ばっくなんばぁあ〜10

第 四 章 

「法会・法要でのお経」

今回は、内容を少し変えまして、法会(ほうえ)とか法要(ほうよう)で読まれるお経についてお話いたします。
そもそも法会・法要とは何かご存知でしょうか?。大雑把な説明ですが、法会と法要の違いをまず説明しておきます。

法会・・・これを「ほうえ」と読みます・・・は、お寺の行事や記念のために行うものです。ですので、イベントと言った方がわかりやすいでしょう。法会は、お寺のイベント・行事ですね。
法要・・・これを「ほうよう」と読みます・・・は、主に供養のために行うものです。法事や普段の供養もこれに含まれます。
なのですが、その寺の祖師や檀家・信者大勢のために行う法要の場合は、「○○法会」などと称して、イベント的に行うこともあります。
ですので、法会と法要は、区別されるものなのですが、ごちゃ混ぜに使われることが多いです。まあ、どなたかの供養のためにお経をあげるときは「法要」であり、大勢のための供養や祈願ならば「法会」になると思っていいでしょう。
とはいえ、法要でも法会でも唱えるお経は似たようなものです。名前は違えど、中身は同じような・・・なのです。もちろん、細部は違いますけどね。

真言宗の場合(ここでは高野山真言宗の場合です。派によって若干異なるようです)、法要で唱えるお経は大体決まっています。あまり専門的なことを言ってもわからないので、ここでは一般的な内容だけをお話しておきます。
@極一般的な供養としての法要で唱えるお経
個人的にお寺さんにご供養を頼み、お経をあげてもらうことも法要です。年忌供養などの法事も、法要です。そうした、極一般の法要の場合、よく読まれるお経は
*理趣経(りしゅきょう)
*観音経(かんのんぎょう)
*般若心経
でしょう。理趣経は、いままで解説には出てきませんでした。このお経は、密教独特のお経です。その内容については、後ほど簡単に説明いたします。
パターン的には、
1、開経偈(かいきょうげ)
2、懺悔文(さんげもん)
3、観音経または理趣経(般若心経を3巻と言う場合もある)
4、回向文(えこうもん、略されることもある)
5、般若心経(略されることもある)
6、諸真言、光明真言・大師宝号
7、回向
というのが、一般的でしょうか。あるいは、
1、前讃(ぜんさん。一つ〜三つ。節つきのお経)
2、理趣経
3、回向文
4、後讃(ごさん。多くの場合一つ。その前に般若心経や観音経を入れる場合もある)
5、諸真言、光明真言・大師宝号
6、回向
というパターンもあります。だいたい、個人の供養や法事の場合、こんなところが多いでしょう。法事の場合、もっといろいろとお経を入れる場合もあります。そのあたりは各お寺の裁量です。
前讃(ぜんさん)と後讃(ごさん)というのは、節つきのお経です。これも後ほどお話いたします。

A大きな法要・・・法会・・・の場合。
この場合は、法会に参列するお坊さんの数も増えますので、読むお経の種類も増えます。真言宗の場合、こうした法会の多くは「理趣三昧法会(りしゅざんまいほうえ)」と呼ばれる法会となります。この法会の場合は、導師がお堂の中央に置かれている壇(だん)の前に座り、作法に従って秘密の法をお経にあわせて致します。その内容については詳しくはいえませんが、仏様(そのお寺の本尊様)を供養し、その仏様に祈願をする秘法、とだけ説明しておきます。
で、その導師の秘法とあわせて読むお経は、以下の通りです(各地方によっても異なります。ここで紹介するのは、極一般的に、また私たちの地域で行われている法会で読まれるお経です。)
1、散華(さんげ)
2、対揚(たいよう)
3、唱禮(しょうれい)
4、前讃(ぜんさん)
5、理趣経(座って読む場合と立って壇の周りを回りながら読む場合がある)
6、回向文(えこうもん)または慶讃文(けいさんもん)等
7、後讃(ごさん)
8、観音経や般若心経、諸真言(略される場合もある)
9、至心回向(ししんえこう) このあとに観音経や般若心経・諸真言等が入る場合もある。
10、回向(場合によっては読まないこともある)
11、称名禮(しょうみょうらい)
と、まあ、このようなパターンでしょうか。わからない名前がずらりと並んでいると思います。
5の理趣経なんですが、座って読む場合の法会を「平座理趣三昧(ひらざりしゅざんまい)」といい、立って壇の周りを回りながら読む法会を「中曲理趣三昧(ちゅうきょくりしゅざんまい)」といいます。

1の散華(さんげ)ですが、文字通りお経を読みながら花びらを撒き散らします。現代では、蓮の花びらをまねて作った紙(仏様の絵が描いてあったり、天女が書いてあったり、真言が書いてあったりさまざまです)を撒きます。お経は、節がついています。このお経を唱えるときは、立って読みます。

2の対揚(たいよう)は、5句〜11句(奇数)と、唱える数がいろいろあります。数が増えるほど、法要の時間は長くなります。これは立ったり座ったりして読みます。

3の唱禮(しょうれい)は、5段に分かれているのですが、途中を省略する場合もあります。これは、お導師様がお経の頭(とう−出だし)を読み、参列したお坊さんが付き従って読む、と言うお経です。このお経も節がついています。

4の前讃(ぜんさん)。このお経も節がついています。三種類あるのですが、三種類とも読む場合と一つのみ読む場合があります。読み終わったときに鉢(はち)と呼ばれるシンバル状のものを叩きます。

5の理趣経(りしゅきょう)は、これが問題ですね。これについては、今回はさわりだけで、次回に詳しくお話いたしましょう。
理趣経というのは、真言宗では、日常的に読むお経です。もちろん密教経典に属しますので(あ〜、お経の種類についての話から始めないといけませんね)、その内容は簡単ではありません。難解です。表面的な意味だけをとっていくと、とんでもないことになってしまうという内容を含んでいます。難しいお経なのです。
密教経典と呼ばれるものの多くは、読まないお経です。覚りを得るための作法や曼荼羅の書き方、瞑想の仕方などが説かれているので、読むお経ではないのです。その密教経典の中でも、理趣経は読むお経に属します。ですので、日常的に私たちは読んでいるのですよ。次回、詳しくお話を致しましょう。

6の回向文(えこうもん)、慶讃文(けいさんもん)というのは、大きな法会の場合、その寺のご住職や法会の代表者が読みあげることが多いです。たいていは、巻紙(奉書紙・・・ほうしょかみ)に書かれたものを読みあげます。読み方も独特ですね。たらたら読めばいいものじゃないです。
多くの檀家さんや信者さんの先祖供養のための法会ならば回向文になりますし、何かのお祝いや記念の法会ならば慶讃文になります。この内容で、その法会が供養のための法要なのか、何かのお祝いや記念のための法会なのかがわかりますね。
回向文や慶讃文のほかに、祈願文をいれたりもします。そのときの法会の趣旨に合わせて内容は変わります。

