ばっくなんばぁあ〜19

第 六 章

「大乗経典」

*維摩経(ゆいまきょう)の18

K見アシュク仏品(けんあしゅくぶつぼん)
初めにお断りしておきます。アシュク仏というのは、如来の名前なのですが、PC内に文字がありません。アは阿です。しかし、シュクがないのです。漢字で書くと、「もんがまえ」の中に「人が三つ重なっている」という字になります。重なり方は、上に一つ下に二つ重ねるのです。PC内に文字はあるのですが、変換できないんですよね。記号化すればいいのかもしれないのですが、やり方が分からないのですよ。なので、アシュク仏は、カタカナで通します。まあ、当て字ですからね、漢字表記は。

さて、内容に入りましょう。
衆香国の菩薩たちは、お釈迦様の教えを聞いて、自分たちの国へ帰って行きました。場が落ち着いたところで、お釈迦さまが維摩居士に尋ねます。
「維摩居士よ、汝は如来を見ようとするとき、どのように見るのか」
維摩居士は即座に答えますな。
「世尊よ、私は如来を見ようとするとき、見ないことによって見ます。如来は過去に生れたものでもなく、未来に生れるものでもなく、現在にあるものでもありません。如来は、真理そのものです。如来は、ものがあるままに存在する真実の在り方ですが、もの自体ではありません。如来は、感覚の真実の在り方ですが、感覚そのものではありません。如来は思考や意思、認識の真実の在り方ではありますが、思考や意思、認識そのものではありません。また、如来は地・水・火・風といった万物の構成要素の中にあるのではなく、虚空のようなものです。したがって、人間の感覚器官で感じられるものではありません。さらに・・・。如来は貪りや怒りや愚かさを超越しており、あらゆるものは空であり定まった存在ではないことを完全に知り尽くしています。また、過去や未来を見通し、煩悩を滅ぼす智慧を得ています。あぁ、ただし、得るとは得る得ないの対立を超えた意味での得るであって・・・・得ないことによって得ているとでもいいましょうか」
維摩居士の話は、空をベースにしていますから、言葉にはしにくいのです。なので、得るといっても、それは一般の得るではなく、「得るのではなく得るのである、得ないのではなく得ないのである」といった「得る」なのです。つまり、対立や反対の状態を超えた「得る」なのですね。あぁ、ややこしい・・・・。
ま、いずれにせよ、空ということを表現するのは難しいのですよ。なので、維摩居士のような、ひねくれた言い方になるのです。しかし、空を理解している者にとっては、そういう表現でも仕方がないな、とわかるのですね。
が、この場にいたお釈迦様の直弟子たちは、空がよくわかっていません。なので、みな一様に首をかしげてしまいます。
まあ、維摩居士も、どちらかというと、ちょっと意地悪なところがあるので(大いに意地悪ですが)、直弟子たちの困惑顔には知らん顔で話を続けますな。

「また、如来は何かの原因や条件によって作られたものではありません。一つの定まった形をもつものでもありません。かといって、姿形がないものでもありません。如来は、そこにいるとかあそこにあるとか指し示すことができるものでもありません。かといって、どこにもいないものでもありません。認識されるものでもなく、認識されないものでもありません。知識の中にあるものでもなく、ないものでもありません。暗闇でもなく、光りでもありません。
如来は、対立する概念では、どのようにしても捉えられないものです。対立する概念の中には存在せず、どちらでもないです。それは、真理でも虚偽でもなく、出るのでもなく入るのでもなく、行くこともなく行かないこともないものです。人びとに幸福をもたらすものでもなく、また幸福をもたらさないものでもありません。数や重さや長さで測ることができないものです。そうですね、つまりは、人間の観念で判断できないものですから、言葉で表すことはできないものです。
どこかに行くこともないですが、一か所にとどまっているものでもありません。かといってどこにもいないものでもありません。見ることも、聞くことも、感じることも、知ることもできない存在ですが、存在はしていて、何ものからも束縛はされてはいません。しかし、如来はすべてを知っており、あらゆる存在は平等で何の差別のないものだと理解しています。
如来とは、無限の過去から無限の未来を通じて存在しており、虚空のようにあらゆる空間に存在しており、不生不滅の真理そのものです。それは言葉では表現できないものです。世尊よ、今、私たちの前にある世尊の姿は、仮の姿であり、本当の世尊は、今まで私が述べたような存在であると思います。そのように如来を見る者は如来を正しく見ているのであり、そうでないものは如来を間違って見ていると確信しております」
維摩居士が言っていることは、一貫していますね。如来とは真理そのものであり、姿形が存在しているものではなく、あるようにあるものであり、人間が存在していようがいまいが、ただそこにあるもの、ということですね。如来とは、宇宙そのもののようなものなのです。ただ、お釈迦様のように、人間の肉体を使って、姿を現していることがあります。それは、真理へと導くための方便である、ということなのです。
したがって、お釈迦さまなどの如来の姿形にこだわってはいけないわけです。それはあくまでも仮の姿であって、真理ではないのです。真理は、お釈迦さまが説く内容にあるのですから。否、如来自体が、真理そのものなのです。

と、このようなことを維摩居士は、譬え話を用いて説いたのですが、お釈迦様の直弟子たちは、何が何のことやらさ〜っぱりわかりません。それよりも、
「この人は一体・・・・誰?。なぜこんなにも舌が回るの?。その知識はどうやって身につけたの?。いったい何者なの?」
という疑問で頭がいっぱいなんですな。話を聞いちゃいない。みなさん、口をあんぐりあけて、あっけにとられているんですな。で、舎利弗が皆を代表してお釈迦さまに尋ねます。
「あの〜、世尊、維摩居士は、いったいどこの仏国土からこの世界に生まれ変わってきたのですか?」
舎利弗、初めから維摩居士のことを他の仏国土からの生まれ変わりと決めつけていますな。そりゃそうでしょ。そうでなければ、これほどの智慧を身につけてはないでしょうから。お釈迦様の仏国土である娑婆世界の菩薩もたじたじなのですから、当然ながら、違う世界からやってきた、と考えるのが妥当なところです。そこまでは舎利弗も智慧が回りました。で、そのように質問したのですね。いよいよ、維摩居士の正体が明かされる時が来たのです。
しかし、お釈迦様は簡単には教えてはくれません。冷たく
「それは維摩居士に直接聞くがよい」
と言います。そこで、舎利弗、維摩居士に遠慮なく聞きますな。
「維摩居士よ、あなたはこの国に生まれ変わる前は、どこの仏国土にいたのでしょうか?」
すると維摩居士、ジロ〜っと舎利弗を見ますと、
「舎利弗尊者よ、あなたが悟った法には、生まれたり死んだりするということがあるのですか?」
と意地悪く答えますな。舎利弗は困ってしまいます。素直に聞いただけなのに・・・・てなもんでしょう。しかし、そこはお釈迦様の直弟子、意地もプライドもありますな。なので、
「いいえ、生滅するものは仮の姿であり、真実の相は生まれることも死することもありません」
と反論します。そんなことは知ってるわい!、といったところでしょう。これは維摩居士の思う壺なのですね。
「舎利弗尊者よ、それならば、なぜ私にこの国に生まれる前のことなど聞くのですか?。たとえば、手品師が自分が作り出した幻の人間に向かい、おまえはどこから生まれ変わってきたのかと尋ねても答えが返ってきますか?。借りに作られた姿でしょ?」
「そ、そんなことは知ってます。借りに作られた幻の人間には、生まれることも死することもありません。したがって、答えようがありません」
舎利弗、冷や汗たらたらですな。が、維摩居士は、そんなことでは許しません。
「世尊は、すべての存在は借りに作られた幻のようなもので、永遠不変の実体があるものなどない、と説かれていますよね」
「わ、わかっています」
「ならば、どこの国で死んで、どこの国に生まれたのか、などということを考えるのはおかしいではありませんか。いいですか?、死とは絶えること、生とは続くことですよね。菩薩は死において善根を断つことはありません。生において悪を続けることもありません。したがって、菩薩には生も死もないのです」
維摩居士、きっぱり言い放ちますな。意地悪です。まったくの意地悪です。素直に、「私の前世はね・・・・」って言えばいいのに、厭味ったらしいですよね。
でも、これでは話は進まないので、お釈迦さまが、まあまあまあ・・・と割って入りますな。
「舎利弗よ、維摩居士が言っていることは、すべて正しい。それはわかるね。しかし、現象世界しか見ることができない君たちのために、私が維摩居士がどこから来たのか教えてあげましょう。よく聞きなさい、維摩居士は、アシュク仏という如来が住む、東方の妙喜世界という国からやってきたのですよ」
お釈迦様の言葉に、一同びっくりしますな。
「妙喜世界?、アシュク仏?・・・・」
「それは優れた喜びの国・・・という理想の浄土のこと・・・・」
場がざわざわしますな。そこで、舎利弗が皆の知りたいことを察して・・・というか、自分も聞きたかったのですが・・・代表して質問をしますな。
「せ、世尊よ、そのようなすばらしい世界から、なぜに維摩居士はこのような汚れや罪の多いこの世界にやってきたのでしょうか。わざわざ・・・そんなことを・・・・驚きです」
まったく愚かな質問ですね。「お前みたいな愚か者がお釈迦様の弟子だ、って威張っているから、それを正してやろうと思って来たんだよ、だいたい、自分の住む世界を汚れたとか、よくいえるよな、何を修行してたの?」と維摩居士の心の声が聞こえてきそうなバカバカしい質問なのですが、まあ、仕方がないですね。話の展開上、この質問は避けては通れませんからね。
しかし、維摩居士もいつも意地悪ではありません。素直に答えてくれるのです。


舎利弗の「なぜ妙喜世界から、わざわざこの汚れた娑婆世界へ来たのですか?」
というバカげた質問に維摩居士は答えます。しかし、ストレートに答えたのでは舎利弗たちは理解しないでしょうから、維摩居士らしい答え方をします。問答形式ですね。維摩居士が舎利弗に問います。
「舎利弗尊者よ、太陽の光と暗闇は一緒に存在するか否や」
舎利弗は即座に答えますな。
「否、存在せず。太陽の光により暗闇は一瞬のうちに消えるがゆえに」
「何故、この国に太陽が昇るのか」
こうした質問が禅らしいところですね。普通の方なら「なぜ太陽が昇るのか?」と聞かれたとき、「天体の運行によるものだから」と答えるのではないでしょうか。まさか、「君がいるからだよ」などとクサイことを言う方はいないでしょう。しかし、禅問答の場合、どちらかというと臭いセリフのほうが正解だったりします。そこが問答の面白いところですね。まともな答えでは失格なのです。
さて、舎利弗はどう答え方と言うと、カッコイイ答えですが、まともなほうでした。
「太陽の光によって、この世界の闇を消すために」
いい答えですね。維摩居士も
「如何にも。同様に菩薩は智慧の光によって人々の煩悩という暗闇を消すためにこの世に生まれる。人々を清らかなものとせんが為、この穢土に出現するのだ」
と満足げに答えます。が、この答え、いつもの維摩居士ならば、「この地が汚れているとは何事ぞ!」と一喝するところなんですけどね。どうやら方向性が変わったようです。「まあ、そのあたりのことは、何度言っても理解できないし、もう何度も言ってるし、まあいいか・・・」となったのでしょうか?。ちょっと統一性がないところなのですが、ここではアシュク仏の妙喜世界の話を進めなければならないので、スルーしちゃったのでしょうね。

