ばっくなんばぁあ〜22

第 六 章

「大乗経典」

*仏様の由来のお経

A弥勒菩薩・・・仏説観弥勒菩薩上生兜率天経、仏説弥勒下生成仏経 その1
今回から、弥勒菩薩についてのお経のお話に入ります。
弥勒菩薩と言えば、お釈迦様が入滅されてより56億7千万年後に仏陀となり、我々衆生を導く、と言われている仏様です。その時は弥勒菩薩ではなく、弥勒如来ですね。
56億7千年万年という数字をそのまま素直に受け取れば、弥勒如来が現れるのは、この地球ではありませんね。そんなころは、太陽も爆発していますし、それ以前に地球は温度が上昇し(太陽の膨張により)、生物が生きられない状態になっています。太陽の寿命は、およそあと五十億年とか・・・・。
したがって、弥勒如来が現れるのは、別の星・・・・ということですね。ただし、宇宙の中心から見て北の銀河であることは間違いはありません。なぜならば、この地球は、宇宙の中心から見て、北の銀河に所属しているからです。北の銀河はお釈迦様の担当です。お釈迦様のあとを継ぐ弥勒如来ですから、担当範囲は北の銀河となります。
それにしても、仏教の宇宙観には驚きます。話がそれて申し訳ないのですが、先日、地表がダイヤモンドでできている星が発見されたとか。まさしくそれは仏典に説かれている極楽浄土の世界ですね。浄土は大地が金剛石(ダイヤモンド)や金銀などの宝石類でできています。仏典に書かれていることは、あながち大げさなことではなかったのです。あり得ないことではなかったのですよ。実際に、ダイヤモンドでできている星があったのですからね。畏るべし仏典・・・・ですねぇ。
ちなみに、56億七千万年という年数は、1劫(いちごう)と同じ時間と思っていただいて結構です。およそ、一つの星の寿命と一致します。なぜ、そのようなことが当時のインド人にわかったのか、あるいは、仏陀となれば、宇宙の星の寿命などがすべてわかってしまうのか・・・・。まあ、それは悟ってみないことにはわからないことですね。

話を戻します。お釈迦様の次に仏陀になる約束がされているのは、弥勒菩薩です。それ以外の者は、仏陀にはなれません。すなわち、お釈迦様が入滅してから弥勒如来が現れる間は、無仏の時代です。完全なる悟りを得たもの、最終解脱者、仏陀と言われる存在は、現れないのです。ですから、今、自分のことを「悟った者、最終解脱者、真理に目覚めた者」などと言っている者は、すべてニセモノです。インチキですね。お経にはそのように書かれているのですよ。もし、それが嘘というのなら、お釈迦様はウソつきになります。仏陀はウソは言いませんから、それはあり得ませんね。
そう、今は無仏の時代なのです。まあ、だからこそ、菩薩が救いの手を差し伸べているのですけどね。菩薩が、人々を導く役割を担っているのです。

さて、本題に入りましょう。弥勒菩薩が次の如来になる、と説かれたお経は「仏説観弥勒菩薩上生兜率天経(ぶっせつみろくぼさつじょうしょうとそつてんきょう)」というお経です。このお経には、お釈迦様によって弥勒・・・マイトレーヤ・・・という修行僧が、次に如来になるのだ、ということが説かれています。
このお経には、続きのお経があります。それは、弥勒如来になった状態を説いたお経です。すなわち、未来の話を説いたお経ですね。それは「仏説弥勒下生成仏経(ぶっせつみろくげしょうじょうぶつきょう)」というお経です。先の弥勒菩薩のお経の続編のお経です。
初めのお経が「上生(じょうしょう)」を説き、続編が「下生(げしょう)」を説いています。「上生」とは、次の如来になるものが生まれ変わる先である天界・兜率天に生まれ変わることいいます。そこから、極楽浄土に生まれ変わることも「上生」というようになりました。上の世界に生まれる、という意味で「上生」と言います。
「下生」とは、兜率天から我々衆生が住まう世界に降りてくることを言います。下の世界に生まれ変わってくるという意味で、「下生」と言うのですね。
兜率天は、次に如来になると決まっている菩薩が修行をする場所です。お釈迦様も仏陀になる前に、兜率天において修行して、そこでの生を終えて地表に生まれ変わってきたのです。
仏陀になるには、何度も生まれ変わって善行を行い、徳を積むという修行が与えられます。そうした一通りの善行を行い、徳を積み終われば、兜率天に生まれ変わり、そこで仏陀になるための修行に入ります。たとえて言えば、花嫁修業をするようなものですね。
こうしたことが、仏説観弥勒菩薩上生兜率天経に説かれているのです。で、続編のお経には、弥勒如来が生まれた世界がどうなっているかを説いているのです。
まずは、前半のお経、仏説観弥勒菩薩上生兜率天経について、解説していきます。

場所は祇園精舎です。時は黄昏時。ぽつぽつと各家に明りが灯り始めるころですね。そんな夕闇に包まれた祇園精舎で、お釈迦様は瞑想をしておりました。すると、お釈迦様の身体は眩いばかりの光に包まれ始めます。その光はどんどん強くなりますな。ついに光は天に走り、コーサラ国の首都シューラバースティー全体を照らします。やがて、天からは蓮の花びらが降り、黄金の光がキラキラと街中を飾りますな。
これはただ事ではない、と修行者はもちろんのこと、市民も思います。修行僧をはじめ、多くの人々は、光の根源であるお釈迦様の元へと向かいますな。そうして、祇園精舎は何千人、何万人の人々・・・修行僧、尼僧、菩薩、天人、神々、一般市民・・・で埋め尽くされます。
ふと、お釈迦様が立ち上がります。集まった者たちを見渡します。すると、再びお釈迦様の身体から強烈な光が放たれます。その光は、天人や無数の仏陀となりますな。その無数の仏陀は、全員で呪文を唱え始めます。
無数の仏陀・・・・これは、よく仏像の光背に見受けられますね。奈良の古い寺院の仏像などは、光背にたくさんの如来像がくっついています。これは、お釈迦様が光明を放つと、その光明の中から無数の仏陀が現れた、という経典の内容を表現したものです。仏像の光背は、如来や菩薩が光明を放っている姿を表現しています。あの光背は、身体から放たれる光なのですよ。で、その中に無数の仏陀がいるんですね。この仏陀のことを化仏(けぶつ)といいます。仏陀の化身、と言う意味ですね。
呪文を唱える、と言うのは、陀羅尼といわれる長めの真言のことです。いわば、漢訳されていないお経ですな。それを化仏が唱えているわけです。

その呪文が終わると、集まった弟子や人々、菩薩、神々の中から、マイトレーヤ(弥勒)が立ち上がります。かれは、このときはまだ一人の修行僧ですな。経典では、弥勒菩薩、となっていますが、正式には、他の修行僧と同じ身分です。菩薩と言うよりは、修行僧ですね。で、そのマイトレーヤが立ち上がって、お釈迦様に対し、合掌し深く礼拝します。お釈迦様は、マイトレーヤを優しく見つめますな。
お釈迦様とマイトレーヤの間で、ただなる雰囲気が漂いますな。あっ、けっして、変な雰囲気ではありません。特別な何かを思わせる、そんなムードに包まれるわけですよ。怪しい雰囲気じゃあないですよ。もっと神々しい雰囲気ですな。
で、そんな二人を見ておりました弟子たちの一人、ウパーリがふと疑問を感じます。で、お釈迦様に質問をしますな。
「世尊、今立っておられるマイトレーヤは、経典の中で次の如来と言われております。しかし、まだ彼は菩薩と言うより修行僧、失礼かと思いますが、まだ修行が足りていないようにも思われます。とても煩悩を滅しきっているとは思えないのです。ほんとうのところは、どうなのでしょう。彼は、この世での生を終えたら、いったいどこに生まれ変わるのでしょうか」
ウパーリのこの質問、ちょっと変ですよね。マイトレーヤのことを「経典の中では」などと言っています。
この仏説観弥勒菩薩上生兜率天経ができたのは、当然のことながら、大乗仏教が興ってからのことです。ところが、マイトレーヤが次の仏陀である、ということは、初期経典にも説かれていることなのです。わりと早くから、次の仏陀は弥勒である、と伝えられていたようですね。初期経典には、バラモンの息子で出家をした弥勒と言われる修行僧が、お釈迦様の乳母マハープラジャーパティーがお釈迦様に贈った絢爛豪華な袈裟をお釈迦さまから受け取った、という逸話が説かれています。逸話では、袈裟の方が弥勒を選んだ、と言うように説かれているようです。そことにより、弥勒が次の仏陀だと決定されたようです。
ここで、ウパーリが「経典には」と言っているのは、このことを示しているのだと思われます。弥勒が、次の仏陀であることは、周知の事実だったわけです。で、大乗経典の弥勒菩薩のことを編纂するにあたり、このようなちょっと?な内容が出てきてしまったのでしょう。まあ、それは本題とは関係のないことなので、どうでもいいことなんですけどね。
本題は、マイトレーヤが、この世で生を終えたら、どこに生まれ変わり、修行をするのか、ということなのです。今のままじゃあ、仏陀にはなれないじゃないか、仏陀になるためにどこで修行をするのだ?、ということですね。

ウパーリの質問にお釈迦様は優しく答えますな。
「ウパーリよ、私は、今日、このマイトレーヤについて説き明かそうと思い、光明を放ったのだ。ウパーリよ、よい質問をした。汝ら、よく聞くがよい。マイトレーヤは、今から12年後にこの世での生を終え、兜率天に生まれ変わるのだ」
お釈迦様、マイトレーヤの寿命をここで明かしてしまいますな。彼の残りの人生は、あと12年なんです。が、しかし、そんなことで修行僧はビビりません。一般の人なら、余命○年、と言われれば、びっくりし、嘆き、苦しみ、助かる方法を模索するのでしょうが、修行僧は、「あら、そう」ですな。諸行無常、生ある者は必ず死あり、ということをよ〜っくわかっていますから、余命が12年と聞かされても、大丈夫なんですね。しかも、そのあとは、兜率天に生まれ変わる、と約束されています。安心ですな。
が、兜率天といわれましても、みなさんよくわかりません。弟子たちも今一つピンとこない。そこで、お釈迦様、神通力で兜率天の模様を天空に映し出しますな。空と言うスクリーンに投影するのですな。人々は、びっくり。天空の映像に誰もが見入ってしまいます。

