ばっくなんばぁあ〜16

第 六 章

「大乗経典」

前回までは、主な初期経典を紹介してきました。もちろん、紹介しただけが初期経典と言われるものではありません。他にもたくさんあります。代表的な経典だけ、お話ししたわけです。
今回からは、大乗経典にはいります。大乗経典は、時代によって内容が異なってきます。大乗経典でもテーマによって内容が異なってきます。それは大きくわけると次のようになります。
1、主に「空」の思想や「般若」について説いてる「大般若経」・「般若心経」・「維摩経」
2、「如来蔵」や「悉有仏性」をテーマにし、「誰でも悟りを得られる、菩薩の救い」という内容を中心とした「法華経」・「涅槃経」、「浄土経典」
3、覚りそのものの境地を説いた「華厳経」
主たる経典は、こう言ったところでしょう。これらを順にお話していこうと思っています。

1、般若経典類及び維摩経
般若経典の代表といえば、大般若経と般若心経でしょう。しかし、大般若経に関しては、600巻もあるので、説明は難しいと思います。大まかなことだけをお話ししておきます。また、般若心経に関しては、すでに解説済みです。バックナンバーを読んでみてください。
*大般若経
正式には「大般若波羅蜜多経」といいます。全部で600巻あります。唐の三蔵法師で有名な玄奘がインドのナーランダー寺院までこの経典を学びに行ったとされています。この時の旅がもとで「大唐西域記」が創られ、それがもとで「西遊記」が創られました。
大般若経は、般若経典類の集大成ともいうべき経典です。文字数は約500万字とも言われています。仏教の経典中で最も巻数が多い経典です。玄奘が漢訳しています。全体は、16章に分かれています。その16章には、それぞれ守護の神がいます。これを16善神といいます。
一巻一巻、読誦されることはまずありません。転読といい、パラパラと経典を広げていくことで、読誦の代わりとしています(先月、うちのお寺でも大般若会を修しました。その模様は怪しい部屋に掲載されております。参照して下さい)。
これは「大般若会」と言われるもので、鎮護国家・五穀豊穣・無病息災・身体健全・家内安全などを祈願する法会です。奈良時代から行われています。
大般若に関しては、その内容を説くのは大変です。空と般若について説かれている、ということは間違いありません。また、大般若には「呪」や「真言」、「陀羅尼」も説かれており、後の密教経典への流れが見られます。主な真言は「16善神真言」、「般若菩薩真言」、「般若経真言」などです。
なお、大般若の中の「理趣品」は、密教経典の「理趣経」の母体でもあります。


*維摩経(ゆいまきょう)
さて、前回予告の維摩経についてお話しいたしましょう。このお経については、だいたいをかいつまんでお話していきます。大変、面白い、ちょっとユニークな経典なので、紹介しておきたいのです。
維摩経の「維摩」とは、人の名前です。元の名前を「ヴィマラキールティ」と言いました。それを漢訳するときに音写して「維摩詰(ゆいまきつ)」としたのです。それがいつの間にか「維摩」だけが残ってしまいました。また、この経典の元々の題名は、「維摩詰の説教」だったそうです。これもやがて「維摩経」と簡略化されました。

さて、維摩という人物について紹介しておきましょう。彼は、しばしば居士と称されます。維摩居士です。居士というのは、戒名などにも見られますが、亡くなった方を示す言葉ではありません。居士というのは、仏教教団に多くの布施をする大富豪のことです。もしくは、仏教教団に協力的な徳のある人物、という意味です。すなわち、維摩さんは、資産家であったか、もしくは仏教教団に協力的な徳人だったわけです。

実際、このお経の主人公である維摩さんは、バイシャリーの街の大商家の主人です。仏教教団にも多くの布施を行っていますし、それだけでなく地域の発展ために協力的な好人物です。名声があり、お金持ちですが、評判はよく、威張らず、嫌味がなく、清浄な人物なのです。
かといって、堅苦しい頑固者でもなく、石部金吉でもありません。ざっくばらんな性格で、俗の衣装を身に着け(流行のファッションを身につけていた)、家庭を持ち、賭け事もし、お酒も飲み、大人の遊びもし、色街にも通うという、いわば「粋な旦那」だったのです。そうした俗世間の中に浸かりながら、俗に染まることもありません。
単なる遊び人でもなく、古今東西の知識があり、政治や法律にも詳しく、他人の相談事にも親身になり、風流を愛し、学問を好み、王族や庶民も分け隔てなく付き合い、周囲の人を正しき方向へと導くことに長けているという理想的人物です。
維摩居士がいるところ、暗いところはなく、みな明るくなり、生きる希望が自ずと湧いてくるような、そんな人物が維摩居士なのです。
これは、大乗仏教が目指した「理想的人物」でもあります。俗世間にいながら俗に染まらず、不浄な行いもしながら清浄であり、俗でありながら出家者よりも深い覚りを得ている・・・・。なにも出家しなくても、俗の遊びをしていても、覚りは得られるんだよ、ということを実践したのが維摩さんなのです。
確かに、理想的人物ですよね。こうした人になりたい、と望むのは、俗人だけではないでしょう。我々出家者でも、この維摩居士のような人になりたい、と思います。

と、まあ、このような理想的人物である維摩さんが繰り広げるワールドが、この維摩経です。ところが、維摩が初めから登場するわけではありません。初めの部分・・・序章・・・は、お釈迦様がバイシャリーで教えを説いているところから始まるのです。

@序・・・佛国品第一
この章のテーマは、浄土はどこにでもある、ということです。それを説くために、お釈迦様が教えを説いているシーンから始まります。ざっと、流れを見ていきます。
「バイシャリーでお釈迦様は教えを説いていた。その時、ある長者の子・宝積が五〇〇人の自分の子供と一緒に、傘を持ってお釈迦様を礼拝した。そして、500の傘をお釈迦様に布施した。お釈迦様は、神通力を持ってその傘を一つにし、全世界の相を示した。そして、如来の説法は一つだが、解釈は衆生の数だけある、と説いた。
宝積は、子供たちが佛国土を清浄にしたいと願っているが、どうしたらよいか教えてほしいと懇願した。そこでお釈迦様は、菩薩の道場は至るところにある、といろいろな例を挙げながら説いたのであった。さらに
『もし、浄土を望むのならば、自らの心が清ければどの佛国土も清浄になる』(心清ければ佛土浄し)
と説いたのであった。
そのときにシャーリープトラが質問した。
『この国土が清らかでないのは、お釈迦様が菩薩の時、その心が清らかでなったことが原因なのですか』
お釈迦様は、自然の具体例をあげて
『この自然がお前には汚いと映るのか。もし、汚れているというのなら、お前の眼は開かれていないのだ』
と説きます。シャーリープトラは
『確かに、自然は清らかです。私の眼は開かれていませんでした』
と認めます。そこへ、螺髻梵王(らけいぼんのう)が、
『何を言っているのかシャーリープトラ。このお釈迦様の浄土が汚れているといってはいかん。私から見れば、この地は大自在天の王宮のように見えるぞ』
と叱咤した。シャーリープトラはムッとして
『しかし、どこをどう見ても大自在天の王宮のようには美しくないではないか』
と反論した。螺髻梵王は
『やれやれ・・・。君の心は下の下だねぇ。如来の智慧の目を以て世の中を見れば、汚れているところなんてないじゃないか。智慧の眼で見てみなさい』
と呆れて言ったのだった。そこで、お釈迦様は神通力によってこの地が清浄なることが誰にでもわかるように、示現したのである。それを見て、やっとシャーリープトラは納得したのであった。お釈迦様は
『お前が見る眼を持たぬからこのように示したのだ。これは、たとえば天人が同じ食事をとったとしても、その天人の徳によって美味しく感じたり、不味くなったりすることと同じなのだ。お前の心が汚れているから、善いものを見ても善いと見えないだけなのだよ』
と説いたのであった・・・・」
これが、序章にあたる部分です。

