ばっくなんばぁあ〜11

第 五 章

「密教のお経」

3、理趣経(りしゅきょう)のB
前回は、十七清浄句のうち第一の清浄句「妙適清浄句是菩薩位」についてお話いたしましたので、今回はその続きをお話しいたします。

A欲箭清浄句是菩薩位・・・・「欲箭(よくせん)は清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
これが、二番目の句です。「欲箭」とは、「欲望の矢」のことです。欲望の矢がビューンと飛んでいくこと、を意味しています。たとえば、
「あ、あの時計欲しい!。絶対欲しい!。」
「あ、彼女、いい女だな、絶対ものにしたい!。」
「あ、素敵な男性!。ぜっ〜たいお付き合いしたい。」
と、このような「欲しい」という思いは、本来清浄であり、それは菩薩の思いと同じである、というのがこの語句の意味です。
こりゃまた、大変な解釈です。仏教は「欲望はいけません!」という教えなのに、「欲しい」という欲望が清浄であり、菩薩の思いと同じだなんて、そんなことが許されるのでしょうか?。
ここが密教の奥深いところなんですね。

菩薩が、人々を救いたいと願うその気持ちは、実は、人々が誰かを素敵だ、お付き合いしたい、と言う気持ちと同じなのです。人々が、何か気に入った品物を欲しい、と思うその気持ちと同じなのです。
人々が、「あ〜、あれ欲しいな、絶対に欲しいな」と思ったときの気持ちは、菩薩が「あ〜、あの人を救わねば、救ってあげなきゃ」と思ったときの気持ちと同じなのですよ。
菩薩が「救いたい」と願うのも欲望ですからね。対象が違うだけです。方向性の違いですね。ただし、気持ち的には同じである、ということなのです。
だから、欲望自体は清浄なのですよ。すなわち、
「あ〜、あれ(あの人)素敵だな。手に入れたいな」という欲=「あ〜、あの人を救いたいな。救わねばいけないな」という欲
ということなのですね。
こうしてみれば、「欲も清浄である」とわかるでしょう。

B触清浄句是菩薩位・・・・「触することは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
人は、「欲しい」と思ったら、次にどのような行動をするでしょうか?。たとえば、欲しいと思った対象が、洋服だったとします。ほとんどの方は、欲しいと思ったら「手にとってみる」、「触れてみる」、「試着してみる」という行動をしますよね。通販の場合は別として。(通販でも、欲しいものが手元に来たら、まず触れてみますよね)。
そう、ほとんどの方は、欲しいものに対して、接触を試みるのです。それがモノであれ、人であれ。

「手に入れたい」、「知り合いたい」・・・・などと思ったら、手にとってみたり、何らかの接触を持とうとするでしょ。アクションを起こしますよね。これが「触」にあたるのです。
欲望が清浄なのだから、当然、接触を試みることも清浄でしょう。菩薩でも、人々を救いたいと願ったら、その救う対象に人に接触を試みるでしょう。アクションを起こすのです。それと同じなのですよ。すなわち、
「対象に触れたい。触れよう」という気持ち=「救う対象者に接触を試みる」という気持ち
なのです。
好きなもの、好きな相手に「触れたい」と思うのは、自然な気持ちであって、その思い自体は清浄なのですよ。その時の気持ちは、菩薩が救いたいと思った相手に接触を試みようとするときの気持ちと同じなのです。

C愛縛清浄句是菩薩位・・・・「愛で縛ることは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
好きな相手に接触を試みて、うまくいった場合、その相手を独占したくなるのは当然のことでしょう。浮気はされたくないですよね。誰もがそう思います。それは、対象がモノであっても同じです。自分が気に入っているものは、他人には貸したくないものです。他人には触れられたくないものですよね。自分ひとりで独占したくなります。この独占のことを「愛縛」といいます。「愛情で縛る」のです。その気持ち、これも清浄であって、菩薩の気持ちと同じなのです。

菩薩も、人を救いたいと願い、その対象者との接触もうまくいき、対象者が仏法を信じ始めたら、「よそに気持ちを動かさないように、他の誘惑にさらわれないように」と強く思うのです。折角、救いの手を差し伸べ、それに相手が乗ってくれたのです。ちょっと調子よくなってきたからといって、他の間違った教えへフラフラと行かれては困るのです。それでは、元の木阿弥・・・・。その人の生涯が終わるまで、仏法を信じ続けて欲しいと菩薩も強く願うのです。いわば、仏法と添い遂げて欲しいのです。
人は、今目の前にある苦しみから救われると、その救いをもたらしてくれた仏法を忘れてしまうんですね。のどもと過ぎれば・・・なのです。それでは、本当の救いにはなりません。人生を終えるまで、仏法を学び続けて欲しいのです。それでこそ、本当の救いなのです。これは、仏法以外に浮気して欲しくない、仏法だけを見ていて欲しい、と言い換えられますよね。
すなわち、
「好きな人、気にっているものを独占したい」=「救った対象者には、仏法を信じ続けて欲しい」
なのです。人間の愛縛も、菩薩の想いも、根本的には同じなのですよ。

D一切自在主清浄句是菩薩位・・・・「一切自在の主であろうとすることは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
一切自在主というのは、「すべてを自由に支配しようとすること」、です。
人間は、我が侭です。自分が得たものを自分の自由にしたい、と思うようになるのが自然なのです。それが、モノであろうと人であろうと。周りの人や自分の愛する人には、自分の言うことを聞いて欲しい、自分の欲求や願いを聞いて欲しい、と思うものです。また、自分の所有物ならば、自分の自由にしたい、と思うものです。それが、自然な心の働きなのです。

菩薩もまた、基本的に同様の想いを持ちます。救った相手を自分の思うように指導していきたい、と願うのです。そして、救い主の菩薩に対し、崇拝するように望みます。そうすれば、救いの道は続くのであり、仏教を学ぶことは継続されるからです。なれば、救われたものは、迷うことはないでしょう。
すなわち、
「手に入れたものや人を自由に支配したい」=「救った対象者をそのまま指導し続けたい」
なのです。人の持つ支配欲も、菩薩の指導欲も根本的には同じなのです。

E見清浄句是菩薩位・・・・「見ることは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
唐突なんですが、ここで「見る」という欲望が清浄である、という教えになります。これまでは、少々過激な内容でしたが、ここでは、「見る」ことが清浄であると説きます。
とはいえ、単なる「見る」ではありません。「愛情を持って見る、愛欲を持って見る」ことが菩薩の見ることと同じだと説いているのです。単に「見る」だけでは、菩薩の気持ちと同じではないのですよ。
愛する人、いとしい人を見るのは、ただ見るのとは違いますよね。それは、誰にでもわかると思います。人でなくてもモノでもいいです。好きなもの、欲しいものを見る目と言うのは、普通の目とは違います。なんというか、執拗な目であったり、ねっちりした目であったり、色気のたっぷりな目であったりしますよね。そこには、想いがたっぷり含まれています。

