ばっくなんばぁあ〜7

第 三 章 

「観音経」

前回の続きです。もうあと少しですので、長くなりますが、最後まで行きます。

23、無盡意菩薩 白佛言 世尊 我今当供養観世音菩薩 即解頸衆寶珠瓔珞價直百千両金 而以興之作是言 仁者 受此法施珍寶瓔珞
(むーじんにーぼーさー びゃくぶつごん せーそん がーこんとうくーようかんぜーおんぼーさー そくげきょうしゅほうしゅようらくげーじきひゃくせんりょうごん)


書き下し:無盡意菩薩 佛に白して言さく 世尊 我今当に観世音菩薩を供養す 即ち頸より衆の價直百千両金の寶珠瓔珞を解き 而して之を興えるを以って是の言を作す 仁者 此の法を受け珍寶瓔珞を施す

先に訳しましょう。その方がわかりやすいので。
「無盡意菩薩(むじんにぼさつ)は、お釈迦様に言った。『世尊、私は今、観世音菩薩に供養いたします』と。そして、自分の首に下げたたくさんの宝の珠や首飾り・・・・その値は百千両金にもなるもの・・・・を首からはずし、観世音菩薩にささげて言った。『尊い方よ、お釈迦様の教えを受けて、私はこの珍しい宝でできた首飾りを施したいのです。』と。」
となります。

無盡意菩薩は、お釈迦様のこれまでのお話・・・観世音菩薩の働きについての話・・・に感動したのです。
「素晴らしい、何て素晴らしい方なんだ、観音様は。」
ということですね。で、感動したので、何か観音様に施しをしたい、と思ったのです。で、
「世尊よ、私はこれから観音様を供養します」
といったのです。世尊は、お釈迦様のことです。以前にもお話しましたね。「供養」とは、現在で使われている意味の「供養」ではなく、「尊敬をする方へ捧げものをする」という意味での「供養」です。これも、以前、書いたと思います。「供養」とは、本来、お釈迦様や菩薩に対して、布施をすることをいうのです。なので、ここでは、無盡意菩薩が、観音様に捧げものをしたいのだ、と言ったわけです。

それで、無盡意菩薩は、自分が首から提げていたたくさんの首飾りを外すのです。「衆」は「数多くの」という意味です。「瓔珞(ようらく)」は「飾り物」のことです。主に「首飾り」のことをいいます。
で、この無盡意菩薩が下げていた首飾りは、宝の玉でできており、その値は「百千両金」にもなるものだったのです。まあ、とても高価なものだった・・・・ということですね。それを、観音様に施そう、あげよう、というのです。たいしたものですね。
無盡意菩薩は、首飾りを持って、観音様にいいます。
「尊い方よ(仁者)、お釈迦様の教えを聞いて感動しました。どうか、この珍しい宝でできた首飾りを受け取ってください。」
と。

これまでは、無盡意菩薩の「観音様ってどんな菩薩様なのですか?」という質問に対して、お釈迦様が具体的に観音様の働きについてお話しされてきたわけです。で、その話に無盡意菩薩は感動したわけですね。で、施しをしたくなったのです。
で、傍らにらっしゃった、観世音菩薩ご本人に首飾りをプレゼントしようとした、ということが、ここでは描かれているのです。
観音様は、この場にいたんですね。そのことがここで初めてわかるのですよ。これも驚きの一つなのです。
今までお釈迦様は、観音様を傍らにおいて、「この観世音菩薩は、こういう菩薩なのだよ」と紹介をしていたのです。


24、時観世音菩薩不肯受之 無盡意 復白観世音菩薩言 仁者愍我等故 受此瓔珞
(じーかんぜーおんぼーさーふーこうじゅーし むーじんにぶーびゃっかんぜーおんぼーさーごん にんじゃーみんがーとうこ じゅーしようらく)


書き下し:時に観世音菩薩之を受けるを肯せず 無盡意 復た観世音菩薩に言して白さく 仁者我等を愍むが故 此の瓔珞を受け(たまえ)

ここも簡単なので、訳します。
「その時、観世音菩薩は、それを受け取ろうとはしなかった。そこで無盡意は、再び観世音菩薩に言ったのだった。『尊い方よ、どうか我々を哀れんで、この瓔珞を受け取ってください』と。」
となります。つまり、観音様は、無盡意菩薩の申し出を断ったのですね。「そりゃあ、受け取れませんよ」ということなのです。「不肯」は、「肯かない」という意味ですので、「断る」という意味になります。
あわてた無盡意菩薩は、懇願します。「どうか、我等に慈悲を与えるつもりで、この首飾りを受け取ってください」と。
「愍(みん)」は、「哀れむ」という意味ですが、ここでは「慈悲の心を起こして」という意味になります。何も、観世音菩薩に我等を哀れんでくれ、と言ってるわけではないのですから。そうではなく、観音様が慈悲心を起こして、我等の願いを聞いてください、という意味で言っているのです。