維摩経では、最初から最後までシャーリープトラを目の敵にしているようなところがあります。ことごとく、ギャフンといわせてます。般若を説き始めていた大乗に目覚めた修行者たちは、よほど、上座部の修行者たちと敵対していたのでしょう。しかも、上座部仏教の修行者が言いそうなことをずべて看破しています。これが、維摩経の醍醐味でもあります。
さて、冒頭の500の傘を一つにするシーンです。傘は、本来は天蓋(てんがい)と称するものです。お釈迦様がいらした当時のインドでは、仏陀のような聖者や国王が外に出るときは、天蓋をかざしました。暑い国ですから、日除けが必要なのです。その天蓋を500人の者がめいめいに寄付をしたので、お釈迦様は、一つにしてしまったのです。それは、
「個々の我は要らぬ」
ということです。個人個人の我執などは必要ないから、500の個を一つにしたのです。ということは、500人の子は、それぞれみんな「自分が布施するんだ」という我にとらわれていたのでしょう。誰が布施する、ということが重要なことではなく、布施そのものが重要である、ということですね。

さて、この世は佛国土であり、大変清浄である、というシーンです。おそらく多くの人々が、シャーリープトラと同じ意見でしょう。そもそもお釈迦様自身も、「この世は穢土(えど・・・汚れた世界)である」と説いています。しかし、見方によっては、つまり如来の智慧の眼で見れば、この世は清浄なのです。
確かにそうです。この地球は、本来美しい清浄なる世界です。決して汚れた世界ではありません。汚しているのは、人間ですからね。人間の欲望が、この清浄なる世界を汚しているのです。
ですから、人間の「心が清ければ、この国土も清いものとなる」のです。
結局、人間の欲望が、地球を汚し、人間を苦しめているのですよ。悪循環ですね。地球にとって、今の人間は全くの天敵です。人間の心が清くならなければ、地球はいつまでたっても汚いままです。各国のお偉いさん方に、この維摩経を読ませた方がいいですね。サミットでこの
「心清ければ国土も清し」
という言葉をいってくれないですかねぇ。これぞ、日本の文化・・・なのですが。

まあ、いずれにせよ、見方を変えれば、汚いものもきれいに見える、ということです。これは、見方を変えれば、悪い人も善人であるところもあるし、悪い状況も善い状況に見えるだろうし、つまらない人生も楽しい人生になる、ということでもあります。すべては、自分自身の見方によりけりなのです。

A方便品(ほうべんぼん)
いよいよ維摩居士が登場します。ここで、維摩居士がどんな人物か説明がなされます。それによりますと、維摩居士とは
「莫大な財産を持っていて、何不自由のない暮らしをしている。家庭を大変大事にし、商売も熱心にしていたが、博打もするし、遊女と戯れたりもした。また、あまり上品とは言えないような酒場にも繰り出した。しかし、民衆からは軽蔑されることなく、尊敬と憬れのまなざしで見られていた。真理を見通す智慧を持ち、自由自在なる弁舌と神通力をも身につけていたのだ。
その智慧は仏陀でさえ賞嘆するものであった。その智慧を使い、仏教を理解しない人々を様々な方便を用い、ただし生き方に導いたりもしたのだ。人々を救うために、居士は巷を徘徊し、民衆のたち寄りそうな所に顔を出すのである。」
と、このように説明されています。
つまり、維摩居士は、俗世間にありながら俗世間に染まらず、俗世間の人々を俗世間の言葉や行動で正しい道に導いている人なのです。
清廉潔白な人の教えは、確かに立派です。しかし、一般の人々にはついていけないことが多いでしょう。あまり潔癖なことを言われても、一般の人々は「できない」のです。堅苦しい戒律や欲を捨てなければいけないような教えは、「受け入れられれない」のです。それよりも、欲を持ったまま、世間の泥にまみれたまま、こだわりのない安楽を得られると説けば、人々は「それならできる」と受け入れてくれるのです。維摩居士は、そのように民衆の言葉や生活を通して、こだわりのない安楽な生き方を説いた人なのです。
こういう方ですから、大乗仏教では、維摩居士は理想的人物とされています。

さて、その誰もから慕われている維摩居士が、ある日病気で寝込みます。そこで、維摩居士を慕っていた民衆や国王や大臣、バラモンなど、様々な身分の人々が見舞いにやってきます。そうした見舞客に対し、維摩居士は教えを説き始めるのです。
「皆さん、私たちの体は無常であり、もろく、弱く、頼りないものです。病気や苦痛に見舞われるのです。ですから、賢者は体を頼ってはいけません。どんな頑丈な身体も、病にかかり、衰え、やがて死んでいくのです。ですから、この肉体に執着してはいけません。求めるのは、如来の肉体なのです。如来の肉体とは、真理そのものです。皆さん、真理を求めてください。身体にこだわりなきよう、正しい智慧によって生活するのです。さぁ、悪行を断って善行をし、心を鎮め、慈しみの気持ちを持って、怠けることなく生活しましょう。さすれば、この上ない真理の肉体を得られるのです」
病床にある維摩居士の言葉は、説得力があり、皆の心に響いたのです。
維摩居士は、病気という方便を使い、人々を教え導いたのです。ですから、この章を「方便品」というのです。


B弟子品(でしぼん)
さて、様々な人々の見舞いを受けた維摩居士ですが、未だお釈迦様からの見舞いがありません。そこで、もうそろそろお釈迦様のお弟子さんがお見舞いに来られるかな、と考えます。その維摩居士の思いを知ったお釈迦様は、弟子を見舞いに行かせることにします。まず候補に挙がったのはシャーリープトラでした。お釈迦様は、シャーリープトラに命じます。
「シャーリープトラよ、維摩居士の見舞いに行ってきなさい」
ところが、シャーリープトラはこれを固辞します。
「世尊、それはご勘弁して下さい。私には維摩居士を見舞う資格がありません」
「なぜだ、シャーリープトラ」
「はい、実は・・・・かつて維摩居士との間に・・・・」
こうしてシャーリープトラは、彼と維摩居士との間にあった出来事を話し始めます。

