ばっくなんばぁあ〜8

第 三 章 

「観音経」

前回の続きで、観音経の偈文のお話です。

4、汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願 我為汝略説
(にょうちょうかんのんぎょう ぜんのうしょうほうしょ ぐぜいじんにょーかい りゃっこうふーしーぎ じーたーせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん がーいーにょうりゃくせつ)
書き下し:汝観音の行を聴け 善く諸々の方所に応じ 弘い誓いは海の如く深く 劫を歴ても不思議なり 多くの千億の佛に侍り 大いなる清浄な願いを発す 我は汝のために略して説く


無盡意菩薩の質問に対して、お釈迦様も歌を持って答えられるのですね。詩での質問には詩で返すのが、当時のインドでも習慣だったようです。
で、その答えがこの部分です。これより、お釈迦様の詩による答えが始まるのです。特に難しい言葉はないので、訳しておきます。
「無盡意菩薩よ。あなたは、観音の行うことをよく聴いておくがいい。観音は、あらゆるところに現れるのだよ。観音の弘誓は、海の如く深いものである。それは劫という時が過ぎても理解は及ばない。観音は、これまで数多くの仏陀のそばについて、偉大で穢れのない清浄な願いを持ったのだよ。私はあなたのために、そのことについて、略してではあるが、説いてあげよう。」
となりますね。

「汝」はわかりますね。無盡意菩薩のことです。ここでは、聞き手は無盡意菩薩ですから。
「諸方所」とは、「もろもろの方角・所」ですので、簡単に言えば、「あらゆるところ」となります。
「弘誓」は「ぐぜ」と読み、これで一つの言葉として使われることが多いです。意味は、「一切衆生をすべて救うという、菩薩の誓いのこと」です。ですので、あえて「広い誓い」と訳す必要はありません。
菩薩は、本来覚りを得ています。つまり、智慧の面からいえば、如来(仏陀)と同じなのです。しかし、如来(仏陀)とはなりません。それは、「この世界に存在するすべての生あるものを苦しみから救うまでは、仏陀にはならない」という誓いを立てているからです。それが菩薩なのです。ですから、菩薩は、我々を救ってくれる存在なのです。

ここで、もう一度、如来・菩薩・明王の違いを述べておきましょう。
如来は、救うという行為を直接はしない存在なのです。苦しみにあっている生あるものを哀れむことはしても、直接救うことはしません。それが如来なのです。救いの手を差し伸べるのは、菩薩や明王なのです。
菩薩は先ほども言いましたように、覚りの面ではすでに如来と同等です。しかし、自分が覚りの世界に入ってしまっては、衆生を救うという行為をする者がいなくなってしまいます。なので、菩薩にとどまっているのです。如来になれるのに、衆生を救うため、あえて菩薩のままでいるのですね。
明王は、人々の心にある煩悩の悪を消すために、如来の瞑想から生まれた存在です。悪を消す、ということをしますので、その姿は怒りに満ちています。如来は、本来、救うという行為はしません。しかし、菩薩だけでは、悪を消すということにおいて間に合わないので、如来が深く瞑想し、明王という姿を生みだしたのです。
つまり、菩薩では優しすぎて、導けない者も出てくるため、怒りの姿の明王が必要になったわけです。

さて、このように菩薩は、
「この世もあの世も通じて、すべての苦しみにあっている生あるもの、魂を救います。それが完成するまで如来にはなりません。」
という誓いを立てていますから、観世音菩薩もそれは同じですね。「弘誓」とは、そのことをいっているのです。当然、その誓いは、海よりも深い・・・ものですよね。

「不思議」ですが、ここでいう「不思議」は、現在で使われている「不思議」とは少々異なります。「思議できず」という意味です。つまり「考えや思いが及ばないこと」ですね。
「不思議」というのは、本来は「思議できず」という意味でした。現在の「不思議」も基本的には同じですが、軽い感じになっていますよね。「ふしぎ〜」という方があっているようです。元は、もっと重々しい言葉ですよね。

ですので、ここでの「不思議」も「考えや思いが及ばない、理解が及ばない」と訳します。
「劫」はいいですね。以前にも説明いたしました。とてつもなく長い時間のことです。その長い時間を経ても「思議」できない、といっているのですね。
「発大清浄願」は、先ほどの「弘誓」と、内容的には同じです。表現の仕方が変わっただけですね。先ほどは「誓い」でしたが、ここでは「願い」になっただけです。誓いと願いは、微妙に違いますが、まあほぼ同じでしょう。
菩薩の誓いは先ほど説明したとおりですし、願いは、「苦しみになる生あるもの、魂を救いたい」ということです。ですから、内容はほぼ同じですね。


で、このような誓いや願いをもった観音様について、これからお釈迦様が、無盡意菩薩のために説いてあげましょう、といっているのですね。

5、聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
(もんみょうぎゅうけんしん しんねんふーくうか のうめつしょーうーく)

書き下し:名を聞き及び身を見 心に念じ空しく過ごさざれば 能く諸々の苦あるを滅す

先に訳をしておきましょう。

「名前を聞き、姿を見て、心に念じ、空しい時を過ごしたりしなければ、よく様々な苦しみを滅ぼしくれよう」

となりますね。ほぼ直訳すれば、ですが。これでは、よくわからないので、もう少し肉付けします。
「名前を聞き、姿を見、心に念じ」というのは、どういうことかといいますと、これは
「観世音菩薩の名前を聞き、その姿を拝み、観世音菩薩を心に念じれば」ということですよね。説明されなくても、想像はついたとは思いますが、一応、説明しておきます。
で、そういう日々を過ごしなさい、ということなのです。空しく、空虚な毎日を過ごさずに、日々観音様の名を唱え、姿を拝み、心に観音様の慈悲を願っていれば、救われるよ、ということなのですよ。
名を聞き・・・というのは、その名を唱え、ということです。つまり、身で観音様を感じ、口でその名を唱え、心でその慈悲を願えば・・・・という意味ですね。
そういう日々を過ごしていれば、普段起こりうる様々な苦しみは、自然に消えていくのだよ、と説いているのです。
ですから、ここの訳は、

