ばっくなんばぁあ〜9

第 三 章 

「観音経」

観音経についてのお話は、今回で終わりです。なので、今回まとめとしてもう一度観音経の訳を・・・と思いましたが、散文の方(長いお経のほう)は、「ばっくなんばぁ〜7」に物語のように訳がまとめてありますので、偈文の訳だけをまとめておきます。

・・・・このように観世音菩薩についてお釈迦様が説き終えたとき、無盡意菩薩は詩を唱え、再びお釈迦様に次のように問うたのであった。
「如来としての不思議な三十二の相を身につけていらっしゃいます世尊よ、私は詩でもって重ねてお尋ねいたします。菩薩である観音は、如何なる因縁により観世音菩薩という名前でよばれるようになったのでしょうか。」
三十二の妙なる相を身につけた、この世で最も尊いお方は、詩でもって無盡意菩薩に答えられた。
「無盡意よ、あなたは観音菩薩の行うところ、それらすべてをよく聴くがよい。
観音は、あらゆるところにその姿を、現すが故に観音と呼ばれるのだ。
観音の弘誓は大海の如く、はなはだ深いものである。その深さは、劫という長き時が過ぎ去っていっても理解できるものではない。
観音は これまで数多くの仏陀のつかえてきた。そして偉大で穢れなのない清浄な願いを持ったのだ。
私は、あなたたちのために、そのことについて、略してではあるが、説いてあげよう。」
お釈迦様は、こうして再び観世音菩薩について、詩でもって説き始めたのであった。

「皆のもの、観世音菩薩の名を唱え、観世音菩薩の姿に手を合わせ、観世音菩薩のお慈悲を・・・と、心に願う日々を過ごしていれば、観世音菩薩は人々が抱えている様々な苦しみを消し去ってくれるのだ。
たとえば、誰かが悪意を起こし、大きく燃え盛る火の穴の中にあなたたちを落としたとしよう。そんな時、誰かが観世音菩薩の名を唱え、救いを念じたならば、その火の穴は池のように変化してしまうであろう。
或いは、大きな海で航海中に漂流してしまい、龍や恐ろしげな魚や、さまざまな悪鬼の難に遭っても、観世音菩薩の救いを念じれば、大海原に船は沈むことはないのだ。
或いは、須弥山のようなとても高い山から突き落とされたとしても、観世音菩薩の救いを念じれば、太陽が空中にとどまっているように、その突き落とされた人も空中にとどまるであろう。
或いは、悪人に追われ、金剛山のような鋭く切り立った崖から突き落とされても、観世音菩薩の救いを念じれば、髪の毛一本たりとも傷つくことはないであろう。
或いは、怨みを持った悪人に取り囲まれ、刀などで危害を加えられそうになっても、観世音菩薩の救いを念じれば、その悪人たちの怨みの心は消え、慈悲の心が湧き上がってくるであろう。
或いは、国王が乱心し、その難に遭って捉えられ、いよいよ刑が執行されて、捉えられた者の命が終わりそうになったときでも、観世音菩薩の救いを念じれば、刑を執行するための剣などは、次々に壊れていくであろう。
或いは、囚われの身となり、手足を錘や鎖でつながれても、観世音菩薩の救いを念じれば、自然にそうした手かせ足かせや鎖などからは開放され、脱出できるであろう。
或いは、呪いをかけられたり、毒薬によって身体に被害を受けようとも、観世音菩薩の救いを念じれば、その呪いの害は、呪った本人に戻っていくであろう。
或いは、悪い魔物や毒を吐くような龍などや、鬼などに出会っても、観世音菩薩の救いを念れば、それらは、念じたものにはあえて害をなそうとはしないであろう。
或いは、恐ろしい獣にあなたたちが取り囲まれ、その鋭い爪や牙で襲われそうになったとしても、観世音菩薩の救いを念じれば、その獣は一目散に逃げていくであろう。
或いは、炎や毒気のある煙を吐く蛇やマムシ、サソリの被害にあっても、観世音菩薩の救いを念じれば、その救いを求める声を聞いたとたん、それらの毒虫やマムシ、サソリの類は勝手にどこかへ行ってしまうであろう。
或いは、大きな雷雲ができ、雷鳴が轟き、稲妻が走り、ヒョウや大雨が降ってきても、観世音菩薩の救いを念じれば、たちまちに雷鳴は止み、稲妻も消え、ヒョウや大雨も降り止み、雷雲も消えてしまうであろう。

よいかな。生命あるものが、このような困難や災害に遭ったり、無量の苦しみが見に迫ってきていても、観世音菩薩の不可思議な智慧と力は、よくそうした苦しみや困難・禍いから救ってくれるのだ。
観世音菩薩は、あらゆる神通力を身につけているし、智慧の方便をあらゆるところで使っている。だから、どんな国でも、どんな場所にでも現れて、生命あるものが受けている困難から救うことができるのだ。
またそれは、生きているものの世界だけでなく、魂の世界にも及んでいる。たとえば、苦しみの世界に生まれ変わった魂や、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に生まれ変わった魂が受ける苦しみも徐々にではあるが、消し去ってくれる。さらには、生あるものが必ず受ける生老病死の苦しみをもだんだんと消し去ってくれるのだ。

観世音菩薩は、真実を見つめる眼を持ち、何の偏りもない平等で清らかな眼を持ち、偉大なる智慧の眼を持ち、生あるものが受ける苦を悲しむ眼を持ち、生あるものを慈しむ眼を持つ。観世音菩薩は、常にそのような眼で世間を見渡すことを誓いとしているのだ。
穢れのない、清らかな観世音菩薩の智慧の光は、太陽の光が闇を消し去るように心の闇を消し去る。また、風が素早く駆け抜けるように、炎が勢いよく広がっていくように、世間の人々が持っている悩みや苦しみや禍いを素早く、強く消し去ってくれるのだ。
悲を体現した観世音菩薩の戒律は雷が大きく震えるように力強く、その慈しみの心は普通の雲とは違った不可思議な大きな雲のように広く厚い。
それは、ちょうどよい時にちょうどよい状態で降る雨のように、心に染み入ってくるものであり、人々に安楽な教えを説いてくれるのだ。
だからこそ、煩悩で燃えるその心を鎮めるのであろうし、煩悩そのものも消し去ってくれるのであろう。

そう、先ほどいい忘れたのであるが、たとえば、あなた方が誰かに訴訟を起こされたり、裁判にかけられたりして恐怖を感じたときでも、観世音菩薩の救いを念じれば、訴訟を起こしたものや裁判にかけたものなどの怒りや怨念、憎しみは、すべて消え去ってしまうであろう。