さて、維摩居士が妙喜世界からやってきた菩薩だと知った舎利弗たちは、あらためて維摩居士の偉大さを知ります。で、みな思うんですな。「あぁ、一度でもいいからアシュク仏にお会いしたい、妙喜世界を見てみたい・・・・」と。こういう俗っぽいところがあるから真の悟りに至らないんですね。真の悟りに至っていれば、思わなくともその世界に行くことができるんですけどね。ま、ここが声聞の悟りの浅さなのでしょう。
舎利弗たちの心の内はお釈迦様はすぐに気付きます。で、お釈迦様は維摩居士にいいますな。
「維摩居士よ、この者たちは皆妙喜世界に行き、アシュク仏を礼拝供養したいと望んでいる。案内してあげるがよい」
維摩居士は、快くうなずくと深い瞑想に入り、そして神通力により遥か彼方の妙喜世界を手で切り取り、右手に載せようとしたのです。まあ、とんでもない話なんですが・・・・。
驚いたの妙喜世界の菩薩たちでした。いきなり世界が切り取られ揺れ始めたからびっくり仰天です。思わずアシュク仏に
「だ、大地が揺れています。世界が切り取られます。私たちはどこかへ運ばれようとしています。どうなっているのでしょうか」
と尋ねますな。アシュク仏は平然と答えます。
「落ち着きなさい。これは娑婆世界に行っている維摩菩薩が、強力な神通力によってこの妙喜世界を娑婆世界の修行者に見せようとしているのだ」
まあ、なんとスケールの大きな話なんでしょうか。相変わらずですが・・・・。

維摩居士、手に載せた妙喜世界を地面に下ろします。すると、皆の目の前に妙喜世界が広がったのです。手のひらに載るほど小さかった世界が、通常の大きさにもどって、目の前に広がったのですね。いきなり別の映像が目の前に展開したと思ってください。これには一同、驚きますな。そりゃそうでしょう。目の前に別世界が広がったのですから。しかも、その世界は光り輝き、とても美しい世界なのですから。お釈迦様は言いますな。
「これが妙喜世界だ。このように美しく光り輝いている」
舎利弗たちは茫然としてますな。あまりの感動に身動きできません。しばらく見とれていると誰からともなく、一斉に礼拝し始めます。そして、「あぁ、この妙喜世界に生まれ変わりたい」と望むのですな。その願いを感じ取ったお釈迦様は
「生まれ変わりたいのならば、怠らず修行にはげむことだ。そうすれば、必ずや妙喜世界に生まれることができるであろう」
と宣言します。そこにいた修行者たちの顔が明るくなり、新たなる決意に満ちた顔つきになりますな。それを見て維摩居士は一つうなずくと、妙喜世界を元の通りに戻します。一瞬にして妙喜世界は目の前から消えます。

場が落ち着いたところを見計らって、お釈迦様が舎利弗に尋ねます。
「舎利弗、如何に思ったか」
妙喜世界を見てどう思ったか尋ねたのですね。
「願わくば、すべての人々が彼の如き清浄で美しい世界に生まれ変わらんことを。また、願わくば我らも維摩居士と同等の神通力が身につかんことを」
と答えます。そして、維摩居士に向かって感謝の言葉を述べるのです。
「今まさに維摩居士と会い、甚だ深い妙なる教えを受けることができました。ありがたし、ありがたし・・・。こののち、世尊がこの世にあらせられる時も、この世を去りし後も、この教えを耳にし目にする者は、大きな利益を得ることでしょう。さらにこの教えを深く信じ、読誦し、理解し、講読し、他の者に教え聞かせる者があれば、その者は限りない利益を得るでしょう。この教えを自分のものした者は真理の宝庫を手にするでしょう。この教えを常に唱える者は如来の伴侶となりうるでしょう。この教えを信じる者を敬う者は法の守護者であり真理の守護者でしょう。この教えを書写し、他の者に読み聞かせる者の家には如来が住まうことでしょう。この教えの中のほんの少しでも講義をする者があれば、それは大きな説法会を催したことと等しいでしょう。この教えを正しく理解し、実現することを願い求め、実践する者は、如来になることを予言されたことと等しいい功徳があるでしょう」
そうして、舎利弗はお釈迦さまと維摩居士を深々と礼拝したのです。

本来、維摩居士の教えは、「一切は空」です。空であるがゆえに、何事にもとらわれるな、そこに真理がある、というものです。ところが、この章の展開は、今まで説いたことと矛盾しています。妙喜世界にこだわり、その美しさに感動し、そこへ生まれ変わりたいと願う・・・・。いつもの維摩居士ならば、「そんなことを願うから進歩がないんだ」となるべきでしょう。
しかし、責めてばかりでは受けが悪いんですねぇ。維摩経も大乗の教えですから、あまり厳しいことばかり言っていてもはじまりません。空は理解しがたい教えです。一般の人々はついてこれないでしょう。なので、救いが必要なのですよ。維摩居士の教えとは矛盾しているようですが、それが「慈悲」というものなのです。理解力に乏しい者には「慈悲」が必要なのですね。なので、理解力の乏しい代表者の舎利弗に語らせているわけです。
如来の慈悲により、空を理解しなくてもいい、理解できなくてもいい、ただ維摩居士の説いた教えをそのまま口にするだけでいい、書き写すだけでもいい、こういう教えがあるんだってと伝えるだけでもいい、意味は分からなくても何度でも読めばいい、理解できたらもっといい・・・・、そういうことをしたならば、素晴らしい世界に生まれ変わることができますよ、と結んでいます。それは、大乗仏教の方便である「慈悲心」なのですよ。これがあるから、人々はたとえ無智であっても救われるのです。
ここでは、そのことを説きたかったのですね。ですから、矛盾を知りつつも、あえてこだわりや願いを全面に押し出したのでしょう。すべては、救いのための慈悲なのです。


L法供養品(ほうくようぼん) 
維摩居士の話を聞いて感動したのは舎利弗たちだけではありませんでした。その場にいて話を聞いていた神々も感動したのです。で、その代表として神々の王である帝釈天がお釈迦様に自らの感動を語りだすところから、この品は始まります。
帝釈天はお釈迦さまに言いました。
「世尊よ、我々はこれまで世尊や文殊菩薩から多くの教えを聞いてきました。しかし、維摩居士の説かれた教えは、それまで聞いてきた教えよりもさらに深淵なる真理を説いております。このような教えはいまだかつて聞いたことがありません。
この教えを心に受け止めた者、読誦する者、多くに人々に伝える者は、あらゆる疑問が消え真理と一体となるでしょう。さらに、この教えを実践する者は、決して地獄などのような境遇には陥らず、幸運なる生活を送ることでしょう」
と、まあ、お経にはよくあるパターンなのですが、自画自賛しているわけです。他のお経よりも優れているぞ、ほかのお経には説かれてないぞ、ということですね。他のお経との差別化をはかっているわけです。
こうした自画自賛の内容は、多くの大乗経典に説かれています。お約束・・・のような内容ですね。で、お決まりの受け答えとなるのです。そう、お釈迦様が
「その通りである」
と答えるのです。さらに、
「この教えを保つ者はあらゆる如来や菩薩に見守られ、やがては最上の悟りに至るのだ」
と。
こうした流れは、決まり事であって
「しらじらしい」、「うそくさい」
というものではありません。大乗経典が編纂されたとき、こうしたパターンが出来上がったのです。当時は、こうした書き方が主流だったのです。なので、うんざりするような自画自賛が説かれているのですが、我慢して読んでください。そこには、ちゃんと重要な教えも説かれているのですから。

帝釈天は続けます。
「世尊よ、もしこの教えを説く者があれば、私は私の一族をあげてその人を敬い、その人にお仕えします。たとえいかなる場所でこの教えが説かれていようとも、私は一族を率いて、その場所に馳せ参じます。また、この教えを信じていない者には信じる気持ちをお起こさせ、信じている人々を守ることを誓います」
お釈迦様は帝釈天の決意を褒めますな。
「帝釈天よ、それは素晴らしいことだ」
と。さらに、この教えの功徳を説き明かし、帝釈天に問いかけます。
「帝釈天よ、この教えの中には過去・現在・未来のあらゆる如来たちの悟りの内容が説かれているのだよ。したがって、この教えを保持し、書写し、他の人々に聞かせる者は、過去・現在・未来の如来を讃え、供養したことと同じ功徳があるのだ。
帝釈天よ、汝に問う。たとえばある人がこの大宇宙に存在する無数の仏国土の如来たちを敬い、一劫もの長い間あらゆる供養をささげ続けたとしよう。さらに、それらの如来たちがそれぞれの世界を去った後、その人が立派な塔を建て如来の遺骨を祀り、一劫もの長い間、宝石や花々や香などをささげて礼拝したとしよう。さて、帝釈天よ、この人の功徳はどのくらいの功徳があるか」
帝釈天はスケールの大きさにびっくりしますな。一劫とは宇宙の出来上がった年数ですから、約50億年ほどと思ってください。それくらい長い間、存在するすべての如来に対しあらゆる供養をするのです。さらにもう50億年、それらの如来の遺骨を納めた塔を造り、礼拝し供養するのです。その功徳は・・・・計り知れないもの、といえましょう。言わなくても答えは知れています。
「その功徳はたとえようもないくらい、語りつくせないくらいの功徳です」
帝釈天、驚きつつも答えます。正解ですね。お釈迦さまもうなずきますな。
「帝釈天よ、聞くが良い。もしこの維摩居士が説いた教えを信じ、理解した者があれば、その者の受ける功徳は、今汝に問うた者の功徳よりもはるかに大きいのだ。なぜなら、この教えにはあらゆる如来の悟りが含まれているからなのだ。
さらに、如来への供養とは無上の法をもって供養することが最高であるからだ。巨万の財物を長きにわたって供養するよりも、最上の法をもって供養することのほうが優れているのだよ」
ここが重要なことです。「最もすぐれた供養は、最上の法をもって供養すること」、これがこの品の最大のテーマです。

供養と言うと、古くは接待が中心でした。出家者への食事の接待が供養となるのです。そこから、布を施したり、灯明や医薬品、香、花を施したりすることが供養になるとされてきました。で、供養をすれば、多くの功徳が得られると説かれてきました。ですから、大金持は、競って多くの物品を布施したのです(それが僧侶を堕落させたのですが・・・・)。
他のお経にも、金銀などの宝石類や医薬品、布、灯明、香、花などを施すと大きな功徳が得られる、と説かれています。また、お経を写したり(写経ですね)、読んだり、他の人に解説したりすることも大きな功徳になると説いています。しかし、そうした供養の中で、最も優れていることは、「最上の教えを人びとに説くことである」とお釈迦様は言うのです。これが他のお経と維摩経との違いでもあります。

