前世において深い徳を植えつけられてきた」という意味になります。
次の「衆人愛敬」はわかりますよね。「多くの人々に愛され、敬われた」ということです。
つまり、観音様にお願いして生まれてきた女の子は、「前世において、深い徳を積んだ子供で、前世では多くの人々に愛され、敬われた」女の子なんです。

観音様に「男の子が欲しい」お願いした場合は、「福徳と智慧がある男の子」なんですが女の子の場合は、「美しいだけでなく、前世で深い徳を積んでおり、多くの人々に愛され、尊敬されていた女の子」なんですね。

観音様には、こういう力があるんです(観世音菩薩 有如是力)。なので、人々が観世音菩薩を礼拝し、供養すれば、授かる福は大変大きいものなのです(若有衆生〜福不唐捐)。
とまとめているんです。
ここでわかりにくい言葉は、最後の「唐捐(とうえん)」でしょう。これは「からっぽで何にもない」という意味です。それが「不」なのですから、全く逆の意味になります。つまり、「不唐捐」で、
「大変たくさんある、限りないもの」となります。ちょっと意味が難しいですね。まあ、功徳がいっぱいある、という意味ですね。
まとめておきましょう。


「ある夫婦がいて、その妻が、男の子を欲しいと望むのなら、観世音菩薩を礼拝し供養するといい。そうすれば、福徳と智慧がそなわった男の子に恵まれるであろう。女の子を欲しいと望んで礼拝し供養すれば、美しい女の子が生まれるであろう。その女の子は、美しいだけでなく、前世で深い徳を積んでおり、多くの人々に愛され、尊敬されていた女の子である。
無盡意よ、観世音菩薩には、このような偉大なる力が備わっているんだよ。だから、観世音菩薩を礼拝し、供養すれば、その福徳は広大なるものなのだよ。」

となるのです。


15、是故衆生 皆応受持観世音菩薩名号
(ぜーこーしゅーじょう かいおうじゅーじかんぜーおんぼーさーみょうごう)


書き下し:是の故に衆生 皆まさに観世音菩薩の名号を受持すべし

いままで、観音様の名前を一心に唱えれば、様々なご利益が得られることを説いてきました。悪者から救われたり、ピンチから脱出できたり、災害から守られたり、精神的な迷いから救われたり、子供に恵まれたり、それはそれは、大変なご利益がある、ということをお釈迦様は説いてこられました。(このお経の説き手はお釈迦様、聞き手代表は無盡意菩薩でしたよね。)
こんなにご利益があるのですから、すべての人々は、みんな観音様の名前を唱えるといいんですよね。それがこの文の意味です。訳しますと、

「であるからして、すべての人々は、観世音菩薩の名を唱えるべきであろう」
となるのです。


16、無盡意 若有人 受持六十二億恒河沙菩薩名字 復盡形 供養飲食 衣服 臥具 医薬 於汝意云何 是善男子 善女人 功徳多不
無盡意言甚多 世尊 佛言 若復有人 受持観世音菩薩名号 乃至一時禮拝供養 是二人福正等無異 於百千萬億劫 不可窮盡 無盡意 受持観世音菩薩名号 得如是無量無辺福徳之利
(むーじんにー にゃくうーにん じゅーじーろくじゅうにーおくごうがーしゃぼーさーみょうじー ぶーじんぎょう くーようおんじき えーぶく がーぐ いーやくおーにょーいーうんがー ぜーぜんなんしー ぜんにょーにん くーどくたーふー
むーじんにーごんじんたー せーそん ぶつごん にゃくぶーうーにん じゅーじかんぜーおんぼーさーみょうごう ないしーいちじーらいはいくーよう ぜーにーにんぷくしょうとうむーいー おーひゃくせんまんのっこう ふーかーぐうじん むーじんにー じゅーじかんぜーおんぼーさーみょうごう とくにょーぜーくーりょうむーへんふくとくしーりー)


書き下し:無盡意 若し人有って 六十二億恒河沙菩薩の名字を受持し また形尽くすまで 飲食 衣服 臥具 医薬を供養す 汝の意に於いてや云何 是の善男子 善女人 功徳多しかあらずか
無盡意言う甚だ多し 世尊 仏言わく 若しまた人有って 観世音菩薩の名号を受持し ないし一時礼拝し供養す 是の二人の福正等にし無異なり 百千萬億劫に於いて 窮め尽くすべからず 無盡意 観世音菩薩の名号を受持せば 是の如く無量無辺の福徳の利を得