「観世音菩薩の名を唱え、観世音菩薩の姿に手を合わせ、観世音菩薩の慈悲を心に願うという日々を過ごしていれば、観世音菩薩は、人々が抱えている様々な苦しみを消し去ってくれるのだよ。」

となるのです。
で、続いて、その具体例に入っていきます。



6、仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
(けーしーこうがいい すいらくだいかーきょう ねんびーかんのんりき かーきょうへんじょうち)

書き下し:仮に害意を起こし使い 大火の坑に推落せしとも 彼の観音力を念ずれば 火の坑は変じて池となろう


簡単な内容ですので、訳します。
「もしたとえば、誰かが悪意を起こして大きく燃え盛る火の穴にあなたを落としたとしても、彼の観世音菩薩の力を念じれば、その火の穴は池に変化してしまうだろう。」
となります。
難しいことはありません。そのままです。つまり、
「たとえばの話、もし、あなたが誰かに悪意を持って火の燃える穴に落とされたとしても、観音様助けてください、と念じれば、火が池のようになってしまうんだよ。」
ということですね。それぐらい、観音様の力はすごいのだ、ということです。
なお、これは、散文のほうの初めのころに出てきたたとえ話
「若有持是観世音菩薩名者 設入大火〜由是菩薩威神力故」
の部分に当たると言っていいでしょう。(ばっくなんば〜5の5の部分)


しばらくは、このパターン・・・・○○○○ ○○○○ 念彼観音力 ○○○○・・・・が続きます。この形で、観音様の救いの具体例を挙げていくのです。それは、散文の方で説いてきた内容と重複している部分が多々あります。
続きは次回で・・・・。



以上のところをまとめます。
汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願 我為汝略説
聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
(にょうちょうかんのんぎょう ぜんのうしょうほうしょ ぐぜいじんにょーかい りゃっこうふーしーぎ じーたーせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん がーいーにょうりゃくせつ
もんみょうぎゅうけんしん しんねんふーくうか のうめつしょーうーく
けーしーこうがいい すいらくだいかーきょう ねんびーかんのんりき かーきょうへんじょうち)

書き下し:汝観音の行を聴け 善く諸々の方所に応じ 弘い誓いは海の如く深く 劫を歴ても不思議なり 多くの千億の佛に侍り 大いなる清浄な願いを発す 我は汝のために略して説く
名を聞き及び身を見 心に念じ空しく過ごさざれば 能く諸々の苦あるを滅す
仮に害意を起こし使い 大火の坑に推落せしとも 彼の観音力を念ずれば 火の坑は変じて池となろう

「無盡意菩薩よ。あなたは、観世音菩薩の行うことをよく聴いておくがいい。観世音菩薩は、あらゆるところに現れる。観世音菩薩の弘誓は、海の如く深いものである。それは劫という時が過ぎても理解は及ばない。観世音菩薩は、これまで数多くの仏陀のそばについて、偉大で穢れのない清浄な願いを持ったのだよ。私はあなたのために、そのことについて、略してではあるが、説いてあげよう。
たとえば、観世音菩薩の名を唱え、観世音菩薩の姿に手を合わせ、観世音菩薩の慈悲を心に願うという日々を過ごしていれば、観世音菩薩は、人々が抱えている様々な苦しみを消し去ってくれるのだよ。
もしたとえば、誰かが悪意を起こして大きく燃え盛る火の穴にあなたを落としたとしても、彼の観世音菩薩の力を念じれば、その火の穴は池に変化してしまうだろう。



今回は、同じパターンで語られる詩文についてお話しいたします。内容は簡単ですので、一文ずつ訳もつけて順に見ていきます。(文中 ª の印がついた文字は、代用した文字です。)
7、@或漂流巨 海龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
(わくひょうるこーかい りゅうぎょしょーきーなん ねんびーかんのんりき はーろうふーのうもつ)

書き下し:或いは巨海に漂流し 龍魚諸々の鬼の難(にあいしも) 彼の観音力を念ずれば 波浪は没するをあたわず
訳:或いは、大きな海で漂流し、龍や恐ろしげな魚やさまざまな悪鬼の難に遭っても、観音様の救いを念じれば、大海原に船は沈むことはないのだ。

A或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
(わくざいしゅーみーぶ いーにんしょーすいだ ねんびーかんのんりき にょーにちこーくうじゅう)
書き下し:或いは須弥峯に在し 人の為に推堕されたところ 彼の観音力を念ずれば 日が虚空に住するが如し
訳:或いは、須弥山にいて、そこから誰かに突き落とされても、観音様の救いを念じれば、太陽が空中にあるようにその人も空中にとどまるであろう

B或被悪人逐  堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
(わくひーあくにんちく だーらくこんごうせん ねんびーかんのんりき ふーのうそんいちもう)
書き下し:或いは悪人の逐され 金剛山より墜落せられしも 彼の観音力を念ずれば 一毛も損ずることあたわず
訳:或いは、悪人に追われ、金剛山から突き落とされても、観音様の救いを念じれば、髪の毛一本たりとも傷つくことはないであろう