7の後讃(ごさん)は、三種類あるのですが、通常は一つのみ読みます。これも節がついており、読み終わったあと鉢をたたきます。

8なんですが、観音経や般若心経、諸真言は読む場所が入れ替わったりもします。9の至心回向のあとに読む場合も多くありますし、また、まったく読まないで終わる場合もあります。法会の内容によって変わります。

9の至心回向(ししんえこう)は、我々の間では「懺悔随喜(さんがいずいき)」と言われているお経です。罪を懺悔し、仏様のご加護を喜び、善い未来を祈願するというお経です。一般の方は読みません。

10の回向は、「願以此功徳(がんにしくどく)・・・」というお経ですね。前回お話いたしました。法要のシメの経文です。法要によっては、読まない場合もあります。

11は、最後の三禮(さんらい、らいはいのことです。三回礼拝するので、さんらい、といいます)のときに読むお経です。お経文を唱えながら、三禮するのです。このお経も節つきです。

こうして、お坊さんは列を成してお堂を退場いたします。言い忘れましたが、お堂に入るときも列を成して入ってきます。入り方にも形があります。先頭を若く位の低いお坊さんにして、順に年齢と位をあげ、最後にお導師様という場合と、中央にお導師様を持ってきて先頭と最後を若く位の低いお坊さんにして、お導師様に向かうほど位を高くする、という場合があります。
法会によっては、お堂に入るとき(これを入堂といいます)までに、やや遠くから練り歩くことがあります。その時に散華(さんげ)をする場合もあります。(お経を読まずに散華をしたり、御詠歌を読みながら散華をしたり、いろいろです)。

大きな法会の場合は、多くはこのようなパターンです。
なお、法会には、次のような法会があります。(主だったところだけです)。
*護摩法会・・・・祈願の護摩法を修する法会。読むお経は理趣経や般若心経、諸真言が多い。太鼓を叩くお寺もある。

*大般若法会・・・・大般若経600巻を、一巻ずつバラバラとする法会。これは見ないと説明しにくいです。大般若経は600巻もあるので、読めないんです。なので、読んだつもりでバラバラ・・・とするんですね。これは、多くは息災のために行われます。大般若経をバラバラッとしているときに唱えるの言葉はだいたい決まっています。その一部だけ紹介しましょう。それは、
「降伏一切大魔 最勝成就(ごうぶくいっさいだいま、さいしょうじょじゅ)」
と唱えているんですよ。
他に読むお経は般若心経・諸真言ですね。

*星供養・・・多くは節分に行われます。星祭りのことですね。息災延命・開運厄除のために行われます。たいていは、星供養護摩という護摩をたきます。読むお経は理趣経・般若心経・諸真言が多いです。

*土砂加持法会・・・秘法中の秘法でしょう。この法会を行うご寺院さんは少ないと思います。お坊さんの数も必要ですし、時間も長いです。これは土砂(砂ですね)をお釈迦様の舎利と見たたて、その砂を加持する法会です。その加持した砂は、多大なる力を持っています。魔除け、厄除け、供養に使われます。

*結縁灌頂(けいちえんかんじょう)・・・この法会も一般の寺院で行われることは少ないでしょう。高野山では、毎年5月の連休と10月の1〜3日に行われています。この法会は、一般の方が、曼荼羅上に樒(しきみ)を投げ、曼荼羅の仏様と縁を結ぶ、という儀式です。曼荼羅は金剛界と胎蔵界がありますので、年2回あるわけです。
これも秘法中の秘法ですね。

そのほかに、高野山ではお釈迦様の涅槃のために行う法会・涅槃会(高野山では常楽会・・・じょうらくえ・・・といっています)、曼荼羅供(まんだらく)、万灯会(まんとうえ)、御影供(みえく、お大師様の供養)、不断経・・・など、多くの法会・法要が行われています。これは、どこの宗派の本山に行かれてもそうなのでしょうが、本山でしか参拝できない法会・法要もあります。参拝したいな、と思う方は各本山のHPなどで調べられるといいでしょう。

さて、今回はこれまでにしておきます。次回は、お経の種類と、密教経典についてお話いたします。
合掌。



第 五 章

「密教のお経」

今回は、密教のお経についてお話いたします。とはいえ、詳しくお話するのは、とてもとても無理なので、簡単な内容だけ紹介しておきます。また、特に真言宗で最も重要視されている密教経典のみに致します。密教経典すべてにわたって解説するのは、私にはとてもできないことです。とても難しいのと量が多いからです。

そうなんです。密教経典は、大変難しいお経なのです。その内容は複雑で、いろいろな作法や技術的なことがら、仏様の描き方など多義に渡っています。その思想は一般のお経よりも理解しがたいものです。お経の意味だけを追っていても、絶対に理解できないものです。必ず実体験(修行ですね)を通さないと、理解できないのです。いや、実体験を通してもなかなかすべてを理解するというのは、難しいかもしれません。(実際に、同じように修行されたはずの坊さんでも、えっ?、と思えるような方もいますからね)。こういう言い方は横暴なのですが、しかし、密教を理解するには重要なことなのであえて言います。はっきり言って密教を理解するには、「密教的素質があるかないか」、これが大きく関ってくると思います。初めに、その密教的素質について、少々触れておきます。なぜなら、密教を学びたい、と思っている方がたくさんいると思いますので、その心の準備として、密教的素質についてお話させていただくのです。

*密教的素質
まずは、理解力と洞察力です。国語力とでもいいましょうか。文章の意味を深く捉えることができないことには、密教は理解できません。南無阿弥陀仏、と唱えていればいい、などという教えとは、根本的に異なるからです。そんな安易なものではないのです。(ちなみに親鸞さんが提唱したことは、そんな安易なことではなく、もっと難しい実践行なんですけどね。いつから変わってしまったのか・・・。)
お経に説かれていることの裏といいますか、隠された意味を読み取れるような、そんな理解力と洞察力がなくては、いくら密教のお経を読んでも、その意味まではわからないでしょう。まずは、理解力と洞察力を身につけることです。

次に、視野です。いかに視野を広く持てるか。物事を広い目で捉えることができるか、これが問題です。物事をいろいろな角度から眺められることが大事です。一つのことにとらわれているようでは、密教は理解できません。大きな視野を持つことです。
これと似ているというか、広い視野を持てばできることなのですが、他を認めること、これが大事です。排除的な考え方では、密教は理解できません。他の存在を認めることができる、他人の考え方が容認できる・・・、もっと簡単に言えば、いいんじゃないのそういうのもアリでしょう、という柔軟性ですね、それが大切です。もちろん、間違った方向の考え方は正さなくてはいけませんが・・・。そのあたりは社会のルールに則った上での話です。でも、柔軟性はあってもいいのですが。そのあたりのさじ加減ができることが重要ですね。