ちょっと長いですが、これで前半部分を終わりますので、見ていきたいと思います。
まずは、「無盡意 若有人〜功徳多不」まで見ていきます。
これは、お釈迦様が無盡意菩薩に質問をしているシーンです。訳してみましょう。

「無盡意菩薩よ、もしある人が、とてつもない多くの菩薩の名を唱え、その菩薩たちに飲食や衣服や寝具や医薬品を施したとします。この場合、このような施しをした善なる男性や女性の功徳は多いでしょうか、それともないのでしょうか」
このようにお釈迦様は、無盡意菩薩に質問をされたのです。
「六十二億恒河沙菩薩」は「大変多くの菩薩」と訳しました。なぜなら、数の多さにはあまり意味がないからです。

「恒河沙(ごうがしゃ)」というのは「ガンジス河の砂の数」のことです。お経では、よくこのような大袈裟な表現が出てきます。「とてつもなく多い数」のことを意味します。ガンジス河の砂の数ですから、とんでもない数に決まってますからね。それが「六十二億」あるんですよ。そんな数に意味はありません。「とってもたくさん」でいいんです。
ちなみに「恒河沙」は、数の単位でもあります。その桁数は「10の56乗」だそうです。でかすぎてわかりませんね。めちゃくちゃ多い、ということですね。


さて、お釈迦様に質問された無盡意菩薩、答えます(「無盡意言」)。
「とても多いです、世尊」(甚多 世尊)
と。「世尊」というのは「お釈迦様」のことです。「この世で最も尊いお方」という意味です。
この答え、とても簡単な答えてます。でも正解ですね。功徳は多いに決まってますよね。なんせ「六十二億恒河沙」の菩薩にいろんなものを施したりするのですから、その功徳は多いに決まっています。
ところが、お釈迦様は、びっくりするようなことをいうんですね、さらに。

「佛言」は、「仏ののたまわく」というのですが、意味は「お釈迦様が言った」という意味です。
で、何を言ったかといいますと、

「ある人が観世音菩薩の名を唱え、ほんの一時でも、観世音菩薩を礼拝し、供養したならば、その時の功徳は、先ほどの者と全く異ならない、同等の功徳があるのだよ。その功徳は、未来に渡るまでなくなることはないのだよ。無盡意よ、観世音菩薩の名を唱えれば、このようなとても大きな功徳福徳が得られるのだよ」
と説き明かしたのです。わかりますか?

つまりですね、
「六十二億恒河沙の菩薩への礼拝供養した時の功徳」と
「ほんの一時だけでも、観音様へ礼拝供養した時の功徳」
は等しい、
と言っているんですね。これはすごいことですよ。観音様を、ほんの少しでも礼拝したならば、それはとんでもなくたくさんの菩薩を礼拝したことと同じだ、というんですからね。
それだけ、観音様の力は、大きいと言うわけですね。なんせ、「百千萬億劫」たっても「窮めつくせない」のですから。
「百千萬億劫」は、とてつもなく長い時間です。「劫」自体が、「とてつもなく長い時間」ですから。インドの単位の中でも、最も大きな単位です。
ちなみに、「劫」は、「一辺が40里(160km)の石盤を、天女が百年に一度、その衣でこすって、その石盤がなくなるまでの時間」もしくは、「それでも1劫には及ばない、と言われる時間」の長さです。気が遠くなりますが、有限であることには間違いはありません。永遠ではないのですよ。インド人は、すごいことを考えてましたよね。でも、有限なんですよ。ここが大事なんですよね。無限や永遠はない、と言う考え方がね。