C或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 減即起慈心
(わくちーおんぞくにょう かくしゅうとうかーがい ねんびーかんのんりき げんそくきーじーしん)
書き下し:或いは怨賊に囲まれ 各の刀を執り害を加えしも 彼の観音力を念ぜば 減じ即ち慈心を起こす
訳:或いは、怨みを持った悪人に取り囲まれ、刀で危害を加えられそうになっても 観音様の救いを念じれば、その悪人たちの怨みの心は消え、慈悲の心がわきあがるのだ

D或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
(わくそうおうなんく りんぎょうよくじゅーじゅう ねんびーかんのんりき とうじんだんだんね)
書き下し:或いは王難の苦に遭い 刑に臨み寿も終わらんと欲す 彼の観音力を念ぜば 刀尋に段段と壊す
16訳:或いは、国王の難に遭遇して捉えられ、いよいよ刑が執行されてその命が終わりそうになったときでも、観音様の救いを念じれば、刑を執行するための刀は次々に壊れていくだろう

E或囚禁枷鎖 手足被紐ª械 念彼観音力 釈然得解脱
(わくしゅうきんかーさー しゅーそくひーちゅうかい ねんびーかんのんりき しゃくねんとくげーだつ)
(紐ª→本来は木偏に丑)

書き下し:或いは枷鎖に囚禁され 手足に紐械されしも 彼の観音力を念ぜば 釈然と解脱を得
訳:或いは、囚われの身となり、手かせ足かせをされ鎖でつながれようとも、観音様の救いを念じれば、自然に手かせ足かせや鎖から開放され、脱出できるであろう

F呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還着於本人
(しゅそしょーどくやく しょーよくがいしんじゃ ねんびーかんのんりき げんぢゃくおーほんにん)
書き下し:呪詛、諸毒薬にて身者を害せんと欲すのところ 彼の観音力を念ぜば 本人に還着す
訳:呪詛や毒薬によって身体が害されようとしたときでも、観音様の救いを念じれば、その呪いは、呪った本人に戻っていくであろう

G或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
(わくぐうあくらーせつ どくりゅうしょーきーとう ねんびーかんのんりき じっしぷーかんがい)
書き下し:或いは悪の羅刹や毒龍諸々の鬼等に遭いしも 彼の観音力を念ぜば 時に悉く敢て害をなさず
訳:或いは、悪い羅刹や毒龍やいろいろな鬼に出会っても、観音様の救いを念じれば、それらはことごとく敢て害をなそうとはしないであろう

H若悪獣囲繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無辺方
(にゃくあくじゅういーにょう りーげーそうかーふ ねんびーかんのんりき しっそうむーへんぼう)
書き下し:若し悪獣囲繞し 利牙爪の怖あるべく 彼の観音力を念ぜば 辺方無く疾走す
訳:もし恐ろしげな獣に取り囲まれ、その鋭い爪や牙で襲われそうになったときでも 観音様の救いを念じれば、その獣は一目散に逃げていくであろう

I阮ª蛇及蝮蠍 気毒煙火然 念彼観音力 尋声自廻去
(がんじゃーぎゅうふっかつ けーどくえんかーねん ねんびーかんのんりき じんじょうじーえーこ)
(阮ª→本来は虫偏に元)
書き下し:阮蛇及び蝮蠍 火然の毒煙の気(にあっても) 彼の観音力を念ぜば 尋声せば自ずと廻り去る
訳:炎や毒気のある煙を吐く蛇や蝮、蠍の被害に遭遇しても、観音様の救いを念じれば、その救いを求める声を聞いたとたん、そうした毒虫らは勝手に去っていくであろう

J雲雷鼓掣電 降雹樹ª大雨 念彼観音力 応時得消散
(うんらいくーせーでん ごうばくじゅーだいう ねんびーかんのんりき おうじーとくしょうさん)
(樹ª→本来はサンズイに樹の木偏をとった字)
書き下し:雲雷鼓し掣電し 雹・樹大雨を降らせしも 彼の観音力を念ぜば 応時消散を得る
訳:雲がたなびき、雷鳴が轟き、稲妻が光り、雹(ひょう)や大雨が降ってきても、観音様の救いを念じれば、たちまちに雲や雷鳴、稲妻などは消え去るであろう
となります。以上を読んでみますと、どこかで似たような話があったな、と思いませんか?。覚えていますでしょうか?。そう、散文にあった内容とよく似ていますよね。全部があるわけではないですけどね。散文のほうと対応してみますと、
@は、若為大水〜即得浅処
ABFHIJは、対応する文はありません。
CGは、若三千大千国土〜況復加害
Dは、若復有人〜而得解脱
Eは、設復有人〜即得解脱
となっています。
ばっくなんば〜5
を参照していただいて、あわせて読んでみるのも面白いと思います。

