ばっくなんばぁあ〜21

第 六 章

「大乗経典」

*浄土三部経
A観無量寿経 6
今回は、前回までその内容を紹介してきた観無量寿経の解説をいたします。
観無量寿経は、一言でいえば、「阿弥陀如来および極楽浄土を観想するためのお経」です。阿弥陀如来と極楽浄土を感じ取るための方法を説いたお経なんですね。なので観(じる)無量寿(阿弥陀如来のこと)経(教え)というのです。無量寿如来=阿弥陀如来を観じるための教え・・・・という内容のお経なのです。
ですから、初めの部分のアジャセ王子とダイバダッタの絡みは、導入部分であり、重要な内容ではありません。観無量寿経と言うと、アジャセ王子を悪の道に誘い込むダイバダッタの話が注目されがちなのですが、それはあくまでも導入部分であって、本題ではないのですよ。本題は、お釈迦様が説かれた、極楽浄土や阿弥陀如来、及び、それを感じるための方法、そこなのです。

この経典が編纂された頃は、大乗仏教が興っていました。極楽を説く浄土経典類は、般若経典のあとに編纂されたと考えられています。自分で智慧を磨き、深く思考することを説く般若経典類に対し、浄土経典類は主に観想を通し、極楽浄土に生まれ変わることを願うことを説く経典です。この世の苦しみから離れ、死後に極楽浄土に生まれ変わる方法を説いているのですね。死後の安楽を願う教えを説いているのです。
当時のインドでは、貧しい者はそのまま貧しさを続けて行かねばならないという状態でした。貧しい家の者が、一夜にして大金持ちになるなんてことはあり得ない状況なのです。それどころか、コツコツ努力してそこそこの金持ちになる、ということすら望めない社会でした。ですから、貧困であるという事実は、変えようがない現実だったのです。貧困に苦しむ人々が多く存在した社会において、そうした人々をも救おうと興ったのが大乗仏教運動です。しかし、貧困層の人々は、教育が受けられません。ましてや、身分が低い者たちは、その日暮らしていくことで精いっぱいです。般若の智慧を得るための修行など、とてもできるものではありません。そこで登場するのが、浄土思想なのです。

観無量寿経の中に登場するビンビサーラ王の妃であり、アジャセの母親であるイダイケは、その幽閉された牢獄から救いだされることはありません。現実は変わらないのです。これは、当時のインドの多くの国民の生活が変わらないことの象徴と言っていいでしょう。多くの貧しい人々は、幽閉されたイダイケ夫人と同じ状態なのです。囚われの身なんですね。
そうした状況にある者が救われるには、どうすればいいのか。
どうあがいても、牢獄から解放されることはありません。貧困から解放されることはないのです。どう修行をしても、囚われの身から自由になることはないのです。それが現実です。現実の世界は、おとぎ話のようにはいかないのです。
そこで、この世で救われることは横において、未来に希望を託せばいいではないか、という思想が生まれてきます。これも一つの救いであろう、ということですね。現実が変わらないのなら、それはそのまま受け入れて、せめて死後にはいい世界に、よりよい身分に生まれ変わろうじゃないか、できれば、この世界ではなく、理想世界に生まれ変わることを願いましょう、という教えが生まれてきたわけです。それが浄土思想ですね。

大乗仏教集団の浄土思想グループの人たちは、きっと次のように人々を導いたことでしょう・・・・・。
貧しき人々よ、身分の低い人々よ、君たちでも救われるのだ・・・・いや、現実が変わるわけではない。未来へ希望を託すのだ。むかし、お釈迦様がいらした頃、マガダ国のイダイケ夫人が息子のアジャセに幽閉されただろ。あの時、お釈迦様はイダイケ夫人を救うため、この世ではなく、理想世界の阿弥陀如来がいらっしゃる極楽浄土へ生まれ変わることを説き、イダイケ夫人に生きる希望を与えらた。みんなも、昔話で聞いたことがあるでしょ。
そう、イダイケ夫人は、幽閉されたまま死を迎えられた。しかし、それは絶望の死ではなかった。喜びの中での死だったのだ。なぜなら、イダイケ夫人は救われたからだ。
この苦しみの世界に二度と生まれて来なくてもいいという世界に生まれ変わることを、阿弥陀如来によって約束されたからだ。イダイケ夫人は、極楽浄土へ行かれたのだよ。もうこの苦しみの世界へは生まれてはこないのだよ。
みなさんも、イダイケ夫人と同じなのだ。みなさんも、貧困や身分に幽閉されているようなものだ。貧困や身分に囚われている、囚人なのだ。どのように修行をしても、在家であるのなら、何も変わらない。出家しない限りは貧困も身分も変わらないのだ。出家者が托鉢をしに来て、わずかな食を施して、そうして徳を積む・・・。それも大事であろう。しかし、それでも現実は変わらない。また、そうした徳積みでも天界に生まれ変わることが約束されるだけだ。
天界は、やがて輪廻する。ひょっとすると、またこの苦しみの世界に生まれ変わることになるかもしれない。天界に生まれ変わるだけでは、本当の救いにはならないのだ。本当の救いとは、イダイケ夫人のようになることなのだ。すなわち・・・・。
極楽浄土に生まれ変わることなのだよ。それが本当の救いであり、皆さんが求めている救いなのだ・・・・・。
これが浄土思想の根幹なんですね。

しかし、このように説かれても貧しい人々は、どうすればいいかわかりません。昔話のイダイケ夫人は、国王の妃であった人ですし、何よりもその時代はお釈迦様が存在していて、極楽浄土をイダイケ夫人に見せてくださった。特別扱いだったんじゃないか、時代が違うじゃないか、というのが貧しく身分の低い人々の言い分でしょう。どうせ自分たちは救われないさ、というのが本音だったと思います。
しかし、大乗仏教集団浄土思想グループの修行僧たちは、それも予想していたのでしょう。ですから、観無量寿経の中に説くように、
「イダイケよ、汝のために説くのではない、生きとし生ける者のために説くのだ」
とあるのでしょう。また、
「お釈迦様の入滅後はどうすればいいのか」
とイダイケ夫人に質問させています。そこを彼ら浄土思想グループの僧侶たちは、強調するのです。身分に関係なく救われるんですよ、お釈迦様がいらっしゃらなくても、救われるんですよ・・・・と。誰もが極楽浄土へ生まれ変わることができるんですよ、と。
で、その極楽浄土に生まれ変わる方法を解き明かしたのが、観無量寿経である、のですね。

極楽浄土に生まれ変わる方法を具体的に解き明かしたのが、観無量寿経なのです。その方法をまとめてみましょう。
1、三福の行を修めること。
三福の行とは
@世俗の教えに従って父母に孝養をつくし、師と年長者を敬い、十善業をすること
A仏と法と僧に帰依し、戒律を守り、すべての立ち振る舞いを正しく保つこと
B悟りを求める心を起こし、深く因縁の道理を信じて、つねに大乗仏教の経典を読誦し、他の人々も救われるように教化すること
極楽浄土に生まれ変わるには、まずこの三つの福行を実践しなければいけない、と説いています。簡単に、三福の行・・・と言っていますが、これ、結構ハードル高いですね。いやいや、難行でしょう。簡単にできることではありません。
@ですが、まあ父母に孝養をつくす・・・というのは、できないではありません。しかし、最近のできの悪いというか、それでも親か!というような父母には孝養はつくせないでしょう。まあ、そのようなできの悪い父母はこの際切り捨てて、ここでは、一般的な父母を考えてくださいね。ですから、ここは当然と言えば当然でしょう。
師や年長者を敬うのも当然と言えば当然ですね。師とは先生のことであり、また修行における指導者であり、あるいは自分の職業の先輩や指導者のことでもある、と理解してください。ですから、皆さんの職場の上司も師に当たるわけです。
最近では、敬えるような上司や教師にあたらないのですが、そこはまあ、年長者でもあったりしますし、一応曲がりなりにも上司だったり教師だったりする相手ですから、敬っておきましょう。形だけでも・・・。そのほうが丸く収まりますし。
ここまではまあいいんですよ。ある程度常識の範囲ですから。問題は次の十善業です。
これは、いわゆる十善戒のことですね。殺生をしない、盗みをしない、性において乱れない、ウソを言わない、ふざけた言葉を使わない、悪口を言わない、二枚舌を使わない、貪らない、怒りや妬み恨み羨みの心をもたない、間違った考えをもたない・・・です。
これも、まあ、守るべきことですよね。普通に生活していれば、そんなに意識しなくてもできることでしょう。
しかし、殺生はどの範囲か?、虫もダメなのか?、ネズミもダメなのか?・・・盗みの範囲は?、盗み見はダメなのか、盗み聞きは?、ついつい聞こえてしまったのは盗み聞きか?・・・・性に乱れるとは、浮気は当然ダメなのだろう、不倫もダメだろう、ならば金銭で済ます風俗はどうなのか?、夫婦間でのプレイはどうなのか?、どこまでがよくてどこからがいけないのか・・・、ウソといっても人を救うウソもあるし、全部真実を話さねばならないのか、いくら真実でも言っていいことと悪いことがあるが・・・・・・ふざけた言葉といっても、流行語はダメなのか、言葉の乱れがダメなのか・・・・悪口は当然いけないが、批判はよいのか?・・・・・二枚舌も当然いけない、しかし、仲を取り持つための二枚舌や丸く収めるための二枚舌もダメなのか・・・貪らないとはどの程度言うのか、努力することは貪りに入らないのか、目標をもって一生懸命やることは貪りにはならないのか、妬みyや羨み、恨みはどうしても抱いてしまう、少しでももってはいけないのか・・・・間違った考えとはどういうことか・・・・。
などと考え出したら、とてもじゃないが十善戒は守れません。具体的にどこまで良くて、どこからが罪なのか、それはわからないんですね。
まあ、常識的範囲で・・・・ということになってしまうでしょう。しかし、いずれにせよ、十善というのは、守るのが簡単ではないことは確かです。しかも、戒として守るのではなく、業として行えといっているのです。積極的に十善を行え、という意味ですよね。そうなると、これって案外、難しいものなんですよ。

Aもそうですよね。仏・法・僧に帰依する(信じ従う)のはいいとしても、戒律を守り、とあります。在家の場合は、殺生しない、盗まない、性において乱れない、ウソをつかない、お酒を飲まない、です。なので、十善を行うよりは簡単ですね。
わからないのは、立ち振る舞いを正しくせよ、ということです。これはもう出家者の行う範囲です。在家には、意味がわからないですね。立ち振る舞いを正しくせよ、とは、どこから見ても、誰から見ても、「あぁあの人は立派な人だわ」と言われるような印象を与えるようにしなさい、という意味です。ふだんから、ダラーとしないで、どんな時もきびきびシャッキ、爽やかな笑顔で清々しい受け答えをし、背筋がピーンとなっていて、嫌みがなく、清潔感があり、他人に親切で、仕事をよくし、周囲の人をよく面倒を見て・・・・・はぁ、こんな人いませんよね。まあ、少しでもそういう理想的人物に近付くことを心掛けることですね。難しいことですが・・・。あ、私は失格です。普段からダレーとダレていますから。

Bこれはもう修行者の領域です。悟りを求める心を起こし・・・・。無理でしょう。苦しみに喘いでいるんですよ。悟りではなく、極楽に生まれ変わりたいんです。現実から逃げたいんです。悟りを求める心って・・・・そんな余裕ないですよね。
まあ、悟りを求める心を起こす、これはいいとしましょう。難しくありません。極楽へ生まれ変わりたい、と願う心も同意義でしょう。同じことです。しかし、深く因縁の道理を理解し・・・って、これ理解していたら、現実に苦しみません。なぜなら、深く因縁の道理を理解したら、今苦しんでいるという理由がわかってしまうからです。で、受け入れざるを得ない、と思えるからです。深く因縁の道理を理解する、とはそういうことです。
となれば、極楽へ行くことを願う必要もなくなりますし、それは一種の悟りの境地です。そこまでしなくてはならないのなら、極楽へ生まれ変わる願いはあきらめよう、という者が出てくることでしょう。
まあ、ちょっとやり過ぎですね。
で、大乗経典を読みなさい、みんなを救う手伝いをしなさい、と付け足されています。これは、つまりは、
大乗仏教浄土思想グループの仲間になって、一緒にお経を読みながら、多くの苦しむ人々に教えを説いて回りましょう、そうすれば深く因縁の道理も理解できるし、悟りへの道も切り開かれていきますよ・・・・。
という意味と解釈したほうがいいでしょう。いわば、宗教活動を行え、という意味ですね。