・・・・私が静かな森の大きな木の下で瞑想をしていた時のことです。そこへ維摩居士がやってきてこういうのです。
「シャーリープトラ尊者、何をなさっているのですか?」
「見ればおわかりでしょう。瞑想ですよ(維摩居士さん、邪魔しないで欲しいな。修行の邪魔ですよ)」
「ほう、瞑想ですか・・・。ですが尊者よ、瞑想とはそのようにするものではありませんよ」
「な、何をおっしゃる(在家の者が何を言い出すのだ。知りもしない癖に)」
「シャーリープトラ尊者、瞑想はそのように行うものではありません」
「では、どのようにせよとおっしゃるのか」
「本当の瞑想とは、一切の心の活動を停止させることです。瞑想しているという意識もあってはならないのが瞑想です。したがって、深い瞑想に入りながら、普通の生活をし、凡人のようにふるまうことができなければいけないのです。つまり、日常の生活をしながら瞑想するのが本当の瞑想なのです。日常の生活をしながら、心はうちにも向かわず外にも向かわず、何ものにも偏らず、誤った考えを捨て去ることもなく、覚りの智慧を理解し、迷いや煩悩を断ち切ることなく、最高の悟りの境地に居る、それが瞑想ですよ。瞑想するぞ、といってするものではありません。世尊がおっしゃる瞑想とは、そのような瞑想なのですよ。では、よき修行を・・・・」
「あ、あ、あぁ・・・」
そういって維摩居士は立ち去りました。私は何も言えませんでした。私は出家修行者でありながら在家の維摩居士に教えられたのです・・・・。

「ですから、私には維摩居士を見舞いに行く資格はありません」
「ふむ、そうであったか・・・・。ではよい。ならば、目連、汝に行ってもらおうか」
お釈迦様は目連に目を向けた。しかし、目連は
「せ、世尊よ、申し訳ございません。私も維摩居士を見舞う資格がございません」
と見舞いを固辞したのです。
「汝もか・・・。どういうわけなのだ」
「はい、かつて私と維摩居士との間にこのようなことが・・・・」
そして、目連は維摩居士との出来事を語り始めたのでした。

・・・・ある時、私はバイシャリーの街の辻で説法をしていました。するとそこに維摩居士が現れて私の説法を遮りこういうのです。
「目連尊者よ、あなたの説法のやり方は間違っています。法というものはそのように説いてはいけません」
「維摩居士よ、どういうことですかな?。私は正しい法を説いていますが・・・・(何を言い出すのだ。邪魔をしないでほしいものだ・・・)」
「尊者よ、あなたは人々に向かって法を説いていらっしゃる。しかし、法とは説くことのできるものでしょうか。法とは、人間の思いを超えた普遍的なものであり、生じることも滅することもない唯一永遠の存在です。そうですな?」
「確かに法とは唯一永遠の存在です(いったい何が言いたいのだ、この人は・・・)」
「法とは本来、人間の感覚や思考でとらえることのできないものです。文字や言葉で表すことはできません。それには色も形も固有の性質もありません。ですが、すべての空間に、虚空に行きわたっています。なので、比較したり区別することもできません。何かの原因や条件によって生じたものでもありません。この世界のすべての存在が真実の相です。それが法でしょう。ですから、この世界の一部分を取り出して、これが法だ!、ということはできないのですよ。すなわち尊者よ、法は説きようがないのです。その説きようがない法をどう説いたらいいのでしょうか」
「う、うぅぅ・・・」
「目連尊者よ、ですから法を説いたつもりでもそれは法そのものではないのです。それを聞く者も法そのものを聞いているのではありません。法はあらゆる言語を超越しています。たとえどのような言葉で説いても法そのものは説かれたり聞かれたり理解されたりすることはないのですよ。しかし、このことを認識したうえで法を説くのであれば、それはよいでしょう。そのためには、聞く人々の心の状態や個性、能力を見抜かねばなりません。智慧の眼を持ってよく観察し、人々にあった教えを慈悲心を以って説くのです」
「あぁ、私は・・・・何も考えずただ教えを説いていただけなのか・・・・」
維摩居士はその場を立ち去って行きました。私は、自分の過ちを在家の者に教えられたのです・・・・・。

「ですから、私には維摩居士を見舞いに行く資格がないのです」
「ふむ、そうであったか・・・・ならば大迦葉、汝に行ってもらおうか」
「世尊、まことに申し訳ないのですが、私も維摩居士の見舞いには行くことができません」
「汝もか・・・で、何があった」
「はい、あれは私が貧しい村で托鉢をしていた時のことです・・・・・」

・・・・私が貧しい村を訪れ托鉢をしていると、維摩居士が近付いてきて言いました。
「大迦葉尊者よ、こんなところで托鉢をしているのですか」
「そうです、これから家々を回るところです」
「尊者よ、なぜあなたはわざわざこのような貧しい村を選んで托鉢するのですか」
「わたしはいつも質素でありたいのですよ。お金持ちから贅沢な食事をいただくのは好みません。それに金持ちはいつでも布施ができ、功徳が積めます。しかし、貧しい者たちはその機会がなかなかありません。ですから私は貧しい村を選んで托鉢しているのです。貧しい人々にも功徳が積めるように・・・・」
「尊者よ、それは大変結構なことに聞こえますが、実は正しい托鉢ではありませんぞ!」
「な、なにを・・・維摩居士、そのように語気を荒げなくとも・・・・」
「あなたが間違っているからです」
「ど、どうしてそう思われるのですか」
「あなたの慈しみと哀れみの心は偏っているではありませんか。法という絶対平等の教えからすれば、金持ちとか貧しいとか区別はありません。そんなことも御存知ないのですか。正しい托鉢は法にのっとったものでなければなりません。ですから、ここは金持ちの家だから避けようとか、ここは貧しい家だから托鉢しようとか、区別をつけることなく、すべての人々に平等に托鉢しなければならないでしょう」
「あっ・・・・。そ、その通りですね・・・・」
「金持と貧しい人といった区別ばかりでなく、施しを受ける人と施しをする人という区別も捨て去らねば正しい托鉢ではありませんな。そして、托鉢で得た食べ物は、一口は一切衆生のために施し、一口は一切の仏菩薩に施し、そしてその後に自らが食すのです。さらに、施しされた食事は尊いとか汚れているとかの区別つはありません。そうした思いを離れて食すのです」
「あぁ・・・なるほど・・・。私はは愚かでした。それでは維摩居士よ、一つお尋ねします。修行僧に施しをする人は、大きな功徳を得るのでしょうね」
「尊者よ、あなたに誰かが施しをしても、その人が功徳を得るなどととあなたが考えてはなりません。布施を行ったからといっても、功徳は大きからず小さからず、得ることもなく失うこともない、と考えるべきでしょう。布施により、特別な利益があると、あなたが考えるからそこに欲心が生まれ区別や差別が生まれ、苦しみが生まれるのです。よいですかな、受けることなくして施しを受け、与えることなくして施しをする、それが正しい托鉢であり施しでしょう。それが世尊の説かれた托鉢です。あなたの托鉢は世尊の説かれた托鉢とは異なるものです」
「あぁ、私は何も理解していなかったのか・・・・」
私が打ちひしがれている間に維摩居士は去っていかれました・・・・。