さて、その天空に映し出された兜率天ですが、その様子は・・・・次回にいたしましょう。今回は、ここまでです。


A弥勒菩薩・・・仏説観弥勒菩薩上生兜率天経、仏説弥勒下生成仏経 その2
お釈迦様が、空を指差すと、そこには12年後の兜率天が映し出されます。集まっていた人はびっくりして、空に目が釘付けです。
12年後の兜率天では、多くの天人たちが跪いて何か祈ってます。天人は、みな手に宝冠をささげ持っていますな。いったい何をしているのかというと、天人は、自分たちの宝冠をささげ、その宝冠をささげることにより、弥勒菩薩を迎える宮殿を造って欲しい、と祈っているのですな。誰に祈っているのかは良くわかりません。天人の信じる神がいるのかもしれませんし、宇宙の創造主である梵天に祈っているのかもしれません。
ちなみに、梵天は宇宙を創っている神です。それはいまでも継続されています。梵天は宇宙を創り続けているんですね。大日如来は、よく宇宙そのものと例えられます。それはあくまでも比喩であって、宇宙そのものが大日如来であるということではありません。そうなると、梵天は大日如来を創り続けていることになってしまいますからね。大日如来は、宇宙そのものといいますが、これは言葉が省略されていて、本来は宇宙の真理そのもの、ということなのです。大日如来は真理なのです。
で、梵天は、物質的な宇宙を創っているのです。真理を創っているわけではありません。理屈や理由は分からないけど、梵天は、宇宙をただ創り続けているのですよ。そういうお約束なんですね。
それはともかく。
兜率天の天人は、宝冠をささげて祈ります。弥勒菩薩を迎える宮殿を造ってくれと・・・。
この祈りは通じますな。天人たちの宝冠がすべて空中に浮くと、一つになり、巨大なる宮殿へと変化します。その宮殿は、すべて七宝でできており、輝かしい限りですな。その光の一筋一筋には、蓮の花が浮かんでおります。天女たちは妙なる音楽を奏でています。その音楽は、聞くものすべてに悟りを得たいと思わせる曲です。その曲を聞いていると、修行がしたくなるんですね。なんと素晴らしい曲でしょう。ぜひ、私も聞きたいものです。ついつい怠けがちですからね。
また、出来上がった宮殿は、一つだけではありません。数え切れないほど(経典には五百億とあるのですが、まあ、それは例えであって、具体的な数字ではありません)建っています。その宮殿の高さは頂上がかすんで見えないほどでありますな。で、その周りを竜王が取り囲んで守っています。
竜王は、お釈迦様が悟りを得たすぐに、真っ先にお釈迦様のもとにはせ参じています。竜王は仏陀を讃え、守護する役目を担っているんです。なので、次の仏陀である弥勒菩薩も、竜王は守護しますな。
竜王は、宮殿を数限りない宝を降らせて飾ります。そのため、宮殿は宝の海に浮かんでいるような状態になっています。
そういう状況が、空のスクリーンに映し出され、お釈迦様の弟子や、教えを聞きに集まった人々は、見つめているんですな。
すると、宮殿の中から神らしき人物が現れます。
「私はロードバツダイという神である」
本人がそう言いますな。その神は、
「私は、弥勒菩薩様を迎えるため、さらなる大宮殿を建立いたします。どうかこの願いが叶いますように」
と祈りますな。すると、その神の頭上に次々と宝珠が降って来て、その宝珠が光を放ちながら空中を旋回し、49階建ての大宮殿を造り上げますな。各階にはベランダがあり、そのベランダに天人や天女が七宝でできた蓮の花をささげてますな。その数500億人。まあ、めちゃくちゃ多数、ということで。
やがて、妙なる音楽が流れ出します。すると、天女がその曲に合わせて踊り始めますな。
その宮殿が立っている大地には、大きな池がありますな。その池は、8種類の色を放っています。その池からは、4つの川が流れ出ており、さらにその川それぞれに池があります。その池には美しい花が浮かんでおり、花の上には天女が24人おります。花の中で天女は、綺麗に着飾り、ある者は楽器を奏で、ある者は歌い、ある者は舞い、ある者は教えを説いています。その天女たちは、兜率天に生まれ変わってくる人々を迎え、世話をする者たちです。兜率天に生まれ変わる者は、その花の中に生まれてくるんですね。で、24人の天女がお世話をしてくれるのです。なんと羨ましい・・・・。
また、宮殿のほかに高さ160km(高さ40里なので、40×4kmです)の楼閣があります。その楼閣の頂上は、弥勒菩薩の座席になっています。当然ながら、この楼閣も七宝でできており、光り輝いておりますな。
さらに、大宮殿の周りには5人の神がいて、宮殿を守っております。名前を宝幢(ほうどう)、花徳、香音(こうおん)、喜楽、正音声(しょうおんじょう)といいます。それぞれに神通力をもって、宮殿を飾りますな。
こんな状況を見せられたら、誰もがそこに生まれ変わりたいと願うでしょう。お釈迦様のもとに集まった人々も、皆そう願ったんですね。
で、お釈迦様は言います。
「ウパーリよ、これが弥勒菩薩を迎える兜率天だ。この世界は、詳しくは兜率天十善報応勝妙福処(とそつてんじゅうぜんほうおうしょうみょうふくしょ)という。弥勒菩薩はこの世界の王となるのだ。ウパーリよ、この世界に生まれ変わりたいと思うか?」
そう尋ねられたら、「はい」としか言いようがありませんな。今いる娑婆世界は、兜率天のように美しくはないですからね。そんな世界で修行ができるならば、願ったりかなったりです。

しかし、こうした現実世界以外の世界の情景は、どの経典も同じようなものです。阿弥陀如来の西方浄土然り、薬師如来の瑠璃光浄土然り・・・・。他の天界や浄土の情景も同じですな。まあ、人間の想像力も限界があります。いや、よくまあ、ここまで想像できたものだと思います。本当にまるで見てきたようだ、とね。
いや、ひょっとしたら、こうした経典を編纂した修行僧たちは、浄土や天界を見たのかもしれません。そう、瞑想でね。あるいは、神通力で。でなければ、あまりにも具体的すぎるんです。余程想像力が豊かであったか、と思いますが、それにしても・・・と思いますね。
尤も、宇宙は創られ続けている、と断言していたインド人ですから、それくらいの想像力はあったのかもしれません。いや、実際に、瞑想でそうした世界を見たのかもしれません。
(宇宙は膨張している、膨らんでいる、という話は有名ですよね。科学的に証明もされています。インド人は、そんなことは数千年も前から知っていたんですよ。すごいですよねぇ、インド人の科学力というか、想像力というか、神通力は)
まあ、曼荼羅もそれを書いた修行僧は、きっと瞑想で如来の世界、菩薩の世界を「見た」のでしょうね。で、それを絵に描いてみた。浄土の情景も天界の様子も、きっと瞑想によって「見た」のでしょう。単なる想像ではなく。きっと、宇宙のどこかに、宝石でできた世界があり、そこにはすべてを悟った者たちが生きているのでしょう。愚か者が住んでいるのは、北の銀河、娑婆世界、地球上の我々人類だけ・・・なのかもしれません。

さて、お釈迦様の話は続きますな。
「ウパーリよ。兜率天に生まれ変わりたいと願う者、または弥勒菩薩の弟子になりたいと願う者があれば、この兜率天の情景を心に描くとよい。そして戒を守り、心身ともに精進して煩悩を断ちきり、善行を修し、この兜率天の情景を心に思うのだ。これを正観(しょうかん)という。この観想以外の観想は、邪観という」
それを聞いた人々は、みな正観を行うことを誓った。そこで、ウパーリがまた願い出ますな。
「世尊、弥勒菩薩はどのようにして兜率天に生まれ変わるのか教えていただけませんでしょうか」
お釈迦様は、うなずいてこれに答えます。
「ウパーリよ、弥勒はカーシー国のバラモンの家に生まれた。今は、我が元で修行をしているが、やがて生地に帰り、今から12年後の2月15日、瞑想をしていると身体から紫金色の光を放つ。その光の先は、兜率天に至り、身体だけが地上に残るであろう。その身体は、瞑想した状態のまま金属のように硬くなるであろう。人々は、弥勒の身体に、もう弥勒自身がいないことを知り、その金属のように硬くなった瞑想状態の弥勒の身体を納める塔を造り、供養し続けるであろう。
一方、弥勒自身は、兜率天に用意された菩薩のための座に突如として現れるのだ。その座は、蓮華でできており、弥勒は蓮台に座しているのだ。身体は黄金に輝き、如来の相が現れるであろう。しかし、まだ菩薩であるが故、宝冠を被り、美しい衣を身につけ、いくつもの光り輝く宝石で身を包むであろう。
弥勒菩薩は、昼夜2回、天人のために法を説くのだ。こうして、天人のために教えを説きながら、完全なる悟りに向かう修行をするのだ。そして、人間界の時間で56億7千万年後に、再び人間界に生まれ変わってくるのである。
ウパーリよ、人々よ、仏陀が滅した後、様々な功徳を修め、戒を守り、仏塔を清め供養し、教えを読誦する者があれば、その者はまさに真実の清浄なる心を持つ人であろう。そのような人は、一心に弥勒菩薩を祈るがよい。そうすれば、命が終わった時、兜率天に生まれ変わることができるであろう」

ここで、弥勒菩薩が次に人間界に生まれ変わってくる・・・次に仏陀になる・・・のが、56億7千万年後とわかります。とてつもなく長い時間ですよね。地球はありません。ですので、おそらくは、北の銀河のどこか別の星で、今の地球人のような愚か者を悟りに向かわせるために、地上に降りてくるのでしょう。その時の人類は、今の地球人のように愚か者なのでしょうか?、それとも少しはましな人類なんでしょうかねぇ・・・。
ですが、弥勒菩薩が地上に降りてくるのが待てない、そういう方もらっしゃるでしょう。そういう方は、こちらから弥勒菩薩のもとへ行けばいいのですな。
彼の弘法大師様も弥勒菩薩のもとに行っております。お大師様は、弥勒菩薩が地上に降り立つ時、私も一緒に降り立ち、弥勒如来の手伝いをするのだ、と誓っているんですね。なので、現在は、弥勒菩薩のもとで、修行をしているのだそうです。
ですから、真言宗のお坊さんは、自分の死後は兜率天に生まれ変わることを望んでいますな。真言宗のお坊さんの願いです。弥勒菩薩のもとに行き、お大師様にお会いし、礼拝したいんですね。
が、お釈迦様の教えによると無理がありますな。兜率天に行くのは、ちょっとハードルが高いですねぇ。功徳を修め、戒を守り、清浄なる心を持つ者・・・って、無理です。ちっとも清浄じゃありません。これは困りました。真言宗のお坊さん、兜率天に生まれ変わる資格を持っている方は、多くはありませんなぁ・・・・。
でも御安心を。お釈迦様は、ハードルを少し下げてくださいます。