なお、「受持観世音菩薩名号」は「観音様の名前をお唱えする」と訳しましたが、本来は「受持」とは、「常に心に念じている」と訳したほうがいいでしょう。


さて、以上をまとめておきます。

若有女人設欲求男 禮拝供養観世音菩薩 便生福徳智慧之男 設欲求女 便生端正有相之女 宿植徳本 衆人愛敬 無盡意観世音菩薩 有如是力 若有衆生 恭敬禮拝観世音菩薩福不唐捐
是故衆生 皆応受持観世音菩薩名号
無盡意 若有人 受持六十二億恒河沙菩薩名字 復盡形 供養飲食 衣服 臥具 医薬 於汝意云何 是善男子 善女人 功徳多不
無盡意言甚多 世尊 佛言 若復有人 受持観世音菩薩名号 乃至一時禮拝供養 是二人福正等無異 於百千萬億劫 不可窮盡 無盡意 受持観世音菩薩名号 得如是無量無辺福徳之利
(にゃくうーにょーにんせっちょくぐーなん らいはいくーようかんぜおんぼーさー べんしょうふくどくちーえーしーなん せっちょくぐーにょー べんしょうたんじょううーそうしーにょ しゅくじきとくほん あいきょう むーじんにかんぜーおんぼーさー うーにょーぜーりき にゃくうーしゅーじょー くーぎょーらいはいかんぜーおんぼーさーふくふーとうえん
ぜーこーしゅーじょう かいおうじゅーじかんぜーおんぼーさーみょうごう
むーじんにー にゃくうーにん じゅーじーろくじゅうにーおくごうがーしゃぼーさーみょうじー ぶーじんぎょう くーようおんじき えーぶく がーぐ いーやくおーにょーいーうんがー ぜーぜんなんしー ぜんにょーにん くーどくたーふー
むーじんにーごんじんたー せーそん ぶつごん にゃくぶーうーにん じゅーじかんぜーおんぼーさーみょうごう ないしーいちじーらいはいくーよう ぜーにーにんぷくしょうとうむーいー おーひゃくせんまんのっこう ふーかーぐうじん むーじんにー じゅーじかんぜーおんぼーさーみょうごう とくにょーぜーくーりょうむーへんふくとくしーりー)


若し女人あって設えば男を求むを欲せば 観世音菩薩摩を禮拝供せよ 便ち福徳智慧の男生す 設えば女を求むを欲せば 便ち端正の相有る女生す 宿より徳本を植え 衆人に愛敬せらる 無盡意観世音菩薩 是の如くの力有り 若し衆生あって観世音菩薩を禮拝供養すれば福は唐捐ならず
是の故に衆生 皆まさに観世音菩薩の名号を受持すべし
無盡意 若し人有って 六十二億恒河沙菩薩の名字を受持し また形尽くすまで 飲食 衣服 臥具 医薬を供養す 汝の意に於いてや云何 是の善男子 善女人 功徳多しかあらずか
無盡意言う甚だ多し 世尊 仏言わく 若しまた人有って 観世音菩薩の名号を受持し ないし一時礼拝し供養す 是の二人の福正等にし無異なり 百千萬億劫に於いて 窮め尽くすべからず 無盡意 観世音菩薩の名号を受持せば 是の如く無量無辺の福徳の利を得


「ある夫婦がいて、その妻が、男の子を欲しいと望むのなら、観世音菩薩を礼拝し供養するといい。そうすれば、福徳と智慧がそなわった男の子に恵まれるであろう。女の子を欲しいと望んで礼拝し供養すれば、美しい女の子が生まれるであろう。その女の子は、美しいだけでなく、前世で深い徳を積んでおり、多くの人々に愛され、尊敬されていた女の子である。
無盡意よ、観世音菩薩には、このような偉大なる力が備わっているんだよ。だから、観世音菩薩を礼拝し、供養すれば、その福徳は広大なるものなのだよ。
だから、すべての人々は、観世音菩薩の名を常に心に抱き、一心に唱えるとよいのだ。
ところで、無盡意よ、もしある人が、とてつもない多くの菩薩の名を唱え、その菩薩たちに飲食や衣服や寝具や医薬品を施したとしよう。この場合、このような施しをした善なる男性や女性の功徳は多いだろうか、それともないのだろうか。
無盡意菩薩は、答えた。『とても多いです、世尊よ』と。
お釈迦様は、おっしゃった。
では、ここで、ある人が観世音菩薩の名を唱え、ほんの一時でも、観世音菩薩を礼拝し、供養したする。その時の功徳は、実は、先ほどの数多くの菩薩に供養した者の功徳と全く異ならないのだよ。全く同等の功徳があるのだよ。
その功徳は、とてつもなく長い時間を経ても、なくなることはないのだよ。
無盡意よ、観世音菩薩の名をいつも心に念じ、一心に唱えれば、このようなとても大きな功徳や福徳が得られるのだよ。」