これは、ままよくあること、ですよね。ちょっと偉い方にプレゼントをしようとしたら、
「いやいや、そんな、そんなことをされたらこまりますよ。いや、受け取るわけにはいきませんよ」
とニコニコしながら断る。こういうことって、社交上でよくありますよね。
人間の場合は、「いやいや」と断りながら、心の中では「早く寄越しなさい」とか、「こんなものじゃなく、もっといいものもってこいよ」とか思いながら、受け取る・・・・というのが常でしょうか。
「いやいや、そんな・・・」といって断るのは、いわば社交辞令ですね。「いやいや」と断らずに「あぁ、そうですか、そりゃ、ありがとう」と簡単に受け取ってしまったら、「なんて図々しいヤツ」と思われたりします。
ま、これは日本人の場合・・・ですが。欧米諸国では、このような社交辞令はないようですけどね。
なお、観音様の場合は、本当に断っているのです。遠慮や社交辞令ではありません。なぜなら、そうした宝物などには執着がないからです。欲しいと思わないのですよ。まあ、元々身に着けてますしね。それに、プレゼントしようとしてるのは無盡意菩薩ですから。同じ菩薩ですからね。一般の庶民ではないのですから、「いや、受け取るわけにはいかないよ」となるのです。
これが、庶民ならば、その庶民が徳を積めるように受け取ったのでしょう。なので、無盡意菩薩は、「慈悲を与えると思って受け取ってくれ」と頼んでいるのです。我々菩薩にも、観世音菩薩の徳を下さい、ということなのです。


25、爾時 佛告観世音菩薩 当愍此無盡意菩薩 及四衆 天 龍 夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦樓羅 緊那羅 摩喉羅伽 人 非人等故 受是瓔珞
(にーじー ぶつごうかんぜーおんぼーさー とうみんしーむーじんにーぼーさー ぎゅうしーしゅう てん りゅう やーしゃー げんだつば あーしゅら かーるら きんなーら まごらが にん ぴーにんとう こー じゅーぜーようらく)


書き下し:爾時 佛観世音菩薩摩に告ぐ 当に此の無盡意菩薩 及び四衆 天 龍 夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦樓羅 緊那羅 摩喉羅伽 人 非人等を愍むが故 是の瓔珞を受けるべし

無盡意菩薩と観音様のやり取りを見て、お釈迦様が、観音様に「受け取りなさい」というところの場面です。どういう情景か、訳を見てみましょう。
「その時、お釈迦様は観世音菩薩に告げた。『ここにいる無盡意や四衆、天人、龍、夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦樓羅 緊那羅 摩喉羅伽、人、人以外の生き物などに慈悲を与える意味で、この首飾りを受け取りなさい』と。」
観音様と無盡意菩薩が、「首飾りを捧げます」、「いや受け取れません」とやり取りしているので、お釈迦様が、割って入ったのです。
「観世音菩薩よ、彼等に慈悲を与えると思って、その首飾りを受け取りなさい」
と。ここでいう「彼ら」とは、無盡意菩薩をはじめ、「四衆、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩喉羅、人、非人」のことです。「天〜非人」までは、以前に説明いたしましたよね。観音様が変化をするのだ、という件のところです。説明していないのは「四衆」だけですね。
「四衆」とは、「比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷(びく、びくに、うばそく、うばい)」のことです。聞いたことありますよね。「比丘」は男性の出家者・僧侶、「比丘尼」は女性の出家者・尼僧、「優婆塞」は在家の男性信者、「優婆夷」は在家の女性信者、のことです。覚えてますか?。

つまり、お釈迦様は、観音様に、その場にいた人々や天人、菩薩、龍や他の神々、その眷属などに慈悲を与えるのだと思って、首飾りを受け取りなさい、といったわけです。


26、即時 観世音菩薩 愍諸四衆 及於天 龍 人 非人等 受其瓔珞 分作二分 一分奉釈迦牟尼佛 一分奉多寶佛塔
(そくじー かんぜーおんぼーさー みんしょーしーしゅう ぎゅうおーてん りゅう にん ぴーにんとう じゅーごーようらく ぶんさーにーぶん いちぶんぶーしゃかーむーにーぶつ いちぶんぶーたーほうぶっとう)