「私が滅した後、もしも多くの罪を犯した者が、弥勒菩薩の名を聞き、地に頭をつけ懺悔し、その心を改めるならば、すべての罪はたちまちのうちに消え、その者は清められるであろう。さらに、未来において弥勒菩薩の像を造り、供養し礼拝するならば、弥勒菩薩はその者が亡くなった時、眉間から白い光を放ち、その者を天人とともに迎えてくれるであろう。そして、兜率天に一たび生まれ変われば、弥勒菩薩の教えを聞くことができ、悟りを求めて退くことはなくなるのだ。
ウパーリよ、未来の世では、弥勒菩薩は人々のよりどころとなるであろう。そして、弥勒菩薩に帰依する者は、迷うことなく悟りに向かい、さらに弥勒が如来となった時には、その者もやがては如来になれるという予言を授かるのだ」

そう、他の浄土へ生まれ変わるのと同じように、弥勒菩薩の名を聞き、礼拝し、改心すれば、兜率天に生まれ変わることができるんですね。他の浄土よりも条件は低いくらいです。これくらいの条件ならば、さんざん、悪行をした者でも、年老いて、もう死がそこまで来ているというときに、弥勒菩薩を礼拝し、自分の人生を振り返って反省し、もう2度と悪事には染まらないと誓い、深々と頭を下げれば、弥勒菩薩はその者が死んだときに迎えに来てくれるんですな。慈悲深いですね。これで安心です。真言宗のお坊さんも、皆、望めば兜率天に生まれ変わることができますな。
また、いつか如来になれる、という予言(これを授記といいます)をも受けることができるんですね。それがすごく遠い時代であっても、いつかは如来になれるのが保証されれば、修行の励みになるものです。
さらには、未来の世界・・・お釈迦様がいらした時代から見た未来の世界ですから現代と思っていいでしょう・・・に、弥勒菩薩が礼拝の対象になると予言しているところは、さすがにすごいですね。先を見越しております。あるいは、この経典を編纂したものが、神通力でその情景を見たのか、あるいは、お釈迦様以来、そのように伝えられていたのか・・・・、いずれにせよ、その予言は当たっていたわけです。

お釈迦様は、そのあとも、同様のことを説きます。つまり、どんな罪深きものであっても、弥勒菩薩の名を唱え、改心し、また兜率天に生まれ変わることを願い、兜率天を瞑想すれば、罪は許され清められ、弥勒菩薩が臨終のときには、迎えに来てくれるのだ、ということですね。
で、この話を聞き、人々は喜び、アーナンダが
「この教えはどのような名をつけて保っていけばいいでしょうか」
と尋ねますな。これはお決まりのパターンです。で、お釈迦様が、
「この教えは弥勒菩薩涅槃経、あるいは弥勒菩薩上生兜率天と名付ける。よくこの教えを伝え守るように」
と説いて終わります。
このお経がもとで、弥勒菩薩が次の如来であり、兜率天にて修行をしており、56億7千万年後に如来として現れる、という話が広まったわけです。

以上が、弥勒菩薩と兜率天との関係、次の如来になるという内容を説いたお経でした。
さて、この弥勒経には、続きがあります。それは、弥勒菩薩が如来となった時のことを説いたお経です。次回は、そのお経についてお話いたします。



A弥勒菩薩・・・仏説観弥勒菩薩上生兜率天経、仏説弥勒下生成仏経 その3
今回から、弥勒菩薩のお経の後半である「仏説弥勒下生成仏経」についてお話いたします。
このお経は、正確には前のお経・仏説観弥勒菩薩上生兜率天経とつながっているわけではありません。後々に後編部分とされたようですね。ですので、続きで話が進められているわけではありません。聞き手もウパーリではなく、シャーリープトラになっています。まあ、おそらくは、仏説観弥勒菩薩上生兜率天経にあわせて、あとから編纂されたお経なのでしょう。
とはいえ、弥勒菩薩が如来として現れた世界・・・・56億7千万年後の世界・・・・をお釈迦様が説いたということで、大変興味深いお経と言えましょう。
その内容をお話いたしますが、大事なところだけお話いたします。経典そのものを訳しているわけではありませんので、ご注意ください。

シャーリープトラは考えていました。
「以前、世尊は弥勒菩薩がこの娑婆世界の次の如来だとお説きになられた。その時の状況をもっと詳しく説いていただければ、苦しみにあっている衆生も、未来に希望が持てるのではないだろうか・・・・」
シャーリープトラは、智慧第一と称賛された弟子で、よくお釈迦様の代理で法を説くことが多々ありました。まあ、優秀な弟子だったわけです。いわゆる優等生であったのですが、融通性もあったようです。
で、そのシャーリープトラが弥勒菩薩が如来となって現れるときのことを考えていたんです。いったいどのような世界なのだろうかと。また、そのことを詳しくお釈迦様が説かれたならば、人々は生きる希望が持てるのではないだろうか、とね。
そこで、ある日のこと、シャーリープトラはお釈迦様に尋ねます。
「世尊よ、弥勒菩薩は兜率天からこの人間世界に生まれてきて人々を救ってくださるのでしょうか?。その時、この国土はどのように豊かに美しくなっていくのでしょうか?。人々は、どのような功徳を積めば弥勒菩薩に会えるのでしょうか?」
質問は三つですね。
@弥勒菩薩は直接兜率天から人間に生まれ変わって、如来となり人々を救うのか。
A弥勒菩薩が如来になって教えを説くことにより、この娑婆世界はどのように豊かに美しく変化していくのか。
B弥勒如来には、どのようにすれば会えるのか。
シャーリープトラの質問は、このような内容です。
@は、弥勒菩薩が如来になるためにこの娑婆世界に生まれ変わってくるのですが、その時は、ワンクッションを置かず、兜率天からこの世界に直行するのか、ということを聞いているのです。
Aは、弥勒菩薩が如来となったその功徳により、この汚れた世界がどのように豊かになり、また美しくなるのか教えて欲しい、ということですね。
Bは、弥勒如来に会うための方法を尋ねています。功徳を積まねば会えないんですよ、弥勒如来には。なので、その功徳の積み方を聞いているわけです。
この質問に対し、お釈迦様は
「シャーリープトラよ、人々の心に平安をもたらすために知りたいのだね。よろしい、では弥勒菩薩が未来の人間界に生まれてくる様子を見せてあげよう」
と答えます。シャーリープトラの質問が、個人的理由からではないことを確認してから、話を進めています。ま、ここが大乗経典らしいところではありますな。決して、個人の利益のためではなく、大勢の人々のため、ということですね。
で、お釈迦様は、神通力によって、虚空に未来の情景を映し出すんですな。虚空がスクリーンになっているわけです。立体映像ですな。それは、56億7千万年後のこの地球の様子です(地球じゃないかもしれません。その時の娑婆世界です)。

その世界は、広く平坦な土地が延々と続いています。土地はよく肥えており、作物がたくさん実ってます。また、木々が生い茂り、見事な果実がたわわに実っています。その地に住む人々は聡明で、健康であり、寿命は8万4千年あります。何もかも満ち足りた世界つを送ってはいましたが、まだ人間にとって解決できていない三つの欠点がありました。一つは生きるためには食べ物をとらねばならないこと、二つ目に食べたものを排泄せねばならないこと、三つ目に寿命は長いとはいえ間違いなく老衰し死がやってくるということ、です。
その世界にはシトウマツという都市がありました。その都市は広く美しく、福徳を備えた人ばかりが住んでいました。その都市は七宝などの宝石でできていました。その都市の近くの池には竜王が住み、適度にその都市に雨を降らせていました。都市の道は幅が広く、掃除が行き届いており、街角には宝石の柱が立っており昼夜の別なく輝いています。そのため、夜でも明るく過ごすことができました。道にはごみ一つ落ちていることはありません。夜叉が常に掃除をしているからです。地面は砂金で覆われ黄金に輝いています。人々は、寿命が来て死が訪れようとすると、自ら墓地に出向き、静かに瞑想をしながら死を迎えます。この都市は平和で鍵などは不要でした。家々は栄え、街はにぎわい、天災も人災もなく、人々は常に慈しみの心をもってお互いに助け合っていました。また、この国には八功徳水が湧き出ており、その水を飲めば直ちに病が治りました。すべてにおいて平和で安穏な都市だったのです。
その都市シトウマツを治めていたのはジョウキョ王という王でした。この王は、武力に頼らないで慈愛の精神により、都市を平和に納めていたのです。
「この国には、至るところに宝石がある。またこの国の財宝もたくさんあり、その財宝を納めた蔵に入り込んで財宝を盗む者などもいない。大昔、人々はこうした財宝を奪うため、お互いに殺し合い、傷つけ合っていたようだ。人を騙し、傷つけてまで財宝などを奪い合ったと聞く」
「愚かなことよ。昔の人々は、なんと愚か者だったのか。今では考えられん」
などと人々は話し合っていました。そして、国王を讃えていたのです・・・。