17、無盡意菩薩 白佛言 世尊 観世音菩薩 云何遊此娑婆世界 云何而為衆生説法 方便之力 其事云何
(むーじんにぼーさー びゃくぶつごん せーそん かんぜーおんぼーさー うんがーゆうししゃーばーせかい うんがにーいーしゅじょうせっぽう ほうべんしーりき ごーじーうんがー)


書き下し:無盡意菩薩 佛に言して白さく 世尊 観世音菩薩 云何に此の娑婆世界に遊し 云何に衆生のために説法し 方便の力 其の事は云何に

前回までは、無盡意菩薩(むじんにぼさつ)の「観音様はどんな菩薩様ですか」という質問に、世尊であるお釈迦様が、様々な例をあげて答えてきました。観音様の力について、説いてきたわけですね。
で、ここから、質問が変わります。それが、「無盡意菩薩 白佛言」です。
「白」の字は、色を表す「白」ではありません。「白す」と書いて「もうす」と読みます。「言う」ということと同じですね。丁寧な言い方をしただけです。ですので、ここの意味は

「無盡意菩薩は、佛(お釈迦様)にお尋ねした」
となります。

何を尋ねたのかといいますと、観音様のこの世界での行動についてで、3つあります。「云何」とうのは、「いかに」という意味です。「どのようにして」ですね。
質問の1は、「云何遊此娑婆世界」です。これは「どのようにして、この娑婆世界に遊ぶのか」となりますが、ここでいう「遊ぶ」というのは、子供が遊ぶのとは違います。
仏教では、布教や救済をしながら移動することを「遊行(ゆうぎょう)」といいます。初期の経典である「阿含経(あごんきょう)」などは、「遊行経」とも言われています。
ですので、ここでも同じで、「どのようにして、この娑婆世界に遊ぶのか」のではなく、
「どのようにして、この娑婆世界で布教や救済を行っているのか」という意味になります。
「娑婆世界」は、わかりますよね。「娑婆」とはインドの言葉の「サハー」を音写したものです。意味は、
「この現実世界」のことです。

質問の2は「云何而為衆生説法」です。「いかにして衆生のために説法しているのか」という意味ですね。そのままです。
質問の3は「方便之力 其事云何」です。これは「方便之力については、どうなのですか」という意味になります。「方便」は、「ウソも方便」の「方便」ですね。「有効な手段」のことです。

以上のことをふまえて、わかりやすく訳してみましょう。

「無盡意菩薩は、お釈迦様に尋ねた。『お釈迦様、観音様はどのようにして、この現実世界で布教や救済を行っているのでしょうか。どのようにして、人々のために法を説いているのでしょうか。方便の力である神通力は、どのようにして発揮されるのでしょうか。」
となるのです。


18、佛告無盡意菩薩 善男子 若有国土衆生
(ぶつごうむーじんにーぼーさー ぜんなんしー にゃくうーこくどしゅーじょう)


書き下し:佛、無盡意菩薩に告げる 善男子 若し国土衆生有りて

とりあえず、ここで切ります。なぜなら、次から長いからです。
この文は、難しくないので、訳しておきます。

「佛(お釈迦様)は、無盡意菩薩に告げた。『善き男子よ、若しある国土の人々が・・・・』」
となります。
で、次からその問いに対するお釈迦様の答えなのですが、これが長いんです。しかも、同じようなことの繰り返しなんです。なので、それは次回にしましょう。次回、一気にその部分についてお話いたします。
ですので、今回は短いのですが、ここまでをまとめまして、続きは次回にさせていただきます。



無盡意菩薩 白佛言 世尊 観世音菩薩 云何遊此娑婆世界 云何而為衆生説法 方便之力 其事云何
佛告無盡意菩薩 善男子 若有国土衆生
(むーじんにぼーさー びゃくぶつごん せーそん かんぜーおんぼーさー うんがーゆうししゃーばーせかい うんがにーいーしゅじょうせっぽう ほうべんしーりき ごーじーうんがー
ぶつごうむーじんにーぼーさー ぜんなんしー にゃくうーこくどしゅーじょう)