お釈迦様がいうところの、最上の教えを説くことが最も優れた供養となる、ということはどういうことかわかりますか?。
如来への供養は、金銀などの宝石類や医薬品、布、灯明、香、花などを施すことではなく・・・・それも供養にはなるけれども・・・・如来の教えをしっかり理解し、実践し、その内容を自分の言葉で説き明かすこと、それが最上である、ということなのです。これはm、お経を読むことやお経の内容を他の人に教えること、とは少し違います。お経の内容を解説するとは、自分の言葉で悟りの内容を語っているのではなく、あくまでもそのお経に説かれていることを解説しているだけなのです。
そうではなく、悟りを得て、その悟りの内容を自分自身の言葉で説くこと、そのことをお釈迦様は言っているのですね。つまり、「汝、悟りを得て、その悟りの内容を汝の言葉で説け」ということなのです。
それは確かに最上でしょう。自分自身が悟った内容を自分の言葉で説くのですからね。他の人が説いた教えの受け売りではないですからね。
が、そんなことは一般の人には無理です。出家者でも難しいことでしょう。お経の解説がせいぜいのところですよね。しかし、維摩居士はそれができているのですな。ここでは、それを説いているのですよ。維摩居士は、法でもって如来を供養しているのだ、それは最上の供養なのだ、とね。
これは、他の大乗仏教のグループへの批判とも解釈できましょう。おそらくは、多くの財物を集めている・・・・施しをすれば功徳が積めるといって・・・・グループがあったのでしょう。そうしたグループへの批判ですね。が、この批判は正論ですが、実践は不可能なのです。なぜなら、そう簡単には悟りは得られないからです。

さて、維摩経の内容に戻ります。お釈迦様は、法を持って供養することが最高の供養である、ということを説明するために、遥か昔の前世物語をします。
「数えることができないくらい昔のこと、大荘厳という国で薬王如来という如来が教えを説いていた。その大荘厳国の都は、宝蓋(ほうがい)という国王が治めていた。宝蓋王は善政をし、人々は幸福であった。宝蓋王は薬王如来を深く敬っていた。長い間、薬王如来とその弟子たちに食事や布、医薬品などを多く施していた。ある日のこと、年老いた宝蓋王は千人の子供・・・王子・・・を呼び、『わしは年老いた。今後は汝らが薬王如来を供養しなさい』と言った。その言葉通り、王子たちは薬王如来に多くの供養を施すようになった。その王子の中に月蓋(げつがい)という名の王子がいた。月蓋は『こうした供養の品のほかにもっとふさわしい供養があるのではないか』と考えていた。すると、その心を知った神が、月蓋に教えたのだ。『如来を供養すのには、法を供養するのが最高なのだ』と。しかし、月蓋はその意味がよくわからなかった。なので彼は神に意味を尋ねたのだが、神は『直接、薬王如来に聞くがよい』と言って去って行ってしまった。そこで、月蓋王子は薬王如来に『法を供養するとは如何なることですか』と尋ねたのだった。薬王如来は『それは、如来によって説かれた教えを信じ、正しく理解し、正しく解釈し、しっかりと心に刻みつけることである。その教えは、菩薩の道を説き、悟りに向かってひるむことなく進むことを説き、六波羅蜜を説き、執着しないことを説き、悟りに至る複数の道を説き、人々のために慈しみの心を起こすことを説き、人々に憐みの心を起こすことを説き、すべての存在はお互いに影響しあい、関係し合って初めて存在できることを説き、自我がないことを説き、一切の存在は空であることを説いているのだ。王子よ、このような教えを正しく理解し、人々にも説いて聞かせることが、法を供養することなのだ』・・・・・」

一度、ここで切ります。この後も、教えの素晴らしさを延々と説いていきます。いつものパターンですね。ともかく、如来の真理を説いた教えを正しく理解し、それを自分のものにして、人々に説き明かしなさい、ということです。なので、内容を省略させていただきます。では続きを・・・。

「月蓋王子は、薬王如来の教えを聞き、如来がこの世を去られた後も正しい教えが続くように、人々に薬王如来が説かれた教えを説き続けます、と誓った。そして、月蓋王子はやがて出家し、悟りを得て、薬王如来の教えが長きにわたって続くように教えを説いたのだ。これが法を供養することなのだ」
お釈迦様は、帝釈天に法を供養する意味をこのように教えたのだった。そして、
「帝釈天よ、この月蓋王子とは、今の私なのだよ。私は薬王如来に法の供養をしたことにより、この世で如来となったのだ。このように、供養の中では法を供養することが最も優れているのだよ」
と説き明かしたのだった。帝釈天をはじめ、その場にいた多くの弟子たちや人々は、驚くとともに、法の供養の功徳の偉大さを理解したのだった。

という内容が、この法供養品です。ここでは、「法の供養」が最も大事な教えになっていますね。
さて、そうはいっても、これは難しいことです。仏教を学び、正しく理解し、それを自分の言葉で多くの人々に説き、多くの人々の迷いを解き、悩みなき世界へ導く・・・・な〜んてことは、ほとんどの人には無理でしょう。いくら、それが最上の供養とはいえ、簡単にはできません。なので、この品に説かれている内容は、大乗仏教の主流にはなりませんでした。難しすぎるんですね。主流は、はやり財物の布施、になるのです。そのほうが簡単だからです。
しかし、真実はどうかと言うと、財物の功徳よりも、やはり法の供養のほうが勝ってはいるでしょう。財物の施しよりも、仏教を正しく理解し、自らもある程度の悟りの領域に達し、自分の言葉で多くの人々に教えを説き明かすほうが、功徳は大きいと思います。
そうなんですが、真実はそうですが、まず正しく仏教を理解することが難しい。さらに、ある程度の悟りの領域に達することが難しい。そうした領域に達しても、自分の言葉で正しく教えられるかと言うと、それも難しいですよね。
なので、安易な道を選ぶのです。そう、財物の施しですね。
でも、それでいいと思います。なにもいきなり仏教を正しく理解しろ、といっても、それは無理でしょう。宗派が多く存在する日本では、偏った教えを学ぶことにもなりますしね。
また、お経に説かれていることすべてが真実かというとそうでもなく、他の大乗仏教グループを意識して書いていたり、お決まりのパターンで説いていたり、大袈裟な表現やあり得ない内容の比喩が説かれていたりしますから、どこからどこまでが比喩で、どこがハッタリで、どの部分が他のグループを意識して説いていて、どの部分に真実が隠されているかなどを理解しなければなりません。お経自体を客観的に読まなければならないのです。そうなれば、仏教への批判に偏る可能性もあります。バランスが非常に取りにくいですね。仏教は信じているが、お経はすべて真実を説いているのではない、他のお経を意識して書いている部分もあるのだ、という立場を保たねばなりません。それは、なかなかに難しいことなのです。
なので、いいのですよ。法を供養しなくても。財物の供養でね。それでいいのです。それすらできないこともあるのですから。
ただ、維摩経では、エスカレートする財物の施しへ警笛を鳴らしているのでしょう。そうした見方をしたいですね。


M嘱累品(しょくるいぼん)
今回で維摩経のお話も終わりです。長かったですね。当初は、もっと簡単に話を進めるつもりでしたが、結構詳しい話になってしまいました。さっそく、最後の章のお話にいきましょう。

嘱累品という章の名前からも想像がつくと思いますが、これは「委嘱」について説かれた内容です。委嘱・・・すなわち託すわけですが、誰から誰に何を託すのかと言いますと、お釈迦さまから弥勒菩薩へ教えの継承を託す、という内容になっています。
皆さん、よくご存じだと思いますが、お釈迦様の次の如来は弥勒菩薩です。弥勒菩薩が、56億7千万年後に現れて如来となり、教えを説くのですね。これは、仏教では決定していることです。
維摩経も、その決定事項に従っています。ですので、お釈迦さまから弥勒菩薩へと、教えの継承が行なわれるわけです。このパターンは、維摩経が編纂された当時は、よくある形です。まあ、お約束の最終章、というわけですね。では、その内容に入りましょう。

お釈迦様の弟子たち、数多くの菩薩、天界の神々は、前章において、「法の供養」を実践することを誓いました。そうした様子を見て、お釈迦様は、傍らに座って話を聞いていた弥勒菩薩に告げます。
「弥勒よ、無量の時をかけ完成したこの教えを汝に託そう。汝は、56億7千万年後に弥勒如来という仏陀となる。そのとき、汝はこの優れた教えを一切の生きとし生ける者に説くのです。もし、未来において一切の衆生がこの教えを聞くことができなければ、衆生が悟りに入ることは困難となろう。未来の世でこの教えを聞いた者は心から歓喜し、深く信じ、この教えを敬うであろう。そのために、汝にこの教えを託すのだ。その時が来たら、汝がこの教えを広めることを期待していよう」
弥勒菩薩は、静かに聞いています。心に深くお釈迦様の言葉を刻みこむように。
お釈迦様は、一呼吸入れてさらに続けます。
「弥勒よ、菩薩には2種の菩薩がある。一つには言葉や文字を頼りにする菩薩、もう一つはどんなに難しい言葉や文字で説かれた経典に出会っても決してひるむことなく、またそれに縛られることもなく、あるがままの真実を悟る菩薩、である。前者はまだ菩薩の道に入って浅いものであり、十分な菩薩の修行を積んでいないものだ。こうした菩薩は言葉や文字があらわしている本当の意味に気付かない。それには二つの理由がある。
一つは、修行の浅い菩薩があまりにも深い教えを説いた経典に出会ったとき、それが理解できないために恐れを抱き、疑いの心を起こしてしまうことによるのだ。かの菩薩は『私たちはこのような教えを聞いたことがない。これは本当に仏陀の説かれた教えなのか』という疑いの心を持ち、教えを非難し、その結果尊い教えから離れてしまうのだ。
もう一つの理由は、修行の浅い菩薩が、深い教えを信じ、その教えを人々に説いている者に出会っても、自分自身がその教えを理解できないことによる。そのため、教えを説く人を疑い、親しくなることを拒絶し、敬わず、悪口を言うであろう。
この二つの理由により、まだ学び始めたばかりの菩薩は、自分で自分を苦しめ、深い教えを理解することはできないのだ。
弥勒よ、そればかりではない。深い教えを信じることができる菩薩でさえも、真実の悟りに入ることが困難なことがある。
なぜならば、学び始めたばかりの菩薩を軽蔑し、遠ざけてしまい、導こうとしないからだ。また、深い教えは信じていても、信じる度合いが深くないために、さらに学ぼうという気持ちが起こらず、他の人々に利益を与えるといっても形ばかりとなり、本当の教えの施しができないからだ。
弥勒よ、こうした理由により、深い教えを信じている菩薩であっても、真実の悟りに入ることは難しいことがあるのだ」
弥勒菩薩は、お釈迦様の言葉を深く心に刻んだ。そして、
「世尊よ、今後、私はこのような過ちを決して起こしません。今日、維摩居士によって説かれ、世尊から私に託されたこの教えをいつまでも正しく守り、伝え続けます。未来において、この教えを理解できる者のためには、必ずやこの教えを記した経典がその人の手に渡るようにしましょう。その人がこの教えを受け、書写し、常に他の人々に説くようにしましょう。そのために私は、この教えを保持する者を守り、勇気づけましょう」
弥勒菩薩の決意を聞き、お釈迦様は深くうなずいたのです。

こうした内容は、他の経典にも見られます。つまり、迫害除けなのです。
「この教えは深淵で理解することが難しい。もし、この教えを排除する者がいたら、それはこの教えを理解できないからだ」
と説いておけば、この内容が理解できないものは劣っている者、となってしまいます。また
「この教えをお釈迦様の教えでないと疑う者は、理解力の乏しいものだ」
と記しておけば、誰もこの教えがお釈迦様の教えでない、とは言わないでしょう。そこを狙っているのです。前もって、この教えを信じる者たちが迫害されること、排除されることを防止しているのですね。
たとえば、法華経には
「この教えを信じる者は迫害を受け、困難な目に遭うであろう。しかし、それはこの教えに選ばれたものだからこそなのだ」
というように説かれています。初めから法華経を信じる者は迫害を受ける、と宣言しておくのです。しかし、それは真の法華経信者であり、法華経に選ばれし者だ、と記しておけば、迫害を受けることが喜びに変るのです。こうした保険をかけておくことは、仏教経典だけでなく、あらゆる宗教経典には説かれることです。つまりそれは、新しい教えの解釈や新しい教えを説くグループが現れれば、必ず迫害を受けた、という事実があったからでしょう。

