ばっくなんばぁあ〜18

第 六 章

「大乗経典」

*維摩経(ゆいまきょう)の11

G仏道品(ぶつどうぼん) その2
前回、大迦葉の発言は矛盾していて、維摩経の編纂者はちょっとやり過ぎな感じがする、と言いましたが、仏道品の後半も実はそんな感じがします。
以前、舎利弗が維摩居士の部屋に椅子が無いことを心配したシーンがありました。覚えていらっしゃるでしょうか?。その時に舎利弗は
「椅子に座りたいために修行をしているのか?」
などとやり込められました。椅子の心配などするな!、とね。
ところが、これからお話しする仏道品の後半は、それと似たような質問から始まるのです。読む方には、
「あれ?、なんでここで突っ込まないの?」
と思われることでしょう。そんな疑問を抱いてもおかしくない場面から始まるのです。では、話を進めましょう。

大迦葉が、自分たちの愚かさを嘆いていた時、片隅にいた菩薩の一人が不意に立ち上がり、維摩居士に質問をした。
「維摩居士よ、お聞きしたい。あなたのご家族や使用人はどこへ行ってしまったのですか?。確か、友人や親類の方たちもここに集っていたはずですが、どこへいかれたのですか?。馬車や馬、象も・・・いったいどこへ消えたのですか?」
以前なら、「何をバカな質問を・・・。君にはどこへ行ったのかわからんのかね?。目で見ようとするから見えないんだよ」と罵られても仕方がないような質問です。菩薩が質問したから贔屓したのか!と思えてしまいますよね。
維摩経の編纂者は、この維摩経を物語として完成させたかったのでしょう。文殊菩薩が維摩居士を見舞いに来るとき、維摩居士は家の中を空っぽにしてしまいました。空ということを説くためだったのでしょう、そのような演出をしたのです。
椅子については、舎利弗に愚かな質問をさせ、こだわることの愚かさ、主たる目的を外すな、ということ説きました。そうした流れの中で、ようやく維摩居士が家の中を空っぽにしたことの意味が説かれることになるのです。それがこの場面なのですね。ですから、この菩薩の質問は、待ってました、という流れなのです。ですから、
「何聞いていたんだ、空なんだよ」
というような、質問者を貶すような態度は維摩居士にはありません。なので、質問者を菩薩の一人、としたのでしょう。お釈迦様の直弟子の一人、ではまずいのです。大変意図的ですよね。

菩薩の質問に、維摩居士は歌で答えた。
「菩薩の母は智慧なるぞ  菩薩の父は方便ぞ  聞法こそが菩薩の妻よ  慈悲は愛しい娘たち
空への思考が菩薩の家なら  悟る真理は息子たちなり   煩悩こそが働き者の使用人
悟りに至る手段は我が親友で  六波羅蜜は歌い手たちよ  その歌声は法を説く
神通力は馬車なれば  御者は悟りを求める心  善なる心は瓔珞(ようらく)なれば  羞恥心こそ菩薩の衣服
深い瞑想は菩薩の寝床  清浄なる暮らしの布団で包まれる  悟りの教えが食事となれば  その飲み物は法の味・・・」
用語の説明を先にしましょう。
六波羅蜜とは檀・戒・忍・進・禅・慧(だん・かい・にん・しん・ぜん・え)の六種の修行のことです。檀とは布施のこと。金品ばかりではなく心を布施することが大事ですね。戒はルールやマナーを守ることです。忍とは耐え忍ぶことです。進とは精進のことで、怠らず努力することです。禅とは禅定のことで、瞑想したり心落ちつけて冷静になることです。慧とは智慧のことで、深く考えることですね。この六種の修行は菩薩の修行です。どなたにでもできるので、心掛けてみるといいと思います。やがて自然に身につきますので、そうなったらあなたも菩薩のはしくれですね。
瓔珞(ようらく)とは、本来は王宮において、王の部屋などを飾るものでした。あるいは、王や妃が胸や首に着けた飾りのことでした。そこから、菩薩が身に着けている飾りを瓔珞というようになったのです。あるいは、寺院の天井からぶら下がっている飾り類を瓔珞といったりもします。現代で言えば、大きめのど派手なネックレスやペンダントですね。菩薩像などをみますと、胸に飾りがついていますが、それが瓔珞です。
なお、インドでは抒情詩が盛んでした。吟遊詩人などもいて、街のあちこちで歌を歌っている者がいました。そうした習慣があったので、お経にはしばしば「歌でもって教えを説いた」という場面が登場します。漢訳されたとき、それは「偈文(げもん)」と呼ばれるものとなり、五言絶句や七言絶句などの形で訳されました。有名な偈文に「観音経偈」があります。観音経の内容をお釈迦様が歌でもって説かれたのですね。で、漢訳時に五言絶句形式で訳されています。本来は、曲もついていました。歌ですからね。したがって、ここでも維摩居士は歌って答えたのです。詩を吟じたのですね。

さて、菩薩の質問に維摩居士は答えたのですが、それは家族がどうなったか、親族がどうしたのか、使用人がどこへ行ったのか、といった内容ではなく、菩薩にとって家族とは、友人とは、使用人とは・・・・といった内容で答えています。
つまり、以前に物質的なことに真理はない、と説いていますので、家族などの物質的なものを求めるな、という意味になっているのですね。舎利弗の質問のときは、頭ごなしに小馬鹿にしたのですが、菩薩の質問なので優しく歌で答えているのです。また、
「いい質問だねぇ、ナイスタイミングだねぇ」
という意味もあるので、叱ったりはしないんですね。しかし、答えの内容は、あくまでも物質的ではなく、菩薩の心、生き方、考え方を元に答えています。菩薩にとっての家族や友人親族、使用人はこう言うものなのだよ、ということですね。
で、この答えを聞いて、質問をした菩薩は感動するのですな。で、こう受け答えます。
「なるほど、菩薩にとって、この現象世界の存在はすべて『空』であり、法の世界(真里の世界)のものとして目に映るのですね」
維摩居士の狙い通りの受け答えですな(というストーリーにしてあるのですから当然ですが・・・・)。まさに、「空」を示しているのです。
さらに、この菩薩は質問をします。
「願わくば、真の菩薩たる者の、あるべき姿を説きたまえ・・・・」
維摩居士は再び歌って答えます。
「煩悩という強敵を  真正面から打ち砕き  あらゆる悪魔を制圧し  菩薩は勝利を獲得す
幾億万の如来に対し  あらゆる品を供養するが  如来と己の差はないと知る
衆生のために理想の世界を願うているが  実相はすべてが空なるを知っている  その思いに奢ることなく
菩薩は自ら生老病死を指し示し  人々に無常を悟らせる
あるいは大地を燃え尽きさせ  この世は永久(とわ)なき無常の世界と示す
菩薩はすべての学芸を  身に着け衆生に楽と平穏を与えたもう
すべての外道の教団に  自ら身を置きその過ちや  迷いを解きて真理を示す
菩薩は月や太陽にもなり  地水火風空・神にもなって  衆生を救済したもうなり
病気が蔓延するときは  薬となりて病を癒し  飢饉のときは食べ物・飲み物となりて  飢えをいやす
大戦争では中立を守りて  平和に導きたもうなり
あらゆる如来の国土にも  畜生道にも地獄にも  赴き至りて法を説く
あるいは遊女の姿となって  男を誘って真理を見せる
王や大臣・商隊長、村長などの姿となりて  衆生を発心させて悟りに向かわせる
自惚れ者には力をもって  臆病者には優しさで  無上の悟りを説き示す
相手によっては奴隷にも  弟子にもなってつき従い  方便を以て導きたもう
無数の如来が何億年かけて  菩薩の徳を語っても  語りは尽くせぬものなり
尊い菩薩のその徳を  聞けば賢いものならば  きっと自らその道を進む決意をするだろう」
維摩居士は歌い終えると、周囲の者たちを優しく見まわした。菩薩や弟子たちはその歌の内容をしっかり心に刻みつけたのだった。

と、こうして仏道品は終わります。
後半は、いわば菩薩のあり方、ありようを説いたものですね。
難しい用語は特にはありません。内容は、菩薩はなんにでも変化し、あらゆる方便を使い、いつでもどこでも現れ、人々を導くものである、ということを説いているのですね。
こうした内容は、ほとんどの大乗経典に説く菩薩の働きと共通しています。どの経典も同じように説いているのです。代表的な経典はやはり観音経でしょう。観世音菩薩があらゆる姿となって人びとを救う、ということが説かれていますが、それと同じで、ここでも菩薩はいろいろな姿となり、いろいろな手段を使って人びとを導く、と説いているのです。ときには自らが犠牲となってでも・・・・。
こうした菩薩の生き方を知れば、誰もが菩薩になりたがる・・・と結んでいます。確かに、人間の心の中には、
「菩薩のような生き方ができたらいいな」
という思いはあると思います。どなたにも。なぜなら、それは人間の理想的な姿だからです。菩薩は人間にとっての理想像なのですね。だからこそ、誰もが求め、あこがれるのです。まあ、しかし、なかなかなれるものではありませんし、そういう人と出会うことも稀なんですけどねぇ。
が、そこまでの菩薩、理想的な人物にはなれないし、会えないかも知れませんが、プチならどうでしょうか?。

