ばっくなんばぁあ〜13

第 六 章

「いろいろなお経」

今まで、一通り名前の知れたお経について話をしてきました。とはいえ、そのお経は、私たち真言宗で読むお経に限定されております。私たちが読まないお経については、なんの解説もしておりません。
たとえば、阿弥陀経についてのお話もしていません。普段、読みませんからね、阿弥陀経は。真言宗では、阿弥陀経類は読まないんですよ。なので、私は、元になるお経も持っていませんし、内容も知りません。
そういうお経が実はたくさんあります。私が読んでいるお経は、膨大な量のお経の中のほんの一部なんです。

お経は、どのくらいの量があるのかといいますと、一般的にお釈迦様の教えが「八万四千の法門」といわれるくらいですから、それぐらいはあるのでしょう。ともかく膨大な量です。それは、「一切経(いっさいきょう)」としてまとめられています。あるいは、「大蔵経(だいぞうきょう)」ともいわれています。
そのすべてをここで解説するわけにはいきません。しかも、そのお経すべてが本物、とはかぎりません。いわゆる偽のお経・・・・偽経(ぎきょう)・・・・もあります。本物のお経と偽経と分けて、それを解説していくなど、時間がいくらあっても足りませんし、そんな能力もありません。なので、代表的なお経のみに絞ってお話をしていきたいと思います。
ただし、全部を解説するのではなく、省略して
「こんなことが説いてあるお経ですよ〜」
というお話をしていこうかと思っています。今回は、その一回目ですので、代表的なお経にはこんなのがある、というお話をしていきます。

と、その前に、本物のお経と偽のお経、という話が出たので、それについて先にお話をしておきます。
お経にニセモノがあるのか、と思う方もいらっしゃることでしょう。実はあるんですよ。それは、後世に何の根拠もなく、自分たちの都合に合わせて作られたお経、なのです。
ただし、偽経の中には、確かに偽だけど仏教的で内容がしっかりしている、と言うものもあります。偽とわかっているにもかかわらず、広く仏教の世界で伝わっているお経もあります。お経は、結構複雑なんですよ。
何を以ってニセモノというのか、まずはそこが問題ですよね。その理由付けにはいくつかあります。
@サンスクリット語で書かれた原書がない。
A内容が中国的である。
Bある宗派のみを上位とする教えなどが含まれており、内容に偏りがある。
とまあ、こんなところが根拠となりましょうか。

お経というのは、お釈迦様が涅槃に入られてから約250年ほど後(異説多々あり)から作られるようになりました。お釈迦様がいらしたときには、お経は存在しなかったのです。
お釈迦様は、自分が説いた教えを書き記す、書き残すことをしませんでした。それは当時のインド人の習慣でもあったのでしょう。当時のインド人は大変記憶力がよく、頭がよかったのですよ(現在もインド人の方は優秀ですよね。特にPC業界では、優秀な方が多くいらっしゃるようです)。
がしかし、大きな理由としては、
「教えを書いて残し、それを読むだけでは覚れない」、「書き残したものを読めば、文字へのこだわり・内容へのこだわりが生まれ迷うだけである」、「教えは実践するものであって、読むものではない」、「書いて残せば頭に入らず、覚えることができない」・・・・
などがあげられるでしょう。文字や文章に執着して、本当の修行にならない、というのが大きな理由だったのではないかと思います。

その当時はそれでもよかったのです。お釈迦様がいらしたから。教えを忘れてしまったら、再度教えを請えばいいのですから。また、お釈迦様の直弟子がいましたから、その方に教えを学べばよかったのです。
ところが、お釈迦様が涅槃に入られたあと、さらには直弟子もいなくなり、その弟子もいなくなり・・・・・していきますと、元の教えがあやふやになっていってしまうのです。伝言ゲームと同じですよね。
こうなると、お釈迦様の教えはどんなものだったか、確たることが言えなくなってきます。そこで、いっそのこと書き物にして残しておこう、という話がまとまったのですよ。お釈迦様が涅槃に入られてから250年ほどたった弟子たちの間でね。
教えの再確認をして、間違いが起きないように、それを書き残そう、と決定したのです(紀元前25年頃とも言われている。そうなれば、お釈迦様が涅槃に入ってから約500年の後、となる)。

お釈迦様の教えを再確認する集会(結集・・・けつじゅう・・・という)は、それまでにも何度か行なわれていました。初めて行なわれたのは、お釈迦様が涅槃に入られて1週間後(異説あり)のことでした。場所はマガダ国の首都ラージャグリハ近くで500人の僧が集まり、弟子たちの記憶に従い、整理したのだそうです。その時に、もっとも教えを記憶していたのが、お釈迦様の従者をしていたアーナンダでした。アーナンダは、
「このように私は聞いた。ある時、世尊が・・・・の精舎に滞在中のこと・・・・・。」
という始まりかたで、その時に聞いた教えを語ったのです。この形式は、後の結集にも受け継がれていきます。

2回目の結集は、お釈迦様が涅槃に入られて100年後に行なわれたそうです。この時点で、お釈迦様の弟子たちは大きく二派に分かれていたそうです。それは、出家修行主義の上座部、民衆と共に修行しようという大衆部です。上座部側が、大衆部を批判して、お釈迦様の教えを再確認し、お釈迦様の教えを守ろうということで開かれました。
3回目は、アショーカ王の時代(紀元前250年頃)です。この時に、お釈迦様の教えをインド全般及びセイロン、諸外国に広めるため、初めて聖典を編纂したと言われております。ただし、この時の聖典は、口伝のみでした。まだ、文字にはしていなかったようです(異説あり。この時点で若干は文字にされたのではないか、という説もある)。
4回目は、セイロンで紀元前25年頃に開かれたそうです。この結集で初めて聖典を文字化したそうです。これが、お経の原典ですね。
また、別の説としては、紀元2世紀のカニシカ王時代に4回目の結集があった、ともいわれています。
いずれにしても、この頃のお経が、パーリ語(インドの庶民的な古い言葉)で写されたり、チベットに伝わりチベット語に訳されたりしました。
こうしたお経が、たまに発掘されたり、出土したりしたのです。これらが、パーリ語原典とかチベット語原典、と呼ばれるようになったのです。以後、様々な経典が編纂され、作られていくようになります。それは、紀元10世紀頃まで行なわれたそうです。

4回目の結集で、お経が書かれ始めたときは、お釈迦様の教えを忠実に残そうという意図からであり、特に上座部の弟子たちによってまとめられました。それまで口伝として聞いてきた教えを
「このように私は聞いた。世尊が・・・国の・・・・の精舎に滞在のとき、弟子のアーナンダに説いた・・・・。」
という古来からの形式で書き残していったのです。このときまとめられたお経は、お釈迦様の直接の教えとして上座部に伝わっていた教えと、戒律、教えに対する解説や論、でした。ここに、経・律・論という三蔵が生まれました。
(古来、優秀な僧侶になるためには、この三蔵を修めることが条件でした。あの玄奘三蔵も経・律・論の三蔵を修めたがために玄奘三蔵と呼ばれるようになったのです)。
このような上座部系のお経を初期経典といいます。