「こうしたことがあったので、私も維摩居士を見舞う資格がありません」
「なんということだ・・・。では・・・須菩提、汝はどうだ」
「世尊、申し訳ありません。私にも維摩居士を見舞う資格はありません」
「何があったというのだ」
「はい、あれは維摩居士の屋敷に托鉢に行った時のことです・・・・。
維摩居士は、須菩提の鉢においしそうな食べ物を山盛りに盛って言いました。
『須菩提尊者、どんな贅沢な食べ物でもどんなつましい食べ物でも、食べ物であることには変わりはありません。すべては平等です。仏陀の教えも、異なった教えを説いているようですが、どの教えもみな同じことを言っています。すべての教えは平等なのです。そのことがおわかりになるのでしたら、この鉢の食べ物をお食べください』
須菩提は黙ってうなずき、鉢を受け取ろうとした。ところが維摩居士はまた話しかけてきた。
『須菩提尊者よ、もしもあなたが「貪りや怒りや愚かさを断ち切らず、しかもそれにとらわれないでいられる」ならば、また「無知でなんにでも執着する心を持ったまま覚りを得ることができる」ならば、この食事を召し上がって下さい。
おぉ、そういえばあなたは解空第一(げくうだいいち)と言われているほど空を理解されている方でしたな。それでは、「自分という思いを捨てないで、なおかつ、空を理解し、凡夫でも聖者でもない生き方ができる」ならば、この食事を召し上がってください』
須菩提はとまどい、出しかけていた手をひっこめ、維摩居士の顔を見た。維摩居士はにやりと微笑み、
『須菩提尊者よ、あなたが仏陀を敬わず、仏陀の教えにも耳を傾けず、僧団の規律にも従わず、外道の師に従って出家し、よこしまなものの見方にとらわれ、身も心も汚れて清浄さは皆無となり、あなたに布施することは罪となり、布施者は地獄へと落ち、あなたはいつも悪魔と同居し、常にすべての人を傷つけてやろうという悪意を抱き、仏陀をあしざまに言い、僧団の平和をかき乱し、永遠に救われることなく、師とともに地獄へ落ちてしまう・・・・、そういう人間であなたがよければ、この食事を召し上がってください』
『な、何をおっしゃっているのだ。維摩居士、あなたは、いったい何を・・・・』
そういうと須菩提は目の前が真っ暗になり、恐怖と不安にさいなまれ、鉢をそこに置くとめまいを起こして倒れそうになってしまった。そして、冷汗をたらしながら、無言で維摩居士の屋敷を立ち去ろうとしたのだった。
『お待ちなさい、須菩提尊者よ。なにをそんなにおびえているのですか。私の言った言葉など気にしなくてもいいのですよ。たとえば、仏陀が神通力で一人の男をあなたの眼の前に出現させ、私が言ったことと同じことをしゃべったとします。あなたは怯えますか』
『い、いや、怯えないだろう。そ、そんなものは幻影だから。幻だから』
『そうでしょう。ならば、何も怖がることはないのですよ。あなたはよくご存知のはずではありませんか。すべては仮の存在です。実態はないのですよ。すべては仏陀が作りたもうた幻の人のようなものです。何の実体もない、空なのです。言葉もまた然りです。言葉や文字は、何の実体もない。どんな恐ろしい言葉を聞いたとしても、智慧のある人は怯えないものです。空なのですから。さあ、どうぞ、この食事を召し上がってください』
須菩提は
『あう、あう、あう、あぁ・・・・』
とうめくだけで、何も答えることができず、食べ物が入った鉢を受け取ると、夢中で維摩居士の屋敷を立ち去ったのであった・・・・」

「ということがありましたので、私も維摩居士のお見舞いに行く資格がないのです」
「なるほど・・・。では、フルナ、汝はどうだ」
お釈迦様はフルナに問いかけた。するとフルナは
「せ、世尊、申し訳ございません。私も維摩居士を見舞いに行くことはできません」
「今度は一体何がったというのだね」
「はい、実は・・・・以前、維摩居士との間にこのようなことが・・・・」
フルナは、話し始めた。
「フルナはその日、新しく出家した弟子たちを集めて説法をしていた。いつものように、仏陀の教えと戒律を型どおりに説明していたのだ。フルナの口調はよどみなく、流れるようであった。そこへやってきたのは維摩居士である。
『フルナ尊者、あなたは自分で説法が大変上手だと思っているでしょう。しかし、出家したばかりの人たちにそんな教えを説いてはいけませんなぁ』
『どういうことなのかね維摩居士よ。私の説法のどこが悪いというのですか』
『あなたはまず、深い瞑想に入り、この新弟子たちが何を願って出家したのかをよく観察し、理解してから説法すべきなのです。高い教えを求めて出家した人たちに、低い教えを説いてはいけません。フルナ尊者よ、あなたは、たとえば、宝でできた器に腐った食べ物を入れるようなことをしているのですよ。瑠璃と宝石とガラスの破片とを見分けないでごちゃまぜにしているのですよ』
『ど、どういう意味だね、さっぱりわからない』
『素晴らしい能力を持ち、大きく成長する素質を身につけている人たちを自分の小さな物差しで測ってはいけません。それは傷のなかったものに、わざわざ傷を入れるようなものです。大きな道を行こうとしている人を、わざわざ小さな道に引きずり込んでいるようなものです。大海の水を小さなくぼみに入れようとするようなものです。巨大な山をケシ粒に入れようとすることなのです。蛍光を見せて太陽の光だと思いこませるようなものです。狐の鳴き声を聞かせて獅子の鳴き声だと教えるようなものです。フルナ尊者、わかりませんか』
フルナは首をひねってうなった。
『わからん、いったい何が言いたいのだ・・・・』
『フルナ尊者、この修行者たちは前世において、菩薩の教えを実践したいと願った人たちなのですよ。あなたは、そういう志の大きな人たちに、自分だけが救われる小さな教えを説いているのですよ。なんと情けない。この新しい修行者の器がわからぬとは・・・』
そういうと維摩居士は深い瞑想に入り、新しい修行者たちに、彼らの前世を思い出させたのであった。新しい修行者たちは、過去世において、自分たちが菩薩の教えを実践したいと願ったことを思い出した。そして
『維摩居士様、ありがとうございました。これでフルナ尊者の教えがどうもしっくりこない理由がわかりました』
と感謝の言葉を述べたのであった。維摩居士は、
『菩薩の教えを忘れないように。自分だけが覚ればいい、などという小さな教えを頼らないようにしなさい』
とだけ説き、その場を去っていったのであった。フルナ尊者は、
『あぁ、そう言うことであったか・・・。私は相手の素質や理解力、性質、過去世での願いなどを知ろうとせず、ありきたりの教えを説いていたのだ。なんと愚かなことをしてきたのか・・・』
と深く反省したのであった・・・・・」