観世音菩薩は、大変不可思議な『音』であり、清浄なる仏陀の『音』であり、この大地・地球そのものの『音』でもある。それは世間一般で聞かれるどんな音よりも勝れているのだ。だからこそ、誰もが常に、観世音菩薩に念じ、祈るのは当然であろう。
観世音菩薩を念じよ、祈りを捧げよ。決して観世音菩薩に対して疑いの心を起こしてはならぬ。観世音菩薩は、まったく穢れのない完璧に清浄な菩薩である。
この苦悩に満ち、死や災厄がある世界では、よくよく観世音菩薩を頼ることだ。
観世音菩薩は、一切の功徳を身につけており、慈悲の眼で生きとし生けるものを見渡している。その福徳は海のように無量であるのだ。だからこそ、観世音菩薩のもとにつどい、深く深く礼拝するがよかろう。」
お釈迦様の、観世音菩薩の救いを説いた詩が終わった。この詩を聞いた、その場に集ったものたちは、みな観世音菩薩に感動していたのであった。

そのとき、持地菩薩(地蔵菩薩)が、即座に立ち上がり、お釈迦様の前に進み出て、
「世尊よ、もし人々がこの観世音菩薩に関する教えを聞いて、その自由自在なる働きや、どんなものにでも変化して救って下さるという神通力のことを知ったならば、そのことを知った人々の功徳はとても大きなものでしょう。」
と言ったのであった。
その通りである。仏陀であるお釈迦様が、この観世音菩薩に関する教えを説いたとき、その場に集うていた生きとし生けるものはすべて、「この上ない、これ以上等しいものがないという正しい覚り」を得るのだ、という決意を新たにしたのであった・・・・。


以上、偈文の意訳を掲載しておきました。初めから通して読むと、その内容がよくわかりますよね。
さて、この観音経ですが、大変多くの人々に読まれております。認知度でいえば、般若心経に次いでよく知られているお経なのではないでしょうか。長さ的には、結構な長さがあります。前半の散文の部分を入れれば、長いお経の部類に入ります。
短いお経の般若心経が、多くの人々に親しまれるのは、その長さによるところが大きいでしょう。手軽さ、とでもいいましょうか。その割りに内容が濃いですからね、般若心経は。
では、何ゆえ、観音経が広く読まれるようになったのでしょうか。それは、ひとえに「観音様の救い」にあるのでしょう。しかもその救いは、死後の救いではありません。
仏教には、死後極楽へ生まれ変わるとか、死後天界へ生まれ変わるなどという、死後の救いを説くことが多いですね。生きているときは、苦を味わうのは当然である、苦を味わいたくなければ、徳を積んで、死後によい世界に生まれ変わりなさい・・・・、というものです。または、出家して、欲望を絶ち、輪廻からの解脱を目指す修行をするしか、救いの道はなかったのです。
死後の幸せを願うか、俗世を捨て出家の道・修行の道を歩むか・・・・。
これでは、現実的な救いはありません。結局、苦しむことに代わりはないのです。

ところが、観音経に説くところは違います。観世音菩薩に救いを念じれば、一心に観世音菩薩に救いを求めれば、現実に、この世で苦しみから救ってくれる・・・・、そう観音経は説いているのです。
つまり、現世利益です。生きているときに苦しみから救ってくれる、というのです。
それは画期的な教えだったでしょう。出家しなくてもいい、死後でなくてもいい、今まさにこの世で救いが得られる・・・・。
こんないいことはありません。その結果、観音信仰が爆発的に広まっていったのです。

さて、実際観音様の救いはあるのでしょうか?。そう質問されたなら、もちろん、私は「ある」と答えます。すでに何人もの人々が観音様の救いを経験していることでしょう。でなければ、観音信仰は、とうの昔に廃れてしまっていたに違いありません。実際に救われた人々が多くいるからこそ、観音信仰は今でも盛んに行われているのです。
しかし、同時に救われていない人々も大勢います。そういう方は、ぜひ、一心に観世音菩薩に救いを求めることをお勧めいたします。
ただし、決して観世音菩薩の救いを疑ってはいけません。この観音経の中で、最も重要な語句は、
「念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙 
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼」
です。
観世音菩薩は、まったく穢れのない完璧に清らかなのですから、疑ってはならないのです。救いがない、などと疑ってはいけないんです。微塵も疑うことなく、一心に信じ、祈ったならば、その願いは必ずや通じることでしょう。
「祈りなさい、祈りなさい、決して疑わず、苦悩・死・災厄からの救いを祈りなさい。
一切の功徳を身につけた観世音は、あなたたちを慈悲の眼で視ています。ここにすべての福徳は集まっています。
ならば、それを求めて一心に礼拝するがいいでしょう。」
これを実践してみてください。合掌。




「観音十句など」

今回は、観音経の補足といいますか、観音様に関するその他のお経を紹介いたします。簡単なお経ですので、覚えて唱えられてもいいかと思います。
まずは、その経題ですが、「観音十句、延命十句、観音延命十句、延命観音十句」といいます。「十句」というくらいですから、10の句からなるお経です。お経文を書いておきます。

  
@観世音       (かんぜおん)
  A南無仏       (なむぶつ)
  B興仏有因     (よーぶつうーいん)
  C興仏有縁     (よーぶつうーえん)
  D仏法僧縁     (ぶっぽうそうえん)
  E常楽我浄     (じょうらかくがじょう)
  F朝念観世音   (ちょうねんかんぜおん)
  G暮念観世音   (ぼうねんかんぜおん)
  H念念従心起   (ねんねんじゅうしんき)
  I念念不離心   (ねんねんふーりーしん)


これが観音十句です。簡単に訳しておきましょう。

  
@観世音菩薩よ
  A御仏に帰命し奉る
 B御仏と因ありて
  C御仏と縁ありて
  D御仏とその教えと教えを説く僧と縁ありて
  E常であり楽であり我があり清浄であれ
  F朝に観世音菩薩を念ぜよ
  G暮れに観世音菩薩を念ぜよ
  H心に起きるに従い念ぜよ
  I心離れぬように念ぜよ


と、まあ、このようになります。一つずつ詳しくみていきましょう。
@の観世音は、いいですよね。観世音菩薩よ、と願いを込めて呼びかけているわけです。
Aの南無は、一言でいえば「帰命する」ということになります。インドの言葉の「ナーモー」の音写ですね。帰命する、とは「信じてつき従うこと」です。「仏」は「仏陀」のことです。仏陀とは、覚りを得た方ですから、狭い意味ではお釈迦様ですし、広い意味ではすべての如来となります。ここでは、すべての如来、という意味で御仏、と訳しておきました。別の言い方をすれば、Aの意味は「一切の如来の教えを信じて従います。」となるでしょう。

