ばっくなんばぁあ〜17

第 六 章

「大乗経典」

*維摩経(ゆいまきょう)

D問疾品(もんしつぼん)
お釈迦様は、文殊菩薩を指名します。文殊菩薩は、
「維摩居士は、ありとあらゆる微妙な境地を言葉にできる智慧を持っています。私が対応できるような相手ではありません。しかし、世尊のお言葉ですから、維摩居士の見舞いに行きます」
と、しぶしぶながら見舞いに出発します。
先ほどまで、維摩居士の見舞いを拒否していたお釈迦様の弟子たちも、菩薩たちも、文殊菩薩と維摩居士の問答が見られる、というのでぞろぞろついていきます。

一方、維摩居士はというと、神通力で文殊菩薩が見舞いに来ることを知ります。そこで、屋敷の中を神通力によって空っぽにしてしまいます。あるのは、維摩居士が寝ているベッドだけです。
文殊菩薩は、家の中が空っぽであることに注意しながら維摩居士の傍らに座ります。ぞろぞろついてきた菩薩や弟子、神々も周囲に着座します。いよいよ維摩居士と文殊菩薩の問答が始まります。先制攻撃は維摩居士です。
「文殊菩薩よ、よくいらっしゃった。あなたは実に来ることもなく来られた。私に会うこともなく会われた」
「維摩居士よ、確かにその通りです。私はすでに来ていますから来ることはありません。すでに会っていますから会うことはありません」
文殊菩薩は、維摩居士のイジワルな挨拶を巧みにかわします。
(ただし、この答えは本当はいい答えではないように思います。なぜなら、私という個は存在しない、というのが維摩経の教えですから、私に会う、私の見舞いに来る、ということ自体存在し得ないのです。私に会いに来ることは、空という観点からすれば初めから存在しないことになるのです。したがって、正解は「空である個体に見舞いに来ることもは本よりないことであるから、来ることもなく来るし、来ることもなく来ないし、会うこともなく会うし、会うこともなく会わないものなのですよ。また、去ることもなく去るし、去ることもなく去らないし、会わないこともなく会うし、会わないこともなく会わない、ものなのです。なぜなら、私という個体が空だからです。空って難しいですね。余談でしたが・・・)

そして、維摩居士の病気に関して質問します。
「あなたの病気は辛抱できるものか、快方に向かっているのか、悪くなっているのか。あなたの病気は何が原因でいつ始まったのか。そしていつごろ治りそうなのか」
「世の人々が病に苦しむことが続く限り、私の病気も治りません。すべての人々が病を離れたならば、私の病も治りましょう。菩薩がこの現実世界に存在するのは衆生を救うためです。衆生が病むから菩薩も病むのです。なので、衆生の病状によって私の病気も変化するのです。衆生が病むことがなくなれば、菩薩も病むことはないのです。したがって、菩薩が病む原因は大いなる慈悲心によるものです」
これが維摩経では有名な
「衆生が病むから菩薩も病む。その原因は大慈悲心によるものである」
という句なのです。菩薩の誓願と性質を的確に表した言葉ですね。衆生の苦しみを自分に置き換えて理解し、救うのが菩薩なのです。これは、弘法大師の誓願である「衆生尽きなば我が願いも尽きなん」という言葉へとつながっていきます。すなわち、衆生がいなくなるまで、私の願いは尽きることはない、という菩薩の働きを弘法大師も誓っているのです。これが、菩薩なのです。

さて、部屋の中が空っぽであることを文殊菩薩は尋ねます。問答調で書きます。
「維摩居士、汝の家中は空っだが、如何された」
「空っぽなのは我が家のみにあらず。如来の国土はすべて空っぽなり」
「それは如何に」
「仏国土は空なるが故に」
「なにゆえ、空なることがわかるか」
「認識によるものなり」
「空を認識するとは如何に」
「空を認識する認識も空なり。而して認識することは無なり」
と、ここまでで一つの問答が終わっています。文殊菩薩の「なぜ仏国土が空だとわかるのか」という問いに対し、維摩居士は「認識による」と答えています。しかし、認識することも空です。したがって「空を認識することは空であるから、認識そのものが空となり、仏国土が空であることを認識によって知る」ということはできないことになります。
実は、維摩居士の答えは答えになっていません。維摩経の内容には、このように矛盾している話がいくつかあります。
これは仕方がないのです。なぜなら「空」をテーマにしているからです。空を主張すれば、己も空であるから空を主張すること自体ありえないことになるのです。つまり、空を語れば空でなくなるという自己矛盾に陥るのですよ。空とはそれほど難しい思想なのです。

文殊菩薩は話を変えます(経典製作者の都合のよい展開になっています)
「空という考え方はどこに見出されるか」
「仏教以外の教え、外道の誤った教えの中に見出される」
「外道の誤った教えはどこに見出されるか」
「その誤りを見抜き真理を得た仏陀の覚りに見出される」
「仏陀の覚りはどこに見出されるか」
「生きとし生けるものの心の働きの中に見出される。衆生の心を離れて仏陀の覚りは存在しえない」
さて、ここでまた一区切りです。この問答の意味はわかるでしょうか?。わかる、という方は仏教の神髄の一端を理解している方です。
空という思想はどこで認識されるのか、という文殊菩薩の質問に対して、「空は仏教以外の教えの中に認識されるのだ」という意外な答えを出してきます。仏教思想である空は仏教以外の教えの認識されるというのです。なぜなら・・・。
仏教以外の教えが間違った教えであると知るのが仏教です。仏教を理解すればするほど、他の教えは間違っていることがわかります。しかし、仏教以外の教えが間違っているかどうかがわかるのは、仏教があるからにほかなりません。仏教の教えがなければ、他の教えの誤りが発見できないでしょう。したがって、仏教以外の教えが誤りである、ということは仏教の真理の中に認識されます。すなわち、ここで「仏教以外の教えは誤り」という認識が生まれるのです。
では、他の教えのどこが誤りなのか。それは「真実の空」を説かないからです。つまり、仏教以外の教えには「究極の空という思想」がないのです。つまり、仏教以外の教えの中にない「真実の空」を知ることとなります。ですから、空の考え方が仏教以外の教えの中に認識される、と答えたのです。
逆説的な言い方になっているのですよ。その中にないからこそ、認識できる、ということですね。わかりますか?
もう少し簡単いえば、仏教とそれ以外の教えを比較して、仏教にあってそれ以外の教えにないものはなにか、と問われれば、「真実の空」となるわけです。それを言葉にすると、上の問答のようになるのです。
もっと素直に説けばいいのにねぇ・・・・。

話が戻ります。
「文殊菩薩よ、先ほど私の家の中が空っぽだ、家族はいないがどうした、とあなたは尋ねましたが、あらゆる悪魔、あらゆる異端者が私の家族である。なぜなら、悪魔は衆生に苦と悪をもたらす存在であり、菩薩は苦と悪に悩む衆生を家族とするものであるからです。また、異端者は誤った考えを主張するが、そうしたものを導くのが菩薩なのだから、異端者も家族なのです」
これは、一切は平等である、という仏教の思想です。苦しみをもたらす存在も、仏教を非難する存在もすべて容認するのが仏教です。なぜなら、苦しみをもたらす存在は常に衆生とともにいるからです。衆生を救うのが菩薩なら、その衆生にくっついている存在をも救うことになるのです。病める衆生に対し慈悲心を起こすのが菩薩ですから、その原因を作っている悪魔にすら慈悲心を起こすのです。
また、仏教を非難するものは仏教の真理を知らぬものです。そうしたものは真理を知らないから苦しみの中にいる存在です。そうした者を救うのが仏教ですから、仏教を非難するものも救う対象になるのです。
苦をもたらす存在も、仏教を非難する存在も、すべて平等に救うべき対象なのです。それを家族と表現したのですね。

また話が変わります。文殊菩薩は維摩居士の病について質問し始めます。
「維摩居士よ、あなたの病はどんな種類のものか」
「形もなく色もなし」
「それは肉体的なものか、心の病か」
「この身体はそこらに転がっている木端のようなものなり。而して病にはならず。心は幻にして実体なきものなり。而して病にはならず」
「ならば、あなたはどこを患っているのか」
「衆生が病んでいる場所を病んでいるのです」
さて、文殊菩薩が維摩居士の病気についてどんな病気なのか尋ねます。まあ、お見舞いに行ったら普通は尋ねますよね「あなたの病気ってどういう病気なの」と。
ところがひねくれものの維摩居士は変な答えをします。「私の病気には色も形もないのだ」と。
これでは話になりませんから、「身体が悪いのかそれとも心の病なのか」と文殊菩薩は聞きます。当然ですよね。先の答えからすると、ちょっと精神的に病んでいるのかな、と思うことでしょう。一般的にはね。
が、維摩居士は身体でも心でもない、と言います。身体は本来空なるものだから病にはならないし、心も幻のようなものだから病にはならないのだ、と。じゃあ、どこが病気なのか、と聞きます。ムカつきますよね、普通は。
すると、維摩居士の答えは「衆生が病む場所を病んでいるのだ」というものだったのです。
これは、先ほどから維摩居士が言っている「衆生が病むから菩薩も病む」という教えによるものなのです。維摩居士にしてみれば、「さっきから言ってるでしょ。衆生が病むから自分も病むのだって。なんで気がつかないの?」となりますよね。
ですから、維摩居士の答えは、その通りなのですよ。衆生が病む場所を病むのです。それは身体でも心でもないし、また、身体であり心でもあるのです。