全体的に難しい文は無いと思います。だいたい字を見れば、意味もなんとなくわかるのではないでしょうか。たまに、日本語にあるの?と思われるような文字が出てきますけどね。
漢詩ですが、省略もありますので、普通の漢詩のように書き下すことや意味を取ることが困難な文もあります。その点、わかりにくい箇所もあるかもしれませんが、ご了承ください。まあ、意味さえつかんでいればいいので、簡単に解説しておきます。
@は、海での難ですね。漂流したり、海で巨大な生物に遭遇して、船が転覆されそうになっても・・・・、ということです。
ABは、墜落の難で、同じ内容ですね。言い方を変えただけです。高い山から突き落とされても、怪我一つしません・・・・、ということです。須弥山は、簡単に言えば、神々が住む山です。その高さは、太陽よりも高い、のだそうです。金剛山も同じようなものです。いずれも高い山には違いはありません。
そこから、突き落とされても、観音様助けて・・・と救いを求めれば、空中にとどまったり、落ちても怪我一つしなかったり・・・ということですね。
こういう話は、たまにニュースで聞きませんか?。マンションからお子さんが落ちたけど怪我一つしなった・・・・。ひょっとしたら、観音様が助けてくれたのかもしれません。
Cは、悪人の難です。悪人に囲まれて危害を加えられそうになったときです。まあ、よくありますね。悪者が刃物などをちらつかせ、「おい、金だせよぉ〜」ってことです。そうなっても、観音様に救いを求めれば助かるよ、ということですね。
DEは似ていますね。囚われの難とでもいいましょうか。いずれも囚われの身になって、死刑が執行されそうになっても、或いは足かせ手かせがつけられていても、観音様に願えば救われる、ということですね。
Fは、呪詛(じゅそ)の難です。呪いをかけられても・・・、ということです。つまり、これは念返し、ですね。呪いをかけられても、観音様に願えば、その呪いは、かけた本人に戻っていく、ということです。いわゆる呪詛返し、です。

Gは羅刹の難、Hは獣の難です。観音様に救いを願えば、羅刹であろうと、狂った野獣であろうと、害をなすことはありません。
Iは、毒蛇の難とでもいいましょうか。毒を吐く獣、蛇や蠍にあっても、大丈夫、ということですね。
Jは、雷雨の難です。雹(ひょう)も含まれています。雷雨や大雨、雹にあっても救われる、ということですね。
こうした様々な難に遭遇しても、観音様に助けを求めれば、自然と救われていくのだ、ということをここでは説いているのです。しかし、いくら観音様の力、神通力がこのように優れていても、その救いを求める気持ちがなくては何にもなりません。
「観音様、助けてください」
と願って、初めて救いの手が差し伸べられるのです。観音様を信じて、救いを求める気持ち、これこそが重要なポイントなのですよ。この信心と願いがないならば、いくら観音様がすばらしい力を持っていようとも、その力を発揮することはないのです。強く信じ、強く願うことこそが大切なのです。この経文は、そのことこそを気付いてほしいのでしょうね。


前回は、同じパターンの繰り返される部分でした。今回は、そのパターンではありません。通常の詩文に戻ります。

8、衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
(しゅーじょうひーこんにゃく むーりょうくーひっしん かんのんみょうちーりき のうくせーけんく)
書き下し:衆生困厄を被り 無量の苦身に逼るとも 観音の妙智力は 能く世間の苦を救う

ここも内容的には、簡単なので先に訳をしておきます。
「衆生が困難や災厄の被害にあったり、無量の苦しみが身に逼ってきていても、観音菩薩の妙なる智力は、よくそうした世間にある苦しみから、救ってくれるのだよ。」
となります。「妙智力」は、「神通力」でもいいです。しかし、次に「神通力」という言葉を使いますので、ここでは違う言葉を使ったようです。いずれにせよ、「観音様の偉大なる力」という意味に変わりはありません。観音様は、そうした力を使って、人々を苦しみから救ってくれるのだ、と説いているのですね。


9、具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身
(ぐーそくじんつうりき こうしゅうちーほうべん じっぽうしょーこくど むーせっぷげんしん)
書き下し:神通力を具足し 廣く智方便を修す 十方の諸国土に 身を現じざるはなし

先に訳をしておきます。
「神通力を身につけていて、智慧による方便を広く修法する。十方のあらゆる国々にその姿を現さないことは無いのだ。」
となります。直訳だと、ちょっと意味がわかりにくいので、意訳をしておきましょう。
「観世音菩薩は、あらゆる神通力を身につけているし、智慧の方便をあらゆるところで使っている。だから、どんな国でもどんな場所にでも現れることができるのだ。」
となるでしょう。つまり、智慧も神通力もあり、あらゆる場所に出現できる、ということですね。

10、種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
(しゅーじゅしょーあくしゅ じーごっきちくしょう しょうろうびょうしーく いーぜんしつりょうめつ)

書き下し:種種の諸悪趣 地獄・鬼・畜生 生老病死の苦 漸を以って悉く滅しむ

訳しておきます。

「種々諸々の悪趣や地獄の鬼や畜生や生老病死の苦しみなども、次第にすべて滅することができるのだ」
となるのですが、ちょっとわかりにくいですね。「悪趣」というのは、本来「三悪趣」のことを意味しています。「三悪趣」というのは、「地獄・餓鬼・畜生の世界」のことです。その三つの世界に生まれ変わると、とても苦しいのです。最悪の世界、ですね。この世界には絶対に生まれ変わりたくない、と思われている世界ですね。
しかし、ここの「悪趣」は「三悪趣」のことではなく、単に「悪い世界、よくない世界の生、苦しみの世界の生」を意味しています。なぜなら、「種種諸悪趣」の次の文に「三悪趣」が出てくるからです。それは「地獄鬼畜生」の文です。
これは、「地獄の鬼と畜生」ではなく、「地獄・餓鬼・畜生」のことです。すなわち「三悪趣」のことですね。ですので、この文を意訳すると、