維摩居士の説いた教えは、それまでの出家至上主義者たちの仏教とは大きく異なるものです。出家者たちの修行を完全否定しています。それでは悟れないのだ、とね。そういう過激なことを説けば、必ず迫害に遭うことは間違いないのです。そこで、この教えが理解できないもの、この教えをは排除する者は、劣っている、と説いたのです。そうすれば、実際に排除する者がら割れた時、
「君たちは劣っている者なのだな」
という態度ができるわけです。さらに、人々にもそのように説くことができるのです。そうなれば、うかつに排除行為や批判はできませんよね。
法華経の場合は、迫害されることを喜びとせよ、と説きました。迫害されることによって、真の法華経に選ばれし者、を名乗れるのです。ですから、あえて迫害されるような行為にでます。強引な手法で世間に教えを広めようとするのです。で、迫害される、真の法華経信者と認められる、自信を持つ、益々強引に行く、迫害される・・・・という繰り返しをして信者を増やすわけですね。
維摩経も法華経も、うまく考えたものです。もちろん、他の経典や、他の宗教も同様のことをしています。これは、宗教界の常套手段なのですよ。

が、密教系の経典はあまりそのような内容がありません。初めから迫害を受けることなど想定していないようです。実際、弘法大師も迫害を受けることはありませんでした。なぜか・・・。それは、密教の性質によります。密教は、すべてを包括するという立場です。迫害する者も是、としています。排除してもいいんじゃない、という立場なのです。そうした行為を意に介さないのが密教です。ですから、密教は仏教の最終形態である、となるのですね。余談でしたが・・・・。

さて、維摩経も他の経典と同様に、保険をかけておくのですね。迫害除けのオマジナイです。こうして、この経典は大団円に向かいます。
弥勒菩薩の言葉を聞いたお釈迦様は、
「弥勒よ、汝がいま言ったことを必ず実行するがよい。私は心からそれを願う」
と強く言います。そのとき、このやり取りを聞いていた他の菩薩が一斉に立ち上がり、
「我々も約束します。この深い教えが守られ、いつまでも説き続けられるよう、努めます。未来においても、この教えが信じられ、広まるように・・・・」
と口々に叫ぶのですね。菩薩だけではありません。天界の神々も、
「世尊よ、私たちもこの教えのために修行します。どんな場所であれ、この教えが説かれることがあればすぐに飛んで行き、この教えを説く人々、聞く人々を守りましょう」
と力強く言います。お釈迦様は満足そうに微笑み、出家修行者の中のアーナンダを見て言います。アーナンダはお釈迦様の従者で、お釈迦様の教えをたくさん聞き、それを記憶していた弟子です。ですので、
「アーナンダよ、お前もこの教えをよく記憶し、多くの人々に伝えるのだ」
というのです。アーナンダは
「はい、承知いたしました。私はこの教えを完全に記憶しました。世尊よ、一つ教えてください。この教えを人々に伝える場合、この教えを記した経典の題名は何とすればよろしいでしょうか」
と、お釈迦さまに尋ねます。記憶係のアーナンダらしいですね。お釈迦様は待ってましたとばかりに
「アーナンダよ、この教えは『維摩詁諸説(ゆいまきつしょせつ)』、あるいは『不可思議解脱法門』と呼ぶべきである」
と即座に答えます。この教えの経典名ですね。お釈迦様の宣言を聞き、その場に居合わせたすべての菩薩、天界の神々、出家者、人々は、歓喜の声をあげ、大きな喜びを感じたのです・・・・。

以上で、維摩経は終わりです。最後は、クサイ劇のようでしょ。今ならば、絶対「三文芝居」と言われるでしょう。しかし、当時は、こうした終わり方が当たり前だったのです。これがパターンだったのです。
教えの価値観を高めるため、多くの菩薩を登場させたり、遠くの如来を登場させたり、出家者を卑下してみたり・・・・。これは、大乗仏教が起こり始めた時の現状そのものだったのです。
それまでの出家至上主義のグループは大乗仏教グループを批判し、大乗仏教グループは自分たちの教えの権威付けのために経典をつくり、その内容で対抗した、また実践行において人々のために尽くしたのです。それがそのまま経典に説かれているのです。維摩経とは、ちょうど出家者グループと大乗仏教グループが、対抗していた当時の様子を顕著に表しているお経なのです。

お経は、その教えも大事なのですが、このように時代の背景がよくわかるお経もあります。また、書いてある内容をそのまま鵜呑みにしないで、時代背景やなぜこのような説き方をしたのか、ということを考えて読むことが大事ですね。そのための題材として、維摩経は、うってつけではありますね。
もちろん、維摩経に説かれている「空」の思想は、大変重要な教えです。この教えがもととなり「禅」の思想が発展していくのです。ですので、維摩経は、そういう意味でも重要な経典と言えるでしょう。


*維摩経(ゆいまきょう)のまとめ

今回から、新しい内容に入ろうと思っていたのですが、
「維摩経って、結局何を説いているのでしょうか?」
という疑問をお持ちの方が結構いらっしゃるようでしたので、今回は予定を変更して、維摩経で説きたかったことを書きます。
確かに、維摩経は後になればなるほど「何が説きたいのか?」と思えるお経であることは否定はしません。そう感じる方は多いと思います。
「結局は維摩居士の自慢話?」
「維摩居士の力を説いただけ?」
「出家者たちの教えではダメだ、ということを説きたかったの?」
と、こうした疑問を持った方が多いのではないでしょうか。そうなんですよね、そのまま読んでいると、
「お釈迦様の弟子たちは無能で、菩薩は優秀なんだけどまだまだ足りなくて、よその仏国土から来た維摩居士だけが真実の世界に入っているのだ、維摩居士はすごいんだよ、みんな維摩居士の教えを学ぼう」
となるでしょう。これでは単に
「維摩居士の自慢話」
で終わってしまいますよね。まあ、その要素がないとは言いません。確かに、維摩居士の自慢話ととることはできます。

大乗仏教の経典は、いわば「お釈迦様の隠し玉話」で出来上がっているといってもいいでしょう。
「今まで出家者たちにはこのように説いてきたけど、本当のことを言うと真実はちょっと違っていて、実はこういうことが真理なんだよ」
という「秘密の暴露」で構成されていることが多いんです。で、多くの経典の語り手はお釈迦様になっているのですが、維摩経は語り手がお釈迦様だけではなく、維摩居士になっている、と言うところに特徴があるんですね。維摩経の場合は、お釈迦様の隠し玉は「実は・・・と言う教え」ではなく、「維摩居士自身」という設定になっているんです。
その狙いは何か・・・。
それは、「出家しなくても悟れる」ということを強調したかったのです。

大乗経典で、お釈迦様が「実は・・・・」と説いた内容は、「出家しなくても悟れるんだよ」という内容です。出家しなくてもいずれは悟りを得られる、如来になれる、と説き、そのためには「菩薩となるとよい」と説いているのですね。あるいは、在家でも可能な「修行方法」や「考え方」を説いているのです。
「在家であっても、出家しなくても、○○という修行方法や考え方、願いを持てば、菩薩となることができ、やがて悟りを得られるのだ」
これが大乗経典の最も説きたいところなのです。維摩経も大乗経典ですから、狙いは同じです。ただ手段が他の経典とは異なる、と言うだけです。その手段とは「維摩居士」という人物を中心としている、ということでしょう。出家者ではなく、お釈迦様でもなく、在家の人間を話の中心に据えたのです。それは
「在家でも悟れる」
ということの強調であり、さらに過激にも
「こだわりを持っている出家者よりも、自由な発想ができる在家のほうが悟りに近い」
と説きたかったのです。
本来は、これがテーマだったのでしょう。ですから、維摩経の前半では、お釈迦様の直弟子である出家者たち・・・・十大弟子と言われる人たち・・・・をことごとく論破していくわけです。出家者が在家のいちオジサンに負けるんですね。
その内容を読んだ者は、
「なんだ、出家者でも在家に負けるんだ。へぇ〜、在家でもこんな境地に至ることができるんだ。在家でも悟れるんだ」
と思うことでしょう。
そのような維摩経の狙いは、成功したと思います。
「こだわりのない世界は在家でも得られる」
と在家の人々に伝えることはできたと思います。前半だけ読めば、ね。本当は、前半だけで終わっておいてもよかったのかもしれません。いや、そうすべきだったのでしょう。
「ちょっと金持ちの風流なオジサンがお釈迦様の教えを学び、自ら考えを深めていった結果、お釈迦様の直弟子よりも深い教えの境地に至ってしまった・・・」
ここでやめておけば、「在家でも悟れる」というテーマは霞まなかったと思います。後半の「維摩居士の来歴の暴露」が前半の面白さを半減させてしまっている、本来のテーマをピンボケにさせてしまっている、のではないかと思うのです。本当は、維摩居士の前世だの、来歴だの、出身世界など、どうでもいいことなのですよ。維摩居士の教えからするとね。
維摩居士は前半で
「一切こだわりのない境地が大切なのだ」
と直弟子たちに説いてきたはずなのに、維摩経自体が、維摩居士の来歴にこだわってしまったのです。ここが、ちょっと惜しいところだな、と私は思います。この後半部分がなかったならば、維摩経で説きたかったところは、もっとはっきりしたことでしょう。自分たちの経典の価値観を高めるために書いた内容が、むしろ内容を分かりにくくしてしまった・・・・のですね。

しかし、これはあくまでも現代人の目から見た感想です。維摩経が編纂された時代では、こんな感想はもたれなかったのです。みな素直に
「維摩居士は素晴らしい、あのようになりたいなものだ」
と思ったことでしょう。その時の時代が維摩経の矛盾した内容を造りあげたのですね。

ちょっと話がそれてしまいました。戻します。
維摩経のテーマは、あくまでも維摩居士の自慢話ではありません。ましてや、維摩居士の来歴を説きたかったのでもありません。本当に説きたかったのは、
「在家であっても悟りを得られる」
と言うことなのです。むしろ、
「出家者のように戒律に縛られていては、真実の空の世界・・・・すべての束縛からの解放・・・・・は得られないのだ」
ということを説きたかったのです。それは出家者グループに対する挑戦状でもあったわけです。

さて、維摩経が説きたかった「在家でも悟れる」ですが、そのためにはどうすればよいと維摩居士は説いたのでしょうか。
それはたった一言
「こだわりを捨てる」
です。一切のこだわりを捨てれば、真実の悟りの境地に至れるのです。
人は何かとこだわりを持っています。本来、出家者はその「こだわり」を捨てるために修行します。しかし、いくら修行しても「妙なこだわり」を持ってしまうのが人間なのです。たとえば、維摩経の前半で説かれていたことを思い出してください。お釈迦様の弟子たちが「妙なこだわり」を持っていたがために維摩居士に論破されてしまいます。
「そんなこだわりを持っているから、在家のオジサンに論破されてしまうんだよ」
維摩居士は、そう説きたかったのです。それは、このお経を読む者に対しても発しているメッセージなんですね。
「妙なこだわりを持っているから苦しむのだ。苦しむのが嫌なら、そんなこだわりは捨ててしまえ」
ということなのです。そしてさらに
「こだわりを捨ててしまったら、自由で気楽で楽しいぞ。こんな愉快な世界はない。何の苦しみもない。本当の自由を手に入れられるのだ」
と説いているのです。維摩経で説きたかったことはこれなんですよ。