ところが、これを契機に、他の派も「自分たちの教えこそが正統である」という主張をするためと、自分たちの教えを広めるため、次々とお経を作るようになります。上座部と同じように、経・律・論をまとめていったのです。ただし、経は、出家主義の内容ではなく、出家しなくても救われるのだ、という内容を中心としてまとめていきました。
これが大乗経典の始まりです。
大乗経典を編纂し始めた派は、さらに別の派を生み始めます。その派は、様々に枝分かれしていきます。そして、ついには、インド古来の土着宗教やヒンドゥー教の要素を取り入れた派が出現します。そこから、密教が誕生するのです。

この流れからすると、密教経典は、まさに偽のお経じゃないか、と思う方もいらっしゃるかもしれません。密教経典が完成したのはお釈迦様が涅槃に入られてから随分後のこと(密教経典の成立は7世紀頃、といわれています)になります。実際、上座部の経典では禁止されていた呪術や真言が、密教経典では中心的役割を果たしています。
しかし、その内容や精神は、お釈迦様の教えを忠実に継いでいるものでしょう。でなければ、別の宗教として栄えたはずです。密教は「秘密仏教」です。仏教・・・お釈迦様の教え・・・の秘密の部分を説き明かした教えです。
なので、密教も仏教の一員であり、その教えの元であるお経もニセモノとは言われないのです。もし、密教経典が、偽経というのならば、お経のすべてが偽経とされてしまうでしょう。また、密教経典はサンスクリット語やパーリ語、チベット語の原典も存在しています。中国で勝手に作られたものではないのです。

偽経は、中国でつくられ、サンスクリット語やパーリ語、チベット語の原典がないお経のことです。また、インドにはいない神々の名前が登場したり、道教的呪術があったり、儒教的教えがあったりするものを言います。怪しい呪術系のお経などは、偽経の部類に入るものが多く存在しています。

ここで紹介するお経は、そうした偽経の部類に入るものは、省いていきたいと思っています。また、なるべく有名なお経について、その中心的な内容をお話していこうと思っています。今、紹介しようかな、と考えているお経は次のお経です。
@上座部系(初期経典)
阿含経類、法句経、ジャータカなど。

A大乗経典
般若経、浄土経類、法華経、維摩経、華厳経など。

なお、密教経典については、ほぼ解説いたしましたので、これ以上はお話はしません。
このような順で、お経のお話を進めたいと思います。次回は、阿含経類のお話です。ということで、次回より新しい内容でスタートいたします。合掌。


@初期経典・・・阿含経
今回から新しい内容でお話いたします。まずは、初期経典についてです。主な初期経典は、
*阿含経(あごんきょう)
*法句経(ほっくきょう)
*ジャータカ
などが挙げられます。まだ、ほかにもありますが、よく出てくるお経はこれぐらいですね。
では、順に紹介していきます。

*阿含経
遊行経(ゆうぎょうきょう)とも言われでいます。4種類・・・・長阿含、中阿含、雑阿含、雑一阿含・・・・に分かれています。お釈迦様が初めて法を説いてから涅槃に入るまでの、およその過程が説かれています。キリスト教の新約聖書に似ていますね。いつ、どこで、どんな内容の教えが説かれたか、ということを時の流れに従って記されている、と思っていただいて結構です。釈尊伝(お釈迦様伝)は、多くはこの阿含経によっています。
ですので、お釈迦様が教えを説き歩いていたことを記した、ということで「遊行経」ともいうのです。(仏教では、「遊行」とは、教えを説いて回る、という意味です。遊びまわることではありません。)
内容は、仏教の基本を説いています。
四諦八正道、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦、十二縁起、戒律などが中心に説かれています。また、覚りにいたるための実践方法として、三十七道品(どうほん。三十七菩提分法・・・ぼだいぶんぽう・・ともいう)という三十七種類の実践方法を説いています。
全体の流れとしては、お釈迦様が弟子を持ち始めたころから涅槃に至るまでの過程も含んでいますので、当初の内容は修行方法も簡単です。弟子の数が増えるにしたがって、戒律や修行方法も増えていきます。当初は、四諦八正道などから始まっています。

四諦・・・この世は苦である(苦諦)、苦の原因は欲である(集諦・・・じったい)、欲を滅するための(滅諦)、方法がある(道諦・・・どうたい)。
というのが、四諦です。般若心経にも出てくる「苦集滅道」のことですね。まずこれを認識しましょう、とお釈迦様は説きました。
この世は苦である、ということの理由として、諸行無常・諸法無我をあげています。また、苦の種類として、
四苦八苦・・・生老病死の苦に、愛するものと別れる苦・愛別離苦(あいべつりく)、嫌な人と会わなければならない苦・怨憎会苦(おんぞうえく)、求めるものが得られない苦・求不得苦(ぐふとっく)、心と体のバランスが崩れてどうしようもなくなくなる苦・五蘊盛苦(ごうんじょうく)
がある、と説いています。こうした苦しみがあることをたとえ話などを通して説いているのです(苦諦)。
で、この世が苦であることを認識したら、その苦の原因を探れ、と説きます。すると、それは受け入れたくない、認めたくない、欲しい、手に入れたい、ああしたい、こうしたい・・・などという欲が原因である、ということがわかります(集諦)。
その欲を消してしまえば、悟りが得られるよ、と説きます(滅諦)。
その、欲を消す方法があります(道諦)。それが八正道なのです。

初めのころは、八正道という実践方法が主体でした。(八正道は「お気楽、仏教講座」のまとめをご覧ください。そこには、縁起や苦、因果応報など、初期仏教教典に説かれていることがまとめてあります。参考にしてください)。
まずは、八正道を実践することが重要だったのです。
ところが、弟子が多くなり、ルールが必要となると、戒律が生まれてきます。問題を起こす弟子も出てくるわけですね。そうした問題が起こるたびに、戒律は増えていきます。そんなことも、阿含経には説かれています。
弟子のだれそれが、こんなことをしてしまった。それはいいけないことだから、今後はしないようにしましょう。で、そのことを教団の戒律とする、などといったようなことです。そして、戒律の重要性が説かれます。
また、神通力を欲するものも多く出てきますし、神通力についての記述も多く出てきます。修行が、悟りを得るためのものではなく、神通力を得るためのものへと流れていかないように、修行方法も増えていきます。最終的には、三十七種類になります。それを三十七道品(さんじゅうななどうほん)といいます。

三十七道品
*四念処・・・この世が浄であり、楽であり、我があり、永遠であるという間違った考えを正すための修行です。すなわち、この世やこの世に存在するものは不浄であると認識すること、この世は楽ではなく苦であると認識すること、我は本来ないもので無我であると認識すること、この世に永遠のものはなくすべて無常であると認識すること、を会得せよと説きます。
*四正勤・・・自分の善悪について
        @すでに起こっている悪を断つこと
        A未だ起こっていない悪を起こさないこと
        B未だ生じていない善を起こすこと
        Cすでに起きている善をさらに大きくすること
つまり、悪いことをしないで善いことをする、ということです。また、悪いことをしているならすぐに止めて、善いことをしているならさらにやりましょう、ということですね。
*四神足・・・神通力を得るために、修行の意欲を持つこと・修行の努力をすること・正しく思念すること・正しく考えよく観察することです。間違った考えや方法で神通力を得ようと思っても得られません。ですので、正しい方法を説いています。
ただし、神通力はあくまでも覚りに至る過程における副産物です。これは、方便なのです。
悟りよりも神通力を得たい、と思うものはおそらくたくさんいたことでしょう。そうなると、仏教教団は、単なる神通力養成所になってしまいます。そこで、「神通力を得たいのなら、まずこの四神足を行え」と教えたのです。そうすれば、神通力が目的であっても、そのうちに悟りが目的となっていくのです。なぜなら、正しく思念することと、正しく考えよく観察することが含まれているからです。その思念や観察を通すと、神通力は悟りへの副産物である、ということがわかるようになっているんですね。ですので、この修行は、あくまでも方便ですね。
*五根・・・信仰を持つこと、精進すること、正しく念じること、禅定をすること、智慧を磨くこと、の五つの修行をすることを言います。
*五力・・・欺瞞な行為をしないこと、怠けないこと、怒らないこと、恨まないこと、妬まないことの五つの過ちを起こさないようにする修行です。
*七覚支・・・正しく念じること、法をよく聞くこと、努力すること、悟りを得るための修行を喜びとすること、イライラしないでリラックスすること、瞑想をすること、欲や執着を捨てること、を修行します。
*八正道
以上が三十七道品です。中には、重なっているものもあります。同じ内容のことが出てくるんです。多いのは「念」や「定」、「精進」ですね。正しく考え、正しく瞑想し、努力することが必要なのです。