「いろんな種類のよくない世界の生が受ける苦しみや、地獄や餓鬼、畜生の三悪趣が受ける苦しみ、生あるものが必ず受ける生老病死の苦しみなども、だんだんと消滅させることができるのだよ。」
となります。
「漸」というところがいいですね。「瞬時」じゃなく、「漸次」なのです。すぐに苦しみを消し去ってくれるのではなく、次第に消し去ってくれるのです。
それはよくない、瞬時に消し去って欲しい・・・・そう思うのが本音でしょう。しかし、それじゃあダメなんですよ。なぜなら、人間は身勝手な生き物ですから、簡単に消し去ってもらったりしたら、そのありがたみをすぐに忘れてしまいますからね。どんな苦しみでも、いっぺんに簡単に取り除いてしまったら、ありがたくないでしょ。その時は、「ありがたい、感謝してます」と思うかもしれませんが、そんなことはすぐに忘れて、また「悪趣」に落ちる原因を作ってしまいます。「なぜその苦しみを受けているのか」という原因を知りながら、ゆっくり苦しみを消し去っていったほうがありがたいし、印象にも残りますよね。二度と悪趣に落ちるようなことはするまい・・・と心に誓うでしょう、きっと。
だから、「瞬」ではなく「漸」なのです。



11、真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰
(しんかんしょうじょうかん こうだいちーえーかん ひーかんぎゅうじーかん じょうがんじょうせんごう)
書き下し:真観、清浄観 広大智慧観 悲観及び慈観 常に願い常に瞻仰す

ここで言う「観」とは「眼」と取っていただいたほうがいいでしょう。観音様の「眼」ですね。
ですので、「真観」とは「真実の眼」であり、「清浄観」とは「清浄なる眼」であり、「広大智慧観」は「広大なる智慧の眼」であり、「悲観」は「悲しみが映る眼」であり、「慈観」は「慈しみの眼」であるのです。
ただ単に「眼」というのではないですよ。その「眼」は、真実を見ているし、何の偏りも無い平等な眼で見ており(つまり色めがねで見ていないってことですね)、すばらしい智慧の眼で見ており、人々の悲しみがわかる眼であり、慈しみのある眼なのです。そういう眼で観音様は世界を眺めているのです。
「常願常瞻仰」とは、「常にそのような眼で世間を仰ぎ見ていることを常に願っている」と訳します。つまり、世間を先に述べたような眼で、いつも見ていることを誓願としている、ということです。
以上のことを踏まえて訳しますと

「真実を見つめる眼、何の偏りもない平等で清らかなる眼、偉大なる智慧の眼、悲しみの眼、慈しみの眼・・・、常にそうした眼で世間をみそなわすことを誓願としているのだ。」
となるでしょう。

もう少し続けたいのですが、次の文から、少々内容が変わりますので、今回はここまでにしておきます。以上をまとめておきましょう。

衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦
具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅
真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰
(しゅーじょうひーこんにゃく むーりょうくーひっしん かんのんみょうちーりき のうくせーけんく
ぐーそくじんつーりき こうしゅうちほうべん じっぽうしょーこくど むーせっぷげんしん
しゅーじゅーしょーあくしゅ じーごーっきちくしょう しょうろうびょうしーく いーぜんしつりょうめつ
しんかんしょうじょうかん こうだいちーえーかん ひーかんぎゅうじーかん じょうがんじょうせんごう)


衆生困厄を被り 無量の苦身に逼るとも 観音の妙智力は 能く世間の苦を救う
神通力を具足し 広く智方便を修す 十方の諸国土に 身を現じざるはなし
種種の諸悪趣 地獄・鬼・畜生 生老病死の苦 漸を以って悉く滅しむ
真観、清浄観 広大智慧観 悲観及び慈観 常に願い常に瞻仰す


「衆生が困り果て、災厄を被り、無量の苦しみが身に逼っていても、観音の妙なる智慧の力は、そうした世間の苦しみをよく救ってくれるのだ。
あらゆる神通力を身につけており、広く智慧の方便を使い、あらゆる場所に現れることができる。
悪い場所に生まれたものの苦しみであろうと、地獄や餓鬼、畜生の三悪趣に生まれたものの苦しみであろうと、生老病死の苦しみであろうとも、次第に消し去ってくれるのだよ。
真実を見つめる眼を持ち、けがれなく平等に世間を見る眼を持ち、偉大なる智慧の眼を持ち、一切の悲しみを映す眼を持ち、慈しみの眼を持ち、常にそうした眼で世界をみそなわすことを誓願としているのだ。」



12、無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
(むくーしょうじょうこう えーにちはっしょうあん のうぶくさいふうか ふーみょうしょうせーけん)
書き下し:無垢清浄の光 慧日は諸々の闇を破り よく災いを伏す風火は 普く世間を明照す

この段から、観世音菩薩の力を自然の力に譬えて説いています。どのように譬えているか、訳をしてみましょう。
「けがれの無い清浄なる光である智慧の光は、太陽の日の如く諸々の暗闇を消し去る。また、災いを吹き飛ばす風や焼き尽くす火のように、世の中全体を明るく照らすのである。」
となります。ちょっと訳しにくいですね、この部分は。自然に譬えているのですが、わかりにくいところがあるのです。
「日」は、太陽のことです。ですので、前半は、太陽の光が平等に降り注ぐように、観音様の智慧の光も平等に降り注ぎ、闇・・・つまり悩みや苦しみ・・・に光を当ててくれる、という意味になります。
後半は、その光の力を示しているのです。「風」というのは、世間にすばやく行き渡ることを、「火」というのは勢いですね。威力を言い表しているのです。「風の如く素早く」、「火の如く勢いよく」ということです。そのように、観音様の智慧の光は、世間を照らすのだ、世間の闇を消し去るのだ、ということですね。ですから、意訳すれば、
「けがれの無い、清らかな観世音菩薩の智慧の光は、太陽の光が闇を消し去るように心の闇を消し去り、風が素早く行き渡るように、火が勢いよく広がっていくように、世間の人々が持っている悩みや苦しみ災いを消し去っていくのだ。」
となるでしょう。


