ばっくなんばぁあ〜12

第 五 章

「密教のお経」

3、理趣経(りしゅきょう)のG

今回は7段からお話していきます。

第7段
ここでは、毘盧遮那如来は、一切無戯論如来(いっさいむけろんにょらい)に変化し、教えを説きます。一切無戯論如来とは、文殊菩薩が如来になった姿です。我々の前には、この如来は文殊菩薩として現れます。
一切無戯論如来は、ここで4種類の解脱に至る教えについて説きます。
1、諸法は空である、という教え。
諸法とは、この世のあらゆるものすべてのことです。この世の存在、現象、すべてのことです。それらが、みな空である、と説きます。これは、般若心経と同じですね。一切は空である、ということです。
その理由は、本質的に無自性・・・・すなわち実体がない、からです。これは、一般的な空の理論と同じです。実体がないがゆえに、この世に存在するすべてのもの・現象は空である、ということですね。仏教において、最も理解しにくい教えです。
実体がない、というのは、永遠でない、ということと同じである思っていただいて結構です。永遠の存在でない以上、そのものは本質的に実体がない、のです。不安定な存在なのですよ。
まずは、空であることを理解せよ、と説きます。

2、諸法は特別の相を持たない、という教え。
1において、この世のすべての存在、現象は空である、と説いたのですから、当然ながら、この世のすべての存在や現象には、特別な相・・・形相・・・はありません。空なのだから、当然ですよね。今、我々の目に見えている存在、匂いでわかる存在、耳に聞こえる存在、舌で味わう存在、身体で触れてわかる存在、あるいは現象、それらはすべて仮の姿なのです。実体ではないのですよ。仮にそうした姿、音、匂い、感触で表れているに過ぎないのです。
この世の存在、現象はすべて実相を持たない、仮の姿をした存在である、と理解せよ、と説きます。

3、諸法は特別の願い(目的や方向性)を持たない、という教え。
この世のすべての存在や現象は、あるべくしてあるのであって、特別な目的や方向性、意味合いがあるのではないのです。そうしたことを決めるのは、人間の考えであって、存在そのものではないのですよ。
たとえば、人間が存在しなければ、この世の存在や現象には、特別な意味は何もないでしょう。特別な意味付けは、すべて人が行なうのです。
人が存在しなければ、この世のすべての存在や現象は、あるべくしてあるのであり、おこるべくしておこっている、ただそれだけに過ぎません。そこには、空だとか、空でないだとか、実相だとか、虚像だとか、そうした区別は存在しなくなるのです。
すなわち、この世のすべての存在や現象に、特別な意味付けをしているのは人が存在しているからなのです。従って、本来は、この世のすべての存在や現象には、特別な目的や意味、方向性などないのですよ。
これを理解せよ、と説いています。

4、諸法は光り輝き、清浄である、という教え
1〜3で説いたことから、この世のすべての存在や現象は、あるべくしてあるのだから、本来何ものにも汚されず、偏らないものなのです。従って、それはすべて清浄といえるものであり、存在自体が光り輝くものなのです。
すなわち、この世のすべての存在や現象は、すべて清浄であり、光り輝いているものなのです。なぜなら、実体も実相もなく、空の存在であり、あるべくしてあり、おこるべくしておこるのだから、そこには差別や区別、穢れ、汚れ、貶めなどはないからです。そうしたものは、人が偏った考えから生み出すものだからです。人がいなければ、存在や現象そのものは、そのもの自体、清浄で光り輝いているのですよ。これを理解せよ、と説いているのです。

この世の差別は、すべて人が生み出しています。宗教ですら人が生み出したものです。この世の存在や現象は、人がいてもいなくても何も変わりません。存在や現象に意味付けをしたり、何か特別な願いを持ったり、差別をしたりするのは、すべて人です。
仏教・・・いや、密教のお教えは、その人を超えたところにあります。ですので、人を抜きにして考えれば、理解できるでしょう。
存在や現象は、人がいなくても、あるものはあるし、おこるものはおこるのですよ。そこには、意味なんてないのです。理由なんてないのです。存在や現象は、それ自体、そのもので存在しているのだし、現象が起こっているのです。つまらない意味付けをするのは、人だけです。人を抜きにして考えれば、自ずと理解できますよね。覚りとは、人を抜きにして考えれば、意外と理解しやすいものなのですよ。こうしたことを説いているのです。
以上、第7段です。


第8段
ここでは、一切如入大輪如来(いっさいにょらいにゅうたいりんにょらい)の姿に変化して教えを説きます。この如来も耳慣れないのですが、この如来は、纔発心転法輪菩薩(さいはっしんてんぼうりんぼさつ)という菩薩の如来となった姿です。この菩薩も知らない、と思います。密教独特の菩薩ですね。どんな菩薩であるかは、これも説明をすると難しいので省略いたします。まあ、こういう菩薩がいるのだ、と思っていただければ結構です。

さて、ここでは、4つの円満なる境地について説かれます。円満なる境地とは、覚りの状態ですね。覚りを得た状態のことを円満なる境地、といいます。ですので、ここでは、4種の覚りの境地について説き明かしているのです。
1、一切が金剛の如く堅固で平等な境地・・・「如来の法輪」という境地
覚りに至れば、この世の存在や現象は、すべて堅固で不変で平等であることがわかります。そういうことがわかる状態になるのですよ。でも、これって空ということと矛盾していますよね。
と思うのは、覚っていない人間だからです。覚った側から見れば、空は不空となり、永遠でないものは永遠となり、不安定なものは安定となり、あやふやなものは堅固なものへと変わるのです。
たとえば、覚っていないものにとっては、この世は諸行無常であり、苦の世界であり、諸法無我であり、汚れたものなのですが、覚ったものから見れば、この世は永遠であり、安楽の世界であり、我という存在があり、清浄なのです。それは、覚ったものはこの世の存在や現象から解き放たれた存在になるからです。すなわち、覚りを得たものは、地球という宇宙からも解放されるから、地球上での存在自体を超えてしまうのです。
なので、そうした覚りを得たものから見れば、この世のすべて存在や現象は、堅固で永遠で平等、となるのです。これは、「如来の法輪」と呼ばれる覚りの境地なのです。

2、一切の利は平等であるという境地・・・「大菩薩輪」という境地
この世は、利益や財産などが偏っています。このごろ、格差社会と大きく取り上げられていますね。実際に、この世では、財産や利益の取り分が大きく偏っているのは事実です。
ところが、覚った側から見れば、そんな偏りは存在しません。みな、平等です。この世のすべての利益や資産は、全く偏ってなどなく、すべて平等に与えられているのです。
それは、得るべくして得ているからです。みな、平等に得るべくして得ていることがわかるからです。そこには、不平等など存在しません。それぞれの努力に応じ、徳に応じ、器に応じ、みな得るものを得るべくして得ているのですよ。本来、偏りなどありません。偏っていると錯覚しているのは、己を知らない愚かなものなのです。覚りを得たならば、皆が平等に円満に、得るべきものを得ていることがわかるのです。
つまり、不平等であるからこそ平等であるのです。一見不平等に見えますが、そこにはそうなるべく理由が存在しているのです。覚りを得ればその理由がわかりますから、平等であることが理解できるのですよ。
こうした、利の偏りがないとわかる境地が「大菩薩輪」と呼ばれる覚りの境地なのです。