菩薩が、衆生を救おうと眺めるときの目もそういった目なのです。衆生に対する想いがたっぷり含まれているんです。人々を愛する目であり、愛しく思う目であるのです。人間と違うのは、対象が一人であるのに対し、菩薩は一切の人々である、ということでしょう。この人は嫌・・・などとは菩薩は思わないのです。
とはいえ、菩薩の人々を見る目は、我々が愛する人を見る目と同じなのですよ。すなわち、
「愛する人を見る目」=「菩薩の人々を見る目」
なのです。だから、愛情を込めて見ることは清浄なのです。

F適悦清浄句是菩薩位・・・・「適悦を得ることは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
「適悦(てきえつ)」とは、一般的に男女が性交、あるいは抱き合って得られたときの気持ちです。前回お話した十七清浄句の一番目の「妙適」と同じような意味ですが、「妙適」は、恍惚感を伴う快感です。大変深い快感と言いますか、なんといいますか、快感の度合いが「適悦」とはちょっと違うのです。「適悦」は、異性を抱いた喜び、異性に抱かれた喜び、といったところでしょう。「妙適」とは別種の快感ですね。(お経なのに、この詳しさはなんだ?、と思うかもしれません)。
つまり、「妙適」は完全なる男女の交わりにおける快感(絶頂感)であり、「敵悦」は異性に身をゆだねたときに得られる安心感のような快感ですね。大人じゃないとわからないかな?、この感覚は・・・・というような安心感的快感です。
というわけで、「適悦」というのは、安心感の伴う快感と理解してください。

菩薩も同様の快感を与えるのです。菩薩の救いに身をゆだねたとき、大きなやわらかいものに包まれたような安心感のある快感を得られます。そう、大好きな男性の胸に抱かれたときのような、そんな安心感です。
また、菩薩自身も人々を救ったとき、大いなる快感を得るのです。大きな気持ちで人々を包んでいるのだ、という安心を与えているという快感ですね。大好きな女性を抱きしめ守ってやりたい、とそう思ったときの快感です。
菩薩の抱く思いも、人々の抱く思いも同じなのですよ。すなわち
「愛する人に抱かれたときの安心感」=「菩薩に救われたときの安心感」
「愛する人を抱きしめたとき感じる守ってやりたいという思い」=「菩薩が人々を守ろうとする思い」
なのです。異性を抱きしめたたきに得られる気持ちは、本来は清浄なのですよ。


3、理趣経(りしゅきょう)のC

G愛清浄句是菩薩位・・・・「愛することは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
これは理解できるのではないでしょうか。愛は、清浄であり、それは菩薩の境地と同じである、と言う意味です。
本来、仏教では「愛」を否定します。愛は人々の心を惑わす元であり、様々な苦しみを与える元である、と解釈するのが仏教です。愛を捨ててこそ、覚りが得られるのだ、とも説きます。
が、この場合の愛は、個人的な、小さな欲求の愛、「愛着」あるいは「執着」のことを示しています。仏教で否定する愛とは、そうした執着心のある愛なのです。

たとえば、あなたが誰かを好きになったとします。すごく愛しています。が、しかし、その相手は振り向いてはくれません。こうした場合、その相手のことを忘れることができず、執着してしまい、相手への想いに囚われてしまうと、そこに悩みが生じるのです。何とか相手を振り向かせたい、何とか相手と仲良くなりたい、何とか相手と結ばれたい・・・・、そうした欲求が生まれてくるのです。そして、その欲求がかなえられないがため、悩み苦しみ、イライラし、焦り・・・、となってしまうのです。
この状態のことを仏教では「いけません」、と言っているのです。悩み、苦しみ、イライラしたくないなら、その成就しない愛に執着するな、といっているのです。相手が振り向いてくれないのなら、それは縁が無いのだから想いを断ち切りなさい、といっているのです。つまり・・・。
愛そのものを否定しているわけではないのです。親が子を愛する心、夫婦でお互いが愛し合い大切にする心、そうした愛を否定しているわけではないのです。そこに執着してしまうことを否定しているのです。
それは、「愛」と表現するからわかりにくいのかもしれませんね。「慈しみ」と表現した方がわかりいいと思います。ただし、その元は同じですけどね。いずれにせよ、執着することを否定しているのですよ。

菩薩が人々を慈しむ心は、実は、私たちが愛する人を「愛しい」と思う心と同じなのですよ。ただ、我々の愛は、ごくごく少数に対するものですが、菩薩のそれは、全人類平等に与えられるものなのです。大勢を愛するか、少数を愛するか、の違いだけです。「愛」そのものは、同じなのですよ。
また、菩薩は、人々を愛する気持ちを持ちますが、いくら衆生を慈しんで救おうと思っても、衆生の側がそれに素直に応じなければ、哀れみの心は起こしますが、無理にでも救おうなどと執着はしません。我々人間は、自分の愛が受け入れられないことに不満を感じますが、菩薩はその不満を感じないのです。ここが異なるだけで、愛することそのものは、我々人間も菩薩も同じなのですよ。すなわち、
「我々が愛すること、そのものの気持ち」=「菩薩が救う対象者を慈しむ心」
なのです。


H慢清浄句是菩薩位・・・・「慢心することは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
慢とは、慢心のことです。簡単にいえば
「私はすごい!、やるじゃん!。これ以上、やることはない。」
というような心ですね。これも、仏教では否定している心です。慢心を起こさば、それ以上修行しなくなるため、修行の成果が止まってしまいます。また、慢心は他への優越感にもなり、他を見下すという気持ちを生じさせます。となれば、他への平等意識、差別のない慈悲心という心が妨げられてしまいます。なので、仏教は「慢心することなく修行せよ」というのです。
が、密教では、「慢心は清浄である」と説くのです。
これは、結論を言えば、「達成感を感じることは善いことである」、という意味なのです。
たとえば、菩薩が、ある衆生を救ったとします。その菩薩の思い通りに救えたとき、菩薩は
「おぉ、我ながらなかなか善い結果が得られた。」
と思うことでしょう。それは、私たちが何かを成し遂げ、満足したとき
「俺ってやれるじゃん、すごいじゃないか。」
と自分で自分を誉めている気持ちと、根っこは同じなのです。
つまり、菩薩も我々も、同様の達成感を持つ、同様の慢心を持つのです。異なるのは、菩薩は、その慢心にこだわらない、というところです。

仏教が否定している慢心は、慢心そのものではなく、「慢心に執着している心」なのです。たとえば、ある覚りの段階に達したとします。そのときに、
「あぁ、ついにこの領域まで覚った。うん、我ながらよくやった。」
と思うだけならよいのですが、
「俺は、この段階まで達したんだ。すごいだろ、尊敬しろ。」
なるからいけないのです。仏教は、この部分を否定しているのですよ。つまり、結果に付随する余分な気持ちがダメなのです。
ですから、慢心そのものは、一種の達成感ですから、それ自体が悪いものではないのです。すなわち、
「我々が起こす慢心」=「菩薩が衆生を救ったときに得る達成感」
なのですよ。慢心もその状態で留まって、威張ってしまえば清浄ではないですが、慢心そのものは、清浄なる境地なのです。