悟りとは、すべての束縛から解放され、自由な境地に至ることです。そこは何のこだわりもない、何の苦しみもない、何の憂いもない、本当の自由な境地です。そうした境地へは、実は誰でも至ることができるのです。出家も在家も関係ない、そもそもそこにこだわっていること自体、間違っているのだ、ちっぽけなこだわりを捨てて、もっと自由に、もっと心を解放させよ・・・・と維摩経は説いているのです。決して維摩居士の自慢話のお経ではないのですよ。

ということで、これで維摩経の説くところは御理解いただけたでしょうか?。皆さんも、妙なこだわりは捨てて、心を自由に解放させてみてはいかがでしょう。そうすれば、普通の生活をしていても、イヤな上司や同僚がいる会社にいても、イヤな人間がいる学校にいても、イヤな勉強をばかりさせられていても、
「へん、どうってことないさ」
と思えるようになってくることでしょう。他人の言動にこだわらない、適当に流せる、何でもいいやと思えるようになれば、案外楽な生き方ができるものなのですよ。

仏教と言うと、厳しい修行や戒律があって、あれしちゃいけない・これしちゃいけない、罰が当たるぞ、なんて説いているように思われがちですが、それは大きな誤解なのです。仏教はこだわりを捨てよ、と説いているだけなのですよ。もちろん、社会的規範は守らねばなりません、それは常識ですよね。いや、もっと簡単に仏教では説いています。
「周囲のものを悲しませたり、苦しませたりするようなことはしてはならない」
それだけなのです。そこから考えればいいのです。そのほかには、こだわるな、と説いているのですよ。
維摩経は、その部分を強調したお経なのです。


以上、維摩経でした。長いお付き合いありがとうございました。合掌。


*浄土三部経について

今回から、新しい内容に入ります。テーマは、浄土系のお経です。
日本の仏教に大きな影響を与えた経典と言えば、法華経と浄土系のお経でしょう。特に浄土思想は、平安後期以来、庶民から貴族に至るまで信仰されました。特に阿弥陀浄土である極楽浄土への信仰は現代でも多くの人々に信仰されています。
浄土とは、本来は阿弥陀如来の浄土である極楽浄土だけを指し示す言葉ではありません。浄土には如来の数だけの浄土があります。たとえばお釈迦様は娑婆浄土、薬師如来は瑠璃光浄土、アシュク如来は妙喜浄土、大日如来の密厳浄土などが知られています。
知られている、とは言いましたが、一般にはあまり知られていないのが現状ですね。浄土と言えば極楽浄土、極楽浄土と言えば阿弥陀如来、阿弥陀如来と言えば・・・・南無阿弥陀仏という念仏、とつながっていきますよね。それほど、阿弥陀如来の極楽浄土は突出してます。仏教には縁がない若者でも「極楽」という言葉はよく知っているでしょうし、使うこともありましょう。それだけ、極楽浄土は日本に根付いているのです。

こうした信仰の元には、当然ながらその極楽浄土や阿弥陀如来について説かれたお経があります。いわゆる浄土系のお経ですね。その浄土系のお経の中で代表的な経典と言えば「浄土三部経」と呼ばれているお経でしょう。
この浄土三部経というお経は、一つのお経ではなく、三つのお経をまとめてそのように呼んでいます。どのようなお経があるかと言いますと、
@大無量寿経(仏説無量寿経)
A観無量寿経
B阿弥陀経
の三つのお経です。今回からは、この浄土三部経について順に簡単ではありますが、お話をしていきたいと思います。
本題に入ります前に、浄土三部経に共通することに関して、先にお話ししておきましょう。それは、「無量寿」という意味についてです。
@とAには、「無量寿」という言葉がお経の題名に入っています。が、Bは入っていません。しかし、実はこの三つのお経の題名、同じような意味合いなのです。
無量寿とは実は阿弥陀如来の別の言い方なのです。阿弥陀如来・・・・阿弥陀仏とは、サンスクリット語の音写です。正しくは、「アミタブッダ」ですね。「アミタ」とは「無量の、限りない」という意味です。ですから、阿弥陀仏とは「無量の仏陀」という意味になります。
何が無量なのか・・・。それは一つには「寿命」です。この場合は、アミタブッダは「アミターユスブッダ」となります。「アミターユス」とは「無量の寿命」という意味になります。すなわち「無量寿仏」ですね。
無量なものはもう一つあります。それは「光明」です。この場合は、アミタブッダは「アミターバブッダ」となり、「無量光仏」と訳されます。「無量の光を持つ仏陀」ですね。
本来、阿弥陀如来の性質には、この「無量寿」と「無量光」の意味が含まれていました。それは無量寿は経典の題名に表されるようになり、「無量光」は姿に表されるようになります。つまり、無量寿は「無量寿経」や「観無量寿経」といった経典の題名となったのですね。で、無量光は、仏像の「光背」へとなったのです。
皆さん仏像の後ろ側に丸い円盤状のものが付いているのは御存知ですよね。あるいは、舟形のようになっている場合もありますが・・・。本来は円だったのです。あれは無量の光を表しているのです。

話がそれましたが、浄土三部経は実はどれも同じような意味の題名が付いているのです。@Aは「アミタ」を訳しただけ、Bはそのまま「アミタ」を音写したのですね。実際は、どの経典の題名もほぼ等しいわけです。それだけ、阿弥陀如来の名前が付いた経典が多かった、ということです。それは、浄土信仰、阿弥陀信仰が盛んであった証拠にもなります。
確かにインドや中国でも阿弥陀信仰は盛んな時期はありました。が、その信仰が残っているのは、日本だけといってもいいでしょう。浄土信仰は、日本人の心に大変あった教えだったのです。ですから、誰もが知っている言葉として残っているのでしょう。
では、そ元となったお経について、@から順にお話していきましょう。

@大無量寿経(仏説無量寿経)
大の字が付いていますが、一般的には「無量寿経」と言っています。が、大変長いお経ですので、「大」の字をつけているのです。他の阿弥陀経典と区別するためと、数多くある阿弥陀経典の大元であることを示すために「大」の字をつけたのでしょう。
このお経は、他の大乗経典と同様に物語になっています。このお経=教えが説かれた場所は、マガダ国の首都ラージャグリハの郊外にある霊鷲山(りょうじゅせん)という山です。ここはお釈迦様が好んで滞在された場所で、多くの教えが説かれています。法華経もこの霊鷲山で説かれています。
他のお経と同様に、この無量寿経も「如是我聞・・・かくのごとく我聞けり」から始まります。そして、場所の説明ですね。「世尊が霊鷲山におわすとき・・・・」といった状況説明から始まります。それによりますと、
「このように私は聞いた。あるとき、世尊・・・お釈迦様・・・が霊鷲山にいらっしゃった。世尊の周りには、多くの弟子が取り囲み、また多くの菩薩がその周りを取り囲んでいた。さらには、その周囲に数多くの人々が集まっていた。霊鷲山は静まり返り、澄んだ空気に包まれていた。世尊の姿はいつも以上に清らかで、歓喜の表情をされていたが、厳かでもあった。
その時、弟子の阿難(アーナンダ)が立ち上がって、、世尊を礼拝し尋ねた・・・・」
という場面から始まります。これは各経典に共通した始まり方ですね、異なるのは、「場所」だけです。多くは、祇園精舎であったり、霊鷲山であったりします。

さて立ち上がって世尊を礼拝した阿難ですが、お釈迦さまにこのように尋ねました。
「今日の世尊の姿はいつもにも増して光り輝き、尊いお姿をされています。このような世尊は見たことがありません。深い瞑想に入っていらっしゃるようです。生きとし生けるものを導く最勝の境地にいらっしゃるようです。如来だけがもつ光に包まれております。過去・現在・未来の諸仏は互いに念じ通じ合うとのことですが、世尊も諸仏を念じられているのでしょう。世尊、お尋ねします。この光り輝く妙なるお姿は、なんの瑞相なのでしょうか」
お釈迦様は、厳かに答えます。
「阿南よ、その問いは天の神々に言われて尋ねているのか、それとも自分自身で問うているのか」
「世尊、私は天の神々に言われて問うているのではありません。自らが感じてお尋ねしたのです」
「ふむ・・・・。阿難よ、諸仏がこの上ない大慈悲をもって迷いの世界に現れるのは、真実の教えを広め人々に利益を施すためである。そのような偉大なる慈悲心を備えた如来に会えるのは三千年に一度咲くという優曇鉢(うどんぱつ、伝説上の花優曇華・・・うどんげ・・・ともいう)の花に会うことにも譬えられよう。
阿難よ、汝の問いは、得難い利益を引き出すこととなった。汝の問いを受け、私がこれから説くことは、多くの迷える人々に真実の利益を施すこととなろう・・・」
霊鷲山に滞在していたお釈迦様は、その時、いつもと違う様子だったのですね。深い深い瞑想に入っているようでもありましたが、微笑んでいるようにも見受けられたのです。霊鷲山には、教えを聞こうと多くの人々が集まっていたのですね。そのなかには、もちろん弟子もいれば、菩薩もいます。神々もいます。みな、お釈迦様のお話が始まるのを待っていたのです。
ところが、話がなかなか始まりません。それどころか、今日は雰囲気が違う、いったいどうしたのだろう・・・・とおそらくは集まった人々は囁き合っていたことでしょう。弟子たちも、神々も、そのように囁き合っていたかもしれません。まあ、菩薩たちは決してあわてることなく、静かに待っていたことでしょうが・・・。
そうした状況に弟子のアーナンダは、ちょっとあわてるんですね。そわそわし始めるのです。「みんな待っているのに、世尊は話を始めない・・・。どうしようかな、ちょっと世尊に聞いてみようかな、聞いたほうがいいだろうな、このまま終わっちゃうとまずいしな・・・」ということで(実際そうだったかはわかりませんが)、アーナンダはお釈迦さまに質問するのですね。
「お釈迦さま、今日のお釈迦様はいつもと雰囲気が違ってますが、何か特別なことでもあるのでしょうか」
というわけです。お釈迦様は、「待ってました!」とは答えずに、「その質問は自分で気づいたことなのか?」と問い返します。こうしたことは、他の経典にも見られることです、アーナンダは、お釈迦様が涅槃に入られた後に悟った弟子なので、この時点ではまだ悟りを得ていませんから、頼りない弟子だったのです。ですから、お釈迦様は、「自分で気づいたことなのか、他から言われて気付いたことなのか」と聞き返したのですね。他人から言われて気付いたのであれば、「お前はダメなやつだなぁ」となるわけです。まあ、物語ですから、そういう演出にしたのですね。
で、アーナンダは、自分で気づきました、と答えます。お釈迦様は、喜びます。
「いいところに気がついた、よしよし、お前さんの気づきのおかげで、今日はとっておきの教えを説いてあげよう・・・・」
ということになったのです。そう、ここからが本番なのですね。