13、悲体戒雷震 慈意妙大雲 樹ª甘露法雨 滅除煩悩焔
(ひーたいかいらいしん じーいーみょうだいうん じゅっかんろーほうう めつじょーぼんのうえん)
(樹ªは、本来は木偏ではなくサンズイ、意味は「ちょうどいいときに降る雨、そそぐ」)

書き下し:悲体の戒は雷震し 慈意は妙大雲なり 甘露の法雨を樹ªし 煩悩の焔を滅除す

樹ªは、注釈にもありますように、本来はサンズイの文字です。文字がなかったので、このように表記しました。意味は、雨が降り注ぐことを言うのですが、単に降り注ぐだけでなく、ちょうどよい状態で、グッドタイミングで降り注ぐことを意味しています。単に降る、ではないので、ご注意ください。(漢字は意味が深くて難しいですね)。そのことを踏まえて訳をしておきます。意訳になります。
「悲を体現した観世音菩薩の戒律は、雷が大きく震えるように力強く、慈しみの心は、普通の雲とは違った不思議な大きな雲のように広く厚い。それは、ちょうどよい時によい状態で心に染み入るような、安楽な教えを説いてくれるのだ。そうして、煩悩で燃えるその心を鎮め、煩悩を消し去ってくれるのだ。」
となります。
「甘露」とは、インドの言葉の「アムリタ」のことです。神々の飲料水ともいわれ、味は甘く、これを飲むと不老不死となる、といわれています。このことから、仏の教えに譬えられるのです。つまり、仏の教えを得られれば、永遠の安楽を得られるため、それは甘露を飲んだのと同じだ、ということですね。ですので、「甘露の如く」という表現が仏典では多く使われます。不老不死をもたらす、絶妙な甘さの飲料水のように・・・・ということですね。
ちなみに、原語の「アムリタ」ですが、これと似たような言葉を聞いたことがありませんか。そう「阿弥陀如来」の「阿弥陀」ですね。これは「アミターバ」ですが、語源は同じです。どちらも、「永遠、不死、永劫」といった意味を持っています。

おわかりとは思いますが、この文では、観音様の力を雷・雲・雨で譬えています。戒律を守ることを雷の力強さに、慈しみの気持ちが厚いことを大きな雲に(大きな雲は分厚く感じますからね)、で教えを雨に・・・・譬えているのですね。
法雨も、よく使われる譬えです。インドは暑い国で、雨季以外は雨が少ないところです。ですので、雨はありがたいのです。雨が乾いた砂にしみこむように、教えが乾いた心に染み入る・・・・ということですね。
12・13は、このように観音様の力を自然の力に譬えて説いているのです。


14、諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
(じょうしょうきょうかんじょ ふーいーぐんじんちゅう ねんびーかんのんりき しゅーおんしったいさん)

書き下し:官処を経むるに諍訟せられ 軍陣の中怖畏せしも 彼の観音力を念ぜば 衆怨は悉く退散す

ここにきて、再び、「念彼観音力」のパターンの文が出てきます。何の脈絡も無く・・・・。これは、おそらくは前の同じパターンのところに入れ忘れたのであろう、と仏教学者の間では解釈されています。入れ忘れたから、ここで入れてしまった・・・、ということなのでしょうね。当時、この経文を漢訳したお坊さんは、おおらかな性格だったのでしょうね。
まあ、いずれにせよ、それが定着してしまったのですから、それに従って訳していかないといけません。ですので、訳をしますと、

「先ほど、いい忘れたのだが、たとえば、誰かに訴訟を起こされたり、軍事裁判にかけられ恐怖を感じたとしても、観世音菩薩の力・救いを念じれば、訴訟を起こしたものや裁判にかけたものなのどの怨みや憎しみは、すべて消え去ってしまうであろう。」
となるでしょう。
「諍訟」とは「訴訟」のことです。訴えられたわけですね。「経官処」とは、いわば裁判所のことです。「官」は「官僚」などの国の役職の方のことですね。それを「経」している処が「経官処」です。「経」しているとは、治めている、管理している、ということです。ですので、この場合の「経」は「お経」のことではありません。「経営」に近い意味の「経」ですので、ご注意ください。
「衆怨」とは、訴訟を起こした側の人の怨念というか、思い・・・ですね。また同時に軍事裁判上での周囲の怨みや憎しみのことです。それらをまとめて「衆生の怨念」・・・「衆怨」・・・と表現したのです。
そのほかには、特に難しいところはありません。



15、妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
(みょうおんかんぜーおん ぼんのんかいちょうおん しょうひせーけんのん ぜーこーしゅーじょうねん)