そして、これが最も重要なことなのですが、現象にとらわれない、ということです。密教というと、不思議な行を用いて、怪しいことを祈ったり、呪ったり、霊的なことにとらわれたりしがちですが、そうした現象を追っかけているうちは、密教の内容はわからないでしょう。多くの方が、密教という妖しさに惑わされ、あるいはいろいろな仏具の外見に魅了され、あるいは密教儀式の格好のよさにとり憑かれ、あるいは曼荼羅の不可思議さに心奪われ、密教に興味を持ってしまうのではないでしょうか。
興味を持つことは、これはいいと思います。あくまでも参拝者として参加するのは、とてもいいことです。しかし、自分が当事者になろうと思うのなら、そうした現象的なことにはとらわれてはいけません。仏具にしろ、儀式にしろ、曼荼羅にしろ、それぞれ深い意味があるのです。格好がいいから、というだけの理由で密教は語れません。
ましてや、霊的な事柄、お祓いなどは、それにこだわらない者はできるでしょうが、お祓いというものに神秘性や格好のよさを求めるものには、無理なことなのです。現象にとらわれているうちは、お祓いなどという行為はできないのですよ。
つまり、格好がいいから、ちょっと人と違ったことができるから、超能力的だから、などという現象にこだわった気持ちから密教を学ぼうとしても、それは痛い目にあうだけです。こういう入り口から密教の世界に入ろうとする方が多いんですよ。そういう方は、たいていは、あやしい拝み屋に騙されるのが落ちです。
こういう現象にとらわれている方が密教を学ぶと、すぐに霊が見えたり、映画やマンガのような「お祓い」ができるようになったりするという錯覚に陥るんですね。そのような霊的なこと、拝み屋的なことを求めるのなら、密教は理解できないでしょう。そうしたことは、人々を幸せに導くための手段の一つに過ぎないのです。手段にしか過ぎないのですから、そのような霊的なこと、お祓いとかができなくても、別の手段を用いることができるのなら、それでもいいのだ、という思いがなくてはいけないのですよ。まあ、視野の広さということにも関ってきますけどね。人々を幸せに導くための手段はたくさんあるのですから。

ちなみに、市販されている密教的な本は、怪しいのが大半です。正式に密教を学ぼうと思うのなら、高野山大学の教授の書かれた本とか、有名な密教学者さんの書かれた本で学ぶべきです。安易な「密教の本」などを参考にしてはいけませんよ。

そして、なによりも「人々が幸せになれるようなお手伝いをする」という決意がなくてはなりません。しかも、そうした行為は影の部分でいい、という思いがなくてはいけません。世間に目立つ必要はないのです。できれば、目立たない方がいいのですよ。マスコミなどで持て囃されないほうがいいのです。あくまで影であったほうがいいのです。
それは、世間に目立つことが目的ではないからです。世間に認められることが目的ではないからです。苦しんでいる人がいたとして、その人が救いを求めてきたら、救いの手伝いをする、という気持ちが必要なのです。あくまで、密教を実践する者は影の存在でいいのですよ。世間に認めてもらいたいから、という動機ではいけません。

さて、ここにあげた密教的素質ですが、それが完全にあることが条件ではありません。なんとなく、そういう考え方ができるよな、と思えれば大丈夫です。それと、動機が重要です。動機が不純ではいけないんですね。まあ、出発点はそうであっても、途中で変われるという人なら構わないですが。つまり、思考に柔軟性があるかないか、ですね。そうなってくると、結局は、理解力が関ってくるわけでして・・・。やはり、ここが基本ですね。

ところで、この人は密教的な要素があるな、と見極めるのは「師」です。つまり、師に認められなければ、密教者にはなれません。もちろん、ただ単に密教を学ぶ、というだけの方は、いろいろな大学で行われている特別講座を受けられればいいでしょう。理解できるできないは別問題です。ご自由にそのような講座に参加ください。しかし、しっかり理解もできていないのに、その内容を語るのは、ご遠慮ください。内容について語れるのは、ちゃんと理解した方のみです。いい加減な理解の仕方で、密教を語らぬよう、ご注意戴きたいものです。
たしかに、お坊さんの中にも理解力のない、「お前本当に修行したのか?」と思われるようなお坊さんもいます。お経は読める、お葬式もできる、だけど、密教的視野は持っていないし、理解もしていない。そういうお坊さんもいます。でもね、そういうお坊さんは、密教を語らないです。自分の力量をわきまえています。現象的なことは語らないです。その点で、やはりちゃんと修行ができているんですね。わからないことは語らない、わかった振りをしてはいけない、格好だけでは通せない、ということをよくわかっているのです。そういうお坊さんは、密教をやたら語ったりはしません。もし、あなたの周りで密教の言葉を使い、小難しい言葉で語るものがいたら、その方は似非だと思ってください。特に、横文字を多用する方は危ないです。カルマ・チャクラ・ヴァジュラ・・・などいう、いかにも的な言葉を多用するものは、密教の理解者ではありません。ちゃんと学んだものは、日本語に置き換えます。言葉の表面に騙されないようにしてくださいね。

さて、あなたはどうだったでしょうか?。密教という言葉にとり憑かれていないでしょうか?。いかにも神秘的だ、という感覚で捉えていないでしょうか?。外見上の姿だけに魅了されてはいないでしょうか?。
もし、そのような考えを持っていたなら、ここでその思いを捨てましょう。密教というのは、その呼び方ほど神秘的でもないし、怪しくもないし、不思議でもありません。ただ、理解するのが難しい、というだけです。字面とは違う意味が、お経の文章に多く含まれているからです。だからこそ、秘密仏教・・・略して密教・・・・といわれるのです。
確かに儀式的なことで秘密の部分も多々ありますが、それはあくまでも方便です、手段です。本当の秘密の意味は、教えの内容が深い、ということなのです。そのことをまず理解してください。密教を誤解しないためにも。

と、密教の経典の内容を紹介する前に注意事項として、このようなことを書かさせていただきました。失礼なヤツ、自分は密教を理解しているんだよと宣伝したいのか、うぬぼれているんじゃないの、などと思うのはみなさんの自由です。確かに、失礼なことも含んでいます。読みようによってはね。まあ、密教経典はそれほど扱いが難しいもの、と思ってください。
ということで、次回は代表的な密教経典・・・・大日経、金剛頂経、理趣経・・・・についてお話させていただきます。といっても、さわりだけですが・・・。合掌。