I荘厳清浄句是菩薩位・・・・「荘厳することは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
「荘厳」するとは、飾ることを意味しています。お寺に行くと、天井から色々なものが下がっていますよね。金箔された飾りものが、ぶら下がっております。これは、天蓋(てんがい)と言われるもや播(ばん)と言われるものだったりするのですが、こうしたお寺の中を飾ることを「荘厳」といいます。すなわち、「荘厳」とは、「飾る」ことを意味しています。
ここでいう荘厳とは、身を飾ることを意味しています。ですので、その荘厳が清浄であるとは、女性の方が、イヤリングをつけたり、ネックレスをつけたり、指輪をつけたり、ペンダントをつけたり、流行の洋服を身につけたりすることは、清浄である、という意味になります。
なぜ、女性の方はそうした飾り物を身につけるのでしょうか?。それは、人目を引きたいからでしょう。自分自身をより美しく見せたいからでしょう。そうした欲求から身を飾っているのです。
本来、仏教では、身を飾るものは不要である、と説きます。首飾りやイヤリングなどの宝飾品などもってのほか、修行には不必要なもの、修行者は衣三枚あればよい、と説きます。なので、お釈迦様のお姿も、何の飾りもなく、袈裟を身につけただけで表現されます。
ですが、ここでは、仏教で否定している身を飾ることを清浄だとしているのです。それは、菩薩の境地と同じだ、とね。

菩薩の場合、人間よりも派手に自分自身の身体を飾っています。冠を載せ、華やかな衣を身につけ、首飾りやイヤリング、腕輪など、金ピカものを派手に身につけていますね。どの菩薩も派手です。一番地味なのはお地蔵様ですが、それでも、赤い色の衣着たり、イヤリングをつけたりしています。菩薩は、自分自身を目いっぱい荘厳しています。なぜ、菩薩は派手な荘厳をしていいのでしょうか?。

菩薩が荘厳する理由は、人々をひきつけるため、です。貧乏くさい姿をしていては、誰も近付きはしないでしょう。自分ひとりで修行しているのなら、それでもいいのでしょうが、菩薩は、多くの人に認知されなければいけない存在です。多くの人々に好かれなければいけない存在です。また、尊敬されなければいけない存在です。あまりにも貧乏くさい姿では、誰も近付かないし、信用も得られないでしょう。
いくら偉そうな教え・・・幸せになるための教え・・・を説いても、その教えを説いている者自体が不幸であったら、誰がその人の教えを信用するでしょうか?。それと同じで、貧乏くさい菩薩なんて、誰が救いを求めるでしょうか?。貧乏神と間違っちゃいますよね。なので、菩薩は、人々を救うための方便として身を荘厳するのです。

これって、人間が身を飾ることと同じ理由ではないでしょうか?。人間も、身を飾り流行ものを身につけるのは、周りの人間に認められたいからでしょう。認知されたいのです。より多くの人にね。そうしたところから、会話が生まれ、友人ができ、人々のつながりが生まれることもありますし、また、信用を得られることもあるのです。公式の場に、Tシャツ姿で現れては信用が得られないのは当然でしょう。いくら外見で判断はしてはいけないとはいえ、貧乏くさい人とは、あまり関り合いになりたくないのが常識ですよね。お金を貸してくれ、とか言われたら困ってしまいます。となれば、ある程度、飾らなければ世の中では認められないことになります。過ぎれば嫌味ですけどね。

ここなんです、仏教で否定しているのは。否定されるべきは、荘厳そのものではなく、荘厳することにこだわる心を否定しているのです。荘厳しすぎることを否定しているのです。荘厳に心を奪われてしまうことを注意しているのです。
荘厳の目的は、我々も菩薩も人の目を引くことにあります。その目的を忘れ、荘厳そのものに心を奪われてしまうことがいけないと注意しているのですよ。ですので、荘厳そのものを否定しているわけではないのです。なので、
「我々が身を飾り人目を引くこと」=「菩薩が身を荘厳し人目を引くこと」
なのです。菩薩も我々も同じ行為をしているのですよ。


J意滋沢清浄句是菩薩位・・・・「意滋沢(いしたく)であることは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
「意滋沢」とは、すべて思うようになって十分満足することを意味しています。簡単に言えば「余は満足じゃ」の状態ですね。
満足を得ることは、それはよいことでしょう。満足自体、仏教は否定していません。むしろ、今の状態で満足しなさい、と説いています。満足を知る者は常に富める者である、という言葉もあります。
ただし、仏教で言う満足は、「今の状態での満足」です。が、密教で説くところの満足は、「すべて思うようになって満足する」ことです。欲が深いんですよ、密教は。

これは、菩薩の境地で言えば、「すべての衆生を思うように救うことができたときに味わう境地」でしょう。そうした満足なのです。つまり、完全なる満足ですね。
人間で言えば、何か計画をしていて、あるいは、何か目的があって、それがすべて思うようにうまくいった時に味わう「満足」のことでしょう。仏教で言う「現状に満足」とは、満足の仕方が違いますよね。

密教と言うのは、積極的に生きることを否定していません。自分の欲から生まれる目標に向かって突き進むこと、そのためにはいろいろな方法を使うこと、を否定しません。最終的に、十分な満足が得られればよいのです。そのためには、仏様も力を貸しましょう、というのが密教です。そうした方便を多用し、仏様の力を見せつけ、満足を与えるのが密教です。そうして、仏様の存在を知らしめるのですね。ここが、仏教の発展型といわれる理由です。

我々も、菩薩も自分の目標に向かって努力し、それを達成したとき得られる満足感は同じなのです。規模が小さいか大きいかの違いだけです。根っこの部分は同じなのですよ。なので、あなたが何か目標を達成したとき、
「ああ、よかった。これで満足だ」
と思った気持ちは、菩薩が人々を救った時に得られる満足感と同じなのですよ。なので、
「我々が、自分が思うように事が運び目標が達成され満足した気持ち」=「菩薩が人々を思うように救えたときの境地」
なのです。


K光明清浄句是菩薩位・・・・「光り輝くような気持ちになることは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
「光明」とは、光り輝くことですが、ここでは、「満足が得られ、明るく輝くような気持ちになること」を意味しています。
何かを達成し、満足が得られると、それは自信になり、人は輝いて見えるようになりますよね。世間で成功を収めている方は、しばしば、「光り輝いている」・・・という表現で賞賛されます。それと同じです。人は、何か一つ達成するたび、何か一つ喜びが得られるたび、何か一つ満足が得られるたび、光り輝いていくものです。

菩薩も同じなのです。衆生を救い、満足が得られるたびに、その輝きは増していくのです。喜びに自ら光り輝くのです。我々が、喜びに輝くように、満ち足りた気持ちに輝くように、菩薩も輝くのです。その時の気持ちは、菩薩も我々も同じなのですよ。
ですので、あなたが、何かを達成したり、あるいは、何かを得て、満ち足りた、喜びに溢れた気持ちに輝いたとき、それは菩薩が人々を救い満ち足りた境地に至り光り輝いている気持ちと同じなのです。すなわち、
「人間が、満ちたりで喜びで光り輝くような気持ちを持つ」=「菩薩が人々を救い、満ち足りて光り輝くような境地にいる」
なのですよ。菩薩も、私たちも同じような気持ちを持つのですね。