「阿難よ、如来が光り輝くのは、深い瞑想の中で無上の智慧をもって、優れた諸仏を思うからである。その諸仏の中でも、最も優れた如来である阿弥陀仏についてこれから説き明かそう」
お釈迦様は、阿弥陀如来について語り始めたのです・・・・。

阿難の質問を受けてお釈迦様は特別な教えを語り始めます。
「はるか遠い昔のこと・・・・それは人間の考えも及びもしない昔のことだ・・・・錠光如来(じょうこうにょらい)という仏陀がこの世に現れ、多くの人々を導き苦しみから救った後に入滅された。その次に光遠如来(こうおんにょらい)という仏陀が出現し人々を導いたのちに入滅した。さらに月光(がっこう)・栴檀香(せんだんこう)・善山王(ぜんせんのう)という如来が現れ、人々を教化(きょうげ)した後に入滅された。そうして次々と如来が現れ、初めの錠光如来から53番目に処世如来(しょせにょらい)が現れ、次いで世自在王如来(せじざいおうにょらい)が現れた」
まあ、大変な数の如来ですよねぇ。昔はそんなにたくさん仏陀がいたのか、と突っ込みたくなりますが、数は問題ではありません。昔のインドという国は、数や量に関しては大まかでたくさん、が通常なのです。たとえばガンジス河の砂の数とか、宇宙ができた年数とか・・・・。ともかく数や量は大袈裟なのです。なので、54人も仏陀がいた・・・・というのは軽く聞き流してください。
それはいいのですが、最後の世自在王如来は重要な如来になります。なぜならば、この如来が阿弥陀如来の前世の師であるからです。ここから話は世自在王如来に従った阿弥陀如来の前世の物語に入っていきます。

お釈迦様は話を続けます。
「世自在王如来がこの世に現れた時、その国の王は富や名声のはかなさを知り、真実を求めて修行したいという願いをもった。そこで彼は、国を捨て王位を捨て、法蔵(ほうぞう)と名を変え世自在王如来の弟子となったのだ。法蔵は世自在王如来に
『私は世自在王如来のような優れた如来となり、迷える人々を救いたいという願いを持ちました。世自在王如来よ、この私の願いがかなうよう、私のために広く教えを説いてください。また、諸仏がどのような修行をして自分の浄土を創られたのか教えてください。その浄土が如何に荘厳であるのかをお説きください』
と願い出たのだ。世自在王如来は、法蔵の必死さを知り、またその心が清浄で不動であることを知って説き始めた。
『法蔵よ、たとえばある人が小さな升で大海の水の量を量ろうと決心したとします。人々はそんなことは不可能だと笑うでしょう。しかし、限りのない長い長い年月をかけて量り続ければ、ついには底まで汲むことができ目的を果たすことができるでしょう。このように、人が志を立て努力しているとき、どのような困難にあってもその志を放棄せず、努力し続ければ、必ずその願いは達成することができるのです。志が堅ければ、どのような願いも成就するのです。法蔵よ、汝もそのように努力すればよいのです』
このように説いて、続いて世自在王如来は法蔵に数百億もの諸仏の浄土について説いたのだ。法蔵は世自在王如来の話を聞き終えると、それらの浄土を見せてもらうように願い出た。如来は快く引き受け、法蔵に諸仏の浄土を見せたのだ。法蔵の心は益々清浄となり、浄土を造るという決意はさらに堅固になったのだ」

ここは法蔵の堅い決意についての話です。しかし、すごい譬え話ですね。小さな升で大海の水の量を計る・・・・これは、別の話では「愚か者」の話になっている場合もあります。「小さな升で大海を計るようなことをする者は愚か者だ。汝らの小さな器で如来のすべてを量ろうとするものは、この愚か者と同じだ」というように・・・・。まあ、使い方を変えれば、どちらでも通用するのかもしれません。愚直に努力を重ねればやがては成就する、といいたかったのでしょうね。ちょっと譬え話が???という感じはします。
さらに、実際にはいくら努力しても成就しない場合も多々あります。それはどうなるのか、と質問が出そうですよね。努力すれば必ず成就するなんて綺麗事だ、とお怒りになる方もいらっしゃるかも知れません。全く御尤もです。
が、そこはそれ昔のインドという国や仏教の時間の概念は一般社会の時間の概念とは大きく異なるんですねぇ。人の一生をものすごく長い年月で測るのがインド流なのです。つまり、この世の生だけで物事を言っているわけではないのですよ。何度も何度も生まれ変わって同じ努力をし続ければ、やがてはその目的は成就する、と言っているのですね。
なので、この世で東大に行けなくても、司法試験に何度も落ちても、医者になれなくても、その志を来世にまで持ち越して努力し続ければ、やがては東大にも行けるだろうし、弁護士にもなれるだろうし、医者にもなれるでしょう。この世だけの話に区切ってはいけないのですね。たゆまない努力、あきらめない心を次の世にまで、さらに次の世にまで、成就するまで持ち続けよ、と説いているのですね。それくらい堅い決心を持っていれば、ひょっとしたらこの世でも成就できるかもしれませんしね。
ま、ここで説いている法蔵の決意はそれほど長い年月をかけてもよい、というくらいの目標なのです。

お釈迦様の法蔵についての話は続きます。
「すべての人々を救うという大きな誓いを立てた法蔵は、その後無量の時間を費やして、深く瞑想し続けた。世自在王如来に見せてもらった多くの浄土の優れたところを選りすぐり、理想の浄土を描き出し始めていた。そして、その理想の浄土が法蔵の中で完成したとき、彼は世自在王如来の元に行き、自分の理想の浄土について語った。世自在王如来は法蔵の話を聞き、素晴らしい理想の浄土だと褒め称えた。法蔵は喜んだが、さらにもう一つの誓願があることを打ち明けた。
『世自在王如来よ、私は悟りを得て如来となったならば、このような浄土を造る決意をしました。しかし、私にはもう一つの誓願があります。それは私が立てた願いが達成されないうちは如来にはならない、という誓いです。それはどのような願いかと言いますと・・・』
と法蔵は誓願を述べ出したのだ。その誓願とは48ある」

多少、本文を変えてあります。なぜなら、これから法蔵の48誓願をお釈迦様は語るのですが、それが長いのでこのような形で切らさせてもらいました。本来ならば語り口調で書かねばならないのですが、わかりやすく列挙します。法蔵が立てた48誓願とは
1、私の浄土に地獄・餓鬼・畜生の三悪道があれば、私は如来にはならない。
2、私の浄土の人々や天人が寿命を終えたあと、三悪道に生まれ変わるようなら、私は如来にはならない。
3、私の浄土の人々や天人が黄金色に輝かなければ、私は如来にはならない。
4、私の浄土の人々や天人の姿形に美醜の差があれば、私は如来にはならない。
5、私の浄土の人々や天人が宿命通(前世を知る神通力)を得ないで遠い過去世まで知ることができないならば、私は如来にはならない。
6、私の浄土の人々や天人が天眼通(あらゆる世界を見渡す神通力)を得ないで諸仏の浄土を自由自在に見渡せないならば、私は如来にはならない。
7、私の浄土の人々や天人が天耳通(あらゆる音を聞くことができる神通力)を得ないで諸仏の説法を聞くことができないならば、私は如来にはならない。
8、私の浄土の人々や天人が他心通(他者の心が読める神通力)を得ないで諸仏の浄土の人々の心を自由自在に知ることができないならば、私は如来にはならない。
9、私の浄土の人々や天人が神足通(あらゆる場所に瞬時に飛んでいける神通力)を得ないで諸仏の浄土を自由自在に飛びまわることができないならば、私は如来にはならない。
10、私の浄土の人々や天人が漏尽通(煩悩に執着する心を無くす神通力)を得ないで煩悩に執着するならば、私は如来にはならない。
11、私の浄土の人々や天人が定聚(正しい禅定)に入れず悟りを得ることができないならば、私は如来にはならない。
12、私の光明に限りがあって、あらゆる世界の諸仏を照らすことができないならば、私は如来にはならない。
13、私の寿命に限りがあって、果てしない長さの時間に至らないならば、私は如来にはならない。
14、私の浄土の声聞の数に限りがあり、三千大世界の声聞や縁覚たちが長きにわたって、私の浄土の声聞を数え上げられるようならば、私は如来にはならない。
15、私の浄土の人々や天人の寿命は限りないものとなるでしょう。ただし、それぞれの希望でその長さは自由に変えられる。そうでないならば、私は如来にはならない。
16、私の浄土の人々や天人に不善の者がいたり、そういう評判が聞こえてくるようなら、私は如来にはならない。
17、十方世界の無量の諸仏が私の名を褒め称えないならば、私は如来にはならない。
18、十方世界の人々が10回私を念じたならば私の浄土に生まれ変わることができる。ただし、五逆の罪を犯した者、仏法を誹謗した者は除く。それができないならば、私は如来にはならない。
19、十方世界の人々が私の浄土に生まれ変わりたいと願うならば、その人が寿命が終わるとき、私は多くの弟子とともにその人を迎えに行こう。それができないならば、私は如来にはならない。
20、十方世界の人々が、私の名を聞いて私の浄土に思いを寄せ、徳を積み諸仏に供養し、私の浄土に生まれ変わりたいと願うならばその願いを成就させよう。それができないならば私は如来にはならない。
21、私の浄土の人々や天人のすべての者が、32相を備えなければ、私は如来にはならない。
22、他の国土の菩薩たちが、私の浄土の菩薩たちに生まれたならば、その菩薩たちは菩薩の最高位につくでしょう。ただし、そうしたくらいにつきたくないと思う菩薩もいますので、そうした菩薩は除きます。それができならば私は如来にはならない。
23、私の浄土の菩薩が諸仏の威神力をうけて、諸仏を供養し、きわめて短い時間の間に無数の仏国土に至ることができないならば、私は如来にはならない。
24、私の浄土の菩薩が諸仏に供養したいと思い、その供養の品が欲しいと思ったならば、菩薩はその供養の品を自由に手に入れられるでしょう。そうでないならば、私は如来にはならない。
25、私の浄土の菩薩たちがあらゆる智慧をもって、思いのままに説法できないならば、私は如来にはならない。
26、私の浄土の菩薩たちがどんなことにも負けない堅固な心身を得ることができないならば、私は如来にはならない。
27、私の浄土の人々や天人が用いる一切のものは皆清浄で光り輝き、形が優れ、その妙なることは計り知れないであろう。またすべての人々は天眼通をもってそのことを知るであろう。そうでないならば私は如来にはならない。
28、私の浄土の菩薩たちは、たとえ功徳の少ないものであっても、高さ四百万里の菩提樹の無量の光明を見ることができよう。そうでないならば私は如来にはならない。
29、私の浄土の菩薩たちが、経法を得て、それを読誦し、人々に説く弁舌の智慧を得ていないならば、私は如来にはならない。
30、私の浄土の菩薩たちの智慧や弁舌に限界があるならば、私は如来にはならない。
31、私の浄土は清浄で、十方世界の一切の諸仏の世界を明らかに見ることができる。それはあたかも素晴らしく磨き上げられた鏡に映すようなものである。それができないならば私は如来にはならない。
32、私の浄土は大地から虚空に至るまで、また宮殿・楼閣・池や川・樹木、その他の一切の物質がみな無量の宝でできており、あらゆる芳香を漂わせている。その香りは十方世界に至り、このことを聞く者あればすべて仏道に励むであろう。それができないならば、私は如来にはならない。
33、十方世界の諸仏の国土の衆生は、私の光明を受けてそれに触れる者は、心身安らぐであろう。そうでないならば私は如来にはならない。
34、十方世界の諸仏の国土の衆生は私の名を聞いて、菩薩の境地を得るであろう。そうでないならば、私は如来にはならない。
35、十方世界の諸仏の国土の女性で、私の名を聞き歓喜し、私を信じ安楽を得、菩提心を起こし、女性の身を恥じいったならば、その女性は寿命がきて生まれ変わっても再び女性に生まれ変わることはないであろう。それができないならば、私は如来にはならない。
36、十方世界の諸仏の国土の菩薩たちが、私の名を聞いたならば、寿命が終わったあとも常に修行して仏道を成就するでしょう。そうでないならば、私は如来にはならない。
37、十方世界の諸仏の国土の天人や人々が、私の名を聞いて五体投地し礼拝し、歓喜し、信心を起こし、安楽し、菩薩の修行をしたならば、あらゆる天人も世人もその人を敬うでしょう。そうでないならば、私は如来にはならない。
38、私の浄土の人々は、衣服を得ようと思ったらそれはすぐに得られ、しかも如来の意にかなった衣服となるでしょう。衣服を裁縫したり、染めたり、洗ったりする必要はない。そうでないならば私は如来にはならない。
39、私の浄土の人々や天人が受ける快楽は、煩悩の全くない快楽であり、聖者が受ける快楽と同じである。そうでないならば私は如来にはならない。
40、私の浄土の菩薩は意に従って十方無量の浄土を見たいと思えば、それに応じて悉く見ることができる。それは素晴らしく磨き上げた鏡に己を写すように明らかである。そうでないならば私は如来にはならない。
41、他方の国土の菩薩たちが私の名を聞いたならば、その菩薩は悟りを得るまで身体は完全で不自由はない。そうでないならば私は如来にはならない。
42、他方の国土の菩薩たちが私の名を聞いたならば、皆ことごとく清浄なる解脱の境地に至るであろう。この境地に至れば願えば無数の諸仏を瞬時に供養することができ、禅定の境地は損なうことがない。それができないならば、私は如来にはならない。
43、他方の国土の菩薩たちが私の名を聞いたならば、その菩薩の寿命が終わった後、その菩薩は尊い家に生まれ変わるであろう。そうでないならば、私は如来にはならない。
44、他方の国土の菩薩たちが私の名を聞いたならば、歓喜し菩薩の行を修め、徳を身につけるであろう。そうでないならば私は如来にはならない。
45、他方の国土の菩薩たちが私の名を聞いたならば、皆ことごとく無量の諸仏を同時に礼拝することができる境地を得るであろう。また、この境地に常にいて、自らが如来となるまで常に一切の諸仏を見ることができよう。そうでないならば私は如来にはならない。
46、私の浄土の菩薩たちは、その志や願いに従って聞きたいと思う教えを自然に聞くことができよう。そうでないならば私は如来にはならない。
47、他方の国土の菩薩たちが私の名を聞いたならば、決して退くことのない堅固なる心を得るであろう。そうでないならば私は如来にはならない。
48、他方の国土の菩薩たちが私の名を聞いても悟りの境地に至ることができず、また決して退くことない心を得られないならば、私は如来にはならない。
というものです。
なかには???と思うものもあるし、明らかに女性蔑視、差別であろう、と思われる項目もあります。しかし、それは時代背景の影響です。そうしたことも踏まえ、詳しくは次回に説明いたします。