書き下し:妙音なる観世音 梵音なり海潮音なり 彼は世間の音より勝る 是の故にすべからく常に念ずべし

先に訳をしておきます。
「観世音は大変不思議な音であり、清浄なる仏の音であり、海・潮の音である。それは世間一般で聞かれるどんな音よりも勝れているのだ。そうであるから、誰もが常に観世音菩薩に祈るのは当然であろう。」
となります。
「妙音」とは、「妙なる音」ですが、これは感覚でわかる言葉ですので訳しにくいですね。「妙」とは、「言葉では言い表すことができないすばらしく、不思議な、思惟できない・・・・」といった意味です。言葉では言い表すことができないので、これ以上、表現しようがありません。なので、「大変不思議な」と訳しておきました。本来は、「妙音」はそのままの方がいいのだと思います。
「梵音」とは、「梵の音」です。「梵」とは、古代インドそのもののことであり、また、「仏、如来」そのもの、のことです。たとえば、「梵字」といえば、古代インドの文字であると同時に、「仏様の文字」でもあります。「梵唄(ぼんばい)」といえば、「お経に節をつけて唄のように唱えるお経」のことです。ですので「仏様の唄」とでもいいましょうか。
こうしたことから、「梵音」とは、「仏様の音」となるのです。「仏様の音」とは、「仏様の教えそのもの」ということでしょう。
「海潮音」とは、「海や波の音」です。ですから、いわば「地球の息吹」とでも言えばわかりやすいでしょうか。生命の音、のことです。
つまり、観世音菩薩の「音」とは、「言葉ではいい表すことができない音であり、仏様の教えそのものであり、生命の音そのものなの」となるのです。すなわちそれは、宇宙の音でもあるわけです。
だからこそ、世間のどの音よりも勝れているのですね。そういう音をもつ観世音菩薩ですから、誰もが祈るのは当然のことなのでしょう。


16、念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
(ねんねんもっしょうぎ かんぜーおんじょうしょう おーくーのうしーやく のういーさーえーこ)

書き下し:念ぜよ念ぜよ疑いを生ずること勿れ 浄聖なる観世音 苦悩・死厄に於いて よく依怙を作す為なり

難しい言葉は、「これはどちらの文字も「たよる」という意味です。ですから、「たよりにする」と訳せば大丈夫です。全体を訳してみましょう。
「観世音菩薩を念じなさい、念じなさい。観世音菩薩に対して疑いの心を起こしてはいけません。観世音菩薩は清浄なる聖者です。この苦悩や死や厄がある世界で、よく観世音菩薩を頼ることです。」
となります。意味はよくわかりますよね。何も疑わずに、観世音菩薩を頼りにしなさい、といっているのです。



17、具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂禮
(ぐーいっさいくーどく じーげんじーしゅーじょう ふくじゅかいむーりょう ぜーこーおうちょうらい)

書き下し:一切の功徳を具し 慈眼で衆生を視る 福聚の海は無量なり 是の故にまさに頂禮す

この文で偈文(詩文)の部分は終わります。最後の一文です。そして、この文は、大変有名な文でもあります。この文は、観音様を本尊とする大寺などは、柱に書かれたりしています。見たことがある、という方もいらっしゃるのではにでしょうか。
なぜ、この文が重要視されるのか、といいますと、この文だけで、観音経のすべてを言い表しているからです。観音様の心が、この一文にすべて含まれているからです。
それは意味を見ればわかります。

「観世音菩薩は、一切の功徳を身につけており、慈悲の眼で衆生を見渡すのだ。その福徳は海の如く無量である。だからこそ、観世音菩薩の御足を頂き、礼拝するのだ。」
となります。
「頂禮」とは、インドの最高の礼拝の仕方で、両手両膝を地に付け、さらに頭を礼拝する対象のものの足につける、という作法です。ですからここでは、観世音菩薩の御足を頭につけて礼拝する、ということになります。

観世音菩薩は、あらゆる功徳を身につけており、その力によって衆生の苦しみを救います。そして、衆生をいつも慈悲の眼で見つめてくれています。観世音菩薩の福、すなわち慈悲の心は、海のように広く深いのです。しかも無量です。だから、皆さん、観世音菩薩を心より礼拝しましょう・・・・・。
というのが、この文の意味なのです。この意味を知れば、なぜお寺でよく書かれているのか、わかりますよね。


以上、観音経についてお話してきました。でも、まだ終わっていません。最後の文が残っています。それは、詩文形式ではなく、散文形式です。次回は、その部分についてお話をし、観音経を完結いたします。

今回の部分をまとめておきます。
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間
悲体戒雷震 慈意妙大雲 樹ª甘露法雨 滅除煩悩焔
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂禮

(むーくーしょうじょうこう えーにちはっしょうあん のうぶくさいふうか ふーみょうしょうせーけん
ひーたいかいらいしん じーいーみょうだいうん じゅっかんろほうう めつじょーぼんのうえん
じょうしょうきょうかんじょ ふーいーぐんじんちゅう ねんびーかんのんりき しゅーおんしったいさん
みょうおんかんぜーおん ぼんのんかいちょうおん しょうひーせーけんのん ぜーこーしゅーじょうねん
ねんねんもっしょうぎ かんぜーおんじょうしょう おーくーのうしーやく のういーさーえーこ
ぐーいっさいくーどく じーげんじしゅーじょう ふくじゅーかいむりょう ぜーこーおうちょうらい)


「けがれの無い、清らかな観世音菩薩の智慧の光は、太陽の光が闇を消し去るように心の闇を消し去り、風が素早く行き渡るように、火が勢いよく広がっていくように、世間の人々が持っている悩みや苦しみや災いを消し去っていくのだ。
悲を体現した観世音菩薩の戒律は、雷が大きく震えるように力強く、慈しみの心は、普通の雲とは違った不思議な大きな雲のように広く厚い。それは、ちょうどよい時によい状態で心に染み入るような、安楽な教えを説いてくれるのだ。そうして煩悩で燃えるその心を鎮め、煩悩を消し去ってくれるのだ。
そう、先ほど言い忘れたのだが、たとえば、誰かに訴訟を起こされたり、軍事裁判にかけられ恐怖を感じたとしても、観世音菩薩の力・救いを念じれば、訴訟を起こしたものや裁判にかけたものなどの怨みや憎しみは、すべて消え去ってしまうであろう。
観世音は大変不思議な音であり、清浄なる仏の音であり、地球の音でもある。それは世間一般で聞かれるどんな音よりも勝れいているのだ。そうであるから、誰もが常に念じる観世音菩薩に祈るのは当然であろう。
観世音菩薩を念じなさい、念じなさい。観世音菩薩に対して疑いの心を起こしてはいけません。観世音は清浄なる聖者です。この苦悩や死や厄がある世界で、よく観世音菩薩を頼ることだ。
観世音菩薩は、一切の功徳を身につけており、慈悲の眼で衆生を見渡すのだ。その福徳は海の如く無量である。だからこそ、観世音菩薩の御足を頂き、礼拝するがよかろう。」