こうしたことは、阿含経だけでなく、初期経典には多く出てきます。
しかし、このような修行は出家しなければ無理なことです。戒律も出家しなければ守れません。つまり、阿含経を始め、初期経典では、
「悟りを得たいのなら出家して修行しなければならない」
と説いているのです。在家では輪廻を解脱することはできない、としているんですね。在家は、天界に生まれ変わることを目指しなさい、と説いているのです。
上に示した悟りを得るための修行は、出家しなければ当然無理な内容です。普通の仕事をしていて、あるいは、家庭のなかで三十七道品を実践しようとしても、まず不可能でしょう。出家したものしかできない修行方法なのです。多くの人々を相手にした内容を説いているわけではないのですよ。
ですので、初期経典は「出家至上主義」なのです。そのために、後に大乗経典が出てくると、初期経典は「小さい教え、個人さえ救われればいいという教え」という意味から「小乗仏教」と呼ばれるようになるのです。

さらに、阿含経をはじめ初期経典は、祈祷や祈願のような作法、呪術、火を祀ることなどを否定しています。そんなことをしても悟りは得られない、ということです。それは、このように説いてあります。
「一日千回神を祀る行事を100年しても、よく修行のできた出家者(僧侶)に食を施すことのほうが功徳がある」
こうして、儀式や呪術を否定しているんですよ。
(新興宗教に、阿含経から名前を取った宗派があります。阿含に宗をつけた名前の宗教団体です。その教団ができたころ、お経の中でお釈迦様が説かれたものは阿含経だけだ、阿含経に説かれたことが大事だ、と標榜していました。確かにそれには一理あります。が、しかし、その教団は、阿含経に説かれたことを実践していたわけではありません。阿含経が否定していた火を祀る法や、ご祈祷を中心として布教していました。看板と中身が違う典型的な新興宗教です。今でもありますけどね。宗派の名前を変えたほうがいいと思います。仏教を学んだ者には、看板と中身の違いはすぐにわかりますからね。)

このように、阿含経をはじめ、初期の仏教経典は、主に出家者を対象として説かれているのです。一般大衆には、仏教教団に施しをすればいい、出家者に食を施せばいい、五つの戒律・・・殺生をしない、盗まない、邪淫を起こさない、ウソをつかない、お酒を飲まない・・・を守ることが大事、ということを説いているに過ぎません。
しかし、初期経典は一般向けではないのですが、お釈迦様がいらしたころの状況がよくわかるお経ではあります。初期経典のおかげで、仏教の基本がわかるわけですし、お釈迦様の日常が理解できるのです。阿含経などの初期経典があるおかげで、お釈迦様の伝記が書けるのですからね。

こういった内容が、阿含経を始めとする初期経典です。ただし、最初にあげた法句経やジャータカは、ちょっと内容やスタイルが異なります。それについては、次回にお話いたします。


A法句経(ほっくきょう)の1
法句経は、パーリ語(古代インドの言葉でも庶民的な言葉。サンスクリット語は上流階級の言葉)の原典が存在しています。原典は、韻を踏んだ詩で書かれているそうです。
パーリ語の題名は「ダンマ・パダ」と言います。「真理の言葉」と訳されますが、中国で漢訳されたとき「法句経」となり、以後この経題名が主流になっています。
法句経は、お釈迦様がじかに説いた言葉を詩文にしたものです。全部で423句あり、26章に別れています。物語にはなっていなくて、警句形式になっています。私も「とびらのことば」に引用させてもらっています。では、ざっとですが、内容を見ていきましょう。

1章 対句の章
この章は、お釈迦様の言葉が対になって書かれています。たとえば、
「彼は私をそしった。彼は私を殴った。彼は私に勝った。彼は私のものを盗った」と、誰でもその人を怨むならば、彼らの怨みは静まることはない。(第3句)
「彼は私をそしった。彼は私を殴った。彼は私に勝った。彼は私のものを盗った」と、誰でもその人を怨むことがなければ、彼らの怨みは静まる。(第4句)
というように、一対になって教えを説いているのです。こうした句が20あります。つまり、10組あるのです。もう一つ、例文をあげておきましょう。
第15句・・・罪をなした者は、この世において憂い、(死)後に憂い、(この世・かの世)両方において憂う。みずからの不浄な行いをみて、彼は憂い、彼は苦悩す。
第16句・・・善きことをなした者は、この世において歓び、(死)後に歓び、(この世・かの世)両方において歓ぶ。みずからの清らかな行いをみて、彼は喜び、彼は大いに歓ぶ。
このような対句もあるんです。悪いことをした者は、生きているときも死後も苦しむんですね。悪いことはしちゃあいけませんねぇ・・・。


2章 怠りなきことの章
この章は、怠惰について説かれたことがまとめられています。お釈迦様は、いつも怠惰を遠ざけるように注意していました。修行の基本は努力です。怠惰は一番の敵ですからね。大変厳しい言葉が並んでいます。
たとえば、この章の最初の言葉は、
「怠りなきことは永劫の生の住居、怠りは死の住居である。怠りなき者たちは不死である。怠る者は死に等しい」(第21句)
怠らずに努力し続け、修行していればやがて悟りを得られるでしょう。悟りを得られれば、そこは輪廻から解脱した世界です。すなわち、永遠の生があるところです。不死ですね。しかし、修行を怠れば、悟りは得られなくなり、肉体の死がやってきます。つまり、怠ることは死と同じであるのです。
修行じゃなくても、これはいえてますよね。怠けていれば、生活ができません。何でもいいから一生懸命働けば、衣食住は得られます。怠けて仕事を中途半端にしていれば、収入は減り、衣食住が不安定になるのは当然でしょう。
最近、ネットカフェ難民などという人たちがいますが、彼らは安定した仕事をしていないからそうなっているのでしょう。仕事を選んでいるから、収入が安定しないのでしょう。どんな仕事でもいい、安定した収入があればいい、と決意し、その仕事を怠けず、やり続けていれば生活は安定するものなのです。
怠れば衣食住が不安定になり、怠らなければ安定が得られる。これは、昔から不変のことなのですね。