BとCの「興仏(よぶつ)」の「興」とは、「与える」という意味ではなく、「〜と」という意味です。接続語の「〜と」ですね。Bの場合は、このお経を唱えるもの自身が、「御仏・一切の如来と因があって」という意味になります。Bは、次のCと対句になっていますから、そちらも一緒に訳したほうがわかりやすいでしょう。
Cは、「一切の如来と縁ありて」となります。ですから、BとCで、「一切の如来と因縁を得て」という意味になります。
因縁というと、「因縁をつけた」などといった使いかたから、悪い印象を持つ言葉のように思われますが、実はそうではありません。
「因縁」とは、「原因と縁」のことで、「今ある状態の元・原因と、その原因にさまざまな要素(縁)が絡んで、その状態になった」という意味で使われます。「因」が原因で、「縁」は、その原因が育つためのさまざまな関り合いのことをいいます。
ですので、このBCの意味は、このお経を読むもの自身が、
「一切の如来と出会う原因を持ち、一切の如来と関り合いを持った」
ということになります。BCあわせてもっと簡単に言えば、
「一切の如来と出会い縁を持つことができました」
となるのです。

Dは、仏・法・僧とも縁を持った、という意味です。仏教では、この「仏・法・僧」のことを「三宝(さんぼう)」といい、最も大切にすべきもの、とします。ですので、仏教を信じるものは、まず「三宝」に帰依することを誓います。
「一切の如来と、その如来が解き明かした教えである法と、その法を説き、伝え、守っていく僧侶を信じて従います」
と誓うのです。これは、すべての仏教各宗派の基本になっています。私たちも出家するときに誓いました。
ここだけの話ですが、如来に帰依するのは理解できます。教えである法に帰依するのもわかります。しかしねぇ、坊さんは・・・・と思われる方も多いのではないでしょうか。僧侶、坊さんには帰依したくない、坊さんなんか信じられない、という方は結構いらっしゃると思います。これは、何が悪いって、坊さんが悪いんです。勉強不足、常識はずれ、僧侶にあるまじき言動、をしてしまう坊さんが多いのがいけないんですね。
仏法僧の三宝に帰依する・・・・という言葉を耳にするとき、坊さんは反省するべきなんでしょう。でも、まあ、中にはいいお坊さんもいますので、その方にはぜひ帰依してください。

E常楽我浄とは、間違った考えのことを言います、本来は。お釈迦様が説いた内容は、「この世は無常であり、苦の世界であり、我は存在せず、汚れた世界なのだ」ということでした。ですから、この世が「常楽我浄」と受け取るのは、間違った考え方なのです。
ところが、覚った者は違うのです。覚った者・・・仏陀にとっては、「この世は永遠(常)であり、安楽の世界であり、仏陀という存在(我)は続くのであり、仏陀にとってはこの世は清らかな世界」なのです。
ですから、ここでは仏陀がえた「常楽我浄」を我々にも与えて欲しい・・・ということなのですよ。「無常であり、苦であり、我のない、汚れた世界」から救いたまえ、ということなのです。

FGはよくわかりますよね。朝に夕方に観世音菩薩をお参りしなさい、ということですね。
Hは、何かことあるごとに観音様を念じなさい、という意味です。ちょっと困ったことがあったら「観音様お導きを・・・」と念じ、ちょっとでもいいことがあったら「観音様ありがとう・・・」と感謝する。その心が大事なのだよ、と説いているのです。
Iも同様ですね。観音様への気持ちを決して忘れるな、観音様から離れるな、心を離すな、ということです。常に念じていなさい、ということですね。

以上のことから、この観音十句を意訳しておきますと、次のようになります。
観世音菩薩様。
観世音菩薩様と一切の御仏様に帰依したします。信じて従います。
すべての御仏さまと出会うことができますように、すべての御仏様と縁が結べますように。
仏法僧の三宝ともご縁がありますように。
御仏様の覚りの世界であります、永遠と安楽と自分自身と清浄なる世界をお与えください。
朝に夕に観世音菩薩様を念じ、お参りいたします。
喜びごと、悲しみ、苦しみ、楽しいこと、どんなことが起きても、心に観音様を念じ、感謝と祈りをささげます。
観音様を念ずる気持ちから、決して離れません。たえず、観音様を念じています。

となります。

この観音十句は、延命に効果がある、といわれています。ですから、延命観音十句とか延命十句とか言われているのです。長生きをしたい方、親しい人に長生きをして欲しいと望んでいる方は、唱えるといいのではないでしょうか。大変短いお経ですので、3回お唱えするといいでしょう。


さて、このほかにも観音句というもっと短いお経がありますので、それも紹介しておきましょう。
南無大慈大悲観世音菩薩。四重重罪、五逆消滅、自他平等、即身成仏。
(なむだいじだいひかんぜおんぼさつ。しじゅうじゅうざい、ごぎゃくしょうめつ、じたびょうどう、そくしんじょうぶつ)

と、これだけのお経です。意味は、次の通りです。
*南無大慈大悲観世音菩薩・・・・これはいいですよね。説明不要でしょう。

*四重重罪・・・・これは四重罪のことで、出家者が行ってはいけない最も重い罪の行為のことです。別名、四波羅夷(しはらい)罪といい、教団を追放されるほどの重い罪です。
どんなものがあるかといますと、
@異性と通じる、姦淫の罪
A他の所有物を盗む、窃盗の罪
B人を殺す、殺人の罪
C自分は聖者である、覚った者だとうそをつく、偽りの罪
です。これらの罪を出家者が犯すと、教団を追放されたんです。お釈迦様のいらした時代のことですよ。今だったら、出家者はみんな追放されてしまいますからね。まず、@で追放でしょう。Bはないとしても、ACはあるかもしれません。
と、このような四つの重罪のことをいっています。

*五逆・・・・五つの重罪のことです。この場合は、先の四重罪とは違って、出家者も在家者共通の重罪です。出家者だけでなく、在家の皆さんもあてはまる重罪ですね。これを犯すと、最も恐ろしく苦しい地獄に落ちる、とされています。どんな罪かといいますと、
@母親を殺すこと。   A父親を殺すこと。   B聖者・僧侶を殺すこと。  C仏の身体を傷つけて出血させること。  D仏教教団の和を壊し、分裂させること。
です。現代では、Cはありませんね。仏が存在しませんから。Dは、現在では、各宗派の和を乱すような行為、となります。これは、小さくいえば、各寺院の和を乱す行為、ともいえます。つまり、各寺院で檀家なり信者なりが、騒ぎを起こして檀家や信者を分裂させたりすると、このDにあてはまることになります。寺院や本山等で問題があっても、分裂させたり、和を乱すことなく、解決すればいいことですからね。
その他の罪は当然地獄でしょう。いくら憎くても父母はもちろん、僧侶を殺しちゃあいけませんよ。