そう、プチ菩薩ならば、なることもできるし、会うこともできるのではないでしょうか。
ちょっとした親切や救い、ボランティア活動・・・そうしたことならば、誰にでもできるし、出会うこともありましょう。それで十分なのです。
あるいは、大袈裟なことを考えず、現代社会において、俗世間に生きながら、欲望の世界にまみれながらも、俗に染まらず、欲望におぼれず、なるべく周囲を悲しませるようなことをせず、笑顔で、明るく、楽しく生きることを率先するだけで、菩薩でもあるのです。
維摩経のいいところは、俗世間にいながらにして、誰もが菩薩になれるのだ、と説いているところでしょう。この仏道品の歌は、ちょっと実践するには難しいですが、近づくことは可能です。
そう、誰もが菩薩なのだし、誰もが菩薩になれるのですよ。そう説いているのが、仏道品なのでしょう。
以上、仏道品でした。


H入不二法門品(にゅうふにほうもんぼん)
菩薩のありようを説いた維摩居士、ちょっと顔つきが真剣になります。眼がキラ〜ンとした、と思ってください。すなわち、いよいよ本題に入ってくるのです。
維摩居士は、その場に集っている菩薩たちに問いかけます。
「菩薩の皆さんに問う。菩薩はいずれ、すべての対立を超えた悟りの世界・・・不二の法門・・・に入ると言われているが、それはいかなることか?。お一人ずつ私に説いてください」
この問いかけに、菩薩たちは一人ずつ答えた。(大勢の菩薩が答えますので番号を振っておきます)
@「維摩居士よ、生じることと滅することは対立しますが、生じることがなければ滅することもありません。すなわち、生滅があるように見えるのは相対的な現象世界の仮の姿です。真理の世界においては、すべての存在は生じることもなく滅することもない、と確信すること・・・それが不二の法門に入ることでしょう」
A「維摩居士よ、自分という実体があり、自分のものが存在すると考えることが対立です。しかし、自分という実体はなく、仮に様々な要素が集まって自分というものができているにすぎません。これを正しく知れば、自分のものなどという考えは起りません。これが不二の法門に入ることです」
B「維摩居士よ、穢れたものと清らかなものとは対立しています。しかし、穢れをよく考察するならば、実はそのような実体はありません。ただ、自分がそう判断しているにすぎません。したがって、そのような分別を捨て去れば、穢れも清らかもその区別はなく、ただあるがままに存在していることがわかります。このようにあらゆる分別をなくすこと、それが不二の法門です」
C「維摩居士よ、すべては人間の勝手な分別が対立的なものの見方を生み出しているのです。たとえば、人間の目で見ると、すべてのものは異なった姿をしているように見えますが、対象を判断し区別することをやめれば、すべては平等な存在であることがわかります。このように、あらゆる姿は平等であると知ることが不二の法門です」
D「維摩居士よ、善と悪は対立していますが、それも人がそのように分別したことであり、もともとはただの行為があるだけです。それを知れば、善悪の区別はなくなるでしょう。善と悪という対立はないのです。これが不二の法門です」
E「維摩居士よ、幸福と不幸は対立しています。しかし、どちらも一時的な状態に過ぎず、すべては移り変わっていきます。すなわち、幸福と不幸の対立などありません。幸福は不幸であり、不幸は幸福なのです。このように自在な智慧を持つことが不二の法門です」
F「維摩居士よ、俗世間と出世間は対立です。俗世間の生き方・ものという考え、出家の生き方・ものという考えは対立しています。しかし、この世界のありようそのものは空なのですから、俗世間の世界とか出家の世界とかの区別はないのです。世間を出るとか出ないとかの区別はないのです。本来、俗世間と出家の区別はないのですから。これが不二の法門です」
G「維摩居士よ、輪廻することと涅槃に入ることは対立です。しかし、生滅することは現象世界の仮の姿であり、真理の世界では生じることもなく滅することもないと知れば、輪廻と涅槃も異なるものではなくなります。これを知れば、輪廻せず、涅槃にも入らないと理解できるでしょう。すなわち、これが不二の法門です」
H「維摩居士よ、自分があるということと自分がないということは対立です。しかし、自分がないのなら、自分があるとかないとか考えることはできません。また、自分があるとすれば、この様々な要素が集まったにすぎないこの仮の姿のどこに自分があるのでしょうか。空としての自我のあり方を考察すれば、自分はあるのでもなくないのでもないとわかるでしょう。それが不二の法門です」
I「維摩居士よ、一切の現象・・・色・・・は、空と対立しています。しかし、永遠不変の現象はありません。したがって、現象である色はすなわち空です。色はもとより空なのです。このように、感覚である受も想いも行為も認識や意識も、もとより空なのです。わたしたちが執着しやすい体も心も一切は空と知ることが、不二の法門に入ることです」
J「維摩居士よ、この世界を構成する地・水・火・風の四大は虚空とは対立しています。しかし、本来、四大の本性は空であり、虚空とは別ものではありません。四大すなわち空なのです。これを理解することが不二の法門です」
K「維摩居士よ、ものを見ることと見られることは対立していますが、目をつきつめて考えれば、それもやはりものでしょう。そこに映るものが美しく見えたり醜く見えたりすることは、ものの本質とは関係のないことです。それがわかれば、ものに対し執着はなくなるのです。同じように、耳と音、鼻と香、舌と味、身体と感触、心と対象も実は不二なのです。これを理解することが不二の法門に入ることです」
L「維摩居士よ、施しをして自分の功徳を願うことと、その功徳をほかの人びとに差し向けることは対立しています。しかし、施しをして自分の功徳を願うことは仏の悟りを求めていることであり、同様に功徳を他にむけることも仏の悟りを求めていることです。したがって、自分の功徳を求めることと功徳を他者に向けることは対立してはいません。同じように、戒律を保つこと、耐え忍ぶこと、怠らず努力すること、いつも心を平静に保つこと、正しい智慧をもつことによって得る功徳も、結局は悟りへ向かうことです。こう理解することが、不二の法門に入ることです」
M「維摩居士よ、仏・法・僧の三宝を別のものと考えるのは、対立でしょう。しかし、仏の本性は実は法そのものです。その法を形にして実践するのが僧です。すなわち、仏は法であり、法は僧です。ということは、ここに対立はありません。それらは、すべて真理の世界に属するものであり、虚空のようなものです。三宝に限らず、あらゆる存在は虚空のような存在なのです。これを理解することが不二の法門に入ることです」
N「維摩居士よ、身体が存在することと消滅することは対立しています。しかし、身体が存在しているといっても、確実に消滅に向かっているのです。しかも、存在しているとき消滅したときの違いは、身体を構成する要素が変化しただけで、実体は変わっていません。すなわち、存在しているのでもなく消滅しているのでもありません。このように身体が存在しているとか消滅しているとかを空とみることが、不二の法門に入ることです」
O「維摩居士よ、暗闇と明るさは対立したものです。しかし、深い瞑想に入った場合、暗闇も明るさも感知されなく、区別はありません。深い瞑想の中では、すべてが平等です。それが不二の法門に入ることです」
P「維摩居士よ、再びこの世に生まれることのない涅槃を望むことと、幾度も生まれ変わる輪廻を嫌うことは二つの事柄です。しかし、涅槃も望まず、輪廻を嫌うこともなければ、これらは不二でしょう。輪廻という束縛があるからこそ、輪廻からの解放があるのです。まったく束縛がなかったなら、どうして涅槃を求めましょうや。涅槃を求めることもなく、輪廻を厭うこともない境界、それが不二の法門に入ることです」
Q「正しい道と間違った道とは対立したものです。しかし、正しい道を行く者が決して脇見をしないならば、その人のは間違った道はわかりません。正しいとか間違っているかの区別はないのです。したがって、正しい身と間違った道は二つであって二つではないのです。すなわち、これを知ることが不二の法門に入ることです」
このように菩薩たちは、次々と不二の法門について具体例をあげ、説明をしたのであった。