空の思想は、本当に難しいものです。簡単には語れません。語れば自己矛盾に陥る可能性があるからです。維摩経もしばしばその傾向が見られます。まあ、仕方がないですけどね。
さて、ここまでは前哨戦。お互いにお互いの力量を測っている状態ですね。まあ、維摩居士が優勢ですけど。押されぎみの文殊菩薩、ちょっとどうしていいかわからなくなります。文殊菩薩の文殊菩薩たるゆえんは、ここなのですが、文殊菩薩は素直に質問します。
「どうやってお見舞いをすればいいのですか」
と。率直ですよね。菩薩が、「もうわからない、いったいあなたのような菩薩をお見舞いするときはどうすればいいの」と尋ねるなんて普通は考えられません。それは恥でもあるでしょうから。
しかし、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」というように、わからないことは聞くべきなのです。それが菩薩という立場であろうとも。わからないことを素直に聞けるからこそ、文殊菩薩は「智慧の菩薩」なのでしょう。智慧あるものは、わからないことは恥も外聞も捨てて、見栄も誇りも捨てて、素直に質問するものなのです。聞くのが恥ずかしい、みっともない、恥だ、と見栄や体裁にこだわるものは、智慧を得られないのですよ。

文殊菩薩は、維摩居士に尋ねました。
「菩薩が菩薩を見舞ったとき、どうやってお見舞いをすればいいのですか」
維摩居士は答えます。
「菩薩とはまだ人を救わねばならぬ身です。なので、身体は無常であると説くのはよいが、だからといって身体を厭い離れろと説くべきではありません。身体は苦しみを伴うと説くのはよいが、苦を離れ一人寂滅を楽しめと説いてはいけません。身体は本来空なると説いてもよいが、世の中すべてが空であり、接するべき世間はないと説いてはいけません。過ちを指摘することはよいが、過去にさかのぼって批判したり責めたりはしていけません。自分が病むことによって人々の病苦を理解し、多くの苦しみを背負っている人々のことを思い、その人々のために尽くすことを説くべきです。そして、さらに善を行い、人間の本性は本来清浄である思い精進し、あらゆる人々の病をいやすことのできる名医になるように勧めるべきです。このような言葉をもって菩薩は菩薩を見舞うのがよいでしょう」
「なるほど・・・では、維摩居士よ、病気になった菩薩は自分の心をどのように考察し、整えるべきであるのか」
「病気の菩薩はこのように考察するのです」
維摩居士の答えは続いた。
「この病はみな前世の業によって引き起こされているのであり、したがって実際には病気などという存在はないのである、と考察するのです。この身体は多くの元素の集まりです。これら元素には我というものはありません。固定された自我などなく、仮の存在があるだけなのです。しかし、それを理解せず、わたしがという我に執着するために、病気という幻が生まれるのです。すなわち、病気になった菩薩は自我という妄想を断ち切り、無我という真理を見なければいけません。そうすれば、病自体が空であることがわかるでしょう。しかし、病は空であるからと言って、病に苦しむ人々を放っておいていいというものではありません。衆生に対しては、病を取り除くことを教えるべきでしょう。それには、病が生じる根源を説くべきです」
「病を取り除く根源とはどういうことですか」
「病とは自我が産む幻です。自我は対象を得たときに働きます。相手がいるからこそ自我は生まれるのです。対象がいなければ自我もありません。したがって、対象をとらえず、見ないことが自我を鎮め、病を取り除く根源になるのです。自分と他人との境をつけず、自己への執着を離れ、自分も他人も平等に考えることです」

維摩居士は一息入れると、続けて話だした。
「文殊菩薩よ、病にかかった菩薩は、その病の根源を断つためこのように考察するのです。病だけでなく、あらゆる苦を取り除くためにその根源を考察するべきなのです。人々と同じような苦を背負いながら、自在に苦を鎮めることのできるものを菩薩というのです。病にかかっている菩薩は自分の病が本来存在しないものであると同様に、人々の病も本来は存在しないものであると見抜かねばなりません。そのように考察すれば、人々のために慈悲心を起こしても、それによる功徳を求める心は起きません。功徳という見返りを求めて慈悲心を起こすのであれば、菩薩はこの苦の世界に生まれ変わる必要はないのです。功徳を求めないからこそ、菩薩は菩薩であり続けることができるです。だからこそ、人々を苦から解放できる教えを説けるのです。世尊もおっしゃってます。
『みずから自由でない者は他の人々を鎖から解放することはできない。自分がまず自由であることにより、他者を解放できるのだ』
と。菩薩は束縛を離れて解脱しなければいけないのです」
さらに文殊菩薩は尋ねた。
「菩薩にとっての束縛とはなんでしょうか。また、解脱とはなんでしょうか」
「菩薩にとっての束縛とは、自分のみの覚りや救済に満足して他の人々を救うための方便をわきまえないことです。菩薩の解脱とは、自分自身が真理を体得し、真の智慧を得ると同時に他の人々を救う方便を身に着けることです。すなわち、方便のない智慧は束縛であり、方便に支えられた智慧が解脱なのです。また、智慧のない方便は束縛であり、智慧に支えられた方便は解脱なのです」
「方便のない智慧が束縛であるとはいかなることか」
「一切は空であると見抜き、欲望から離れた自由な境地にいながら、それを人々に説くすべをしらないことです」
「方便に支えられた智慧が解脱とはいかなることか」
「人々を導く方法、人々を向上させる手段をよく心得ていて、なおかつ一切は空であるという本質を見抜き、現象や欲にとらわれない境地にいること、すなわち方便に支えられた智慧であるからこそ、解脱なのです」
「智慧のない方便は束縛であるとはいかなることか」
「せっかく様々なよいことをしていても、誤ったものの見かたを持ち、煩悩に振り回され、物事に執着し、腹を立てたり怨んだりするために、善行を覚りのために役立てないことです。つまり、智慧のない方便は役に立たぬため、束縛なのです」
「智慧に支えられた方便が解脱であるとはいかなることか」
「いかなる煩悩も滅し、誤った考えをせず、執着心もなく、腹も立てず怨むこともないという境地に至った者が善行をなし、人々を導くすべを行うならば、それは智慧に裏付けられた方便であるからこそ、解脱なのです」
そしてさらに維摩居士は説いた。
「方便のない智慧などは独りよがりの知恵であり大乗仏教の菩薩ではありません。また、智慧のない方便は人々を導くことなどできないでしょうから、これも大乗仏教の菩薩ではありません。大乗仏教の菩薩は、智慧に裏付けれた方便を行う者であり、智慧により人々を導く方便を身につけたものであるのです。病にかかった菩薩はこのように、自らの病を方便とし、人々を導くために考察するのです。しかし、考察したから覚った、自分はもうこれでいいと考えるのであったら、それは小乗仏教の修行者となってしまうでしょう。それは菩薩の境界ではないのです。菩薩は考察することにも、しないことにも安住してはなりません。それこそが菩薩の境界なのです」

文殊菩薩は、間を置いてから、維摩居士に頼んだ。
「菩薩の境界についてさらに説いてください」
「菩薩の境界とは、人々とともに生きながら、煩悩に惑わされることない境界です。常に悟りを得ることに向かって努力しながら決して悟ることのない境界です。人々と同じ生活を送りながら、生老病死などの苦にこだわらない境界です。喧噪の中にありながら静寂である境界です。静寂にありながら一人悟りの境地至らない境界です。空であると知りながら徳を求める境界です。悟りなどないと知りつつも人々を悟りに導く努力を惜しまない境界です。願いや目標がないにもかかわらず、人々と同様に願いや目標を持って生活をすることが菩薩の境界です。人々に慈悲の心を起こすけれども、見返りは求めないのが菩薩の境界です。常に善行に励みながらも悪を嫌い厭わないのが菩薩の境界です。神通力と心を最高位に高めながらも苦悩からは離れないのが菩薩の境界です。すべての人々の素質を見抜くことができることが菩薩の境界です。悟りに向かう方便を用いながらも悟りを完成させないで人々ともに修行をするのが菩薩の境界です。
文殊菩薩よ、菩薩はあるときは自分の悟りのことしか考えない修行者として存在を示すこともあり、人々を導くためには不浄を示すこともし、様々な姿を示して人々を導くのが菩薩の境界です。仏陀の真実の智慧を知っており、それを人々に説き明かしながらも菩薩でい続けることが菩薩の境界なのです」
ここまで維摩居士が説き終わると、その場に居合わせた天界の者たちは、みな菩薩の境界に至ることを誓ったのである。