もう二つ例をあげておきます。
「智慧なき愚かな人々は怠りに耽るが、智慧ある者たちが怠りなきことを守ることは、あたかも最上の財産を守るようなものである」(第26句)
「人は怠りに心奪われてはいけない。情欲に親しんではならない。なぜなら、怠らず落ち着いている者は広大なる幸を得るから」(第27句)
怠れば大きな不幸を招くことになります。こんなことくらい大丈夫だろう、少しくらい怠けてもいいだろう、という油断が大きな失敗を招くのです。怠らず、いつも落ち着いて注意深く考えるものには不幸はやってこないのですよ。実業家で大きな問題を起こしてしまう人は、情におぼれたり、努力を怠った結果なのでしょう。怠りは恐ろしいものなのです。些細なことも面倒がらずに注意し、怠らぬようにしたいですね。
なお、この章には12句あります。


第3章 心の章
この章には11句あります。心について説かれた章です。例文をいくつかあげておきます。
「心は浮つき、揺らいで守りがたく、制御しがたいものである。賢者は(心を)真直ぐにする。あたかも弓を制作する者が矢柄を真直ぐにするように」(第33句)
「止めがたく、かるやかで、欲するがままに振舞う心を制御することは、道に適う。制御された心は幸福をもたらす」(第35句)
心は不安定です。あっち向いたりこっち向いたり・・・・。怒ったり泣いたり、悩んでみたり、欲しがってみたり、欲望に駆られたり・・・。あるいは、得体の知れぬ不安に苛まれたり・・・・。どうにもコントロールしにくいものですよね、心って。
この掴み所のない、不安定で、うまくコントロールし難い心を何ものにもぶれないように制御することが大事なのです。どんなことがおころうとも、どんな状態にさらされようとも、決して揺るがない「不動の心」、それを持つことが幸福をもたらすことなのです。
たとえば、信仰を持ってせっかく救いを求めてきても、あっちの宗教、こっちの信心、そっちの占い師、あそこの霊感師・・・などとフラフラしていては、救いは得られません。むしろ大きな金銭を失うだけです。迷わず、こうと決めたらそれに従う、信じて突き進む・・・・というくらいの揺るがない心を持って欲しいものです。
そのことをお釈迦様は、
「心が安定せず、正しい真理を知らず、信仰の確立しない者には智慧は完成しない」(第38句)
と説いています。
信じたら迷わず真っ直ぐに進むことですね。ただし、間違った教えに従ってはいけませんけどね。


第4章 花の章
花の章という題名からすると、なんだか楽しそうな、美しい教えが説かれているのかな、と思うかもしれませんが、そうでもありません。まあ、花を用いていろいろな注意を与えている、といった感じでしょうか。
「一心に花を摘み取っている者を死神は捕らえる。あたかも眠った村落を洪水が流し去るように」(第47句)
「一心に花を摘み取って、もろもろの欲望に飽きることなき者は、死王、これを征服する」(第48句)
花は、世の中の楽しいこと、快楽ですね。欲望の対象のことを表しています。つまり、ひたすらに欲望ばかり追求していると、破滅に向かいますよ、という警句です。
ある大会社の会長さん。会社が安定したとたんに、贅沢三昧を始めました。広い土地、大きな家、高級車、専用飛行機、毎晩のように飲んで騒いで女を侍らせて・・・・。一心に快楽に耽っておりました。そんなある日、突如、会社に災難が訪れます。本当は突如でもなんでもないんすけどね。前々から危険なことはわかっていたんですけどね、油断していたんです。怠っていたんです。それよりも目の前の「花」のほうが大事だったんです。で、ついに死王が迫っている状態追い込まれてしまいました・・・。
と、これはたとえ話ですが(実際のとある会社を想像した方もあるかと思いますが・・・)、「花」摘みに耽っていると、やはり危険ですよね。快楽や贅沢もほどほどにしないといけませんね。こういうことを説いた句なのです。

「目もあやな美しさを持っている花に匂いがないように、そのように、よく説かれた言葉も実行されなければ無益である」(第51句)
「目もあやな美しさを持っている花に匂いがあるように、そのように、よく説かれた言葉にして、よく実践されたならば、結果がある」(第52句)
対句の章に入れてもおかしくない句です。が、花にたとえているので、この章に入っています。
いくら美しい花であっても匂いがなければ、誰もよってこないし、虫たちも集まりません。見向きもされない、単なる美しい花、と言うだけのものに終わってしまいます。それと同じように、いくら尊い教えであっても、実行されなければ意味がありません。いい話、いいこと、やるといいよと言われたこと、そうしたことは、実行してこそ意味が生まれるのです。
で、次の句のように、美しくよい香りを放つ花は、人々が集い、虫たちも集い、皆から大事にされるでしょう。多くのもを楽しませると言う結果が生まれます。このように、善き言葉を実践したならば、よい結果が生まれるのです。
「いいことだ」、「実践するといい」と言われたことは、素直に実践したほうが好結果が得られますね。
この章は、16句あります。


第5章 愚かな者の章
この章の句は、本当に耳に痛い句が多いですね。この章を読んでいると、自分が如何に愚かなものか、ヒシヒシとわかります。ここに全文を載せて、皆さんにも同じように感じて欲しいのですが、全部を書くのは大変なので、一部を掲載いたします。
「愚か者は『私に子供たちがある、私に財産がある』と悩まされる。自分すら自分のものではない。どうして子供が(自分のものであり)、どうして財産が(自分のもの)であるか」(第62句)
子供はあてになりません。思うようにもなりません。将来面倒見てくれるとは限りません。親の思う通りには育ちません。なのに、人々は「私には子供がいるから」と妙な期待や自慢をするんです。かといって、その子供に振り回され、思い煩うんですよね。
或いは、財産がある、大金持ちだ、と威張ったりしている人もいますが、財産があればあるほど、心配は増えるんですよ。盗られたりしないだろうか、泥棒は大丈夫か、火事になったら大変だ、事業に失敗して破産したらどうしよう、会社が倒産したらどうしよう、子供たちが財産争いをしないだろうか、ダンナが愛人に財産を取られないだろうか・・・・。
心配の種はつきません。自分のことですら、自分の思い通りに行かないのに、子供や財産が自分の思うようになるわけがないですよね。いい加減、そのことを悟りなさい!、とお釈迦様は叱っているのですよ。
まさしく、その通りですよね。でも、我々は子供や財産を当てにしちゃうんです。で、子供や財産を持つと、いろいろと心配するんです。愚か者ですよねぇ。

「誰でも(自分が)愚かであると考える愚か者は、その限りではまた賢いものである。しかるに、(自分が)賢い者であると考える愚か者はまさしく愚か者だといわれる」(第63句)
自分のことを「自分は賢い、頭がいい、できる人間だ・・・」と思っている人っていうのは、本当に始末が悪いです。この言葉どおり、まさしく愚か者です。「自分は賢い、頭がいい」と思っている時点で、もうそれ以上伸びないからです。他人の意見が聞けないんですね。特に困るのは、
「自分はできる人間だ」
と思い込んでいる人です。こういう人が、会社などで冷遇されたりすると、大変ですよね。拗ねてしまいます。それどころか、上司を逆恨みしちゃいます。
不景気の時代、リストラにあったりした人の中に、こうした方が結構いたようです。
「何で俺が?。あの上司より俺のほうができるのに。あいつより俺のほうが優秀なのに。なんで俺がリストラ?。」
こう思った方は多かったと思いますよ。でもね、リストラ対象になった方には、それなりに理由があったと思いますよ。たとえ、それが誤解の上であったとしても、逆恨みはいけませんよね。どこかに誤解を与えるような言動があったのでしょうからね。やはり、自分の責任なんですよ。
私のところに相談に来られる方でも、「自分は賢い、できる、成功者だ、頭がいい」などと思っている方は、対応に困りますね。話の仕様がないですからね。
「あんたは偉くもないし、賢くもない、大ばか者だ」
とはっきり言ってしまう場合もありますが、逆恨みされるのも嫌ですから、
「聞く気がないならお帰りください」
とやんわりお断りするのが一番いいです。そういう方は、損をしていると思いますよ。お釈迦様の、いいお話が聞けないのですからね。(私の話じゃありません。仏様のお話ですよ。)
ま、うぬぼれるのもいい加減にしたほうがいい、自分を賢いと思うヤツほど愚か者はいない、と知ったほうがいいでしょうねぇ。