「と、このようなことがありましたので、私には維摩居士を見舞う資格がないのです」
「なんということだ・・・・」
お釈迦様はため息をつき、沈黙した。周りにいた多くの弟子たちは、高僧と謳われていた弟子たちが悉く維摩居士にやり込められてしまったことに驚いていたのだった。お釈迦様がふと目を開けた。
「ふむ・・・。ではカッチャーナ、汝はどうだ」
と言った。カッチャーナは論議第一と言われた弟子である。カッチャーナに論戦を挑んでも、誰もかなう者はいないという弟子であった。ところが・・・。
「せ、世尊よ、私も維摩居士の見舞いにはいけません・・・・」
と頭を下げたのだった。
「汝は、いったい何があったというのだ」
「はい、あれは・・・・。
お釈迦様の説法が終わり、カッチャーナはお釈迦様の言葉の解説を若い弟子たちに行っていた。
『無常とは、生あるものはやがて滅するということです。苦とは、身体を構成するものや心が苦をもたらすのです。無我とは我に固執することない境地です。そして寂静とは涅槃に至った境地なのですよ』
『いやいや、それはいけません』
カッチャーナの解説に割って入るものがいた。維摩居士であった。
『カッチャーナ尊者よ、あなたの説明は間違っている。すべて生じたものは必ず滅するから無常?。それは正しくない』
『な、何をおっしゃる。それでは問うが、無常とはいかなるものか』
『この世の事象・現象はすべて幻のようなものです。一切の世界には生じることも滅することもありません。過去に生じたこともなく、現在生じているのでもなく、未来に生じるものでもない。また、過去に滅することもなく、現在滅していることもなく、未来に滅することもない。それが無常なのですよ』
『むむむ・・・、では、苦はどうなのだ。それも私の解説は間違っているというのか』
『間違っていますな。身体や心を構成している要素は、すべて実体のない空という性質のものです。したがって苦もまた実体のない空なのだと知ることが、苦を理解することなのです。ついでに、我と無我ですが、我と無我は異なるものではありません。なぜなら、無我を説く我があるからです。その無我を説く我は空ですから無我です。したがって、我と無我は異ならないのです。我と無我を分けて考えてはいけないのです。対立関係にはないのですから。そして、寂静ですが、涅槃の境地と同じ、すなわち、煩悩の炎が燃え尽きたところ、ということですが、これも誤りですな』
『な、なんということを・・・・。では、寂静とは何と解釈するのか』
『そもそも煩悩に対する寂静という、対立的考え方が間違っているのですよ。この現象世界は一切が空です。幻のようなもの。はなから燃える煩悩もなければ、燃えない煩悩もない、寂静の境地もなければ、煩悩の境地もない、燃えることもなければ燃えないこともない、寂静もなければ寂静がないこともない。求めるべき寂静もない・・・・というのが本当の寂静でしょう』
『あぁ、私はすべてを対立的に考えていたのか・・・・』
『そうですな。だからこそ、空を理解できていないのですよ。相対的なとらえ方では、世尊の教えは理解できませんな』
カッチャーナはうなだれて、その場を去っていったのだった・・・・」

「ということがあったのです。情けないことですが・・・・。ですので、私には維摩居士を見舞う資格がないのです」
「そういうことか・・・。では、阿那律、汝が行きなさい」
「せ、世尊、申し訳ございません。私も行けません」
「汝は何があったのだ」
「はい、あれは・・・・・」
阿那律は、かつて維摩居士に出会ったときのことを話し始めたのだった・・・・。

阿那律は、かつて維摩居士に出会ったときのことを話し始めた。
「あれは、私が瞑想の合間に森を散策していた時のことです。私の目の前に梵天王が多くの神々を引き連れ現れ、礼拝して言いました。
『阿那律尊者、お尋ねしたいことがあります』
『はい、なんでもどうぞ』
『尊者はどんな遠くのものでも見通すことができるといわれる天眼をお持ちだそうですが、その天眼ではどのくらいの範囲が、どのように見えるのですか』
『あぁ、天眼通のことですか』
阿那律は、ちょっと誇らしげに答えた。
『たとえば・・・そうですね、手のひらの上に果物を載せて、その果物を見るように世界中が見渡せるのですよ』
するとそこへたまたま維摩居士がやってきた。そして、阿那律に問いかけたのだ。
『阿那律尊者よ。あなたの天眼通で見渡す世界とは一体どういう世界なのですか』
『どういう世界って・・・このままの世界ですが』
『その世界は、生じたり滅したりする世界ですか。それとも生じたり滅したりしない世界ですか』
そう問われ阿那律は答えに窮してしまったのだった。維摩居士はさらに問うた。
『もしも生じたり滅したりする現象世界を見ているのでしたら、それは普通の人の眼と変わりありませんねぇ。もし、生じたり滅したりしない法の世界を見ているのでしたら・・・・おかしいなぁ、法には色もなければ形もない。見ることはできないはずですが・・・・。さて、どうなのですか?』
『いや、その・・・・・』
阿那律は答えられなかった。その様子を見ていた梵天王は、維摩居士の鋭い質問に感心し、
『では、維摩居士よ、天眼通を備えている人などは本当はいないのでしょうか』
『いや、いますよ。それは世尊をはじめとするもろもろの如来です。如来は、深い瞑想に入り、その状態で世界を見通すのです。それが本当の天眼通です』
『それはどのように見えているのでしょうか』
『あるがままに・・・・です』
『どのくらいの範囲を見るのでしょうか』
『あるがままに・・・です』
『なるほど・・・。わかりました』
梵天王は、維摩居士の答えに、新たに如来に帰依することを誓い、維摩居士を丁寧に礼拝すると、喜んで天界へ帰っていったのだった。そして維摩居士もその場を去っていった。あとに残された阿那律は、ただ呆然と立ち尽くしていたのだった・・・・。