と、以上が問疾品ですが、わかりにくいですかねぇ。同じような話が何度も出てきますから、ちょっとうんざりするかも知れません。ここで大事なことは、「菩薩とは」ということですね。菩薩の定義とでも言いましょうか。
維摩居士が言うところを簡単にまとめますと、菩薩とは
@衆生が病むから菩薩も病む。それは菩薩の慈悲心によるものである。
A智慧に裏付けられた方便を用いるのが菩薩である。
B一般の人々と共に生活をしていても、俗に染まらずに、俗にとらわれずに解放されているのが菩薩である。
C自らは悟りを得ずして、人々を導くのが菩薩である。
D一切は空という境地にいながらも、一般の人々ともに生活ができるのが菩薩である。
E善行をし、悪を嫌い遠ざけるが、悪人を差別することはないのが菩薩である。
とまあ、こんなところでしょうか。もっとまとめてしまえば、俗人であって俗人でなく、それとなく人々を導いているのが菩薩である、となるのでしょう。これはまさに維摩居士その人そのものなのですよ。

維摩経は、菩薩が本来どうあるべきかを説いたお経なのですね。ですから、この問疾品に説くところは重要なのです。
しかし、こうしてみると、意外に菩薩のまねごとはできそうな気がしてきますよね。要は「こだわらない、執着しない」ことが重要なのです。まあ、それが難しいといえば難しいのですが。
執着しない生き方・・・それは空的生き方なのですよ。これが身につけば、苦は苦でなくなくなるんですよね。維摩経は、そのことを説いているのです。


E不思議品(ふしぎぼん) その1
今回から新しい品(章)にはいります。
ところで、皆さんは維摩居士の部屋がどうなっていたか覚えているでしょうか。維摩居士は神通力によって、自分が寝ているベッドだけを残してすべて消してしまいました(ばっくなんばあ〜17参照)。したがって、文殊菩薩は立ったまま、維摩居士と問答をしていました。その問答を見つめていたギャラリーも同様です。立ったまま、二人の問答に聞き入っていたのです。
二人の問答も佳境に入ってきました。見聞きしている方は、本来なら手に汗を握り、
「なるほど、素晴らしい教えだ。さすが維摩居士。菩薩の教えとはこうしたものなのか。ますます修行に励まねば・・・」
と覚りを深めることを誓う、という状況のはずですね。
ところが、一人だけ、他事を考えているものがいたのです。それは、シャーリープトラ(舎利弗 しゃりほつ)でした。
不思議品は、そういった場面から始まります。

舎利弗は別のことを考えていました。
『この家には維摩居士のベッドがあるだけで椅子が無い。文殊菩薩もたちっぱなしだ。さぞや疲れているだろう。聞いている我々も疲れてきた。何か座るものはないのか・・・・』
維摩居士は、すぐに舎利弗の考えを見抜きます。
「舎利弗尊者、汝は何のためにここに来たのか?。真理を求めにきたのか、椅子を求めにきたのか」
維摩経は、舎利弗にはちょっとイジワルなんです。維摩居士は、舎利弗を責め始めるのです。
「私は、もちろん真理を求めに来たのです。椅子を求めに来たわけではないです」
これくらいは舎利弗も答えられます。
「尊者、真理を求めるものは自らの身体を投げ出すことくらい厭わない。にもかかわらず、汝は教えを聞くのに疲れるから椅子はないかと、椅子を求めている。それでよいのでしょうか?」
責めますな、意地悪く・・・。舎利弗は、答えに詰まり
「申し訳ないです。その通りです・・・」
と謝ってしまいます。舎利弗の負けですね。しかし、舎利弗もただ負けでは悔しいのか、維摩居士に問いを発します。
「では、真理を求める者はどのようにして求めるべきなのでしょうか。教えてください」
真理の求め方がなってない、と責められたので、じゃあどうやって求めればいいんですか?、とやや逆ギレ気味で尋ねたのですね(ちょっとイジワルな解釈の仕方ですが、そのほうが維摩経らしいので。舎利弗には悪者になってもらいます)

維摩居士は、じゃあ教えてやろう、という感じで答え始めます。
「真理を求める人は、なにものかに執着して求めてはいけません。世尊は、我々の体や心はいくつかの構成要素(五蘊)によって成り立つと教えられた。だからといって、この言葉に執着し、体や物質の構成要素の中に真理を求めてはいけません。それは真理を求めているのではなく、構成要素を求めていることになります。私たちは、世尊の言葉にすら執着してはならないのです」
「世尊の言葉にすら、ですかぁ?」
舎利弗は、そんなバカな、なにいってやんでぇ、という感情をこめて維摩居士を見返します。維摩居士はにやにやしながら答えます。
「そうですよ、真理を求める者は仏陀に執着して求めてもいけないし、法や僧に執着してもいけないのですよ」
そんなことは当然でしょ、という感じで維摩居士は答えます。さらに続けますな、意地悪く・・・。
「世尊は四諦の教えを説かれました。四諦とは『この世は苦であるという教え、苦には原因があるという教え、原因を滅すれば苦はなくなるという教え、苦の原因を滅するための道があるという教え』のことですね。しかし、真理を求める者は、この四諦の教えにすら執着してはいけないのです」
舎利弗は慌てます。自分が信じていた教え、己の精神的基盤を否定されたからです。
「そ、そんな・・・。四諦こそが真理でしょ。真理を求めるのに、その真理にも執着するな、そうおっしゃるのですか。それはどういうことなのですか」
ちょっと怒りモードですな。維摩居士は、そんな舎利弗の様子を見下すかのように冷静に話を進めます。
「世尊が説かれた教えは、本当の真理を求めるための手段・・・方便・・・の一つなのですよ。その方便に執着して本当の真理を見失ってどうするのですか。四諦という言葉に執着して本当の四諦を会得できないでは、意味がない。真理とは議論を超えたもの、文字や言葉では表現できないものです。四諦の教えを繰り返すことは、真理を求めているのではなく、無益な議論を求めていることになるのです」
この維摩居士の言葉は、本当によくわかります。たとえば、ネット上の掲示板などで、仏教について話し合っているスレッドがありますよね。私はそうしたものを見ませんが、これこそが維摩居士が「間違っているぞ」と説いていることなのです。
まあ、私自身も、このHPで仏教の解説をしますが、本来は仏教は解説されるものではないのです。実体験するものなのですね。
特にネット上で、さも仏教に詳しいぞ、と知識をひけらかしている者は、実は仏教から最も遠い所にいるのです。仏教は知識ではありません。言葉による解釈など、実はどうでもいいことなんですね。それは、真理に至るための方便なのですから。
たとえばそれは、山登りについて、実際に山に登るでもなく、道具ばかり集め、道具の知識ばかり議論してみたり、頂上へ向かうルートについてあそこがいい、ここがいいとばかり話していることと同じなんですね。そんな議論ばかりしていないで、ちゃっちゃと体を鍛えて山を登れ!ということなのですよ。
仏教は知識ではありません。仏教の言葉や教えに関して詳しくなくても構わないのです。議論ばかりしても仕方がないことなのです。いくら知識が豊富でも覚っていなければ何にもならないんですね。実践が大切なのですよ。維摩居士の言う通りなのです。

維摩居士はさらに続けます。
「尊者よ、真理とは静寂なものです。そこに生起や消滅を見ようとするならば、それは真理を求めているのではなく、生滅を求めているのです。真理に執着すれば、それは真理を求めているのではなく、執着を求めているのです。尊者よ、真理を求める人は、いかなる真理を求めてはならぬ。それが真理を求める人のあるべき姿です」
これは舎利弗には理解できなかったようですな。舎利弗、ポカンとしてしてしまいます。そりゃ、そうですね。真理を求める人は真理を求めてはならぬ、って、矛盾しているでしょ。しかし、矛盾していないんですね。真理を求めるなら、その真理に執着するな、ということですね。
「求めずして求める。求めながらも求めず」
ということなのです。真理を求めなくても、真理に至るときは至るものなのですよ。

舎利弗がポカンとしているので、維摩居士は文殊菩薩に向かって話します。
「文殊菩薩よ、あなたは十方の仏国土を訪ね、ご覧になったでしょう。その中で、何ものにも優れ、あらゆる徳を備えている獅子座という椅子をご覧になりましたか」
「ここより東に向かい、数えきれないくらいの仏の国を超えたところに、須弥相(しゅみそう)という世界があります。そこには須弥燈王という如来がおられます。その如来の身長は八万四千由旬(ゆじゅん、1由旬は約11キロメートル。諸説あり。なので、その如来の大きさは・・・・どうでもいいですね、とてつもなくでかいのです)あり、その如来の椅子が当然ながらとてつもなく大きく、それが獅子座と言われる椅子です」
ここから話がちょっとおかしくなるのですが、まあそれは目をつぶっていただきましょう。今まで維摩居士が説いてきたことと、少々矛盾するんですけどね。
本来ならば、「何ものにも優れ、あらゆる徳を備えた椅子」など、維摩居士自身が「そんなものはない。そんなものに執着するな、何ものにも優れ・・・なんて、とんでもないな」と答えるはずなんでしょうが、まあここは、話の展開上、仕方がないので、勘弁してもらいましょう。でないと、後へ続かないのです。突っ込みどころではあるのですがねぇ・・・・。