18もの例をあげて、不二を説明しています。中には、似たような内容のもの、言い換えただけのものもありますが、要するに「不二」とは、「二つではなく一つ、一切の対立が無く、一切平等世界」ということです。一切の対立、分別、境界のない世界が不二の世界なのです。
ちなみに密教で言う「不二の法門」とは、ここでは例が上がってませんが、「如来と凡夫の対立がないところ」といえましょう。如来も衆生も一つである、ということですね。すなわち、それは即身成仏なのです。本来、みな如来、です。似たような内容はGでしょうか。本来ならば、もう少し突っ込んで、「悟りも迷いもない」、「空も不空もない」として欲しいところです。特に、「空と不空の対立」については、維摩経が編纂されたころは、まだその思想は完成されていなかったようです。萌芽が見えている程度ですね。
維摩経が編纂された時代は、やはり空思想が中心になっています。しかも、出家至上主義者の思想に対して説かれていますので、出家者も在家者も平等、修行内容も平等、ということを中心に説かれています。
これがもう少し発展すると、「覚りも迷いもなく、平等である」、「空も不空の区別もない」という思想が中心となってくるのでしょう。
まあ、いずれにせよ、対立や対の考え、区別や分別、差別をなくしたところが真実の世界であるといえましょう。この点は、皆さんも、よく考えて欲しいことだと思います。
社内で対立していませんか?。学校で対立していませんか?。きれいと汚いとかいって差別していませんか?。イケメン・ブサメンとか言って差別していませんか?。金持ち・貧乏人といって差別していませんか?。
こうした差別は、みな人が作りだしたものであって、真理の世界から見れば、「初めからない」ものなのです。初めからないものに我々はこだわっているのでしょう。
区別することなく全体を見渡せば、執着心はなくなり、真の自由が理解できるのですよ。

さて、菩薩たちが次々と「不二の法門」について説明しましたが、文殊菩薩はだんまりを決め込んでいました。そこで、菩薩たちは文殊菩薩に懇願します。というか、ちょっと責めたのかも知れません。
「文殊菩薩よ、あなたのご意見をお聞かせ下さい。不二の法門」とはいかなる世界ですか」
と、詰め寄ったんですね。文殊菩薩は仕方がなく答えます。
「皆さん、皆さんが答えられたことはもっともなんです。しかし、真実の不二の法門は、ちょっと違うんです。いいですか、皆さん。言葉にして意見を述べた時点で、この相対的な世界に入ってしまっているのですよ。言葉にしたら、それがいくら真実を説明している内容であっても、対立を生んでしまうのです。したがって、真実の不二の法門は言葉では説くことができません。あぁ、こうして説くことができない、と説いていること自体、対立を生んでいるのです。したがって、何の言葉も説かず、説かないことも説かない、説くこともなく説かないこともない・・・・と、説明すれば皆さんと同じように対立の世界に入っているのです。そうですよね、維摩居士。どうか、維摩居士も、あなたのご意見をお聞かせ下さい」
と文殊菩薩は、維摩居士に振ります。すると、維摩居士は、
「・・・・・・」
何も説かないのです。一言も発しません。文殊菩薩は、これを見て
「素晴らしい、実にすばらしい。これこそが不二の法門の答えですね」
と賞賛したのです。これを聞いた菩薩たちは、維摩居士の沈黙の教えを理解し、真実の不二の法門に入ったのです。

このくだりはちょっとずるいですね。皆に言葉で説明させておいて、自分たちはダンマリを決め込む・・・。まあ、確かに、不二の法門を説明せよ、対立のない世界を説明せよ、といわれても言葉では無理でしょう。ここが禅でいう悟りの世界なのです。
禅は言葉で悟りの内容を説明しません。説明できないのです。しかも、自分の悟りと他者の悟りは同じかどうかもわかりません。否、同じであって同じでないし、異なっていて異なっていないのです。あぁ、ややこしい・・・・。ですから、言葉では説明できないのですね。ですから、歴代の禅者は、師をぶったり、けったり、石を投げてみたり、飛んでみたり、手を打ってみたり・・・という奇異な行動をしたのです。そうでもしない限り、悟りを説明できないんですね。そのなかでも、最もいい方法が、黙って瞑想をしている姿を見せる、なのでしょう。このときの維摩居士のように。
しかし、周囲にそれを理解してくれる人がいないと始まりませんよね。自分より、悟りのレベルが低い人しかいない状態では、誰も気がついてくれません。
「な〜んだ、答えられないのか」
となってしまいます。この場面では、文殊菩薩がいたからいいようなものの、いなかったら誰も維摩居士の態度を理解してくれないでしょう。ダンマリも時と場合によりますよね。

さて、不二の法門について説かれた章でしたが、皆さんは理解されたでしょうか?。真実の世界には、対とか対立はないのです。
この世界・・・全宇宙ですね・・・は、すべて対でできているそうです。これは科学的に証明されているそうです。物理学なのですか?。なんでも、すべて対立するものがないとバランスが崩れてしまうのだそうです。ですから、物質に対しての反物質なるものも存在しているのだそうです。
悟りの世界とは、そうした対立の世界を超えたところにあります。すなわち、宇宙からも解放されている、ということですね。
一度、こうした対立のない世界に入ってしまうと、小さなことにこだわっている人たちが、哀れに見えてくるのでしょう。もっと、解放された考え方をすればいいのに、そうすれば苦しまなくてもいいのに・・・といったようにね。
現代では、生きていく上で分別は必要ですが、差別や区別はよくありませんね。また、何かにこだわったり、縛られたりすることも、結局は己に重荷を背負わせていることになるのでしょう。
何の束縛もない、真実の自由の世界を求めてみてください。そこはとてもとても安楽な世界なのです。それには、まず、差別や区別することを止めることですね。
以上、入不二法門品でした。


I香積仏品(こうしゃくぶつぼん) その1
前の章で不二は言葉では言い表せない・・・といった大変難しい内容を文殊菩薩と維摩居士が説き明かしました。その場に居合わせた菩薩や天人、修行者たちは、すばらしい教えを聞いた喜びに感動しています。
が、ただ一人、そんな感動はどこへやら・・・という人物がいました。それはまたしてもシャーリープトラです。どうもこの維摩経、シャーリープトラを目の敵にしています。
実際のシャーリープトラは智慧第一と賞賛された弟子です。大変聡明で、優秀な弟子でした。非の打ちどころがないような・・・。どうやら維摩経の編纂者は、そういう優秀な弟子が嫌いだったようです。
得てして優秀な方は、案外人間味が薄かったり、感性が豊かでなかったりします。勉強や理論だてて話すこと、雑学には得意でも、真理については正しい理解ができてなかったりもします。賢さゆえ、他の人の言葉が聞き入れられない、という悲劇もあるかも知れません。表面上は優秀でも、中身は浅いぞ、ということは、あるのかも知れません。そこを維摩経の編纂者は見抜いていたのでしょう。
ここでも、感動的な場面に水を差したのは、シャーリープトラでした。