*消滅・・・・以上の罪、四重罪・五逆罪が消えてなくなってしまいますように、という意味です。自分が犯した四重罪・五逆罪が消えてくれますように、でもいいんですけどね、それは虫が良すぎるでしょう。それよりも、「この世から四重罪・五逆罪がなくなりますように」ですよね。

*自他平等・・・・これは意味がわかると思います。自分も他人もすべて平等でありますように、ということですね。自分だけじゃない、他人も一緒に救われるのです。

*即身成仏・・・・この身このままで仏となる、という意味です。弘法大師空海が提唱した教えです。死んでから成仏するのではなく、この世で成仏するのです。そうでなくては、教えの意味がない、とお大師様は説かれました。
まさにそう思います。死んでから救われたってつまらないでしょう。生きているときに、安楽を得たいものです。生きているうちに幸せになりたいものです。即身成仏とは、この世で幸せになる、安楽を得る、ということです。

以上をまとめてみましょう。
大慈悲心の観世音菩薩に帰依いたします。この世から出家者の四つの重罪と出家在家を問わず五つの重罪が消えてなくなりますように。自分も他社も平等でありますように。この世で安楽が得られますように・・・。
となります。
短いお経ですが、この世の安楽、自分も他人もすべての人が安楽になれるように願った言葉なのです。ぜひ、お唱えされるといいでしょう。




「舎利禮文」

今回は、短いお経であります「舎利禮文」というお経のお話を致します。

「舎利禮文」(しゃりらいもん)
一心頂礼 万徳円満 釈迦如来  (いっしんちょうらい まんとくえんまん しゃーかーにょーらい)
真身舎利 本地法身 法界塔婆  (しんじんしゃーり ほんじーほっしん ほうかいとうば)
我等礼敬 為我現身 入我我入  (がーとうらいきょう いーがーげんしん にゅうがーがーにゅう)
仏加持故 我証菩提 以仏神力  (ぶつかーじーこ がーしょうぼーだい しょうぼーさつぎょう)
利益衆生 発菩提心 修菩薩行  (りーやくしゅーじょう ほつぼーだいしん しゅうぼーさつぎょう)
同入円寂 平等大智 今将頂礼  (どうにゅうえんじゃく びょうどうだいち こんじょうちょうらい)


以上が、舎利禮文と言うお経です。
お経、と言いましたが、正確にはお経ではありません。お経と言うのは、あくまでもお釈迦様が説かれたことをまとめたもの、だからです。そう限定されたのがお経ならば、この舎利禮文はお経には入りません。
内容を見ていただければすぐにわかるのですが、舎利禮文とは、お釈迦様が涅槃に入られたあと、お釈迦様の遺骨をお参りするために作られた言葉なのです。お釈迦様の遺骨・・・舎利・・・をお参りして、その功徳を頂くときにこの文言を唱えるといい、と大昔の高僧が作ったものなのです。ですから、厳密に言えば、お経には、入らないものなのです。
が、しかし、やはりこれはお経なのです。僧侶が、仏様に対しお唱える言葉は、すべてお経なのです。しかも、いにしえの高僧が作られたものですから、そこらへんのお坊さんが唱えた言葉とは大きく異なります。真実がこもっているのです。
まあ、内容を知っていただければ、「あ〜、なるほどなぁ。」と納得いただけると思います。ありがたいお経だと理解していただけると思います。
なお、このお経を読むのは、禅宗や真言宗の宗派です。他宗派は、あまり読まないようですね。

では、訳してみます。
*一心頂礼・・・一心に礼拝いたします。これはわかりますよね。それ以外に訳しようがありません。

*万徳円満・・・すべての徳をすべて備えたる、と言う意味です。あらゆる徳を身につけている、と言うことですね。

*釈迦如来・・・お釈迦様のことです。前文の「万徳円満」は、この釈迦如来にかかっています。すべての徳を身につけたお釈迦様、ということですね。

*真身舎利・・・真実の身体の舎利。真実をこの世に伝えられた方の御身体の舎利(遺骨)、と言う意味です。舎利とは、お釈迦様の骨のことです。

*本地法身・・・これについては少々解説がいりますね。
本地とは、「ほんもとの、本体、本来のところ」と言った意味です。
仏様や菩薩様、明王などは、この世に姿を現しておりますね。それは仏像という形で表現されています。その姿は、実は仮の姿であって、ご本体はまったく別の世界にあるのだ、という考え方が仏教にはあります。本来いらっしゃる世界があって、この世には仮の姿で降りてきていらっしゃるのだ、という考え方ですね。その仏様方が本来いらっしゃる世界のことを、「本地」というのです。(もちろん他の言い方もあります)。

法身とは、真理そのものを具現化した姿、のことです。あるいは、真理そのもの、のことです。大雑把に言えば、仏様の姿には、真理そのものを表現した如来「法身(ほっしん・・・大日如来のこと)」、過去の修行の因縁により、その報いとして出現した如来「報身(ほうじん・・・阿弥陀如来、薬師如来など)」、実際に歴史上に存在した如来「応身(おうじん・・・お釈迦様の事)」と分けられています。(本当に大雑把です。この説は、もっと難しいんですよ。)
で、お釈迦様は、本来「応身」なのですが、そのご本体は「法身」なのです。「応身」として我々の前に現れたのは、仮の姿なのですね。本来のお釈迦様の魂は、法身となっているんです。
ですので、「本地法身」とは、「本来の地にある真理の姿よ」となるのです。

*法界塔婆・・・「法界」は、普通は「ほっかい」と読みます。法界とは、全宇宙のこと、真理そのものの世界のことを意味しています。意味的には、法身と同じです。法界も法身も同じような意味なんですね。真理そのもの、宇宙そのものなんです。
塔婆は、インドの古い言葉の「トゥーパ」を音写したものです。意味は「塔」です。音も意味も、そのままインドの言葉なのです。インドの「塔、トゥーパ」は、お墓のことです。土饅頭を二段重ねにして造ります。その中に骨を納めるんですね。ただし、こうのようなお墓を造ってもらえるのは、仏陀、国王のみです。一般人は、遺体は川へ流すか、土に埋めるか、焼いて川へ流すか・・・などです。国王や仏陀のみが、その遺骨を塔を造って納めるのです。
お釈迦様は、涅槃に入られるとき、遺体の処理の仕方を弟子に指示しました。爪や髪は欲しいと言う国家があれば分け与え、塔を作って納めること。遺体は火葬にし、遺骨は各国に分け与え、塔を作って納めること。在家のものは、お釈迦様の遺髪や爪、遺骨が納められた塔をお参りすれば、それはお釈迦様を礼拝したことと同じであると伝え、塔を礼拝するように導くこと、と言い残したのです。
ここから、塔をお参りする習慣が生まれ、やがてそれは日本のお寺参りへとつながっていくのです。
法界塔婆とは、真理のつまった塔、と言う意味です。つまり、お釈迦様の舎利を納めた塔は、真理そのものである、ということです。