維摩居士、にやりとして、
「ではその椅子をここへ・・・・」
といって神通力で、とてつもなくでかい椅子を自分の部屋に入れてしまうんです。とんでもなく大きい椅子ですよ。84万q以上もある人が座る椅子ですからね。そんな椅子が部屋に入るわけがないでしょう。ところが、維摩居士の神通力によって、部屋の中にそのどでかい椅子が入ってしまうんですね。しかも・・・・
「一つだけでは皆が座れぬから・・・」
といって、いくつも部屋に入れてしまうんですね。維摩経では3万2千却、となっています。まあ、数字はどうでもいいんですけどね。その巨大な椅子が、なぜか維摩居士の部屋にたくさん入ってしまうんですよ。理解不能ですが、そんなものかな、ということで話を進めましょう。
で、その椅子は見上げるような椅子です。当然、座れません。登ることすら無理ですな。エベレストより高いんですから。家も潰れるっちゅーの、と思うのですが、こらえてください。
維摩居士、言います。
「文殊菩薩よ、どうぞお座りください」
文殊菩薩は
「では、遠慮なく・・・」
と言って、神通力で身体を大きくしてしまいます。で、しっかりと獅子座に座ります。
「他の菩薩の方々もどうぞ、お話を聞きに来られた出家僧の方々もどうぞお座りください」
菩薩のみなさん、神通力で身体を大きくし、座ります。維摩居士も座りますな。ところが、舎利弗などの修行僧はそこまでの神通力がないんですね。誰一人座れません。
「おやおや、舎利弗尊者、遠慮なく座ってください。そもそも椅子がないと心配ししていたのはあなたでしょう」
意地悪くいいますな、維摩居士。ところがいくら神通力を使っても、そこまでは身体が大きくなりません。
「わ、私には無理ですぅ」
などと泣きごといいます、舎利弗。仕方がないので、維摩居士、助け舟を出します。
「須弥燈王如来を礼拝しなさい」
すると、舎利弗などの修行僧も大きくなって座ることができるのです。舎利弗たちは、ちょっと興奮してしまいます。もう嬉しくて嬉しくて・・・。そんな舎利弗たちに維摩居士はいいます。
「如来や菩薩には、君たちの理解を超えた不思議な自在力というものがあるのだ。この不思議な力を持てば、たとえば神々の住まう須弥山をケシ粒の中に入れることもできるのだ」
舎利弗、その話を聞き、興奮が冷めてきて、混乱し始めます。須弥山がケシ粒の中に?え〜、ってなもんです。しかし、よく考えてみれば(考えなくても)、今の状態と同じなんですね。巨大な椅子が維摩居士の部屋に入っているのですから。混乱することはないのですな。さらに維摩居士は続けます。
「この不思議な自在力を使えば、世界中の海水を、海の中の生き物をそのままに、身体の毛穴の一つに入れることもできるのだよ」
これも同じですね。巨大なものを小さなところへ入れる、ということです。舎利弗たちは、混乱の極みですな。もう理解不能状態です。さらにさらに維摩居士は続けます。
「こうした力は、人々を覚りに向かわせるための方便です。この方便を使えば、7日間を何億年にもすることができるし、何億年という長さを7日間にすることも可能ですな。それだけではない。菩薩は、この力によってあらゆる姿かたちとなり、人々を救うのだよ。ある時は転輪聖王となり、ある時は神々の姿となり、ある時は君たちのような声聞となり、ある時は如来となり、ある時は菩薩となるのです。また、菩薩の声は、如来の声となり、法の声となり、僧の声となるのです。その声は、無常を説き、苦を説き、空を説き、無我を説くのです。すべての如来が解いた教えが、様々な姿や声となり、いつもこの世界で響き渡っているのです」
舎利弗たちは、何が何だかさっぱりわかりません。そのとき、ふと大迦葉(だいかしょう。マハーカーシャパ)が、立ち上がって
「舎利弗よ、これは我々の理解を超えた話だ。何と悲しいことだ」
と素直に自分自身の未熟さを嘆き悲しむのです。さらに
「このような不思議な自在力を信じる者には、どんな悪魔も付け入る隙がないでしょう」
と菩薩の自在力を褒めるんですね。ちょっと、媚びたわけです。ごますりですな。それを聞き逃す維摩居士ではありません。すかさず、
「大迦葉尊者、その悪魔は実は不思議な自在力を持つ菩薩なのですよ。菩薩は方便として悪魔の姿もとるのです」
これには驚きですね。大迦葉もびっくり。ごますりのつもりで言ったのに、「何言ってんだか」と返されてしまいました。あまりの驚きに大迦葉、
「え、悪魔が、ですか?」
と叫んでしまいます。維摩居士は答えます。
「菩薩を苦しめることができるのは菩薩しかいないでしょ。悪魔は、菩薩が菩薩を試しているときの姿なのですよ。菩薩以外の者が、菩薩を脅したり、殺したりなんてできないでしょう。菩薩だからこそ、菩薩を試すことができるのですよ。だから、苦しんでいる者が菩薩であるなら、彼はこう考えます。『自分を苦しめているのは菩薩であろう。だから苦しくとも耐え忍ぼう』と。これが、不思議な力を持つ、菩薩たちの方便なのですよ」
と。

そもそもこの章は、「こだわり、執着心を捨てよ」という内容です。椅子にこだわった舎利弗をいじめながら、話を進めています。こだわりがあるからこそ、巨大なものがケシ粒にはいることも理解できないのです。常識にとらわれているからこそ、豊かな発想ができないのと同じですね。
世の中に出回っているヒット商品というものは、意外と非常識から生まれています。普通はこんなこと考えないよ、という発想から生まれているんですね。常識にとらわれていたら、いいアイディアなんて生まれません。
それと同様に、こだわりを持っていては覚りは得られないのです。そのことを大袈裟に維摩居士は説いているのですよ。
で、菩薩はそうしたこだわりを捨てているからこそ、自由自在な考えを持つことができるのです。この自由自在な考えが、不思議な自在力、というものです。
ケシ粒の中に須弥山・・・・あぁ、そういうことも考えられるよね。ほらほら、ケシ粒を見てごらん、神々の住まう世界が見えてくるでしょ・・・・。
そんな柔軟な考え方ができるからこそ、菩薩なのですね。

こうした自由自在な考え方ができ、それを自分自身のものにしていれば、自分を苦しめることや事件、事象、人間も自分を試しているのだ、という発想が生まれてきます。まあ、これはよくある考え方ですけどね。ただし、この場合には、
「自分は菩薩だから」
という自覚がある、というだけです。自分は菩薩だから試されている。ということは、自分は大した人物なんだな、という一種のうぬぼれというか、自己確信があるわけですね。自分は菩薩である、という自信があるのです。ここが大事なポイントです。
よくキリスト教の方が、
「あなたが苦しんでいるのは、あなたならその苦しみに耐えられるから、神があなたを選んだのよ」
と説きます。聞いたことがある方もいらっしゃるでしょう。維摩居士が説くところは、これとよく似ています。しかし、ちょっと違います。いや、根本的に違います。維摩居士が説くのは、
「あなたは菩薩だから」
というところですね。キリスト教で言えば、
「あなたは神だから」
ということと同じでしょう。「あなたは神だから、この苦しみは耐えられるのよ」ということです。そう言ってもらえば、維摩居士の言うところと同じになってきますね。神が選んだのではなくて、あなた自身が神だ、ということです。これは、キリスト教では言えないことでしょうね。

菩薩を苦しめることができるのは菩薩しかいません。菩薩が菩薩を試そうとして、あるいは鍛えようとして悪の姿を取っているにすぎない、ということですね。菩薩ならば、その苦しみには当然耐えられるし、あらゆる方便を使って乗り越えることもできます。
もし、あなたが菩薩であるという自覚をもったならば、きっとあなたを苦しめている人物は菩薩に見えるでしょう。あなたを苦しめている事柄は、菩薩がやらせているのだ、とわかってくるでしょう。そう理解できないあなたは、菩薩ではないのですね。
ということは、私もまだまだ菩薩じゃないですな。修行が足りません。こだわりや執着を捨て去らねばいけませんねぇ・・・・。


F観衆生品(かんしゅじょうぼん) その1
今回も新しい品(章)です。この章では、文殊菩薩と維摩の矢継ぎ早の問答、そして天女のシャーリープトラいびりが展開されます。