Bなどは、現代でも新興宗教や新新興宗教が説いていますし、行っていることです。昔も今も同じですね。
まあ、それはともかく、これだけのことをしなければ、極楽浄土へ生まれ変わることはできないのです。案外、難しい道のようです。
確かに、これではみなついて来れないでしょう。途中であきらめる者も出てくるに違いありません。そこで、もっと簡単に極楽浄土を感じる方法があるぞ、と説きます。それが観想です。
次回は、その観想について解説したします。


A観無量寿経 7
今回は、観無量寿経に説かれた観想について解説をします。
本文では、省略をしましたが、観無量寿経には、16種の観想が説かれています。一つ一つを詳しく説明したほうがいいとは思いますが、かえってわかりにくくなるので、なるべく簡単にみていきましょう。

初観・・・日想
第一の観想を初観といいます。内容は
西に向かって座し、落日の光景を見る→大きな夕陽を心に刻み込む→日が沈んだ後も夕陽の情景が鮮やかに思い浮かべることができる
という観想です。要は夕日の真っ赤な太陽を心に思い浮かべよ、ということですね。これなら簡単にできそうですね。

第二観・・・水想
清く澄みきった水を明瞭に思い浮かべる→その水が氷になったと思う→その氷が瑠璃になったと思う→その瑠璃が極楽浄土の大地となり、荘厳された美しさを思う
ちょっと飛躍があると思いますが、まあ、なんとか思い浮かべられそうですかねぇ。

第三観・・・地想
眠るとき以外は、目を閉じていても開いていても、第二観の瑠璃の大地と荘厳された美しさを思い浮かべる→その状態で瞑想に入る→極楽浄土の大地がますますはっきり見える
いつでもどこでも、極楽浄土の瑠璃の大地を思え、ということですね。それに慣れてくれば、瞑想したときに極楽浄土の大地がはっきりと思い浮かべることができる、ということですね。

第四観・・・樹想
ここからが難しくなります。
極楽浄土にある木は根・幹・枝・葉・花・実、すべて宝でできていると思う→その木が何本も調和がとれて並んでいると思う→木の高さは計り知れないほど高いと思う→七宝の花が咲き、七宝の実がなっていると思う→真珠で飾られた巨大な網が七重に木々を覆っていると思う→網と網の間には美しい花で飾られた宮殿があると思う→多くの天人たちがその宮殿で音楽を楽しんでいると思う→その天人は五百億の宝珠の飾りをつけ、光り輝いていると思う→こうした木が何百本と立っていると思う
ちょっとわけがわからなくなりますね。瑠璃の大地からはえている木があると想像してください。で、その木は宝石でできているのです。金や銀、ダイヤモンドなどでできているんですね。キンキラキンな木なのです。もちろん、花も実もキンキラキンです。で、そのキンキラキンの木は、めちゃくちゃ高くて、スカイツリーより高くて、で、そのてっぺんからは網が広がっているんですね。その網は、他の同じような木のてっぺんでつながっているのだと思ってください。木と木の間に大きな網があるのだ、ということですね。その網は、紐の交差するところに巨大な真珠が埋め込まれています。網と網の間には、木々だけじゃなく、巨大な宮殿があるんですね。
そうですね・・・、この方がわかりやすいかな。
キンキラキンにライトアアップされたスカイツリーが何本もあって、そのてっぺんからてっぺんに網がかかっているんですね。真珠でできた網です。その網と網の間、すなわち、スカイツリーとスカイツリーの間には、巨大なビル(お城でもいいです)が建っているんです。そのビルもキンキラキンの宝石でできています。
そのビルの中には、美しく着飾った天人(天女でいいですよ)がいて、ノリノリで音楽を楽しんでいるんですね。踊りまくっているわけです。楽しそうですな。
そうしたスカイツリーとビルがいくつもあるんですよ。そういう情景を想像してください。その想像が、いつでもできるようになれば、第四観ができたことになるのです。ただし、最終的にはスカイツリーを木に、ビルを宮殿に置き換えてくださいね。
なんとなく、想像できるでしょうか?。

第五観・・・八功徳水の想
極楽浄土には八つの宝の池があると思う→その池の水は宝でできていると思う→その水は池の中にある宝珠から湧き出ていると思う→一つの池からは14の川が流れ出ていると思う→それらの川は七宝の色に輝いていると思う→河の底は黄金でできていて、川の砂はダイヤモンドでできていると思う→そのダイヤモンドの川砂からは七宝の蓮華が咲きだしていると思う→川の水が流れる音は教えを説いている素晴らしい声になっていると思う→水源となっている池の中の宝珠は金色の光を放っている→その光は空中に広がり七宝の色をした鳥となって羽ばたいていくと思う→その鳥は優雅に飛び回りながら、仏と法と僧を称賛していると思う
とてつもなくスケールが大きいです。さらに、想像を絶する内容です。ともかくは、めちゃくちゃでかい池が八つあると思ってください。どれくらいでかい池かと言うと、その池からは14もの川が生まれているのです。一度に八つの池を想像するのは面倒なので、まずは一つの池だけを想像しましょう。
大きな池です。その池の中心には黄金に輝く巨大な宝珠があります。池というより、湖と思った方がいいですね。琵琶湖でいいでしょう。琵琶湖の真中に島があるように、黄金の宝珠があるんですよ。その宝珠からは光り輝く水が湧いているんです。湖からは、14もの川が生まれています。池の水はキラキラと輝いています。当然ながら、川の水も光り輝いています。
あぁ、そうですねぇ、イルミネーションで造った川のようですね。ともかく、光り輝いている川なんです。
その川からはこれまたキラキラと輝く蓮華が咲いているんですよ。で、上空にはこれまた光り輝いている鳥が飛んでいて、仏様は素晴らしい、教えは素晴らしい、教えを実践する僧も素晴らしい、と鳴いているんですな。あぁ、そうそう、川の流れの音は、お経になっています。
と、まあ、このような湖が八個もあるんです。
しかし、こんなにも宝石好きと言うのは、なんだか受け入れにくいですよね。まあ、インド人の感覚なんでしょうかねぇ。なんでもかんでも宝石でできている・・・みたいだと、生き物の感じがしませんよね。生命観が感じられない。まるで、すべて造りモノのように思えてしまいます。宝石でできた造りモノがたくさんあって、鳥はロボットかラジコン製の鳥・・・・としか思えないんですよね。どれもこれも無機質な感じがします。命が宿っているとは思えないんですよね。
こうした宝石でできている、黄金でできている、という表現は、その当時では豪華で、この世ではないと思わせるにはいい表現方法だったのかもしれません。しかし、現代では、どうも無機質な感じしか生まれて来ないように思うのです。命が宿っていない、造りモノのように思えてならないんですね。ですから、観想が難しいのかもしれません。特撮映画やSF映画などで、宝石でできた生き物みたいなものを映像で見てしまっている現代人には、そういうものは造りモノとしか思えないのかもしれませんね。
ですので、この観想は難しいと思います。ポイントは、無機質な感じがする情景に如何に生命観を感じることができるか、ということでしょう。

第六観・・・総の観
極楽浄土には500億の楼閣があると思う→その楼閣はすべて宝石でできていると思う→その中には無数の天人がいて音楽を奏でていると思う→空中には楽器が浮かんでおり勝手に音楽を奏でていると思う→それらの音楽はどれも教えを説いていると思う→この楼閣からは宝の八つの池や宝の木々が見渡せると思う
相変わらず大袈裟な表現ですね。500億って・・・・。そんな数の楼閣を想像できますか?。無理に決まっています。なので、ここでは数にこだわらないようにしてください。大事なのは500億という数字ではありませんからね。
なので、まず一つだけ巨大な宝石できた楼閣を思い浮かべてください。楼閣が難しいなら、お城でもいいし、ビルでもいいです。現代風にビルで行きましょうか。
巨大なビルがあります。もちろん、スカイツリーよりもはるかに高く巨大なビルです。そのビルは、宝石でできているので、光り輝いています。眩しいくらいです。で、よくよくそのビルの中を見てみるとたくさんの天女がいろいろな楽器を手に取り、楽しそうに音楽を奏でています。ピアノあり、バイオリンあり、ギターあり、トランペットもあり、ハープもあり・・・・・。どれもこれも、素晴らしい音楽で、心休まります。とても穏やかな気分になるんですね。
それだけではありません。なんと、空中にも楽器が飛び回っています。それらの楽器は、勝手に演奏されています。その音楽も天女の音楽もとても素晴らしいものです。混ざって聞こえてきても全くの違和感はありません。耳障りでもありません。見事に融合し、とても心休まる音楽を奏でています。
そんなビルにあなたは誘われて屋上まで行ってしまいます。あなたは、ふと屋上から下を見てみます。すると、光輝くスカイツリーが何本も下に見えています。ちょっと向こうには、光り輝いている大きな湖が見えています。湖からは川が流れており、その川には光り輝く無数の蓮華が咲き乱れています。
なんという美しい光景でしょう。

ここまでが、極楽浄土の光景の観想です。極楽浄土へ行くには、まずは、極楽浄土の世界を思い浮かべることができなければいけないのですね。極楽浄土がどんな世界か知ることから始まるわけです。
まあ、しかし、これらは一遍にはできないことでしょう。少しずつ、一歩一歩、そうした情景を思い浮かべながら、だんたんと深い観想へと移っていくのでしょう。
こうした観想が難しい方は、まずは創造力豊かにすることから始めたほうがいいかも知れませんね。情景がうまく思い浮かべられない、と言う場合は、絵本などを読むのもいいと思います。
読書をして、その内容が頭に浮かべられる方は、このような観想はしやすいのではないでしょうか。特にファンタジーやSF作品はいいかもしれません。
初めから極楽浄土の世界を観想するよりは、想像力を身につけてから観想に入ったほうがやりやすいと思います。
今回は、ここまでにして、続きは次回にいたします。次回からの観想は、極楽浄土の世界ではなく、阿弥陀如来や菩薩に関しての観想です。


A観無量寿経 8
観無量寿経に説かれた観想についての解説の続きです。今回は、第七観からです。

第七観・・・華座想
第七観から阿弥陀如来の観想が説かれます。これは、イダイケ夫人の阿弥陀如来や観世音菩薩・勢至菩薩を拝みたい・・・という望みに応えたものです。で、それには阿弥陀如来や観世音菩薩・勢至菩薩を観想すればいいのですが、その第一歩がこの第七観になります。
まずは宝石で作られた蓮華のうてなを思え、と説きます。「うてな」とは、蓮台のことですね。蓮の華の中心部分は、蓮台と言い、平らになっています。蓮の実ができるところですね。如来はこの蓮台に座っています。奈良の大仏然り、鎌倉の大仏然り、阿弥陀如来像然り・・・・。どの如来も蓮の華の中心の平らな部分に座っているのです。いま、その蓮台は宝石でできているのです。しかも巨大です。
宝石でできた巨大な蓮台を思う→その蓮台には四本の柱が立っていると思う→柱には五百億の宝珠で飾られた幕が張り巡らされていると思う→その宝珠は光り輝いていると思う→これが阿弥陀如来が座る蓮台である
蓮台のみを観想するので、華座想というのです。

第八観・・・像想
心に仏を思う→目を閉じていても開けていても金色に輝く仏が見えるように思う→宝の大地があり、宝の木があり、宝の池があり、極楽浄土の美しさを思う→その極楽浄土のなかに蓮の花があり、蓮のうてなに仏が座していると思う→その左の大きな蓮には観世音菩薩が座し、右の蓮には勢至菩薩が座していると思う→これが阿弥陀三尊の観想である
阿弥陀三尊を観想するので、像想といいます。これができれば、瞑想中に極楽の妙なる音を聞くことができます。その音は、教えそのものであり、瞑想から覚めても、その教えは記憶に残るのです。
また、この観想を身につけたものは、無数の罪が消え、現在の身・・・つまりこの世・・・で仏を見ることができる、説いています。さらには、仏を念じた時、心の安らぎが得られるそうです。