ちなみに@。塔「トゥーパ」の別の言い方「ストゥーパ」も、そのまま音写されています。それが「卒塔婆(そとうば)」です。ご供養のとき、お墓に立てる板のアレです。略して「塔婆」といってますが、卒塔婆も塔婆も同じです。もとは、遺骨を納めた塔、のことです。ですので、塔婆とは本来、日本のお墓と同じなのですよ。塔婆は、墓標と同じ意味なのです。なので、供養のときに塔婆に戒名を書いて、お参りするのです。ですから、お墓がなくてもいいんです。供養のときに一回一回お墓を造っているのですから。
ちなみにA。日本のお寺にある二重の塔や三重塔、五重塔も、もとはインドの塔・トゥーパです。二段式土饅頭ですね。これが中国に伝わって、土饅頭じゃなく、建物、に変化していったのです。二重の塔が生まれたのです。
で、屋根が多いほうがいいだろう、背が高いほうがいいだろう、という権力者の愚かな思考により、三重・五重へと変化していったんですね。もとは二重の土饅頭だったんですよ、あれはね。

*我等礼敬・・・これはそのままですね。「我ら、うやうやしく礼拝いたします」、ということです。

*為我現身・・・これもそのままです。「この現実の私の身に・・・」、と言う意味です。「現実のわが身のために・・・」でもいいです。

*入我我入・・・これはちょっと難しいです。「我に入り、我も入る」と言うことなのですが、誰が「我に入り」、誰に「我も入る」のかが、問題ですよね。これは、もう当然、仏様が、です。「仏様が私に入って、私が仏様に入る」ということです。これを「入我我入」といいます。
なんだ、そのまんまじゃないか、と思うでしょ。確かに、言葉の上では簡単です。「仏様がわが身に入り、わが身が仏様に入る」。言葉で言ってしまえば、何ということもありません。が、しかし、「入我我入」は言葉上のことではないのです。実践的なことなのです。この「入我我入」を行うことによって、仏様と一体となり、覚りの境地に至る・・・・、これが大事なのです。
つまり、入我我入とは、「覚りの境地に至るための瞑想法」なのですよ。
これが実際に行うと難しいんです。なかなかそんな境地には至れない。自分が仏様に入る、そして自分の中に仏様が入る・・・・。言葉では理解できます。想像もできましょう。しかし、実感となると・・・・。こりゃ難しいですな。興味のある方は、挑戦してみてください。ま、その前に仏様が入ってくださるくらい、自分自身が清浄な人間にならないといけませんけどね。

さて、ここでいう仏様はお釈迦様です。で、前の文がここにかかってきます。ですので二ついっぺんに訳して
「現実のわが身のために、お釈迦様よわが身に入り、わが身をお釈迦様の中に受け入れたまえ」
となります。

今回、一回で舎利禮文を終えるつもりでしたが、どうも長くなりそうなので、今回はここまでにして、後半は次回にお話いたいます。で、最後に訳をまとめます。それでは、続きは次回に。合掌。

いい忘れました。余談ではありますが、舎利について・・・。
舎利とは、お釈迦様の骨のことです。その形状がお米の粒に似ているため、ご飯のことを舎利と言います。ですので、舎利を見たことがない方は、ご飯粒を想像してください。あんなには白くはありませんが、まあ、似ています。
さて、その舎利ですが、世の中にはお釈迦様の舎利と称する遺骨がたくさんあります。どのくらいあるかといいますと、一説によれば、
「現在、日本にあるお釈迦様の遺骨、舎利を集めれば、怪獣コジラくらいの大きさになる」
のだそうです。
「お釈迦様は、そんなに大きかったんですか?。」
などとバカなことは言わないでくださいね。お釈迦様も我々と同じ人間なんですから。
じゃあ、なぜ、そんなに遺骨があるのか?。
日本にある舎利は、ニセモノなのか?、と問われれば、答えはNOです。

もちろん、出所のはっきりしないニセモノもあるかもしれません。中には、どこかの馬の骨・・・というものもあるかもしれません。が、まあ、それはないでしょう。昔のお坊さんが、そんなことをするとは思えませんしね。
お釈迦様の舎利・・・仏舎利と言います・・・は、お釈迦様の葬儀が終わったあと、当時のインドの強国に分けられました。八カ国に分けられたともいわれています。で、それぞれの国は、塔を造り、遺骨を納め、国をあげてお参りしていたのです。
が、平和は長く続きません。戦乱の世となり、アショーカ王が君臨します。その戦乱により、仏塔は崩壊。舎利もどこへやら・・・。自分の愚かさに気付いたアショーカ王は仏舎利を探すように部下に命じます。このおかげで各国に散らばっていた仏舎利が一つにまとまります。アショーカ王は、インドに多数の仏塔を建て(一説には八千とか・・・)、その塔に一粒ずつ仏舎利を納めます。
その後、塔から盗まれたり、塔がなくなったりして、仏舎利は散らばったりします。仏教教団に持ち込まれたりもしました。また、仏教教団も、もともと所持したりしていましたしね。
ところが、その仏教教団も分裂をはじめます。なので仏舎利も分けられます。一粒が半粒になったりしたのでしょうか?。わかりませんが、そのように分かれていくんですね。
で、やがて、インドから中国へ仏教が伝わるとともに、仏舎利も中国に持ち込まれます。さらに、それは日本へと伝わっていくんですね。で、日本の各寺も仏舎利を祀るようになったのです。
そんなころには、もう仏舎利の量はかなり増えていた、と思われます。しかし、誰かが別の人の骨を混ぜたわけではありません。じゃあ、なぜ増えるのか・・・。

仏舎利は、実は増えるんです。昔からそういわれています。
「大きな天変地異があるとき、その天変地異が起こる前に仏舎利が振るえ、うなる。すると、仏舎利が割れたりして増えているのだ。」
「とてもいいことが起こる前触れとして、静かに仏舎利が増えていく。」
「一心にお釈迦様を拝んでいると、灯明の火が飛び仏舎利が生まれる。」
などと言われているんです。
また、仏舎利が手に入らないお寺もあります。そういうお寺は、水晶の粒を仏舎利と見立てて拝みます。それがいつの間にか水晶ではなくなり、骨になっている・・・・という話もあります。