ということがありましたので、私も維摩居士のお見舞いに行く資格がないのです」
「ふむ、なるほど・・・。では、ウパーリ、汝はどうだ」
お釈迦様はウパーリに問いかけた。するとウパーリは
「世尊、申し訳ございません。私も維摩居士を見舞いに行くことはできません」
と頭を下げて答えたのだった。
「ウパーリ、汝は何がったというのだね」
「以前、維摩居士との間にこのようなことが・・・・」
ウパーリは、話し始めた。
「ある日のこと、二人の修行僧が戒律を破ってしまった。その二人は、戒律を破ったことをひどく後悔し、恐れおびえていた。
『本当は世尊の前に出て罪の告白をしなければいけないのだが・・・』
『そ、そんなことをしたら修行ができなくなる・・・・』
『しかし、黙っているわけにはいかないぞ』
『あぁ、どうすればいいんだ。恐ろしくて夜も眠れないよ』
『そうだ、ウパーリ尊者に相談してみよう。尊者は、持律第一と賞賛されている方だ。きっとどうすればいいか導いて下さる』
こうして、二人の修行僧はウパーリのもとを訪ねたのだった。そして、ウパーリに懇願した。
『ウパーリ尊者よ、私たちは罪を犯してしまいました。恥ずかしくて、恐ろしくて世尊の前に出ることができません。どうか、私たちの罪を取り除き、この恐れを取り除いてください』
『そうなのですか。よろしい・・・・』
ウパーリはそういうと、彼らが再び罪を犯さないようにと、戒律の重要性を教え、また戒律の一つ一つの項目をあげて説明をした。すると、そこへ維摩居士現れたのだ。
『ウパーリ尊者、この二人の心の傷にさらに塩塗るようなことをしてはいけませんなぁ。二人が犯した罪を余計に重くするようなことをしてどうするのですか。彼らはすでに自らの犯した罪の重さを意識し、後悔し、反省し、恐れ慄いているのですよ。もうこれ以上、追及するようなことはすべきではないでしょう。彼らが望んでいるのは、心の恐れを取り除いて欲しい、ということなのですよ。それをしないで、責めるばかりでは、教えになっていないのではないですか』
『そ、それは確かにその通りかもしれません・・・・が、しかし、戒律を守ることは修行僧としては必要なことです。それは修行僧の務めです』
ウパーリは、たじたじになりながらも返答した。
『戒律、規則・・・ねぇ。ウパーリ尊者よ、いいですかな、罪というものは初めから人にくっついているものではありません。心が汚れればその人も汚れ、心清ければその人もまた清らかになるのです。そうですよね、ウパーリ尊者よ』
『その通りです』
『ところでウパーリ尊者よ、心の本性は清らかであるからこそ覚りを得ることができるのでしょう。あなたの心はかつて汚れたことがありますか?』
『心の本性とは汚れを離れたところをいうのです。したがって、私の心の本性は汚れたことはありません』
『ウパーリ尊者よ、あなたの心の本性がかつて汚れたことがないように、すべての人の心の本性も汚れたことはないのです。物事を分別したり妄想を持ったりすることは汚れですが、心の本性には分別も妄想もありません。ですから汚れがないのです。誤った考えを持つことは汚れですが、心の本性は誤った考えを持つことはないので、汚れはないのです。ですから、この二人も心の本性は汚れがないのですよ。そこを説き、罪の重さに慄く心の恐れを取り除かねばならないのに、戒め責めてどうするのですか、と問うているのです』
『た、確かに・・・そうです・・・・』
ウパーリは何も答えられなかった。
『すべての存在は生じては滅し、決してとどまることはありません。一切の存在は幻や雲や雷のようなものです。それは夢のようであり、水に映った月のようなものです。どこにも実体などない。ただ、心が物事に執着し、妄想し、分別するから物事が存在するように思いこんでいるだけです。持律の人とは、このように正しく物事を観察することができる人のことを言うのですよ。真実の持律者とは、そのように修行する者のことなのです』
維摩居士の言葉を聞いた二人の修行僧は、
『ありがとうございます。私たちは心の恐怖を取り除くことができました。罪を犯した私たちでも、心の本性は汚れていないということがわかり、安心しました。これで再び修行に励むことができます』
と喜んだのだった。
『ところで維摩居士様は、ウパーリ尊者でもできなかったことを説かれますが、あなたはいったい・・・・』
二人の修行僧の問いにウパーリ尊者は、ため息をひとつついて答えた。
『こちらの維摩居士は、普通の在家の生活をしながらも、覚りの境地を得られている方です・・・・』
『そうだったのですか・・・。在家であってもそのような境地に達することができるのですね。私たちも修行に励み、維摩居士の境地に達するようになります』
そういって、維摩居士を礼拝すると、自分たちの修行場所へと戻っていったのだった。やがて、維摩居士もいつの間にか、その場からいなくなっていた。唯一残されたウパーリは、しばし呆然としていたのだった・・・・。

と、このようなことがありましたので、私には維摩居士を見舞う資格がないのです」
「なんということだ・・・・。ではラーフラ、汝はどうだ。維摩居士の見舞いに行けるか」
お釈迦様はラーフラを呼んで問うた。
「世尊よ、私にはとても維摩居士の見舞いはいけません・・・・」
と頭を下げたのだった。
「汝は、いったい何があったというのだ」
「はい、あれは・・・・」
ラーフラは、かつて維摩居士との間にあったことを語り始めたのだった。
「ある日のこと、ラーフラのもとにリッチャビ族の若者が大勢でやってきた。
『ラーフラ尊者よ、尋ねたいことがあります』
『なんなりと・・・。答えられることはお答えします』
『ラーフラ尊者よ、尊者は世尊の一人息子であり、釈迦族の王位継承者であるのに、なぜ出家されたのですか。王位を捨ててまで出家したということは、出家にはそれに見合うほどの大きな功徳と利益があるということですか』
『出家とは、何ものにも代えがたいものです。出家し、悟りを得ることは王位を受け継ぐことと比較にならないほど尊いことです。王位を継いでも快楽におぼれるだけで、この世の苦からは解放されません。が、出家・修行し、悟りを得られれば一切の苦から解放されます。ですから、王位を捨てることなどたやすいことなのです』
と、通常の出家の功徳について説いたのだった。すると、そこに維摩居士がやってきて言った。
『いけませんねぇ、ラーフラ尊者よ、出家の功徳や利益をそのように説くのは間違ってますよ』
ラーフラは驚き、
『何をおっしゃるのか、維摩居士よ。どこが間違っているのでしょうか』
と尋ねた。
『ラーフラ尊者よ、出家には功徳も利益もないのです。この無常なる現実世界においては功徳や利益は存在するでしょう。しかし、出家はそのような現象世界を超えたところにあります。覚りの世界には功徳も利益もありません。』
『な、なるほど・・・。確かにそうですね・・・・』
ラーフラやリッチャビ族の青年たちはうなずいた。維摩居士は続けた。
『出家とは、出家者らしい姿をし、出家者らしい生活をすることにあるのではありません。出家とは、あらゆる魔を打ち破り、外道を正しい道に導き、悪を離れ、欲望の泥沼から抜け出し、何ものにもとらわれず、自己を制御し、苦悩を超越し、心を静かな状態に維持することをいうのです。頭を剃り、袈裟を着ていれば出家者である、というものではないのですよ。涅槃への道を行うのなら、姿かたちにこだわることなく出家者であるのです。若者たちよ、そのような心構えで出家をしなさい。出家に功徳や利益を求めてはいけないのですよ。仏陀に出会うことは古来より稀なことです。人間に生まれることも稀なことです。ましてや出家して修行することなどもっと稀なことでしょう』
若者たちは維摩居士に尋ねた。
『ですが維摩居士よ、世尊は父母の許しがなければ出家を許してくれません。父母の許しがない者はどうすればいいのでしょうか』
『若者たちよ、形にこだわってはいけない。あなたたちが、ひたすら最高の覚りを得たいという思いを持つならば、それが出家そのものなのですよ。その思いを持って生活するならば、たとえ在家者であっても、戒律を受けた出家者と何ら変わることはないのです』
『そのお言葉を聞いて安心しました。覚りを得たい、と思う心が大切なのですね。よくわかりました』
『ラーフラ尊者よ、出家とはこのようなことを言うのですよ』
そういうと、維摩居士は静かに去っていったのだった。若者たちも、清々しい顔をして帰ってしまった。後に残ったラーフラは、ただ呆然とその姿を見送っていた・・・・・。

ということがあったのです。ですから、私には維摩居士を見舞う資格がないのです」
「そういうことか・・・。では、アーナンダ、汝が行きなさい」
「世尊、申し訳ございません。私も行けません」
「汝は何があったのだ」
「はい、あれは世尊がご病気なられたときのことです・・・・・。