無盡意菩薩 佛に言して白さく 世尊 観世音菩薩 云何に此の娑婆世界に遊し 云何に衆生のために説法し 方便の力 其の事は云何に
佛、無盡意菩薩に告げる 善男子 若し国土衆生有りて


「無盡意菩薩は、お釈迦様に尋ねた。『お釈迦様、観音様はどのようにして、この現実世界で布教や救済を行っているのでしょうか。どのようにして、人々のために法を説いているのでしょうか。方便の力である神通力は、どのようにして発揮されるのでしょうか。
佛(お釈迦様)は、無盡意菩薩に告げた。『善き男子よ、若しある国土の人々が・・・・』」
と、このようになります。


前回、無盡意菩薩の質問にお釈迦様が答え始めた場面で終わりました。今回は、その答えの続きです。これが長いんです。しかも同じ文章で、少し入れ替えただけ・・・というパターンが続きます。ざっと、書き連ねてみます。

19、@応以佛身得度者 観世音菩薩 即現佛身而為説法
    (おういーぶっしんとくどーしゃ かんぜーおんぼさー そくげんぶっしんにーいーせっぽう)
   A応以辟支佛身得度者 即現辟支佛身而為説法
    (おういーびゃくしーぶしんとくどーしゃ そくげんびゃくしーぶっしんにーいーせっぽう)
   B応以声聞身得度者 即現声聞身而為説法
    (おういーしょうもんしんとくどーしゃ そくげんしょうもんしんにーいーせっぽう)
   C応以梵王身得度者 即現梵王身而為説法
    (おういーぼんのうしんとくどーしゃ そくげんぼんのうしんにーいーせっぽう)
   D応以帝釈身得度者 即現帝釈身而為説法
    (おういーたいしゃくしんとくどーしゃ そくげんたいしゃくしんにーいーせっぽう)
   E応以自在天身得度者 即現自在天身而為説法
    (おういーじーざいてんしんとくどーしゃ そくげんじーざいてんしんにーいーせっぽう)
   F応以大自在天身得度者 即現大自在天身而為説法
    (おういーだいじーざいてんしんとくどーしゃ そくげんだいじーざいてんしんにーいーせっぽう)
   G応以天大将軍身得度者 即現天大将軍身而為説法
    (おういーてんだいしょうぐんしんとくどーしゃ そくげんてんだいしょうぐんしんにーいーせっぽう)
   H応以毘沙門身得度者 即現毘沙門身而為説法
    (おういーびーしゃーもんしんとくどーしゃ そくげんびーしゃーもんしんにーいーせっぽう)
   I応以小王身得度者 即現小王身而為説法
    (おういーしょうおうしんとくどーしゃ そくげんしょうおうしんにーいーせっぽう)
   J応以長者身得度者 即現長者身而為説法
    (おういーちょうじゃしんとくどーしゃ そくげんちょうじゃしんにーいーせっぽう)
   K応以居士身得度者 即現居士身而為説法
    (おういーこーじーしんとくどーしゃ そくげんこーじーしんにーいーせっぽう)
   L応以宰官身得度者 即現宰官身而為説法
    (おういーさいかんしんとくどーしゃ そくげんさいかんしんにーいーせっぽう)
   M応以婆羅門身得度者 即現婆羅門身而為説法
    (おういーばーらーもんしんとくどーしゃ そくげんばーらーもんしんにーいーせっぽう)
   N応以比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷身得度者 即現比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷身而為説法
    (おういーびーくー、びーくにー、うーばーそく、うーばーいしんとくどーしゃ そくげんびーくー、
     びーくにー、うーばーそく、うーばーいしんにーいーせっぽう)
   O応以長者・居士・宰官・婆羅門婦女身得度者 即現婦女身而為説法
    (おういーちょうじゃ・こーじー・さいかん・ばーらーもんぶーにょーしんとくどーしゃ そくげん
    ぶーにょーしんにーいーせっぽう)
   P応以童男、童女身得度者 即現身童男、童女而為説法
    (おういーどうなん、どうにょしんとくどーしゃ そくげんどうなん、どうにょしんにーいーせっぽう)
   Q応以天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩喉羅伽、人、非人等身得度者 
    即皆現之而為説法
    (おういーてん、りゅう、やーしゃ、げんだつば、あーしゅら、かーるら、きんなーら、まごらーが、
    にん、ぴーにんとうしんとくどーしゃ そっかいげんしーにーいーせっぽう)
   R応以執金剛神得度者 即現執金剛神而為説法
    (おういーしゅうこんごうじんとくどーしゃ そくげんしゅうこんごうじんにーいーせっぽう)