3、理趣経(りしゅきょう)のD

L身楽清浄句是菩薩位・・・・「身体が安楽であることは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
身体的に安楽を願う、あるいは身体的安楽を求めることは、清浄なのです。これは、理解できると思います。欲はいけない、と仏教では説きますが、そう説きながらも真実の安楽を求めよ、とも説きます。矛盾しているようですが、矛盾はしていません。なぜなら、小さな欲・・・我欲を捨てれば、真実の安楽が得られるのですから。つまり、真実の安楽を得るために、小さな我欲を捨て去るのです。ところで、真実の安楽とはなんでしょう?。
それは、何の憂いもなく、不安や恐怖がなく、不平不満もない状態のことです。そういう状態であれば、全く悩みなどは生じないでしょう。いつ何時どんな問題がおきようとも、真実の安楽にあれば、何の不安や恐怖もないでしょう。そうした、どのような状況にあろうとも、平穏で恐怖や不安がなく、不平不満のない状態を真実の安楽と言うのです。
これまでの清浄の句は、心に関することでした。心が満足すること、それは本来清浄なのだ、と説いてきました。男女の交わりを例え話として使って。ここでは、身体が安楽であること、それが清浄であると直接に説いているのです。

心も身体も、安楽を求めています。苦痛を避け、楽を求める・・・・。それ自体は、何の穢れもありません。当たり前のことなのです。苦を避け楽を求める・・・。これは、人間ならば、当然のことなのです。
よく、苦行を求める方がいます。あえて苦しい立場、苦しい修行を望む方がいますが、それは、その苦行をやり遂げたときに感じる快感、安楽を欲しているからです。つまり、苦行の先には、安楽が待っているのですね。その安楽をより強く感じたいがために、苦行を望むのですよ。従って、苦行を望んでいるものも、実は安楽を求めているのです。
心身の安楽を求めることは、当然のことであって、汚れていることではありません。その気持ちがなければ、覚りなどは得られないでしょう。そもそも心身の安楽を得たいという欲は、覚りたいという欲と同じなのですからね。つまりは、菩薩が覚りを得たい、と望む心そのものなのですよ。従って、
「身体の安楽を求める欲」=「菩薩が覚りを得たいと望む心」
なのです。

以下、M〜Pはまとめて説明いたします。
M色清浄句是菩薩位・・・・「この世の現象を見ることは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
N声清浄句是菩薩位・・・・「この世の音を聞くことは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
O香清浄句是菩薩位・・・・「この世の香りを嗅ぐことは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
P味清浄句是菩薩位・・・・「この世の味を味わうことは清浄であるという句は、これ菩薩の位なり」
これらの句は、こうして並べるとすぐに気が付くことがあると思います。一番初めの語を上から下へ読んで見てください。「色声香味」となっていますね。これ、どこかで見たことがありませんか?。
そう、般若心経です。般若心経では、「色声香味触法」となっています。これは、人間が行うすべての事柄のことです。

色・・・これは、この世の現象を目で見る、ことです。目による認識のことですね。
声・・・これは、この世で聞ける音を聞くことです。耳による認識です。
香・・・これは、この世で嗅げる匂いを嗅ぐことです。鼻による認識です。
味・・・これは、この世で味わえるすべての味を得ることです。舌による認識です。
般若心経では、これらに接触(触れることですね。身体で感じる認識です)と、法(心で感じる認識です)が加わっていますが、接触や心については、すでに説いてしまっています(接触は第B句、心については他のすべて)から、ここではあえて省いているのです。
般若心経では、これらの「色声香味触法」は、すべて空である、と説いていました。空であるから、清浄であるとか、不浄であるとかという分別からは、離れている、と説いていました。(詳しく知りたい方は、ばっくなんば〜2を読んでください。一番下にリンクがあります)。

空である、ということは、こだわるべきではない、こだわってはいけない、ということです。目で見える現象も本来空なのだからこだわるな、と説いているのです。音も空なのだから、こだわってはいけない、とらわれてはいけない、と説いています。香りもそう、味もそうです。本来空であるのですから、とらわれてはいけない対象なのです。
ところが、理趣経では、こうした「色声香味」は、清浄である、と説きます。般若心経の教えに反しているのです。尤も、今までの清浄句も他のお経の内容に反してはいますけどね。いまさら、驚きはしないでしょう。
なぜ、色声香味は清浄なのか。
答えは簡単です。見ること自体は、何の穢れもありません。菩薩だって見ます。仏様だって見ます。菩薩の見る行為は不浄なのでしょうか。仏様が衆生を見渡すとき、不浄な目で見るのでしょうか?。
そうです。見ると言うこと自体は、不浄でもなんでもありません。不浄でないなら、清浄でしょう。何かにこだわった、偏った見方をするから不浄になるだけで、平等に見る眼を持っているなら、見ることは清浄なのですよ。嫌らしい目で見るから不浄になるだけです。単に見る、という行為には不浄も何もないのですよ。菩薩と同じ目なのですから。

これと同じように、音を聞くことも、単に聞くという行為ならば、不浄ではありません。菩薩も衆生の声を聞いて救いの手を差し伸べるのです。聞くこと自体が不浄であれば、菩薩の行為も不浄になってしまいます。この世の音を聞くことは、清浄なのです。
香りを嗅ぐことも、味わうこともその行為そのものは、不浄ではないのです。やってはいけない、ということではないのです。避けるべきものではないのです。
避けるべきは、その見たもの、聞いた音、香り、味にしつこくこだわる心だけなのですよ。行為そのものは、忌み嫌われるべきものではないのです。菩薩でも同じ行為をするのですからね。従って、
「この世の現象を見ること」=「菩薩が衆生を見ること」
「この世の音を聞くこと」=「菩薩が衆生の声を聞くこと」
「この世の香りを嗅ぐこと」=「菩薩が芳香を嗅ぐこと」
「この世の味を味わうこと」=「菩薩が美味を味わうこと」
となるのです。我々が日頃行っている行為は、菩薩が行っている行為と、基本的には同じなのです。だからこそ、菩薩になれるのですよ。

そうなのです。ここが一番重要なのです。我々が行っている日頃の行為は、菩薩が衆生を救うために行っている行為と、基本的は同じなのです。異なるのは、我々は、あくまでも個人的、小さい範囲内、というだけのことです。菩薩は、広いのです。対象が大勢なんですね。この差だけなのです。つまり、欲の対象が、個人的なものか、不特定多数のものなのか、という違いなのですよ。菩薩は、大勢を相手にしているのですが、人間はごくごく少数を相手にしているのです。この違いだけなのです。あとは、菩薩も人間も同じなのです。
ならば、人間が、ちょっと大きく心を持ったならば、自分の欲の対象を広げたならば、それは菩薩に近付くことでしょう。広く広くという心を持ったならば、菩薩になれるのでしょう。
そう、これが密教の説く、即身成仏なのです。この身このまま、生きたまま、この世で仏・・・仏陀・・・と同じようになれる、という教えなのです。