書き下し:即時 観世音菩薩 諸々の四衆 及び天 龍 人 非人等を愍み 其の瓔珞を受け 二分に作り分ける 一分は釈迦牟尼佛に奉じ 一分は多寶佛塔に奉ず

お釈迦様に促された観音様は、次のような行動を取りました。
「すぐに、観世音菩薩は、多くの四衆や天人、龍、及び、人、人以外の生き物などに慈悲を与える意味で、この首飾りを受け取った。そして、その首飾りを二つに分けると、一つをお釈迦様に奉納し、もう一つを多寶塔如来に奉納した。」
お釈迦様の言葉により、観音様は無盡意菩薩の首飾りを受け取ったのですが、自分のものとはしないで、神通力(不思議な力)により、その首飾りを二つに分けてしまうのです。
で、一つはお釈迦様に奉納し、もう一つは、この法華経を説き始めた頃から空中に漂っていらっしゃる多宝塔如来に奉納したのです。
覚えてますか?。忘れた方は、バックナンバー4の「あらすじのA」を見てください。多宝如来が出現する件が書いてあります。法華経を説く時には必ず出現するという如来です。
で、その如来に二つに分けた首飾りの残りを奉納したのです。ここは、そういう場面なのです。


27、無盡意 観世音菩薩 有如是自在神力 遊於娑婆世界
(むーじんにー かんぜーおんぼーさー うーにょーぜーじーざいじんりき ゆうおーしゃーばーせーかい)


書き下し:無盡意 観世音菩薩は 是の如く自在なる神力があり 娑婆世界に於いて遊ぶ

これで最後です。長かった観音経の散文の部分はこれで終わりです。訳してみましょう。
「無盡意よ、観世音菩薩は、このように不思議な力を自在に使って、この娑婆世界で人々を救っているのだよ。」
となります。
いや〜、長かったですね。最後に、観音様が一つの首飾りを二つに分けるという神通力を見せたので、お釈迦様が、
「どうだい無盡意よ、観音様は、こういう神通力を自由に操れるんだよ。こうして、この世で活躍しているんだよ」
と締めくくったわけですね。

「遊ぶ」というのは、観音経の冒頭の部分にも出て来ましたよね。「遊行」という言葉で。それと同じです。観音様は、喜んでこの世で活躍されているのです。ですから「遊ぶ」という文字をあえて使っているのです。

以上、今回のところをまとめておきましょう。訳はわかりやすく変えた部分もあります。
無盡意菩薩 白佛言 世尊 我今当供養観世音菩薩 即解頸衆寶珠瓔珞價直百千両金 而以興之作是言 仁者 受此法施珍寶瓔珞
時観世音菩薩不肯受之 無盡意 復白観世音菩薩言 仁者愍我等故 受此瓔珞
爾時 佛告観世音菩薩 当愍此無盡意菩薩 及四衆 天 龍 夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦樓羅 緊那羅 摩喉羅伽 人 非人等故 受是瓔珞
即時 観世音菩薩 愍諸四衆 及於天 龍 人 非人等 受其瓔珞 分作二分 一分奉釈迦牟尼佛 一分奉多寶佛塔
無盡意 観世音菩薩 有如是自在神力 遊於娑婆世界
(むーじんにーぼーさー びゃくぶつごん せーそん がーこんとうくーようかんぜーおんぼーさー そくげきょうしゅほうしゅようらくげーじきひゃくせんりょうごん
じーかんぜーおんぼーさーふーこうじゅーし むーじんにぶーびゃっかんぜーおんぼーさーごん にんじゃーみんがーとうこ じゅーしようらく
にーじー ぶつごうかんぜーおんぼーさー とうみんしーむーじんにーぼーさー ぎゅうしーしゅう てん りゅう やーしゃー げんだつば あーしゅら かーるら きんなーら まごらが にん ぴーにんとう こー じゅーぜーようらく
そくじー かんぜーおんぼーさー みんしょーしーしゅう ぎゅうおーてん りゅう にん ぴーにんとう じゅーごーようらく ぶんさーにーぶん いちぶんぶーしゃかーむーにーぶつ いちぶんぶーたーほうぶっとう
むーじんにー かんぜーおんぼーさー うーにょーぜーじーざいじんりき ゆうおーしゃーばーせーかい


書き下し:無盡意菩薩 佛に白して言さく 世尊 我今当に観世音菩薩を供養す 即ち頸より衆の價直百千両金の寶珠瓔珞を解き 而して之を興えるを以って是の言を作す 仁者 此の法を受け珍寶瓔珞を施す
時に観世音菩薩之を受けるを肯せず 無盡意 復た観世音菩薩に言して白さく 仁者我等を愍むが故 此の瓔珞を受け(たまえ)爾時 佛観世音菩薩摩に告ぐ 当に此の無盡意菩薩 及び四衆 天 龍 夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦樓羅 緊那羅 摩喉羅伽 人 非人等を愍むが故 是の瓔珞を受けるべし
即時 観世音菩薩 諸々の四衆 及び天 龍 人 非人等を愍み 其の瓔珞を受け 二分に作り分ける 一分は釈迦牟尼佛に奉じ 一分は多寶佛塔に奉ず
無盡意 観世音菩薩は 是の如く自在なる神力があり 娑婆世界に於いて遊ぶ