書き下しは、代表だけ書いておきます。
@佛の身を以って度を得る者に応じ 観世音菩薩 即ち佛の身を現じ説法を為す
A〜N、P○○の身を以って度を得る者に応じ 即ち○○の身を現じ説法を為す
○○には、番号に応じた佛、菩薩、神々などが入る。
O長者・居士・宰官・婆羅門の婦女の身を以って度を得る者に応じ 即ち婦女の身を現じ説法を為す
Q天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩喉羅伽、人、非人等の身を以って度を得る者に応じ
 即ち皆現じ説法を為す
R執金剛神を以って度を得る者に応じ 即ち執金剛神を現じ説法を為す

文章は、ほんのちょっと異なるだけで、すべて同じ形です。変わるのは、「誰が」の部分ですね。まずは、共通する部分から見ていきましょう。
「応以○○身得度者」というのは、
「○○の身を求めて、覚りを得るものは」という意味になります。「度」というのは、簡単に言えば「覚り」のことです。般若心経にも出てきますね。「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の部分です。これは、「五蘊がみな空だとはっきりわかって、一切の苦しみや災厄を超越した」という意味でした。
ここでも「度」の意味は同じです。ですので「得度」で、「超越を得るもの」、つまり「覚りを得るもの」となります。

「即現○○身而為説法」は、
「すぐに○○の姿を現じて、説法をする」という意味です。続けてみてみますと、
「応以○○身得度者 即現○○身而為説法」というのは、
「○○の姿を求めて、覚りを得るものに対しては、○○の姿を現して、法を説きますよ」
という意味になりますね。つまり、観音様は、拝む人が求める姿に変化して、教えを説きに来る・・・ということですね。

もう少し深く意味を取りましょう。
これは、「観音様は、その人に合った姿になって、その人に教えを説くのですよ」といっているのです。
つまり、@のように仏様・・・如来ですね・・・が合う者には、如来の姿をとって教えを説きましょう、ということなのです。救いを求めている人に合った姿で、観音様は現れるのですよ、ということを説いているのです。
で、どんな者に観音様は変化するのかといいますと、

A辟支佛(びゃくしぶつ)・・・誰の教えも受けずに、自然を師と仰いで覚りを得た者のことをいいます。
                  縁覚(えんがく)ともいいます。
B声聞(しょうもん)・・・師から教えを受けて覚りを得た者のことです。主にお釈迦様の弟子を指し示します。
C梵王(ぼんのう)・・・梵天のことです。宇宙を創り続けている神です。
D帝釈(たいしゃく)・・・帝釈天のことです。神々の王ですね。ご存知でしょう。
E自在天(じざいてん)・・・もとシヴァ神のことです。欲界(よっかい)という天界の王です。
F大自在天(じざいてん)・・・上と同じです。姿が多少異なるだけです。詳しくは省略します。
G天大将軍(てんだいしょうぐん)・・・武力を使わずして世界を統一することができるという転輪聖王
                       (てんりんじょうおう)のことです。
H毘沙門(びしゃもん)・・・毘沙門天のことです。詳しくは、「仏像がわかる」のページをご覧下さい。
I小王(しょうおう)・・・転輪聖王の下の王。
J長者(ちょうじゃ)・・・富豪、資産家。
K居士(こじ)・・・仏教の発展に協力する富豪、資産家。
L宰官(さいかん)・・・支配者、宰相、官僚のこと。
M婆羅門(ばらもん)・・・古代インドの宗教であるバラモン教の祭司。
N比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷(びく、びくに、うばそく、うばい)
  比丘(びく)・・・男性の出家者。 比丘尼(びくに)・・・女性の出家者。
  優婆塞(うばそく)・・・男性の在家信者。 優婆夷(うばい)・・・女性の在家信者。
O長者・居士・
宰官・婆羅門婦女・・・長者・居士・宰官・婆羅門の奥さん。
P童男・童女(どうなん・どうにょ)・・・・男の子と女の子。
Q
天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩喉羅伽、人、非人
  天(てん)・・・天人、神々のこと。 
  龍(りゅう)・・・ご存知ですね。龍です。
  夜叉(やしゃ)・・・人を食らうといわれている鬼神。仏教では、仏教信者を守護する。
  