密教が登場するまでの大乗仏教では、般若心経に代表されるように、欲はいけない、欲は慎みましょう、という教えが中心でした。尤も、般若心経も密教的解釈をすれば、そうはならないのですが、そうした解釈は、弘法大師を待たねばなりません。それまでは、般若心経も、欲は慎め、こだわるな、空なんだから、と説いていると解釈されています。まあ、現代もそうなのですけどね。
ところが、欲を慎め、欲を出すな、といわれてもできないんですよ、人間は。そうなると、他者を救うことも、救おうと思うことも難しくなってくるのです。欲を出さず、欲を慎もうとすれば、他人と接触を避けるのが最も有効になってしまいます。これでは、大乗の精神に反します。大勢を救うのだ、というのが大乗ですからね。この大勢を救う、ということも欲なのですよ。
一方で欲を出すな、といい、もう片方で大勢を救えという・・・。それは、難しいことですよね。
あまり、清浄なことばかり言っても、あまり難しいことばかり言っても、人々はついてはこれません。「欲を出すなといってもなぁ、それは死ね、といっているようなものだ」となってしまいます。
こんな状態ですから、教える僧侶側も教えられる衆生側も萎縮してしまうのです。理想論では救えないのですよ。
こうした状況下で生まれたのが密教です。ならば、いっそのこと欲を認めてしまえ、ということです。欲そのものが悪いんじゃない、欲にこだわる心が悪いのだから、欲を持ってもいいじゃないか、そもそも安楽を求める欲がなければ、安楽なんて得られないじゃないか、というわけですね。

密教は、欲を持てという教えです。その欲そのものは、不浄でもなんでもないのですから。欲がなければ、向上もしないし、覚りだって得られません。仏教は、本来、覚りを得たい、幸せになりたい、安楽を得たい、という欲を持たねば、得られない教えなのです。欲がなければ、成り立たない教えなのです。それなのに、いつの間にか、欲を捨てねば覚りを得られない、ということばかりが強調され、一般庶民にはわかりにくい、とっつきにくい教えになっていってしまったのです。密教は、その部分を修繕した教えなのですね。その代表的な教えが、この理趣経なのです。

この世にある一切のものは、すべて清浄です。あなたも、あなたが今考えていることも、あなたの行為そのものも、あなたの欲求も、すべては、本来は清浄なんです。ただ、その欲求が満たされなかったとき、その欲求にこだわってしまう、とらわれてしまうからいけないだけなのです。
一つの欲求が満たされなかったら、方向を変えればいいだけのことです。欲そのもの自体は、なんら変わることはないのですからね。合掌。


3、理趣経(りしゅきょう)のE
前回で理趣経の初段が終わりましたので、今回は2段からお話していきます。


第2段
ここでは主に覚りとは何か?、ということについて説いています。なお、理趣経では、覚りのことを「現等覚(げんとうかく)」と書き記します。一切の如来と等しき覚りの現れ、と言う意味です。
さて、その現等覚ですが、これには4つの種類がある、とここでは説き明かされます。
@金剛の如く堅固で不変なる大いなる覚りであり、それは普遍・平等なることを知ることである。
Aすべての利益(りやく)は、平等であることを知る覚りである。すべてにおいて差別はない。
Bすべてのものは本質的に清浄であると知る覚りである。
Cすべての行い(業)は、分別が無く平等の境地に通じていると知る覚りである。
これらが一切の如来の覚りである、と説くのです。が、よくわかりませんよね。

覚りとは、本来堅固たるものです。簡単には壊れないものであり、変わらないものなのです。覚ったにもかかわらず、心が動いたりするようでは、それは本当の覚りとはいえません。覚りとは、決して壊れたり、揺らいだりするものではないのです。(これが@ですね)

この世の一切の事象や現象は、すべて誰にでも平等に起こり得ることです。TVのニュースで放映しているあの事件や事故が、自分に起こらないとは限りません。また、巻き込まれないとも限りませんし、当事者にならないとも限りません。あるいは、他のものが受けた幸運も誰の上にでもやってくる可能性があるものです。本来、この世では誰もが本質的に平等なのです。すなわち、この世には差別はありません。(これがAです)

初段でも説き明かされたように、すべての現象や事象、欲望は、本質的に清浄です。そして、その教えは、誰にでも平等にあてはまるものです。どんな欲望も、どんな現象も、どんな事象も、その根本は、清浄なる心から発せられているのです。この世には、根源的に不浄なるものは存在しないのです。(これがBですね)

こうしたことから、人間のとる行動も、本来は清浄であり、誰もが行ない得る可能性があり、そこには分け隔てがありません。誰もが取るかもしれない行動なのですから、他のものがとった行動を自分もするかもしれないのです。それを知れば、どんな行いも平等であり、分け隔てされるべきものではない、ということがわかります。(これがCですね)

と解説してみましたが、わかりにくいですね。肝心なのは、覚ったものの目から見れば、すべてが平等であり、すべてが清浄であり、すべてが不変である、ということなのです。そして、誰の上にも平等に同じようなことが起こるのだし、誰もが同じように考えるのだし、誰もが同じように欲を持ち、怒り、妬み、羨み、恨み、愚かな考えを起こすものなのです。それを知れば、すべては平等である、と理解できるでしょう。
以上、第2段です。


第3段
ここでは、毘盧遮那如来は、釈迦如来に変化し、教えを説きます。なぜなら、釈迦如来は、一切の欲望を降伏(ごうぶく)して、覚りを得た如来だからです。すなわち、この段では、人間の悪の元と言われている「貪瞋痴(とんじんち)」の降伏の方法が説かれるからです。
*「貪」である欲望は、本来善悪の分別を超えたものです。小さな我欲にこだわれば、悪となり得るかもしれないが、大いなる欲望は善となり得るものなのです。欲望自体は、善でもなく、悪でもないのです。その用い方、抱き方、活かし方によって変化が生じるだけで、欲そのものは善でも悪でもなく、善悪を超えたところにあるです。それがわかれば、大欲ということを知り、欲の善悪を超越することができるのです。
つまり、どうせ欲を持つなら大きな欲を持ちなさい、ということなのです。人を好きになろうと思うのなら全人類を、金儲けをしたいと思うのなら地球上のすべての金を、女遊びがしたいと思うのなら地球上の全女性と、支配したいと思うのなら全人類を・・・。ということですね。ま、地球を丸呑みするくらいの欲望を持て、ということなのですよ。そう思えば、小さな欲にとらわれている自分が、本当に小さく見えますから。