シャーリープトラは考えだしました。
『維摩居士の屋敷に来てから随分と時間がたつ・・・。もうそろそろお昼だ。困った・・・。私たち修行者は戒律で食事は正午までに終えなければならない。他の菩薩や天人はいい。戒律がないから。ましてや維摩居士は一般人だ。いつ食事をしてもいい。しかし、我らは困る。う〜ん、どうしたものだ。もう正午となるのに未だ食事の用意ができてない。困った・・・・』
本来の修行者ならばこうしたことは考えないはずです。断食に離れていますから、一日くらい食事がとれなくてもどうということはありません。しかし、ここでは、シャーリープトラにダメ修行者になってもらって話を進めています。
そんなシャーリープトラの心を見抜いた維摩居士は
「シャーリープトラ尊者、あなたは修行者でしょう。教えを聞くという大切な時に食事のことなど考えているとは・・・・。情けないですなぁ」
と嫌味をいいます。シャーリープトラは恥ずかしくなって下を向きますな。あまりいじめるのもかわいそうと思ったのか、維摩居士は
「とはいえ、もう昼時ですからね・・・・では、皆さんが食べたこともないような御馳走を用意いたしましょう」
と笑顔でいいます。そして、深い瞑想に入ると、神通力により空中に映像を浮かべるのです。立体映像が空中に浮かんだと思ってください。ホログラムですね。みんながそれを見ているんですね。
その映像は、宇宙の様子でした。たくさんの星があります。その中を急速で進んでいくのです。まるで、スタートレックの映画を見ているようですな。たくさんの星と星の間を縫うように進んでいくんですね。そういうシーンがお経に書いてあるんです。すごいですよね。宇宙のことがよくわかっていない時代に、宇宙空間を旅するような場面が書いてあるとは・・・・。いったい、どうやって宇宙のことを知ったのでしょうねぇ・・・。
まあ、それはいいのですが、映像はある惑星でストップします。その惑星が大写しになりますな。
その惑星には国がありました。美しい樹木で囲まれている国です。その樹木の放つ素晴らしい香りも映像から伝わってきます。よく見ると、樹木の中に宮殿があります。その宮殿がアップになります。どんどんズームインしますね。すると、宮殿の中では如来が教えを説いています。
「この如来は香積仏(こうしゃくぶつ)という。この仏国土は衆香国(しゅこうこく)という。教えを聞いているのは菩薩だ。ここには縁覚や声聞という小乗の修行者はいないのだ」
維摩居士の解説が入りますな。
それを見ていた文殊菩薩以外の菩薩や天人、シャーリープトラたち修行者は目を丸くして見ていますな。仰天です。文殊菩薩は知っているので落ち着いたものです。
さて、流れているホログラムを見ていると、その菩薩たち、どうやら食事をするようです。その国の天人たちが配膳を始めました。それを見て維摩居士がいいます。
「ここにいる菩薩の中のどなたでもいい、あの衆香国へ行って、食事を頂いてきてはくれませんかな?」
こういう無理難題を言うんですね、維摩居士は。そんなことできるわけないです。文殊菩薩以外は皆目がテンなんですから。やはり、どの菩薩も返事をしません。維摩居士、意地悪く文殊菩薩にいますな。
「やれやれ、文殊菩薩さんの仲間の菩薩さんには、あそこまで行く神通力がないと見える。困ったものですなぁ・・・・」
厭味ジジイですな、ここまでくると。さすがに文殊菩薩もムッとしたのか、
「維摩居士、いくらなんでも、菩薩を軽蔑するようなことを言ってはなりません。彼らは修行中なのです。力量が劣っているといって軽蔑することは、世尊の教えに反します」
と窘めます。確かにその通りですね。ちょっと維摩居士は言い過ぎのようです。しかし、ごめんねと謝るような維摩居士ではありません。
「じゃあ、仕方がないな・・・」
と言って、神通力で自分の分身とも言える菩薩を一人造り出します。その菩薩は、黄金色に輝いていました。目映いばかりのオーラを放っていたのですね。お釈迦様並みです。みんなびっくりしますな。文殊菩薩すら驚きます。そんな周囲の驚きをよそに維摩居士はその造り出された菩薩にいいます。
「菩薩よ、汝はこの映像に見える衆香国へ行って、香積仏の前に進み出て、こう言いなさい。
『リッシャビ族の維摩が何度も礼拝をしております。さて、その維摩から香積仏にお願いがございます。今、皆さんが召し上がっている食事の残りを私たちに頂きたいのです。そうすれば、私たちの住んでいるこちらの世界にも衆香国の素晴らしさが伝わるでしょう。そして、こちらの世界で小さな教えに満足している者たちにも、大きな教えがあるのだということが理解でき、その教えを学ぼうとする心が生まれるでしょう』
さぁ、行きなさい」
維摩居士がそういうと、造り出された菩薩は「わかりました」と言って、早速宇宙へ向かって飛び立ちますな。そして、あっという間にホログラム中にその姿が映し出されます。
どこにカメラがあるのか知りませんが、カメラ目線で菩薩は言います。
「今、衆香国につきました。では、香積仏を礼拝してきます」
その菩薩は、香積仏の前に進み出ると、如来の足に額をつけて礼拝します。カメラはグーンとそのシーンをアップでとらえます。その菩薩は維摩居士に教えられたとおりにいいます。「リッシャビ族の維摩が・・・・・」と。その様子を驚きの眼で見ているんですね。

驚いたのは維摩居士の周りにいる者たちだけではありませんでした。香積仏の周囲にいて、一緒に食事をしていた菩薩たちも驚いたんですね。
「香積仏様、このすばらしい菩薩はどこから来られたのですか?」
「維摩とは、一体どこの世界のどのような方なのですか?」
「小さな教えとは・・・そんな教えを学んで満足しているものが存在するのですか?」
矢継ぎ早の質問に香積仏は答えます。
「菩薩たちよ、この世界から下方にどんどん向かい、幾千万もの星を超え、さらに宇宙の果てへと進んでいくと、とある惑星に行きつきます。そこは、釈迦牟尼世尊という如来がおります。維摩とはその世界に住む者です。釈迦牟尼世尊のおわします世界は、まだ未熟で様々な穢れや争いが存在しています。釈迦牟尼世尊はそんな世界で真理を説き明かしているのです。その世界の人々は、あまりにも煩悩が強いため、深く大きく高度な教えが理解できません。そこで釈迦牟尼世尊は、程度の低い小さな教えから始めたのです」
「おぉ、なんと不憫な・・・」
「そんな煩悩に汚れている世界にいる維摩というものは、その世界でも特別優秀な菩薩であり、他の多くの菩薩や修行者を指導しているのです。その維摩は、この衆香国のことや香積仏のことをそちらの世界で広めるために、この黄金に輝く菩薩を使いによこしたのです」
「な、なるほど・・・。しかし、この菩薩はすばらしい神通力を持っておるようです。この広い宇宙をあっという間に飛んできたのですから。こんなすばらしい菩薩を生み出すことができる維摩菩薩とは一体どのような菩薩なのでしょうか」
「維摩菩薩は、自分の化身をこの宇宙に存在するあらゆる仏国土に送り、教えを聞くことができるほどの菩薩です。それほど偉大な力を持っているのです」
香積仏はそういうと、素晴らしい香りのする鉢にすばらしい香りのする食事を入れ、使いの菩薩に手渡した。
その様子を見ていたその国の菩薩たちは、
「香積仏様、私たちもこの使いの菩薩と一緒に釈迦牟尼世尊の住まう国へ行ってみたいのですが。そして、ぜひ釈迦牟尼世尊という如来を供養したのですが、いかがでしょうか?」
「おぉ、それはいいことです。今がその機会です。行ってきなさい。ただし、注意しなければならないことがあります。お前たちの素晴らしい香りを彼の世界の人々が嗅ぐと、その世界の人々は香に酔って自制心を失ってしまいます。ですから、香を抑えていくようにしなさい。また、彼の世界の人々が、あまりにも理解力が低く、学んでいる教えの程度が低いものだと知っても、決して軽蔑してはなりません。彼の世界には彼の世界の程度があり、事情があるのです。釈迦牟尼世尊をはじめ、如来は人々を導くために、最初から最高の教えを示すことはなく、また真実の姿を見せることもないのです」
その場にいた九百万人の菩薩たちは大きくうなずくと、使いの菩薩とともに維摩居士のいる世界に向かって、いっせいに飛び立ったのでした。なんと九百万人の菩薩がやってくるのです。

さてさて、話はとんでもない方向へと展開してしまいました。シャーリープトラが昼食の心配をしたことに始まったお話が、なんと遠い宇宙の星から菩薩を招くことになってしまったのです。わかりやすく言えば、宇宙人がやってくるのです。しかも高度な文明をもった宇宙人です。欲望のかけらもなくなった、煩悩など何一つないという世界に住む宇宙人です。大変です。
ホログラムの中継を見ていた維摩居士以外の菩薩や天人、修行者びっくり仰天です。
「えらいこっちゃ〜、どないすんね〜ん」
てなもんです。しかも、彼らはすぐにやってきます。
「え〜、ここにくるのぉ〜」
と言っている間に、維摩居士の使いの菩薩とともに、九百万人の菩薩が維摩居士の部屋にやってきてしまったのです。
維摩居士は
「ようこそお越しくださいました」
と言って、文殊菩薩たちが座っているのと同じ獅子座という椅子(シャーリープトラが立ちっぱなしを心配したときに神通力で呼び寄せた椅子ですね)を神通力で作り出しました。九百万人の菩薩はその座につきます。瞬く間に芳香が漂い始めますな。抑えているとはいえ、どうしても香りが出てきてしまうんですね。その香は、維摩居士が住む都市バイシャリー中に充満してしまったのです。
市民は驚きますな。かつて嗅いだことのない方向に酔いしれます。その香につられて市民は大移動します。みんな維摩居士の屋敷にきてしまったのです。その数8万4千人でした(それでも宇宙からやってきた菩薩の数の方がはるかに多いんですねぇ。なんせ、900万人ですから)。
集まってきた市民は、みんな維摩居士の屋敷に入りこみ、菩薩たちがいる部屋に入っていきます。集まってきたのはそれだけではありません。この世界周辺の宇宙にいる神々や天人もすべて集まってきてしまいました。でも、ごった返すことはなく、維摩居士の部屋は秩序が保たれていました。
さて、そんな中、維摩居士の使いの菩薩が鉢を差し出して言います。
「さぁ、皆さん、かの香積仏様から頂いた素晴らしい香りと味のする食物です。召し上がってください」
これを聞いて、修行僧が一人疑問に感じます。
「これだけの人数がいるのに、その鉢だけで足りるわけがない。一体どうするのだろうか・・・・」
その思いをすかさず感じ取った使いの菩薩は
「お釈迦様の弟子たちよ、あなた方の小さな智慧で如来の広大な智慧や慈悲を計ってはなりません。たとえこの世界の海の水がなくなったとしても、この小さな鉢の食事は尽きることはないのです。あらゆる世界のあらゆる生き物が、この食事を得たとしてもこの食事は尽きないのです。なぜなら、この食事は如来の智慧と戒律と功徳によってできているからです。如来の智慧や戒律・功徳は尽きることはありません」
そうして、維摩居士の部屋に集った人々、弟子たち、天人、神々、菩薩たちは、香積仏がくださった食事を得たのです。
それは、使いの菩薩の言葉通り、尽きることはありませんでした。