今回は、密教の代表的なお経であります、「大日経」・「金剛頂経」・「理趣経」についてお話いたします。といいましても、内容は大変難しいものですから、詳しくはお話できません。また、説いてはいけない内容も含んでいますので、お話できる範囲でお話いたします。
なお、密教経典と一般の経典との違いですが、最も簡単な分け方は、そのお経を説いている如来による、ということでしょう。この分け方は、ちょっと乱暴なのですが、簡単にわかりますから、ちょっと説明しておきます。
一般的にお経というのは、お釈迦様が説かれたことをまとめたものです。ですから、お経を説いたのはお釈迦様です。ところがそうではないお経があります。それが密教経典です。密教経典は、主に大日如来が教えを説いています。(お釈迦様が説かれている、という形式をとった密教経典もあります。)
ちょっと大雑把すぎる分け方ですが、参考にしてください。

1、大日経(だいにちきょう)
大日経は、正式な経典名を「大毘盧遮那如来成仏神変加持経(だいびるしゃなにょらいじょうぶつじんぺんかじきょう)」といいます。「大毘盧遮那如来(だいびるしゃなにょらい)」とは、簡単に言えば大日如来のことですが、詳しく説くと大日如来と大毘盧遮那如来は異なります。この大日経を翻訳したのは、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)というインドの僧侶なのですが、この方がお経を翻訳したついでに解説書も記しております。それは「大日経疏(だいにちきょうしょ)」といわれるものですが、これによりますと、大日如来と大毘盧遮那如来と毘盧遮那如来(大が取れている)は、皆それぞれ異なる、のだそうです(あ〜、思い出しますなぁ。高野山大学のゼミを。私は、この大日経疏を解説した書の研究のゼミにいたのですよ。経典の題名についての研究だけで2年が過ぎ、卒業となってしまいました)。まあ、こういう詳しいことはやめておきますね。何にもなりませんから。
このお経の教主、教えを説いているのは、もちろん大日如来です。このお経は全7巻36品(品は、「ほん」と読みまして、「章」と同じ意味です)で構成されています。そのうち第7巻32品〜36品までは、「供養法次第」の部分でして、いわば供養の仕方、マニュアル本にあたります。

大日経で説くところは、曼荼羅で言えば「胎蔵法(胎蔵界)」にあたります。胎蔵界は、御仏の慈悲の世界です。ですから、大日経は、慈悲が大きなテーマとなっているといってもいいでしょう。また、大日経のなかには、この胎蔵曼荼羅の描き方やその仏様たちの拝み方も説かれています。つまり大日経は、大きく分けて理論的な部分と実践的な部分に分かれているのです。理論的な内容を説いているのは「第一住心品(じゅうしんぼん」、それ以降の品(「第二具縁品(ぐえんぼん)」以降)は実践的な内容となっています。それについても少しだけ後ほど触れておこうと思いますが、主にお話できるのは住心品だけです。ご了承ください。(お話ししてもわからない内容です。詳しく聞きたい方は、お寺まで来て質問してください)。

@住心品
ここで説く最も重要な内容は、「如実知自心」、「百六十心」、「三句の法門」でしょう。
*「如実知自心(にょじつちじしん)」
「実の如く自心を知る」ということです。つまり、自分自身の心をすべて把握してしまう、ということです。多くの方は、自分の心のいい面・悪い面を知っていますよね。ある程度は。自分には、こういう善いところがある、こういう悪いところがある、長所短所、大体把握していると思います。ところが、
「あなたって、こういうところがあって、そういう面が嫌なところよ」
と他人に指摘されるまでわからないこともありますよね。そうなんですよ、人間って、本当に嫌な面・嫌な心は、見ないんですね。認識しないんです。だけど、他人にはよくわかるんです。しかし、他人から指摘されると腹が立つんですよね。
「そんなことはない!」
と思う方が多いんですね。素直に認めたくないんです。自分の心を知ろうとしないんですね。あなたもそうじゃないですか?。
とかく自分の本当の心というものは、見えてこないんですね。認めないんですよ。それを素直に認めてしまう、自分の心すべてを知ってしまう、自心をすべて把握できてしまう・・・・。覚りとは、そうしたところにあるのです。すなわち、覚りとは「如実知自心」なのです。

*百六十心
さて、その心なのですが、住心品では、百六十に分類される、と説いています。が、実際には六十種類しか出てきません。
人間には、色々な心があります。善なる心あり、悪なる心あり、そのどちらでもない心あり、自然体的な心あり、女心あり、男心あり、子供心あり・・・・・。人の心は一つではありません。善でもなければ悪でもないし、善でもあれば悪でもあります。大変複雑で、いろいろな心が混在しているのが人間の心というものです。それを60種類の具体例をあげて示しているのがこの教えです。少し例をあげてみましょう。
「慈悲心」「智慧心」「向上心」「貪欲心」「愚痴心」「商人心」「阿修羅心」「婦女心」「犬心」「猫心」「河心」「池心」・・・。
など、様々な心が出てきます。面白いですよね。そういえば、犬の心というか、犬っぽい人っていますよね。河のような流れを持った人もいますし、男性でも母性的な心を持った人もいます。人の心は本当に複雑ですよね。その複雑な心をすべて知れば、覚れますよ。

*三句の法門
しかし、自分の心をすべて知ったとしても、それだけでは完全なる覚りとはいえません。いや、菩薩にもなれません。なぜなら、自分の心をすべて知った、というだけで、そこには何の活動もないからです。真実なる覚りは、単に自分の心を知ることだけでなく、救いという活動がなければならないのです。自分の心を知るだけでは、小さな覚りとしかいえないのですね。
では、真実の覚りを得るにはどうすればいいのでしょうか?。
それには、まず覚りを得たいという心を持たねばなりません。すなわち菩提心を持つことです。覚りたい、という気持ちなくしては覚りは得られませんよね。当然のことです。まずは、この菩提心という種(因)を持たなければいけないのです。

しかし、菩提心だけでは、覚りは得られません。一切の生きるものを救おう、という慈悲の心なくしては、いくら菩提心があっても、それは独りよがりの菩提心にしか過ぎないのです。一人だけが救われるのでは意味がありません。多くのものが救われてこそ、真の覚りなのです。ですから、一切の生きとし生けるものに対する慈悲心が根本的になくてはならないのです。

菩提心を持った、一切の生命に対する慈悲心もある、ではどうすればいいのか。そこまでいけば、もう実践あるのみですよね。実際に人々を救うという行為をするだけです。人々を正しい教えへと導くのです。それには、どんな方法を用いてもよいのです。あらゆる方法・手段を用いて救うのです。正しい教えに導くのです。それが重要なんですね。人を救うためならば、あらゆる方便を使ってもよいのだ、という覚悟が必要なのです。このことを「方便を究竟とする」といいます。
ですから、たとえば極端な話ですが、怪我や病気がもとで仏教に触れたとしたら、その怪我や病気は正しい道に導くための方便となりますよね。ならば、どうしても救わねばならない人がいたら、その人を病気や怪我にしてもよい、のです。
ちょっとびっくりするのではないかと思うのですが、密教にはこういう部分が含まれているんですね。
ですから、扱いによっては非常に危険なのです。ちょっとした解釈の間違いを起こすと、かつて大事件を起こした宗教団体のようなことが起きてしまうんですね。救うためならば、という名目で殺人事件を起こしてしまいました。あれは、密教のこの危険な部分だけに注目して、勝手な解釈をして暴走してしまった結果によるものです。
密教は、人を救うという点において重大な力を発揮します。しかし、それは大きな危険もはらんでいる、ということです。薬も使い方次第では毒になる、ということと同じなのですね。なので、秘密にしているのです。