3、すべての存在や現象は平等であるという境地・・・「妙法輪」という境地
一切の利が平等なのですから、その他の存在や現象も、当然ながら平等です。しかも、すべて欠けることなく円満なる存在です。すなわち、この世のすべての存在や現象は、平等であり、完全無欠なのです。足りない・・・などということはないのですよ。覚った側から見れば、の話ですが。
とはいえ、前段で、人が存在しなければ、この世のすべての存在や現象は、存在するべくして存在するものであり、おこるべくしておこるものであり、とわかったのですから、そうしたものが欠けている、足りない、不平等である、などということはあり得ないでしょう。存在や現象に意味付けなどないのですからね。ならば、存在や現象そのものは、平等であり、完全無欠でしょう。
こうした境地に至れば、それは「妙法輪」と呼ばれる境地になっているのです。

4、一切の働きは平等であるという境地・・・「事業輪」という境地
一切の利も、存在や現象も平等で完全無欠ならば、この世で起こる働きも平等で完全無欠でしょう。この世に存在するすべてのものの働きは、欠けていることがないのです。また、偏っていることもありません。すべて平等で、完全なるものなのです。
覚りに至れば、枠外から存在や現象を捉えますから、どんなことであっても平等であり、完全無欠なのです。利益であっても、資産であっても、働きであっても、存在そのものであっても、現象そのものでも、すべてあるべくしてあるのであり、おこるべくしておこるのであり、存在するべくして存在するのですから、そこには不平等も欠けも足りなさもないのです。空でもなければ、穢れでもないのです。すべて、平等であり、完全無欠なのです。
そうした境地を「事業輪」といいます。
以上、第8段です。

今回説いた段は、覚った側から見た状態を説いています。覚った側はどのような心の状態にあるのか、この世をどのように見て感じているのかがわかるのです。
密教は、他の教えとは異なり、上からものを見て説いています。つまり、覚った側から見ているのです。それを説き明かしているのです。一般の教えは、下から・・・人の側、迷いの側から教えを説いています。ですから、一般の教えのほうがわかりやすいのです。目線が人間に近いからです。
ですが、密教は、如来の目線から説き明かしています。なので、難解だし、衝撃的だし、他の教えと矛盾しているように思えてしまうのです。
ですが、ここで視点を変えてみてください。人など存在しない、という状態を想像してみてください。そうすれば、密教がわかりやすくなります。
こうして解説したりするのも、考えたりするのも、教えが存在したりするのも、すべて人がいるからです。人がいなければ、こんなことはありません。存在するものは勝手に存在するでしょうし、現象は勝手におこるのです。そこに意味などないのです。意味付けなどというくだらないことをするのは、人がいるからです。
これが理解できれば、覚った側から見た状態も理解できるでしょう。覚った側は、人という存在など、目に入っていないのですよ。そんなものは、小さなものなのです。人が生まれ、文明を築き、滅んでいく・・・・そんなことは、一瞬にしか過ぎません。覚った側から見れば、地球の一生など、ほんの短い存在なのです。
そうした宇宙観を持てば、密教が少しは理解できるのではないでしょうか。

視点を変えてみる・・・・。これは、日常生活の中でも生かせることですよ。
今回は、ここまでにしておきます。次回は9段からお話いたします。視点を変えてみて考えてください。合掌。


3、理趣経(りしゅきょう)のH

今回は9段からお話していきます。

第9段
ここでは、毘盧遮那如来は、一切如来種種供養蔵広大儀式如来(いっさいにょらいしゅじゅくようぞうこうだいぎしきにょらい)に変化し、教えを説きます。この長い長い名前の如来は、虚空庫(こくうこ)菩薩という菩薩が如来になった姿です。この菩薩は、密教独特の菩薩です。一般には知られていません。似た名前の菩薩に虚空蔵菩薩がありますが、別の菩薩です。
この如来は、ここで4種類の供養について説き明かします。

1、覚りを願う心をおこすことは大いなる供養である、という教え=発菩提心供養(ほつぼだいしんくよう)。
覚りを得たい、という気持ちを起こすことは、教えを学ぶ・聞くことの基本です。覚りを得たい、と願うだけで、それは大きな供養となるのです。なぜなら、如来や菩薩は、人々が覚りを得ることを究極の目的としているからです。その目的を達成するには、まず、「覚りを得たい」と人々が思わなければなりません。ですから、その気持ちを起こすだけで、大きな供養となるのです。
しかし、覚りを得たい、などという気持ちは、なかなか起こさないですよね。でも、人々は「幸せになりたい」とは思うでしょ。実は、「覚りを得たい」と「幸せになりたい」は、基本的には同じなのですよ。
幸せは、物欲が満たされて得られるものではありません。いくらその人が望むもの・モノを与えても、決して本当の幸せは得られないものです。なぜなら、本当の幸せとは、物質的満足ではなく、精神的な満足によるものだからです。つまり、心が満たされなければ、本当の幸せには至らないのですよ。
心が満たされた状態とは、即ち覚りの状態なのです。心が安定すること=覚り、なんです。ですから、みなさんは、何も覚りを得たい、などという願いは起こさなくてもいいんです。
「幸せになりたい。不安や悩みから解放されたい。心の安定が欲しい」
そう願うだけでいいのですよ。それこそが、広い意味での「覚りを願う心」なのですから、それだけで供養になるのです。
大いに、幸せになること、心の安定を望みましょう。

2、この世のすべてのものを救おうと願うことは大いなる供養である、という教え=資糧供養。
これは、まさに菩薩の境地ですよね。供養になるのは当たり前です。しかし、一切の人々を救おう、生あるものを救おう、なんてことは、いくら思っても実行はできません。まあ、思うだけでもいいのですが、それを口にしたとたん、大きなホラ話になってしまいます。それはそれで、密教的でいいのですが、現実問題としては、無理な話ですよね。
ですから、なにも一切の生きとし生けるものを救おうなんて大それたことは思わなくてもいいのです。少しは、菩薩の手伝いをしよう、でいいのですよ。
菩薩の手伝いとはなにか・・・。それは、ちょっとした親切です。あるいは、友人に対する助言、ボランティア、慈善活動などです。小さなことなら、いくらでもできます。悩んでいる人の話を聞いてあげるだけでもいいのです。助言してあげることができれば、なおいいです。解決してくれるような人を紹介したり、そういうところへ連れて行ってあげたりするのものいいことです。それも菩薩の手伝いなんですよ。
小さなことなら、誰にでもできますよね。これも大きな供養なんですよ。

3、様々なお経を聞き、学ぶことは大いなる供養である、という教え=法供養。
お経は、覚りに至る道が説かれています。それには、いろいろな道があります。近道あり、遠回りあり、険しい道あり、安楽な道あり、難儀な道あり・・・・。どれを選ぶかは、人それぞれです。自分にあった道を選べばいいのです。どの道が正しく、どれが間違っているなんてことはありません。どれもが正しい道です。
その覚りに至る道を説いたお経を聞くこと、学ぶことは、それ自体、大いなる供養になるのです。なぜなら、いくらいいことが書いてあるものでも、読まれなければ意味がないからです。お経は広く人々に読まれてナンボなんですよ。世の人々に、広く伝わってナンボなんです。お経は、読まれなければ意味のないのものなんです。
ですから、お経を読むことだけでも、いや、知るだけでも供養になるのです。この理趣経の解説を読むだけでも、実は供養になるのですよ。