「無盡意菩薩(むじんにぼさつ)は、お釈迦様にのたもうた。
『世尊、私は今、観世音菩薩に供養いたします』
と。そして、自分の首に下げたたくさんの宝の珠や首飾り・・・・その値は百千両金にもなるもの・・・・を首からはずし、観世音菩薩にささげて言った。
『尊い方よ、お釈迦様の教えを受けて、私はこの珍しい宝でできた首飾りを施したいのです。』
と。
その時、観世音菩薩は、それを受け取ろうとはしなかった。そこで無盡意は、再び観世音菩薩に言ったのだった。
『尊い方よ、どうか我々に慈悲を与えてくださると思って、この瓔珞を受け取ってください』
と。
その時、お釈迦様は観世音菩薩に告げた。
『ここにいる無盡意や四衆、天人、龍、夜叉 乾闥婆 阿修羅 迦樓羅 緊那羅 摩喉羅伽、人、人以外の生き物などに慈悲を与える意味で、この首飾りを受け取りなさい』
と。
それを聞いて、すぐに、観世音菩薩は、多くの四衆や天人、龍、及び、人、人以外の生き物などに慈悲を与える意味で、この首飾りを受け取った。そして、その首飾りを二つに分けると、一つをお釈迦様に奉納し、もう一つを多寶塔如来に奉納したのだった。それを見て、お釈迦様は言った。
『無盡意よ、観世音菩薩は、このように不思議な力を自在に使って、この娑婆世界で人々を救っているのだよ。』
と・・・・。」



以下、観音経のまとめとして、観音経を物語風に書いていきます。

マガダ国の郊外に霊鷲山(りょうじゅせん)という山があった。お釈迦様は、その地を好み、多くの教えを説いてきた。ある日のこと、お釈迦様は、数多くの菩薩や弟子に一般的な教えを説いた後、その眉間から一筋の光明を放たれた。その光は、東方遥か遠くまで及び、数多くの佛国土を示現したのであった。それは、今までお釈迦様が説いたことがない、この上ない真理について説き明かした教えを説く、前触れだったのである。

こうして始まったこの上ない真理の教えは、法華経と呼ばれるものであった。その教えは、様々な内容のものであった。教えを説いている最中に、多寶塔に鎮座した多寶如来も、真理を説き明かすお釈迦様を讃えるために現れていた。

さて、お釈迦様が妙音菩薩についての話が終わったとき、お釈迦様のそばにいた無盡意菩薩が立ち上がり、右の肩の衣を脱ぐという最高の礼拝の仕方を以って、仏陀であるお釈迦様に合掌して尋ねた。
「世尊よ、ここにいらっしゃる観世音菩薩様は、どのような理由で観世音というお名前があるのでしょうか。」
お釈迦様は、無盡意菩薩や教えを聞きに集まった人々に告げた。
「ここに集う善き人々よ、よく聞くがよい。
たとえば、大変多くの人々が、いろいろな苦しみに喘いでいたとしましょう。そして、その苦しんでいる人々が、観世音菩薩の名前を知り、その名前を一心に唱えたならば、観世音菩薩は、人々が観世音菩薩の名を一心に唱えるその声をすぐに観じて、人々を苦しみから解放してくれるのです。

具体的な例をあげてお話しましょう。
たとえば、大火事にみまわれたとします。しかし、たとえその火の中に人々がいたとしても、その人々の中に観世音菩薩の名を唱えるものがいたならば、人々はその火難から逃れることができるでしょう。それは観世音菩薩の偉大なる神通力によるからなのです。
たとえば、人々が大水により流されてしまうことがあっても、その人々の中に観世音菩薩の名を称える者がいたならば、流された人々はすぐに浅いところへと導かれるでしょう。
そして、それは、おのれの燃え盛る欲望により苦しんでいても、観世音菩薩の名を称えれば、その欲望から解放される、ということも意味しているのです。また、迷いの渦に流されていても、観世音菩薩の名を称えれば、その迷いも消え去る、ということも意味しているのですよ。