*「瞋」であるところの、怒りや妬み、嫉み、羨み、恨み・・・といった心の働きも、本来善悪を超えたところにあるのです。それらは心のありようによっては、怒りは正しき道に導く行為になり、妬みや嫉み、羨み、恨みは、己を伸ばすバネになりますよね。
「いいなぁ、あの人・・・」と、思うのなら、マネすればいいのです。人を妬ましく思うくらいなら、その人と同じようになればいいのです。その努力もせずに、妬んだり、羨んだりするから迷うのです。
本来、怒りも妬みも羨みも恨みも、善でも悪でもありません。善や悪に変えてしまうのは、自分の心なのです。心のありようによっては、そうした思いも善悪を超えたものになっていくのですよ。

*「痴」である愚かさも善悪を超えたところにあります。愚かだと笑った者が愚かな目に遭うことは往々にしてありますよね。愚かだと思っていたら、とんでもない大物であったりもします。愚かだ、愚かじゃない、などという差別は、実にくだらないことなのです。問題は、自分が愚かかどうかを知っていればいいことなのです。自分自身の心のありようを知っていれば、己の愚かさも善悪を超えたところへと導かれるのですよ。己が愚かかがどうかがわかっていればいいことなのです。
ところが、この世のものは、己が愚かかどうかを知らず、物事を判断し、語り、行動するから過ちを犯すのです。まずは、自分の愚かさを知ることなのですよ。そうすれば、己の行動も言葉も考えも愚かさを超えることができるでしょう。

仏教の教えでは、欲はいけません慎みましょう、怒ってはいけません心静かにしましょう、妬みや恨み羨むのはやめましょう、愚かな考えはせずよく考えましょう、などと説きますよね。でも密教ではそうは説きません。

欲はいいじゃないか、持ちましょう。でも、どうで持つなら大いなる欲を持ちましょう。小さなところで満足しちゃあいけません。目指すなら、トップでしょう。この世で実現できなきゃ、来世で実現すればいい、時間はたっぷりあるじゃないか、自分でできなきゃ次に託せばいい、優秀な人はいっぱいいるじゃないか、だからどうせ持つなら大きな欲を持ちましょう、と説くのです。小さな欲にこだわっているから苦しむのです。どうせなら、大きな欲望です。小さな欲望なんてどっちでもいいじゃないですか。そんな小さなこと、大いなる欲の前ではカスですね、という考えを持ちなさい、と説くのです。
つまり、欲を捨てる、消し去るのではなく、より大きくせよ、と説くのです。

同様に、妬みや羨み、怒りや恨みも、用い方によっては、己を伸ばす元になるものです。他人を羨むことによって、目標ができるのですから、その目標に向かって進んでいけばいいのです。ただただ、「いいなぁ、いいなぁ」じゃいけませんよ。どうせ羨むなら、大きく羨め、ということです。で、自分の目標にしてしまえ、ということなのです。
多くの人は、「いいなぁ、いいなぁ、あんなふうになりたいな」と思いつつ、何も努力しないから、妬みのままで終わってしまうのですね。で、自己嫌悪に陥るのです。「私なんてダメだ・・・」って。
そうじゃなく、大いに羨めばいいのです。大いに妬めばいいのです。大いに恨めばいいのです。そして、その相手を目標とし、乗り越えていけばいいのです。恨む相手が悔しがるほど幸せになればいいのです。妬む相手よりも上に行けばいいのです。それをしないから、ダメなんですよ。
どうせ恨むなら大きく恨め、どう妬むなら大きく妬め、どうせ怒るなら大きく怒れ、なのです。

愚かさだって一緒ですよね。愚か者になりたくなければ、己が如何に愚かであるのかを知ればいいのです。心から、自分は愚か者だ、と知れば、そこからは吸収するのみでしょう。いろいろな教えが吸収できないのは、自分が愚か者だ、と言う自覚が足りないからです。自分は愚か者だ、と深く認識すれば、素直に人の言うことが聞けるし、素直に教えが身につきます。愚かな行動をしたり発言をしたりするのは、自分が愚か者だとわかっていない証拠なのです。
大いに自分は愚か者だ、と知りましょう。この世で最も愚かなものだと思いましょう。この世には、自分の知らないことだらけだ、自分はバカな人間だ、と心から自覚しましょう。そうすれば、迷って当然だと思えるし、悩んでも仕方がないし、苦しんでも当然だと思えます。だって、愚か者なんですからね。間違っても仕方がないんですよ。でも、愚か者だと知っているなら、間違いは正せます。すぐに正せます。悩んでも苦しんでも、間違っても正せないのは、愚か者の自覚がないからです。
愚かさは捨てないで、自覚するものなのですよ。

さあ、皆さん、大きな欲を持ちましょう。妬んでもいいんです。恨んでもいいんです。羨みもいいんです。ただ、その場で留まらないようにすればね。自分は愚か者だと知って、大きな欲を持って、羨ましい周りの人々を超えていきましょう。何年かかっても、何十年、何百年、何千年かかってもいいじゃないですか。なぜなら、とてつもない大きな欲を達成するには、時間がかかるものですからね・・・。
以上、第3段です。


第4段
ここでは、観自在王菩薩(観音様ですね)の姿に変化して教えを説きます。なぜなら、一切は清浄である、ということを説き明かすからです。観音様は、清浄の象徴でありますから。
ここでは、初段でも説かれたように、「一切は清浄である」ということを改めて説き明かしています。初段では、欲望の例をあげてすべての事象・現象・存在は、本来清浄である、と説きました。ここでは、例はあげずに、ストレートに説いています。

初段でも説いたように欲望は清浄であります。欲望が清浄ならば、欲から生まれる行為や思い・・・怒りであり、妬みであり、羨みであり、恨みであり、などというもの・・・も、すべて清浄であります。清浄なものからは、不浄は生まれないからです。怒りも清浄なる気持ちから生まれたものです。同じように、妬みも恨みも羨みも、本来は清浄な思いなのです。それなのに、人は過った行動をしてしまうのは、その本来清浄であるということに気付かないからです。ただ、怒って、妬んで、恨んで・・・・なので、悩みや苦しみから脱出できないのです。その元は、清浄なる思いであると知れば、そこに留まらずにすむのです。
愚かさも同じです。愚かな考えも不浄ではありません。不浄と嫌うから、本質を見失うのです。愚かを清浄と認め、受け入れれば、愚かでなくなるのです。

人が迷い悩むのは、己の行動や考えに嫌気が差し、自分が醜く思えてしまうからでしょう。妬んだり、恨んだりする自分が醜い、欲にまみれている己が醜い、愚かなことばかりしている自分が惨めだ・・・・。そうして、自己嫌悪を起こし、深い悩みにのなかに入ってしまうのです。
そうではなく、他を羨んだりすることも、欲望が満たされずイライラしたりすることも、他を恨むことも、腹が立つことも、妬んだりすることも、愚かなことばかり考えていることも、もとを探っていけば、清浄なる思いから生まれたものなのです。
ですから、なにも自分を卑下することはありません。自分たちが考えていること、悩んでいること、行動すること、苦しんでいること、すべては清浄なのですから。
すなわち、この世のものはすべて清浄なのです。誰も彼も、どれもこれも、すべては清浄なのですよ。したがって、この世に起こり得るすべての事象や現象、さらに存在するすべてのものも、清浄なのです。