4、般若波羅蜜多を身に保ち、学び、それを説いたお経を読み、書写し、瞑想することは大いなる供養である、という教え=実践供養
般若波羅蜜多は、如来の究極の覚りです。それを説いたお経をいつも身につけていたり、読んだり、内容を学んだり、写経をしたり、内容について考えをめぐらせたりすることは、それ自体、供養になるのです。
般若波羅蜜多を説いたお経といえば、般若心経がありますよね。代表的なお経でしょう。ですから、この般若心経を読んだり、いつも持っていたり、写経したり、内容について学んだり、考えをめぐらせたりすることは、大変な供養になるのです。これは、修行ですよね。覚りに向かうための実践行です。
よく、
「何か実践行ってありませんか?。幸せになるためにできることはありませんか?」
と聞かれますが、
「じゃあ、写経がいいですよ」、「お経を読むといいですよ」、「お経の内容を書いた本を読むといいですよ」
などと答えると、????というような顔をされるんですよ。でも、一般の方が思っている修行って、実際にはあまり修行にはならないんですよね。みなさんは、滝に打たれたり、座禅をしたり・・・・とか考えがちでしょ。でもね、座禅はいいとしても、一人ではできないし、滝なんて打たれてもあまり意味はないしね。本当の修行は、地味で目立たないことなんですよ。
お経を読んだり、写経をしたり、お経の内容を学んだりすることが、最も簡単にできる修行なんですよね。こうしたことを、コツコツやっていくことが、心の安楽への近道なんですよ。

こうした、供養の実践を説き明かしたのが、第9段なのです。ここに説かれた内容は、すぐにでも実行に移せることですね。
以上、第9段です。


第10段
ここでは、能調持智拳如来(のうちょうじちけんにょらい)という如来の姿に変化して教えを説きます。この如来は、一切の魔を破るという摧一切魔菩薩(さいいっさいまぼさつ)という菩薩が如来となった姿です。この如来も菩薩も密教独特ですね。一般的には知られていない、と思います。この如来も菩薩も、いわゆる忿怒尊です。明王系ですね。怒りの形相をした菩薩です。
さて、ここでは、一切の悪・魔を調伏する智慧を説き明かします。それは、4つの忿怒の智慧といわれる教えです。

1、忿怒の平等
すべての生あるものは、すべて平等であるから、自と他の差別によっておこる怒りも、本来は平等性の現れです。そうであるから、そもそも対立的な怒りではないのだ、と理解するべきなのです。つまり・・・・。
怒りの原因の一つに、自分と他人との比較から生まれる怒りがあります。不平等だ、差別だ、という原因からくる怒りですよね。それは、みなさんも経験のあることだと思います。
しかし、そうした怒りは、本来平等であるべきなのに、という思いからきています。つまり、平等性の現れですよね。ということは、その怒りそのものは、悪いことではありません。むしろ、正当な怒りでしょう。
相手の怒りが平等を求めている怒りであるならば、その怒りは悪でもなんでもないのです。そうとしれば、その相手の怒りを鎮めることができるでしょう。こうして、怒りを調伏することができるのです。

2、忿怒の調伏
すべての生あるものは、迷いや因縁、苦の中にあって煩う存在です。こうした、迷いや因縁による悪業、苦しみ自体、なくされるべきものです。ないほうがいいものなんです。それは当然ですよね。誰もが苦しみたくはないですから。ですから、苦というものは、調伏されるべき存在なのです。打ち砕かれるべきものなんですよね。
それは、誰にとっても同じ事です。自分は苦しみたくはないが、アイツは苦しんでもいい、なんてことはありません。苦は、平等に調伏されるものです。片方が苦しんでいるのに、片方が喜んでいる、ということはあってはならないことです。
誰の上にも平等に苦が訪れるように、誰もが平等に苦を調伏できるのです。

3、忿怒の法性
すべての生あるものは、本来は不変なものの展開したもの、現れなのです。本質的には、永遠の存在から生まれ出でたものなのです。みな平等に永遠なる本質から誕生してきたのです。これを法性(ほっしょう)といいます。ですから、逆に言えば、誰もが永遠なる本質の法性を持っているのです。
それが自覚できれば、自分は永遠なる本質から生まれたのだ、法性を持っている存在なのだ、と理解すれば、迷いは去り、あなたを取り巻く魔性のものは粉砕することができるのです。
なぜなら、法性の自覚とは、自分も如来や菩薩と同じところから生まれ出た、と知ることだからです。すなわち、自分も如来や菩薩と同じなのだ、と自覚することだからです。
如来や菩薩は魔に負けません。魔を粉砕します。我々も如来や菩薩と同じところから生まれ出でたものであるなら、如来や菩薩と同じように魔を粉砕できるはずです。
つまり、あなたの怒りには、如来や菩薩と同じ法性があるのです。したがって、その怒りは、魔を粉砕することへ向けらるべきものでしょう。

4、忿怒の金剛性
すべての生あるものは、本来は、完全なる行為をするものです。なぜなら、本質的に如来や菩薩と同じ生まれだからです。しかし、様々な障害によって、如来や菩薩と同じような行動が取れません。欲望にさいなまれ、迷い、苦しみ、不安な日々を過ごしています。
しかし、我々が如来や菩薩と同じ生まれであり、本質的に変わらないと自覚すれば、我々の行動や考えも如来や菩薩と本質的に同じである、と知ることができます。そうした自覚が強くなれば、それはやがて確信へと変わるでしょう。
こうして、金剛の如く強い信念を持つことができるようになります。この強い信念こそが、すべての迷いを打ち砕く忿怒なのです。

このように、一切の迷い、魔性のものを打ち砕く忿怒とは、我々が本来如来や菩薩と同じ生まれである、本質的には変わらない、という自覚であり、さらにそれを強化した信念なのです。
つまり、我々も如来や菩薩と本質的には同じである、という信念を持てば、どんな魔物にも打ち勝つことができるのです。大事なことは、強い信念をもつことなのです。

以上、第10段です。

今回の段は、どちらかというと、実践的な内容です。第9段は供養の仕方であり、第10段は迷いという魔物を打ち砕く方法です。これらは、誰にでも意外と簡単にできるものです。特に供養の仕方は、すぐにでも実践できる内容でしょう。
理趣経には、こうしたすぐに実践できることも説かれているのです。まずは、実践してみることが大事ですよね。


3、理趣経(りしゅきょう)のI

今回は11段からお話していきます。

第11段
ここでは、毘盧遮那如来は、一切平等建立如来(いっさいびょうどうけんりゅうにょらい)に変化し、教えを説きます。この聞きなれない如来は、普賢菩薩が如来になった姿です。普賢菩薩は、ご存知の方が多いのではないでしょうか。お釈迦様と文殊菩薩とセットで「釈迦三尊」となっています。普賢菩薩は、密教においては大変重要な役割を担った菩薩で、密教を修行する修行者そのものを象徴し、また守護する菩薩です。密教修行をする者は、己が普賢菩薩となる、と瞑想し、自覚し、修行するのです、本来はね。さらには、密教修行者は、常に己が普賢菩薩と同じ働きをするのだ、という自覚を持つことを誓っているのです。ですので、我々密教を修行するものにとっては、普賢菩薩は大変重要な菩薩になるのです。

さて、この如来は、これまでの教えのまとめをします。つまり、今まで説いてきた真実なる智慧の道について、4つにまとめて説くのです。

1、一切の現象、存在は、すべて平等である。
この世に存在している差別や区別は、本質的にはないものであり、どんな行為、どんな想い、どんな現象もすべて平等であるのです。本質的には、一切の差別や区別は、ないのですね。それを理解することが真実の智慧なのです。一切の現象の本質的理性を知ることが、真実の智慧への道(理趣)なのです。
確かに、こうした教えは説かれていた段がありましたね。振り返ってみてください。