と、まあ、これが弥勒如来が誕生する世界の状況です。はい、あり得ませんね。まず、寿命が8万4千年って・・・・。絶対にあり得ませんな。あっ、56億7千万年ごですから、ひょっとしたらあり得るのかもしれませんが、8万はないでしょう。大げさすぎますな。だいたい、8万年も生きていたら、人口はどうなるんでしょうねぇ。星が滅んでしまいますな。まず、食べ物が追いつかないでしょう。ま、これはあくまでも大げさな表現であって、寿命が長い、と思っていてください。
しかし、あとは、あり得るかもしれない状況ですね。
たとえば、ネット社会がもっと充実し、人々が出歩かなくてもいいような環境になったなら、街は美しくなっていくのではないでしょうか?。ゴミを出す人も少なくなるでしょうから。
京極夏彦さんの作品に「ルー=ガルー」という近未来を舞台にした小説があります。まあ、内容はちょっとエグイところもありますが、この近未来の世界が面白いんですね。完全ネット社会で、紙幣もなくなり、すべてネットで賄うようになっているんですね。買い物に外に出歩く・・・なんてない世界なのです。
あり得ない・・・ってことはないですな。今でも、外に買い物に出なくても、ネットで注文できるのですから、それが極端に進んでいけば、まあ、なくはないでしょう。で、人が外を歩かないから、ゴミが出ないんですね。街を汚しているのは人間ですからね。ルー=ガルーの世界では、道にはごみ一つ落ちていないんですな。街は、きちんと整備され、国が住まいを平等に与えています。生活の格差などないに等しいので、泥棒もいませんな。で、その世界では、
「昔は泥棒とかいて、人の家に勝手に上がり込んで盗みを働いたんだって。考えられないよね」
「昔の人は愚かだねぇ。そんなことで争ったんだ。だいたい、大量殺りく兵器なんて自分で自分を苦しめるようなものだろ。なんで気付かなかったのかねぇ」
などという会話がなされているんですな。そう、弥勒如来が出現する未来の人々と同じ内容のことを話しているのです。
ルー=ガルーを読んでおりますと、あながちナイ世界ではないと思えてきます。あと数十年もすれば、こんな世界になるんじゃないかと・・・・。今は、そこに至る過渡期にあたるんじゃないかと、そう思えてきます。そう、弥勒如来が現れる世界のような平和な世界は、いずれやってくるのではないかと思えるんですよね。案外、ウソではないだろう、とね。
お経に説かれている世界なんて絶対やってこない・・・。
そう否定するのは簡単です。しかし、それでは全く意味がないことなんですよ。否定すればいいというものではないんですね。できれば、そういう世界を創ろうと努力することが大事なのでしょう。頭から否定して何もしないのは、それこそ愚か者でしょう。
「こんな世界、不可能に決まってる」
と否定して、そこから先の話を読まない、受け入れない、聞かない、というのは、人生を捨てていることと同じだと私は思います。
ちなみに、ルー=ガルーの世界・・・近未来の世界・・・は、京極ファンの方からの意見を集約して描いた世界だそうです。未来はどんな世界になっている?、あるいはどんな世界になっていたらいいと思う?、というアンケートをとって、その結果をもとに描いたのだそうです。みんな、平和を望んでいるんですね、間違いなく・・・・。まあ、そういう社会・・・完全なネット社会・・・の弊害もあるにはあるのですが。それはそれで解決への道を人間は模索するでしょう。
まあ、この経典に書かれているような、ごみ一つなく、平和で、美しく整備され、泥棒なんていない、奪い合って争うなんてない、そんな安穏な世界は造れないわけではない、ということを心に刻んでおいて欲しいですね。

さて、そんな平穏な時代に弥勒菩薩は生まれます。大都市シトウマツにとあるバラモンの夫妻がいました。二人は仲睦まじく、正しく生活していました。その二人の間に男の子が生まれます。その子は、生まれながらにして伝説の仏陀の相を身につけており、また身体が黄金に輝いていました。その子は、弥勒と名付けられたのです。
弥勒は、順調に成長し、智慧も徳も備わった青年へと育ちます。弥勒は、街で評判になるほどの好青年となりました。
街にすばらしい青年がいるという噂をジョウキョ王が耳にします。王は、弥勒青年を自分の側近にしたいと命じますが、弥勒はこれを断ります。弥勒青年にはそうした出世欲などなく、彼は日夜思い悩むようになっていたのです。その悩みとは、この世界の人間の苦についてでした。
「この国の人々は、誰もが徳が高く恵まれている。しかし、そうはいっても情欲にはとらわれている。欲は欲を呼び、満たされることを知らない。満たされない者は、やがて苦を味わうこととなる。さらに、人々は長寿になったとはいえ、病気はあるし、老いもする。病・老・死の苦しみから解放されているわけではない。そうだ、人々は苦を味わっている。この苦しみから解放されるにはどうしたらよいのだ・・・・」
弥勒青年は、ふさぎこむことが多くなってきたのです。
ジョウキョ王は、そんな弥勒青年をどうしても側近にしたく、宝石でできた高楼をプレゼントします。ところが弥勒青年は、これをバラモンに布施してしまいます。バラモンたちは、裕福なくせに、宝石でできた高楼を奪いあいます。その結果、高楼の宝石はバラバラにされ、高楼は壊れてしまいます。弥勒青年、このあり様を見てさらに悩みこんでしまうのです。
「形あるものは、すべて壊れていくのだ。永遠不滅のものなどない。それなのに、人々はものに執着し、自分に執着し、苦しみに苛まれるのだ。そこから救われるには・・・・真実を求めるしかない。そうだ、私は出家して、真実を求めよう」
こうして弥勒青年は出家をするのです。

平穏な世界にも欲は存在します。いくら人々の間で格差がなくなり、人々に教養や智慧や徳がついても、欲はなくなることはありません。裕福な者もさらに裕福さを求めますし、贅沢ができるものでもさらに贅沢を求めます。日本のお金持ちの方々を見ていれば、よくわかりますよね。欲に際限はないのです。これでいいのだ、自分にはこの程度がお似合いなのだ・・・なんて思える人は少ないんですね。「できれば、より贅沢がしたい」と思うのが本音でしょう。お金がもらえる、と言われれば、いらないと答える人はいないのです。
ですので、弥勒菩薩が生まれる安穏な世界でも、欲は尽きてはいないのです。欲には裕福さは関係ないのですね。生活が全体的にレベルアップしても、欲はなくならないのですよ。むしろ、裕福なくせに欲をムキダシにすることの方が見苦しいですよね。より残念に思います。金持ちのくせに!って思いますよね。弥勒菩薩は、そうした人々を見て悩んだのでしょう。
みんな何も欲を出す必要はないじゃないか、今の状態で充分だろ、なぜそれ以上求めるのだ、なぜもっともっとと求めるのだ、だから苦しみが生まれるのだ・・・・あぁ、嘆かわしい。欲にとらわれない方法はないのだろうか・・・・。
ということですね。で、悩んだあげく、出家するのです。56億7千万年後でも出家はあるんですね。
つづく。



A弥勒菩薩・・・仏説観弥勒菩薩上生兜率天経、仏説弥勒下生成仏経 その4
前回の続きですね。
出家を決意した弥勒菩薩は、シトウマツを出て、森に一人入っていきます。そして、竜華樹という木の下で瞑想します。すると、瞬く間に悟りを得て、仏陀となってしまうのです。
天人は美しい花を降り注ぎ、芳しい香をたき弥勒佛の誕生を祝します。また、大地も大きく揺れ、弥勒佛の誕生を讃えます。これは、お釈迦様が悟りを得て仏陀となった時と同じですね。
その時の弥勒佛は黄金に輝き、その輝きはシトウマツの人々にも確認ができました。人々は、続々と光の源に集まってきます。そして、その光の元が弥勒佛であると知り、人々は弥勒佛を礼拝します。弥勒佛は人々のために教えを説きます。その教えを聞き、人々は諸行無常を知り、輪廻することに虚しさを観じ、この世の苦しみ、悩みから救われることを願います。弥勒佛は、人々の願いを聞き、教えをさらに説きます。それにより、無数の人々が救われるのです。
多くの人々が、弥勒佛の教えを聞き救われたという噂を国王も耳にします。国王は、王妃や侍女、家来を多数引き連れ弥勒佛の元にやってきます。そして、教えを聞き、皆出家してしまいます。また、8万4千人のバラモンたちも教えを聞きにやって来て、出家してしまいます。さらに、王女も8万4千人の侍女とともに出家してしまいます。
こうして、数多くの人々が弥勒佛のもとで出家したのだが、彼らはすべて前世でお釈迦様の教えを聞き、真理を得たいと願った者たちなのだ、と弥勒佛は説き明かします。
「今、ここに集まっている人々は、釈迦牟尼佛が私のところへ差し向けられた人々です。皆さんは、前世において釈迦牟尼佛の教えを聞き、善行を重ねてきた人たちです。ある人は衣食を他の人に施しをし、ある人は苦しんでいる人々の悩みを聞き楽を与えてきました。皆さんが、今ここで私に出会えたのは、そのような前世の善行の功徳によるものです。前世において、戒律をしっかりと守ってきた人々、仏塔を建てたり、礼拝したりしてきた人々、花や香をもって諸仏を供養してきた人々、仏陀の教えを学んで清浄な慈悲心を修めてきた人々、そうした人々が集まってきているのです」
つまり、弥勒佛の元に早くに集まり、出家した人々は、みんなお釈迦様がいらしたころ、お釈迦様の教えを聞き、その教えを守ってきた人たちなんですね。生まれ変わりなのです。
私たち真言宗の開祖であります弘法大師は、御入定されるときに、
「これより弥勒菩薩のもとへ行く。弥勒菩薩が如来となって現れるとき、私も一緒に人々を救うためにこの世に戻ってこよう」
と誓っております。弥勒佛がこの世に現れるときに、真っ先に出家する人々、弥勒佛の手伝いをして人々を救おうとする人たち、そうした人々は、みんな前世において仏教を学んだ者たちなのです。特に、お釈迦様に直接教えを受けていない修行者は、弥勒佛に出会うことを切に望んでいたことでしょう。
また、お釈迦様の直弟子であるマハーカサッパは、
「56億7千万年後に弥勒佛が現れるまで、私は山の中で待とう」
と言って、神通力で山を二つに割りその中に入り山を閉じた・・・と伝えられています。直弟子ですら、弥勒佛には会いたい、と思ったのです。こうした思いにより、弥勒佛がこの世に現れた時に真っ先に弟子となったのですね。前世からの願いが叶った瞬間ですね。