第九観・・・遍観一切色身想(へんかんいっさいしきしんそう)
阿弥陀三尊を瞑想する→十方一切の仏を見ることと同じ→一切の仏を観想する
と言うわけで、遍観一切色身想の名前があります。また、この瞑想を念仏三昧ともいいます。つまり、阿弥陀三尊を観想することができるようになれば、自ずとすべての如来を観想することができるようになるのです。阿弥陀如来を通じ、一切の如来に囲まれる自分がいるわけです。すごい瞑想ですね。いわば、曼荼羅の中心に座すようなものです。

第十観・・・観世音菩薩の観想
なぜかここで、観世音菩薩を観想します。なぜ観世音菩薩に戻るのか、ちょっと疑問ですね。阿弥陀三尊をすでに観想しているのに、なぜ?、と思ってしまいますが、理由はよくわかりません。たぶん、ですが、忘れていたからここに入れた、のでしょう。
そんないい加減な!、と思われるかも知れませんが、案外お経はこういうことがあります。編纂の途中で気がついた、と言うことがしばしばあるみたいですね。
で、ここでは、観世音菩薩の姿形を観想するのです。次の第十一観は勢至菩薩の姿形を観想します。
原文では、大きさや紫金色に輝く姿、宝冠のようす、手に持つ蓮の花などについて詳しく説いてありますが、まあ、観世音菩薩を観想していただければいいので、割愛いたします。

第十一観・・・勢至菩薩の観想
第十観と同じく、勢至菩薩を観想します。原文ではあまり詳しくは説かれていません。「観世音菩薩と等しく異なること無し」といった感じで終わっています。そのためか、観世音菩薩ほど信仰を集めてはいません。単独で祀られる事もあまりありません。阿弥陀三尊でセットで祀られることが多いですね。
観世音菩薩、勢至菩薩の姿形は、「仏像がわかる」ののバックナンバーを参考にしてください。

第十二観・・・普観(ふかん)
今まで説いた極楽浄土について全体を総合的に観想できるようにします。すなわち、宝の大地に宝の木、宝の池があり、無数の天人が舞い、妙なる音楽が流れ、まばゆく輝いており、その中に阿弥陀三尊がいらっしゃる・・・・という極楽浄土の情景をまずは思い浮かべます。そして、そこに自分が生まれ変わってきたと観想するのです。極楽浄土に生まれ変わったと思うのです。
ここまでは、順番に行ってきました。次第に瞑想を深くしていく、という方法ですね。で、十二観までができてしまえば、最終的にはいつでどこでも、これまですべての観想が総合的にできるようになる・・・・のだそうです。それが第十三観にあたります。

第十三観・・・雑想観
すべての観想を自由自在に観想する、という観想です。順番に観想するのではなく、総合的に観想するわけですね。
これで、阿弥陀如来の極楽浄土に関する観想は終了するのです。ここまで来たならば、いつでもどこでも極楽浄土にいられるようになるのです。亡くなってから極楽へ行くのではなく、ですね。

とはいえ、大変難しいですよね。簡単にはできません。しかも、観想する、瞑想するには、落ち着いた環境や時間が必要です。忙しい毎日、騒々しい毎日を過ごしている現代人にはとてもじゃないですが、無理・・・・。
ですので、たまにお寺などに行って、あるいは仏像展などに行って、阿弥陀三尊を見てきてください。できれば、写真などを買ってきてもいいですね。で、家で阿弥陀三尊を前にして心静かに座ってみましょう。ほんの数分で結構です。
阿弥陀三尊の前に座ったら、自分がミニサイズになったと思ってください。アリのようになったと。で、そのアリのような自分が阿弥陀三尊の写真の前に跪いて礼拝している、と想像してください。それだけでいいんです。ようは、そういう想像がいつでもできるようになるのが、瞑想なんですから。
そのうちに、自分は阿弥陀三尊に見守られているんだ、と思えるようになってくるでしょう。その気持ちが大切なんですよ。なにも、お経に説くような瞑想をしなければいけない、と言うことはないのです。もっと簡単に考えてくださって結構なんですよ。

さて、お経は、次の内容に進んでいきます。それは、九品(くほん)についてです。
九品とは、極楽浄土に往生する者には、九種類の優劣がある、という教えです。人間には色々な人がいるのだから、皆同じように極楽浄土に生まれ変わるわけには行きません。そこで、九種類に分類したのです。それは次のようになっています。
1、上品上生(じょうぼんじょうしょう)   2、上品中生(じょうぼんちゅうしょう)
3、上品下生(じょうぼんげしょう)     4、中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)
5、中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)  6、中品下生(ちゅうぼんげしょう)
7、下品上生(げぼんじょうしょう)     8、下品中生(げぼんしゅうしょう)
9、下品下生(げぼんげしょう)


それぞれの違いを簡単に解説しておきます。
1、上品上生
誠実な心を持っていて、仏法を深く信じる心を持っていて、一切の善行を行いそれを自慢しない、という心を持った者で極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。あるいは、戒律をよく守り、慈悲心を持ち、大乗経典をよく読み、佛・法・僧を敬い、喜捨の心があり、天部の神を敬う者で極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。

2、上品中生
大乗経典をよく理解し、深く因果の法を信じ、大乗を誹謗せず、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。

3、上品下生
因果の法を信じ、大乗を誹謗せず、悟りたいという心を起こし、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。

以上のものは、死後すぐに極楽へ生まれ変わることができると説いています。すなわち、上のような人はこの世で亡くなってすぐに極楽浄土に生まれ変われる人、というわけです。逆にえば、この世で亡くなってからすぐに極楽浄土に行きたい人は、三種の上品の中に入っていないといけないわけです。ちょっと難しそうですね。ただ単に「阿南無阿弥陀仏」と唱えているだけでは、極楽に行けないんですね。深く仏教を信じないと、極楽へは往けないようです。

4、中品上生
在家の戒律を守り、父母・仏・法・僧・国王を敬い、善行をし、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。

5、中品中生
一日一夜だけでもいいから、様々な戒律を守り、正しい生活を送り、善行をし、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。

6、中品下生
父母に孝養をつくし、世間の人々と正しく付き合い、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。

以上のものは、一度別の世界に生まれ変わってから、極楽に生まれ変われると説かれています。すなわち、この世で亡くなってから、一度違う世界・・・おそらくは天界のどこか・・・・へ生まれ変わって、そこでの寿命が尽きたならば、次は極楽浄土へ生まれ変わることができる者です。このグループの内容なならば、なんとかできそうですよね。特に、中品中生ならば、できそうな気がします。たった一日でいいんですからね。たった一日ならば、在家の戒律どころか、八斎戒も守れるでしょう。6の中品下生よりも5の方が簡単に実行できそうですよね。順番が違う?、ような気もしますが、まあこのように説かれているのですから、そのまま信じましょう。信じることが大切ですからね。頑張って、たった一日でもいいので清く正しい生活をし、念仏を唱えていましょう。そうすれば一度天界を経て、次は極楽浄土への切符を手にできるのですから。

7、下品上生
大乗経典を誹謗することはしないけれど、多くの悪行を行い、それを恥とも思わないが、死後はやっぱり極楽世界に生まれ変わりたいなと願う者。

8、下品中生
様々な戒律を犯し、お寺のものを盗み、名誉や私利私欲のために説法をして、それを恥とも思わず、様々な悪行をするが、死後はやっぱり極楽世界に生まれ変わりたいなと願う者。

9、下品下生
様々な罪を犯し、父母や僧侶、仏を殺害し、これ以上はないというような悪行をしたもので、それでも死後はやっぱり極楽世界に生まれ変わりたいなと願う者。


以上のものは、その罪により地獄へ落ちるが、極楽へ生まれ変わりたいと願ったことにより、いずれ阿弥陀如来に救われて、極楽に生まれ変わることができると説かれています。まあ、ちょっとひどい罪を犯しているので、地獄へ行くのは仕方がありませんね。しかし、極楽へ生まれ変りたい願ったならば、必ずいつかは(ここが大事です。いつかは、です)極楽へ生まれ変わることができるのです。このことを端的に表しているのが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」でしょう。あの話は、折角極楽へ生まれ変わらせてあげようとしたのですが、強欲によってそのチャンスを失ってしまう話なのですが、地獄へ生まれ変わっても、必ずいつかは救いの手が来るのです。その「いつか」を信じていられるかどうかそこが大事なのですね。そこを信じていられるならば、その「いつか」は案外早いんじゃないでしょうか。大事なのは、信じる心なのです。

さて、このように極楽浄土を感じる方法と、そこへ生まれ変わるにはどうすればよいかを説いたのが、観無量寿経です。ざっと大雑把に見ただけです。もっと詳しく知りたいという方は、ネットでもたくさん解説が出ておりますので、読んでみてください。
観無量寿経もそうですが、どんなお経でも大切なのは「信じる」ということですね。ちょっと内容的に荒唐無稽なところはありますが、それはそれ、お話の設定上仕方のないことだと御理解していただいて、本当に伝えたかったことは何なのか、ということを見抜けるようにして欲しいですね。荒唐無稽な話は、あくまでも方便なのですから。
以上で、観無量寿経を終えます。次回は、浄土三部経の最後「阿弥陀経」に入ります。



*B阿弥陀経 1
今回から浄土三部経の最後、阿弥陀経についてお話いたします。内容は簡単に言いますと、極楽浄土の様子と諸仏が阿弥陀如来を讃嘆する様が説かれています。阿弥陀経は、短いお経で、よく読誦されています。では、解説をしながら内容に入ります。

導入部分は、他のお経と同じように、如是我聞(にょぜがもん)から始まっています。その時どこにお釈迦様がいらして、どれだけの者に対し教えを説いていたか、という解説がなされます。これはどのお経も同じですね。少し省略をしますが、本文はこのようになっています。
「お釈迦様が舎衛国(しゃえいこく)の祇園精舎に滞在されていた時のこと。お釈迦様の周りには、長老であるシャーリープトラを始め、モッガラーナ、マハーカーシャパ、カッチャーナ・・・・略・・・・ナンダ、アーナンダ、ラーフラ、ビンドーラ、カールダーイン・・・・などの長老や千二百五十人もの修行僧、文殊菩薩、弥勒菩薩などの諸菩薩、天部の神々が集まっていた。」
舎衛国とは、コーサラ国の首都・シュラーバースティのことです。祇園精舎はそこにありました。そこでは、数多くの教えが説かれています。この経もその一つですね。

祇園精舎で、そのときお釈迦様は極楽浄土の様子について説かれていました。
「そのとき、お釈迦様はシャーリープトラに説いた。
これより西の方、十万億の仏国土を超えたところに、とある世界がある。そこは極楽と呼ばれている。この仏国土には阿弥陀如来がおり、今現在も法を説いているのだ。
シャーリープトラよ、彼の仏国土がなぜ極楽と言われるか。彼の仏国土は、そこに住む衆生が苦を受けることがない。それどころか、皆諸々の安楽を得ているのだ。だから極楽と名付けられたのだ。
シャーリープトラよ、彼の極楽国土は七重の素晴らしい欄干で囲われ、七重の宝珠のついた網で覆われ、七重の宝玉でできた樹木で囲われている。これらのものは、すべて金・銀・金剛石・水晶などの宝石でできている。こうした宝玉で囲まれているからこそ、彼の仏国土を極楽と呼ぶのだ。
シャーリープトラよ、彼の極楽国土には七宝でできた池があり、妙なる功徳のある水で満たされている。池の底は金でできており、また大地も金でできている。人々が歩む道は金・銀・瑠璃・水晶などでできている。巨大な楼閣があり、その楼閣も金・銀・瑠璃・水晶などでできているのだ。池の中には、蓮華が咲いており、その蓮の華は大きく、青や黄、赤、白などに光り輝いており、妙なる香りを放っている。シャーリープトラよ、極楽国土はこのような功徳を成就した国土なのだ。
シャーリープトラよ、彼の仏国土では常に天人が美しい音楽を奏で、昼夜問わず美しい花々が降りそそいでいる。その地に住まう人々は、常に清浄で衣や身体が汚れることはない。その地の人々は、妙なる華を盛り、十万億の仏に供養するのである。極楽はこのような功徳や荘厳を成就した世界なのだ。
シャーリープトラよ、彼の国では種々の珍しく美しい鳥・・・それはオウムのようであり、クジャクのようであり、また天界の鳥であるカリョウビンガである・・・・がいて、昼夜問わず妙なる声で鳴いている。その鳴き声は仏の教えを説いているのだ。この鳥たちが教えを説くので、彼の国の人々は罪を犯さない。彼の国の人々は罪を犯さないので、彼の国には地獄・餓鬼・畜生の世界がないのだ。それらの鳥たちは、みな阿弥陀如来の教えを説いているのだ。だからこそ、罪を犯す者がいないのだよ。
シャーリープトラよ、彼の仏国土には心地よい微風が吹いている。その風に揺られ、宝石でできた木々の葉は音を立てている。その音は、すべて法を説いているのだ。また、水晶の珠で荘厳された網も風に揺れ光り輝き、妙なる音を奏でている。それらも教えを説いているのだ。それらは、自然に阿弥陀如来を念ずること、心より阿弥陀如来を念ずることを説いているのだよ。
このような功徳や荘厳を成就した仏国土が極楽浄土なのだ」