大迦葉に対する説法が終わると、文殊菩薩は維摩居士に問いかけます。
「維摩居士よ、この世に生きとし生けるもの(衆生)を、菩薩はどのように見るべきか?」
「文殊菩薩よ、たとえば賢い人が水に映った月を見てそれは実在するものではないと知るように、衆生を見るべきです。あるいは手品師が造り出した人間を幻想と見るように、そのように衆生を見るべきです。あるいは鏡に映った己の顔を、それは実物ではなく、実体のない影であると見るように衆生を見るべきです。または蜃気楼のように、こだまの響きのように見るべきです。たとえば空に浮かぶ雲のように、あるいは水に浮かぶ泡のように衆生を見るべきです。それらはひと時の仮の幻影であり、永遠不変実体などはないものだと見るべきです」
「菩薩がそのように、衆生を幻であり、実際には存在しないものだと見るならば、どうして菩薩はそのような衆生に対し、大いなる慈悲心を起こすのか?」
「菩薩が衆生をそのように見たとき、菩薩は衆生に対する本当の慈悲心を起こします。そして、衆生に真理を知らせようと思うのです。なぜなら、すべての衆生に自分たちの存在の真実を知らせることにより、彼らに救いをもたらすことができるからです。それが菩薩の四無量心(しむりょうしん)なのです」
「四無量心とは如何に?」
「それは慈・悲・喜・捨という四つの心です。慈とは慈しみの心です。菩薩の慈しみの心には執着や煩悩はありません。菩薩の慈しみは静かでさわやかです。しかも金剛石のように堅固で、自他や内外の区別がありません。すなわち、清浄で平等、愚かななる眠りにつく衆生を目覚めさせましょう。そして、真理を施し、戒めを守らせ、忍耐と精進の力を与え、深い瞑想をもたらし、真理を知る智慧を授けるのです」
「では悲とは?」
「自分が積んできた善行の功徳を、衆生のために分け与えることです」
「では喜とは?」
「すべてを与えて悔いることがない、ことです」
「では捨とは?」
「善行に対する報いを期待しないことです。これが慈・悲・喜・捨の四無量心です」
「なるほど、では菩薩が輪廻の苦しみに恐れを抱いたときは如何とするのか?」
「そのときは、仏陀の偉大さを瞑想するがよいでしょう」
「仏陀の偉大さに包まれたいと望む者は如何とする?」
「衆生に対し平等に接すればよいでしょう」
「衆生に平等に接するには、何を心掛けるべきか?」
「すべての衆生を解脱させることを心掛けます」
「すべての衆生を解脱させるには如何とするか?」
「煩悩を断たせるようにすべきです」
「煩悩を断たせるには如何とするか?」
「正しい修行をさせるべきです」
「正しい修行とは?」
「生じるものもなく、滅するものもないと思念して修行することです」
「何が生じず、何が滅しないのか?」
「すべての悪が生じず、すべての善が滅しません」
「善と悪の根本とは?」
「体が根本です」
「体の根本とは?」
「欲望と執着です」
「その根本は?」
「妄想、虚妄な分別です」
「その根本は?」
「ないものをあるとする誤った考えです」
「その根本は?」
「どこにもよりどころがないことです」
「その根本は?」
「それはありません。あらゆる存在は、よりどころがないという性質のもとにあるのです。ですから、よりどころがないことの根本はありません」
文殊菩薩は、うなずくと沈黙した。

さて、以上がこの章の前半、維摩居士と文殊菩薩の問答です。ここでは何を説いているのかと言いますと、一切の衆生は
「実体がないものである」
ということを説いているのです。
なんだかんだと問答をしていますが、最終的には「衆生の根本はよりどころがない」ことに落ち着きます。それ以上は、分析できないわけですね。それはつまり、「衆生は実体がない」ということと同じことを意味しています。
初めに維摩居士は、衆生には実体がないと説きます。文殊菩薩はその実体のないものになぜ慈悲心を起こすのか、と問いかけます。これは当然の質問です。実体のないものに対し、世話を焼くことはありません。それは、たとえば蜃気楼に
「なんとか助けてあげなければ」
と思うのと同じことですから。これは、おかしいことですよね。実体のないものならば、苦しかろうが何だろうが、放っておけばいいのですよ。

しかし、菩薩は慈悲心を起こして実体のない衆生を救おうとします。それはなぜか?。それは菩薩だからです。
衆生は、愚かであるが故に、自分たちが実体がない存在でると知りません。自分たちが実体がない存在であると知れば、苦しみを解脱する事ができるのですが、それを知らないために苦しみます。だからこそ、菩薩は、衆生に「君たちは実体がない存在なのだ。それを知れば苦しみから救われる」と説かねばなりません。それが菩薩が行う救済なのです。そのために、いろいろな方便を菩薩は使うのですね。究極的には、菩薩の仕事とは、衆生に対し
「君たちは実体のない存在なのだから、苦しみなど存在しえないのですよ」
と教えることなのです。それが菩薩のなすべきことなのですね。
そのためには慈悲喜捨の四つの心が必要なのです。衆生を慈しむ心(慈)、衆生に功徳を分け与えること(悲)、分け与えたことを何があっても後悔しないこと(喜)、衆生を救った利益を期待しないこと(捨)、これが四無量心です。
慈しむことはできますよね。多くの方ができることだと思います。また、分け与えることもできましょう。しかし、つぎの「後悔しない」と「利益を求めない」、これが難しいですね。
「せっかく助けてやったのに」
という言葉を口にしたことはないでしょうか?。一度はあるんじゃないですか?。
「せっかく助けてやったのに無駄にした」
「恩を仇で返しやがって」
「助けてやったのに、その恩を忘れて一人で成功したような顔をしてる」
案外、こういう思いって持ってますよねぇ。さらには、
「いいことしたのだから、きっと返ってくるよね」
「善行をしたから、徳が積めた。これで運がよくなる」
これもよく思うことです。まあ、悪いことじゃあないんですが、あまり期待し過ぎると、がっかりすることも多いですからね。
まあ、そもそも御利益を期待して善行をしても「無功徳」と言われますから、御利益を期待することは間違っているんですけどね。期待しなくても、徳は自然に増えていくものですからね。

そう、ここなんですよ。後悔しない、期待しない、これが大事なんです。行為そのものの見返りを期待しているから、
「恩をあだで返しやがって」
「御利益が、徳が、幸運が・・・」
という言葉が出てくるのです。これが間違っているんですよ、と維摩居士は説いているのです。後悔したり、御利益や功徳を期待したりすることが、執着心なのです、この執着心を無くすことが大事なのです、と説いているのです。
ですが、人はこの執着心を捨てられないんですよねぇ。

執着心を捨てるにはどうすればよいのか。
それは、人間の根本を知ることです。人間は愚かな生き物です。真理を知らない愚かものです。まずは、それを自覚することです。ないものをあると思ったり、あるものをないと思ったりして、不安がったり怒ったり、恐れたりします。経験ありますよね、誰しも。先のことなんて「ない」ことなのに、先を心配して不安に思う。そんなに不安なら、今を精一杯生きればいいのにそれはしないんですね。未来は「ある」のに「なにもない」と絶望している。絶望するひまがあれば、今を精一杯努力すればいいのにね。まだ起きてもいないことを恐れ、実体のない事柄に対し怒っている。これは愚かなことですよね。
あるものをないと思い、ないものをあると思う、その勘違いをまずは直すことです。

そして、衆生とは実体のないものだと認識することです。
あなたも私も彼も彼女も、み〜んな実体がないのです。ですから、誰に何か悪口を言われてもそれは「屁」のようなもので、ちょっと臭いかも知れませんが、放っておけばいいことなのですよ。わざわざ騒ぎたてることではないのです。
み〜んな実体がないのですから、彼や彼女にこだわることもないのです。人間関係など、初めから存在していないのですよ。だから、人間関係で苦しむこともなく喜ぶこともないのです。
初めから実体がない生き物なのですから、死も初めからありません。はなから生も死もないのです。実体がないからです。そう思えば、死なんて怖くありません。初めから生きてないのですから、死もないのです。ないものを恐れることは愚かですからね。
このように認識すれば、何も怖いものはありません、一切の執着を断つことができます。一切の執着を断つことができれば、安楽です。快適です。悟りの境地です。
そこまで行きなさい、菩薩はそこまで導きなさい、導くべきでしょ、と維摩居士は説いているのです。
が、言うは易し行うは難し・・・・でして。わかっちゃいるけどやめられない、のが本音ですよねぇ。

お釈迦様の弟子もそうだったのです。執着心が残っているんですねぇ。それを天女に見破られ、いびられてしまいます。そのことは、この章の後半に書かれています。


F観衆生品(かんしゅじょうぼん) その2
維摩居士の家には、以前から天女が住み着いていました。維摩居士の教えが聞けるので、住み着いてしまったんです。その天女、文殊菩薩と維摩居士との激しい問答にいたく感動します。感動し過ぎて、ついつい姿を現し、花びらを降らします。
これは、もともと天女の習性といいましょうか、天女の仕事といいましょうか、天女とは、素晴らしい教えが説かれたとき、天から蓮の花びらを降らすことが役目なのです。ですから、この時も、文殊菩薩と維摩居士との問答に対し、天から蓮の花びらを降らしたのです。