弥勒佛はさらに話を続けます。
「皆さんは、難しいことをやり遂げてきました。貪りや怒り、妬み、ひがみ、怨み、愚かさが充満していた前世において、よく戒めを守り、諸々の功徳を積むことは、大変難しいことだったでしょう。にもかかわらず、皆さんはよくやり遂げてきました。釈迦牟尼佛は慈悲心をもって人々のために教えを説いてこられました。そして、未来において私に皆さんを救うようにと託されました。仏陀に出会うということは、大変稀なことです。しかし、みなさんは釈迦牟尼佛の慈悲心と、皆さん自身の功徳により、その機会を与えられたのです」
・・・仏陀に出会うことは古来より稀なことである・・・・
古代インドでは、そのように伝えられていました。ですから、仏陀とは「伝説の聖者」だったのです。仏陀が現れる前に亡くなった者、仏陀が涅槃に入ってから生まれた者、そうした者は罪深いものである、とも言われています。また、仏陀がいらした時代に生まれていても、仏陀に出会うことができなかった者も罪深い者、と言われています。つまり、仏陀に会えなかった者、仏陀の姿を見ることができなかった者は、罪深いものなのです。そう、現代に生きる我々も、罪深い者なのです。
とはいえ、ひょっとしたら、我々もお釈迦様に会っているのかもしれません。前世において。今、お坊さんをしている者は、遠い前世において、お釈迦様とすれ違った者かもしれません。今、仏教に興味を持って仏教を学んでいる人は、お釈迦様がいらした頃、遠くからお釈迦様を眺めた者だったのかもしれません。今、仏教には興味はないけど、お寺巡りは好き、という人は、遠い前世でお釈迦様という仏陀の噂を聞いて会いたいなと思ったのかもしれません。魂は、そんな昔から続いているのかもしれませんね。そして、さらに何十億年と続くのかもしれませんね。弥勒佛は、そのようなことをここで説いているのです。

弥勒佛は、こうして集まった人々に教えを説いたのです。弥勒佛の説法会は、3回に及びました。第一回の説法では96億の人々が悟りを得て阿羅漢になりました。第2回では94億人が、第3回では92億人が阿羅漢となったのです。この説法は、弥勒佛が悟りを得た竜華樹のもとで行われたため、竜華三会(りゅうげさんね)と呼ばれるようになりました。
弥勒佛は、人々を引き連れ、シトウマツ国を托鉢します。すると、これを見ていた天人たちが空から華を降らせ、香をたいてシトウマツ国を荘厳します。神々は弥勒佛を讃える歌をうたいます。
また、弥勒佛は、魔王も尊い教えによって説き伏せ、封じるのではなく帰依させてしまいます。人々は大いに驚き、さらに弥勒佛を称賛します。悪魔はその後、弥勒佛の教えを説き広めるようにまでなったのです。
ある日のこと、弥勒佛は、
「さぁ、霊鷲山(りょうじゅせん)に行きましょう」
といって、弟子たちを連れ霊鷲山に向かいます。
「あの山には、釈迦牟尼佛の弟子であった大迦葉(だいかしょう=マハーカッサパ)の遺骨が埋まっています。大迦葉は自らの入滅のとき、未来の世で弥勒佛にまみえんことを願い、その山に入ったのです。今こそ、会うときが来たのです」
多くの弟子を連れた弥勒佛は、霊鷲山の山頂で大迦葉の遺骨を見つけました。そして大迦葉を讃えて言いました。
「偉大なる大迦葉よ、世尊の大弟子であった大迦葉よ、あなたは大いなる神通力を持ちながら、慢心することなく、悪世においてよく修行をされ多くの人々を救われた」
そして、弥勒佛は集まった人々に教えを説きました。悟りを得ても慢心することなく、修行に励むようにと。人々は、それを聞き、益々深い覚りを得る決意を固くしたのです・・・。

悟りを得て阿羅漢になった数は、いつものことですね。インドならでは、大げさです。なので、その数の多さにはこだわらないでください。56億7千万年後には、いったい何人の人間が住んでいるんだ、なんていう突っ込みはナシですからね。まあ、多くの者が悟りを得た、その数は、お釈迦様時代の比ではない、ということなのです。
そりゃ、そうですよね。彼らはすでにお釈迦様時代に教えを聞いている人々、もしくは、お釈迦様の教えを学んできた人々の生まれ変わりなのですから、そりゃあ悟るのも早いですね。もう下地ができているのですから。
魔王に関してもそうです。お釈迦様時代は、魔王パーピマンは封じられるのですが、弥勒佛の時代はそうではありません。それは、魔王も封じられながらお釈迦様の教えを聞いているのだし、お釈迦様が入滅されてからは、何度も菩薩や明王と対峙していますから、教えをかなり聞いていることでしょう。やはり、魔王も下地ができているのです。
そう、弥勒佛とお釈迦様がいらしたころは、時代が違うのです。お釈迦様がいらした時代、今も含めてですが、その時代は「悪世」なのです。
悪世とは、貪り、怒りや妬み、羨み、ひがみ、蔑み、怨み、愚かさで世の中が満ちている時代のことを言います。三毒に犯された時代ですね。まさに現代などはその最たるものです。そのような時代は、悟りを得るものはいなく、正しい仏教も片隅に追いやられ、ニセの仏教が語られ、ニセの坊主が堂々と人々の前に現れる時代なのです。いやはや、今はまさにそういう時代ですね。仏教徒オカルトが混同され、正しい仏教はどこへやら・・・。まともに修行もしていない者が、仏教をTVで語る始末。たまにお坊さんがTVに出てくるかと思えば、まあびっくりするようなイロモノ。正しい教えを説きたいのか、売名したいのか、いったいどっちなんだ?、と思ってしまいます。正しいことを説けば、ウザイの一言で済まされる。まさに悪世ですな。
そういう時代は、悟ったものなど現れないんですねぇ。まだ、お釈迦様がいらした時代、後を引き継いだマハーカッサパ尊者の時代は、マシだったのかもしれません。悪世とはいえ、今ほどではなかったのかもしれません。まだまだ、本当の仏教が説かれていた時代ですからね。
しかし、まあ、今は悪世といえども、その悪世の中をなるべく正しく生きるようにすれば、未来は案外明るいものなのでしょう。少しでも正しい仏教を学び、少しでも正しい仏教を説き、少しでも人々の役に立てれば、いずれは弥勒佛のもとで、悟りが得られるのかもしれません。ここでは、そうしたことを教えているのですね。ですから、悪世であっても、正しく生きましょう・・・と。

このようにお釈迦様が虚空に56億7千万年後の様子を映し出していたのですが、お釈迦様はふと目を虚空から離しました。するとその瞬間、虚空に映し出されていた情景は消えてしまったのです。
シャーリープトラは、はっと我に返ります。今、彼は感動の中にいました。あまりの感動に言葉を発することすらできませんでした。お釈迦様は、そんなシャーリープトラに向かって言いました。
「弥勒佛は、未来の世に6万年生きます。その間に人々に真理を説き、目覚めさせ、救うのです。弥勒佛が入滅した後は、その教えが6万年続きます。シャーリープトラよ、精進し、清浄なる心を起こすならば、未来の世で必ず弥勒佛に会うことができるのです」
シャーリープトラはこの言葉を聞き、喜びに満ち溢れ、益々修行に励んだのであった・・・・。

と、こうして弥勒菩薩の56億7千万年後の様子を説いたお経は終わります。
まあ、最終的には、他の浄土を説いたお経と同じで、信じて一生懸命修行すれば、極楽へ行けるぞ、というパターンですね。異なるのは、この世の生を終えてすぐに浄土へ行くのか、56億7千万年後なのか、というところでしょう。
となると、誰だって、この世の生が終わってすぐに極楽に行けたほうがいいでしょう。
「いくらなんでも56億年も待ってられるかっ!」
というのは、当然と言えば当然ですよね。なので、弥勒菩薩のお経は阿弥陀如来の浄土を説いたお経ほど人気がなかったのです。なので、阿弥陀如来ほどメジャーにはならなかったんですね。本当は、お釈迦様のあとを継ぐのは弥勒菩薩なんですが、あまりにも時が遠すぎなんですね。ここが、インド人ならではの大げさなところが禍いしたのかもしれません。まあ、しかし、仏陀がそんなにたくさん現れるわけにもいかないですし、何千年後・・・としてしまうと、そのお経に書いたとおりのことが実現していないと、仏教そのものがウソとされる危険がありますからね。
ということは、弥勒経を編纂した修行僧たちは、何千年後もあまり状況は変わっていない、人々の生活や生き様、欲望は変っていない、と想像したのでしょう。まあ、それは当たっていますよね。
確かに、文明は発達しました。車ができ、飛行機が空を飛び、居ながらにして世界中の人々と交信ができる・・・そんな時代です。文明は、お釈迦様がいらしたころと比べれば、遥かに発達しています。
しかし、人々の心はどうでしょうか?。相変わらず、人々は欲にまみれ、長生きを欲し、権力を得ることを望み、我欲に溺れています。貪りをやめず、他人を妬み、羨ましがり、ひがんだり、恨んだり・・・・。愚かなことの繰り返し・・・・。ちっとも進歩していません。
お経を編纂した修行僧の皆さんは、数千年じゃあ人の心は変わらない、と見抜いていたのですね。いや、すばらしいですな。というか、人間って、ちょっと残念ですね。もう少し、精神的に成長してもよさそうなものなんですけどねぇ・・・。ま、これも教育の問題なんでしょうねぇ。
せめて、今の子供たちの時代には、もう少しましな人々になって欲しいと思うのですが、政治があれじゃあ・・・。期待はできません。まあ、私たちお坊さんが、少しでも多くの人々に正しい教えを説いていくしかないのでしょうねぇ。そのお坊さんが汚れていたら何にもなりませんが・・・。
この弥勒経の内容を知ると、なんだか人間が嫌になるのは、私だけでしょうか?。いやはや、精進しなければいけませんなぁ・・・。
今回で弥勒菩薩についてのお経のお話は終わりです。次回からは、お地蔵様のお経についてお話いたします。


B地蔵菩薩・・・地蔵菩薩本願経 その1
地蔵菩薩・・・そうお地蔵様ですね。観音様と並んで大変有名な菩薩様です。観音様に対し、ちょっと地味ではありますが、親しみやすい菩薩様でもあります。
昔から、お地蔵さんと言えば子供の仏様としても知られています。村の道端に立って、子供たちの安全を見守っている仏様ですね。また、よく交通事故で亡くなられた方の供養にと、交通事故後などに建てられることもあります。
このように大変有名であるにもかかわらず、お地蔵様のお経はあまり知られていません。今回からは、そのお地蔵様について説かれたお経のお話に入ります。そのお経は「地蔵菩薩本願経」と呼ばれるお経です。今回も、すべてを訳すのではなく、大事なところだけを解説していきます。