「(愚か者は)虚しい評判を望み、また修行者たちの間にあっては尊敬を、住民の間では統治者の主権を、また他人の家では供養を(望む)」(第73句)
先に注意をしておきますが、この場合の「供養」とは「食事の接待」のことを意味しています。
さて、これを誰に聞かせたいですか?。政治家?、坊さん?、偉そうにしている人?、先生?、そこらへんのオジサンオバサン?・・・・。
いますよね、評判ばかり望む人。お坊さんの中にもそういう方、結構いたりします。どうでもいいのにね他人の評判なんて。自分の言動さえ正しければそれでいいのに。
出家者の癖に役職を望み、人の上に立ちたいと執念を燃やす方もいます。今の政治家なんて、中身がなくて評判と尊敬と権力と接待ばかり望んでいますよね。政治家だけでなく、官僚もね。もううんざりですよ。
この国は、愚か者ばかり目立ちますよね。ため息しか出てきません。
この愚か者の章を読んでいると、落ち込んでしまいますので、ここまでにしておきます。なお、この章は16句あります。


第6章 賢者の章
この章は、どういうものが賢者であるか、を説いています。句の中に「賢者」と言う言葉が出てくる場合と出てこない場合があります。例をあげます。
「悪しき友人たちと一緒になってはならぬ。最低の者と一緒になってはならぬ。善き友人たちと一緒になるがよい、最上の人たちと一緒になるがよい。」(第78句)
この句には、「賢者」と言う言葉出てきませんが、悪い友人と一緒にならないものは賢者である、と言う意味でこの章に含まれています。この句は、別の章(象の章)では、
「愚か者と一緒でいるくらいなら孤独なほうがいい」
という言葉でも説かれています。
つまり、悪い友人を持つくらいなら、よい友人を作るか孤独を選択せよ、と説いているのです。賢者ならばそうするのだ、ということですね。
悪い友人というのはできやすいものです。人は、人数が多くなり仲間意識ができると、ついつい悪いことをしたくなるものです。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という心理ですね。そういう中で、悪い行為を注意したりすると仲間はずれにされたりイジメを受けたりします。集団心理とは恐ろしいものですね。
しかし、賢者は決してそのような程度の低い集団と一緒になってはならないのです。程度の高い、最上の友人を持つのが賢者なのです。善き友人が周りにいなくて、程度の低い集団しかいない場合は、孤独であったほうがいいのです。それが賢者であると、お釈迦様は説くのです。厳しい言葉ですよね。でも、真実です。

「ひとかたまりの岩が風に揺らぐことがないように、そのように賢者たちは誹謗と賞賛のなかにあって動くことがない。」(第81句)
世間でいくら褒め称えられようとも、あるいは世間でひどい誹謗中傷にあおうとも、賢者は動揺しません。世間の批判や賞賛などは、賢者には無意味だからです。そういう態度が取れるものこそが、本当の賢者なのです。世間が褒め称えてくれるとすぐに有頂天になってしまうものは愚か者であり、世間の誹謗中傷に慌てふためくものも愚か者なのです。なぜなら、世間の評判に心動かされるものは、己に信念がないからです。自らの信じるところがしっかりと確立していれば、世間の賞賛も批判も関係なくなるのですよ。世間のことなどまったく気にしない、柳に風のごとく生きている人を賢者と言うのです。それは、空を体現している人でもありますね。

もう一つ紹介しておきましょう。
「善き人びとはあらゆる所において(邪欲を)捨て、善者たちは邪欲を望んで語ることをしない。幸福であっても不幸な目にあっても賢者たちは変ったさまを見せない。」(第83句)
賢者は、邪欲を持たないのです。語ることすらしないのです。邪欲とは間違った欲望のこといいます。すなわち、賢者は悪い相談などしない、ということですね。また、ドロドロの欲望などは持たない、ということです。さらには、幸福であれ、不幸であれ、どんな状況であっても、なんとも思わないという態度をとっているのが賢者です。やはりこれも、空の体現ですね。
つまり、賢者とは、空を得て、空に生きている人のことをいうのです。何にもとらわれない、こだわりのない世界で生きているもののことを賢者と呼ぶのです。ならば、誰もが賢者になれる可能性はありますよね。ぜひ、空を得て賢者になってください。
なお、この章には14句あります。


第7章 聖者の章
ここでいう聖者とは、悟りを得たもののことで、阿羅漢(アラカン)に達したものについて説いた章です。阿羅漢とは、お釈迦様の教えを聞き、悟りを得た者のことをいいます。ですから、お釈迦様の弟子の中でも悟りを得た者について説いた章です。
「至るところ、すでに旅を終え、憂いを離れ、自由となり、一切の束縛を捨て離れた者には苦悩がない。」(第90句)
至るところとは悟りの世界ですね。旅を終え、というのは迷いの旅を終え、と言う意味でしょう。迷いの旅を終え、悟りを得て心は何の束縛も受けず、自由になるのです。空の状態ですね。何の憂いもなく、何の不安もなく、苦悩もない状態です。それが阿羅漢がいたる世界なのですね。阿羅漢になれば、本当の意味での自由になるのです。

「誰でも、もろもろの感覚器官が静まり返って、あたかも馭者によってよく馴らされた馬たちのように、高ぶりの心を捨てた、悩みなき者たち、このような者たちを、神々すらも羨やむ。」(第94句)
もろもろの感覚器官というのは、人間の体の感覚器官のことです。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のことですね。いいものが見たい、いい音が聞きたい、いい匂いがかぎたい、おいしいものを味わいたい、いい感触が欲しい、気持ちのいいことがしたいという、各器官が快楽を求めることがなくなった状態を「感覚器官が静まり返る」と表現しているのです。
そうした欲求がうまくコントロールされてくると、人はうぬぼれが出てきます。このうぬぼれが怖いんですね。いろいろな欲求も制御でき、うぬぼれの心もなく、一切の悩みがなくなったものを悟ったもの・・・すなわち阿羅漢というのですが、その阿羅漢になったものは、神々も羨むのです。なぜなら、神々ですら阿羅漢にはなっていないからです。
つまり、神々は悟りを得た存在ではないのですね。ですから、お釈迦様の教えを聞いて悟りを得、阿羅漢に達したものを神々は羨望のまなざしで見るのです。悟りを得れば、神の上へ行くのですよ。