天女は大量に花びらを撒きました。美しい花びらが、文殊菩薩や維摩居士をはじめ、そこにいた菩薩やお釈迦様の弟子たちの上にたくさん落ちてきます。
ところが、このとき不思議なことが起きます。文殊菩薩や維摩居士、またはそこにいた菩薩たちの体に乗った花びらは、そのままハラハラと地面に落ちていきました。彼らの体には花びらは一枚も付着しなかったのです。しかし、お釈迦様の弟子たちには、天女の撒いた花びらがくっついてしまったのです。花びらはたくさん落ちてきます。お釈迦様の弟子たちの体には、次第に花びらがたくさん付着します。
「お、なんだこの花びらは、払っても払っても落ちていかない・・・・」
舎利弗たちは焦り始めました。そりゃそうです。菩薩や維摩居士には付着しない花びらが自分たちはくっついてしまってます。しかも、どんどん増えていきます。そのままだと、花びら人間になってしまいますから、慌てて振り払おうとするのですね。しかし、どうやってもとれません。その光景を見て天女が笑いながら尋ねます。
「舎利弗尊者、いかがいたしましたか?」
「いや、この花びらがくっついて離れないので・・・・」
「なぜ、この花びらを振り落とそうとなさるのでしょう?」
「天女よ、出家の者には花びらは相応しくないであろう。出家者は身を飾ってはいけないのだ」
「あらら、舎利弗尊者、それはおかしいですわよ」
「な、なぜだ。出家者は身を飾らぬのが戒律だ。それのどこがおかしいのだ」
「まぁ、わかってらっしゃらないわねぇ。舎利弗尊者、この花びらは花びらに見えますが、真理そのものなのですよ。飾りではありませんわ」
「な、何をいうか・・・。この花びらが真理そのものだと?」
仏教では、悟りを得た者は、六道輪廻を解脱しておりますので、天界は自分のレベルよりも下になります。したがって、一応悟りを得た舎利弗たちにとっては、天女は悟りの上では下のレベルになります。なので、舎利弗たちは、天女に対して横柄な態度なんですね。彼らに言わせれば、悟りを得ていない天界の住人、六道輪廻に迷う者、というわけです。
舎利弗は、その天女に小バカにされたようで、ムッとしたんですねぇ。
「そうですよ、この花びらは真理そのもの。そんなこともお分かりにならないの?」
「む、むむむむ・・・・・」
「いいですか舎利弗尊者。この花びらは、あなたにくっつこうなどとは考えていません。ただあるようにあるだけなのです。舎利弗尊者、あなたの方が『この花びらは出家者に相応しいか相応しくないか』などと区別をしているのですよ。あなたたちが、勝手に良し悪しを判断しているから、花びらがくっつくのです」
「そ、それは・・・・・」
舎利弗が言い返せないでいるのを見て天女はさらに続けます。
「舎利弗尊者、ただあるがままにあるだけの世界を勝手に判断し、勝手に分類し区別することを分別といいます。分別は妄想です。したがって、分別は真理から外れた行為です。そんな分別は捨てるべきです。見てごらんなさい。分別を捨て去った菩薩様には花びらはつきませんよ」
「た、確かに・・・・」
「花びらだけじゃありません。恐怖はあり得もしない不安を抱えている人につくものであり、苦しみを恐れる人ほど快楽におぼれます。分別から離れれば、美しいも醜いもなく、恐怖も安心もなく、苦も快楽もなく、おいしいもまずいもありません。すべては平等です。すべてを受け入れられれば、何の禍も恐怖もありません。この花びらは、物事をあるがままに見られず、分別し、執着する人にくっつき離れないのですよ。分別を去り、あるがままに物事を見ることができる人にはくっつかないんですよ」
仏教では、分別することは悟りと遠いところにある、と説きます。分別はすなわち区別であり、差別であり、分け隔てなのです。悟りとは、一切平等の世界です。そこには区別だの差別だのはありません。苦もなく楽もなく、生もなく死もない世界です。世界という括りすらありません。そうした区別=分別から離れた状態が悟りなのです。ですから、仏教では分別のある人は悟りを得ていない人なのです。ま、現代使われている分別の意味とは異なるのですが・・・・。


「て、天女よ・・・あなたはいったい・・・。この維摩居士の家に住み着いて長いのですか?」
「あなたが悟りの世界に住み着かれた長さと同じです」
「いや、そういうことではなくって・・・・物事には始まりがあります。あなたがここに住んでいることにも始まりがありましょう。ですから、いつからここに住んでいるのですか?」
「舎利弗尊者、あなたって・・・・。はぁ〜、あなたが悟りに入られてからどのくらいたったのですか?」
「そ、それは・・・・・」
「舎利弗尊者、あなたはお釈迦様の弟子の中でも智慧第一と賞賛された方。私の質問になぜ答えらえないのですか?」
「そ、それは・・・、悟りとは言葉で説明できるものではありませんから・・・・。それに悟りは永遠の真理ですから
、いつ始まったとか、どのくらいの時間がったとか、計ることのできるものではありません。ですから、答えようがないのです」
「全く、今まで何を聞いてきたのか・・・・。確かに悟りとは言葉では説明できないでしょう。しかし、悟りは言葉を離れたところにあるのでしょうか。違いますよね?。舎利弗尊者、悟りとはこの世にあるものすべてが悟りの姿です。ですから、どのような言葉を用いて悟りを説こうとも、それはすべて真理なのです。言葉で説明された悟りは真理ではない、と判断することが分別です。そうした分別がないことが悟りというものです」
天女ごときにここまで言われた舎利弗尊者、頭に来ます。ムキになってしまうんですね。
「いやいや天女よ、世尊は、貪りと怒りと愚かさを断ちきったところに悟りがある、と説いておられるぞ」
「それはね、自我の思いが強く、常に自分の判断が正しいと思いこんでいるものを導くための方便でしょ。自我を滅した者にとっては、貪りも怒りも愚かさも皆人間の真実の姿であり、真理の世界の一こまなのです。それらは悟りと異なるものではありません」
「おぉ、確かにその通りだ・・・・。天女よ、あなたはいったい何を知り、、何を悟ってそのような素晴らしい智慧と弁舌を手に入れたのですか?」
間抜けな質問ですな。天女は呆れかえります。
「はぁ?、あなたは、まだそのようなことを・・・。私は何も知りませんし、なにも悟ってはいません。ですから、真理を説けるのです。もしも、私が何かを知り、悟りを得たと思ったのなら、それは単なる慢心です。なれば、何も説くことはできませんでしょう」
こう答えられても舎利弗は全くわかっていませんな。彼の頭の中は、分別することでいっぱいなのです。だから、トンチンカンな質問ばかりします。
「う〜ん、よくわからんな・・・。天女よ、あなたは世尊の教えに従う声聞(しょうもん)なのですか、それとも自分で修業し真理に至った縁覚(えんがく)なのですか、それともすべての人々とともに悟りの世界を実現しようとする菩薩なのですか?」
天女は、じろりと舎利弗をにらんで言いますな。内心では、「全くこいつは・・・・」と思っているのかどうか・・・・。
「私は、世尊の教えを信じ、従い、それを説きますから声聞の道を行くものです。また、自ら真理に至ろうとしてますから縁覚の道を行きます。さらに、常にあらゆる人々の苦しみを自分のものと感じ、人々と共にあろうとしますから菩薩の道も行きます」
「ふ〜ん、この家に住んでいるのには何か理由があるんですか?」
どうでもいいことばかり質問するのが舎利弗なんですねぇ。天女もちょっとムキになってきます。まだまだなんですな、天女も。「あんたって、バカねぇ」で終わればいいのですが、それでは物語も成立しませんからね。

「理由はありますよ。この家に入ると、悪臭が芳香を放つ木の中で清められるように、声聞の香も縁覚の香も消えて大乗の香りに包まれるからです。それに、この家には他の家にはない8つの不思議があるんです」
そう言われると舎利弗、すごく興味が湧きますな。身を乗り出して
「なになに、それは。それはなんですか」
と聞きます。天女も気分いいんですな、これが。やはり天女もまだまだです。
「第一に、この家はいつも黄金に輝き、昼夜の区別がありません。太陽に光も月の光もこの家には不必要です。
第二に、この家に入った人はたちまち悩みごとが消え、安らぎに満たされます。
第三に、この家にはいつも菩薩や神々が訪れます。
第四に、この家ではいつも六波羅蜜の教え・・・・布施・戒律・忍耐・努力・禅定・智慧・・・について聞くことができます。
第五に、この家にはいつも神々の奏でるたえなる音楽や歌が聞こえ、世尊の教えを実現できるよう勇気を与えてくれます。
第六に、この家にはいつも宝の詰まった蔵が四つあり、貧しい人々に施しを与えることができます。
第七に、この家では主人である維摩居士が願えば、すぐに世尊や阿弥陀如来などのあらゆる如来が教えを説いてくださいます。
第八に、この家にはあらゆる神々の宮殿の輝きやあらゆる仏国土の功徳が満ち溢れています。
このような不思議がこの家にはあるのです。だから、私はここに住んでいるのですよ」
天女の弁舌にすっかり魅入られてしまった舎利弗。よくよく天女を見れば美しい。
「おぉ、いかんいかん」
と頭を振りながら考えます。で、その考えをそのままストレートに天女に言ってしまうんですな。
「天女よ、こんなに素晴らしい智慧と弁舌があるのなら・・・あぁ、あなたは男に生まれるべきでしたね。女の身では悟りは得にくいでしょう。あなたが男であれば、まさしくすばらしい菩薩になれたのに」
この言葉に天女はカチンときますな。当然です。未だ、分別から離れられない舎利弗。しかも、女性を見下すような言葉。天女でなくても呆れかえりますな。


これにはわけがあります。小乗仏教では、女性は悟れない、と説いていたのです。女性は男性に生まれ変わってからでないと悟りを得ることはできない、と説いていたのですね。これは、お釈迦様が尼僧を許さなかった故事に由来します。結局は、尼僧を許すのですが、そのときに尼僧はなにかと不自由があるからということで、男の出家者よりも戒律が多くなりました。特に、どんな場合でも男性の僧よりも末席に座ること、としたため、女性は男性よりも劣る、という思想が生まれます。それはやがて、女性は男性に生まれ変わってからでないと悟れない、という思想へと発展します。
しかし、そんなことはありません。尼僧の中にも悟りを得た方はいますし、お釈迦様もそれは認めています。ただ、お釈迦様が憂いたのは、女性の性格に高慢なになりやすい、嫉妬心が強い、というところがあることだったのです。特に、当時のインドの女性はそうだったのでしょうね。そこで、そうした高慢さや嫉妬心を抑えるため、男の出家者よりも下位においたのでしょう。お釈迦様の配慮が、後々女性差別を生むことになってしまったのです。これは、お釈迦様の教えを正確に理解できなかった弟子たちの責任です。