たとえば、貿易商人たちがいて、金銀や瑠璃、シャコ、瑪瑙、琥珀、真珠などの財宝を求めて大海原を航海しているとき、暴風が吹き荒れ、その船が悪鬼羅刹の住む島へ漂着してしまったとします。しかし、その漂着した人々の中に、観世音菩薩の名を唱えるものが一人でもいたならば、漂着した彼等は、みな羅刹の島から脱出できるでしょう。
このような要因から観世音と言う名があるのですよ。
また、たとえば、ある人が悪者に捕まってしまい、今まさに殺されそうになっているとしましょう。そんな時、その者が観音様に一心に救いを求めたならば、処刑をしようとしていた悪者の刀などは、みんな壊れてしまい、その捕まっていた者は助かることでしょう。


たとえば、この広い世界の数多くの国々に夜叉や羅刹(心のない者たち)が満ち溢れ、人々を悩ましたとしても、観世音菩薩の名を唱えるものがいれば、悪者たちは悪意に満ちた目で見ることはできなくなるし、ましてや害を加えることなどできなくなるでしょう。
たとえば、有罪や無罪に関わらず、手かせ足かせ、或いは首に鎖を巻かれ繋がれる者があったとします。そして、その者が、観世音菩薩の名を唱えれば、その者を繋いでいた鎖はすべて切断されて壊れてしまい、即座に助かってしまうのですよ。
それが、たとえ罪を犯した者であっても観世音菩薩を信心すれば、罪を再び犯すことはなくなり、その者を始め、周りにいたものはみんな、慈悲の心を起こすのです。ですから、有罪であろうと、その者を繋いでいた鎖は切れてしまうのですよ。
たとえば、この広い世界の数多くの国々に盗賊が満ち溢れているとしましょう。その中をたくさんの宝物を抱えた商人の隊列が危険な道を越えてやってくるとします。商人たちは、恐ろしい眼に遭うことでしょう。
しかし、その商人の隊列の中に一人でも、『南無観世音菩薩』と唱えたならば、その商人の隊列の者たちは、恐怖を覚えることはありません。それは、その商人が一心に『南無観世音菩薩』と唱えたことに応じて、観世音菩薩が彼等を救いにきたからです。観世音菩薩は、人々に恐れがないようにしてくれるのです。
さらにその商人の隊列のみんなが、『南無観世音菩薩』と唱えれば、盗賊たちから逃げ出すことができるのです。


このように、今まで例をあげてお話してきた不思議な救いは、すべて人々が一心に『南無観世音菩薩』と唱えたから、なのですよ。
無盡意よ、このように観世音菩薩は大菩薩であり、その神通力は、大変高大ですばらしいものなのです。」
お釈迦様の話はさらに続いた。
「たとえば欲望や邪淫の心に悩まされている人がいたなら、そういう者は常に心に観世音菩薩を念ずるといいでしょう。そうすれば、その者は、その者を苦しめている欲望や邪淫の心から離れることができるできるのです。
同じように、怒りや妬み、怨み、羨みの心にとらわれている者がいたならば、その者は、観世音菩薩を心から念ずるといいでしょう。そうすれば、そうした心から離れられることができます。
また、愚痴を言ったり、愚かな考えにとらわれている者がいたならば、その者は、観世音菩薩を心から念ずるといいのです。そうすれば、そうした愚かさ離れられることができます。
無盡意よ、このように観世音菩薩の神通力は偉大であり、多くの利益を人々に与えるのです。それは、人々が救いを求め、心に観世音菩薩を念ずることに応じてくれるからなのです。


ある夫婦がいて、その妻が、男の子を欲しいと望んでいたとします。そういう夫婦は、観世音菩薩を礼拝し供養するといいでしょう。そうすれば、きっと福徳と智慧がそなわった男の子に恵まれることでしょう。
また、女の子を欲しいと望んで礼拝し供養すれば、美しい女の子が生まれるでしょう。その女の子は、美しいだけではなく、前世で深い徳を積んでおり、多くの人々に愛され、尊敬される女の子となるでしょう。
無盡意よ、観世音菩薩には、このような偉大なる力が備わっているのです。だから、観世音菩薩を礼拝し、供養すれば、その福徳は広大なるものなのです。
だから、すべての人々は、観世音菩薩の名を常に心に抱き、一心に唱えるとよいのです。
苦しみにあるとき、叶えたい望みがあるとき、一心に観世音菩薩の名を唱えるとよいのです。そうすれば、その念じる心を観じて、観世音菩薩は即座に救いに来ることでしょう。こうしたことから、観世音菩薩、という名があるのですよ。」
そこまで話をすると、お釈迦様は無盡意菩薩に尋ねた。
「ところで、無盡意よ、もしある人が、とてつもなく多くの菩薩の名を唱え、その菩薩たちに飲食や衣服や寝具や医薬品を施したとします。この場合、このような施しをした善なる男性や女性の功徳は多いだろうか、それともないのだろうか。」