「村落においても、あるいは森林においても、あるいは盆地においても、はたまた丘地においても、どこでも聖者たちの住する土地は、楽しいところにちがいない。」(第98句)
悟りを得た聖者にとっては、どこに住もうとも同じなのです。どこに住んでもそこは安楽の地なのですね。青山いたるところにあり、です。世のサラリーマンたち、たとえ左遷の憂き目にあっても、聖者然たれ、なのですよ。どこへ行っても、それなりに楽しみはあるものです。少しは悟りましょう。
この阿羅漢の章には10句あります。現世において疲れてしまったら、阿羅漢を目指して修行するのもいいかもしれません。一切の憂いから離れることができますよ。悟りを得ればね。


第8章 千の章
千は当然のことながら「多くの」という意味です。数が千ある、という意味ではありません。これは句を読んだほうが早いです。わかりやすい警句が並んでいます。
「無意味な語(ことば)からなることばは、たとえ千あるにしても、聞いて静まりを得る一つの有益な語のほうがすぐれている。」(第100句)
これは当然ですね。無駄な言葉はいくら重ねても無駄です。つまらない言葉、無意味な言葉を多く語っても何にもなりません。それよりも、大変重要な言葉が一つあればいいのです。多くを語ればいい、というものではありません。肝心な言葉一つあればいいのですよ。私などは、多くを語るほうなので、この警句は痛いですね。

「戦争で百万の人びとに打勝つよりも、一人の己に勝つ者こそ、最上の戦勝者である。」(第103句)
どこかの国の指導者に聞かせたい言葉ですよね。戦争で多くの命を奪っても何にも偉くないです。それで表彰されるという国がわかりません。理解できません。それで先進国、世界のリーダーとかいっているのですから、わけがわかりません。他国の人に勝つよりも、己の欲望の勝ったもののほうが偉いんですよ。
日本にはこんないい教えが伝わっているのに、なぜにそれを世界に発信できないのか・・・。あぁ、日本は属国だからか・・・。あの国には逆らえないですからねぇ・・・。

「毎月千回、百年間祀るとも、たとえひと時でも、よく己を修めた一人を尊ぶならば、そのまさに供養は百年間の祭祀にまさる。」(第106句)
「祀る」というのは「神々を祀る」ことです。つまり、神々に祈る儀式のことですね。そうした儀式を毎月千回、百年間続けたたとします。普通、その功徳は大きなものと思いますよね。でも、よく己を修めた一人・・・これは阿羅漢のことです。悟ったものですね。この悟った人一人に供養をする・・・つまり施し・お布施をすることのほうが、功徳があるんです。たった一回の「悟ったものへのお布施」の功徳のほうが、「神々を毎月千回×百年間祀り続ける」という功徳よりも大きいのです。
それはなぜか・・・。
それは、悟ったものの方が、神よりも上の存在だからです。悟ったもの・・・阿羅漢は、神も羨ましいと思う存在だからです。だから、神を祀ることよりも、悟ったものへのお布施のほうが功徳が大きいのですよ。あ、現代では、悟ったものがいないんで、神を祀る功徳のほうが大きい・・・・のかもしれませんけどね。

「たとえ百年生きても、智慧悪しく努力を捨てたならば、一日生きて、智慧を有し、静慮のあるほうがよい。」(第111句)
この句は、110句とならんで「たとえ百年生きても・・・」で始まっています。簡単にいえば、長生きしても、怠惰で努力せず、愚かな腐った生活をしているならば、一日を智慧を持って、戒を守り、心静かに、苦悩なく生きていたほうが、断然ましである、と説いているのです。長生きばかりがいいってもんじゃないんですよ、ご老人。ワガママで、勝手気ままで、社会のルールを無視して、傍若無人な振る舞いをしているご老人が多くいますが、そんなご老人よりも、短命であっても清く正しくわがままを言わず、周りの気を配り、その人がいるだけで明るくなるような、そんな人のほうがすばらしいのです。当然ですよね。誰もがそう思うでしょう。でも、そうは思っても、実行はできないんですよ。困ったものです。
長生きしたいのなら、周りから好かれるような、そんなご老人になりましょう。決してイヤミなジジイ、うっとうしいババアにならないようにね。
この「たとえ百年生きても・・・」という句は、全部で6句あります。どれを読んでも、なるほど、と思います。無駄に長生きしても仕方がないですから、長生きするのなら、仏教を学ぶのもいいんじゃないでしょうか。
この千の章は、16句あります。


第9章 悪の章
悪行について説いた章です。
「人は、善に急ぐがよい。悪より心を防ぐがよい。善(をなすこと)を怠れば、意は悪を喜ぶ。」(第116句)
人は、善行をすることです。そうでないと、ついつい悪の行動をしてしまうようになっていくのです。善の心が薄くなれば、そこに悪が入り込むのです。気をつけましょう。悪の心は、一度悪行を行えば、二度三度と繰り返すようになりますからね。
そこで、
「たとえ人は悪しきことをなそうとも、再三(悪を)なしてはならぬ。それを欲するな。苦悩は悪の集積である。」(第117句)
という言葉が説かれます。
まあ、一回はいいよ、悪いことをしても・・・。でも、二度とするなよ、再三再四するなよ。何度も悪行を繰り返せば、苦悩することになるんだよ、と説くのです。
しかし、人間は弱いもので、悪行を何度も繰り返してしまうのですよ。なぜか・・・・・?。
それは悪の報いがなかなかやってこないからです。バチが当たらないからです。だから、繰り返してしまうんですね。
でも、悪の報いはやってくるものなのですよ。お釈迦様はこのように警告しています。
「悪が熟さない限り、たとえ悪者といえども楽しみを経験する。しかるに、悪が熟するや、(そのとき)悪しき者は、もろもろの悪を経験する。」(第119句)
「わたしについにそれ(悪の結末のこと)はやって来ないだろうと、悪を軽く見てはならない。水滴が落ちて水がめを満たすように、愚か者は少しずつ悪を積みながら、(悪で)いっぱいになる。」(第121句)
いくら悪いことをしても平気な顔をして、のうのうと生きている連中がいます。周りに迷惑をかけ、厚顔無恥な振る舞いをしているヤカラはそこかしこで見られます。
なぜ彼らにバチが当たらないのか・・・・。
真面目な一般市民はそう思うでしょう。傍若無人な振る舞いをしている連中も、
「バチなんか当たらないさ。」
と思っていることでしょう。
しかし、それは悪が熟していないだけなのです。その人の悪の罪の瓶がまだいっぱいになっていないだけなのです。
やがて、その瓶は罪でいっぱいになるでしょう。そのとき、いままで我がもの顔で振舞っていたものは、悪の報いに恐れ慄くことでしょう。
悪いことをしてもその報いは来ないさ・・・・。などと高をくくっていると、いずれとんだ目にあうのですよ。それは逃れることができないものなのです。
すなわち、
「人は、正しい者、清らかにして汚れなき者を損なえば、悪(の報い)はほかならぬその愚者に返る。あたかも向かい風に投げた細かい塵のように。」(第125句)
ということなのです。くれぐれも、ご注意を・・・。
なお、この章は、13句あります。


なお、前回書き忘れましたが、ここで紹介した句は、筑摩書房出版「現代人の仏教2 心理の花たば 法句経 宮坂宥勝著」に載っている法句経全訳から抜粋しています。宮坂先生は、現在真言宗智山派の管長さんをされていますが、大変わかりやすい仏教や密教の本を書かれています。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。