と、まあ、このようにシャーリープトラの食事の心配から端を発したこの章は、とんでもない方向に話が向いてしまいました。ついには、宇宙空間をはるか飛んで行って、遠い遠い惑星の如来の元まで話が飛んでしまいました。さらには、その惑星からこちらの世界へ菩薩がやってきてしまいました。宇宙人の襲来(襲っては来ませんが)です。はるか2千年以上も前に書かれた維摩経は、広大なスケールで話が展開しているのです。
立体映像に瞬間移動、宇宙の他の惑星、その世界とその世界の人々・・・。あぁ、まだほかにも維摩居士は分身の術が使えるということも判明しました。なんともはや。お経というよりはSF小説のような内容になっています。しかし、あくまでもお経ですから、こうしたおとぎ話で内容は終わりません。ちゃんと、教えを説いているんですね。

維摩居士のもとに集まった人々や菩薩たち全員が食事を終えるのを見た維摩居士は、香積仏の世界から来た菩薩たちに質問をします。いよいよ、教えが始まるのですね



I香積仏品(こうしゃくぶつぼん) その2
香積仏から与えられた食事を食べた者たちは、その毛穴から芳香を漂わせ始めました。衆香国と同じ香りが辺りを包みます。そんな中で、維摩居士は衆香国からやってきた菩薩に尋ねます。
「香積仏はどのように教えを説かれるのか?」
彼の国から来た菩薩は答えます。
「香積仏は香によって法を説く」
すなわち、衆香国で漂っている香を嗅いだり、自分から発するようになれば、自ずと教えが身につくのです。香りの中にいれば、深い瞑想状態に入ることができるのですね。まあ、一種の麻薬作用のようなものなのでしょうね。そのように香りの中にいるだけで、悟りを得ることができるのです。これは便利ですよね。悟りをもたらす麻薬・・・というわけです。そんな麻薬ならば、合法となるでしょう。維摩居士は、ふむふむと肯きますな。で、次に衆香国の菩薩が尋ねます。
「あなたたちの仏陀はどのように教えを説くのか?」
維摩は答えますが、この答えがちょっとひねくれています。
「この国の人々は、教え導くのが大変なんです。頑固で疑い深く、ひねくれており欲が深い。おかげで世尊は、教え導くために激しい言葉を使わねばなりません。たとえば・・・」
維摩居士は、険しい顔つきなります。世尊のモノマネをするわけですね。
「たとえば、悪いことをすれば地獄へ行かねばならん、身体で悪いことをすればこのような地獄で、口で悪いことをすればこうした地獄だ、心で悪いことを思えばこのような報いがある、生き物を殺したり、人のものを盗んだり、性において乱れたり、嘘をついたり、悪口を言ったり、貪ったり、無闇に腹を立てたり、妄念にとりつかれたり、物惜しみをしたり、妬んだり、怨んだり、怠けたり、戒律を破ったり・・・・そうすれば報いがきて地獄へ落ちるのだ・・・・」
維摩居士、睨みを利かしますな。彼の国から来た菩薩たちはビビってしまいます。さらに、声音を落とし
「だから、なすべきをなさねばならぬし、なしてはならぬものは断固としてなしてはならぬ、これは行い、これはやめるべきで、これは罪であり、これは徳である・・・、これは出家者のためのものであり、これは俗世間のものだ、これは清らかであり、これは不浄である・・・、これは迷いであり、これは悟りだ・・・・」
維摩居士、一呼吸入れます。間をおいて、
「このように激しい言葉を使って人びとを教え導くのです。なぜなら、この世界の人々は荒馬のようであるからです。世尊は、手に負えない荒馬を調教するように、手に負えない人びとを激しい言葉でもって導くのです」
と言い放ちますな。これを聞いた彼の国菩薩はショックを受けます。
「なんとまあ、この国の世尊は・・・・そんなご苦労をされているのですか。自らの偉大さをう〜んと下げて、愚かな人々に合わせているのですね。なんと尊い・・・・さすがは世尊です。しかも、そのお手伝いをするこの国の菩薩たちの苦労も計り知れません。いやいや、さぞかし大変なのでしょうねぇ・・・・」
維摩居士、即答しますな。
「そうなんですよ。この国の菩薩たちは苦労が多いんです。その慈悲心たるや、堅固たるものです。失礼ながら、あなた方のような菩薩とは、出来が違います。この国菩薩は、その利益たるもの、素晴らしく大きなものでしょう。あなた方が何年かかっても追いつけるものではないでしょう。なぜなら、この国には、他の仏国土にはない10種の善行があるからです」
維摩居士、柄にもなく、菩薩自慢を始めます。
「この国の菩薩は、第一に貧しい人々に施しをして、教え導きます。第二に行いの悪い人々に対して戒律を守ることを示し、教え導きます。第三に腹を立てやすい人々に対して忍耐を示し、教え導きます。第四に怠惰な人々に対して努力を示し、教え導きます。第五に心乱れた人々に対して心静かなるを示し、教え導きます。第六に愚かで迷っている人々に対して正しい智慧を示し、教え導きます。第七に様々な不幸を背負ってきた人々に対して、その不幸な境遇から脱出する道を示します。第八に自分だけの悟りを願っている人に対し、自分も他人も一緒に悟る大乗の道を示します。第九に徳のない人々に対して善行を実践し、教え導きます。第十にいつも施しをし、愛情のこもった言葉で接し、相手の身になって人々の役に立とうとし、力を合わせて共に一つのことを成し遂げようと実践し、教え導くのです。この国菩薩は、このような十種の行を実践しているのです」
これを聞いて彼の国の菩薩は、びっくりしますな。そんなことまでしてるんですかぁ〜!、といった感じですね。それは同時に、この国がとんでもないほど劣った人々で埋め尽くされている、ということなのです。他の仏国土には、地球上の人間のような愚かな人間は一人もいない、ということなのですね。
つまり、そんな愚かな人々を導いているお釈迦様は、とてもつもなく立派な方、となるわけです。他の仏陀には到底まねできないほどの仏陀なのですよ。
まあ、別の言い方をすれば、如来・・・仏陀・・・の能力には差がありませんから、お釈迦様は「貧乏くじを引いた」わけですね。よその星に行っていれば、もっと簡単にその国の人々を悟りに導くことができたのに、よりによって宇宙最悪の星「地球」に来てしまったなんて・・・・・ということなのですよ。
私たち地球人は、宇宙一の「愚か者」なのです。地球が宇宙でも最も人間的に未熟な星なのです。そういうことを維摩居士は説いているのですよ。
宇宙一愚か者の星、地球・・・・。言われてみればそうかも知れませんね。その中でも、日本は最も劣っているかも・・・・。

さて、このようにとんでもなく劣っている人間を導く菩薩は、報われる時が来るのか、という疑問が、彼の国の菩薩にたちに沸きます。同じ菩薩として、同情しちゃったんですね。この星の菩薩は、それで救われるの?、ということです。なので、質問をします。
「そのように人々を導いている菩薩は、死後は間違いなく浄土に生まれ変われるのですか?」
維摩菩薩は答えます。
「もちろん生まれ変わりますよ。それには8つの実践行が必要です。
@あらゆる人々に利益をもたらしながらも、その報いを期待しないこと
Aあらゆる人々の苦しみを自ら代わって背負い、そうして積まれた徳も人々に振り向けること
Bどんな人も決して憎まないこと
Cすべての菩薩を仏と同じように尊敬すること
Dいかなる法に対しても、少しの疑いも持たないこと
E他人を決して妬んだり羨んだりせず、自らの行いを自慢したり誇り思ったりしないこと
F自分の行いを常に反省し、他人の過ちを決して言いふらしたりはしないこと
G人々が努力することを喜び、少しでも手助けをしようとすること
この8つのことを実践するならば、菩薩は死後に浄土に間違いなく生まれ変わるでしょう」
彼の国から来た菩薩は、この話を聞いて、安心したのでした。