アーナンダは、お釈迦様の世話役をしていた。ある日のこと、お釈迦様が病気なられた。早期の回復を願い、お釈迦様に栄養をつけてもらおうと、アーナンダは牛乳をもらいに街に出た。すると、そこに維摩居士が現れた。
『アーナンダ尊者、どうしたのです、そんなに慌てて』
『はい、世尊がご病気なられたので急ぎ牛乳を頂こうかと思いまして・・・』
『これこれ、滅多なこというでない、アーナンダ尊者』
『ど、そういうことですか』
アーナンダがそう尋ねると、維摩居士は急に小声になり
『如来の身体は金剛石のように堅固なものです。一切の悪や汚れを離れ、あらゆる善を備えているのですよ。そのような如来がどうして病気になどなろうか。如来は病気になどならないし、病気で苦しむこともなければ、苦痛に悩むこともありません。アーナンダ尊者よ、如来を謗るようなことを言ってはなりません。さぁ、早く帰りなさい』
アーナンダは、維摩居士の言うことももっともだと思ったが、事実、お釈迦様は病気なのだし、どうしていいのか迷ってしまった。
『なにをしているのですか。もし、外道の者があなたを見たらこういうでしょう。お釈迦様は仏陀だと言っているが、自分の身体すら自由にできない。そんな者が、他の人々の苦しみを救えるのか・・・と。さぁ、早く立ち去りなさい』
それでもアーナンダは迷い、その場にたたずんでしまった。
『あなたもわからない人ですねぇ。如来の身体とは、法そのものなのですよ。ですから、それは食べ物や牛乳で維持されるものではないのです。如来の身体は法そのものであるから、私たちの考えや世界を超越したところにあるのです。ですから、病気になることはないのですよ。如来は生じることもなく滅することもありません。なぜなら、法そのものだからです。法は病気にはならないですよ』
そういうと、維摩居士はにやりとしてその場を去っていった。残されたアーナンダは、どうしていいかわからず、ただただ迷っていた。
(わからない・・・。どういうことなんだ。世尊の身体は法そのもの・・・・。これはわかる。確かに世尊は法そのものだ。世尊を見るものは真理を見るのだから。しかし、肉体はある。実際の肉体はあるのだ。世尊が真理であり、法であり金剛の身体を持つ・・・・しかし、実際は病気になる・・・・。あぁ、わからない。いったいどういうことなのだ・・・・)
どうしていいかわからなくなってしまったアーナンダは、焦っていた。そして、今にも倒れそうになったのだった。そのとき、ふと天空から声が聞こえてきた。
『アーナンダ尊者、何を迷っているのか。世尊の身体は法そのものであるから病気にはならない、これは真実だ。しかし、この世の人々を導くため、如来は仮の姿をこの世に表した。その身体は、人々を導くため、この世の人々と同じ苦を受ける身体である。それは人々を導くための方便なのだ。それがわかれば、何もためらうことはない。堂々と牛乳をもらうがよい。真と仮の違いを理解せよ』
『そうか、そういうことだったのか。維摩居士は、私にそのことを教えたかったのか。私はいつも世尊のおそばにいて、仮の姿は見ているが、その姿にとらわれ、真実の姿を見てはいなかった。そのことを私に伝えたかったのか・・・』
こうして、アーナンダは牛乳をもらいに行ったのだった。

と、このように、私に世尊の本質を教えて下さったのは維摩居士です。ですから、私には維摩居士を見舞うなどとううことはできません」
この話を聞いたお釈迦様は、
「では、他の者はどうだ。誰か維摩居士を見舞うことができるものはいるか」
と、その場所にいた500人の弟子たちに尋ねたが、誰一人手を挙げるものはいなかった。
「そうか・・・誰もおらぬか・・・。では、菩薩に願うとするか・・・・」
お釈迦様は、寂しそうにそうつぶやいたのだった・・・・。



C菩薩品(ぼさつぼん)
今回から新しい品に入ります。ここ品では、お釈迦様の弟子ではなく、菩薩までもが維摩居士にやり込められたというエピソードが語られます。まずは弥勒菩薩です。

「弥勒菩薩よ、汝に維摩居士の見舞いを頼むとしよう」
お釈迦様がそういうと、弥勒菩薩は
「世尊よ、私もあの居士を見舞うことができません。なぜならば、かつてこのようなことがあったからです・・・・」
弥勒菩薩は、語り始めたのだった。

「兜卒天で教えを説いていた時のことです。そこへ維摩居士がやってきて話しかけてきました・・・・。
『弥勒菩薩よ、あなたは今の一生が終わると次の世では仏陀になると、世尊から予言されていますね』
『いかにも、その通りです』
『今の一生いというが、それはどの一生か?。過去なのか、未来なのか、現在なのか。過去は過ぎ去ったもの、未来は未だ来らないもの、現在はうつろうもの、それゆえどの一生も実体がないですな。ということは、存在しないことと同じです。
あなたの言う生が法の世界の生であるというのなら、元来法の世界は生滅を超えた世界ですから次に生まれることはないですね。となると、つぎの生は、ないことになります。ない生について予言はできませんから、世尊の予言とは一体どういうことなのでしょうか?』
この問いに弥勒は答えられなかった。維摩居士はさらに続けた。
『あなたが次の世で仏陀になるのは、この現象世界でのことなのか、それとも現象を超えた法の世界でのことなのか、どちらでしょうか?。もし、法の世界とすれば、そこは生滅のない世界ですから、一切の生きとし生けるものが仏陀になれる世界です。仏陀はあなただけではなく、すべての生ある者があなたと同じ本性を持っています。
すなわち、仏陀になると予言されたのは、あなただけでなくすべての生ある者、ということになります。あなたが仏陀になるときは、すべての生ある者も仏陀になるのです。もし、このことを理解していないのでしたら、つぎの世で仏陀になると予言されたことを話していけません』
『ゆ、維摩居士よ、あなたの説かれた覚りは私のいる以上の覚りです。もっと詳しく説いてください』
『覚りとは、そういう特殊な世界があるわけではありません。覚りとはあらゆるものが寂滅することです。一切の意志作用・判断・認識・分別・執着・動揺・願望などがない状態です。ただすべてのものがあるがままに存在しており、なおかつ存在しない状態で、それを知ることが覚りです。
覚りは、どこか一定の場所にあるのではなく、あらゆる場所に偏在しています。たとえば、海の表面は波立っていますが海中は静寂です。しかし、海は一続きです。それと同様に、覚りもこの現象世界と一続きなのです。分けられるものではありません。覚りの状態とは、静寂で混乱なく清らかで差別や分別のない状態なのです。それはたとえることができないし、理解することが極めて困難なのです』
弥勒菩薩や天人は、心の安らぎを得、さらに覚りに対して理解を深めたのだった・・・・。
ということがありましたので、私は維摩居士の見舞いにいくことはできません」
弥勒菩薩は、お釈迦様を礼拝し、退いたのだった。