話がそれました。戻します。以上、住心品には、覚りを得るための心得が説かれているのです。まとめますと、
菩提心を因とし、慈悲心を根とし、方便を究竟とすること。(三句の法門)
数多くに分類される人の心(六十心の教え)をすべて知り尽くし、自分自身の心を完全に把握すること。(如実知自心)
これが、覚りへの道なのです。住心品には、このようなことが説かれているのですね。


A第二「具縁品」
ここでは、曼荼羅の建立の仕方を具体的に説いています。本来、曼荼羅は土の上に描くものです。チベットでは、今でも土の上に曼荼羅を描いています(これを土壇法、造壇法といいます)。ここでは、土地の選び方や方位、造る曼荼羅の大きさなどを説いています。
また、この他に阿闍梨(あじゃり、修行を終えた密教の僧侶のこと)と弟子の資格や条件について説かれています。


B第三「息障品」〜第三十「世出世持誦品」
曼荼羅や灌頂(行者と曼荼羅の諸尊との縁を結ぶための儀式)、護摩、手印、真言について説かれています。特に宇宙を構成するとされる地・水・火・風・空の五大を人間の身体にあてる瞑想法について説かれています。
ちょっと専門的ですね。

密教経典は、このように主に実践的内容が多く含まれています。ですので、経本だけを読んでいては、さっぱりわかりません。お大師さんも、大日経を久米寺で発見したとき、その実践方法がわからなかったのです。ですから、唐へと渡り、密教の作法を学んできたのですよ。


2、金剛頂経(こんごうちょうきょう)
金剛頂経には、訳本が数種類存在しています。我々真言宗が採用しているものは、正式名を「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経(こんごうちょういっさいにょらいしんじつしょうだいじょうげんしょうだいきょうおうきょう)」といいます。え〜、難しい名前ですので、見過ごしてください。まるで早口言葉ですよね。単に「金剛頂経」で間違いないですから。
このお経は、大日経とともに、真言宗の教義の中心を成すものです。真言宗の根本経典ですね。こちらは、曼荼羅で言えば「金剛界曼荼羅」にあたります。大日経の示す「胎蔵界曼荼羅」が慈悲を表すのに対し、「金剛界曼荼羅」は智慧を表しております。完全なる智慧ですね。ですから、曼荼羅を見ますと、金剛界曼荼羅は胎蔵界曼荼羅よりも整然となっております。雑多・・・という感じではありません。きれいに整理されている状態ですね。いかにも理路整然といった印象を与えます。まさに完成された智慧を示しているわけです。

金剛頂経は、大日如来がお釈迦様の質問に答える、と言う形式をとっています。詳しく説きましょう。
大日如来は、ある宮殿の(名前が難しいんです)大摩尼殿というところで、金剛手(こんごうしゅ)という菩薩をはじめとする八人の菩薩、その他の菩薩たちに囲まれています。
そのとき、一切義成就菩薩(いっさいぎじょうじゅぼさつ)と言う菩薩が大日如来に覚りの法について質問をします。この菩薩とは、実はお釈迦様なのです。お釈迦様は、大日如来に仏身を成就する方法を質問し、実践することにより釈迦如来になるのです。この仏身になる方法がこの金剛頂経の重要なポイントですね。まさに覚りの方法を説いているのですから。その方法とは、「五相成身観(ごそうじょうしんかん)」といわれる観想です。
この五相成身観を実践して得た境地を示したのが、金剛界曼荼羅なんですね。で、あとは、その曼荼羅について大日如来とお釈迦様が語り合う、ということになっています。これが、メインです。
その他には、諸作法や重要な真言が説き明かされます。真言宗の主な儀式の作法や真言は、この金剛頂経に説かれていることを実践しているのですよ。これが、金剛頂経に説くところです。

ところで、ここでは、そうした作法については、説くことはできません。知りたい方は、真言宗のお寺で出家して、高野山などで修行してください。修行が終わった後、一流伝授という伝授で教えてもらえます。
ここでは、五相成身観についてだけ、簡単に(かなり大雑把に)お話しておきます。

*五相成身観
五相成身観というのは、覚りに至る過程を五つに分けたものです。五段階の観想を経て覚りに至るわけですね。詳しくは説けませんので、さわりだけお話しておきます。
まず、五相とは、「通達本心(つうだつほんしん)、修菩提心(しゅうぼだいしん)、成金剛心(じょうこんごうしん)、証金剛身(しょうこんごうしん)、仏身円満(ぶっしんえんまん)」のことをいいます。それぞれについてお話します。

@通達本心
通達菩提心・通達心ともいいます。まず、よく自分の心を観察し、己の心をすべて知ります。そして、その境地に至ったら、ある真言を唱え(これは秘密です)、己の胸中に月を描きます。つまり、月輪(がちりん)を心に浮かべるのですね。で、その中に入り込みます。

A修菩提心
自分の心を清浄で輝けるものにし、智慧を増大させるための修行です。@とは別のある真言を唱え、月輪を観想します。そして、菩提心・・・覚りに向かう心・・・をおこすのです。

B成金剛心
いよいよ一切の如来の境地に近付きます。Aで菩提心をおこしましたので、その菩提心をさらに堅固にします。どんな迷いや魔、誘惑にも揺るがない堅い堅い菩提心を作り上げるのです。そのためにある真言を唱え、Aで観想した月輪上に金剛(五鈷杵・・・ごこしょ・・・如来の堅固なる智慧を表す仏具)を観想します。

C証金剛身
いままでは心の中、精神上での観想でした。ここでは、その心の中でのことを身体へと広げていきます。ある真言を唱え、自分の心の中に観想した月輪上の金剛をさらに堅固なるものと観想し、自分の身体と重ねあわせ、自らの身体が金剛杵のように堅固なるものであると観想します。

D仏身円満
ある真言を唱え、自分の心も身体も如来と同一であると観想します。観想するというより、覚ります。すなわち、自分も如来も一緒と言うことを覚るのです。
こうして、即身成仏が完成するのですよ。