第10章 暴力の章
この章は、暴力の愚かさ、暴力はなぜいけないのか、ということを説いています。例をあげます。
「すべてのものは暴力に怯える。生はすべてのものが愛好する。自分に引き比べて殺してはならぬ。人をして殺させてはならぬ。」(第130句)
以前、どこかの新聞で「教師が『なぜ人を殺してはいけないか』という質問に答えられない」という記事を読んだ覚えがあります。小学校の教師だったと思います。子供たちの
「なぜ人を殺していけないの?。」
という質問にちゃんと答えられないのだそうです。
びっくりしましたねぇ。そんなことにも答えられないのか、と・・・・。
答えは簡単でしょう。それは
「誰も殺されたくないから」
です。殺されたいと願う人は、この世には存在しないからです。特殊なケース(精神的ダメージを受けて正常な判断ができない場合)を除いては。
誰もが、自分が一番かわいいのです。誰もが傷つきたくはないし、傷つけられるのは嫌だし、危害を加えられるのは嫌でしょう。殴られたり、暴力を振るわれたりするのは、誰もが嫌なことです。
自分がされて嫌なことを他人がされて喜ぶでしょうか?。暴力を振るわれて喜ぶでしょうか?。誰も喜ばないでしょう。自分がされて嫌なことは、他人も嫌なのです。
それがわかれば、なぜ人を殺してはいけないのか、という質問に対する答えは簡単に出てくるでしょう。
誰も殺されたくはなし、誰も暴力は振るわれたくないのです。だから、暴力も殺人もしてはいけないことなのです。
こんなことすら答えられない教師がいるかと思うと、不安になりますよね。
この句を応用すれば、なぜイジメはいけないのか、それも自ずとわかると思います。この句は、ぜひ学校でも教えて欲しい句ですね。

暴力は手や足、身体を使ってだけではありません。言葉の暴力というのもあります。
「けっして粗暴に、ものを言ってはならぬ。言われた者たちは、あなたに言い返すだろう。怒りの言葉は不愉快である。仕返しの暴力はあなたに触れるだろう。」(第133句)
言葉は鋭利な刃物と同じです。言葉一つで人を傷つけます。言葉の暴力ですね。粗暴なものの言い方、つっけんどんな言葉、相手を傷つけるような無遠慮な言葉は慎むべきでしょう。言われたものは、怒るか、嘆くか、怨むか・・・・です。怒れば、返ってくる言葉で傷つけられることもあり、そこから争いが生まれることもあります。ほんの些細な言葉の行き違いで、大きな争いに発展した・・・ということはよく聞くことですよね。
現在では、こうしたことはネット上では日常茶飯事でしょう。
「何もそこまで書かなくてもいいものを・・・。」
と思われるような誹謗中傷がネットの世界では氾濫しています。書かれた方の身にもなればいいのに・・・、と思うことはよくあるんじゃないでしょうか。勝手な言い分、一方的な書き込みで、多くの人が傷ついているんです。言葉の暴力ですよね。
会社関係の誹謗中傷などは、下手をすればその会社を倒産にまで追い込むこともありえます。大きな罪ですよね。何気なく書いた誹謗中傷が大きな攻撃に発展することもあるのですから。
けっして粗暴な言葉を使ってはならぬ・・・・。まさしくその通りですよね。特に現代のようなコミュニケーションが下手な人が多い時代は・・・・。

なお、この章には16句ありますが、内容的にはここに紹介した2句とほぼ同じです。身体の暴力、言葉の暴力を慎みなさい、ということに集約されます。理由は、自分がされたら嫌でしょ、ということですね。


第11章 老いることの章
老いを憂う人は多々あります。また、普段は老いることを忘却しています。そうしたことへの警告を発しているのがこの章です。
「なぜ笑うのか。どうして喜ぶのか。(世は)常に燃えているのに。あなたがたは暗闇に覆われている。なぜ光を求めないのか。」(第146句)
一見、老いることに関係がないような句ですが、この句の続きに
「そうしているうちに老いてしまい、死がやってくるぞ。」
と付け加えれば、全体の意味がよくわかると思います。
「暗闇」とは真実を知らない無知のことです。「光」とは真実に目覚めた智慧のことです。真実とは「諸行無常・諸法無我・一切皆苦」ですね。つまり、
「笑ったり喜んだりしているうちに、老いがやってきて死が訪れるぞ。今のうちに時は流れている、老いはやってくるという真実に目覚めよ、悟りを求めよ」
ということですね。
とんちで有名な一休さんは、ある年のお正月に杖に髑髏を乗せて京の街中を歩き回ったそうです。こう唱えながら・・・。
「門松や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
街中、お正月に浮かれているのに、なんとまあ不吉な!、と思うでしょう。その当時もそう思われたらしく、一休さんといえども怒鳴られたりしたそうです。中には石をぶつけるものもいたかもしれません。そりゃあそうでしょう。縁起でもないですからね。しかし、これにはちゃんと深い意味があります。それは、
「お正月でおめでとうと浮かれているが、また一つ年をとり死へ近づいたのだぞ、そのことを忘れるではない・・・」
ということです。お釈迦様の説かれたこの法句経のこの句を意識していたものと思われます。
老いや死は、浮かれている合間に、そうっとやってくるものです。たまには、時の流れというものを知ったほうがいいですよね。

「この形骸は使い古されたものであり、病気の巣であり、毀れやすい。腐乱の人体は破壊される。なぜなら生命は死に終わるからである。」(第148句)
年老いた身体は、使い古された身体であり、まさに病気を抱えた身体でもろいものです。いつ毀れても、いつ死んでもおかしくないのが、年老いた身体です。
「なんと失礼な!」
と思われる方もいらっしゃるでしょうが、真実はその通りなのですから仕方がありません。誰もが、年を取れば、病気を多く抱えるし、若いころのように動かなくなるし、簡単に骨を折ったりもします。それが客観的真実です。そのことをどう思うかは感情の問題であって、ここではその感情について説いているのではありません。ですから、失礼ではないのですよ。
よくよく年老いた身体を観察せよ、その年老いた身体はまさに使い古されたものであり、病気を多く抱えており、壊れやすいものであろう、それを認識せよ、と警告しているのです。
そして、やがて死が訪れ、身体は腐っていくのです。そんな腐った身体には何の思いも抱くべきではない、とお釈迦様は説いています。なぜなら、死と共に身体も終わるからです。終わった身体にいつまでも執着してもなにもならないのです。
したがって、遺骨も同じです。

皆さん勘違いされている方が多いと思いますが、仏教は本来葬式はしません。仏教は死んだら終わりです。魂は別の世界へ輪廻してしまいます。この世に生まれ変わってくることもありますが、そのときは過去の生のことは忘れています。
身体は、使い切ったら終わりです。残った骨には魂などありません。ですので、仏教では
「骨をとっておき、お参りする」
という教えはありません。それは、古来からの日本の風習なのです。土着信仰と仏教が融合した形が、現在の骨を納めてお参りするという習慣になっているのですよ。
実際には、骨には何の魂もないのです。あれは、単なる物質なんですよ。仏教は死んだらおしまい、肉体も骨も単なる物質、せみの抜け殻と同じ、と説いているのですよ。大事なのは、魂のほうである、とね。
なので、お墓を持つ、ということは仏教では説いていません。意外に知られていないことなのですけどね。

老いは誰の上にも必ずやってきます。死は誰にも訪れるものです。笑って浮かれてないで、たまには己の老いや死を見つめて、無常を悟るのもいいのではないでしょうか。老いることの章は、そのことを11句の教えで説いているのです。