つまり、人間が持つ三毒・・・貪瞋痴・・・も清浄であり、一切の存在も清浄であり、すべての事象や現象も清浄なのです。本来は、みな清浄なのです。不浄と見ているのは、我々の目だけなのですよ。
以上、第4段です。


3、理趣経(りしゅきょう)のF
今回は5段からお話していきます。

第5段
ここでは、毘盧遮那如来は、一切三界主如来に変化し、教えを説きます。一切三界主如来とは、虚空蔵菩薩が如来になった姿です。我々の前には、この如来は虚空蔵菩薩として現れるのです。で、一切三界主如来は、ここで4種類の施しの行いについて説きます。
1、真理を覚り如来となる(即身成仏)という最上の宝物を人々に施すことにより、この世のすべてが如意(己の意思の如く)にならしめる。
これは、正しい教えを人々に教えることにより、その報いとして自分の思うように物事が展開していくという結果を得ることができる、と説いているのです。
密教は、現世利益を認めます。むしろ、密教の修行が完成すれば、世の中のことが、すべて自分の思うように動いていくのが当たり前、と説きます。ここでは、そのことを説いています。密教の教えである即身成仏のことにつて、正しく教えたならば、その報いとして思い通りになる人生を歩める、ということなのです。
しかし、即身成仏へ至る教えを説けるのは、如来しかいません。ですので、即身成仏の教えが密教にはあるんだ、密教とはこういう教えなんだ、如来の教えはこういうものだ、と人々に説く(施す)こと、あるいは、そういう教えを説いている人のところへ導くことによって、そのご利益をいただければいいのです。それならば、どなたにでもできるでしょう。

2、人々に義利(人にとってすばらしくよいもの)を施し、この世での一切の願いを満足させる。
これも1と同じような内容です。自分以外の人々に善いもの、よいことを与えることにより、その報いとして自分の願いを聞き入れてもらおう、ということです。自分が幸せになるために、他人の求めるものを与えてあげましょう、ということですね。もちろん、与えるものは、善いものでなければなりません。法律に触れるものや、過ちを犯すようなもの、を与えてはいけません。また、何でも欲しがるものを与えればいい、というものではないのです。時には、叱ることを与えることも必要でしょう。

3、如来の教えを人々に施すことにより、すべての人々に覚りに至ることができる元を得さしめる。
これも1,2と同じようなことですが、与えることにより得るものは自分のことではありません。他人に「覚りにいたろう、覚りたい」という思いを得させるのです。つまり、自分が教えを説くことによって、教えを聞いた人に「覚りたい、幸せになりたい」と思わせるのです。如来の教えは、人々に幸せになろうという思いを与えるものです。なので、如来の教えを説くことは、大変大事なことなのです。

4、生きるために必要となる様々なもの(お金や財産、物質など)を施すことにより、世の中のすべてのものを飢えや渇望から救い、楽しい生活となさしめる。
生きるためには、お金は必要です。食べ物も着る物も住む場所も必要です。衣食住とある程度のお金があって、初めて人は生活に余裕が生まれます。従って、働いてお金を得、財産を作ることは大事なことになります。自分の生活を安定させるためには、まず自分が働いて金銭を得なければなりません。生きるためには、それが絶対必要になってくるのです。生きるためには、まず自分自身の生活に必要なものを与えねばなりません。そして、資産が増え、余裕ができなたなら、人々にも施すようにすればいいのです。慈善事業は大切ですが、自分の生活が成り立ってこその慈善事業です。まずは、自分自身の安定が先でしょう。
最近、ニートと言われる若者が増えてきました。働かないで、親に食べさせてもらっている若者たちです。彼らは、生きるために必要となるものを自分自身に与えることすらしません。自分で生きることすらしないのですね。そういうものが果たして人に生活の糧を施すことができるでしょうか?。できないでしょう。人に施しをできるものは、自分自身に施しをできるものなのです。
したがって、まずは、自分自身の資産を持つことから始めるべきでしょう。(このことを「資生をつくす」といいます)。そうして、楽しい生活を送ることができるのです。もちろん、無理をしたり、金銭に執着してはいけません。それは、正しき智慧に裏付けされてないといけないのです。
以上、第5段です。


第6段
ここでは、得一切如来智印如来の姿に変化して教えを説きます。この耳慣れない如来は、金剛拳菩薩の如来となった姿です。金剛拳菩薩も耳慣れない菩薩だと思います。この菩薩は、密教独特の菩薩です。どんな菩薩であるかは、省略いたします。

さて、ここでは、すべての如来の働き(これを加持・・・かじ・・・といいます)が、我々衆生に平等に与えられていることが説かれます。
まず、人々が何ものにもとらわれない活動をすれば、人々の身の働きは如来と同じなると説いています。次に、正しい智慧の教えを説いて間違った考えを排除すれば、人々の言葉の働きは如来と同じになると説いています。さらに、正しき智慧の真実を知り、すべての如来の心の働きを知ったならば、人々の心は如来の境地と同じになると説いているのです。そして、身と口と意(こころ)が、如来の働きと同等になれば、人々の働きは金剛の如く不動不変のものとなり、最もすぐれた境地に到達できると説いているのです。
が、これでは難しいですよね。いや、難しすぎますよね。全く意味不明でしょう。なので、無理やり簡単に説明いたします。

ここで説かれていることは、我々の働きである身と口と心の働きが、欲に絡まれた働きではなく、如来と同じような働きになることが大事だ、と説いているのです。つまり、仏様と同じように行動をし、同じような言葉を話し、同じような気持ちになる、ということです。
では、仏様はどんな行動をするのでしょうか?。それはまず、殺生をしないこと・盗みをしないこと・邪淫を起こさないことです。さらに、慈悲の心による行動をします。欲得での行動をしない、損得勘定をした行動をしない、見下げた行動をしない、欲に基づいた行動は一切しないのが仏様の行動です。そうした行動を我々がとれば、我々も仏様と同じ行動をすることになるのです。
そんなことはできない!、と思うでしょう。しかし、どうでしょうか?。そんなに難しいことでしょうか?。やろうと思えばできることなのではないでしょうか?。ただ、初めから「できない」と決め込んでいるだけなのではないでしょうか?。
よく考えてください。無闇な殺生はしないでしょ。蚊やハエ・ゴキブリなどは殺してしまうかもしれません。でも、そういう場合も慈悲の心で退治してあげればいいのですよ。
「次は、もっと好かれるものに生まれ変わってきなさいね。」
とひとこと添えてあげればいいのです。慈悲の心を以って退治してあげる、のです。その慈悲の心があれば、蚊やハエ・ゴキブリを退治してしまっても、それはそれでいいのですよ。ただし、このことを拡大解釈しないでくださいね。これを拡大解釈し、人間にも適用してしまうと、とんでもないことになってしまいますから。かつて、事件を起こしたカルト教団のようにね。誤った解釈は、破滅への道ですから。
(密教には、このように解釈によっては危険な教えが含まれているのです。なので、正しき指導者について学んでください)。