密教は、この身このままで覚るのだ、覚れるのだ、と説いています。その根拠がこの五相成身観ですね。これを修行することにより、即身成仏となるのです。
この思想は、お釈迦様も元は我々と同じ人間じゃないか、同じ人間ならば、我々もお釈迦様のように覚れるはずじゃないか、といった考えから生まれたものです。そこで、お釈迦様が覚りを得た精神的段階・肉体的段階を追体験しようじゃないか、というところから生まれた瞑想法なのでしょう。しかも、ただ瞑想するだけでなく、お釈迦様の覚りへ至る変化を誰にでも理解できるようにシステム化してあるのです。
このお釈迦様が覚りに至った過程をすっきりと説き明かしているのが、金剛頂経なのですよ。

さて、金剛頂経に説かれているその他のことは、仏教の基礎知識がない方には理解できない内容ですので、ここでは説きません。多くは、様々な作法や祈願法、供養法についてと、金剛界曼荼羅の意味について説かれています。とても難しいので、省略します。特に作法や祈願法、供養法は出家して修行し終えてからしか教えられません。
金剛界曼荼羅については、胎蔵界曼荼羅と共に、解説本が市販されていますので、読んでみるのもいいかと思います。たぶん、多くの方が途中で寝てしまうと思いますが。(面白くないんですよね、学者さんの書いていることは・・・)。



3、理趣経(りしゅきょう)
理趣経は、私たち真言宗の僧侶は、毎朝読んでいるお経です。密教のお経で数少ない「読むお経」の一つです。
密教のお経は、「読むお経」というよりも、「実践するお経」が多いのです。「読むお経」とは、「読むことで功徳がある」というお経です。大乗経典のほとんどが、この「読むだけで功徳があるお経」です。読むだけで功徳があるのですから、お坊さんも在家の皆さんも、読むんです。
ところが、密教のお経は、「読むだけで功徳がある」というお経は少ないのです。読むだけじゃダメ、書いてあることを実践しなきゃ・・・・、というのが密教のお経なんですね。座って読んでるだけじゃ功徳はないですよ、実際にこういう瞑想をし、こういう供養の仕方をし、こういう修行をしなさい、と書いてあるのが密教のお経なのです。ですので、「読むこだけで功徳があるお経」というのは、大変少ないのです。理趣経は、その貴重な「読むお経」なのです。

理趣経というのは、正式名を「大楽金剛不空真実三摩耶経(たいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう、実際に読むときは、読み方が違います)」と言います。さらに詳しく言えば、この経題に「般若波羅蜜多理趣品(はんにゃはらみったりしゅぼん)」というサブタイトルがついています。このサブタイトルからもわかるように、理趣経は「般若経」系のお経でもあります。
「般若経」とは、あの西遊記の三蔵法師で有名な「玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)」が天竺(インド)から持ち帰ったお経のことです。玄奘三蔵が持ち帰ったお経の多くは、「般若経」だったのです。全部で600巻あります。その流れを汲むのが、般若経系のお経といわれるものです。般若部に属するお経、ともいいます。その中の一つに理趣経も入っているのです。
ここで、
「理趣経は密教経典なのに、なぜ般若部に所属するの?」
という疑問を持った方は、大変仏教やお経に詳しい方ですね。そう、般若経系のお経は、空を説くために密教経典とは、次元が異なっています。しかし、理趣経の内容は、そもそも般若経の中の一部分から発展した内容なのです。単なる般若思想から密教系般若思想へ、そして理趣経へと発展しているのです。
つまり、般若経にすでに密教的要素があったわけです。(ちょっと専門的になってしまいました。適当に読み流してください)。とまあ、理趣経は般若経の流れを汲む、ということですね。

もう一つ、ちょっと専門的で申し訳ないのですが、般若経といえば、そのテーマは「空」です。ところが、理趣経の正式な経題をもう一度よく見てください。「大楽金剛不空真実三摩耶経」でしたよね。なんと、お経題に「不空」という言葉が含まれていますよね。
仏教は「空を説く宗教」といわれます。仏教の思想の中心は「空」である・・・と。これは、仏教を知らない方のセリフなんですよ。ひどいのになると、「空」=「覚り」、覚りは空であり、空は覚りである、なんて解説してある仏教の本があったりします。
これは間違っています。仏教の覚りは、空で終わっているわけではないのですよ。ですから、般若経は「未完のお経」と言われるのです。これは、「まだ覚りの内容を全部説き明かしていないお経」という意味です。

仏教は、「空」で終わってはいません。「空」を悟ったうえで、その「空」の状態で「現実を悟り」、「救い」を行うのが大乗です。そしてさらに、「空」を悟り、その「空」から「現実」に至り、そこで「不空」を覚る、のが密教です。難しく言えば、「空を覚った上で不空を覚る」です。わかりませんよね・・・・。まとめると、こうなります。
般若経系・・・・「空」をテーマとしている。空になればよい。
大乗経典・・・・「空」を悟り、その境地を維持しながら「現実的救い」を実践する。
密教経典・・・・「空」を悟っても、その「空」にとどまらず、「不空の世界」を覚る。その不空とは、「大いなる安楽な世界」で、「永遠に清浄なる世界」の境地である・・・・、となるのです。あぁ、やっぱり難しいですね。

が、その難しい世界・境地を説き明かしたのが、理趣経なのです。「不空の世界」、すなわち「大いに安楽であり、金剛石のように堅固であり、空しくなく、真実であり、何の不足もない満足なる世界」を説き明かしたのが理趣経なのです。
つまり、理趣経は般若経系のお経にも関らず、「空」を説かず「不空」を説いてしまっているお経なのですよ。ですので、「現実肯定」的な内容ですし、読み方を間違えると、とんでもない内容になってしまいます。昔から、読むものの理解が浅いために多くの誤解を生んできたお経でもあります。理解が浅かったり、密教的経験や修行がないと、間違った理解をしやすいお経で、大変危険なお経でもあるのです。どこが危険かと言えば、理趣経は
「大欲は清浄を得る」(大きな欲望は、清浄である)
ということをメインテーマにしているからです。そのメインテーマに基づき、色々な欲望を肯定している部分があるのです。ですから、読み方を間違えると、とんでもない内容になってしまうのです。
ですから、真言宗では、お大師様がいらしたころより、理趣経は秘密のお経として、密教的実践を伴わない者には読ませない、という姿勢をとっています。正しい師の下で修行をしたものに対して授けられるお経なのです。
実際、読み方や発音も一般のお経の読み方と異なっていますから、自分で勝手にお経本を買ってきて読んでみてる・・・・ということをしても、読めないようになっています。真言宗のお坊さんに教えてもらわないと読めないようになっているんですよ。