2、一切の利益は平等である。
一切の現象、存在は、すべて平等であるのだから、その平等性を持ったものが追求する利益は、いずれ平等であるのです。平等である以上、他と自の区別はないのですから、他の利益・自己の利益という区別もなくなり、一切の利益は平等となるのです。これを理解することが真実の智慧なのです。すなわち、一切の利益の平等性を知ることが、真実の智慧への道(理趣)なのです。
このことが説かれていたのは、何段だったでしょうか?。確かに、ありましたよね、この教えは。

3、一切の現象や存在は清浄である。
一切の現象や存在は、すべて清浄であり、汚れてはいません。どんな想いもどんな行動も、その発露は清浄なる想いから発しています。貪りも、怒りも、愚かさも、本来は清浄なのです。そのことを理解することが、真実の智慧なのです。すなわち、一切の現象や存在が清浄であることを知ることが、真実への智慧の道(理趣)なのです。
これは、第4段が中心でしたね。

4、一切の身口意の働きは如来と同等である。
本質的には、一切の存在の身と口と心で行なうこと、行動・言葉・想いは、如来のそれと同じであり、平等であるのです。如来も我々と同じように、行い・言葉を発し・思うのです。そこに本質的な差はありません。これを理解することが、真実の智慧なのです。すなわち、我々の身と口と心での一切の働きは、如来のそれと平等であると知ることが、真実の智慧への道(理趣)なのです。
これが、究極の覚りですよね。我々と如来は本質的に同じである、という自覚が大切なのです。

そして、さらに現象と本質、我々と如来との差別のない、一切平等の境地・・・三摩耶心(さんまやしん)・・・を示し、一切は空ではなく、不空なのであるということを示すのです。

不空は、密教ではしばしばでてきます。仏教では、「一切は空」と説きます。しかし、密教では「不空」と説きます。それは空を否定しているのではありません。空を覚った上での不空です。これじゃあ、よくわからないですよね。ここも密教が難しいといわれる所以ですね。空ですら理解するのに難しいのに、さらに空を覚った上での不空なんて・・・・と思うでしょ。
まあ、でも、難しく考えないでください。空は一切のこだわりをなくした状態であり、不空は一切の平等性を知った状態である、とだけ理解して下されば結構です。それが難しい・・・・確かにそうですね。
もっと極端にいえば、空は現実の否定・不空は現実の肯定、とでもいいましょうか。ちょっと間違ってはいるのですけどね。空は、決して現実を否定しているわけではないですからね。現実にこだわらない状態ですから。
ですから、空は現実に執着しない状態・不空は現実を積極的に受け入れる状態、といった方がいいですね。

たとえば、どんな苦しみもそれは本意的には実体がないものであるから、苦しみそのものは空であると感じ、乗り越える、これが空という考え方です。
どんな苦しみもそれは本質的には、利益があり、清浄であり、如来の感じた苦しみと同じであると理解し、如来との共通性を見出せば、苦も苦ではなくなり、自分にとっては利益あることだと理解することができるのが不空です。
空は、現実から己を乖離すること。
不空は、現実を積極的に受け入れ、己の中で消化してしまうこと。
こういう違いです。わからなければ、直接ご質問ください。
まあ、理解はできても、実践となると空も不空も難しいことでしょう。しかし、どちらといえば、空よりも不空のほうが、身近に感じるように思えます。実践できそうかな、とね。そう思いませんか?。

以上、第11段です。


第12段
ここでは、毘盧遮那如来は、本来の姿である大毘盧遮那如来となり、教えを説きます。その内容は、
「一切の存在はお互いに加持しあう」
ということです。
「加持」とは、「かじ」と読みます。加持の「加」は、如来や菩薩・神々が我々を救おうと思う慈悲のことです。「持」は、我々が如来や菩薩・神々に救いを求める心です。つまり、加持とは、仏菩薩神々の上からの慈悲と我々の下からの求めが合致していることを意味しています。
如来や菩薩・神々は、いつも慈悲心を抱いております。一切の存在を救おう、覚らせよう、という思いを持っています。その思いは、至るところに、どんなところでも、いつでもどこでも存在しています。すなわち、「加持」のうち、「加」はいつでもどこでも存在しているのです。
しかし、人々はその存在になかなか気がつきません。つまり、「加持」のうち「持」がない状態です。これでは、「加持」は成立しません。「加持」は「加」と「持」が見事に出会って初めて成立するものなのです。すれ違いや、行き違い、受け取りそこねなどもあってはならないのです。如来や菩薩・神々は、しっかり送ってくれています。それをうまくキャッチできるかどうかは、受けての問題、つまり「持」の方の問題なのですよ。

さて、大毘盧遮那如来は、この加持が一切の存在のなかで互いにある、と説くのです。これは、神々の中でも、示現の低い神々・・・外金剛部(げこんごうぶ)と呼ばれる神々・・・・に対して説かれます。聞き手は、覚りのレベルの低い神々、というわけです。
外金剛部と呼ばれている神々は、鬼神が大半です。夜叉や羅刹も含まれています。人間の死肉を食らい、魂を食する魔物が多くいます。魔物であれ、一種の神です。魔神ですね。この中には、有名なダキニ天も含まれています。日本では稲荷明神と同等とされていますが、本来のダキニ天は、鬼神なんですよ。神とはいえ、大変レベルの低い神なのです。
さて、そうしたレベルの低い神々に説かれた教えの内容は、次の4種に別れています。

1、一切の存在は如来蔵を持つ
すべての存在は、如来になれる種を持っていると説きます。この如来になれる種のことを「如来蔵(にょらいぞう)」といいます。これは、禅などで説く「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」と同じ意味です。どんな生き物にも、仏性(如来蔵)がある、という意味です。
それはなぜかといえば、一切の存在は如来と平等であり、すべてのものが普賢菩薩の性を持っているからです。本意的に、一切の存在は清浄であり、その身と口と心での行いは如来と何なら変わることはないから、何ものも如来蔵を有するのです。
これは、今まで説いてきたことからもわかりますよね。

2、一切の存在は金剛蔵を持つ
一切の存在は、本来、金剛の如く堅固で不変な智慧の種を持っているものなのです。それは、一切の存在は本質的に如来と平等であるからです。我々は、如来と本質的に平等であるから、如来の持つ金剛の如く不変で不屈で堅固な心の種を本来は持っているものなのです。そこを覚るべきなのです。

3、一切の存在は妙法蔵を持つ
妙法とは、真理のことです。本来、一切の存在は真理の種を持っているのです。それは、一切の存在は、如来と平等の行動と言葉と意思を持っているからです。であるならば、真理に至ることもできるのです。したがって、一切の存在は、真理の種を本質的に持っていることになります。すなわち、真理は己の中にある、ということですね。

4、一切の存在は羯磨蔵を持つ
羯磨とは、「カツマ」と読みます。サンスクリットの「カルマ」の音写です。
「カルマ」というと、「業」と訳しますが、世の中では悪のように言われている言葉です。怪しい霊能者や占い師が、
「あなたの過去のカルマがあなたを不幸にしている、カルマを消し去りなさい。」
などと用いたりします。が、これは大いなる間違いです。やたらに「カルマ」などという言葉を使いたがるモノは、胡散臭いものだと思ってください。
「カルマ」は、確かに「業」です。しかし、その「業」には、「よい業」もあるし、「悪い業」もあるのです。どちらにも属さない「業」もあります。ですので、「業」と訳してもわかりにくいですから、密教では「羯磨」とそのまま音写し、意味を
「身と口と心の働き」
と捉えます。こうすればわかりやすいですよね。すなわち「カルマ」とは、我々の「行為や言葉、思い」なのです。
ただし、ここで説く「羯磨」は、如来の持つ「羯磨」です。つまり、如来の「行為・言葉・思い」です。この如来の「行為・言葉・思い」と同じ「行為・言葉・思い」を一切の存在は持っているのです。如来の行為・言葉・思いと同じようになれる、ということですね。これも、今までに説かれてきたことです。