そう、仏舎利は増えるんです。ですから、仏舎利にはニセモノはありません。問題は、それをお参りする者の心です。仏舎利がニセモノであろうとホンモノであろうと、仏舎利があろうとなかろうと、どちらでもいいんですよ。心の中に仏様がいればね。余談でした。

*仏加持故・・・み仏の加持によるがゆえに、となります。加持とは、仏様の衆生を救おうという慈悲の力(これを加という)と、仏様の救いを願う人々の心(これを持という)が一致したときに生まれる力(加持力)のことを言います。一般的には加持力(かじりき)などといっています。ここで重要なことは、加持とは、仏様からの一方的な力だけではない、ということです。仏様の救いを望む人々の心も問われるのです。つまり、他力本願ではない、ということです。
密教では、この加持を大変重要視しています。ただ願うだけではない、ただすがるだけではない、自分自身の心の状態も大事だ、ということですね。受け取る側の問題、なのですよ。
仏様は、いつもその慈悲心を我々に潅いでいます。ところが、我々は、それを受け取ろうとしないんですね。ただ、救われたらいいなぁ・・・程度しか思っていない。助けられたらいいなぁ、楽になったらいいなぁ・・・くらいにしか思わない。自分で何とかしよう、足りないところは仏様の力を貸してください、とは思わないものなのです。仏様の力を貸してもらうにはどうすればいいか、とは考えないんですね。自分の努力・・・自力・・・が欠けているんです。
加持の力は、仏様の慈悲の力と、それを受け取る側の努力が一致したときに生まれる力です。そうなったとき、奇跡的なことが起こるのですね。願いが通じるのです。それが仏の加持力なのですよ。

*我証菩提・・・我、菩提を証す、となります。菩提は覚りです。証は、確かに自分のものにした、という意味です。ですから、私は、確かに覚りを得たのだ、となります。なぜならそれは、前文の仏様の加持力によるからです、となるのです。

*以仏神力・・・仏様の偉大なる力を以って、という意味ですね。神力とは、神通力のことです。その神通力によって・・・という意味ですね。

*利益衆生・・・衆生のために利益を、ということです。前文とあわせてみると、仏様の神通力によって、衆生に利益を与えたまえ、という意味になりますね。

*発菩提心・・・菩提心を発す、となります。菩提心とは、覚りを得たい、と思う心のことです。菩提は覚りのことです。で、その覚りを得たいのだ、と強く思う心が菩提心なのです。ですから、仏教では、まずこの菩提心を持つこと、おこすことが重要です。この覚りを得たい、という気持ちをおこすことを、「発菩提心(ほつぼだいしん)」というのです。この心がなければ、仏教の修行はできませんからね。ここでは、覚りを得ようとする心を起こし・・・となり、次の文へとつながります。

*修菩薩行・・・菩薩の行いを修す、ということです。つまり、菩薩の修行を致します、ということです。修行とは、行を修することです。行は「行い」ですね。修するとは、「正しくする」ということです。ですから、修行とは、「行いを正しくする」という意味です。なので、この文は、「菩薩の行いを正しくする」という意味になりますね。

*同入円寂・・・同じく円寂に入る、ということです。円寂とは、「完璧な寂滅」のこと、つまり、「完全なる涅槃」のことです。円は、完璧、完全を意味しています。寂は寂滅であり、涅槃のことです。同入は、同じところに入る、ということですね。誰と同じなのかというと、お釈迦様と、です。つまり、この文の意味は、「お釈迦様と同じ完璧な涅槃に入らせたまえ」となるのです。すなわちそれは、「お釈迦様と同じ完全なる覚りの世界に導きたまえ」ということとなるのですね。
現在、亡くなられたばかりの方の戒名を読むとき、「新円寂、○○・・・之霊位」などと読みあげます。この新円寂とは、新しく円満なる覚りを得た、という意味ですが、これは死者に対する敬意であって、本当に円寂・・・完全な覚り・・・を得ているわけではありません。参考までに・・・。

*平等大智・・・平等である大いなる智慧よ、ということですね。これは、お釈迦様の智慧を指し示しています。一切の衆生に対し、平等に大いなる智慧をもたらしてくれるお釈迦様よ、ということですね。この智慧は、単なる智慧ではなく、「如来の智慧」です。「大智」とは如来の智慧、すなわち般若です。もう、何度も登場してきましたので、覚えていらっしゃると思います。般若心経の般若ですね。如来の偉大なる智慧のことです。その智慧を持ったものはただ一人、お釈迦様のみです。ですから、ここの文は、お釈迦様そのものを意味しているのですよ。

*今将頂礼・・・これはそのままです。今、まさに頂礼し奉る、という意味ですね。こうして、この経文を読み終わって、礼拝するのです。

以上をまとめて訳しておきます。意訳ですので、今までの解説と多少異なるところもあります。

一心に礼拝し奉ります。すべての徳を備えたる釈迦如来よ。真実を示したる舎利よ、真理の姿である如来よ、真理の世界である塔婆よ、私たちは、今まさに、うやうやしく礼拝し奉ります。
現実世界に生きる私のために、釈迦如来よ、私の中に入り、私をその中に招き入らせ、一つとならしめたまえ。
御仏の加持力によって、私に覚りを得さしめたまえ。
御仏の神通力をもって、衆生に利益を与えたまえ。
覚りを得ようとする心をおこし、菩薩の修行を実践し、お釈迦様と同じ完全なる涅槃に入らしめたまえ。
人々に平等に与える大いなる身仏の智慧よ、我は今まさに礼拝し奉る・・・。


となります。
この経文は、本来はお釈迦様の舎利を礼拝するとき経文です。お釈迦様の舎利の入った仏塔を礼拝し、その功徳により、幸福を得る・・・というためのお経ですね。
今では、このお経は、火葬場で必ずあげています。真言宗の場合、ですが。或いは、お墓の前で読みます。一般の方の遺骨も、お釈迦様の舎利と同等、という意味でこのお経をあげるのですね。一切衆生悉有仏性です。誰もが、本来は仏なのです。ただ、その仏の姿が、この世の穢れで覆い隠されているに過ぎないのですね。死して骨となった今、その穢れはないことでしょう。ならば、その骨は仏の骨、仏舎利と何なら変わることはないでしょう。そうであるなら、それは礼拝する対象となるのです。
そういう意味で、この舎利禮文は、火葬場やお墓の前で読まれるのです。