無量寿経と比較しますと、極楽浄土の様子は簡単に説かれています。しかし、内容は無量寿経と同じですね。無量寿経を省略したといった内容です。大地や木々、上空を覆う網、池、池の中の蓮華はすべて宝石でできており、光り輝いています。また、法を説く鳥たちいて、天人が妙なる音楽を奏でている・・・・。極楽国土を紹介するときは、必ずこうなっています。まあ、当然なのですが。違っていたら困りますよね。で、その極楽国土に住む人たちは罪を犯さないんですね。罪を犯さないから、地獄だの餓鬼だの畜生だのと言った世界もない。お釈迦様の娑婆世界・・・すなわちこの世とは大違いなわけです。そういう世界を創ることを成し遂げたのが阿弥陀如来であり、できあがった世界が極楽浄土なのですね。阿弥陀経は、このように極楽国土の様子を説くところから始まっているのです。しかし、この部分はもうすでに他の浄土系のお経に詳しく説かれています。ですので、このことが阿弥陀経の主ではありません。本題はこれからです。

「シャーリープトラよ、彼の極楽国土を成就した阿弥陀如来はなぜ阿弥陀如来というのか説いておこう。
シャーリープトラよ、彼の仏は、その光明が無量なのだ。その光は遍く十方の世界を照らし、その光が行き届かないところはないのだよ。決してその光を妨げることはできないのだ。だからこそ、無量の光という意味で無量光如来という名があるのだ。つまり、アミターバである。
シャーリープトラよ、彼の仏はその寿命が無量にある。無量無辺というべき長きにわたる寿命を持っているのだ。また、彼の極楽国土の住まう人々も同様に無量の寿命を持っている。だからこそ、無量寿如来という名があるのだ。つまり、アミターユスである」
阿弥陀如来の名前には二つの意味があります。アミターバとアミターユスです。アミターバは無量の光明という意味です。アミターユスとは無量の寿命という意味ですね。ですので、阿弥陀如来のことをしばしば無量光如来とか、無量寿如来とか呼ぶのです。無量寿如来は聞いたことがあるのではないでしょうか。無量寿如来も無量光如来も、どちらも阿弥陀如来のことなのですよ。そこで「バ」と「ユス」を取っ払って、「アミタ」だけにして阿弥陀如来という名前になったのです。ここは、阿弥陀如来の名前の由来について説き明かしたのです。

「シャーリープトラよ、この教えを聞く一切の衆生は、まさにこの極楽国土に生まれ変わりたいと願うべきであろう。なぜならば、彼の極楽国土には聖者の位をきわめた阿弥陀如来の直弟子や、次の世では如来となることを約束された菩薩がたくさんいるのだ。極楽国土に往生すれば、阿弥陀如来だけでなく他の聖者たちの教えをも聞くことができる。また、この世で悲しくも死別せねばならなかった人たちとも会うことができるのだ」
ここでは、重要な仏教語が出てきます。一つは一生補処(いっしょうふしょ)で、もう一つは倶会一処(くえいっしょ)です。
一生補処は、もう一度生まれ変わったならば、次は必ず如来になることを約束されている、ということです。一生補処の菩薩といいます。代表の菩薩は弥勒菩薩ですね。次にこの世に生まれ変わってくるときは、如来になることをを約束されています。数ある菩薩のなかでも、次に如来になることを約束されているのは、この娑婆世界では弥勒菩薩だけです。ところが、極楽国土では次に如来になることを約束された菩薩はたくさんいるのですね。それだけ極楽国土は優れている、ということです。
もう一つの倶会一処は有名な言葉ですね。極楽浄土に生まれ変われば、亡くなった人たちと巡り合える、という意味です。往きつくところは極楽国土という一緒の場所、同じ場所で会いましょう、という意味ですね。
「死んでもまた会えるよ、極楽で待っているよ」
この言葉に、多くの人々が励まされたことでしょう。愛する人の死を乗り越えることができたことでしょう。そういう意味では、倶会一処はいい言葉だと思います。

「シャーリープトラよ、とはいっても、簡単に極楽国土に往生できるわけではない。僅かばかりの善根を積んだだけでは生まれ変わることはできないのだ。極楽浄土に生まれ変わりたいと願うなならば、阿弥陀如来の名を心に受け止め、念じることが大事だ。心より南無阿弥陀仏と唱え、念じるのだ。一日でも、二日でも、三日でも、四日でも、五日でも、六日でも、七日でも、他に心を移すことなく、一心不乱に阿弥陀仏を念じることだ。そうすれば、寿命が終わろうとするとき、阿弥陀仏は諸々の菩薩とともにその人の前に現れ、守ってくれよう。そして、息を引き取るとき、極楽国土へ往生させてくれるのだ」
念仏の重要性を説いています。念仏をすれば極楽浄土に往生できる、ということですね。ただし、その念仏は口先だけではいけません。一心不乱に唱えねばいけないのです。口先だけで
「ナンマンダブ」
と言っているだけではダメなのですよ。心から阿弥陀様を念じないとね。心に阿弥陀如来を浮かべ、そのとき口から自然に「南無阿弥陀仏」と唱えている・・・それが大事なのです。そういう状態になったならば、極楽浄土へ往生できる資格を持つことになるのですよ。口先だけの念仏じゃあ、ぜんぜんダメなんですよ。ただ、唱えればいい、っていうものじゃありません。
そのように心から念仏できた人は、いよいよ死を迎えるときは、阿弥陀如来が観音様、勢至様、そのほか大勢の菩薩様、天人様とともに迎えに来てくれるのです。この教えが元で、「阿弥陀来迎図」が描かれたのです。平安時代後期には、多くの公家がこの来迎図を屏風に描き、枕元において臨終を迎えました。まあ、いろいろ悪いことをしている公家ですから、極楽浄土に生まれ変われるかどうか心配だったんでしょうねぇ。なので、来迎図の屏風を造らせ、縋ったのです。浅ましいと言えば浅ましい・・・・ですよね。公家は金持ちですから、そういうことができたのですが、それって偽善というか、ニセの信仰ですよね。そういう金任せで自分の悪行をチャラにしようなんて者は、極楽浄土にはねぇ、いけないんじゃないかと、そう思うのですが・・・・・。
ま、ともかく、この教えがもとで阿弥陀来迎図という芸術が生まれたのはよかったと事だと思います。

合掌。

B阿弥陀経 2
前回は、阿弥陀経の前半部分をお話いたしました。それは、阿弥陀如来の極楽浄土の素晴らしさと、阿弥陀如来の名前の由来、どうすれば極楽浄土に生まれ変われるか、といった内容でした。
今回は、後半部をお話いたします。

「シャーリープトラよ。私は、今、阿弥陀仏の不可思議な功徳を説き、讃嘆した。しかし、阿弥陀仏を讃嘆しているのは私だけではないのだ。
東方にアシュク仏という如来がいる。また、須弥相仏(しゅみそうぶつ)、大須弥仏(だいしゅみぶつ)、須弥光仏(しゅみこうぶつ)、妙音仏を代表とする無数の諸仏がいる。それら諸仏は、それぞれに仏国土がある。彼ら東方の一切の諸仏たちもそれぞれの仏国土で阿弥陀如来の不可思議な功徳を讃嘆しているのだ。
南方に日月灯仏(にちがつとうぶつ)、名聞光仏(みょうもんこうぶつ)、大焔肩仏(だいえんけんぶつ)、須弥灯仏(しゅみとうぶつ)、無量精進仏(むりょうしょうじんぶつ)などという無数の諸仏がいる。それぞれに皆仏国土を持っており、その各国土で阿弥陀如来の不可思議な功徳を讃嘆しているのだ。
西方に無量寿仏、無量相仏、寶相仏(ほうそうぶつ)、浄光仏などという無数の諸仏がいて、それぞれに皆仏国土を持っており、その各国土で阿弥陀如来の不可思議な功徳を讃嘆しているのだ。
北方に焔肩仏(えんけんぶつ)、最勝音仏(さいしょうおんぶつ)、難沮仏(なんしょぶつ)、日生仏(にっしょうぶつ)、網明仏(もうみょうぶつ)などという無数の諸仏がいて、それぞれに皆仏国土を持っており、その各国土で阿弥陀如来の不可思議な功徳を讃嘆しているのだ。
下方の世界に師子仏、名聞仏、名光仏、達摩仏(だつまぶつ)、法幢仏(ほうどうぶつ)、持法仏(じほうぶつ)などという無数の諸仏がいて、それぞれに皆仏国土を持っており、その各国土で阿弥陀如来の不可思議な功徳を讃嘆しているのだ。
上方の世界に梵音仏(ぼんのんぶつ)、宿王仏(しゅくおうぶつ)、香上仏(こうじょうぶつ)、香光仏(こうこうぶつ)、大焔肩仏(だいえんけんぶつ)、雑色寶華厳身仏(ざっしきほうけごんしんぶつ)、娑羅樹王仏(しゃらじゅおうぶつ)、寶華徳仏(ほうけとくぶつ)、見一切義仏(けんいっさいぎぶつ)、如須弥山仏(にょしゅみせんぶつ)などという無数の諸仏がいて、それぞれに皆仏国土を持っており、その各国土で阿弥陀如来の不可思議な功徳を讃嘆しているのだ」
阿弥陀如来を讃嘆しているのは、実はお釈迦様だけじゃない、すべての如来が讃嘆しているのだ、ということを説き明かしています。
仏教の宇宙観では、大日如来を中心に、東西南北及び上下に無数の仏国土が存在している、と説きます。ここでは、その一部の如来の名前を挙げているわけです。が、おそらくどの如来の名前も御存知ないでしょう。唯一わかるのは、アシュク如来だけですね。そのほかの如来の名は、よそではほとんど見られません。したがって、どんな如来なのかもよくわかりません。まあ、よくはわからないのですが、そうした如来がいっぱいいて、すべてが阿弥陀如来を讃嘆し、阿弥陀如来のことを説いているのだ、というのです。素晴らしい限りですね。すべての如来が称賛する如来が阿弥陀如来なのですから。
これは、当然のことながら、このお経の編纂者が「我が教えが一番」という、いわばお約束の称賛を入れただけのことです。どのお経にもみられる事柄ですね。どのお経も、「我が教えが一番すばらしい」という文言が入っています。どの教えよりも、自分たちが信じる教えが一番なのだ・・・・ということです。大乗経典では、この「我が教えが一番」という内容を説くことは、決まっているのことなのです。なので、「ほう、阿弥陀如来は一番すごいんだ」などと思わなくてもいいのです。というか、仏教には、教えに差はありません。どれが優れていて、どれが劣っているという優劣はありません。簡単な行(易行・・・いぎょう)なのか、厳しい(難しい)行(難行)なのか、の違いがあるだけです。教えのそれぞれに、それぞれの特徴があるだけです。それは、山の頂上に至るのに、様々な道があるのと同じことです。山に登るのに、どの道を選んでも優劣があるわけではないでしょう。自分に合った道、適した道を選べばいいだけのことです。その道を比較して、「こっちの方が優れている、そっちは劣っている」などという批判をすることは無意味なことですね。
ですが、お経には約束事があります。「如是我聞」で始まること、どこで誰のために説かれたか明らかにすること、自画自賛をすること、多くの仏が褒め称えるということなどなど・・・・。これは、お経の形式というものですね。ですので、このすべての仏も称賛している、という場面は、そのままスルーしていただいて結構な場面なのですよ。