理趣経の内容に入る前に、この理趣経が如何に重要で危険なお経であるか、ということを如実に語っているエピソードがありますので、紹介しておきます。それは、弘法大師空海さんと最澄さんが仲たがいした原因になったのが理趣経だった、というお話です。
お大師様と最澄さんは、同じ時期に唐に渡って仏教を学んでいます。お大師様は密教を、最澄さんは天台の教えである法華経を、それぞれ学んで唐から日本へ帰って来ました。最澄さんの方が早く日本に戻ってきています。最澄さんは、国の命で天台の教えを学びに行ったのですが、帰国すると日本ではちょっとした密教ブームになっていました。唐から帰って来たばかりの最澄さんにも法華経よりも密教を・・・と求められたのです。最澄さんも日本に帰る寸前に、少しだけ密教をかじっていました。しかし、それだけでは全く世の中のニーズにはこたえられません。そんなころ、完全なる密教をマスターしてきたお大師様が帰国したのです。お大師様は一躍スターに・・・・となるのですが、それは少々あとのことです。
さてはて、都は密教ブーム。天皇は最澄さんを脇にどけ、お大師様を重用します。しかし、最澄さんは真面目な方ですので、ひがんだり妬んだりはしません。ただし、自分の宗派「天台宗」に不備があるのは、許せなかったようです。最澄さんは、天台宗はすべての仏教を網羅している宗派として位置づけたかったようです。ところが、密教の部分が不十分なんですね。で、お大師様に不足しているお経を借ります。
「○○という密教経典がないのです。お貸し願いませんか?。」
という手紙を最澄さんが出します。するとお大師様が
「いいですよ。」
と答え、密教経典を貸してあげていました。ただし、
「でもねぇ、最澄さん、密教はね、実践がないと理解できませんよ。法華経にしがみついていないで、密教的実践をしてみてはどうですか?。そちらにいては、本当の密教は理解できませんよ。経典の文字だけを追っていては、間違った理解をしてしまいますよ。」
という注意をしていました。最澄さんほどの方が、それを理解できないとは思えなかったのです。ところが、最澄さんは、そのお大師様の真意が理解できなかったようなんですねぇ・・・・。

ある日のこと。一通の手紙がお大師様の元に届きます。その手紙には、
「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)を貸して下さい。」
とありました。「理趣釈経」とは、「理趣経」の解説本ですが、その内容は大変難しく、簡単には開示できない内容です。もちろん、修行や瞑想を伴った上、師の解説がないと全く理解できないような解釈本なのです。
「それを貸せと言うのか・・・・。あの方は、密教をなんと思っているのか・・・・。」
お大師様にとっては、大いにショックだったことでしょう。師がいなければ理解できない内容の本を、簡単に貸してくれと言う、その最澄さんの態度にはあきれてしまったことでしょう。
で、お大師様は「理趣釈経」は貸せないと言う内容の手紙を送ったのですが、これが結構辛辣な内容でして、知らない人が読めば、
「お大師様ってなんて嫌なヤツなんだ。すごく意地悪だ!。サイテー。」
と思われるような手紙なんです。これがきっかけで、お大師様と最澄さんの中は決裂してしまうのです。そもそもは、密教が理解できなかった最澄さんがいけないんですけどね。お大師様にとっては、
「もう少し理解できると思っていたのに・・・・。残念な方だ・・・・。」
ということだったのです。
(それから時代をへて、最澄さんの弟子たちが唐に渡り、日本の天台宗は密教になっていくのです。)

理趣経とは、それほど内容が難しいものなのですよ。字面だけで理解しようとする態度では、とうてい理解できません。もし、これを読んでいる方の中で、密教を学びたい、と思っている方がいらっしゃるのなら、字面だけで学ぼうなんて甘い考えは捨ててくださいね。
また、「俺は密教を知っているんだ」とか「密教を勉強している」などと言う方がいましたら、実際に師について修行をしているか聞いてみてください。その方が、ちゃんとお寺や真言宗や天台宗各本山で修行(加行・・・けぎょう、といいます)をしていればいいのですが、そうでない場合は本だけで自分勝手に勉強しているだけでしょうから、信じてはいけません。密教は、必ず実践が伴わないといけないものなのです。


3、理趣経(りしゅきょう)のA
まずは、題名の意味についてお話いたしましょう。
理趣経の本当の題名は、「大楽金剛不空真実三摩耶経(たいらくこんごうふくうしんじつさんまやきょう)」といいます。意味は、字の通りです。すなわち、
「大いなる安楽を得さしめ、金剛の如く堅固で空でない、真実で永遠の境地を説き明かしたお経」
となります。
「三摩耶」とは、「サンマヤ」の音写で、本来の意味は、「絶対的瞬時」のことを言います。どういうことかといいますと、「過去・現在・未来という時の流れ」ではなく、如来が法を説く瞬間のことを意味しています。この時間は、一般的な時の概念を超越した時、一瞬の時の中にすべての時の流れを含む時、という意味になるのですが、難しいですかねぇ。
一瞬の時にの中に永遠の時が含まれている、ということなのです。一瞬にして永遠という、ちょっと矛盾した概念なのですが、まあ、これが「サンマヤ」の本当の意味だということです。

「サンマヤ」には、もう一つ意味があります。それは、「如来(仏陀ですね)と衆生は、本来平等」という意味です。「仏と衆生は不二一体」とも言います。しかし、これでは意味がわかりませんよね。
密教では、元来、衆生・・・命あるもの・・・は、仏(如来)と同じ命を持っている、と解釈します。これが即身成仏の思想のもとですね。仏陀となったお釈迦様も、元々は我々と同じ人間じゃないか、同じ命じゃないか、どこが違うのだ、という考えが密教にはあります。そうであるなら、我々一般の人間だって仏陀になれるだろう、ということです。これが即身成仏の思想ですね。
つまり、仏陀ももとは我々と同じ人間である、すなわち、仏も衆生も本来同じ、平等じゃないか、ということです。そうであるなら、我々一般の人間だって救われないはずはないし、仏だって我々一般の人間を劣っているといって見放すわけがない、のです。
そこから発展して、「サンマヤ」は、「仏が人々を救うという誓い」のことを意味するようになりました。つまり、お釈迦様の、
「私も、もとは人間なのだから、あなたたちも私のようになれるのですよ。そうなれるように導きましょう。あなたたちが、救いを求めるならば、仏陀になれるように導きましょう。」
という思いのことを意味するようになったのです。それを広く解釈するようになり、「サンマヤ」は、すべての仏・菩薩の衆生に対する救済の誓い、のことを意味するようになったのです。

ということで、理趣経の本来の経題の意味は、
「このお経を読めば、大いなる安楽が得られるだけでなく、とても堅固で疑う余地のない、空しくない真実の教えと衆生救済の誓いが説かれている、そういうお経である」
となるでしょう。理趣経を読めば、安楽になるだけではなく、瞬時の中に永遠の時を知るような、空しくない真実の救済を得られる、ということですね。それはどんな境地か・・・。まあ、実践してみなきゃわからないことです。味わいたい方は、師に従って修行をしてください。とはいえ、簡単には得られない境地でしょうけど・・・。