乾闥婆(げんだつば)・・・元は音楽の神。密教では、子供を守護する神でもある。
  阿修羅(あしゅら)・・・元は神であったが、帝釈天との戦いに敗れ、怒りの世界へと転落した神。
  迦樓羅(かるら)・・・ガルダともいう。伝説の鳥。竜を食らうといわれている。
              不動明王の火炎の中にも現れる。

  緊那羅(きんなら)・・・音楽の神。楽器を奏でる。鼓を持つ。
  摩喉羅伽(まごらが)・・・蛇を神格化した神。音楽を奏でる。笛を持つ場合が多い。
  人(にん)・・・一般の人間。 
  非人(ひにん)・・・人間以外のものすべて。妖怪の類も含む。

R執金剛神(しゅこんごうじん)・・・仁王のこと。帝釈天の脇侍でもある。

と、以上のものに変化するのです。つまり、何にでも変化してしまう・・・、ということですね。ですから、ひょっとしたらすでにあなたの周りに観音様の言葉を伝えるメッセンジャーがいるのかもしれません。心に打つ言葉を発する方がいましたら、その方は観音様の変化した姿・・・・かもしれませんね。

とうことで、今回はここまでにしておきますが、まとめようがないので、これだけを書いておきます。
「観音様は、あなたに合った姿で、あなたに教えを説き、あなたを苦しみから安楽の世界へと導くのです。」
お釈迦様は、このことを説きたかったのでしょう。


前回、観音様はあらゆるものに変化して、救いを求める人を安楽へ導く、とお話しました。それについて、もう少し説明を加えておきましょう。
こんな話を耳にされたことはないでしょうか?。
ある方が、飼い犬を散歩に連れて行った時のこと。大きな交差点をいつものようにゆっくりと横断していると、その日に限って、飼い犬が思いっきり走り出した。飼い主は、犬に引かれて、不本意ながら駆け出した。通りを横断しても、犬は走り止らない。しばらく走ってようやく犬は止まった。その後すぐのこと。自分が横断したところに大きなトラックが突っ込んでいた。もし、いつものようにゆっくり通りを横断していたら、あのトラックに巻き込まれていたかも・・・。
この場合、ひょっとしたら、観音様がその犬を導いて、その方を助けたのかもしれません。

つまり、「牛に引かれて善光寺参り」なのです。
そのおかげで助かった、誰かのおかげで救われた・よいことが出来た・・・・。そういう時、その助けてくれた方や救いのきっかけを与えてくれた方は、観音様の変化したものである・・・・。
そういう考え方が大事なのだよ、と説いているのです。そういう考え方ができれば、人間は、人間の力を超えた大いなるものに気付くものです。それは神でもいい、先祖でもいい、仏様でもいい。なんでもいいから、人間の力を超えた存在を感じ、それに感謝する気持ちを持つ・・・、それが大事なのでしょう。
その人間を超えた力の存在を否定したり、感謝の気持ちを忘れたとき、人間は落ちていくのだと思います。謙虚さが必要なんですね。

そうしたことを全部ひっくるめて、この観音様の変化身について説いているのです。ですから、観音経は、この観音様の三十三変化身のくだりが中心になっているのです。
観音様、大いなる力、そうしたものはどこにでも存在している。それに気付けば、人は幸福を得られる・・・ということなのです。

では、続きへ行きます。
20、無盡意 是観世音菩薩 成就如是功徳 以種種形 遊国土 度脱衆生
(むーじんにー ぜーかんぜーおんぼーさー じょーじゅにょーぜくーどく いーしゅじゅーぎょう ゆうしょーこくど どーだっしゅうじょう)