盗みに関しても、ほとんどの方はしないと思います。まあ、盗み見(ノゾキですね)や盗み聞きなどはしてしまうかもしれませんが、あからさまにはしないでしょう。そんなことをしたら犯罪ですからね。故意に盗み見や盗み聞きをしないようにすればいいのです。
邪淫も浮気をしなきゃいいのですから、簡単なことです。やろうと思えばできることですよね。淫らな性生活を送らねばいいことです。やってできないことではありません。年齢を経てくれば、自然にできることでもありますし。
難しいのは、慈悲に基づいた行動でしょう。これは、心掛けてでないと、なかなかできないことです。しかし、できないことではありません。誰でもできる可能性はあることです。少しずつでいいのです。何もいきなり仏様のような慈悲の心を持つことなんて無理なんですから。
欲得での行動を慎むことも、一般の方なら、まあまあできることでしょう。あまり欲得で動くと嫌われますしね。まあ、これもやってできないことではありません。
となれば、我々人間も、仏様と同じような行動ができる可能性は、十分にあるのです。ただしないだけ、ついつい欲に負けてしまうだけ、なのですよ。しかも、その可能性は、誰にでもあるものなのです。それを説いているのですよ。

つぎに、仏様はどんな言葉を発するのでしょうか?。それは、ウソをつかないことであり、ふざけた言葉を使わないことであり、悪口を言わないことであり、二枚舌を使わないことであります。また、あやふやな内容のことや、推測や憶測での話はしませんし、つまらない噂話もしません。仏様が発する言葉は、真実に裏付けされた言葉であり、正しく導くための言葉であり、人々を救うための言葉を発するのです。そうした言葉を話せば、我々も仏様と同じような話しができるのです。同じような言葉を発することができるのです。
それこそ無理!、なんて思うでしょう。でも、またまたよく考えてみてください。
ウソはつきますか?。あなたは、いつもウソってついてます?。たいていの場合は、ウソと言うのは、自分の体裁を守るため、自分をよく見せようとするため、見栄のため、誤魔化すためについているのではないでしょうか。そういうウソはいけませんよね。ウソツキはいけません。でもね、これって簡単に治るんですよ。ウソをつかない人間になるのは簡単なことなのです。どうすればいいかというと、
「自分自身をありのままにだす」
だけです。見栄を張ろうと思うからウソをつくことになるんです。自分を実力よりよく見せようと思うからウソをつくことになるのです。自分の行動や性格などを誤魔化そうするからウソをつくことになるのです。そんなことはしないほうがいいのです。疲れるだけですし、バレたとき困りますから。初めから真実の自分をさらけ出しておけば、ウソの必要は無いのです。初めから
「私はこういう人間です」
と見せておけば、ウソの必要は無いのです。本当の自分を見られるのが嫌だからウソをつくのです。誤った行動を誤魔化すためにウソをつくのです。ならば、本当の自分を見せ、誤った行動をしなければウソをつく必要などないのですよ。

ふざけた言葉とは、流行り言葉のようなものですね。あるいは、人を傷つけるような言葉ですね。そういう言葉は、気をつけていれば使わないものです。下品な言葉や流行言葉、人を蔑んだ言葉、乱暴な言葉を使うと、その人の品性が疑われるので、使わない方がいいですよね。そう思って訓練していけば、次第に使わなくなります。
悪口も聞いていていいものではありません。人のことを悪く言う前に、己を省みた方がいいのですよ。悪口ばかり言っていると、その人の性格の嫌らしさや知性が疑われます。悪口を言えば、己の品性が落ちるだけと心得ていれば、悪口は言わなくなるものです。
二枚舌はいけません。騙しはサギです。これは慎みましょう。まあ、一般の方はあまりしないでしょうけど。多いのは、憶測でものを言うことでしょう。噂話や推測、憶測での話、あやふやな話ですよね。こういう類の話は、ついつい参加してしまい勝ちですよね。これは、自分自身で注意しなければなりません。
このように、言葉に関しても、自分で注意しておけば、仏様と同様の言葉を話すことができるのです。ウソをつかず、ふざけた下品な言葉を使わず、悪口を言わず、騙したりせず、噂話に入らず、憶測でものを言わないように、真実のみを話し、言葉で誰も傷つけないように心掛ければ、仏様の発する言葉と同じようになるのです。できないことではありませんよね。しかも、誰もができる可能性のあることです。これを説いているのです。

次に心の状態です。これには、瞑想が効果的なのですが、本格的な瞑想なんて必要ないのです。大事なのは、欲にとらわれないこと、怒りや妬み、羨み、恨みなどにとらわれないことです。つまり、誤った考えを捨て、何ものにもとらわれない自由自在な思考や智慧を持つことなのです。
実は、これが最も難しいことなんですね。欲にとらわれない考えというのは、なかなか実行できませんよね。でも、恨んだり、いつまでも怒り続けたり、妬んだり、羨んだりすることは、やめることはできるはずです。それは、
「他人のことなど気にしない」
ように心掛ければいいのです。他人より自分、と思えばいいのです。他人を羨んでも仕方がないでしょう。他人を恨んでも何も変わらないでしょう。他人に対して怒り続けてもどうしようもないでしょう。そんなことをしても何の状況変化もないし、何もいいことなんかありません。他人を羨むよりも自分に信念があればいいのです。他人を恨むよりも、恨みのある相手より自分が幸せになればいいのです。妬むよりも、妬まれるような自分になればいいのです。
つまり、妬んだり、羨んだり、怒ったり、恨んだりするよりも、人から羨ましがられる存在に自分がなればいいのですよ。そう努力すればいいのです。
ところが、羨んだり、恨んだり、妬んだりする人って、たいていその努力をしないんですよね。だからこそ、いつまでもグチグチ愚痴を言っていることになるのです。まずは、他人から羨ましがられるような人間になろうと努力することが大切ですね。
それには、人間的にすばらしい人になっていないといけません。間違っていけないのは、本当に羨ましいと思われる人間は、金持ちでもセレブでもないのですよ。
本当に他人から羨ましいと思われる人間は、どんな状況にあっても、幸せな顔ができる、幸せだと言える人間なのです。お金が無くても、病気でも、五体不満足でも、「幸せなんですよ」と心から言える人間が、最も羨ましいと思われる存在なのです。それは、難しいことかもしれませんが、誰にでもできることなのです。満足を知ることを覚えればね。
そうすれば、仏様と同じような心の状態になれるのです。

そして、仏様と同じ行動をし、同じ言葉を発し、同じ心の状態なれば、ゆるぎない確固たる完璧な人間になれるのです。つまり、生きたまま仏様と同じになれるわけですね。
それをここでは説き明かしたのですが、これは大変に難しいことであります。実際には、修行を伴わないとできないことも多々含まれています。しかし、本格的な修行が無くても、自分で注意する、心掛けるようにすればできてくることもあります。徐々にでしょうが、その努力が大事なのです。
以上、第6段です。




ばっくなんばあ〜12


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