第12章 己の章
己とは、当然ながら自分自身のことです。ここでは、自分自身について如何に考えるべきか、を説いています。
「他の者に教えるのと同じように自身を振舞うならば、(己は)実によく抑制せられ、かれは(他の者を)抑制するであろう。なぜなら、実に己は抑制しがたいものだから。」(第159句)
誰でも他人の悪いところはよくわかります。ですので、他人にはよく注意できるんですよね、自分のことは棚に上げてね。
その、他人には注意できることを、自分自身に振り向けたらどうでしょうか?。とてもいい人間が出来上がるのではないでしょうか?。他人に注意するように自分を注意できれば、それは自分自身をよくコントロールしていることになるでしょう。
しかし、人は他人には言えるんですが、自分のこととなると・・・・・ダメなんですよねぇ。自分は、コントロールし難いものなんですよね。そのことをこの句は説いているのです。他人に口出しする前に、己自身をよくコントロールせよ、ということですね。

「己こそ己の主である。他の誰がまさに主であろうか。己が抑制されたならば、人は得がたい主を得る。」(第160句)
自分の主は自分です。他の誰でもありません。ですから、自分のことは自分で決めるべきですし、他人からとやかく言われてふらついていてはいけません。よく
「あの人がこういったから、この人がああ言ったから、有名人がこういったから、占い師がこういったから・・・。」
といって、フラフラしている人がいますよね。まったくもって信念がない、というか、自分がない、という方、最近は大変多くいます。そういう人は、いつも他人の言葉に振り回されて何事も決められないでいます。ちっとも進歩しないんですね。何をやっているのだろうか、と思います。
己こそ、己の主じゃないですか。自分でこうだ、と決めたなら、突き進めばいいじゃないですか。途中で不備が生じたなら、そのときに変更すればいいじゃないですか。軌道修正すればいいじゃないですか。他人の言葉に左右されうろうろし、迷っていてはいけません。主の自分自身がしっかりしなきゃね。自分の人生なんですから・・・。
だからといって、欲望のまま振舞え、といっているのではありませんよ。よく自分自身をコントロールしなさい、といっているんですよ。他人からとやかく言われないで、自分で自分をよくコントロールしなさい、と説いているのです。自分の身体であり、自分の心なんですから。
でも、今の時代、不安が多く、迷い人は後を絶たないんですねぇ。だから、インチキ占い師に何十万も払ってしまうのでしょう。もっと、己を持って欲しいものですね。

「ひとは自身でまさに悪をなして自身で汚れる。人は自身で悪をなさずして自身でまさに浄(きよ)らかになる。それぞれに浄くなったり不浄になる。一方の者が他の者を浄めるのではない。」(第165句)
あいつのせいでこうなった、あいつが悪いんだ・・・。
人はよくこう言い訳をします。しかし、罪を犯すようなことをしたのは、自分自身です。自分自身で悪をなし、罪を犯すのです。決して他人のせいではありません。自分自身で堕ちていったのです。
人は自分の欲望をよくコントロールして、自分自身で己を清らかにしていくのです。自分で自分を磨くのです。他人がどうこうしてくれるわけではありません。他のものがあなたを清めてくれることはないのです。
たとえば、いくらお釈迦様のいい話を聞いても、それを自分自身に当てはめて応用するかどうかは、聞いたもの次第なのですね。他人が応用させてくれるわけではないのです。いくらいい話を聞いても、身につくかつかないかは、自分次第なのですよ。そこまでは、誰も関知しないのです。
罪を犯すのも自分、いい話を聞いて心入れ替えていくのも自分。すべては自分自身の考え方なのです。

なお、ここでは10句説かれています。


第13章 世の中の章
世の中の章とありますが、世の中がどうなっているのかを説いたのではなく、世の中をどう見るのか、どう見ればよいのか、といったことを中心に説いています。
「あたかも水泡(みなわ)を見るように、陽炎を見るのと同じように、世の中を観察している者を、死王(ヤマ)は見ない。」(第170句)
死王と書いて「ヤマ」と読むように振り仮名がふってあります。「ヤマ」とは閻魔様のことです。お釈迦様がいらした当時のインドでは、閻魔大王は「死神」とされていました。死を司る神である、と恐れられていたのです。ですので、初期の仏教では、閻魔大王を「死神、死王」として魔神扱いをしています。が、やがて、悟りを得たものに対しては閻魔大王も手出しはできない、という教えから、閻魔大王は死神ではなく、死者を扱う神へと昇華してしまいます。出世したんですよ、死神から死者を取り扱う裁判官へ。なので、閻魔大王は、もともとは死をもたらす死神だったのです。
水の泡や陽炎は、見えるのだけども手に取ったりつかんだりすることができないものですね。つまりは、実体がないものです。水の泡の実体、本体はどれだ、陽炎をここへ出せ、といわれても困るでしょ。実体がないものですからね。それは、すなわち「空」ということなのです。
したがって、水泡や陽炎のように世の中を見る、ということは、世の中を「空」としてみている、ということですね。つまり、空を悟っている、ということです。
そのような、空を悟ったものには死王である閻魔大王も手出しはできない、といっているのです。すなわち、空を悟ったものには死の恐怖を与えることはできない、ということなのです。
世の中を空の目で見ることができれば、何も恐れることはないのですよ。

「さあ、あなたは国王の虚飾な車にも似るこの世を見るがよい。愚か者たちは、その中に沈む。賢い者は(それに)執われることがない。」(第171句)
お釈迦様がいらした当時のインドの国王が乗る車は、ともかく派手だったそうです。ありとあらゆる宝石がちりばめられ、金銀で飾られていたそうです。
それはまるでこの世の中と同じだ、とお釈迦様は説いています。派手なだけで中身がない・・・ということですね。そんな人やものは、この世にはいっぱいあります。というか、中身が伴わない、外見ばかりの見栄を張った人やもののほうが、多いくらいでしょう。
愚かなものたちは、その外見の派手さに心引かれ、中身を見失い、見栄の世界で浮かれていることでしょう。外見の派手さのみを見て、本質を見失っているのです。真実の姿を見ていないのですね。外見がいくら派手で着飾っていても、中身がなければ単なる愚か者なのですが、それに惹かれてしまう愚か者が如何に多いことか・・・・。残念なことです。
賢きものは、外見の華やかさに惑わされることなく、そのものの本質を見ていますから、決して騙されることがありません。世の中をよくご覧ください。真実を語っているものは、目立たず、地味な場合が多いんですよ。派手で目立っているものは、中身のない張りぼてなんですよ。そのことをよく知ってほしいですね。でないと、簡単に騙されてしまいますからね。
が、しかし、お釈迦様のいらした時代さえ、
「この世の中は暗黒の状態である。この世を洞察するものは少ない。網より脱け出た鳥のように、天空に行く者は少ない。」(第174句)
だったのですから、今の世の中じゃあ仕方がないのかもしれません。多くのものが、網に囚われてもがいている鳥なのですよ。本人は囚われていることに気付いていないんですよね。で、やがて不幸が訪れるのです。はやく、脱出したほうがいいんですけどね・・・・。

このように、欲望多き、虚飾な世の中をしっかり観察し、世の中の外見に執われることなく、真実を見出すものは本当に自由を得るのだ、といったことをここでは説いているのです。この世の中の章は、12句あるのですが、どれも現在の我々が読んでもなるほどと思える言葉ばかりです。ぜひ一度、すべてを読んで欲しいと思います。


合掌。




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