「シャーリープトラよ、この阿弥陀如来についての教えは、すべての諸仏が称賛し、護持するのだが、なぜそのようになったのか説いておこう。なぜならば、この教えを聞いたすべての人々は、この上ない究極の悟りを得るために、決して退かない決意を得ることができるからなのだ。だからこそ、すべての者は、私が説くところ、諸仏の説くところを信じるべきなのだ」
今、お釈迦様が説いている教え・・・お経ですね、これは東西南北上下のすべての仏様が称賛する教えであり、絶えず説いている教えであり、大事にしている教えなのです。で、なぜそのように大事にするのかといいますと、この教え・・・お経を聞いたものは、誰であっても「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」を得ようとすることに不退転となるからなのです。
「阿耨多羅三藐三菩提」は般若心経にも出てきます。サンスクリット語で「アヌッタラサムヤックサムボーディ」といい、その音写です。漢訳して「無上等正覚(むじょうとうしょうがく)」といいます。意味は「これ以上等しいものがない覚り」という意味です。つまり、最上の覚りのことですね。
で、阿弥陀経を聞けば、このこの上ない覚りを得るために不退転となるのです。だからこそ、阿弥陀経はすべての仏が称賛し、大事にしている・・・・というわけなのです。
ま、これもお約束事の続きですね。

「シャーリープトラよ、もし人があって、彼の阿弥陀如来の仏国土に生まれ変わりたいという願いを起こしたならば、その願いを起こした人は皆、悟りに向かう固い決意を起こし、彼の国土へ生まれ変わるであろう」
阿弥陀経を聞いたものは、この上ない悟りに向かう固い心だけではないのですね。阿弥陀経を聞いたうえで、さらに極楽浄土に生まれ変わりたいという願いを起こせば、そこへ生まれ変わることができるのです。まあ、これもこの阿弥陀経が優れているぞ、というアピールの一つですね。どのお経にもある文言です。とはいえ、心から信じ、心から阿弥陀如来の極楽浄土への往生を願えば、極楽に生まれ変わることができる・・・可能性はありますよ。大事なのは、心から信じることです。信じて決して疑わないことですね。それができれば、もうこの世で極楽でしょう。

「シャーリープトラよ、諸仏が阿弥陀如来を称賛していると説いたが、諸仏は阿弥陀如来だけでなく私をもこのように称賛しているのだ。
『釈迦牟尼仏は、よくこの稀有なる説き難い教えを説き明かした。大いに汚れ、よこしまな人々が多くいる、煩悩で侵された、浅ましく心身ともに汚れた人々ばかりの、どうしようもない苦の世界である娑婆世界において、この素晴らしい教えを説き広め、無上なる悟りに向かう心を与えたことよ・・・・』
と。シャーリープトラよ、この汚れた苦しみの世界において、今説いてきた教えは、大変会い難い教えなのだ。この教えに出会ったものは、この上ない覚りを得られるであろう」
宇宙中の仏様が称賛しているのは、阿弥陀如来のことだけではなかったのです。阿弥陀如来の救いを説いたお釈迦様をも称賛しているのです。なぜなら、なかなか出会うことができない、会うことが稀な教えである阿弥陀如来の教えを多くの人々に広めたからです。つまり、阿弥陀如来のことを布教したから、その布教した本人のお釈迦様自身も称賛されたわけです。
ということは、これは暗に、「阿弥陀経を世に広めれば、その広めた者も褒め称えられるぞ」と言っているわけです。すなわち、阿弥陀経を広めろよ、そうすればお前も褒めらるぞ、という意味ですね。
まあ、これもどの大乗経典にも出てくるお馴染みのフレーズです。全く一緒というわけではないですが、
「このお経は素晴らしい。だからこのお経を広めよ。そうすれば・・・といういいことがあるぞ」
というようなパターンで語られることが多いですね。これも約束事です。決まった流れ、というわけです。
「なにもこんな姑息というか、嫌な手を使わなくてもいいのに・・・」
と思われた方もいるかもしれません。しかし、これは、信仰の上においては常套手段ですね。現代も新興宗教がよく使う手でもあります。
「我等の教えを広め、我等の元に一人でも多くの信者を連れてこれば、君たちの徳は大いに上がるであろう。君たちは幸せへと一歩近付くのだ」
ま、このようなセリフは新興宗教にはつきものですな。この言い回しは、元はお経にあったのですよ。人間、進歩しませんな、精神の部分は。こう言う言い方に惑わされないよう、よく観察し、よく聞き、よく考えることを説いているのが本来の仏教なのに、大乗経典の中には、自分たちの教えを広めるため少々やり過ぎた時代があったようですね。まあ、昔のことですから、当時はこのように布教しなければならなかったのでしょうが、これを現代に使っちゃいけませんな。また、こうした言い回しにのっかっちゃあダメですよね。よく話を聞かないとね、いけません。
ま、それはそれとして、阿弥陀経は、このような素晴らしいお経である、と大々的にアピールしているのです。そして、エンディングですな。

「このようにしてお釈迦様の尊い教えを聞いたシャーリープトラや大勢の修行者、一切の天人らは、歓喜の心でお釈迦様を礼拝したのであった」
と、阿弥陀経は終わっております。比較的短いお経ですね。

以上、浄土三部経についてお話してきましたが、要点はあまり多くはありません。まとめてみましょう。
*極楽浄土は素晴らしいところだ。この世とは大違いだ。
*極楽浄土に生まれ変わることができる
*阿弥陀如来を信じ、心より南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽浄土に生まれ変わることができる
ま、こういうことですね。他にすることはありません。いろいろ観想なども説かれていますが、それは極楽浄土をイメージさせるための方便、すなわち極楽浄土を信じ込ませるための方便なのです。ですから、究極のところ、極楽浄土があり、それを信じることができ、そこに生まれ変わりたいと願うならば、「南無阿弥陀仏と唱えよ」となるのです。ですから、わが国でも浄土宗や浄土真宗が誕生したのですね。そう、「ナンマイダー」です。
しかし、ただ「ナンマイダー」と唱えていればいい、とはどこにも書いてありません。ただ唱えればいい、と言ってはいません。「心から唱えよ」とは説いてあります。
つまり、口先だけの「ナンマイダー」ではダメなのですよ。心から極楽浄土への往生を願って、「ナンマイダー」と唱えねばいけないのです。そこには、邪念も邪心もありません。純粋に、なんの汚れもない「ナンマイダー」でなくてはなりません。
「もうあの嫁は憎たらしい、あの嫁にバチでも当たればいいんじゃ。ナンマイダーナンマイダーナンマイダー」
では、いけないのですね。不純な動機ではダメなのです。ここが大事なところです。

となると、案外極楽浄土に生まれ変わるのは難しいこと、と理解できるでしょう。そう、何するにせよ、楽な道などないのですよ。易行と言われます、浄土系の教えですが、実際は難しいことでもあるのです。やる行為は簡単ですが、内容は難しい、ということですね。それは、「ただ座れ、で、悟れ」と言われる禅と変らないようにも思います。「ただ念仏しろ、心から念仏しろ」、これは意外と難しいのですよ。なぜなら、人間はそれほど純粋にはなれないからです。邪心というか、邪念というか、気がそぞろというか、集中ができないというか、そういう生き物だからです。一瞬は、何も考えずに「ナンマイダー」と唱えられるでしょうが、唱えているうちに色々なことが頭に浮かんできてしまうものなのです。一説によると、人間が一つのことに集中して考えられる時間は、数秒だそうです。それくらい、脳は目まぐるしく働いているのですよ。

ま、そうはいっても、極楽浄土へ生まれ変わりたいと思うのなら、少しでも集中して「ナンマイダー」と唱えるしかありません。それが、極楽浄土に生まれ変われる方法なのですからね。
もし、極楽浄土に生まれ変わりたいと願うなら、毎日、心から「ナンマイダー」と唱えてください。ただし、極楽浄土はこの世と違って、欲に関するものは一切ないところです。男女の差もありませんし、映画を見るとかの娯楽もありません。恋愛なんてできません。デートもできません。楽しみは、仏様の教えを聞くことのみの世界です。そんな退屈な世界が望みならば、南無阿弥陀仏と、心から唱えてください。私は・・・・遠慮いたしますが・・・。
合掌。



*仏様の由来のお経
今回より、新しいシリーズに入ります。
仏教には様々な仏様がいます。その仏様の中でも、代表的な仏様について、その仏様が人々の間に広まった根拠となるお経があります。たとえば、阿弥陀如来には「阿弥陀経」など浄土三部経があるように、他の仏様もその根拠となるお経があるのです。今回より、そうしたお経の内容を紹介していきます。
まずは、薬師如来からです。

@薬師如来・・・薬師瑠璃光如来本願功徳経
薬師如来は、古いお寺・・・特に奈良時代〜平安初期・・・の御本尊として多く祀られました。全国に建築された国分寺の御本尊も薬師如来がほとんどです。
奈良時代から平安初期においては、病にかかることや病により命を落とすことに対し、大変な不安を抱えていた時代だったのでしょう。世の中が落ち着いてきますと、「今の病」よりも「死後の安楽」へと権力者や貴族、大商人の興味は移行していきます。しかし、それでも庶民にとっては、病への恐怖は変りはありません。ですので、薬師如来は、現在でもよく知られております。
その薬師如来にも、薬師如来のお経があります。代表的なお経は「薬師瑠璃光本願功徳経」というものです。ここでは、そのお経の内容をかいつまんでお話していきます。

「私はこのように聞いた。お釈迦様がブリジ国のバイシャーリーの郊外に滞在していた時のこと。そこには、お釈迦様の教えを聞こうと、八千人の修行僧、三万六千人の菩薩、国王・大臣、長者、天界の神々、諸大竜王、鬼神、多くの人々などが集まっていた。
そのとき、文殊菩薩が前に進み出てお釈迦様に
『世尊よ、どうかわたしたちに優れた仏について、そのお名前と誓願をお教えください』
と懇願した・・・・」
始まりは、他のお経と同様です。どこで、誰に対し、どのような教えが説かれたか、を明らかにします。
ブリジ国は、あまり聞きませんが、ヴァイシャリー(バイシャーリー、ベーサーリー)は経典にはよく登場します。ブリジ国は、コーサラ国とマガダ国の間にある国で、商業の盛んな都市でした。特に首都のヴァイシャリーは、お釈迦様もよく訪れた街で、維摩経が説かれたのもこの地ですね。このお経は、その郊外に滞在したときに説かれたものです。
なお、修行僧や菩薩の数ですが、これは決まりごとの数字です。実際の数字とは異なります。お経では、「たくさんの」が、「八千」であったり、「三万六千」であったりするのです。お約束事ですね。
さて、文殊菩薩の質問にお釈迦様が答えます。