このお経が説かれた場所は「トウリ天」です。トウリ天とは漢字で書くと「立心べんに刀」の「トウ」という字と利天と書きます。トウの字が文字化けするので、カタカナ表記にいたします。
トウリ天とは、別名「三十三天」ともいい、帝釈天が治める天界です。下天のすぐ上にある天界で、天界としては低い位置に存在しています。人間界から生まれ変わりやすい天界と言えましょう。帝釈天と言えば、神々の帝王です。その帝王がそんな低い天界を治めている・・・というのは不思議でしょう。
しかし、トウリ天には、渦巻状に三十三の国があり・・・そのために三十三天という名前もある・・・・、渦巻の中心に向かうほどレベルの高い世界になります。中心の国は帝釈天が鎮座まします国で、その世界に生まれ変わるのは難しいといわれています。つまり、トウリ天自体は、低い位置に存在する天界ではあるのですが、トウリ天内にある三十三カ国のうち、中心に向かうほど高いレベルの天界となっているわけですね。従って、人間界から生まれ変わることができるトウリ天の世界は、渦巻状の外側の端の国あたり・・・なのでしょう。だから、トウリ天は下の方にある天界であるにもかかわらず、そこを治める帝釈天は神々の王と言われるのです。

さて、お釈迦様がトウリ天に向かわれたときのことです。お釈迦様は、自分の母親である摩耶夫人に教えを説くため、トウリ天に向かいました。摩耶夫人は、お釈迦様を生んで七日後に(即座にという説もあり)亡くなってしまい、その後トウリ天に生まれ変わっていました。トウリ天にのどの国かははっきりしておりません。おりませんが、おそらくは中心の国なのでしょう。まあ、そこはお釈迦様の生みの親でもありますし、たとえ腹を借りただけ、といえども仏陀を身ごもったという徳がありますからね。その徳だけでも、トウリ天の中心に生まれ変わるだけの資格はあるでしょう。
いずれにせよ、お釈迦様は母親に教えを説くためにトウリ天に行ったのです。

お釈迦様がトウリ天に着きますと、四方八方から仏・菩薩が集まってまいります。それはそれはおびただしい数の仏菩薩が集まってきました。宇宙中に存在しうる如来、そして菩薩がお釈迦様の周囲を取り囲んだのです。
それだけではありませんな。すべての天界の神々や天人、天女も集まってきました。天界だけでなく、娑婆世界・・・この世ですな・・・の神々(山の神、海の神などの精霊ですな)や仙人、さらには人肉を食らうという鬼神までもが集まってきたのです。
お釈迦様、傍らに座っておりました文殊菩薩に尋ねます。
「文殊よ、如来、菩薩、神々、天人、天女から鬼神に至るまで、よくもまあ集まったものだ。文殊よ、いったい何人集まったか、数えてもらえないか?」
変なことを頼むお釈迦様です。普段なら、毅然とした態度をして、集まった数など全く気にもしないのがお釈迦様なのですが、このお経の中のお釈迦様はちょっとやわらかい感じがしますな。
お釈迦様にそう言われた文殊菩薩、即座に答えますな。
「いや、とても数えられません」
と。
「私の神通力をもってしても、何万年もかけても数えることは不可能でしょう。どうか世尊のお力で数えてください」
文殊菩薩は逆にそう願いますな。これに対しお釈迦様は、
「文殊よ、私にもわからないのだ。私も数えることができないのだよ」
と答えますな。なんともはや、ふざけているのか!といった感じですな。文殊菩薩もびっくりですな。しかし、これには理由があるのですよ。その理由が大事なのですな。
お釈迦様、優しい目をして文殊菩薩を見つめ、言いますな。
「文殊よ、ここに集まった者たちすべては、地蔵菩薩にゆかりの深い者たちなのだよ。ここにあっまた者たちは、はるか遠い前世において、地蔵菩薩に救われた者であり、また今現在救われようとしている者であり、そしてこれから救われるだろうという者たちなのだ。その数は、如来の目をもってしても数えることができないのだ」
これを聞いた文殊菩薩はびっくりしますな。地蔵菩薩はこんなにも多くの者を救ったのか、救いつつあるのか、そしてこれから救うのか・・・・。それはもう驚きを通り越していますな。文殊菩薩、びっくりしてお釈迦様に尋ねます。
「せ、世尊よ、是非説いてください。その地蔵菩薩という菩薩様は、どのような誓願を立て、どのような修行をしてこれほど多くの人々を救うことができたのですか?」
「文殊よ、たとえばこの大宇宙を粉々に砕いてちりとし、そのひとつのちりがさらに砕かれて大河の砂の数ほどになったとします。さて、全体のちりの数はいったいどれくらいになるでしょう」
すごい数ですな。この宇宙を粉々に砕くのです。粉々宇宙ですな。その粉々になった宇宙の一つを取り出して、それをさらに粉々します。その粉々にした数は大河の砂の数ほど。そうなると、すべての数は、
「元の宇宙を粉々にした数(粉々宇宙)」×大河の砂の数
となりますな。もう数え切れません。お釈迦様、いったい何を言いたいのか・・・。
で、文殊菩薩もそのように答えます。つまり「数え切れません」と。すると、お釈迦様
「文殊よ、地蔵菩薩は幾度も生まれ変わり人々を救いつてきた。その数は、その宇宙を砕いた数よりも多いのだ。それほど長い年月、地蔵菩薩は修行を続けているのだよ」
と答えますな。
つまり、「元の宇宙を粉々にした数(粉々宇宙)×大河の砂の数」よりも多い回数、地蔵菩薩は生まれ変わっている、というのです。まあ、それだけの数生まれ変わっていれば、相当数の人々を救っていることでしょう。っていうか、そんなに生まれ変わるものなのでしょうか・・・・?。
まあ、宇宙の成り立ちの年数を考えれば、あり得ないことはないでしょう。それにしても、ちょっと大げさな数ではありますが・・・。
この地蔵菩薩本願経は、ちょっと他のお経とは異なる感じがします。
まずは、説かれた場所が地上ではなく、天界であること。
教えを聞きに来たの数があまりにも多いこと。
その集まった人々が、特定の菩薩の縁者であること。
その菩薩は一つの生において多くの者を救ったのではなく、何度も生まれ変わっているのだと明かしていること。
一般的に、大乗経典は誓願を成就して、こう言う素晴らしい世界がありますからこっちに来なさいよ〜的な内容が多いですね。で、そうした経典の始まりは、その世界の素晴らしい情景が表現されています。
しかし、このお経はそうではありません。地味に始まっています。素晴らしい世界を説くのではなく、すごい数生まれ変わって、人々を救い続けている菩薩がいるんだよ、という話から始まっているんですね。ちょっと目先を変えてきていますな。
少し変わったお経になるのでしょう、このお経は・・・。

さて、その生まれ変わりなのですが、お釈迦様は代表的な話を一つします。地蔵菩薩が娘だった時のこと・・・・です。
合掌。



B地蔵菩薩・・・地蔵菩薩本願経 その2
お釈迦様は、地蔵菩薩の前世について文殊菩薩たちに話し始めます。
「遠い昔、覚華定自在王如来(かくげじょうじざいおうにょらい)という仏がいた。その仏が入滅し、その教えだけが残っていたころのことだ。そこに一人の娘がいた。その娘は信心深く、一日たりとも覚華定自在王如来の像に礼拝を欠かしたことはなかった。娘には母親がいたが、娘とは異なり、信仰を持つことなく亡くなった。そのためか、娘の母親は無間地獄に落ちてしまったのだ。
自分の母親が無間地獄に落ちたことを知らない娘は、母親がどこに生まれ変わったのか、毎日心配していた。信仰を持たなかったがために、地獄に落ちてしまったのではないかと懸念していたのだ。そこで娘は、残された財産を処分し、小さくも寺を建立し、覚華定自在王如来の像を安置したのだった。そして、明けても暮れても如来像の前で御仏の名前を唱え、涙を流しつつ、母親の生まれ変わり先を知りたいと願ったのである。
ある日のこと、いつものように如来像を礼拝していると、重々しくも清々しい声が聞こえてきた。
「娘よ、私は覚華定自在王如来である。もう泣くのはよしなさい。このまま家に帰り、私の名を唱えるがよい。そうすれば、おのずから母親の居場所はわかるであろう」
その声はそう言っていたのである。
娘はその声の通りに家に帰り、御仏の名を一心に唱えた。それは一昼夜に及んだ。ふと気が付くと、娘は海辺にいた。しかし、その海は通常の海と異なり、グラグラと煮えたぎっていた。また、その海を見ていると、多数の男女が、浮き沈みしていたのだ。さらには、鋼でできたような化け物が、浮いてきた男女をつかみ、貪り食っていたのだ。食われる男女の叫び声、化け物の口から流れるおびただしい鮮血・・・。娘は驚いたが、なぜか恐怖心は感じなかった。娘は、その情景をしっかり見届け、心に焼き付けねば・・・・とさえ思ったのだ。
海辺にたたずむ娘に一人の鬼の王が近づいてきた。
『菩薩よ、私は無毒という鬼の王である。菩薩は、ここで何をしておられるのか』
鬼の王は、娘にそう尋ねてきた。娘は、菩薩と呼ばれたのだが、なぜか違和感もなく、ただ鬼の王に問い返したのだった。
『無毒という鬼の王よ、ここはどこなのですか』
『菩薩よ、ここは鉄囲山(てっちせん)の西側にある最初の海です。生きている間に罪を重ね、死後49日たっても遺族から供養をされない者が、この海に来ます。その者達は、この海を越え地獄に行くのです。とはいえ、見ての通り海を泳ぎ切る前に化け物に何度も食われてしまいます。食われた者は、またここで生まれ変わり、海を渡ることを目指します。何度も何度も食い殺されながら、彼らはこの海を泳ぎ渡るのです。しかし、たとえこの海を泳ぎ切ったとしても、第二の海が待っています。その海の苦しみは、この海の二倍はあります。そしてさらに、第二の海を泳ぎ切ると、第三の海が待っています。第三の海の苦しみは、第二の海の二倍あります。その三つの海を泳ぎ切った先に無数の地獄が待っています』
『鬼の王よ、私はその地獄の一つに行かねばなりません』
『菩薩よ、地獄に行けるのは、御仏の力を持つ者か、罪人だけです。あなたにはその資格がない』
『でも私は行かねばなりません。地獄に行って母親を救うのです』
『ほう、お母様を・・・。ちなみにあなたの母親の名はなんというのですか』
『母は、エッテーリーと言います』
『なんと・・・。その方なら、三日前に天界に生まれ変わりました。その方の娘さん・・・そう菩薩よ、あなたです、あなたが、寺を建立し、覚華定自在王如来を供養した功徳により、あなたの母親は天界に生まれ変わったのです。しかも、あなたの母親は、自分一人だけ天界に行くことなく、同じ地獄にいた罪人の者と一緒に天界へと上がっていったのですよ』
無毒という鬼の王はそういうと、跪いて娘を礼拝したのだった。そうして娘は意識を失った。
ふと気が付くと、娘は覚華定自在王如来の像の前で額づいていた。娘は
『御仏よ、私は凄惨を極める地獄を見てまいりました。願わくば、未来が尽きるまで、あのような地獄の苦しみを受ける者たちを救い続け、御仏の元へと導きたく思います。そして、そのためにあらゆる努力をすることをここに誓います』
と誓願を立てたのだ。その時の誓願により、娘は地蔵菩薩となったのだ。また、無毒という鬼の王は、今は財首菩薩となっているのだ」
これが、地蔵菩薩の前世の話なのです。