48誓願についてお話いたします。
誓願の書き方を見て見ますと、
「○○が成就しなければ、私は如来にならない」
というパターンで書いてありますが、こう書くと、
「じゃあ、ならなきゃいいじゃん」
と言われそうなんですよね。最近じゃあ、こういう反応の方が普通なのかもしれません。
ですが、この文の意味は違います。成就しなければならない、ではなく、
「○○が成就するまでは菩薩であり続け、この誓いが成就するよう努力いたします」
という意味です。ここはお間違えのないようにお願いいたします。
では、順に解説していきましょう。

1、私の浄土に地獄・餓鬼・畜生の三悪道があれば、私は如来にはならない
2、私の浄土の人々や天人が寿命を終えたあと、三悪道に生まれ変わるようなら、私は如来にはならない

法蔵菩薩は、この48誓願を見事成就し、阿弥陀如来となって極楽浄土を築いたのです。ですから、極楽浄土には地獄・餓鬼・畜生の世界は存在しません。
2の誓願は、15とちょっと矛盾するようですが、もし、人々や天人の寿命が来ても、という意味です。
15、私の浄土の人々や天人の寿命は限りないものとなるでしょう。ただし、それぞれの希望でその長さは自由に変えられる。そうでないならば、私は如来にはならない
15では、天人や人々の寿命は無量と言ってますが、自由に区切りをつけることもできると言ってますから、まあ矛盾はしていないと・・・・苦しいわけですが・・・。きっと、誓願を並べ立てているうちに、前の誓願を忘れてしまったのでしょうねぇ。で、ハタと気がついて、あわてて寿命を区切るのは自由ですよ、と一言付け加えたのでしょうね。

3、私の浄土の人々や天人が黄金色に輝かなければ、私は如来にはならない
4、私の浄土の人々や天人の姿形に美醜の差があれば、私は如来にはならない

これは外見に関してです。外見に差がないのが極楽浄土の特徴です。なお、外見に関してですが、女性蔑視をするような項目があります。35番ですね。
35、十方世界の諸仏の国土の女性で、私の名を聞き歓喜し、私を信じ安楽を得、菩提心を起こし、女性の身を恥じいったならば、その女性は寿命がきて生まれ変わっても再び女性に生まれ変わることはないであろう。それができないならば、私は如来にはならない
これはまさしく「女性は劣っている」というような誓願です。確かに、当時は、女性は成仏できない、悟りは得られない、というのが通説でした。お釈迦様はそんなことはいってないのですが、おそらくは時代背景がそうさせたのでしょう。また、どの地域でも、どの国でも、昔は女性を蔑視してきたものです。現在でも女性を低い者、隷属する者、として扱う国もありますし、そういう習慣が残っている国もあります。そういう我が国・日本だって、未だに女性蔑視する人はいますし、そういう家もあります。男尊女卑ですね。
こうした女性蔑視の社会情勢を踏まえたうえで、女性に生まれることは大変だというので、女性に生まれ変わることはない、と説いているのでしょう。まあしかし、「女性であることを恥じいる」という一文は納得できませんけどね。なにも恥じる必要はないのですが、この経典が編纂された時代は、女性であることは恥じいるもの、とされたのでしょう。嫌な時代ですよね。女性がいなきゃ、子供が生まれないのに。愚かな時代だったと思います。古代宗教では、女性を優遇する、女性崇拝の宗教もあるくらいです。そっちの方が正しいように思いますけどね。
まあ、そういうことで、時代背景から35番はできた誓願だと理解してください。なにも、女性蔑視をしているわけではないと。
こういうことから、極楽浄土には性差別がありません。男女の別がないんです。みんなオカマというわけではないですよ。性が単一なのです。なので、オス・メスという区別がないんです(ピッコロの故郷ナメック星のナメック星人ですね・・・オタクな話で申し訳ないです。ドラゴンボールですね。知らない人は読んでみてください。学ぶことは多々あります)。
ということで、極楽浄土では性の区別がないので、恋愛という行為は存在しません。恋愛したい、と思う方は、極楽浄土は不向きです。

5、私の浄土の人々や天人が宿命通(前世を知る神通力)を得ないで遠い過去世まで知ることができないならば、私は如来にはならない。
6、私の浄土の人々や天人が天眼通(あらゆる世界を見渡す神通力)を得ないで諸仏の浄土を自由自在に見渡せないならば、私は如来にはならない。
7、私の浄土の人々や天人が天耳通(あらゆる音を聞くことができる神通力)を得ないで諸仏の説法を聞くことができないならば、私は如来にはならない。
8、私の浄土の人々や天人が他心通(他者の心が読める神通力)を得ないで諸仏の浄土の人々の心を自由自在に知ることができないならば、私は如来にはならない。
9、私の浄土の人々や天人が神足通(あらゆる場所に瞬時に飛んでいける神通力)を得ないで諸仏の浄土を自由自在に飛びまわることができないならば、私は如来にはならない。
10、私の浄土の人々や天人が漏尽通(煩悩に執着する心を無くす神通力)を得ないで煩悩に執着するならば、私は如来にはならない。
これらは、極楽浄土に生まれ変われば、すべての者が六神通を得られるということを説いています。六神通とは、一種の超能力のことで、六種類あります。それは上の各誓願のカッコ内に説明がしてあります。
極楽浄土に生まれ変われれば、こうした神通力が使えるようになるんですよ。

11、私の浄土の人々や天人が定聚(正しい禅定)に入れず悟りを得ることができないならば、私は如来にはならない。

極楽に行けば正しい禅定ができるようになるのです。ですから、この世で苦労して禅定をすることはありません。極楽浄土に生まれ変わったほうが楽に禅定ができますからね。

12、私の光明に限りがあって、あらゆる世界の諸仏を照らすことができないならば、私は如来にはならない。
この誓願から、阿弥陀如来ことを「無量光如来」ともいうようになったのですね。

13、私の寿命に限りがあって、果てしない長さの時間に至らないならば、私は如来にはならない。
この誓願から、阿弥陀如来のことを「無量寿如来」ともいうようになったのです。阿弥陀如来は、別名「無量光如来」とも「無量寿如来」ともいうのですよ。

14、私の浄土の声聞の数に限りがあり、三千大世界の声聞や縁覚たちが長きにわたって、私の浄土の声聞を数え上げられるようならば、私は如来にはならない。
声聞というのは、出家修行者のことです。極楽浄土では、出家修行者は数限りなくいる、ということですね。声聞がいるならば、在家の人もいるようですね。そういう差はあるようです。出家修行者もそうでない修行者もいるのですね。

16、私の浄土の人々や天人に不善の者がいたり、そういう評判が聞こえてくるようなら、私は如来にはならない。
極楽浄土には不善の人はいないのです。みんな善人なのですね。もちろん、偽善者もいません。

17、十方世界の無量の諸仏が私の名を褒め称えないならば、私は如来にはならない。
なんとまあ、イヤな誓願だこと!、と私は思ってしまいますが、皆さんは如何でしょうか?。「みんなが褒めてくれなきゃやってやらないもん」と子供が駄々をこねているような、そんな感じがしますよね。ちょっと変な誓願です。褒められようが、褒められまいが、そんなことは関係ない話です。ましてや、如来になれば、一切の欲から離れていますので、褒められること自体求めるのは変ですね。もちろん、菩薩も同じです。菩薩も褒め称えられるために行をしているわけではありません。自分の修行のためにしているのです。この誓願は、正直???ですね。それほど、この極楽浄土の教えを信奉するグループは卑下されていたのでしょうか?。この一文があるだけでその内容が残念になってしまうように思います。