「『ここから東にいくつもの仏国土を超えたところに、浄瑠璃と呼ばれる世界がある。その世界の如来は薬師瑠璃光如来と呼ばれている。その国土の荘厳は、阿弥陀如来の極楽浄土に匹敵するものである。そこには女性がおらず(性別がなく)、苦しむ人々はいない。清浄そのもの世界である。また、薬師如来の脇には、日光遍照・月光遍照という菩薩が控えているのだ』
お釈迦様は、そのように説くと、神通力により瑠璃で輝く薬師如来の浄土を映し出した。
『薬師如来は、まだ菩薩であった時、十二の誓願を立て、それが成就したために薬師如来となったのだ。それは次のような誓願である。
@自分が仏となった時には、身体の光で無量の世界を照らし、また、自分の仏国土の衆生も自分と同じ吉相を備えていること
A自分の身体が瑠璃のように輝き、闇夜を照らすように衆生に道を示すこと
B自分の仏国土には尽きない飲食物や財物があり、衆生に平等に分け与えられること
C誤った道に堕ちた者や修行者を救い取ること
D自分の仏国土の衆生はすべて戒を破らず、また破っても悪道に落ちないこと
E衆生の身体に障害があったり、不健全であったとしても、自分の名を聞けばすべて完治すること
F衆生が病気になって助ける人も薬もなく、貧困にさいなまれていても、自分の名を聞けば、病は完治しやがて悟りを得ること
G女性が女性であるがゆえに悩んで、女性の身を捨てたいと思えばその願いがかない、やがて悟りを得ること
Hよこしまな見解に囚われた人々に対し、正しい考えかたを示すこと
I恐怖にさらされ、苦悩に打ちひしがれている人が自分の名を聞けば救われること
J飢えた人が食べ物を求めて罪を犯したとしても、自分の名を念ずれば、すばらしい食事が得られること
K貧しくて衣服がない人が、自分の名を念ずれば、衣服や欲するものを得ることができ、加えては、すべての衆生の願望が叶うこと
こうした誓願を成就したのだ・・・・」
古代インドはもともと母系社会的素養が強い国でした。ですので、両親を呼び表す時も「父母」ではなく「母父」だったようです。しかし、そうはいっても社会は男性が仕切っております。女性はなかなかに生きにくいのが現状です。女性蔑視、女性軽視が日常的にあったのです。それは、現代でも・・・かなり改善したとはいえ・・・、続いていることですよね。
ですので、大乗経典の多くは、女性では悟れない、女性は罪が多いがゆえに女性として生まれた、などと説く場合が多いです。あるいは、女性は一度男性に生まれ変わってからでないと悟りを得られない、などという女性蔑視とも受け取れるような内容のお経もあります。まあ、たぶんに中国思想が含まれているともいえますが・・・・。
そうした社会状況があるので、誓願の中にもGのようなものが含まれているのです。これは、単なる女性蔑視という意味ではなく、社会的背景がこのような誓願を含ませたのです。また、同様に、薬師如来の浄土には女性がいない、と説かれています。これも、「性別がない」と書けばいいところを、あえて「女性がいない」と書いたようでもあります。

少々余談なのですが、出てきたついでです。女性の成仏について、多くは誤解があったと思われます。お釈迦様は、女性の出家を認めませんでした。主な理由は、女性の修行は危険だから、男性修行者の修行の妨げになる、悟りを得るのが困難、の三つが挙げられます(他にもありますが、主だった理由はこの三つでしょう)。
「女性が危険」、「男性修行者の修行の妨げ」は、理解できると思います。女性が修行していれば、襲われることもあるでしょう。特に、お釈迦様は毎朝の沐浴を義務付けていました。身体は常に清浄に・・・というのが基本です。そうした沐浴中に女性修行者が襲われないとは限りません。むしろ、危険であることは間違いないでしょう。
男性修行者も悟りを得ていない段階では、自分の欲望をうまくコントロールできません。ですので、同じ修行者とはいえ、目の前を女性がうろうろしていては、それは耐えがたい欲求に苛まれることもあるでしょう。出家して以来、男性修行者は性的行為をすべて断っているのですから、まだ悟りを得ていない者にとっては、身近な女性の存在は苦痛以外何ものでもありませんね。
とはいえ、こうしたことは、解決策があることです。女性が危険ならば、なるべく一人にならぬよう集団で過ごせばいいのだし、男性と女性の修行場所を分けてしまえばいいことです。
が、どうしても解決できない問題があります。それが「女性は悟りを得るのが困難」という問題です。
最近では、女性の脳と男性の脳では、根本的に働きが異なる、という事実は皆さんよくご存じになってきました。女性脳・男性脳の違いがあり、お互いに理解しにくい部分がある、というのは、事実です。お釈迦様は、このところを指摘したようです。
仏教は、大変理論的です。また、高度な観察能力を問われます。悟りを得るにおいては、よく観察し、よく考察し、理論立てて物事を考えることが要求されるのです。感覚的にパッと悟れる・・・・ということもありますが、多くは理論的なのです。
また、感情をしっかりコントロールしなければなりません。己というものをしっかりと理解し、いい面・悪い面すべてを認めねばなりません。己を知って、己を理解し、己をコントロールする。すべてにおいて、客観的に見ることができる。こうしたことが、悟りを得るためには必要なことなのです。これって、女性脳には苦手なことと言われてますよね。
もちろん、すべての女性が悟りを得るのに困難であるわけではありません。お釈迦様の弟子でも、多くの女性出家者が悟りを得ています。しかし、やはり多くの女性は、苦手なことなのですよ。なので、お釈迦様は、女性の出家は認めたくはなかったのですね。あえて困難な道を選ばなくても、何度も生まれ変わってからでもいいじゃないか、ということです。長い目でみなさい、ということですね。
仏教には、女性出家者に対し、こうした背景があるので、特に大乗仏教の経典には、女性蔑視的な言葉が含まれてくるようになったのです。また、大乗仏教が勃発した頃は、庶民が大変貧しく苦しい時代でもありました。だからこそ、大乗仏教が興ったのですからね。そうした時代は、女性は特にひどい目にあった時代でもあります。多くの女性が、女性であることを恨んだことでしょう。また、男性の身勝手さを恨んだことでしょう。
そうした背景があるからこそ、女性がいない世界、女性として生まれない世界が理想とされたと思われます。お経に書かれていることは、裏返せば、その時代が見えてきます。貧しく、苦しみが多く、病に倒れ、生きる希望を無くしていたものが大変多くいたのです。だからこそ、浄土への憧れを強く持ったのでしょう。お経を読めば、そうした時代背景が読み取れるのですね。

本題に戻します。
薬師如来の誓願も、このお経が説かれた時代が病や貧しさに苦しむ者が多くいたからこその誓願なのです。
浄土三部経でも阿弥陀如来の四十八誓願を解説しましたが、それに比べると、十二誓願はシンプルですね。尤も、阿弥陀如来の誓願も、重複したり無理があるものもありましたから、これくらいがちょうどいいのかもしれません。現実的ではありますね。
本文で「阿弥陀如来の浄土のように」と説かれていますので、このお経は浄土三部経よりもあとの編纂だとわかります。ですので、浄土三部経よりもシンプルでわかりやすい誓願を狙ったのかもしれません。どの誓願も、解説などいらぬほどにわかりやすいものです。
このような誓願をすべて成就したがために、薬師如来は誕生したのです。また、ここでは、日光菩薩・月光菩薩の存在も明らかにされています。これで薬師三尊像となります。

「そのとき一人の商人が立ち上がってお釈迦様に尋ねた。
『世尊、わたしはこれまで布施をすることを知らず、ひたすら富を蓄え、財宝を集めることだけに努めてきました。そんな浅ましい私でも、薬師瑠璃光如来の救いに会うことができますか』
お釈迦様は、商人の問いに答えた。
『布施とは、自分の貪欲な心を捨て去ることである。布施を知らぬものは、この世で寿命が尽きると同時に、常に飢えに苦しむ餓鬼道か畜生道に生まれ変わる。しかし、もしも人間界にいた時に薬師如来の名をしばしば聞いていたならば、餓鬼道や畜生道に堕ちたとしてもその名を思い出すことがあろう。薬師如来の名を思い出した瞬間、そのものはただちに人間界に戻ることができよう。しかも、前世を覚えているので、貪欲の心を捨て去ることもでき、よく布施を行い、布施する者を讃嘆し、望まれれば肉体をも布施できる者になるであろう』
すると一人の修行僧がお釈迦様に尋ねた。
『世尊よ、戒律を授けられた者がそれを破る、あるいは規則に触れるようなことをしたならば、救われないのでしょうか』
『修行僧よ、戒律を破れば当然悪道に堕ちる。しかし、たとえ戒を守っていたとしても正しい見解を失う者もいる。また、正しい見解を保っていても、仏の教えを聞かず、それを理解しようとしない者もいる。仏の教えをよく聞いても、慢心を起こし自分だけが正しいと思う者もいる。このような者たちは、いずれも寿命がつきれば、地獄道・餓鬼道・畜生道をさ迷うことになる。しかし、そのような愚かな者でも、今この世で薬師如来の名を聞くことができたならば、直ちに悪を捨てて善を修めようという気持ちが起き、悪道に堕ちることはない。また、もしも堕ちたとしても、薬師如来の本願力により自分の名を聞かせ、悪道での寿命が尽きた後、人間界に生まれ変わらせ、善に向かわしめるであろう』
お釈迦様は、そこまで語るととある方向を指さした。
『あの牛を見よ』
と・・・・」
救いについての教えですね。この薬師経も浄土三部経と同様、その仏様の名を聞けば、救われると説いています。あるいは、今回は無理でも次の世では救われる、と説いています。浄土三部経よりもそのあたりは、現実的なのかな、という気がします。阿弥陀さんの方は、簡単に救い過ぎ?、というような感じもしないではないですが、こちらでは、罰は罰として一回は受けなさい、というような厳しさがありますよね。罪を犯したのだから、一度は悪いところへ行くよ、でも、その次は救ってあげるよ、ただし、薬師如来の浄土じゃないよ、もう一回人間界だよ・・・・という救いです。浄土三部経では、すべて極楽浄土へ摂取・・・・でしたが、こちらでは、この人間界で善ができる立場として生まれ変わらせてあげよう、というものです。きわめて現実に近いというか、絵空事ではなく納得しやすい、と言った感じがします。
おそらくは、浄土三部経のやや非現実的な面に対する批判を考慮したのではないかと思われます。何でもかんでもいいこと尽くし・・・のような感じがある浄土三部経ですが、こちらはもっと現実に近いイメージを出したのでしょう。そこが狙い、のようにも思えます。


@薬師如来・・・薬師瑠璃光如来本願功徳経 2
「お釈迦様が示した方向には、鞭で打たれ重い荷物を喘ぎながら運ぶ牛の姿があった。
『あの哀れな牛を見よ。前世において物惜しみをしたり、嫉妬深かかったり、高慢で他人を罵ったりした者は、必ず悪道に堕ちる。そして、長い間激しい責め苦を受け、再びこの世に生まれてきたとしても、あのような牛や馬などになり、苦しみを受け続けるのだ。しかし、薬師如来はこのように説く。もし我が名を聞き、一心に信をささげるならば、彼の者を救う・・・と。」
薬師如来を信じていれば、たとえ畜生道に堕ちて苦しみを受けたとしても、そこから救われる、と説いているわけです。前回の続きで、具体例をあげたのですね。
こうした救いのことに関しては、仏教では必ず説きます。どんな状態にあろうとも、一心に祈れば、一心に信じれば、必ず救われるであろう・・・・・。こうした文言は、大乗仏教経典には欠かせないものですね。
しかし、ここで大事なことは、「一心に」です。浄土三部経でもそうでしたが、どの経典でも祈ったり、信じたりするのは「一心」でなければなりません。上っ面の信心や、いい加減な祈りではダメなのです。一心でなければならないのです。ここがポイントですね。そう、ですから、願い事をするにしても、念仏するにしても、真言を唱えるにしても、一心に行ってください。他事を考えながらとか、他人の悪口を思いながらとか、恨みつらみを持ちながら・・・・なんて事がないようにしてくださいね。