と、こう答えますが、これって変ですよね。今まで、求めてはいけないようなことを説いておいて、浄土に生まれ変わる・・・・なんて話がおかしいでしょう。しかも、その前に説いた10種の行よりも簡単になっています。話が矛盾だらけですよね。ここにきて、維摩経、ちょっと話がずれてきています。きっと詰め込み過ぎなのでしょうね、このお経は。
空を説いていたのですよ、初めはね。こだわることの愚かさ、執着ということの愚かさ、一切は空であり、その世界は言葉では表現できない世界である・・・・そう説いてきたはずでした。最高の悟りもない、迷いもない、すべては空に帰するのだ、と。だからこそ、菩薩はなにも求めずして、衆生を救うことに徹するべきだ、と説いてきたはずです。それが大乗仏教なのだと・・・・。
ところが、ここへきて「浄土に生まれ変わる」とは・・・・。あれれれ、話がおかしいよ、と気がつきますよね。菩薩は、浄土に生まれ変わることなど望んでもいないし、死後も菩薩としてこの世に留まるのが菩薩でしょう。浄土などという思想は、この場合ナンセンスです。
が、それでは誰も菩薩行をしなくなる・・・・そう思ったのでしょうねぇ。
「菩薩って苦しいばかりじゃん、それじゃあ菩薩行なんかやだ・・・・」
そう思われては大変!、と気がついたのでしょう。厳しいことばかり言っていても、高尚なことばかり言っていても、ダメだぞ・・・・と。これじゃあ、誰もついては来ないぞ・・・・と。
そこで、ご褒美を与えることにしたのでしょう。そのご褒美が、
「死後は必ず浄土に生まれ変われる」
です。ちょっと残念なご褒美ですね。死後にしかご褒美がないなんて・・・。というか、そうしたことを否定してきた維摩居士がなんで?、てなもんです。
ここにきて、民衆に媚を売っちゃったわけですね。折角の維摩居士の主張が、ちょっと横道にそれてしまいました。しかし、誰も突っ込みを入れることなく、話は流れていきます。
まあ、どんなに厳しいことを言っても、やはりご褒美がないと、人は修行に励むことができないのでしょうかねぇ。このお経が編纂された時代にしてそうなのですから、今の時代、正しい修行など、ほど遠いのかも知れません。そう思うと、やはり地球は宇宙一愚かな星だということが納得できてしまいますよね・・・・。

さて、いろいろな矛盾を抱えつつも、話は進んでいきます。維摩居士たちは、ついに移動し始めます。どこへ?、というと、それはお釈迦様のもとへ、なのです。
場面は、お釈迦様を交えて・・・と展開していきます。その話は次回に・・・・。


*維摩経(ゆいまきょう)の16

J菩薩行品(ぼさつぎょうぼん) その1
とんでもない方向に話が進んでしまった維摩経ですが、このあたりで軌道修正します。そのために、場面を変えます。維摩居士が文殊菩薩に
「みんなでお釈迦様を礼拝しに行こう」
と誘うのです。
このお経の初めのころを思い出してください(読み返してみてもいいです)。お釈迦様は、病気になった維摩居士の見舞いに行けと、弟子たちにいいましたが、誰もいけませんでした。そこで、文殊菩薩が出かけて行ったのですが、弟子たちも何人かついていきました。これまでにも舎利弗などが維摩居士らに説教されてましたよね。
しかし、文殊菩薩についていったのは、すべての弟子たちではありません。何人かの弟子や在家の人々は、お釈迦様のもとに残って法話を聞いていました。お釈迦様は、維摩居士が宇宙の星からやってきた菩薩たちと会話しているころ、果樹園にて教えを説いていたのです。そこへみんなで行こう、と維摩居士は提案したのです。
これに異論をはさむ者はいません。そこで維摩居士の部屋にいた全員がお釈迦様のもとへ移動します。その移動の仕方がまたまた大袈裟なのです。簡単に説明しましょう。
お釈迦様が教えを説いていた果樹園が、いきなり広くなってしまいます。人々は驚きますな。ふと上空を見ると、巨大な手がおりてきます。その手の中にはお釈迦様の弟子や数多くの菩薩、見知らぬ菩薩たちが乗っています。彼らはその手から下ります。その手の持ち主である維摩居士も空から降りて来て、お釈迦様の前に進みます・・・・。とまあ、大々的に登場するわけですね。維摩居士の神通力を見せつけるのですな。ここまでくると、ちょっと消化不良を起こしそうな感じがします。
ま、それはいいとしまして、お釈迦様の前に維摩居士の屋敷にいた全員がそろったわけです。お釈迦様は、早速、舎利弗に尋ねます。
「汝は偉大なる菩薩の自在なる神通力を見たか」
舎利弗は喜んで答えますな。
「見ましたとも!。それは言葉では表現できない、不思議な世界でした。とてつもない力を菩薩は発揮しました」
その時に居残り組であった阿難(アーナンダ。お釈迦様の弟子で従者)が尋ねます。
「先ほどから嗅いだことのない良い香りがしますが、これはどこから匂ってくるのでしょうか・・・・」
お釈迦様が教えてくれます。
「阿難よ、それはここにやってきた菩薩の毛穴から発しているのだ」
舎利弗が自慢げに口を挟みますな。
「阿難、私たちからも匂うのですよ」
「なぜ舎利弗尊者からも匂うのですか」
「維摩居士が衆香国という世界に使いをやり、その世界の仏が召し上がった食事の残りを我々がいただいたのですよ。その食事を食べたものはみんなよい香りがするのですよ」
阿難は、維摩居士の方を見て尋ねます。
「この香りはいつまで続くのですか」
「食べたものが消化されず、お腹の中にあるうちは匂うでしょう」
「何日くらいかかって消化されるのですか」
「7週間ほどで・・・。その後は、顔色がとてもよくなるでしょう。そんなに長くお腹の中にあっても、身体に悪いことはありません」
維摩居士は、そこまでいうと身を乗り出しますな。そして「実はね・・・・」と話を始めます。
「実はね、人によって消化される期間は異なるのですよ。たとえば・・・・。まだ世尊の教えに従って清らかな世界に入っていない人は、清らかな世界に入ったときに消化されます。清らかな世界に入っている人は、清らかな世界とか清らかでない世界とかいう分別を超えたときに消化されます。最高の悟りを求める決意のできていない人は、最高の悟りを求めて努力する決意ができたときに消化されます。最高の教えを求める決意ができている人は、真理に気付いたときに消化されます。真理に気付いている人は、つぎの世で仏になるという位についたときに消化されます。それは、良質の毒消し薬が毒のある間は効果が持続し、毒が完全に消えたときに薬も消えるというように、衆香国の食べ物を食べた人は、その人の煩悩がなくならない限り消化されないのですよ」
阿難を始め、舎利弗たちも驚きますな。改めて自分の身体を見つめます。匂いを嗅いだりもします。阿難は
「素晴らしい食事ですね。それはまるで仏のような働きをするのですね」
と驚きの声をあげます。お釈迦様は、それを受け、話を始めます。
「阿難よ、この大宇宙には無数の仏国土がある。それぞれの仏国土では、さまざまな人やものが仏の役割を果たすのだ。ある国では、菩薩が仏の役割を果たす。ある国では光明が仏の働きをする。ある国では菩提樹が仏の働きをする。ある国では衣服が仏の働きをする。ある国では川や林が仏の働きをする。ある国では仏の化身が仏の働きをする。ある国では虚空が仏の働きをする。ある国では天空が仏の働きをする。そしてある国では食事が仏の働きをするのだ。
阿難よ、夢や影、水に映った月、こだまや幻、陽炎などが仏に代わって無常を説くこともある。文字や言葉が仏の働きをすることもある。逆に何も説かないことによって仏の働きをすることもある。日常生活で使われる品々で、人々を導くという仏の働きをしないものはないのだ。人々を苦しめている悪魔や煩悩ですら、仏の働きをするのだ」
この教えは、他の大乗仏典にも取り入れられます。宇宙の現象、物質、森羅万象、すべてが教えを説いている・・・・という教えですね。これを一言で言うと、「諸法実相」といいます。諸法は一切の現象のこと。実相は、真理のまま、という意味ですね。すなわち、一切の現象は、真理を説いている、という意味です。それは、たとえ魔物であっても・・・なのです。