18、十方世界の人々が10回私を念じたならば私の浄土に生まれ変わることができる。ただし、五逆の罪を犯した者、仏法を誹謗した者は除く。それができないならば、私は如来にはならない。
この誓願によって、「南無阿弥陀仏」を10回唱えれば、誰でも極楽に行けるという教えが生まれたのです。念仏の誕生ですね。
ただし、五逆の罪・・・・母を殺すこと、父を殺すこと、聖者(徳の高い修行者)を殺すこと、仏陀の身体を傷つけ出血させること、仏教教団の和を乱し分裂させること・・・・のいずれかを犯した者は、南無阿弥陀仏と10回唱えても極楽には行けないのです(なお、インド原典では五逆罪は母を殺すこと、父を殺すこと、となってますが、中国や日本では父を殺すこと、母を殺すこと、という順になっています。女性蔑視はインドよりも中国や日本の方が強いようですね)。
仏法を誹謗した者は極楽浄土へはいけないんですね。しかし、誹謗したくなる宗派やお寺もありますからねぇ。まあ、極楽浄土へはいかなくてもいいんですけどね。他の浄土へ行けばね。
ともかく、この誓願がもとで念仏宗が生まれたのですよ。これは、こちらは簡単に極楽浄土へ行けますよ、ということをアピールした一文だといえます。他の大乗仏教グループをかなり意識していますね。極楽浄土へ生まれ変わるのに、大変な修行もなにもいらない、ただ10回念仏すればいい、というのですから、庶民にとっては人気爆発でしょう。

19、十方世界の人々が私の浄土に生まれ変わりたいと願うならば、その人が寿命が終わるとき、私は多くの弟子とともにその人を迎えに行こう。それができないならば、私は如来にはならない。
この誓願により、平安時代後期以降、多くの来迎図が描かれています。特に有名な来迎図に宇治平等院鳳凰堂の扉絵や高野山の「阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅらいごうず)があります。また、来迎図の屏風は、いよいよ臨終を迎えるときにその人の枕もとに立てかけたこともあるそうです。阿弥陀さんに迎えに来てもらえることを思って亡くなっていきたいという願いから、来迎図屏風をおくことが流行ったのでしょう。

20、十方世界の人々が、私の名を聞いて私の浄土に思いを寄せ、徳を積み諸仏に供養し、私の浄土に生まれ変わりたいと願うならばその願いを成就させよう。それができないならば私は如来にはならない。
これも念仏と同じですね。「10回名前を唱えれば」という表現から一歩踏み込んだ形になっています。が、内容はほぼ同じですね。ただし、「徳を積み、諸仏に供養し」という条件が増えています。18ではそうした条件はなかったのですが。いったいどういうことなのでしょうか?。
この18〜20ですが、内容は同じことを言っているのですが、微妙に条件が異なるのですね。18は「10回名前を念じたならば」、19は「生まれ変わりたいと願うならば」、20は「思いを寄せ、徳を積み、諸仏に供養し、生まれ変わりたいと願うならば」。なぜこのように分けたのか、ちょっとわからないです。「ともかく極楽に生まれ変わりたいと願うならば」でもよかったのではないか、と思うのですが。なにも無理に48誓願にすることはないのに・・・と、ひねくれ者の私は思ってしまいます。

21、私の浄土の人々や天人のすべての者が、32相を備えなければ、私は如来にはならない。
またまた外見についてのことが登場です。
32相とは、如来の特徴のことです。ということは、極楽浄土に生まれ変わると、すべての人は如来の特徴である32相を身につけていることになるのですね。ということは、極楽浄土に生まれ変われれば、みな如来になれるということです。
そうすると、声聞とか在家とかの差は必要なくなります。さらには、天人もいらなくなります。あぁ、それは一種の職業と考えればいいのかな?。まあ、誰であれ、どのようなものであれ、如来になれるというわけですね。
このあたり、苦しい誓願と言えば、苦しい・・・ですかねぇ・・・。

22、他の国土の菩薩たちが、私の浄土の菩薩たちに生まれたならば、その菩薩たちは菩薩の最高位につくでしょう。ただし、そうしたくらいにつきたくないと思う菩薩もいますので、そうした菩薩は除きます。それができならば私は如来にはならない。
これは明らかに、他の大乗仏教グループを意識した誓願です。他のグループよりもこっちのグループの方が上だよ、という意味ですね。他の大乗仏教グループの者がこっちに来たら、菩薩の最高になれるよ、という意味ですね。
本来、浄土において差はありません。どっちの浄土が優れていて、どっちの浄土が劣っている、などという教えは仏教にはないのです。本来はね。ところが、大乗仏教グループがあちこちに誕生すると、勢力争いがどうしても生じてしまうのですね。そこが人間のあさましいところ、なのです。以前、維摩経の解説でも話をしましたが、こうした大乗仏教グループの勢力争いのようなことは頻繁にあったのでしょう。だからこそ、こっちの教えが優れているとか、こっちの教えはなかなか理解できないぞとか、優劣をつけたがるのです。本来、教えに優劣はありません。が、これも大乗仏教を広めようとして、ついつい意気込んでしまったことによる結果なのでしょうね。サービスが行き過ぎたわけです。

23、私の浄土の菩薩が諸仏の威神力をうけて、諸仏を供養し、きわめて短い時間の間に無数の仏国土に至ることができないならば、私は如来にはならない。
24、私の浄土の菩薩が諸仏に供養したいと思い、その供養の品が欲しいと思ったならば、菩薩はその供養の品を自由に手に入れられるでしょう。そうでないならば、私は如来にはならない。
25、私の浄土の菩薩たちがあらゆる智慧をもって、思いのままに説法できないならば、私は如来にはならない。
26、私の浄土の菩薩たちがどんなことにも負けない堅固な心身を得ることができないならば、私は如来にはならない。

これらはすべて、極楽浄土の菩薩たちは他の浄土の菩薩たちよりも優れている、ということを暗に説いているのです。こちらの菩薩たちは、君たちの菩薩と違ってこんなこともできるんだよ、という意味ですね。
こういう内容を鵜呑みにしてはいけません。たとえ経典に説かれていることでも、それがすべて正しいことであるとは限りません。時代背景、社会情勢によって、否応なしに書かれていることもあるのです。そうしたことを客観的に学ぶべきでしょう。

27、私の浄土の人々や天人が用いる一切のものは皆清浄で光り輝き、形が優れ、その妙なることは計り知れないであろう。またすべての人々は天眼通をもってそのことを知るであろう。そうでないならば私は如来にはならない。
極楽浄土で用いられる道具類は光り輝いているそうです。だから何?、と言いたいのですが、それは現代の文明社会に生きているからです。このお経が編纂された時代では、貧しい道具しか使えない人々が多くいたのでしょうね。で、そうした人々は、極楽へ生まれ変わって、素晴らしい光り輝く、お金持ちが使っているような道具を使いたい、と願ったのでしょう。
そうした庶民の願いに応えたのがこの誓願ですね。

28、私の浄土の菩薩たちは、たとえ功徳の少ないものであっても、高さ四百万里の菩提樹の無量の光明を見ることができよう。そうでないならば私は如来にはならない。
「高さ4百万里の菩提樹」というのがあるのだそうです。しかし、それは修行を積んだ菩薩にしか見ることのできないものだそうです。しかし、極楽浄土の菩薩はたちは、たとえ修行が進んでいなくても、それを見ることができるのだそうです。なぜなら、23〜26にあるように、極楽浄土の菩薩たちは他の浄土の菩薩よりも優れているからです・・・・・。
どうもこの、優劣をつける、という考え方は仏教にそぐわないように私は思います。まあ、そういう優れた浄土を造りたいのだ、という法蔵菩薩の強い思いの表れ、といえばそうなのですが、どうもしっくりなじまないですねぇ。
というか、悟りの観点からすれば、そんな菩提樹見えても見えなくてもいいじゃないか、ということになるのですが・・・・。きっと、維摩居士ならそういうのだろうなぁ・・・・と思ってしまうんですよねぇ。

29、私の浄土の菩薩たちが、経法を得て、それを読誦し、人々に説く弁舌の智慧を得ていないならば、私は如来にはならない。
30、私の浄土の菩薩たちの智慧や弁舌に限界があるならば、私は如来にはならない。

菩薩の能力についてですね。菩薩の能力に限界はないのだ、と言いたいのですね。現実からは離れた、夢のような世界が極楽浄土なのです。以下、そのことに関する誓願が続きます。

31、私の浄土は清浄で、十方世界の一切の諸仏の世界を明らかに見ることができる。それはあたかも素晴らしく磨き上げられた鏡に映すようなものである。それができないならば私は如来にはならない。
32、私の浄土は大地から虚空に至るまで、また宮殿・楼閣・池や川・樹木、その他の一切の物質がみな無量の宝でできており、あらゆる芳香を漂わせている。その香りは十方世界に至り、このことを聞く者あればすべて仏道に励むであろう。それができないならば、私は如来にはならない。

この誓願がもとで、極楽浄土の美しさが想像され、極楽浄土は素晴らしい場所、という思想へと発展していきます。また、宇治の平等院鳳凰堂も、その庭も、こうした極楽浄土の情景をもとに建築されています。極楽浄土を現実化しようとしたのですね。
こうした世界は、この世にはない世界なので、人々は思いをはせるようになるんです。昔の人は純粋だったのですよ。信じてしまうのですから・・・・。
こういうところと、維摩経を比較すると面白いです。維摩経では、この世も素晴らしい美しい世界だ、と説いています。汚れて見えるのは己の眼が、心が汚れているからだ、と。確かに、よくよく見れば、この地球は美しい星です。汚しているのは、人間ですからね。人間がいなければ、素晴らしく美しい星なんですよ。

33、十方世界の諸仏の国土の衆生は、私の光明を受けてそれに触れる者は、心身安らぐであろう。そうでないならば私は如来にはならない。
よその仏国土・・・つまりはよその仏様が管理する浄土・・・・の人々までちょっかい出す必要はないのに、と私は思ってしまいます。これでは、他の浄土の如来が劣っている、能力がない、と言われているようなものでしょう。まるで、よその浄土の人々は、心安らいでいないみたいですよね。まあ、確かに、この娑婆世界の人々は心安らいでいませんが、それはこの娑婆世界の人々が、お釈迦様の教えも聞かず、欲望に走っているからであって、お釈迦様の力不足というわけではありません。
他に目を向けるよりも、真実を見つめる目を説いたほうがいいと思うのですが、この阿弥陀如来の教えを信奉するグループは、方便として苦しみを持っている人々の眼をよそに向けよう、と考えたのでしょうね。で、安らぎを与えよう・・・と。そういう方法も、時には有効でしょう。時代背景もありますし。現代でも、苦しみや悩みを和らげる方法として、その原因から目をそむけるようにさせ、他の代用品をもって安らぐようにするという方法もありますからね。たとえば、趣味をもたせたり友人を作らせたり愚痴を言わせたり・・・・というように。
阿弥陀如来や極楽への信仰をもたせることにより、日々の苦しみを和らげようという効果をもたらしている誓願でしょう。

34、十方世界の諸仏の国土の衆生は私の名を聞いて、菩薩の境地を得るであろう。そうでないならば、私は如来にはならない
これも33と同様の効果を与えると思います。菩薩の境地を得られるのだよ、といえば、阿弥陀如来や極楽への信仰をもつ者が増えるでしょう。そうして、安心感を与える、というものですね。
尤も、こうした信仰が行き過ぎれば、一揆のような暴走も生み出してしまうという危険性も含んではいるのですが・・・。

それにしても長いですよねぇ。いい加減、解説するのにも疲れてきました。読むほうはもっと疲れることでしょう。
なので、続きは次回にします(なんて我がまま、なんていい加減、と思わないでくださいね)。
合掌。


今回はここまでにしておきます。続きは次回に。




ばっくなんばあ〜20


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