今回で観音経は終わりです。観音経の最後のシメの部分です。

爾時 持地菩薩 即従座起 前白仏言 世尊 若有衆生 聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者 当知是人 功徳不少 仏説是普門品時 衆中 八万四千衆生 皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心
(にじー じーじーぼさー そくじゅうざーき ぜんびゃくぶつごん せーそん にゃくうーしゅーじょう もんぜーかんぜーおんぼーさーほん じーざいしーごう ふーもんじーげん じんつうりきしゃ とうちーぜーにん くーどくふーしょう ぶっせつぜーふもんぼんじ しゅーじゅう はちまんしーせんしゅーじょう かいほつむとうどう あのくたらさんみゃくさんぼだいしん)

無盡意菩薩の「観世音菩薩とはどういった菩薩様ですか?」という質問に対して、お釈迦様が様々な例を挙げて、今まで答えてきました。それは普通の説法形式で始まり、さらには詩文で答える、というものでした。
こうして観世音菩薩の働きについて解き明かしてきたのですが、そのお釈迦様の話が終わると、今度は別の菩薩が立ち上がって話し始めるのです。それがこの部分です。

持時菩薩というのは、あまり聞かない名前ですが実は有名な菩薩です。というのは、持地菩薩というのは地蔵菩薩の異名だからです。つまり、持地菩薩=地蔵菩薩、なのですよ。
で、その持地菩薩が即座に立ち上がってお釈迦様の前に進み出て話し始めるんですね。(爾時〜仏言)
「世尊、もし衆生があって、この観世音菩薩に関する教えを聞き、自由自在の働き、ありとあらゆる姿となって現れるという神通力のことを知ったならば、その功徳は少なくないものでしょう。」
と。(世尊〜功徳不少)

「品」というのは、「ホン」と読み、章のことである、と観音経の話の初めの方にお話したと思います。ここでは、お釈迦様が無盡意菩薩の質問に答えて話した観音様に関する教えのことをさしています。
で、お地蔵さんがいうには、お釈迦様が説いた観音様に関する教え聞いて、観音様の自由自在に姿を現すという働きや、どんなものにでも変化できるという神通力を知ったならば、その功徳は大変多いものでしょ、ねぇお釈迦様、と言ったわけですね。

そして最後の締めに入ります。それが「仏説〜菩提心」にあたります。この文は、常套句でもあります。よく使われる締めの言葉、ですね。その内容は、
「仏がこの普門品を説かれたとき、そこに集うていた八万四千の命あるものは、みんな比べるものがない、この上ない覚りへと向かう決意をしたのである。」
というものです。
「普門品」は、これまで説いてきた観音様に関する教えのことですね。観音経の題名を思い出してください。「観世音菩薩普門品」だったでしょ。
八万四千という数字には、特に意味はありません。ただこの数字が語呂がいいのか、よく出てきます。数多くの、という意味だと理解してください。
「無等等」とは、「等しいものがない」という意味です。般若心経でも出てきましたね、「無等等呪」という言葉で。等しいものがないくらいすばらしいもの、ということを表現するときに「無等等」という言葉を用います。これもお約束・・・・というものですね。
「阿耨多羅三藐三菩提」とは、般若心経のところでもお話しましたが、インドの言葉の音写です。もとは、「アヌッタラサムヤックサンボディー」といいます。「アヌッタラ」が「無上等」、「サムヤックサンボディー」が「正しい覚り、正覚(しょうがく)」を意味します。で、あわせて「無上等正覚(むじょうとうしょうがく)」と訳されます。「これ以上等しいものがない正しい覚り」という意味ですね。
ですから、前の「無等等」とあわせると、「等しいものがないくらい、これ以上等しいものなき正しい覚り」となります。ちょっとしつこいですね。まあ、お経はしつこいのが当たり前ですから、こういう表現はよくあります。

そして、このお経は、「そういう覚りを得ようとみんながそう決意した」、という言葉で終わっているのです。これもよくあるパターンなんです。たいていのお経は、
「この教えを聞いた、そこに集う衆生は、みな無上の覚りを得ようと決意した」
で終わっているんですね。そういうお経が多いようです。まとめの常套句だと思ってください。

ということで、以上の訳をまとめておきます。
「そのとき、持地菩薩(地蔵菩薩)が、即座に立ち上がって、お釈迦様の前に進み出て述べた。
『世尊よ、もし人々がこの観世音菩薩に関する教えを聞いて、その自由自在なる働きや、どんなものにでも変化して救ってくださるという神通力のことを知ったならば、そのことを知った人々の功徳は大変多いものでしょう。』
その通りなのだ。仏陀であるお釈迦様がこの観世音菩薩に関する教えを説いたとき、その場に集うていた生きとし生けるものは、すべてこの上ない、これ以上等しいものがない正しい覚りを得ることへ向かって決意を新たにしたのであったのだった・・・・。」

となるのです。

さて、これまで、長々と観音経についてお話をしてきましたが、今回で終了です。次回は、総まとめをしたいと思います。
合掌。




ばっくなんばあ〜9


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