「舎利弗尊者、なぜ女は男に比べて劣るのですか?。どこが劣っているのでしょうか?。それに、男とか女とか、どうして区別するのですか?。女の本質とはなんですか?。私のどこに女の本質がるのですか?。私は私の中に女の本質が見つけられませんが・・・・。あなたは、女の人形は不完全だから、男の人形に変えればいい、というのですか」
「へ?、造りものである人形に男も女もないでしょ」
全くバカです。天女の言葉の意味がわかっていません。ここまで来ると、舎利弗って、どう?、なに?、となりますな。ちょっとやり過ぎのような感もありますが・・・・。
「あなたって・・・・。当たり前でしょ。人形には男女の性の別はありません。でもね、それと同じように、人間も本質的には男女の性の別などないのですよ。表面上、肉体上の作りの違いがあるだけで、本質は同じです。それなのに、なぜ女が男にならなきゃいけないのですか」
ここで、天女は舎利弗をからかいます。神通力で舎利弗を天女に、自分を舎利弗に入れ替えてしまうのです。
「おやおや舎利弗尊者、天女になってしまったようですが、男にならなくていいのですか?」
「うわっ、いったいなんで?・・・どうなってるんだ。どうやって戻ればいいんだ」
舎利弗、慌てます。
「舎利弗尊者、今のあなたが女性の姿をしているように、すべての女性もたまたま今女性であるにすぎません。男性も同じです。ただ、その姿をしているだけなのですよ。ですから、世尊は、あらゆる存在はもともと男性でも女性でもない、とおっしゃっているではありませんか」
天女は、呆れかえりながら神通力で舎利弗を元の姿に戻します。元に戻った自分を見て、舎利弗はホッとしますな。
「あれ?、舎利弗尊者、女性の姿はどこへ行ったのですか?」
天女は意地悪く質問をしますな。
「ど、どこにも行きませんよ。あれは幻です。私は女になったわけでもければ、変ったわけでもありませんからね」
さすがに舎利弗も少しはわかってきたようです。
「そうです。すべては幻のごとし、です。ただあるようにあるだけなのですからね」
ちょっと褒められた舎利弗、お調子に乗りますな。つまらない質問をしてしまいます。
「天女よ、あなたは死んだらどこに生まれ変わるのですか?」
天女、再び意地悪く答えます。
「仏の化身が生まれ変わるところに生まれ変わります」
「仏の化身は生まれたり死んだりはしませんよ」
舎利弗、天女をバカにしたように言いますな。「ははは、こいつ、ついにボロが出た」ってところでしょうか。
「そう、その通り、やっとわかりましたね。あらゆる存在には生も死もありません。だから、私が生まれ変わることもありません」
天女の方が一枚も二枚も上でした。悔しい舎利弗、話題を変えます。
「天女よ、あとどのくらいで最高の悟りを完成するのですか」
話題を変えても、質問は愚かですな。
「舎利弗尊者、修行をなし終えているあなたが、再び凡夫の身となる時、その時こそ私は悟りを完成させるでしょう」
嫌味ですな。すっごい嫌味です。舎利弗、またまたムキになります。
「私が凡夫に身を落とすはずがないじゃないですか、失礼な」
子どもですな、舎利弗。天女の相手にはなりません。そんな舎利弗をかわいそうに思ったのか、天女は打って変わってやさしく言います。
「その通りですよ、舎利弗尊者。それがあり得ないように、私が悟りを完成することもあり得ないのです。なぜなら、悟りにはこれが完成だという状態がないからです。また、不完全な悟りもありません。悟りの基準もありません。ですから、悟りの完成などということは誰の上にもないことなのです」
しかし、この意味が舎利弗にはわからないんですね。どこまで言っても舎利弗は分別の人なのです。悟りには分別はない、としつこく言っているのですが、彼には理解できないんですな。そこで、
「しかし、世尊は数えきれないくらいのものが過去にも未来にも現在にも悟りを完成する、と説いているではないですか」
と突っ込むんですな。虚しくも・・・・。
「舎利弗尊者、それは世尊が時間という観念に縛られている人のために説いた方便ですよ。仏には過去も未来も現在もありません。また、悟りにも現在過去未来の区別はないのです。時間から解放さているのですよ。ですから、時間の経過によって悟りが完成されることはないのです。悟りとは時間を超越したものですからね」
優しくそういうと、天女はキツイ質問をします。
「舎利弗尊者、あなたは世尊に従う弟子として、最高の阿羅漢(あらかん)という位を得ているそうですが、それは本当ですか?」
舎利弗、胸を張って偉そうに答えますな。
「その通りですよ。私は、何も得ることはないという境界を知ることにより阿羅漢の境地を得ています」
「わかっているじゃないですか。悟りの完成も同じです。完成を得ることはないと知って、完成を得るのですよ」
舎利弗、完全にノックアウトですな。それを見てとった維摩居士が割って入ります。ドクターストップですな。
「舎利弗尊者、そろそろ気づかれてもいいのではないですかな。この天女はただの天女ではないのですよ。この方は、過去世において。数多くの如来に仕え、修行を重ねた菩薩なのです。人々を救いたいという思いで、天女の姿をしているだけなのですよ」
その言葉に舎利弗は天女をまじまじと見てしまったのです。つまり、天女の鋭さに全く気が付いていなかった・・・・んですねぇ・・・・。
しかし、この維摩居士の言葉、本来は不要でしょう。天女が折角、「本質的には、過去も未来も現在もない」と説いているのですからね。天女であろうと、菩薩であろうと、身分の低いものであろうと、説くところが真実ならばそれでいいのです。何も、舎利弗をかばうことはなかったのですよ。ま、ここが維摩居士の優しさでもあるのでしょうが・・・・。
天女に解脱者が負けたとあっては、恥ですからね。とりあえず、菩薩ということで、あなたよりは上なんですから仕方がないよね、とフォローしたわけです。ま、顔立て・・・ですな。


内容は、わかりやすいと思います。なんだかんだと言っても、理屈じゃない、分別していてはわからない、あるがままを見よ、あるがままを受け入れよ、ということです。男だの女だのと言っているようでは、全然ダメということですね。
しかし、これは現代の社会にも通用することです。女だから出世できない会社も多々あります。未だに女性蔑視の男性たちが多い世の中ですよね。
「女は家の中にいて、三つ指ついていればいい」
などと男尊女卑的な考えに固執している男性諸氏がいかに多いことか。女性であっても能力のある人はいますし、男性であってもボンクラはいます。そうしたことは、男女の性には関係のないことですね。
男女は平等です。どちらが劣ってどちらが優れているか、などということはありません。仏教は、本来、男女平等を説いています。間違った解釈をしたのは、男どもなんですよねぇ・・・・。
反省しなさい、愚かな男どもよ!、という天女の声が聞こえてきそうですな・・・・。
以上で観衆生品は終わりです。


G仏道品(ぶつどうぼん) その1
舎利弗が天女にノックアウトされ、ひと段落ついたところで、文殊菩薩が維摩居士に問いかけます。話題を変えたわけですね。
「ところで維摩居士よ、菩薩はどのようにして仏の道を実践すべきか」
もちろん、文殊菩薩はわかって聞いているのですよ。わかっていない舎利弗など声聞や未熟な菩薩のために話をリードしているのです。で、維摩居士が答えます。
「文殊菩薩よ、菩薩は道ならぬ道を行くことによって仏の道を実践します」
「道ならぬ道とはいかなる道か」
すぐに問いますな。維摩も即答します。
「たとえば、父母や聖者を殺生したり、如来の身体を傷つけたりしてしまうような悪の極みにいながら、それでも人を怨んだり、憎んだりせず、人を害したりする気持ちを全く起こさないということである」
なんと不穏な回答でしょうか。それに矛盾してますよね。父母や聖者を殺生して・・・と言いながら人を害しない・・・とはどういうことでしょうか?。維摩はさらに譬え話を続けますから、それを見てみましょう。
「たとえば、地獄にありながら心に少しの汚れも残さないことである。たとえば、畜生に生まれながらその愚かさの闇を打ち破り、真理を見抜く知恵を保つことである。たとえば、阿修羅の世界にありながら傲慢な心を持たないことである。たとえば、貪りや欲望の世界にいながら快楽から離れているということである。これが道ならぬ道を行くことなのだ」

つまり、今いる世界に生きながら、その世界に馴染んでしまわない、ということですね。
父母や聖者を殺すような・・・の場合だと、悪人の中にいながらにして、その悪に染まることがないのが菩薩の道である、ということです。同じように、
地獄にいても、その地獄の苦しさゆえに地獄の汚れに染まらないという道、
畜生のような怠惰な生活をしていても、真理を見抜く智慧を保ち続けるという道、
阿修羅の世界のように怒りや戦い・争いの中に身を置いても、その怒りや戦い・争いにどっぷりつからないという道、
欲望の世界である人間界の中において、その欲望に染まらず、心穏やかでいられるという道、
となるのです。菩薩は、どんな世界にいても、その世界に染まることなく、ただ淡々と心静かに、穏やかにいられるようにすることが菩薩の実践行なのです。
これは、大変難しいことですね。悪い仲間の中にいて悪事を行わない・・・なんてことはちょっと無理でしょう。まあ、「友達は悪いヤツが多いけど、自分は悪事に加担したことはないです。むしろ、注意していました」という人がいれば、その人は菩薩行を実践していることになります。これは、なかなかできないことですよね。厳しい道です。