こうしたことを、大毘盧遮那如来は、外金剛部というレベルの低い神々に説き明かし、
「あなたたちも真理に至ることができるし、その種を有しているのだ」
と教えているのです。鬼や悪魔と忌み嫌われていた魔神たちにも、覚りを得ることはできるのだ、本来覚りの種を持っているのだ、と説いているのです。それは、一切の存在が平等である、ということに由来しているのです。つまり、差別や区別は一切存在しない、ということですね。
差別や区別がなく、誰もが本来の如来蔵などを有しているとすれば、一切の存在は如来と変わらないので、お互いに助け合うことは、お互いに加持しあうことでもあるわけです。すなわち、一切の存在は互いに加持しあっている、のです。このことに気付けば、一切の存在の本来の姿にも気がつくでしょう。
魔神とはいえ、それは本質的には如来と同じであり、魔神や他の存在との区別もなく、魔神と除外されることもなく、他の存在とも加持しあっている、助け合っているものなのです。
つまり、すべては平等なのですね。
この密教の精神を世の中にもっと広めれば、差別のない。区別のない、イジメのない世界になるのではないでしょうか。仏教や密教の教えは、世界が平等である、一切の存在が平等である、と説く唯一の教えなのですよ。
日本は、折角この教えを身近に有しているのに、活用していなんですね。もったいない話です。

以上、第12段です。

今回の段は、結構わかりやすかったのではないでしょうか。また、我々も本来は如来と同じである、という言葉に勇気付けられるのではないでしょうか。苦を空と捉えずに、苦を不空と捉え、受け入れる。それが大事なのでしょう。ここから、覚りへの道(理趣)が開かれるのではないでしょうか。


3、理趣経(りしゅきょう)のJ

今回は13段からお話していきます。ですが、13段、14段、15段というのは、大変短い内容になっています。我々が使っているお経本では、13段・14段は2行(一行半)、15段にいたっては一行にも満たないという長さです。大変短いお経ですが、それでも理趣経の中にあるということは、意味が深く、重要なんですよ。

第13段
これまで覚りに至る道(理趣)について毘盧遮那如来が説いてきました。その教えに感動した7人の女神(七母女天と呼ばれる女神たち)が毘盧遮那如来のおみ足をいただいて、女神たちの4つの願いを述べます。
おみ足をいただくというのは、インドでは最高の礼拝の仕方です。相手の足もとにひれ伏し、相手の足先に自分の額をつけるという礼拝の仕方です。両手両足額を床に擦り付ける礼拝を五体投地といいますが、その後で相手のみ足を頂くという礼拝をします。あるいは、両方を兼ねてする場合もあります。いずれにせよ、最高の礼拝の仕方ですね。

そして、最高の礼拝をしたあと、女神たちは四つの願いを述べます。
1、鉤召(こうちょう)・・・まだ仏道に興味を持たぬもの、近付こうとしないものを様々な方便を使って、仏道に導くこと。
いまだに、仏教に触れていないもや、触れようとしないものに対して、いろいろな方便を用い、仏道へ入る道を作りたい、という願いです。いろいろな方便とは、不安を取り除いたり、病を取り除いたり、あるいは物質的な施しをしたり、といった方法がありますが、結果的に仏道に触れることができるならば、災難を与えるという方便を用いることもあります。
災難や苦難に見舞われたとき、人はなぜこんな目に・・・と考えるでしょう。そうしたとき、その災難や苦難の原因を説き明かすことができる人に出会い、仏法に触れることができたならば、その災難や苦難は、神々が与えたものである場合もあるのです。
災難や苦難により、真実を知ることができたならば、その災難や苦難は、ありがたいものであるわけです。神の与えたきっかけなのです。
こうしたあらゆる方便を使い、人々を仏道に招き入れる道を作ることが第一の願いなのです。

2、摂入(しょうにゅう)・・・仏道に近付いたものを仏道に招き入れ、導くこと。
あらゆる方便を使い、仏道を信じるチャンスを与えた後は、仲間に引き入れることが大事です。つまり、真実を知る道を示し、仏教の教えを理解してもらうように導くのです。教化(きょうげ)ともいいますね。教え導くことです。
方便を使って仏道への道をつけたのはいいのですが、そのまま放っておいたら、また仏道から遠ざかってしまいます。油断すれば、すぐに忘れてしまうのが人間ですね。のどもと過ぎれば・・・・です。災難や苦難にあったあとや解決したときは、真面目に仏教の話を聞いたり、お参りしたりするのですが、だんだん足が遠ざかっていくんですよ。これが現実です。
そうならないよう、教え諭し続け、仏道から離れないようにと、願っているのです。これが第二の願いです。

3、能殺(のうさつ)・・・非道な行為をするもとの悪い欲心を滅ぼすこと。
仏道を学ぶものを邪魔したり、殺生や盗みや邪淫などの悪い行為をするものをなくしたい、という願いです。人々は、素直に教えを受け入れるものばかりではありません。正しい生活を心掛けるものばかりではありません。悪の道に走ったり、悪い行為をすることを是としているものもいます。また、普段はいい人なのに、なんらかの要因により悪の行為に走ってしまう場合もあります。人間の心の中には、善だけでなく悪心も存在しているからです。
その悪心を滅ぼしたい、と願っているのです。ほんの些細な悪心であっても、あるきっかけで大きくなることもあります。ですから、そうした些細な悪心さえも滅ぼしたい、と願っているのです。一切を善の心にしたい、これが第三の願いです。

4、能成(のうせい)・・・仏道を修行するものに覚りを得さしめること。
折角、仏道修行に入ったのなら覚りを得なければ意味がありません。そういう意味では、今の僧侶たちは、全く意味のない存在とも言えなくもありません。現在、存在する僧侶の中で、いったいどれくらいの人が覚りを得ようと願っているのでしょうか?。仏道修行しているのならば、覚りを最終目標にするのは当然のことでしょう。ぜひ、覚りを得て欲しい、と女神たちは願っているのです。
ということは、理趣経が成立したころすでに覚りを得ることは難しいことだったと想像できますよね。でも、そのころは、多くの僧侶たちが覚りを得ることを目指して修行に励んでいたと思います。だからこそ、七母女天は修行者を応援し、修行者が覚りを得ることを願ったのでしょう。いや、今でも願っているのです。これが、第四の願いです。

仏道に触れ、仏道修行に励み、悪い心を滅し、覚りを得る・・・・。それをいつも願っているのです、と七母女天は毘盧遮那如来に告げたのです。

以上、第13段です。


第14段
この七母女天の願いを聞いたマトキャラ天の三兄弟神は感動し、毘盧遮那如来のおみ足を頂き、礼拝します。そして、自らの心を表す真言を唱えます。
マトキャラ天とは、マドウカラ天といい、もとは破壊をする悪神で、三兄弟の神です。それが、再生をし、世界を維持発展するという善神になった神々たちです。その神々が、七母女天の願いを述べた姿に感動し、自分たちも毘盧遮那如来を礼拝したのです。
人の振り見て我が振りなおせ・・・・。昔は、他人の悪い姿を見て、「あぁみっともないことだ、自分はしないようにしよう」と心掛けたものです。今では、悪い姿を見ても知らん振り・・・。見て見ぬ振りですよね。見ぬ振りならまだマシかもしれません。その悪い行為を真似してしまうほどです。道徳心は何処へ・・・・ですよね。
ここでは、その逆です。七母女天の行為を見て感動し、自分たちもそうしたい、と思ったのです。「あぁ、自分たちも正しい道を歩みたい、あのようになりたい」と思い、実行した姿を示しています。
すなわち、「人々よ、あなたたちも七母女天のように願いなさい。礼拝しなさい」ということなのです。そして、そのときの心境を心に刻みなさい、ということなのです。
他人の善い行為を見て、自分たちも学びなさい、ということですね。そして、その感動をいつまでも忘れないようにしなさい、ということなのです。