魔物や煩悩ですら、仏と同じ働きをする・・・・ということは納得いかないかも知れません。ですので、少々解説をしましょう。
あなたを悩まし、苦しめる煩悩や魔物・・・病魔でも悪魔のような人でもいいし、本物の魔物でも構いませんが・・・・は、忌み嫌われるものです。厄介な存在であり、とても仏様のような存在とは思えませんよね。しかし、煩悩がなければ悟りもないのです。悩み苦しむことがなければ、悩みのない世界など必要はないのですよ。ですから、悩みのない人は、真理には気付かない場合が多いのです。悩むからこそ、悟りの世界があると知ることができるのですね。つまり、苦がなければ楽もない、ということです。人生楽ばかり、苦なんて感じたことがない、いつも楽しい、という人は、本当の楽を知らない人でしょう。安定した、不安のない世界の有り難さを知らない人でしょう。病気になったことがない人は、健康のありがたさを真実の意味で知らないのです。また、病気の人のつらさも知らないでしょう。まさに、病魔は教え諭しているのですね。健康のありがたさ、生きる喜び、命の尊さを教えているのです。
煩悩は悩みを与え、悩みは救いを教えてくれるのです。すなわち、煩悩は真理に導くのです。これはまさに仏の働きと言えるでしょう。魔物は、魔物からの解放を人々に与えるでしょう。魔物がなくては、魔物からの解放はないですからね。解放されたときの喜びはいかなるものでしょうか。それはすなわち、魔物は仏の働きをし、真理へと導いている、と言えるのではないでしょうか。
菩薩を苦しめる者がいれば、それは菩薩なのです。人を悩ます人がいれば、それは実は仏の働きをした導き手なのですよ。そう思えば、嫌な上司も嫌な隣人も、うっとしい人々も、自分を悩みのない世界へ導いている菩薩たちなのかも・・・と思えるでしょう。
ただし、「あ〜、嫌なヤツばかりだ〜」と嘆いているだけではいけません。その状況を何とか打開したい、と願わねばね。
「この悩みはどうやったら解決できるだろうか」
と考えねばいけません。「もうどうでもいいや」とあきらめてはいけないのです。それは真理に到達したのではないからです。もっとも忌み嫌わねばいけないのは、「あきらめ」なのですよ。あきらめてしまったら、魔物や煩悩も仏の働きはできないし、仏ですら仏の働きができなくなります。私たち人間は、「あきらめてはいけない」のが仕事なのですね。

さて、お釈迦様の話はまだ続きます。
「阿難よ、この大宇宙には無数の諸仏の働きをする無数のもので満ち溢れている。それをよく理解している菩薩たちは、どんなに美しく飾られた清らかで徳のある仏の国を見てもそれを誇ったりはしない。また逆に、どんなに汚れたみすぼらしい仏の国を見てもそれを嫌ったり意気消沈したりすることもないのだ。なぜなら、あらゆる仏の徳は平等であっても、その国の衆生の性格や程度が異なるため、仏は衆生の程度に応じた様々な世界を作り出していることを知っているからだ。
阿難よ、様々な仏の国土はそれぞれ異なった世界のように見えるが、仏の国土を覆っている天空や空間には区別はない。それと同じように、あらゆる仏も様々な姿で現れるように見えても仏の智慧は区別がないのだ」
これは、たとえば阿弥陀如来の極楽浄土が素晴らしい世界で、宝石で輝いているのに対し、お釈迦様の娑婆浄土(地球ですな)が汚れている違いのことを説明しているのですね。仏国土の汚れや清らかさというのは、そこに住まう衆生の程度に合わせて決まる、というわけです。ということは、この地球は、地球に住まう人間の程度が低いので、こんなにも汚れている、ということになります。
まさにその通りですね。たとえば、この地球。人がいなければどうでしょうか?。宇宙に青く輝く、美しい星なのではないでしょうか?。森があり、海があり、川があり、山があり・・・・。自然が美しく生きている星なのではないでしょうか?。まさしくこの星を汚しているのは人間なのです。地球の場合、この星に住まう人々の程度が低いので、こんなにも汚れてしまっているのですよ。決して、お釈迦様が他の如来より劣っているわけではないのです。むしろ、こんな程度の低い人間を導こうというのですから、お釈迦様は如来のなかではダントツに慈悲深いのではないかと思うくらいです。
地球の人々は、極楽浄土の人々に比べて、程度が低いんですね。

お釈迦様は、衆香国の菩薩たちに向かって語りかけます。
「すべての仏は、その姿かたち、身の輝き、慈しみの心、哀れみの心、人々に利益する意志、行い、寿命の長さ、説法のしかた、人々を悟りに導くこと、仏の国を清めること、すべての仏の道を完成させていること、などについて変わりはないのだよ。それだからこそ、完成された人、悟った人、如来、仏陀と呼ばれるのだ」
こうした話がなぜ出てくるのかといいますと、当時、大乗仏教が盛んになった頃、他の仏国土・・・他の如来がおわします浄土・・・は、お釈迦様の浄土である地球に比べて素晴らしいところだ、という思想が誕生しました。その代表が阿弥陀如来の極楽浄土ですね。こうした思想は、阿弥陀如来は優れていてお釈迦様は劣っている、という考えを生み出しました。これは、悟った者の教えではありません。なぜなら、悟りの中には、優れているとか劣っているとかの分別はないからです。仏教においては、どの教えが優れていて、どの教えが劣っているか、などという優劣の差はないのです。すべてが平等に仏の智慧を説いた教えなのです。ここを間違って解釈すると、本来の仏教の世界が見えてこなくなります。これは、後々、大乗仏教の各宗派が犯した過ちでもあるのです。各宗派は、
「うちの宗派の教えが一番だ」
と言いあうようになりました。これは、本来の仏教にはないことです。どの宗派が一番で、どの宗派が劣っているなどということは、「ない」のです。どれも平等なのですよ。
が、人は優劣をつけたがるのですね。で、そうした流れは結局は、教えの統合へとつながります。それが密教なのですね。密教は、すべての教えを含んでしまったのです。すべての宗派の教えが、密教には含まれているのです。元に戻ったわけですね。形は変わりましたが・・・。

さて、お釈迦様の話です。阿難に向かって語り始めます。
「阿難よ、汝が仏について説明しようとしても、それは語りつくせるものではない。ずべての衆生が汝と同じように、いつも仏の話を聞き、記憶したとしても、仏陀とか如来とか悟った人について完全に理解はできないのだ。仏の悟りとは、それほど深く、計り知ることができないものなのだ。また、菩薩の智慧の深さも計り知ることはできないのだ。阿難よ、修行僧よ、汝らは、自分と菩薩を比較してはならない。維摩居士が示したような不思議な神通力は、汝らが何万人かかって同じ様なことをしようとしても決してできないことなのだ」
これは、上座部の集団に対しての嫌味ですね。
大乗仏教を信奉する修行者は菩薩です。それに対し、上座部で修行する出家者は阿難や舎利弗のような自分たちの悟りのことだけを考えている小さな修行者です。だから、「比較にはならないんだよ、あんたらはね」ということなのですよ。上座部に対し、
「我々菩薩の集団と比較するなんて、無理無理。やってることが違うもん。君たちは自分の覚りだけでしょ。我々は人々を救うことを、導くことをしているんだからね。ぜんぜん比較にはならないよ」
と、まあ蔑んでいるのですな。維摩経には、こうした上座部への嫌味は随所に見られますね。

お釈迦様の話にひと段落がついたころ、衆香国の菩薩たちが
「そろそろ帰る時が来ました。できましたら、我々に教えを説いてください」
と願い出ます。彼らは、実は心の中で、お釈迦様の国である地球をバカにしていたんですね。汚れている、衆生の程度は低い、あぁこれでは如来も大変だな、こんなところの如来は苦労が多いしやだな、それにしても劣っているなここは・・・と思っていたようです。しかし、如来は平等であり、その智慧は計りしえないもの、と知って、自分たちを恥じるのです。そこで、お釈迦様に教えを願ったのです。「自分たちのために教えを説いてください」と。
お釈迦様は、快くこれに応じます。