無盡意菩薩は、答えた。
「世尊、その功徳は、とても多いものです。」
と。それを聞いて、お釈迦様は、おっしゃった。
「ふむ、確かに多いであろう。
では、ここで、ある人が観世音菩薩の名を唱え、ほんの一時でも、観世音菩薩を礼拝し、供養したとしよう。その功徳は大変多いものです。
その功徳がどのくらい多くあるかというと、その時の功徳は、実は、先ほどの数多くの菩薩に供養した者の功徳と全く異ならないのですよ。数多くの菩薩に数多くの施しをした功徳と、観世音菩薩に対しほんの一時でも礼拝した功徳とは、全く同等なのです。
そして、その功徳は、とてつもなく長い時間を経ても、なくなることはないのです。
無盡意よ、観世音菩薩の名をいつも心に念じ、一心に唱えれば、このようなとても大きな功徳や福徳が得られるのですよ。」
無盡意菩薩を始め、その場にいた数多くの菩薩や弟子達は、この観世音菩薩の功徳に大いに驚いたのであった・・・・。


その時、無盡意菩薩が、お釈迦様に尋ねた。
「お釈迦様、観音様はどのようにして、この現実世界で布教や救済を行っているのでしょうか。どのようにして人々のために教えを説いていらっしゃるのでしょうか。先程お聞きした方便の力である神通力は、どのようにして示されるのでしょうか。どうか、お教えください。」
その質問を受け、お釈迦様は無盡意菩薩たちに告げたのだった。
「人々よ。ある国の人たちが、たとえば・・・・、
仏様、つまりは如来ですね、その仏様から教えを受けたいと願うもの、仏様から教えた方がよいというものに対しては、観世音菩薩は仏様の姿で現れて教え導くのです。
一人でひっそりと覚った聖者を求める人々、そうした聖者から教えを受けた方がよい人々に対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
私の弟子による救いを願うもの、弟子による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。

宇宙を創り続けている梵天による救いを願うもの、梵天による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
神々の王である帝釈天の救いを願うもの、帝釈天による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
荒れる神・自在天の救いを願うもの、自在天による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
さらに自在天の上の神・大自在天の救いを願うもの、大自在天による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
転輪聖王の救いを願うもの、転輪聖王による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
毘沙門天の救いを願うもの、毘沙門天による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
よく国を治めている王の救いを願うもの、そうした王による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
教えをよく守っている資産家の救いを願うもの、そうした者による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
仏教教団に協力している資産家の救いを願うもの、そうした者による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
国の官僚や宰相の救いを願うもの、そうした者による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
賢者であるバラモンの祭司の救いを願うもの、そうした者による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
僧侶や尼僧、在家の仏教信者の救いを願うもの、そうした者による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
仏教の教えを守っている資産家や宰相や官僚、バラモンの祭司の妻の救いを願うもの、そうした者による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
幼い子供による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
神や龍神、夜叉、乾闥婆(げんだつば)という音楽の神、阿修羅、迦樓羅(かるら)という火の鳥、緊那羅(きんなら)という太鼓を操る神、摩喉羅伽(まごらが)という笛を操る神、人間、人間以外の存在による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。
帝釈天の脇侍でもある仁王尊による救いがあうものに対しては、観世音菩薩はその姿で現れ、教え導くのです。


無盡意よ、このように観世音菩薩は、いろいろな功徳を持っており、様々な姿に変化して、あらゆる国土に行き渡るのです。そして、多くの人々を苦しみから救ってくれるのです。
だからこそ、ここに集う人々よ、観世音菩薩を一心に供養するとよいのだよ。そうすれば、観世音菩薩は、あらゆる恐怖や急難、困難、苦しみから救い出してくれるのです。
こうした働きがあるから、この世界では、観世音菩薩のことを施無畏者(せむいしゃ)・・・恐怖を与えないもの、安心を与えるもの・・・とも呼ぶのですよ。」