以上、第14段です。


第15段
15段も14段と同じです。ここでは、四姉妹と呼ばれる女天が、毘盧遮那如来のおみ足を礼拝します。
この四姉妹は、七母女天の四つの願いをそれぞれ受け持って、そのために働くことを誓っています。いわば、四つの願いの担当ですね。その意味を込めて、礼拝したわけです。
この段は、これだけです。

以上、第15段です。

13〜15段は、毘盧遮那如来の教えに導かれ、その手伝いをさせていただきます、という天部の誓いの段なのです。その誓いの証として、毘盧遮那如来のおみ足を頂くという、最高の礼拝をするのです。そういう場面ですね。


第16段
ここでは、毘盧遮那如来は、無量無辺究竟如来(むりょうむへんくきょうにょらい)に変化します。この如来も密教独特ですね。この如来は、真理は無量であり、無辺であり、究極であることを表している如来です。ですので、この段の内容も、そうしたことを説いています。
この如来は、こう説きます。
「今まで説いてきた教えは、際限なく(無辺に)平等にあてはまる教えである。すべての存在において円満にあてはまる教えである。金剛のように不変である真実の智慧にいたる理趣(みち)であることを重ねて説いたものなのだ。」
つまり、これまで説き明かされてきた真実の智慧にいたる理趣・・・みち・・・は、全宇宙において適応される、ということなのです。例外がないのですよ。だからこそ、究極の教えなんですね。そのことをさらに説明しているのが、この段です。続いて、次のように説くのです。
「この真実の智慧は、その量に限りがない。無量である。であるから、一切の如来も無量である。」
真実の智慧が無量ならば、その智慧を具現化している如来も無量であるのは当然ですよね。如来とは、真実の智慧そのものなのですから。

「この真実の智慧は、際限がない。普く行き渡る。無辺であるのだ。であるから、一切の如来も無辺である。」
これも同じ理屈です。真実の智慧が無辺ならば、それを具現化している如来も無辺です。すなわち、如来は全宇宙に行き渡っているわけです。どこにでも、存在しているのですよ。遍在しているのです。ということは、我々も如来の中に生きている、といえますよね。
これが、密教の考えかたです。我々は、大日如来の一部にしか過ぎない、ということです。大日如来の細胞の一部として生かされているに過ぎない存在なのです。
しかし、大日如来の一部なのですから、大日如来と同じともいえるわけです。なぜなら、我々は、大日如来のDNAを持っているからです。こういえばわかりやすいでしょ。ただ、それに気付いていないだけなのです。我々は大日如来の一部である、大日如来と同じDNAを持っていると知れば、大日如来と同じになれるのですよ。不二一体ですね。

「一切の存在・現象は、本質的に平等、すなわち同一性(同じ性質)である。したがって、そのことを知る真実の智慧そのもの同じ性質、同一性である。」
これまで、一切の存在や現象は、本質的に平等であり、清浄なるものと説いてきました。すべては平等で、清浄ならば、すべての存在・現象は、同じ性質のものです。本質的に同じですよね。異なりません。ならば、真実の智慧も同じ性質のものでしょう。真実の智慧といえど、一切の存在・現象から外れてはいませんから。同じ性質上なのです。
すなわち、真実の智慧も、一切の存在・現象も同じ性質なのです。本質的に異ならない、というわけですね。ならば、一切の存在や現象の中に、真実の智慧は存在していることになりますよね。
つまり、真実の智慧は、いつでもどこにでも存在している、ということになります。これが密教です。真実の智慧は、遠くにあるのではなく、すぐそこにあるのです。
覚りは、はるか遠くにあるものではありません。極々身近にあるものなのです。

「一切の存在・現象は、本質的にそれ自体究極である。だからこそ、真実なる智慧も究極である。」
一切の存在・現象は、それ自体が偏在しているものであり、真実の智慧でもあり、平等で清浄なるものであるのですから、本質的に究極の存在といえましょう。覚り自体が、一切の存在・現象の中にあるのですから、一切の存在・現象は、究極なのです。
つまり、我々は、目の前に究極を見ているわけです。それに気付けば、それを理解すれば、究極の真実の智慧に至るのですよ。
これも、覚りはどこにでもある、ということと同じですね。

ここまで説いて、もともとの聞き手である金剛手菩薩に話しかけます。
「金剛手よ、もしこの理趣(みち)を聞いて、受持し、読誦(どくじゅ)し、思惟するならば、彼のものは御仏や菩薩の究極の境地を得るであろう」
これは、多くの大乗経典にある閉めの言葉と同じです。どんな経典でも、
「この教えを聞くもの、読むもの、いつも身に保つもの、心にこの教えを思い巡らせるものは、仏や菩薩の覚りを得るであろう。」
というものです。こうした言葉は、ほとんどの大乗経典に書かれています。同様にこの理趣経にも書かれているのです。
「この理趣経を聞き、いつも身につけており、よく読み、その教えをよく考え、思いをめぐらせるならば、そのものは、御仏や菩薩と同じ境地に至るのである」
と説いているのです。
「どんなお経にもそう書いてあるなら、なんだかうそくさい。自己宣伝みたいな感じだ」
と思うかもしれません。しかし、そうでもないのです。本当に、それらのお経をよく読み、内容をしっかり理解すれば、そのお経に説いてある境地に至れるものです。疑う前に、よく読みこむことが大事ですね。

ということで、この段は、
「真実への理趣(みち)を説いてきたこのお経の内容が、無量無辺であり、究極の教えであるから、よく聞き、よく読み、いつも教えを保ち、心に思い巡らせよ、そうすれば、如来や菩薩と同じ境地を得られる」
と説いているのです。

以上、16段です。


3、理趣経(りしゅきょう)のK
理趣経も終わりに近付いてきました。今回は、最終段の17段の内容についてお話いたします。

第17段
ここでは毘盧遮那如来は、得一切秘密法性無戯論如来(とくいっさいひみつほっしょうむけろんにょらい)に変化して教えを説きます。その教えとは、「初めも中も終わりも最も勝れた教え」であり、「大いなる楽で金剛の如く不変不壊で決して空しくない境地」であり、「金剛の如く不変なる真理を知る真実の智慧に至る理趣(みち)」であるのです。そして、その教えとは、次のようなことです。

1、菩薩は、我欲を離れ、最も勝れたる大いなる欲を持つがゆえに、「大いなる安楽を得る最も勝れた境地」に至る。
2、菩薩は、大いなる安楽を得る最も勝れた境地に至るがゆえに、一切の如来が住する「最も勝れた大いなる菩提」を完成し成就する。
3、菩薩は、一切の如来が住する最も勝れた大いなる菩提を完成し成就するがゆえに、一切の如来が持つ「大きな強い力の魔であっても粉砕する最も勝れた徳」を完成する。
4、菩薩は、いかなる強い力を持つ魔であっても粉砕する徳を持つがゆえに、一切の世界において「自由自在の境地」に至る。
5、菩薩は、一切の世界において自由自在の境地に至るがゆえに、一切の生あるものが生死に迷い流れることを止める。
こうして、大いなる精進の心により、常に一切の生死のあるものを救い、利益や安楽を与え、最も勝れたる究極の境地に至らしめるのである・・・・。