仏舎利も一般の方の骨も、なんら変わるところはありません。すべては平等、みな仏なのですから。これに迷えば凡夫、これを覚れば覚者、ですね。
ここまで読まれた方は、また一つ覚りに近付いたわけです。合掌。





「諸真言・祈願文・回向文」

一般的に、お経をあげるときには、形式があります。真言宗の場合、たいていは次のようになっています。
1、開経偈(かいきょうげ)
2、懺悔文(さんげもん)
3、般若心経(観音経の場合もある。舎利禮文を入れる場合は、般若心経のあと。)
4、諸真言
5、祈願文
6、回向文
多少の順序の入れ替わりや、般若心経の代わりに他のお経(観音経など)をいれたりしますが、大体はこのような順序でお経を読んでいきます。
これまで、開経偈や懺悔文、般若心経などについてはお話いたしてきました。残すは、諸真言以下です。それぞれについてお話いたします。

*諸真言
諸真言は、仏様のご真言のことです。いくつか読むので「諸真言」としてあります。どの仏様の真言を読むのかは、自由です。好きな仏様のご真言を読んでいただければ結構です。
とはいえ、じゃあどの仏様がいいのか、と迷ってしまいますよね。また、好きな仏様の真言が判らない場合もあります。ですので、代表的な仏様のご真言をパターンに分けて掲載しておきます。

T、十三仏真言
十三仏とは、人が亡くなってから三十三回忌までに、あの世でお世話になる13の仏様のことです。お盆などに十三仏の掛け軸などをご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか?。お地蔵さんや阿弥陀さん、観音さんなど13の仏様が一緒に描かれている掛け軸です。あの掛け軸は、人が亡くなって、初七日〜三十三回忌までにお世話になる仏様が描かれているのです。
そこで、お経をあげるときには、般若心経のあとに十三仏のご真言をお唱えすることが多いのです。特に仏壇の前でお経をあげるときは十三仏真言は唱えるといいですね。その十三仏真言をあげておきます。

@初七日・・・・・・不動明王・・・・・のうまくさんまんだ ばざら だん せんだまかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん
A二七日・・・・・・釈迦如来・・・・・のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
B三七日・・・・・・文殊菩薩・・・・・おん あらはしゃのう
C四七日・・・・・・普賢菩薩・・・・・おん さんまや さとばん
D五七日・・・・・・地蔵菩薩・・・・・おん かかかび さんまえい そわか
E六七日・・・・・・弥勒菩薩・・・・・おん まいたれいや そわか
F七七日・・・・・・薬師如来・・・・・おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
G百か日・・・・・・観世音菩薩・・・おん あろりきゃ そわか
H一周期・・・・・・勢至菩薩・・・・・おん さんざんさく そわか
I三回忌・・・・・・阿弥陀如来・・・おん あみりた ていせい から うん
J七回忌・・・・・・阿しゅく如来・・・おん あきしゅびや うん
K十三回忌・・・・大日如来・・・・・おん あびらうんけん ばざら だとばん
K十七回忌・・・・大日如来・・・・・おん あびらうんけん ばざら だとばん
L三十三回忌・・虚空蔵菩薩・・・のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんあり きゃまりぼり そわか

大日如来が十三回忌と十七回忌に2回登場しております。ですので、Kが二つあります。ですので、全部で初七日から三十三回忌まで節目が14回ありますが、仏様は13名です。
本来は、ここに二十三回忌、二十五回忌(あるいは二十七回忌)が入りますが、いわゆる十三仏の中には入れられておりません。13仏といえば、上に掲載した仏様になります。
お仏壇の前でお経を唱えるとき、時間があれば十三仏真言を唱えてもいいですね。

U、干支の守護仏真言
干支・・・子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥・・・の生まれ年によって、守護仏があります。ですので、自分の干支の仏様のご真言を唱える、というのでもいいと思います。それぞれの干支の守護仏とご真言をあげておきます。上の十三仏と同じ場合は、真言は省略いたします。

子・・・・・・・千手観音・・・・・・おん ばざら だらま きりく
丑・寅・・・・虚空蔵菩薩・・・・おん ばざら あらたんのう おん(十三仏での虚空蔵菩薩真言でもよい)
卯・・・・・・・文殊菩薩
辰・巳・・・・普賢菩薩
午・・・・・・・勢至菩薩
未・申・・・・大日如来
酉・・・・・・・不動明王・・・・・のうまくさんまんだ ばざら だんかん(十三仏での不動明王真言でもよい)
戌・亥・・・・阿弥陀如来

十三仏とほぼ同じ仏様ですね。千手観音菩薩だけですね、ここで新たに登場するのは。虚空蔵菩薩と不動明王は、ここで紹介した短い真言でも構いません。もちろん、十三仏で紹介した長い真言でもいいです。どちらを読んでも構いません。ただし、供養のとき(仏壇の前で読むとき、先祖のために読むとき)は、十三仏真言のほうを読んでください。干支の守護仏のご真言は、供養の為ではなく、自分のために読む場合の真言です。供養のときも自分のためでも、重なっている場合が多いですけどね。

V、その他、好きな仏様の真言を読みたい場合
自分の好きな仏様・・・・といっても、決めるのが難しいかもしれません。どうしても、この仏様が好きで好きで仕方がない・・・・という思いがある方なら、簡単に決められますけどね。私は観音様が好きだから、私はお不動様が好きなんです、私は毘沙門天様がいい、私は弁天様・・・・、と人の好みはさまざまです。どなたがどの仏様を好んでも、それは差し支えはありません。好きな仏様を拝めばいいのです。
この場合、その好きな仏様を自分で祀ることはいいことです。ただし、大きな仏像は避けましょう。小さな仏像を自分で祀るのは構いません。自分のための仏様です。そうした仏様を祀った場合は、般若心経のあとに、その仏様のご真言を唱えるのが決まり事です。当然ですよね、その仏様が自分にとってのご本尊なのですから。
お水またはお茶を供え、ローソクを灯し、線香を点け、お経とその本尊のご真言を唱える。そして、自分の守護を願う・・・・。こうしたことは、大丈夫なんですよ。お祀りしてもいいんです。ただし、天部(神の部類ですね)は注意してください。それと、できるだけ毎日お参りすることです。今日は眠たいからいいや、今日は時間がないからパス、もう遅いからやめよう、疲れたから、しんどいから・・・・などといってお参りをサボるくらいなら、自分の仏様を祀ったりするのはよくないですね。祀るなら、きっちりとお参りしましょう。せめて、ご真言だけでも唱えてください。

さて、そのご真言ですが、仏様すべてのご真言をここで書くのは大変です。まあ、たいていは上に紹介した仏様でカバーできると思いますが、その他でこの仏様のご真言が知りたい、ということがあれば、それは個々にお尋ねください。