無盡意菩薩が、お釈迦様に
「お釈迦様、私は、観世音菩薩を一心に供養したします。」
と告げ、自分の首に下げていたたくさんの宝石でできた首飾り・・・その首飾りは百千両金にもなる高価なものであった・・・を首から外し、お釈迦様のそばにいた観世音菩薩に捧げて、
「尊い観世音菩薩様、お釈迦様の教えを受けて感動いたしました。ですから、この首飾りを観世音菩薩様に施したいのです。どうかお受け取りください。」
と言った。
しかし、観世音菩薩は、無盡意菩薩の申し出を断り、その首飾りを受け取ろうとはしなかったのだった。そこで無盡意菩薩は、再び観世音菩薩に懇願したのだった。
「尊い方よ、どうか、ここに集う我々に慈悲を与えてくださると思って、この首飾りをお受け取りください。」
その様子を見て、お釈迦様が観世音菩薩に言った。
「ここにいる僧侶や尼僧、在家の男女の信者達、神々、龍神、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊緊那羅、摩喉羅伽、人々や動物など人以外の命あるもの、魂たちに、汝の慈悲を与えるという意味で、その首飾りを受け取るがよいでしょう。」
このお釈迦様の言葉に従い、観世音菩薩は、即座に僧侶や尼僧、在家の男女の信者達、神々、龍神、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩喉羅伽、人々や動物など人以外の命あるもの、魂たちを、大いなる慈悲で包み込み、その首飾りを受け取ったのであった。
しかし、その首飾りは、観世音菩薩の首に掛けられることはなった。観世音菩薩は、その首飾りを神通力によって、二つの首飾りに変化させたのだった。そして、二つになった首飾りの一つをお釈迦様に、残りの一つを天空から見守っていた多寶塔如来に、それぞれ奉納したのであった。
この観世音菩薩の行為を見て、お釈迦様は微笑んで人々に告げたのだった。
「無盡意よ、人々よ、観世音菩薩は、このように不思議な力を自在に使って、この世界で命あるもの、魂を救っているのですよ。」
と・・・・。


以上、観音経の散文の部分についての解説を終了いたします。合掌。


今回からは、観音経の偈文の解説に入ります。偈文というのは、漢詩と同じような形態で書かれているお経のことです。これは、漢訳される前のお経、つまりインドの古い言葉で書かれたお経の詩文を漢訳したものです。お経の詩になっている部分を漢訳したとき、漢詩で訳したのです。ですから、元のインドの言葉でのお経も、詩になっています。

さて、観音経の偈文ですが、これは今まで説いてきた内容の続きになっています。お釈迦様が無盡意菩薩の質問に答えて、ずーっと観音様について話してきたのが、観音経でした。観音経はそこで終わらずに、再び無盡意菩薩が次のように問い直すのです。そこから観音経の偈文が始まります。

1、爾時 無盡意菩薩 以偈問曰
(にーじー むーじんにーぼーさー いーげーもんなつ)


書き下し:時に無盡意菩薩 偈を以って問うて曰く

訳を先にしておきましょう。
「その時に、無盡意菩薩は、詩でもって、お釈迦様に再び問い始めたのであった。」
となるでしょう。少々意訳しておきましたが。
つまり、今まで観音様についてのお釈迦様の説明があったのですが、無盡意菩薩はさらに、しつこくも、詩でもって、再び観音様について質問を始めたのです。

こういう点が、お経のくどいところでもあります。今まで十分に説明してきたのですが、それをさらに詩にして説明し始めるんですね。まあ、わかりやすいと言えばわかりやすいのですが。

それにこの詩は、実際は声に出して詩文として吟じていたようでもあります。ですので、大変覚えやすいし、読みやすくもあります。意味もわかりやすいのです。

ということは、偈文は散文をわかりやすく圧縮したもの、ともいえます。こういうことから、観音経を読むとき、散文の部分を省略して、偈文のみを読む場合があります。
それでも十分に観音経の内容を表現しているので、散文の部分を省略して偈文だけを読んでも、お経を読む功徳には変わらないのですよ。

で、無盡意菩薩が、歌い始めるんですね。

2、世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
(せーそんみょうそうぐ がーこんじゅうもんび ぶっしがーいんねん みょういーかんぜーおん)


書き下し:妙なる相を具せし世尊 我重ねて彼のことを問う 佛子何の因縁にて 観世音と名を為すか

「世尊」は、いいですね。お釈迦様のことです。妙なる相−「妙相」−というのは、お釈迦様の吉相のことです。
仏陀は、その身体に特徴的な吉相をもっています。それは「三十二相」と言われており、さらに細かく分析すれば「八十種好」と言われるものです。あわせて、仏陀、つまり「如来の三十二相八十種好(にょらいのさんじゅうにそうはちじゅっしゅこう)」と言われるものです。(ちなみに、この三十二相と八十種好をあわせたところから、相好という言葉が生まれたのですよ。相好を崩す、の相好ですね。)
ここでは、三十二相についてだけ説明しておきます。この相は、仏像の特色として見られます。