「そうか・・・では、リッチャビ族の菩薩である光厳よ、汝が行きなさい」
そう名指しされた光厳菩薩は
「私も維摩居士の見舞いにはいけません。なぜなら、以前このようなことがあったからです・・・・。
ある日のこと、光厳菩薩がヴァイシャリーの街を出ようとした時に、街に入ってくる維摩居士と出くわした。光厳菩薩は
『維摩居士よ、どこから来られたのですか』
と尋ねた。すると維摩居士は
『覚りの場所から』
と答えた。光厳菩薩はさらに尋ねた。
『覚りの場所とはどこにあるのですか』
『うそ偽りのない素直な心が覚りの場所です。正しい行いを積極的に行うことが覚りの場所です。覚りを求めよう深く決意することが覚りの場所です。見返りを望まず施しをすることが覚りの場所です。不退転の心が覚りの場所です。憎しみを起こさず耐え忍ぶことが覚りの場所です。戒めが覚りの場所です。あるがままに見る智慧があることが覚りの場所です。すべてを平等に見ることが覚りの場所です。他の苦しみを我が身として受け止めることが覚りの場所です。真実の教えを喜ぶことが覚りの場所です。一切の執着から離れた自由な心が覚りの場所です。
神通力が覚りの場所です。ものごとを主観で判断しないことが覚りの場所です。方便を使うことが覚りの場所です。施しをし愛情のこもった言葉を使い、苦楽を共にし、利他をはかることが覚りの場所です。真剣に教えを聞くことが覚りの場所です。煩悩のまま生きることないようにすることが覚りの場所です。すべての真理が覚りの場所です。恐れずに教えを伝えようとすることが覚りの場所です。仏陀の力が覚りの場所です。清らかな智慧が覚りの場所です。
光厳よ、菩薩があらゆる徳を備えて人々を教え導き、つねに正しい教えを求めて善行をしているとき、その菩薩は覚りの場所にあり、仏陀の真実の教えの中にいるのです』
維摩居士の話を聞いていたのは光厳だけでなく、天界の神々も聞いていたのだった。神々は、維摩居士の話により、覚りを求める心を起こしたのだった・・・・・・。
私は何も答えることができず、ただただ呆然と維摩居士を見送っていました。このようなことがったので、とても見舞いに行くことはできません」
そいって光厳菩薩はお釈迦様の前から退いたのだった。

「そうか・・・・では、持世菩薩、汝が行ってください」
「申し訳ございません、世尊。私もかつてこのようなことがったため、維摩居士の見舞いにはいけないのです」
というと、持世菩薩は維摩居士とのやり取りを語り始めた。
「ある日のこと、持世菩薩の前に、帝釈天に化けた悪魔が大勢の魔天女を連れてやってきた。悪魔と魔天女たちは持世菩薩を丁寧に礼拝し、向かい側に腰をおろした。すっかり騙された持世菩薩は
『帝釈天よ、ようこそいらっしゃいました。折角ですから教えを説きましょう。どんな喜びや楽しみの中にあっても心を放逸にしてはいけません。この身体や財産は頼りないものであり無常なるものです。だからこそ、常に正しい教えを求めねばならないのです・・・・・』
と教えを説き始めたが、悪魔たちはそっぽを向き
『持世菩薩よ、この大勢の天女をあなたの給仕として差し上げましょう。あなたの身の回りの世話をさせて下さい』
と言ったのだった。
『それはいけません。お断りします。私には天女は相応しくありません』
『いや、置いていきます』
『いえ、断ります』
そうした押し問答が続いていた時、維摩居士がその場にやってきた。
『持世菩薩よ、騙されてはいけませんぞ。こやつは悪魔です』
『ま、まさか・・・』
維摩居士は、持世菩薩を見て微笑み、悪魔にいった。
『悪魔よ、持世菩薩はいらないと言っているから、その天女は私が受け取ろう』
正体を見破られた悪魔は
(いまいましい維摩め、このわしを愚弄しよって・・・・)
と怒り、魔天女を連れてその場を立ち去ろうとした。が、なぜか悪魔たちは動けなくなっていたのだった。すると、天からとどろくような声が落ちてきた。
『悪魔よ、その天女を維摩居士に与えよ。そうすれば、お前は動くことができる』
それを聞いた悪魔は、しぶしぶ魔天女を維摩に与えた。
『魔天女よ、汝らは悪魔の手下ではない。これからは仏陀の教えに従い、正しい覚りを求めよ』
と維摩は天女に言ったのだった。そして、すぐさま教えを説いたのだった。それにより、魔天女たちは正しい覚りを求める心を起こしたのである。
一部始終を見ていた悪魔は、急に天女を維摩居士に与えるのが惜しくなり、
『一緒に帰ろうではないか。悪魔の宮殿の方が楽しいぞ。欲望のままに快楽を味わおうではないか』
と誘ったのだが天女たちはきっぱりとこれを断ったのだった。
『私はすでに覚りを得ることの喜びを味わっています。それ以上、どんな喜びがあるというのでしょうか』
と。そこで、悪魔は維摩居士に懇願するのであった。
『維摩居士よ、私の負けだ。どうか、この天女たちを返しておくれ』
『悪魔よ、私はまだ受け取るとは言っていない。連れて帰りたいのならそうすればいい。ただし、天女たちは、汝の宮殿で、正しい覚りを求める道を説くであろう』
そして、天女たちにも、正しい覚りを求める道を教え聞かせ、悪魔の宮殿にいる者たちを導くように伝えたのだった。天女たちは、宮殿の者を正しい道に導くことを誓い、悪魔と共に去っていったのだった。
持世菩薩は、こうしたやり取りの間、ただ呆然と見ているだけであった。何も口を挟むことができなかったのである。持世菩薩に、悪魔を見破る力があれば、天女を受け取り教え諭す力がれば、維摩居士が出る幕はなかったであろう・・・・。
と、このようなことがあったので、私も維摩居士の見舞いに行く資格がありません」
深々と礼拝した持世菩薩は、後ろに下がったのであった。

さらにお釈迦様は、祇園精舎を建立したスダッタ長者に維摩居士の見舞いを打診したが、スダッタ長者も維摩居士に教えられ、見舞いに行くことができぬということであった。そのほかの菩薩も指名してみたが、どの菩薩もかつて維摩居士に教えを説かれたことがあり、見舞いをしり込みするのであった・・・・。

以上が、菩薩品です。多少省略してあります。だいたい内容は同じですから。
すなわち、お釈迦様の弟子も、様々な菩薩も長者も、みんな維摩居士にやり込められたことがあるので、お見舞いに行きたくない、というストーリーになっているのです。維摩居士の方が、在家であるにもかかわらず、お釈迦様の教えを深く理解しているということを説いているのですね。出家者でなくても深い覚りは得られるのだ、という教えを説いているのです。

では誰が見舞いに行くか・・・。お釈迦様は、文殊菩薩を指名します。文殊菩薩は、しぶしぶながら見舞いに出発します。
先ほどまで、維摩居士の見舞いを拒否していたお釈迦様の弟子たちも、菩薩たちも、文殊菩薩と維摩居士の問答が見られる、というのでぞろぞろついていきます。
そうして、維摩居士の邸宅で、「文殊菩薩VS維摩居士」の問答が始まるのです。それが「問疾品(もんしつぼん)」です。
それは次回にお話しいたします。

合掌。




ばっくなんばあ〜17      やさしいお経入門今月号へもどる


表紙へ