ところで、真言宗の場合、さまざまな仏様のご真言をお唱えしたあとに、必ず(といっていいほど)光明真言(こうみょうしんごん)と大師宝号(だいしほうごう)をお唱えします。光明真言は心の迷いを晴らし、闇を消し去り、先祖の魂にその功徳が届く・・・・という真言です。大師宝号は、お大師様へ感謝の気持ちを込めて、また祈願を込めて唱えます。その二つを紹介しておきます。
光明真言・・・・おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん
大師宝号・・・・南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)
真言系のお寺へいった場合、この二つの真言をお唱えするといいでしょう。少なくても大師宝号は唱えてくださいね。


*祈願文(きがんもん)
祈願文にもさまざまな内容があります。取り立てて形式ばった祈願文をとなえなければいけない、ということはありません。お経をあげ、諸真言をを唱えたら、自分の祈願をしていいのです。
ただし、それは自分専用の仏様を祀っているときです。もしくはお寺などにお参りに行ったときです。そういう時は、自分の願い事を唱えてもいいのですよ。
「今日も一日、ラッキーでありますように」
「どうか私の願いが叶いますように」
「素敵な彼氏(彼女)が現れますように」
「仕事がうまくいきますように」
という具合にね。

では、自分専用の仏様ではなく、仏壇の前でお参りするときはどうすればいいのでしょうか。そういう時は、諸真言まで終わったあとは、
「今ここに、ご先祖様に感謝いたします。どうかご先祖様、安らかに過ごしください。我ら子孫が今日も一日無事に過ごせますよう、見守りください。」
でいいのですよ。感謝と祈りと願い、これだけをしておきましょう。ただし、願いは、家族全体の安穏を願うことです。他は願わないようにしてください。(例外があります。その人の守護霊がわかっている場合、自分の願いごとをしても構わない場合があります。たとえば、ある娘さんの守護霊がその娘さんのおじいさんであった場合、その娘さんはおじいさんに「おじいちゃん、素敵な彼氏と出会えるように協力してね」と願うことは大丈夫です。ま、守護霊が特定できないといけませんし、その守護霊が力がなくてはいけませんが・・・・。)

このように自分の言葉で祈願をすればいいのですが、参考までに高野山真言宗の一般の方向けのお経の本(勤行次第・・・ごんぎょうしだい)に掲載されている祈願文を紹介しておきます。

「至心発願 天長地久 即身成仏 密厳国土 風雨順時 五穀豊穣 万邦協和 諸人快楽 乃至法界 平等利益」
(ししんほつがん てんじょうちきゅう そくしんじょうぶつ みつごんこくど ふううじゅんじ ごこくぶにょう ばんぽうきょうわ しょにんけらく ないしほうかい びょうどうりやく)


心より祈願いたします。天地が永久でありますように。この身このままで幸せになりますように。大日如来の理想が実現しますように。風雨が順調でありますように。五穀が豊穣に実りますように。世界中が仲良くなりますように。すべての人々が安楽でありますように。この地球上のすべての命あるものに平等に利益が渡りますように。

とても大きな祈願ですが、一人一人が意味を理解してお唱えすることは、いいことだと思います。


*回向文(えこうもん)
これは決まった文があります。次の文です。
願以此功徳(がんにしくどく)       普及於一切(ふぎゅうおいっさい)
我等与衆生(がとうよしゅじょう)     皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)

ほとんどの場合、このお経を唱えて終了いたします。この経文を回向文というのです。意味は、書き下せばすぐにわかります。
書き下し:願わくばこの功徳を以って 普く一切に及ぼし 我らと衆生と 皆ともに仏道を成ぜん
よくわかるでしょ?。

「この功徳」とは、お経をあげた功徳のことです。お経をお唱えすれば、功徳があります。それはどんな短いお経であっても・・・です。必ず、功徳があるのです。その功徳を独り占めするのではなく、普く一切に及ぼすのです。全世界に行き渡らせる、のです。そして、みんなと一緒に仏道を修行しましょう、と結んでいるのですね。
たとえどんな小さな功徳であっても、ほんのわずかな功徳であっても、自分で独り占めしない、というのが仏教なのです。多くの人々で分け与えましょう、たとえわずかでもみんなで分かち合いましょう、というのが仏教の精神なのですね。
だから、この経文を回向というのです。

回向とは、字の如く「回って向ける」です。お経を唱えた功徳を自分のところだけに留めるのではなく、他に回って向けるので回向というのです。
よく先祖の供養のお経を聞いていると、回向文といって昔の言葉遣いで読む文章が読み上げられるのですが、ご存じないでしょうか?。「願以此功徳・・・・」とは異なる文です。たとえば、
「うやうやしく本尊○○菩薩に・・・・」
「敬って申す、真言教主大日如来・・・・」
「仰ぎ願わくば・・・・」
などで始まる文章です。で、途中に
「○○家先祖代々のために回向す」
などと唱えられます。これは、お唱えしたお経の功徳を先祖の供養のために向ける、という宣言をした経文です。ですから、これも回向文といわれます。
回向とは、お経の功徳を独り占めするのではなく、他へまわす、という意味なのです。


以上で、一通りのお経が終わりです。ワンセット終了ですね。最も簡単なセットは、
「開経偈、般若心経、回向文」
です。これを基本として、懺悔文を入れたり、諸真言を入れたり、観音経を入れたり、舎利禮文を入れたり、祈願文を入れたりします。そうやってどんどん増えていくわけです。
在家さんの場合、あまりたくさんお経を増やしても負担が増えるのであまりお勧めしません。毎日、唱えられる量のお経でいいのです。負担に思うくらいなら、お経をあげないほうがいいでしょう。ご真言だけでいいのです。
どのくらいの量のお経をあげるか、それは個人個人の自由です。時間の余裕、負担に思わない程度、そうしたことを考えて決めればいいでしょう。
また、平日は簡単に真言のみ唱え、土日など休みの日はセットで唱える・・・というパターンでもいいと思います。いずれにせよ、御仏壇や自分の仏様の前でお経を唱えるときは、負担に思わない程度のお経にすることが大事です。嫌々お唱えしても意味がないですからね。

さて、今回はこれまでにしておきます。これで一通りのお経についてお話いたしました。しかし、今まで話したお経は、どちらかというと在家用というか、一般の方でも唱えられるお経の話でした。
そこで、次回は、法会(ほうえ)で唱えられるお経の話を致します。法会をお参りすることはあまりないかもしれませんが、参考までにどんな法会があるか、どんなお経が唱えられるか、を紹介いたします。
合掌。



ばっくなんばあ〜10


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