地蔵菩薩は、はるか昔に、地獄を見たのです。それは、地獄の苦しみを味わったのではなく、まさしく見たのです。見ただけですね。正確には地獄の入り口を見たのですが、地獄の入り口ですら、恐ろしく苦しいのですから、地獄はいかなるものか、地蔵菩薩の前世である娘は想像できたことでしょう。
普通は、地獄の苦しみを見てしまったら、「あんなところへは行きたくない、絶対に行きたくない」と思う程度でしょう。誰も、そこにいる人々を救おうなどという気などおこしません。
「そんなことはない、私なら救いに行きますよ」
などという綺麗ごとを言う人は、まあ、いないでしょうねぇ。いたら、それは偽善者だと私は思います。実際にその場に立ったら、あわてて逃げるのが当然でしょう。逃げて当たり前なのです。もし、救います、という方がいたならば、実際に行動に出てほしいですね。世の中には、地獄の苦しみを味わっている人たちがたくさんいますからね。即座に救いに行ってほしいと思います。私にはできません・・・。
が、この娘は違ったのです。あの人々を救わねば、と思ってしまったんですね。ここが凡人と菩薩との違いですな。
まあ、救わねば、と思うことは凡人でも思いましょう。思うこともありますよね。でも、実行はなかなか難しいし、そのためには努力を惜しまない、とは言えませんよねぇ。まあ、百歩譲って言えたとしましょう。しかし、やはり実践は無理でしょうな。自ら進んで、鋼でできた化け物に対峙はできませんよ。ゲームの世界じゃあるまいし。それは、狂った象に向かっていくようなものです。愚かしいですな。
が、娘は思っただけでなく、向かっていくんですな。ここが凡人と菩薩の違いです。鋼の化け物に向かって行って、死んでもいい、と思うのですな。が、如来の加護がありますから、そう簡単には死なないんですな。で、地獄にわたる前の海で苦しんでいる者たちを救ったりします。まあ、しかし、生身の体ですから、やがて力尽きて死にますな。そりゃ、来る日も来る日も化け物退治じゃあ、やがて死にますよね。力尽きます。ゲームなら復活できますが、生身の体は復活できません。が、その娘は復活するんですね。地蔵菩薩として。
もし、あなたも菩薩になって人々から祀られたいと望むのなら、これくらいのことはしないといけないですな。でなきゃ、本物の菩薩にはなれません。にわか菩薩、プチ菩薩にはなれますけどね。
まあ、しかし、何度も生まれ変わっていくうちに、地蔵菩薩の前世のような娘さんくらいの信仰を持てるようになる可能性は、あるでしょう。それは、大丈夫だと思います。そうなれば、その次に生まれ変わるときは、どこかの星の菩薩になっているかもしれませんね。まずは、地蔵菩薩の前世レベルを目指すことですね。あと何度生まれ変わらないといけないことか・・・・。

さて、地蔵菩薩の前世の話を聞いて、集まった人々は驚いたり、感激の声を上げたりしていますな。トウリ天はざわめいています。そのざわめきが一挙に大きくなります。それは、無数の地蔵菩薩がトウリ天の周囲を囲むからです。
つまり、地蔵菩薩の分身が、トウリ天でお釈迦様の話を聞いている者たちを取り囲んだのですな。
「文殊菩薩よ、人々よ」
お釈迦様が語りかけた。
「今、無数の地蔵菩薩が現れた。それはなぜか・・・。過去世において苦しむ衆生をすべて救うと誓った地蔵菩薩は、無数に分身する必要があったのだ。その誓いを立てた地蔵菩薩は、あらゆるところに出向かねばならない。あらゆる世界とは、輪廻する世界・・・六道のことだ。しかし、たとえば地獄と一言に言ってもその世界は広大である。大きく分けても八つの世界がある。そのような世界が地獄から天界まであるのだ。それらの世界・・・いかなる世界であろうとも、地蔵菩薩は出向き、苦しみに喘いでいる者を救わねばならない。そのために無数の姿が必要なのだ」
お釈迦様の教えに、集まった人々は感動の涙を流したのであった。
人々がよく見ると、無数の地蔵菩薩の後ろには、救われた者たちが多数一緒にいたのであった。救われた者たちは、地蔵菩薩の前に出ると、お釈迦様を仰ぎ見て、深々と礼拝したのであった。

六つ並んでいるお地蔵さんの像を見かけることがあります。笠地蔵の昔話でも、お地蔵さんのぞうは、六体でした。昔から、お地蔵さんの像は、六体セットという場合が、多くあるのです。これを「六地蔵」といいます。
その由来は、六道輪廻の世界、それぞれを救ってくださるお地蔵様、というところからきています。地獄には地獄担当のお地蔵様、餓鬼には餓鬼担当のお地蔵様、畜生には畜生担当のお地蔵様・・・といって、六つの世界のお地蔵様がいらっしゃるわけなのです。なので、六地蔵なのですね。
ちなみにお地蔵さんの像に水をかける光景をよく目にします。巣鴨のお地蔵様はタワシでごしごしこすられていますな。いつからそうなったのかは知りませんが、もともとはきっと水をかけるだけだったのだと思います。
お地蔵様の像に水をかけるのには、理由があります。もっとも一般的なものは、お地蔵様が地獄で苦しんでいる者たちに代わって、自分が地獄の苦しみを受けているから、その地獄の熱で熱くなっているので冷やしてあげる、という説ですよね。身代わり地蔵説です。これに似た話で、地獄の苦しみにお地蔵様が冷や汗を流しているので、汗を流してあげるのだ、という説もあります。そのほかに、お地蔵様が人々を救うのにあまりにも忙しく、汗をぬぐう暇もないくらいだから、汗を流してあげる、という説もあります。ここから発展し、お地蔵様を洗ってあげる・・・というお参りが派生しても不思議ではないですな。ま、いずれにせよ、お地蔵様は大変なのですな。汗をかきかき、働いているのです。時に地獄の猛火に責められ、汗を流しているのですな。

さて、トウリ天では、お釈迦様の話が続きます。
「私はこの汚れ切った世界で、多くの衆生を教え導き、誤った心を直そうと努力してきた。しかし、それでも10人のうち一人や二人は、どうしても心を正そうとしない者がいるのだ。私は、あらゆる方便を使い、彼らを導いてきた。長き世にわたって・・・ある時は国王となり、ある時は労働者となり、ある時は修行者や菩薩、畜生となり、またある時は女人となり、天人となり、竜となって真理を説いてきた。地蔵菩薩よ、私はこのように長きにわたって、頑迷な衆生を教え導いてきたのであるが、それでもなお目覚めない者も多数いるのだ。よく聞くがよい、地蔵菩薩よ・・・・」
お釈迦様は、そう言って、まっすぐに地蔵菩薩を見つめます。無数にいた地蔵菩薩は、いつの間にか、一人の地蔵菩薩になっていました。その一人になった地蔵菩薩をまっすぐ見つめ、お釈迦様は話し始めたのです。

お釈迦様は、何度も何度も生まれ変わって仏陀になっています。それはジャータカという前世物語というお経にまとめられています。それによると、ある時は鳥の王であったり、ある時はサルの王であったり、ある時は鹿の王であったりします。ひどいときは、蚤の王であった時もあったようです。しかし、いつのばあいも「王」であることは確かですね。どんな姿に生まれ変わっても、王であったり、王子だったり、でした。まあ、ここが凡人と違うところですな。やがて仏陀となられるお方は、いついかなる姿に生まれ変わっても王や王子、王女、王妃だったのですよ。
で、その都度、人々を迷いから救うために教えを説くのですな。あるいは、危険から守っていくのです。または、命の尊さを説いたりもしますな。そうして、何度も何度も生まれ変わって、人々に教えを説いてきて、仏陀になったのですな。で、仏陀になってからも、多数の人々に教えを説いてきました。人々を救い導いてきたのですが、それでもなお、真理を受け入れようとしない愚か者がたくさんいるのですな、この世にはね。信仰を持たず、真理を知ろうともせず、悪の道に入っていく者がたくさんいるのです。己の欲望に翻弄され、苦しみの世界からなかなか抜け出せない者がたくさんいるのですな。お釈迦様、ちょっと嘆いています。