これはどういうことなのか、順に解説しましょう。
1、菩薩は、我欲を離れて大きな欲を持っています。菩薩は、自分が目立とうとか、自分が助かろうとか、自分の利益になることをしようとか、そうした小さな自分中心の欲を捨て去っているのです。それよりも、すべての生あるものを救おう、生あるもののために働こう、すべての生あるものの安楽を願おう、という、大きな欲を持っているのです。
つまり、個人的な小さな欲望を捨て去り、不変的な大きな欲望を持っているのです。そうした大きな欲望は、一切の生あるものを大いなる安楽の境地に導くものなのです。
したがって、菩薩は、大きな欲望があるからこそ、一切の生あるものを「大いなる安楽の境地」に導くことができるのです。そして、それは菩薩自身の大いなる安楽の境地でもあるのです。一切の生あるものを安楽の境地に導けば、菩薩も大いなる安楽になるのですよ。
これは逆に言えば、「自分の損得のことばかり考えていては、人を導くなんてことはできない」、と言うことと同じです。社会において、たとえば経営者などは自分の利益のことばかり考えていては、社員はついてこないでしょうし、会社自体もうまく廻らないでしょう。自分の利益だけでなく、社員の利益や社会に対する貢献度などを考えていかないと、いい企業にはなれませんし、会社自体の将来も見えてしまうでしょう。
考えてみてください。日本の政治家なんて「自分の利益、自分の党の利益しか考えてないから、国民を幸せにすることはできない」のですよ。彼らは、菩薩から最も遠いところにいるわけです。
こうして考えてみれば、1の意味はよくわかると思います。我欲を離れ、大きな欲を持った時、人々はついてきてくれるし、人々を導くことができるのです。そうなれば、自分自身も幸せになれるのです。

2、大いなる安楽の境地とは、それはそのまま菩提・・・覚り・・・の境地です。大いなる安楽の境地、そうした精神状態というのは、そのまま覚りなんですよ。覚りとは、究極の安楽な状態なのですから。
したがって、大いなる安楽を得ることができれば、覚りも得られるのです。

3、究極の覚りを完成していれば、どんな魔も粉砕することができるでしょう。魔とは、己を迷わすもののことです。自分を誘惑し、迷わし、惑わし、悩ませる煩悩のことです。覚りを得ているのですから、その魔がどんなに強くあろうとも、負けることはありません。すべて粉砕です。それが覚りの力なのですから。

4、一切の魔を粉砕する力を持っていれば、何ものにもとらわれなくなるので、その心は自由自在でしょう。どんな魔が襲ってこようが平気なのですから、恐れるものはありません。また、何も執着することもないでしょう。恐れるものがない、執着するものがない、ということは、自由自在の境地なのです。心が完全に解き放たれている状態ですね。

5、心が自由自在であるのだから、すべての生あるものの根本的な迷いのもとである生死の流れを止めることができるのです。我々の悩みや迷い苦しみのもとは、生死の輪廻に流されていることにあります。生死の輪廻から出てしまえば、迷いの世界から抜け出ることができます。
何ものにもとらわれない心、すなわち自由自在の境地に至れば、その境地に生あるものを導くことにより、生死の輪廻の流れを止めることができるのです。なぜなら、何ものにもとらわれていないからです。
自由自在の境地に至ったものは、すべての輪廻の流れを止める力を持つのです。

この教えの流れを簡単に示すと、
我欲を捨て大欲を持つ
  ↓
大いなる安楽を得る
  ↓
究極の覚りを得る
  ↓
一切の魔を粉砕する
  ↓
自由自在の境地に至る
  ↓
生死の輪廻の流れを止めることができる

となります。この方がわかりやすいですね。菩薩は、このようにして、大精進・・・大いなる努力・・・をして、生あるものを救っているのです。いや、それは生あるものだけでなく、輪廻する世界に存在するものすべてを救っているのです。
このような菩薩の道を通って、空でない金剛の如く不変不壊の世界に至るのです。したがって、この道をたどっていけば、その世界に入れるのです。まずは、菩薩のまねをして、我欲を大きな欲に変えることですね。

ここまで説いたあと、理趣経は偈文(げもん)にはいります。この偈文を通常「百字の偈(ひゃくじのげ)」と呼んでいます。この偈文は、理趣経の全段が読めない場合(時間が無いなど)に、理趣経全体の代わりとして読むこともあります。すなわち、この百字の偈文の中に理趣経の教えがつまっているのです。
どんな内容か紹介しておきます。(本文は読み方がありますので、ここには書きません。興味のある方は直接お尋ねください)。
−−百字の偈−−
菩薩は勝れた智慧を持ち、一切の生死が尽きるまで、恒に衆生の利をなし、あえて涅槃に趣かず。
方便と般若(真実の智慧)も、智慧のおよばぬものはない。一切の存在と現象も、すべて皆清浄なるものである。
欲が世間を調え、よく清浄になすがゆえに、有頂天(勝れた魂)も悪趣(あくしゅ、最悪の存在)も、悉く付き従う。
蓮が泥に染まらぬように、垢に染まることもなし。すべての欲もそれと同じく、邪に染めることなく生あるものに利をなす。
大いなる欲は清浄なり。大いなる安楽は富みさかえる。三界に自在を得て、よく堅固なる利を成就する。

意味は、大体わかると思います。理趣経で説いてきた内容の要約です。
菩薩は、この世の存在が尽きるまで、自分自身は覚りの世界へは行かないのです。これは、お大師様の誓いである
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」
と同じですね。お大師様は菩薩の境地に至っていたのです。まさに、この理趣経の百字の偈の最初の経文です。
智慧は何ものよりも勝れていて、不浄という存在はありません。これも、理趣経の根本テーマですね。一切は清浄である、という教えです。世間の欲もまた清浄なのです。天界の最高位に存在する魂であろうと、地獄の一番下でうごめく悪の魂であろうと、その存在そのものはすべて清浄なのです。
すべてのものは、泥のような苦しみの中から生まれ、あるいは存在しているにもかかわらず、その泥・・・苦・・・に染まることなく、清浄なのです。菩薩は、それを説き、一切の存在に利益をもたらすのです。
大きな欲望は清浄です。大いなる安楽は、豊かで富めるものなのです。欲界・色界・無色界の三界(輪廻の世界すべて)において、自由自在なる存在となり、不変不壊の利益をもたらすのが菩薩なのです。
とまあ、このようなことが説かれているのですよ。

さて、ここまで説いた如来は、聞き手である金剛手菩薩に話しかけます。
「金剛手菩薩よ、もし、この般若理趣を聞き、日々朝に唱え、あるいは聴くものがあれば、そのものは一切の安楽と快適な境地を得ることができ、大いなる安楽の金剛の如き不空で不変な究極の境地に至るであろう。現世において一切の現象や存在の自由自在と悦楽を得るであろう。十六大菩薩の生を得て、如来と同じ不変不壊の境地に至るであろう。」
これが、理趣経17段の最後の言葉です。
これは、どんなお経にもあります、「このお経の功徳」を示した言葉です。つまり、この理趣経を読むか、あるいは聴くかすれば、
1、一切の安楽を得る
2、精神的に快適な気持ちになれる
3、ゆるぎない不動の心を得ることができる
4、現世において自由自在の心と安楽と喜びを持てる
5、十六大菩薩(理趣経に登場した菩薩など)と同じ境地に至ることができ、それらを通して、やがて如来と同じような不変不壊の究極的世界に至ることができる
のです。これが、理趣経のご利益なんです。