続いて、一人の女性がお釈迦様に質問をします。この薬師経は、質問者が色々入れ替わるという特徴があります。一般的に、お経は質問者が特定されます。菩薩であったり、シャーリープトラであったり、アーナンダであったり・・・ですね。多くの場合、一人の菩薩なり修行者なりが質問者を担当するのですが、この薬師経は質問者が変っていくのです。これも、このお経の特徴ですね。
次の質問者である、一人の女性が立ってお釈迦様に質問をします。
「一人の女性が立ち上がり、『お釈迦様』と質問を始めた。
『私はあさましい女性として生まれました。他人の仲違いを喜び、人を恨み、妬み、呪い、数々の悪業を重ねてきました。このような私でも薬師如来様は救ってくださるのでしょうか』
『女人よ、数々の悪行をなし、他人を害し、悪鬼や悪神に祈って呪うような悪人であっても、もし薬師如来の名を聞くならば、その悪心は慈悲心と化し、清らかな喜びと満ち足りた心が湧きおこるであろう。さらに、女人に生まれたことを厭って薬師如来を合掌礼拝したならば、次は必ず男性として生を受けるであろう』
お釈迦様の言葉を聞き、その女性は大いに喜び深々とお釈迦様を礼拝したのであった」
前回にも書きましたが、当時のインドでは、「女性に生まれることは人間として劣っている」という差別が存在していました。これは、中国思想にも見受けられる、というか中国や周辺諸国の影響を受けていた可能性もあると思われます。インドは、元々は母系社会で、女性はある意味優遇されていましたし、お釈迦様がいらした時代は、必ずしも男尊女卑的な差別はあまり見受けられなかったのも事実です。どちらかというと、性にはおおらかで男女平等だったようです。女性だから、という理由で激しい差別を受けることはなったようですね。
ところが、大乗仏教が興ったころは、男尊女卑的思想がインドの中にも広まっていました。女性は、その身体的特徴や思考能力により、悟りを得ることはできない、とされていたようです。つまり、女性は男性よりも劣る、というわけですね。
ここからは推測です。
お釈迦様は女性の出家を本来は許したくはありませんでした。それは、女性が悟れないから、という理由からではありません。女性が男性より劣っているから、という理由でもありません。女性が出家生活を送るのは、危険だからということ、その危険を回避するために男性修行者が気を遣わねばならないということ、男性修行者が性欲に迷うことが多くなるために修行の妨げになるということ、といった理由から女性の出家を拒んだようです。修行に専念する男性修行者の邪魔になる、と考えたわけですね。つまりは、修行者に気苦労が増える、ということを懸念したのです。
実際、女性修行者が襲われることも多々あったようです。修行者どうしの性関係が認められたこともあったようです。こうした心配事を抱え込めば、修行に専念する時間が奪われる、ということをお釈迦様は避けたかったのでしょう。
お釈迦様が涅槃に入って、仏教教団を引き継いだのはマハーカッサパでした。マハーカッサパは、どちらかというと厳格主義です。戒律重視、己に厳しい修行を科すタイプです。なので、当然女性の出家を快く思っていませんでした。ですから、お釈迦様が涅槃に入ってすぐに行われた結集では、アーナンダに女性の出家をお釈迦様に認めさせたことを懺悔せよ、と命じています。
おそらくマハーカッサパは、女性出家者に対し、冷淡であったのではないだろうか、と思われます。厄介者・・・というわけですね。お釈迦様のあとを引き継いだのはマハーカッサパです。こういう厳格主義者が引き継くと、教団はお釈迦様時代に比較して、当然ながら厳格主義に傾いていきます。次第に出家者集団が閉鎖的になり、出家者第一主義になっていったのも、マハーカッサパが教団を引き継いだ時点で、決定されてしまったことではないかと思います。その中で、女性修行者蔑視も生まれていったのでしょう。こうしたことが後に影響を与え、女性に対する差別を生む土壌となった可能性もあります。もちろん、周辺諸国の影響も否定はできません。周辺諸国は、インドと異なり男尊女卑的思想が主流だったでしょうから。
つまり、周辺の男尊女卑的思想の影響と、マハーカッサパが仏教教団に残した厳格主義により、仏教思想に女性蔑視が誕生したのではないかと思われます。お釈迦様は決して男尊女卑ではなかったのですが、そのあとの者たちが偏った思想を持っていたのでしょう。お釈迦様の悟ったこと、すべてが伝わっていたわけではないようですね。
ともあれ、大乗仏教が興った時、インドの思想は男尊女卑だったのです。女性は悟れない、とされたんですね。そこで、その女性を救うべく、経典が生まれてきます。ですから、大乗仏教の経典の多くは、女性でも悟れると説くのです。ただし、女性の身体のままではダメで、一度男性に生まれ変わってから・・・・という条件が付きます。大乗経典の完成とも言える法華経ですら、その条件は付いています。男尊女卑の思想は、なかなかぬぐい去ることはできなかったようですね。まあ、現代でも男尊女卑的思想は、田舎に行くほど残っていますからね。女性への差別は、なかなか根絶できないものです。
お釈迦様は、そんなことは全く言っていないんですけどねぇ・・・・。
いずれにせよ、女性でも救われるか、という問題は、当時の宗教界では大きな問題であったわけです。その中で、大乗仏教では、女性でも救われると説いたことは、実は画期的なことだったのですよ。

「お釈迦様は、女性の質問に答えると、文殊菩薩を見て言った。
『文殊よ、ここに常に戒律を守っている修行僧や尼僧、在家の男性信者・女性信者がいたとしよう。彼らは、西方極楽浄土の阿弥陀如来のもとに生まれ変わりたいと望んでいたが、しかし、未だそれが定まっていないとしよう。つまり、極楽浄土に行けるかどうか確約されてはいないのだ。しかし、そんな状態であっても、もしも薬師如来の名を彼らが聞けば、彼らの臨終のときには、八大菩薩が空中から降りてきて彼らの道案内人となり、極楽浄土へ導いてくれるであろう。それと同様に、天界に生まれたいと望む者は天界へ導き、天界から人間界へ生まれたいと望む者は人間界へと導くことができるのだ』
その言葉を聞いて文殊菩薩は喜びにあふれ、お釈迦様に尋ねた。
『世尊、薬師如来を信じ、その名を聞き、他の人々にも聞かせ、この教えを読誦し、書写し、人々に広め、多いに供養を行う者がいたならば、そのものは多大な功徳があるのではないでしょうか』
『文殊よ、その通りである。薬師如来を供養したいと願うならば、まずは薬師如来像を造って安置し、花や香・旗をささげ、身心を清らかにして仏像を拝むがよい。そして、この教えの経を読めば、長寿を求めるならば長寿を与え、富を求めるならば富を与え、出世を願うならば出世を与えられるであろう。また、悪夢に悩まされることもなく、獣に教わることもないであろう。彼らは一切の恐怖から逃れられるのだ。
アーナンダよ。このように薬師如来の本願と功徳について説いてきたが、汝は理解できたであろうか、また疑うことはないであろうか』
アーナンダは、かしこまって答えた。
『世尊、私は何にも疑うところもありません。ですが、愚かな人々はこの教えを聞いても疑うのではないでしょうか。そのせいで悪道に堕ちてしまうのではないでしょうか。私はそれが心配です』
『アーナンダよ、薬師如来の名を聞いて、悪道に堕ちる者はいないのだ。たとえ疑いをもったとしても、だ。だから、安心して薬師如来を信じるがよい』
お釈迦様は、そう説くと、にこやかにうなずいたのであった」
ちょっとおかしな内容だな、と思われた方もいるのではないでしょうか。これでは、まるで薬師如来は阿弥陀如来の下請けみたいだな、と・・・・。
極楽浄土に行くことを願う、それはいいでしょう。しかし、修行や信心がまだ定まっておらず、極楽浄土へ行く切符が持てない者でも、薬師如来が助けてくれると、ここでは説いています。そんなことしないで、極楽浄土に行けない者は、薬師如来が自分の浄土に連れていけばいいじゃないですか。なにも、極楽浄土の下請けみたいなことなどせずに。なんだか、ちょっ卑屈ですよね、内容的に。そう思いませんか?。
それほど、当時は極楽浄土へあこがれる人々が多かったのでしょう。で、極楽浄土へ生まれ変われるという確約を、多くの者が望んでいたのでしょう。しかし、人間は意地悪なんです。特に権力を握ると、人をふるいにかけるのが楽しくなる者がいるのですよ。おそらくは、浄土系の大乗教団グループは、
「お前は極楽へ行ける。お前は、もう少しだ、お前はダメ」
などと、信者をふるいにかけていたのでしょう。極楽浄土へ行けるという確約を貰えた者は安泰ですが、そうではない者はとても辛いですよね。極楽へ行くことだけが心の支えなのですよ、そういう人々は。誰もが極楽へ行けるから、という支えがあることで精いっぱい生きているのです。貧しく辛い日々を送っている者は。ところが、極楽へ行くところでも差別を受けるんですね。ひどい話です。そこで、別の大乗仏教グループが説きます。うちの如来を信じれば、こぼれおちた者、確約を取れなかった者でも、極楽へ案内してあげますよ、だからこっちへおいで・・・・とね。ちょっと、卑屈ですよねぇ。
たとえば、東大への合格キップを手に入れたがっている者がたくさんいるとします。しかし、その切符を手にできる者は多くはありません。あともう少しなのに手に入れられなかったという者や、程遠い者もいます。そこで、予備校業者が
「そんなに行きたいなら我々に任せなさい。我々の指示に従い、我々の教えを信じたならば、こっちの入口から東大へ行かせてあげるよ」
と近付いてきました。どうしても東大に生きたい者は、その予備校に行ってしまうでしょう。
ここで説いていることは、いわばこういうことなのです。ちょっと卑屈で汚いな、と思いますよね。なにもそこまで極楽浄土にこだわらなくても、薬師如来には瑠璃光浄土という極楽浄土に劣らない浄土があるのに、ですよ。そこへ導いてやればいいじゃないですか。なにも極楽浄土を出さなくても、
「極楽浄土と同等の瑠璃光浄土へ導いてくれる」
と説けばいいじゃないですか。そんなにも自信がなかったのでしょうか。
その反面、薬師如来を仏像を造って供養しろ、と説いています。自己アピールをしたいのか、浄土系のグループにゴマをすっているのか、よくわからないですな。
まあ、それも仕方がないのでしょう。当時の大乗仏教教団では、極楽浄土系のグループが大きな力を持っていたのでしょう。もちろん、そのグループもやがては消え去っていくのですが、それはまだ先の話です。この薬師経ができた当時は、浄土系のグループが一大勢力をほこっていたのでしょう。その結果が、この内容なのです。

大乗仏教教団の主なグループは、浄土系・般若系・法華経系に分かれていました。般若系には禅のグループも含まれています。やがて、浄土系が力を弱め、法華系(法華一乗、法華・涅槃経系)と禅のグループが力をつけてきます。また、それとは別に、脈々と密教系の流れが続いています。この密教系は唐代において大きな勢力を持つに至ります。
勢力争いをするとは、それでも出家者か、と思われる方もいると思いますが、それは仕方がないのです。信者がいない教団は成立しませんからね。少しでも信者を集めたいと思うのが当たり前でしょう。そうしなければ、いくらいい教えを説いても、教団自体を維持できませんから。
ま、そんなわけで、お互いに信者集めの活動をしていたのです。その一部が経典の編纂でもあるのですよ。

お経をちゃんと読めば、その当時の時代背景や、仏教教団の思想の流れや、大乗仏教グループの存在が明らかになってきます。また、彼らの活動も想像できます。だからといって、その経典に書いてあることはでたらめ、というわけではありません。大事なことは、ちゃんとどの経典にもあります。自分たちの教えが一番だ、と説いているだけではないのですよ。特に般若経典のグループなどは、考え方を重視した教えを説いています。それは、現代にも十分に通じる・・・どころか、現代人こそ般若経典に学ぶことが多くあるでしょう。他の大乗経典でも同じです。大事なことをちゃんと説いています。そこを読み取らねばいけないんですね。
それは何か。
答えは一つです。一心になること、です。で、信じたならば、決してブレないこと、です。今の世の中、信念のない者がたくさんいます。特に為政者の中には多く見られます。あっちへブレ、こっちへブレ、口から出まかせばかりのいいかげな為政者がたくさんいますよね。全く信念がありません。大企業の経営者でもそうです。発言があまりにも軽いんですな。それは、信念がないからです。一本まっすぐに通った芯がないんですよ。だから、ブレまくりなのです。
大乗経典は、一心に信じよ、と説きます。決してブレることなく、信じ通しなさい、と説きます。それは、強い信念をいだけ、ということなのですね。人は、強い信念を持つと、本当に強くなります。どんなにつらい目にあっても、どんな状況でも、決して折れない力を持つことができるんですね。ここを説いているのが、大乗経典なのです。
対象はどの仏様でもいいのです。阿弥陀さんでも薬師さんでも観音さんでもお地蔵さんでもお不動さんでも、どなたでもいいのです。ですが、信じたならば、とことんついていく気持ちで信じることが大事なのですよ。決してブレない心、迷わない心、それを持つことを説いているのが大乗経典ですね。
そういう意味を知った上で、大乗経典を読んでいけば、仏教への理解がより一層深まると思います。