さて、いよいよ、理趣経の内容に入ります。まずは、全体像についてお話しましょう。
理趣経は、17段に分かれています。17段といっても、たった一行の段もありますし、結構長めの段もあります。内容は、それぞれの段によって異なっています。が、およそ全体的に共通の思想があります。それは、「現実肯定」と「一切清浄」という考えです。
密教はそもそも、現実肯定の教えです。死んでから極楽へ行く、というのではなく、生きているうちに幸せになれ、というものです。また、現実的生活や欲求をも認め、それは本来清浄なる営みである、という考えを持っています。そうした思想が、たとえ話などによって説かれているのが、理趣経なのです。ですので、
「えっ、お経なのにこんなこと説いていいの?。」
などという内容も登場するのです。そこが誤解の元になったりするのですが・・・。
さて、それでは17段それぞれを見ていきましょう。お経には、不釣合いな言葉も出てきますが、それはたとえ話ですから、誤解のないよう、心の準備をしておいてください。

第一段(初段)。
教えを説くのは、大毘盧遮那如来です。聞き手は、金剛手菩薩(こんごうしゅぼさつ)・観自在菩薩(かんじざいぼさつ)・虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)・金剛拳菩薩(こんごうけんぼさつ)・文殊菩薩(もんじゅぼさつ)・纔発心転法輪菩薩(さいはっしんてんぼうりんぼさつ)・虚空車菩薩(こくうこぼさつ)・摧一切魔菩薩(さいいっさいまぼさつ)の八大菩薩らです。これらの菩薩の詳細については、ここでは省きます。
さて、どの場所で教えを説いているのかといえば、他化自在天の宮中の大摩尼殿という宮殿です。ここに大日如来をはじめ、八大菩薩らが集まっているわけです。
で、ここで説かれるのが、「十七清浄句」といわれる教えです。これが、理趣経の最重要の教えなのですが、同時にこの教えは最も誤解を生むもととなった教えでもあります。つまり、大変、危険な教えでもあるわけです。それを説きましょう。

@妙適清浄句是菩薩位
「妙適(みょうてき)清浄(しょうじょう)の句、是れ菩薩の位なり」という語句が十七清浄句の第一番目に説かれます。これが実は衝撃的なのです。なぜなら・・・。
「妙適」とは、「男女の交わり」を意味している言葉なのです。つまりは、性行為ですね。ということは、先の句は、
「男女の性行為は、清浄であって、菩薩の位である」
となってしまいます。「菩薩の位」とは、言い換えれば「菩薩の境地」と同じ意味です。ということは、
「男女の性行為は、清浄であって、菩薩の境地である」
となります。びっくりでしょ。お経にこんなこと書いていいのか!、と思うでしょ。これを目にした坊さんは、今風に言えば、
「マジかよ〜、いいのかよ〜、こんな教え。ということはさぁ、Hしていいんじゃねぇの?。俺ら戒律守ってるのバカみてぇじゃねぇ?。やっちゃおうか、H・・・。」
となってしまうことでしょう。これが、大きな誤解を生むのですよ。

これは、当然、男女の性行為を奨励しているわけではありません。菩薩の境地に至るため、たくさんHしなさい、といっているわけではありません。誤解のないよう、正しい理解をしてください。
これは、たとえ話をしているのです。それはつまり、こういうことです。ある人が、仏様に
「菩薩が、衆生を救うときの境地は、どんな気持ちなのでしょう?。」
と尋ねたとします。すると、仏様は、それに対する答えとして、こう説いたのです。
「そうだね、たとえば、あなたたち人間の男女は、性行為をしますね。そのとき、どんな気持ちですか?。」
「そりゃあ、もう、言葉では言い表せないくらい気持ちいいですよ。快感ですな。」
「そうですか、それと同じ気持ちなんですよ。」
「えっ?、どういうことですか?。」
「ですから、菩薩が衆生を救うときに感じる気持ちは、あなたたち人間が性行為をするときの快感と同じような気持ちのよさを感じるのです。菩薩は、人々を救済するとき、快感を感じるのです。」
「あぁ、なるほど・・・・。じゃあ、私たちが性行為をしたときに感じるあの快感を、菩薩様は人々を救うことによって感じているんですね。」
「そういうことですね。」
というわけで、この「菩薩が人々を救うときの気持ち」を質問した人は理解したのです。

菩薩の気持ちを我々に理解させようとしても、簡単にはわからないでしょう。菩薩になったことがないのですから。となると、たとえ話を用いるしかありません。で、人間が最も快感を得ることを、そのたとえ話として用いたわけです。
つまり、菩薩が人々を救うときに感じる気持ちは、人間が最も気持ちよく感じるその境地と同じ快感なわけです。平たく言えば、Hしているときの気持ちよさを、菩薩は人を救うときに感じているわけです。

さらに・・・・。
これはあとの清浄句にも関ってくるのですが、快感というものは、それ自体はなんら悪いことではありません。快感を感じるというのは、生き物である以上、極自然の感覚です。ただ、その快感を必要以上に求めるから間違いが生じるだけです。快感自体は、なんら汚れもないことなのですよ。そこをこの清浄句は説いているのです。つまり、本来は清浄である、ということですね。
性行為の快感自体、本来は清浄な感覚、境地なのです。それに執着し、必要以上に追い求めるから迷いが生まれ、苦しみが生まれるだけなのです。それなのに、さも快感が罪であるようなことを説くから、理趣経では、根本に立ち返り、
「快感自体が間違っているわけではなく、快感を追い求め執着する方が間違っている」
という立場をとったのです。つまり、
「快感そのものは清浄である」
のです。これが、この第一の清浄句で説きたかったことですね。

これは、いわば
「道具が悪いのではない。道具を使う人間が悪いのだ」
ということと同じなのです。たとえば、カッターナイフが悪いのではありません。それを悪用する人間が悪いのです。カッターナイフ自体は、悪でも善でもないのです。それ自体は単なる道具なのですから。それなのに、カッターナイフにより事件や事故があると、カッターナイフ自体が悪いような言い方を世間はするでしょ。特にそうした事件が学校内であったりすると、学校でのカッターナイフ使用が禁止されたりしますよね。これっておかしいでしょ。
こうした誤った考えが世の中結構はびこっているのです。

道具が悪いのではない、それをどう使うが問題なのです。
快感が悪いのではない、それに執着するかどうかが問題なのです。
道具も快感も、本来清浄なのですよ。
このことをこの第一清浄句では説き明かしているわけです。同様に、これに続く清浄句も、「本来は清浄」ということを様々な例をあげて説き明かしているのです。




ばっくなんばあ〜11


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