まさか〜、と思う方は、毎日毎日欠かさず読んでみてください。究極の境地には至れなくとも、
「あぁ、なるほど」
という境地には至れるでしょう。確かに、楽を得られます。この身このまま、現実世界において、です。死んでから極楽に行くのではなく、現世において覚りの世界を垣間見ることができるのですよ。
自由自在の心を得られるでしょう。野に遊び、空を飛び、安楽の世界を駆け巡る・・・・そんな気持ちになれるでしょう。
観音様の清浄なる境地、虚空蔵菩薩の智慧の世界、降三世の悪趣を粉砕する力、文殊菩薩の理論理屈を超えた理の世界・・・・・。そうした世界を巡ることもできましょう。

これはどのお経でもそうなのですが、功徳がわかるまで読み込んでください。
「いくら読んだって利益なんてない、意味はわからないし、悟れない」
といって、途中でやめないことです。
「そうか、そうだったのか」
という瞬間に必ず出会いますから、そこまでやめないでください。途中でやめたらそれで終わりです。別のお経に乗り換えても同じです。どんなお経でもいいですから、そのお経を信じて読み続けてください。必ず、わかるときが来るでしょうから。
それがお経の功徳なのです。ちゃんと悟れるようにできているんですよ。

以上、第17段です。

3、理趣経(りしゅきょう)のL

長かった理趣経のお話も今回で終わりです。最後は「流通(るつう)」と呼ばれている結びの言葉の部分です。
一般的に、お経は大まかに「序品・本文・流通」と分かれています。もちろん、序文や流通がない場合もありますが、多くはこの形をとっているようです。
今回は、理趣経の流通についてお話いたします。

流通
前回までの話の流れで、ここでは一切の菩薩たちが、聞き手であった金剛手菩薩を取り囲んでいます。そして、すべての如来や菩薩たちが集まり来たり、誓いをたてます。
「毘盧遮那如来が様々な姿に変化して説いたこの般若理趣を、決して空しくしないように、何ものもさまたげないように、速やかに自ら完成させましょう」
と願い誓うのです。そして、聞き手であった金剛手菩薩を皆で讃え、こう唱えるのです。

「善きかな 善きかな 大いなる菩薩よ
善きかな 善きかな 大いなる安楽よ
善きかな 善きかな 大いなる教えよ
善きかな 善きかな 大いなる智慧よ
善くこの教えを説くときは
この経に金剛の加持力あり
この最も勝れた教えの王を身に持たば、
一切の魔性も禍をなすことなし。
如来や菩薩の最も勝れたる地位を得、
諸々の願いを成就すること速やかなり。
一切の如来や菩薩は
ともにこの勝れた教えを説き終わり、
この教えを聞くものすべてを成就なさしめる。
皆々が大いなる歓喜を信じ受けるであろう。」

意味はだいたいわかると思います。大菩薩である金剛手菩薩を褒め称えているのですが、同時にこの教え「般若理趣経」自体を褒め称えてもいるのです。
すなわち、この教えを聞かば、大いなる菩薩となり、大いなる安楽を得るのです。だからこそ、大いなる教えであり、大いなる智慧なのです。般若理趣経を聞くものは、大いなる智慧者となるのです。
こうした勝れた教えである般若理趣経は、お経そのものに如来の加持力・・・摩訶不思議な力・・・・が備わっているのです。ですから、この教えを守るものは、どんな魔物も魔性のものも、どんな障害も、何の効力も発揮しないのです。理趣経を守るものは、そうした魔物によって破滅させられることはないのです。それほど、勝れた教えを説いているのです。
こうした勝れた教えである般若理趣経を実践すれば、如来や菩薩の勝れた智慧を得ることができ、究極の目的である覚りを成就することも可能なのです。
また、この教えを説く如来や菩薩は、この教えによってあらゆるものを救い、覚りへと導くのです。この教えを聞き、実践すれば、誰もが大いなる喜びを受けることができるのです。
という内容ですね。
簡単にいえば、理趣経の功徳を説いているわけです。理趣経を聞き、その内容を理解し、実践していけば、すべてを成就することができるわけですね。

究極の覚りは無理にしても、様々な禍からは逃れたいと思うのが人間です。そういう場合、この理趣経というお経は、大変力があると思います。これは、経験上からお話しています。確かに理趣経を読めば、様々な禍から救われる、そう思います。自然に助かる方向へと導かれているような、そんな感じがします。何がどう、と具体的なことは言えませんが、
「あぁ、救われているなぁ・・・」
と実感はできます。興味のある方は、理趣経を読むことに挑戦してみてもいいのではないでしょうか。
ただし、理趣経は密教のお経です。仏教の基本的素地ができていないと、理趣経に拒否されることもあるかもしれません。まずは、仏教の基本的な教えから学んだ方が無難だとは思います。

以上で、理趣経の内容についてのお話は終わりです。皆さん、ご理解できたでしょうか?。理解できなくてもいいのです。わからなくて当然ですから。むしろ、
「よくわかりました。理趣経はすごいですねぇ。」
なんていわれたりしたら、私の方が困ってしまいますよね。密教経典の一つである理趣経はそう簡単にはわからないものです。なぜなら、経験を通さないといけないからです。文字を解説し、意味を説明して「わかる」ものではないのです。
最澄さんの「理趣経の解説本・理趣釈経を貸して欲しい」という願いにお大師様が怒ったように、理趣経は読んでわかるものではないのです。
ではどんな経験が必要なのでしょうか。
私たち密教の僧侶は、「理趣経法」という作法を学びます。簡単にいえば理趣経の瞑想法ですね。理趣経自体を瞑想するのです。そうした経験を通して、理趣経を理解していくのです。
しかし、これだけでは私は理趣経は理解できないと思っています。では何が必要でしょうか・・・・。
それは、泥にまみれることです。現実世界をたっぷり味わうことです。

現実世界をたっぷり味わうとはどういうことでしょう。
それは欲にまみれて苦しむことを意味しています。欲望にまみれ、欲に苦しむ己を見つめ、もがき苦しみ、それでも欲を捨てきれない・・・・・。そうした泥にまみれた人のほうが、理趣経は理解しやすいのではないでしょうか。
なぜなら、理趣経は他のお経と違い、
「欲を捨てるな」
と説くからです。
欲は捨てる必要はない、大いに欲をもて、現実を認めろ、泥にまみれても本来は清浄だ、苦労は苦労ではない、愛に生きろ、愛することは穢れではない、愛欲は清浄だ、現実世界は苦ではなく清浄なる世界なのだ!・・・・。
こんなことを説くお経は他にはないでしょう。完全なる現実肯定。現実を見つめてこその覚り・・・・。
それを説き明かしたのが理趣経です。ですから、現実世界で大いに泥にまみれ、苦労をし、現実世界を受け入れることができたものの方が、理趣経はわかるのですよ。現実の苦を味わったものの方が、理趣経はわかるのです。机の上で文字や文をこねくり回し、理屈ばかりを説いているものには、理趣経の真意はわからないでしょう。

なので、理趣経こそ、現実の世界に生きる我々人間のためのお経なのです。密教は、現実の中に救いを与える教えです。ですから、かえって理解しにくいのでしょう。しかし、現実を生きる我々にとって見れば、現実の生活を離れることなく救われるということがあるので、とてもありがたい教えなのですよ。
理趣経について、さらに詳しく知りたい方は、メールではなく直接ご質問ください。以上、理趣経でした。
合掌。




ばっくなんばあ〜13


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