*維摩経(ゆいまきょう)の17
前回の続きです。
J菩薩行品(ぼさつぎょうぼん) その2
衆香国の菩薩たちが、自分たちのために教えを説いてくれとお釈迦様に懇願しました。それに応じ、お釈迦様は法を説きます。
「菩薩よ、汝らは、この世界を捨てる去ることはなく、この世界を離れた境界に安住することもない、ということを学ぶべきである」
これはちょっとわけのわからない教えですよね。お釈迦様は、「この世捨て去ることはなく、この世を離れた世界に落ちつくな」と説いているのです。「この世を捨て去るな」ということが一つ、「この世を離れた世界に落ち着くな」が一つ、ですね。これは、「この世に留まりつつ、この世を離れた世界にあり、なおかつその世界に落ち着くな」という意味になります。こう解説しても、たぶんよくわからないと思います。同様に、衆香国の菩薩も意味がわかりません。なので、質問をします。
「この世を捨て去らない、ということはどういうことですか?」
お釈迦様は、具体的にこれに答えます。長いので番号を振ってまとめて書きます。
「@慈しみの心や哀れみの心を失わないことである。
A如来と同じ智慧を求め、同時に迷える人々を悟りに導く決意を持つことである。
B施しをし、優しい言葉で語りかけ、他者の身になって考え、他者を利することを実践し、真実の教えを守り通すことである。
C衆生のために善行をなし、その功徳を人々に振り向け、怠ることなく己を磨き、それを人々に示し説くことである。
D如来を讃嘆し礼拝することである。
Eこの世に生まれた因果を知り、人々に示し、教えることでる。
F幸福な時も不運な時も、うぬぼれたり卑屈になったりせず、無知な人を卑下することなく、博学な人を尊敬し、煩悩が燃えている人々を教え導き、静寂な生活を与えることである。
G自分のことは気にもとめず、他人の幸福を喜び、自分だけが満足する世界に行かないことである。
H欲のある者を友人とみなし、与えることを喜びとし、如来と同じ智慧を得せしめようと働くことである。
I戒律を破ったものに対し、その罪から救われるように導くことである。
J施しをすること、戒律を守ること、耐え忍ぶこと、怠りなく努力すること、心を平常に保つこと、正しい智慧を持つこと、悪事を働かず、身と口と心を清らかで正しく働かせることである。
K智慧の力で煩悩を打ち破り、すべての人々の苦しみを肩代わりし、悪魔の誘惑に打ち勝ち、おごり高ぶることなく正しく心を保ち、真理と伊宝を保つことにより何があっても満足することである。
L人々の才能や気質、理解力を見抜き、それぞれに応じた方法で教え導くことである。
M常に向上心を持ち、何ものにも執着しないことである。
N菩薩たちの力を結集し、一切の人々ともに悟りの世界に導こうとすることである。
これらの行いが、この世を捨て去ることのない菩薩の行いである」
と、まあ、長いのですが、要は、身を慎み、自らは悟りを求め、人々を導き教え、苦を抜き楽を与えよ、ということですね。そのようにこの世に生きることが菩薩なのです。しかし、こんなことができるのは、人間では無理ですね。ハードルが高すぎます。とてもじゃないですが、すべてをやりこなすことは不可能でしょう。まあ、これは衆香国の菩薩への言葉ですから、少々きつくなっても仕方がないことですね。我々一般人に対して向けられた言葉ではない、ということをお忘れなく。
つまり、これは、維摩経を編纂したグループの修行者から、他の大乗仏教グループへのメッセージだと思っていただければいいのです。「菩薩とはこういうものだよ、他のグループのみなさん」・・・・という意味が込められているのですよ。

さて、このように菩薩がこの世を捨て去らないという意味について教えてもらった衆香国の菩薩たちは、大いに納得して、つぎの教えである「この世界を離れた境界に安住することがない」という教えの意味について問います。それに対し、お釈迦様は具体的に説き明かします。また番号を振ってまとめて書きます。
「この世界を離れた境界に安住することがないとは、
@すべてのものには実体がないということを知っていながら、そうだからといって現実の中でその理論を振り回したり、現実の世界を混乱させたりしないことである。
A諸行無常だと知りながら、だからといって善行を積む努力を止めないことである。
B一切は苦であるということを知っていながら、だからといって苦から逃げ、身を隠してしまおうとしないことである。
C涅槃こそが理想の世界であることを知っていながら、だからといって決して涅槃に入ろうとしないことである。
D苦すらも空であることを知りながら、だからといって人びとの苦を拒否せず、進んで受け入れることである。
E心とは実体のないものであると知りながら、だからといって人々に冷たくなるのではなく、人々に対し大いなる慈悲心を持つことである。
Fすべてのものは空虚であると知りながら、徳を積むことを怠らないことである。
Gあらゆるものに絶対的価値はないと知りながら、智慧の価値を見失わないことである。
このような教えを信じて疑わない菩薩は、この世界を離れた境界に安住することはないのである」
これは、「空」の教えの矛盾点をフォローしている教えです。
「空」という教えを徹底すれば、一切は空なのだから何もしなくてもいい・・・というところに行きついてしまいます。一切は空なのだから、導く必要はない、教えを説くことすら過ちである、人々が抱える苦も空なのだから苦ではない、迷いや悩みも空なのだから答える必要も教え諭す必要もない、空なのだから善行も悪行もない、悟りも智慧も迷いも苦しみも、何もない・・・・だから修行もしなくていい・・・・。
という極論にまで達してしまいます。それでは、すべては失われてしまいます。空という教えは、表現がしにくいが故に、誤解を生じ、危険を含む教えになってしまうのです。極論を言えば、「空なのだから何をしても罪ならない」と言うところまで至る危険があるのです。
もちろん、これも矛盾しているのです。空の思想から外れています。「何をしても罪ならない」と考える時点で空ではないのですからね。空はそうした考えもない状態ですから。空は「なにかをする」、「何かしよう」、「何か考えよう」とした時点で空ではなくなるのですよ。あぁ〜、もうややこしい!。それが空です。
しかし、空を正しく理解していない修行者も多くいたのです。ですから、こうした空の危険性を封じるために、維摩経は、こうした教えを説いたのです。空だからと言って、衆生を捨てるような行為をしていけない、菩薩の行いをすることは、空には矛盾していない、と説きたいのです。空の思想は、大変難しいのです。実体がない教えですから、つかみどころがないのですよ。わかったと思ったら、逃げてしまうのです。空がわかったと思えば、すぐに矛盾点が出てくるのです。空とは、そう言う思想なのです。空は危険、ということまでわかって、空の理解の初めの一歩なのでしょう。
ま、いずれにせよ、お釈迦様が説いた教えは、空思想の矛盾点や危険性を排除するための教えなのですよ。

お釈迦様の教えを聞き、衆香国の菩薩たちは、菩薩のあり方をしっかり学んだのです。そして、菩薩として生きる決意をして、自分の国に帰っていったのです。

こうして、菩薩行品は終わるのですが、この章は、その題名の通り、菩薩の行いについて説いた章です。維摩経は、般若経典に分類されるお経です。つまり、空思想を説いたお経ということですね。空の思想の中に菩薩行を説くのは、難しいものがあります。空の教えでは、まずは自らが空を体感しなければなりません。空を自分のものとしなければなりません。
ところが、いわゆる大乗仏教の菩薩の教えは、「自分たちは悟っていなくても人びとを導くことはできる」という考え方を基本としています。それが菩薩の教え、大乗仏教なのですね。空や般若思想とは、ちょっとずれが生じます。そこを埋め合わせようとお釈迦様の教えから考え出されたのが、維摩経なのでしょう。空と菩薩の融合です。すなわち、
「空を知っていながらも空に安住することなく、この世に留まり人びとを導く」
なのです。しかも、
「空思想という難しい理論は振り回さない。まずは、人々の苦しみを取り除こう」
ということですね。
維摩経のこの章は、他の大乗仏教グループに対しての教え(あてつけ)でもあり、「我々空思想を中心としたグループもちゃんと菩薩行を矛盾なくしているぞ」というアピールでもあるのでしょう。なので、結構くどい内容になっているのだと思います。おそらくは、他の大乗仏教グループと実際に交流があり、そのことを「衆香国の菩薩」という形で表現したのでしょう。で、他の大乗仏教グループを教え導いたぞ、ということなのでしょう。仏教の発展の過程が垣間見える章でもあるわけです。

と、まあ、背景はそのようだったと思われますが、内容については、簡単です。空思想にこだわらず、菩薩として行動しなさい、ということですね。それは善行であり、悪行をしないことであり、人々の悩みや苦しみを取り除くことであり、人々を悟りへ導くことであるのです。そして、自らも如来の智慧を得ることを目指すのです。このことを仏教用語で
「上求菩提、下化衆生(じょうぐぼだい、げけしゅじょう)」
と言います。菩薩とは、ということを一言で表せば、この言葉になるのです。こうしたことが、ここでは説かれているのですよ。




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