@薬師如来・・・薬師瑠璃光如来本願功徳経 3
お釈迦様が説き終わると、救脱(ぐだつ)という菩薩が立ち上がって
「世尊よ、薬師如来の功徳を、私はこのように聞いております」
と言った。
「救脱よ、この場にいる生きとし生ける者のために、話すがよい」
お釈迦様の言葉を受け、救脱は薬師如来の功徳について語り始めた。
「たとえばここに、長い間寝たきりの病人がいたとします。その病人はやせ衰え、食べることも飲むことができません。のどや口は渇き、目は見えず、死相が現れ、父母や親族、友人・知人が集まって、悲しみに暮れています。その病人は、かすかな息をしているだけで意識はありません。もうすでにその者の心は、閻魔大王の前にいるからです。閻魔大王はその人の取り調べを判決を下すために行います。その判決には、閻魔大王の取り調べだけでなく、倶生神(くしょうしん)の記録が影響を与えます。人は生まれてから死ぬまで、それぞれの肩に乗っている倶生神によって昼夜の別なく一生の行為を記録されています。左の肩には同名天(どうみょうてん)という善行を記録する男神が、右の肩には同生天(どうしょうてん)という悪行を記録する女神がいます。
しかし、閻魔大王の判決が下るとき、その病人の父母や親族、友人・知人などが、薬師如来に帰依し、僧にこの経を読んでもらい、灯明をあげ、延命を願って一心に病気が治ることを念じます。それを7日間、または21日間、または35日間、あるいは49日間行うならば、その病人の心は閻魔大王の前から引き戻され、死んだようになっていた病人は夢から覚めたように意識を戻すでしょう。それは祈りが薬師如来に届き、薬師如来の功徳を受けたからなのです」

ちょっとビックリするような話が出てきました。
まず、薬師如来に一心に祈り、この薬師経を僧に読んでもらえば、瀕死の病人もよみがえる、というのです。これが薬師如来の功徳だということですね。まあ、この功徳があるからこそ、日本に仏教が伝わったころから奈良時代においては、薬師如来は方々で祀られることになるのです。その当時は、病気や病気で亡くなることを恐れた権力者が多数いたのですね。また、当時、各地に蔓延していた疫病から逃れたかったのでしょう。そこで、薬師如来を各地に祀ったお寺を多数建立したのですな。代表的な例が国分寺ですね。国分寺は国を治めると疫病を納めるを兼ねていたのですな。で、本尊を薬師如来としたのですね。奈良時代には薬師如来を本尊として、多くの寺院が建立された理由は、病の恐怖からの救済だったのです。

もう一つ、解説を。それは倶生神についてです。似たような話は中国にもあります。こちらの方が有名だと思います。これは、江戸時代に流行した庚申講の元となった話です。
人間の身体の中には三尸虫(さんしちゅう)という虫がいて、庚申の日に身体から抜け出て天帝(生死を司る道教の神)に報告に行きます。しかし、三尸虫は人間が寝ないと抜け出ることはできません。そこで、庚申の日は寝ないで朝まで起きているという講が流行りました。庚申の日は60日ごとに廻ってきます。そこで、60日ごとに皆集まって、朝まで夜通し起きていたのですね。これが庚申講と呼ばれるものです。今でも、町を歩いておりますと、道路わきに「庚申塚」と記された石碑などが建っていることがありますが、それはその場所でかつて庚申講が行われたいた、ということですね。なぜ石碑をたてて「塚」にしたのかといいますと、庚申講で落とした人々の罪がその場所に残っているからです。人々の罪が祟らないように、塚にしてあるのですよ。なお、この庚申講を広めたのは、天台の僧侶だそうです。日本での庚申信仰は、天台宗にルーツがあるそうです。元は中国の道教ですけどね。
さて、インドでは多少異なります。インドの場合は、善行を報告する男の神、悪行を報告する女の神が、人間の左右の肩に乗っている、と説きます。男神が左肩、女神が右肩ですね。で、これらの神が閻魔大王に生前の善行・悪行を報告するのですな。この話は、薬師経のほかに法華経にも登場するそうです。
中国思想の影響を受けているのか、中国がインドの影響を受けたのか、はたまた似たようなことを人々は考えるのか、それはよくわかりませんが、いずれにせよ人間の行為は「見られている」のですね。ここが大事なところです。誰も見ていないと思っていても誰かが見ているのですね。天は知っている・・・ということです。善いことも悪いことも・・・。

ちなみに、古代インドでは、閻魔はヤマという魔神で、死神として怖れられていました。初期経典にも「死王ヤマにとりつかれている」とか「これより死王ヤマのもとへ向かう」とかいった言葉が多く出てきます。閻魔は死神としての存在だったのです。ところが、時代が下るにつれ、ヤマは閻魔大王となり、死者に対し、次の生まれ変わり先を決める裁判官としての性質を帯びてきます。さらに時代が下ると、裁判官は7名となり、閻魔大王は5番目まで後退していってしまいます。また、裁判官たちや裁判内容も、より仏教色と中国思想が混ざったものへと変化し、完成していきます。この薬師経は、まだその過程にあるということでしょう(完成形では、倶生神は消えて、様々な取り調べ法が確立していきます)。

なお、救脱という菩薩は、他の経典ではあまりその名を見ません。一部の経典に出てくるそうですが、メジャーな経典には登場しません。また、この経にも、薬師如来の功徳を説く役割で出てきますが、薬師如来と祀られることはないようですね。
では、次に行きましょう。

救脱菩薩の話を聞き、アーナンダが質問をした。
「救脱菩薩よ、薬師如来を供養するときは、どのように供養するべきか」
「アーナンダ尊者よ、まずは八斎戒を修め、僧団に布施をすることです。そして、薬師如来の名前を昼に三度・夜に三度唱え礼拝します。さらにこの経典を49回読誦し、49の灯明をともし、如来像を7体造って7灯をともします。そうしたうえで、49日めになっても灯明が消えないならば、願いは達成されるでしょう。
疫病や国難、戦乱、天変地異、暴風雨などの難がおこった時も、それらの難から逃れるため薬師如来への供養を怠ってはなりません。国王がこの供養を行うならば、それらの難はたちまち消え失せるでしょう。
さらに薬師如来は、人間にある九つの横死・・・・病に陥っても適切な処理を受けらない死、権力者による処刑、快楽の果てによる死、焼死、水死、獣に襲われての死、崖から落ちての死、毒死、飢餓による死・・・から身を守ってくださるのです。そのためには、ただただ薬師如来を信じ、供養を重ねることです」
救脱菩薩はそのように説いたのであった。

これを読みますと、薬師如来の功徳を得て、瀕死の病から復活するには、そう簡単でないことがわかります。まあ、そりゃそうですよね。死にかかっているような病から立ちなるのに、薬師如来を拝んでればいい・・・・なんてことはないでしょう。祈る側も真剣にならなきゃいけません。そういえば、昔はお百度などという民間祈願法がありました。今でもたまに聞きますが、実際に行っている人は・・・・みないですねぇ。お百度も水をかぶったり、裸足でやったりと、まあ過酷な祈願法ではありますな。それは、祈願する側の真剣さがどの程度のものなのか、覚悟はどの程度のものなのか、それを示すための行為なのでしょうね。ここでもそれと同じことが言えるのです。そう、薬師如来への供養の仕方もただたんに祈ればいい、というものではないのですよ。
まず、八斎戒を修めねばいけません。この八斎戒とは、毎月8日・14日・15日・23日・29日・30日に、「生き物を殺さない、盗みをしない、男女の交わりをしない、ウソをつかない、酒を飲まない、化粧をしない、歌舞音曲を視聴しない、高くゆったりしたベッドに寝ない、昼食以降は食事をとらない」という決まりを守ることです。在家用の修行です。日にちの根拠はインドの習慣によるものだと思われます。
この戒律を守った上で、僧団に布施をしなきゃいけません。今でいえば、お寺に寄付をせよ、ということですな。さらに、薬師経を一日49回読むこと、薬師如来の名を昼と夜に三度ずつ唱えること、灯明を49個つけること、如来像を7体造って灯明をそれぞれに供えること、これらを49日間続けること。
で、その結果、49日間、灯明が一つも消えることがなかったならば、願いが届く・・・・ということのようですね。そりゃ、無理というものでしょう。


9日間、灯明を灯し続けるには、灯明用の油を継ぎ足さねばなりません。また、灯心も足さないといけません。もしくは、大きな入れ物の灯明を使うか、です。長い灯心でね。
まあ、こうしたことは在家では無理ですな。やはり出家者にお願いしないとね。つまり、坊さんに代行してもらわねばならない、ということですね。まあ、今の坊さんでは八斎戒すら守れないことがあるので、もしお坊さんに頼むのならば、そこを注意してもらうように念を押さないといけませんね。
だいたい、一般の人は、49日間もお経を読み続けられないでしょう。一日一巻じゃないですよ。一日に49回ですからね。一般の人は、仕事を休まねばなりません。もしくは、辞めるかですね。
あ、ニーとの方ならできますね。また、ひきこもりの方ならば、八斎戒も守れましょう。仏像を彫るのが難しいですが、まあ、出来はどうでもいいので、自分が仏像だと思えばいいのですよ。で、あとは灯明の世話ですな。
とまあ、何事も簡単には願いは叶えられないものでして・・・・。それが当然なのですけどね。簡単だ、という方が間違っているのですよ。安易な儲け話に裏があるように、安易な祈願成就にも落とし穴が潜んでいるのです。願いを叶えてもらいたいと強く望むのなら、自らも覚悟が必要・・・・ということですな。

救脱菩薩の話が終わると、お釈迦様の名を呼ぶ声が上がった。それと同時に宮毘羅(くびら)大将、伐折(ばさら)大将、迷企羅(めきら)大将、安底羅(あんちら)大将、アニラ大将、珊底羅(さんちら)大将、因達羅(いんだら)大将、波夷羅(はいら)大将、摩虎羅(まごら)大将、真達羅(しんだら)大将、招杜羅(しょうどら)大将、毘羯羅(びぎゃら)大将の12人の夜叉大将だった。彼らは、
「世尊よ、我等は今、広大な薬師瑠璃光如来の誓願と功徳を聞きました。我等は、もう悪道に堕ちることはありません。今ここで深く三宝に帰依します。そして、薬師如来を信じ、供養し、この経を広めようとする人々を守護します。また、それらの人々の苦難を退け、願いを満足させましょう。我等は、それをここに誓います」
12人の大将の言葉にお釈迦様は
「よく誓った。善き哉、善き哉。汝ら、よく薬師如来を守護し、また薬師如来を信じるものを守護せよ」
と言って、微笑んだのであった。人々は、薬師如来の瑠璃光浄土を心に浮かべ、手を合わせたのだった・・・・。

最後に12神将が登場します。なお、アニラ大将だけ、漢字が変換されませんでしたので、カタカナ表記にしました。尤も、漢字は当て字です。すべてインドの言葉の音写ですので、漢字自体に意味はありません。
さて、この12神将は、もとは夜叉です。夜叉とは、人間を食らう魔神だったのですが、お釈迦様に諭され、心を入れ替えてお釈迦様に帰依したのです。で、その中でも特に強い12人が薬師如来の守護についた、というわけですね。ですので、薬師如来像を祀るときは、左右に日光・月光菩薩を配し、周りを12神将で囲むのです。これで、薬師如来御一行の完成です。
で、その12神将は、薬師如来だけでなく、薬師如来の信者も守護するのですな。だから、信じなさい、というわけです。こうしたことは、どの経典にも説かれています。
しかし、これはあながち嘘ではないのですよ。やはり、心から信じ、信仰する者は、救われるし、守られるものなのです。救われない、守られない・・・という人は、心から信仰していないのでしょう。信仰の深さが問題なのですよ。上っ面の信仰では、ダメなんですね。これは、どの経典、どの宗派、どの宗教にも言えることです。

本当に救われたいと願うなら、心から信じ、深い信仰心を持つことです。その対象は、どの仏様、どの菩薩様、どの宗派、どの宗教でも構いません。自分にあった教えならばね。ただ、他人に押し付けるのだけは、やめたほうがいいと思いますが・・・。
ま、それはともかく、「あぁ、この仏様なら、私は好きかも・・・・」でもいいので、いや、スタートはむしろそれでいいので、信仰心を持つことは大事なことですね。それが強い自分を育てていくものなのですよ。

合掌。



ばっくなんばあ〜22


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