書き下し:無盡意 是の観世音菩薩は 是の如くの功徳を成就し 種種の形を以って 国土を遊し 衆生を度脱す

無盡意菩薩(むじんにぼさつ)に対して、観音様が様々な姿に変化するということを説いたお釈迦様は、ここでまとめをするわけです。特に難しい言葉はないので、そのまま訳をしておきます。
「無盡意よ。このように観世音菩薩は、いろいろな功徳を持っており、種々の姿に変化をして、あらゆる国土に行き渡り、人々を苦しみから救ってくれるのだよ。」
ここでいう「如是功徳」とは、はじめの方から説いてきた、観音様の様々な救いのことです。どんな功徳があったか忘れた方は、もう一度読み返してみてください。


21、是故汝等 応当一心供養観世音菩薩
(ぜーこーにょーとう おうとういっしんくーよう かんぜーおんぼーさー)

書き下し:是の故に汝等 当に一心に観世音菩薩を供養す

ここも簡単なので、訳します。
「だからこそ、君たちは、一心に観世音菩薩を供養するべきなのだよ」
となります。つまり、観音様の救いがあるから、一心に観音様を拝みなさい、ということですね。


22、是観世音菩薩摩訶薩 於怖畏急難之中 能施無畏 是故此娑婆世界 皆号之為施無畏者
(ぜーかんぜーおんぼーさーまーかーさー おーふーいきゅうなんしーちゅう のうせーむーい ぜーこーしーしゃーばーせーかい かいごうしーいーせーむーいーしゃ)

書き下し:是の観世音菩薩摩訶薩 怖畏急難の中に於いて 能く無畏を施す 是の故に此の娑婆世界 皆之の為に施無畏者と号す

ここも特に難しい言葉はありませんので、先に訳しておきます。
「このように観世音菩薩は、恐怖や急難にあったなら、その恐怖から救い出してくれるのだよ。だからこそ、この娑婆世界では、観音様のことを『施無畏者(せむいしゃ)・・・恐怖を与えないもの』と呼ぶのだよ。」
観音様のことを別名「施無畏者(せむいしゃ)」ともいいます。これは「恐怖を与えないもの」という意味ですが、もう少し突っ込んだ解釈をするならば、「恐怖から救い出してくれるもの」という意味にもなります。

「怖畏」は、「畏怖」のことです。意味も同じです。昔は、文字を逆に配列したのでしょうか。
「娑婆世界」は、この現実世界のことですね。ご存知の方も多いと思います。

今回は、特に難しい言葉もほとんどありませんでした。最後に、今日のところのまとめをしておきましょう。
無盡意 是観世音菩薩 成就如是功徳 以種種形 遊国土 度脱衆生
是故汝等 応当一心供養観世音菩薩

是観世音菩薩摩訶薩 於怖畏急難之中 能施無畏 是故此娑婆世界 皆号之為施無畏者
(むーじんにー ぜーかんぜーおんぼーさー じょーじゅにょーぜくーどく いーしゅじゅーぎょう ゆうしょーこくど どーだっしゅうじょう
ぜーこーにょーとう おうとういっしんくーよう かんぜーおんぼーさー
ぜーかんぜーおんぼーさーまーかーさー おーふーいきゅうなんしーちゅう のうせーむーい ぜーこーしーしゃーばーせーかい かいごうしーいーせーむーいーしゃ)


無盡意 是の観世音菩薩は 是の如くの功徳を成就し 種種の形を以って 国土を遊し 衆生を度脱す
是の故に汝等 当に一心に観世音菩薩を供養す
是の観世音菩薩摩訶薩 怖畏急難の中に於いて 能く無畏を施す 是の故に此の娑婆世界 皆之の為に施無畏者と号す

「無盡意よ。このように観世音菩薩は、いろいろな功徳を持っており、種々の姿に変化をして、あらゆる国土に行き渡り、人々を苦しみから救ってくれるのだよ。
だからこそ、君たちは、一心に観世音菩薩を供養するべきなのだよ。
このように観世音菩薩は、恐怖や急難にあったなら、その恐怖から救い出してくれるのだよ。だからこそ、この娑婆世界では、観音様のことを『施無畏者(せむいしゃ)・・・恐怖を与えないもの』と呼ぶのだよ。」


合掌。



ばっくなんばあ〜7


やさしいお経入門今月号へもどる


表紙へ