*三十二相
1、頭頂部に肉が盛り上がった状態になっている。これを肉けい(にっけい)という。
2、身体のすべての毛が右回りになっている。
3、前額が平正である。額がでこぼこしていなく、髪の生え際もすっきりしている。
4、眉間に白いやわらかい毛があって、右回りになっている。これを白毫(びゃくごう)という。
5、目の瞳の色が紺碧で、まつげが牝牛の如くである。
6、歯が40本ある。
7、歯が平らで、きれいな歯並びをしている。
8、歯が密で、隙間がない。
9、歯が白くきれいに輝いている。
10、最上の味感を持っている。唾液でどんなものでも美味しくすることができる。
11、顎骨が獅子の如くしっかりしている。
12、舌が薄くやわらかく、長くて細い。舌を出すと顔を覆うことができ、舌先が耳まで達する。
13、絶妙なる音声を出すことができる。
14、肩の先が丸く豊満である。(仏像の肩を想像して下さい。丸みがあって肉厚な感じです)。
15、七つの隆起−両手・両足・両肩・頭頂−が満足していて、柔軟であること。
16、両腋の下の肉が豊満である。腋の下のへこみがない。
17、皮膚が滑らかで、黄金に輝いている。このことから、仏像は金箔される。
18、手が長い。立っているときに手を下に伸ばせば、ひざまで届く。
19、堂々としていて、恐れがない。どっしりとしている。
20、身長と両手を伸ばした長さが等しい。
21、一つ一つの毛髪が右旋している。
22、身体の毛がすべて上向きに生えている。
23、男根が身体の中に隠れている。
24、大腿部が丸くやわらかい。
25、足の甲が高く、柔軟である。
26、手足が柔軟である。
27、手足の指と指の間に水かきがある。
28、指が長い。
29、手のひら、足の裏に輪の相がある。
30、足の裏がすべて地に着く。足の裏に凹凸がなく、どんな地形でもすべて足の裏に接触できる。
31、足の踵が幅広く、柔らかである。
32、ふくらはぎが繊細だが、やわらかく丸い。

と、以上のようになっています。似たような内容もありますが、多くは仏像や仏画に反映されていますね。まあ、なかには、明らかに苦し紛れ・・・・と感じるような事柄も含まれていますが・・・・。
ともあれ、このような特徴を持ったものが仏陀になれるわけです。これからすると、人類ではひとりも仏陀にはなれない・・・・としか思えませんが。

ということで、「世尊妙相具」とは、「このような三十二の特徴を備えた尊いお方であるお釈迦様」、という意味なのです。
で、そのお釈迦様に、再び詩でもってたずねます、と無盡意菩薩にいうんですね。何を尋ねたと言いますと、
「佛子である観世音菩薩は、どういう因縁でその名前があるのですか」
と尋ねたのです。
つまり、前回までの質問と同じですね。観音経の始まりと同じ質問なのです。ですから、「重ねて問う」なのです。
「佛子」とは、「菩薩」と言う意味に取っていただいて結構です。もっとも、「佛子」といえば、広い意味では「すべての生あるもの」となりますが、ここでは、観音様のことを示しているので、「菩薩」と解釈していいでしょう。
ですので、この部分の意味は

「妙なる三十二の相を身につけていらっしゃる世尊よ、私は詩でもって重ねてお尋ねいたします。菩薩である観音様は、どのような因縁で観世音菩薩という名前があるのでしょうか。」
となります。こうした内容のことを詩文で問いかけたわけです。


3、具足妙相尊 偈答無盡意
(ぐーそくみょうそうそん げーとうむーじんに)

書き下し:妙相を具足せし尊 偈にて無盡意に答う

簡単な内容ですので、訳します。
「三十二の妙なる相を身につけた尊いお方は、詩でもって無盡意菩薩に答えた。」
無盡意菩薩が、詩で質問したので、お釈迦様も詩をもって答えた、と説明しているわけです。
で、その内容は、次回にお話し致しましょう。



以上のところをまとめます。
爾時 無盡意菩薩 以偈問曰
世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
具足妙相尊 偈答無盡意
(にーじー むーじんにーぼーさー いーげーもんなつ
せーそんみょうそうぐ がーこんじゅうもんび ぶっしがーいんねん みょういーかんぜーおん
ぐーそくみょうそうそん げーとうむーじんに)


書き下し:時に 無盡意菩薩 偈を以って問うて曰く
妙なる相を具せし世尊 我重ねて彼のことを問う 佛子何の因縁にて 観世音と名を為すか
妙相を具足せし尊 偈にて無盡意に答う

「その時に、無盡意菩薩は、詩でもって、お釈迦様に再び問い始めたのであった。
妙なる三十二の相を身につけていらっしゃる世尊よ、私は詩でもって重ねてお尋ねいたします。菩薩である観音様は、どのような因縁で観世音菩薩という名前があるのでしょうか。
三十二の妙なる相を身につけた尊いお方は、詩でもって 無盡意菩薩に答えた。」



ばっくなんばあ〜8


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