維摩が譬え話をすると、その場に居合わせた一人の男性が立ち上がって、
「それは大変厳しい道です。もっと詳しく説いてください」
と懇願します。維摩居士はこれに応え、具体例を挙げながら説明します。
「通常は物惜しみするような態度である者が、いざというときには人々のために身命をも施すこと、それが道ならぬ道を行くことです。
戒律など守ってないような生活をしながら、自分に厳しく正しい生活を送ること、それが道ならぬ道を行くことです。
普段は怠け者のようでありながら、実は善行を心掛け、実践している生活を送ること、それが道ならぬ道を行くことです。
快楽に興じながらも、心はいつも穏やかで鎮まって乱れないこと、それが道ならぬ道を行くことです。
嘘をついていると思われながらも、その実、巧みな方便で人々に真理を教えている、それが道ならぬ道を行くことです。
病気になって苦しんでいる様子を見せながら、実は死の恐怖を乗り越えて心は穏やかであること、それが道ならぬ道を行くことです。
ちまたの遊郭や悪所に出入りしながらも、決して欲望や快楽におぼれないこと、それが道ならぬ道を行くことです。
悟りの世界を知りながらも、汚れた欲望の世界に身を置くこと、それが道ならぬ道を行くことです。
こうした道ならぬ道をいくことが、菩薩が仏の道を実践することとなるのです」

同じですね。悪い世界にいても、その悪さに染まらないこと、なのです。これは、出家者によく言われることです。すなわち、
「俗世間にあっても、俗に染まらず。清浄なる世界にあっても清浄に染まらず」
です。俗でも聖でもない、どちらにも染まらない世界に住しなければいけない、という教えです。
人を導く者は、俗世界に存在しなければなりません。そうでないと、一般の人々と交わることができないからです。俗世間を厭うては、人々を導くなどということは不可能でしょう。
かといって、俗に染まり過ぎても行けません。「生臭坊主」と言われるだけですからね。品性も落ちますし、信用も落ちます。
人びとを教え導こうと思えば、孤高の聖者であってはいけないし、どっぷり俗に染まった生臭坊主でもいけないのです。どちらにも偏らない生活を送ること、それが人を導く者の態度なのです。
これは、本当に難しいことです。一つ間違えば、欲に取り込まれてしまいます。また、それを避けようと思えば、人を寄せ付けない、ツンツンした嫌われ者になってしまいます。バランスが難しいですねぇ。
俗っぽい話はしながらも、俗っぽい生活はしながらも、常に言葉の中には真理があり、生活の中には規律がある、という日々を過ごさねばいけないのですね。
それが道ならぬ道を行くことであり、菩薩の実践行である、と維摩居士は説いているのです。これは、出家主義仏教へのあてつけでもあります。

さて、今度は維摩居士が文殊菩薩に問います。
「ところで文殊菩薩よ、仏を生み出す土壌とは如何なるものか」
文殊菩薩はすかさず答えますな。
「それはありもしない自我に対する執着である。貪り、怒り、愚かさもそうである。生命への執着心もまた然り。真理を見抜く目を覆い隠す無知も、仏を生む土壌である。無常でなく永久と思い、苦を楽と思いこみ、無我であることを理解せず我を信じ、汚れているのに清浄と思い込む、こうした錯覚もその土壌である。後悔や疑いの念に囚われ心に安らぎがないこともそうである。すなわち、あらゆるよくない行為や誤った考えが、仏を生み出す土壌となるのだ」
この答えに、維摩居士は「ほう・・・なかなか・・・」というような顔をしますな。そこで、問います。
「なぜ、そのように思われるのだね?」
「煩悩を断ちきって自己を救済する小さな悟りを得た者には、もはや欲求ということない。したがって、最高の悟りである如来の悟りに向かおうという気持ちも起きない。ところが、煩悩を抱いて苦悶し、この汚れた世界に身を置いている者は、常に至上の目標を掲げ努力する。その結果、小さな悟りに満足せず、最高の悟りへと至るのだ。たとえば、水のない乾いた大地に蓮の華を咲かせようとしてもできないが、泥沼では咲かせることができることと同じである。煩悩という泥沼があるからこそ、最高の覚りがあるのです」

その通りですね。煩悩があるからこそ、悟りがあるのです。煩悩がなければ、悟りなど存在しません。すなわち、悟りを生み出す元は煩悩なのです。
悩みや苦しみがないとは、何も考えないので悟りなど程遠いのです。ところが、悩み苦しんでいる人は、その苦しみから脱出したいと望みますから、その脱出方法を得ようとします。人びとを苦から救うのが仏法です。ならば、苦しみにある人は仏法を学べば、苦しみから脱出できることになります。それは、悟りへの道でもあるのです。
うちのお寺に相談に来られる方もそうですね。迷いや悩みがなければお寺にはきません。悩みや迷い、苦しみがあるからこそ、救いも悟りもあるのです。つまり、それは欲望があるからこそ悟りもある、という意味なのです。欲がなければ、迷いや苦しみもないですからね。

文殊菩薩と維摩居士の問答を聞いていた大迦葉(だいかしょう)が感動のあまり立ち上がって叫びます。
「あぁ、なんということだ。私たちは間違っていた。私たちはただひたすら煩悩を断ち切るためだけの修行をしてきた。確かに煩悩は断ち切れた。しかし、その上の実現はできていません。悲しむべきことです。文殊菩薩様の説かれたとおり、あらゆる煩悩こそが仏を生み出す土壌なのですね。悪の極みにあり苦しむ者こそがひときわ強く悟りを求める決意を起こし、それを実現できるのでしょう。ところが、煩悩を断ち切ってしまった者は、欲望がないからどんなにすばらしい仏の教えを聞いても反応できないのです。あぁ、悲しいことかな・・・私たちは、どんなんにすばらしい教えを聞いても感動しません。感謝もしません。なんと悲しいことでしょう・・・・」
大迦葉とともに、多くの声聞の出家者が嘆いた。

と、ありますが、これ矛盾してるんですよね。維摩経の編纂者は気がつかなかったのでしょうか?。なぜなら、大迦葉さん、文殊菩薩と維摩居士の問答に大いに感動してるじゃないですか。感動したから、「感動しました」という言葉出たのでしょう。ということは、大迦葉さん、煩悩は断ち切れていないじゃないですか。もし、煩悩がたち切れているのなら、文殊菩薩や維摩居士の問答にも無反応のはずです。自分でそう言っているのですからね。お釈迦様の言葉にも感動しない、感謝しない、と言っているのですからね。にもかかわらず、文殊菩薩の言葉には感動しちゃったのですから、お釈迦様が文殊菩薩以下、となってしまいますよね。
この、大迦葉の登場は、いささか維摩経においては、???という場面ですな。お経の編纂者は、ちょっとやり過ぎてしまったのですね。ついつい調子に乗ってしまったのかも知れません。あるいは、出家主義者の負けを描きたかったのでしょう。それならば、他に書きようがあったのに・・・と思います。ま、このシーンは、ちょっと余分なようにも思いますね。
ま、ともかくは、真の覚りとは、出家して修行していても得られないぞ、むしろ俗世間にいたほうが得られるぞ、ということを強調したかったのです。

以前、どこかの新聞のコラム欄で読んだのですが、
「俗世間にいて日々の生活が修行でもある、というのなら、なぜサラリーマンは悟れないのか。日々の生活が修行である、というのは誤魔化しだ」
というようなことが掲載されていました。これ、さる仏教学者が言っていたのです。
とっても残念ですね。仏教を説くものが、こんなことを言っていては困ります。簡単なことですね。日々の生活が修行とわかっていないから悟れないだけです。日々の苦しい生活が
「あぁ、これも修行なのだ。こうした生活には、意味があるのだ。苦を乗り越え、苦を苦と思わぬようになれれば、悟りが得られるのかも知れない」
と気がつけば、いいだけのことです。あるいは、
「耐え忍び、働くことが他の人々に喜びを与えるのだ。そうか、そういうことか・・・・」
とわかれば、それは一種の悟りなのですよ。
なので、サラリーマンでも悟れるのです。いや、俗世間にいるからこそ、悟りも得られるってものです。お寺の中にいて、あるいは、大学の中にいて、日々仏法の研究ばかりやっていては、悟りなど程遠いってものですよ。もっと、俗世間の煩悩に揉まれないとね。もっと、ドロドロの世界に生きないとね。悟りとは、そうした苦しみや迷い悩みの中から生まれるものなのです。迷い苦しみ悩みを糧として生まれるのですよ。
それをこの品では説きたかったのでしょう。

さて、概ね重要なことは説きおわたっところで、居合わせた一人の菩薩が頓珍漢な質問をします。以前だったら、そんな質問をする者は叩かれていたのに・・・というような質問です。ところが・・・・。
それは、次回にお話いたします。合掌。




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