こうした話は、ほかの経典にも見られます。代表的な話を紹介しておきましょう。ある者がお釈迦様に
「お釈迦様はどれくらいの人々を救えますか?」
と尋ねます。お釈迦様は無言で地面の砂を握りますな。で、左手の親指を水平に突き出します。爪が上になっていますな。で、その親指の爪に右手で握った砂をサラサラとかけますな。左手親指の爪には砂が山になってのっています。お釈迦様、右手で左手の親指をトントンとつつきますな。すると、左手親指の爪の上の砂がパラパラと落ちていきます。爪の上の砂はほんの少しになっていますな。で、質問した者にその指を見せ、
「こんなものじゃ」
と答えます。まあ、シビアな話ですな。
まず、地面から砂を握ります。これが第一段階ですな。で、握った砂を落とします。ここで、脱落者がいっぱい出ます。かろうじてお釈迦様の爪に残った・・・真理を得ようと頑張った・・・者でも、ちょっと揺さぶってあげると簡単に脱落してしまうんですな。
信仰を持つ・・・これがお釈迦様の手に握られた砂です。信仰を持たない者は、未だ地面の砂ですな。しかし、信仰を持ったとしても、それが本物かどうかはわかりません。本当に真理を求めているのか、あるいはにわか信仰なのか、偽善なのか、エセ信仰なのか・・・・。本物の信仰を持った者だけが、お釈迦様の爪の上に残りますな。でも、残ったものすべてが固い信仰を持っているかどうかは怪しいものです。ちょっと揺さぶってみれば、あれよあれよと落ちていきますな。
実際にお釈迦様が必死に真理を説いても、それで救われるのはその程度なんです。
うちにお参りに来る方でもこのような方はいます。うちの寺の信者として、長年陰に日向に人力してくださった方で
「私は最後までお釈迦様の爪の上にいますよ」
と言っていた方でも(この話を知っているのですよ)、ちょっとしたことで爪から落ちていますからね。お釈迦様ですら爪の上の砂の数、しかもふるい落として・・・ですから、我々の寺じゃあ、もっと少ない人数しか救えないですよね。
ま、それはいいとしまして、お釈迦様、この場面で少々嘆いているようなのですな。というのも、人間の肉体には限界があるからです。お釈迦様といえども限界がやってくるのです。寿命ですね。で、心配なのは、自分亡き後のことですな。
56億7千万年後には、弥勒菩薩が如来となって世界を救うことはわかっています。しかし、それは遠い未来の話。そこに至るまでは、仏陀はいないのですな。完全なる悟りを得るものはいないのです。最終解脱者は現れないのです。じゃあ、その間はどうするのか・・・。
それは次回にお話いたしましょう。
合掌。



B地蔵菩薩・・・地蔵菩薩本願経 その3
「生きとし生けるものたちよ、私が導くことができなかった者たちは、その汚れた心の赴くままに多くの罪を犯し、地獄や餓鬼、畜生道に落ちて悲惨な苦しみを受けるであろう」
お釈迦様は、自分の入滅後のことを心配しているんですね。仏陀の言葉に耳を傾けず、欲望に従って生き、やがては苦しみの世界へ生まれ変わってしまう愚か者がたくさんいるのですな。そういう者を残してお釈迦様は涅槃に入らねばならないのです。

「しかし、そうした苦しみにあっているときこそ、思い起こすがよい。私が今、このトウリ天において地蔵菩薩に、そうした衆生の救済を付託したことを。
よいか、私の入滅後、次の仏陀である弥勒佛がこの世に現れるまで、長い時間がかかる。その間は無佛の時代である。地蔵菩薩よ、その長い無佛の時代を苦しみの世界に生きなければならない衆生を救うのだ。無佛の時代の衆生を教え導き、悟りに向かわせるのだ」
つまり、お釈迦様は、次の仏陀である弥勒佛がこの世に現れるまでの間、人々を救うようにとお地蔵様に託したわけです。簡単にいえば、お地蔵様はリリーフピッチャーなんですね。中継ぎなのです。このことで、無佛の時代の衆生救済役は地蔵菩薩と決定したのです。
本来ならば、この世にいる菩薩といえば、地蔵菩薩だけなのです。が、この世にはたくさんの菩薩が存在していますね。ちなみに、弥勒菩薩は現時点では兜卒天にいますので、この世ではありませんな。本当はね。まあ、でも、衆生の助けを求める声は聞こえますし、弥勒菩薩も仏陀になるために何度も生まれ変わってどこかで人々を救っていることでしょう。お釈迦様がそうであったように。
まあ、ここまではいいでしょう。地蔵菩薩、弥勒菩薩、ともにお釈迦様から依頼を受けています。特命を受けていますな。
しかし、この世にはそのほかの多くの菩薩が知られています。代表的な菩薩は観世音菩薩・・・観音様ですな。じゃあ、その観音様はお釈迦様から委託を受けたのか、というとそうではありません。お釈迦様から直接依頼されたのは、地蔵菩薩だけです。じゃあ、観音様は?・・・となりますよね。
実は、地蔵菩薩と弥勒菩薩以外の菩薩は、自発的に衆生救済に当たっているか、あるいは、その菩薩がいた浄土の仏陀から命を受けてこの娑婆世界にやってきているのですよ。
たとえば、観音様は本来は阿弥陀如来の浄土にいる菩薩です。まあ、観音様自身も南海に補陀落山という佛国土を持っていますが、そこはいわば自宅のようなもので、修行場所は極楽浄土なんですね。で、観音様、阿弥陀如来の命を受けます。
「娑婆世界はどうも他の浄土とは違って、あまりにも愚か者が多すぎる。あれでは地蔵菩薩だけでは手が回らんだろう。観世音よ、お前も娑婆世界に行って地蔵菩薩を助けてくるがよい」
と阿弥陀如来に言われて、この娑婆世界にやってきている・・・のだそうです。なので、観音様は、出張されてきているわけですね。
文殊菩薩や普賢菩薩は娑婆世界の菩薩ですが、こうした元々娑婆世界の菩薩は、特にお釈迦様から命を受けたわけではないですが、お地蔵様のサポートをしているわけです。それは、命を受けようが受けまいが、当たり前のことですからね。菩薩である以上、衆生救済はしなければいけないこと、当然の行為なのです。
お地蔵さんにしても、特別にお釈迦様から命を受けなくても、衆生救済はするんですよ、自ら進んで。しかし、まあ、一応、中心的な存在があったほうがいいでしょうから、お釈迦様はお地蔵様に託したのですな。
あとのことを託されたお地蔵様は、あまり目立たず、控えめに衆生救済にあたっていますな。観音様ほど目立ってはいません。どちらかというと、地味ですな。
しかし、それは当然でしょう。表舞台は、手伝ってくれる菩薩にお願いして、自らは裏方に回る・・・・。これは、リーダーとして、当然ですよね。中心人物は、なるべく表に出ないで、裏で仕切るのですよ。しかも、全体を眺めるようにして行動するのが、リーダーなのです。お地蔵様もそういう立場なのですな。なので、あまり目立たないわけです。

さて、お釈迦様から委託されたお地蔵様、涙を流しお釈迦様に応えます。
「世尊よ、私は、遠い昔から仏陀に導かれ神通力と智慧をいただきました。その神通力と智慧により、今後も私は無数の分身で大宇宙に遍満する無数の世界に至り、数限りない衆生を教え導き、悟りに向かわせましょう。彼ら衆生の行う善事はどんな小さなことでも見逃さず、その果報を増大させて大きな利益となるようにしましょう。世尊よ、どうか後の世に憂いを持たれないよう・・・・」
お地蔵様、しっかりやりますから、安心して涅槃にお入りください、とお釈迦様に誓いますな。なお、この言葉からもわかるようにお地蔵様は、この娑婆世界だけで活動しているわけではありません。お地蔵様も出張しているんですね。
この宇宙には、この腐りきった地球よりももっと腐った世界があるのです。下を見ればキリがないし、上を見てもキリはないのですよ。もう浄土化した世界はいいでしょうが、まだまだこの娑婆世界よりも劣る世界もあるのです。お地蔵様は、そうした世界へ出張しているのですな。自ら進んで。依頼されていなくても。
このように、菩薩は、お互いに分身を使って、救わねばならない世界に出張っているんです。大変なんですよ、菩薩は。

さて、このお地蔵様の誓いを聞いて、お釈迦様は喜びます。
「善きことかな、尊きことかな、私も地蔵菩薩を見守り、助けていきましょう。人々よ、地蔵菩薩が今立てた誓願がすべて成就し、すべての衆生を救い終えたとき、地蔵菩薩はこの上ない尊い仏陀となるであろう」
と地蔵菩薩がやがて仏陀になることを示しますな。人々は、お釈迦様の言葉に感嘆の声を上げます。
このとき、お釈迦様の母親である摩耶は一つの疑問を持つのですな。それは
「なぜ、娑婆世界の人々は、地獄や餓鬼などの苦しみの世界に落ちる人が多いのか?」
という疑問です。ま、当然の疑問ですな。それで、この疑問をお地蔵様に投げかけますな。お地蔵様はこの質問に答えます。
「摩耶夫人(ぶにん)よ、それは娑婆世界に限ったことではないのですよ。どの世界であっても、衆生は自分の行った行為の報いは、自分で受けなければならないのです。地獄や餓鬼に落ちるのは、娑婆世界の衆生だからではなく、そのような行為をするから落ちるのです」
という答えなのですが、ちょっとピントがずれているような気もしないではありません。まあ、確かに、地獄や餓鬼などの苦しみの世界に落ちるのは、娑婆世界だけに限ったことではないでしょう。先にも言いましたように、この宇宙には、この地球の住人よりもさらに愚かなものもいるのです。
そう、地獄や餓鬼と言った苦しみの世界に落ちるのは、愚かだからですな。愚かだからこそ、地獄や餓鬼に落ちるような行為をするのですな。本当は、お地蔵様、ここでそのように答えたほうが正解なのではないかと思いますな。
「なぜ地獄や餓鬼に落ちるものが多いのか?」
この質問に対する答えは、
「それは愚か者が多いからですよ」
という答えが正解でしょう。で、続いて
「愚か者とはどんなものですか」
となり、その答えとして
「仏法を聞かず、己の欲のみに従い、周囲の者を苦しめるようなものが愚か者なのですよ」
となるでしょう。で、その愚か者を救うには・・・・と続いたほうが、教えらしいとは思うのですが、まあ、このお経ではそちらのコースを取りませんな。話が、変わっていってしまいます。摩耶夫人、疑問の持ち方がすこ〜しズレています。が、それもいいのでしょう。ありきたりのお経にならなくて。教えや愚か者の話などは、ほかのお経でもわかりますからね。

摩耶夫人が持った疑問とは
「地獄とはどんな世界か?」
ということです。地獄は、最も苦しい苦しみの世界である、ということは知っているけど、具体的にはどんな世界か知らないのですな。これは、現代人も同じですね。今の人々も、地獄は苦しい世界、ということはなんとなく知っています。ですが、じゃあ具体的にどんな世界なの?、と聞かれると、よくわからないでしょう。鬼に追われたり、刺されたり切り刻まれたり、血の池に放り込まれたり、熱湯で茹でられたり、針の山を歩かされたり・・・・なんて答えられる方も、少なくなってきたのではないかな、と思います。昔話も今じゃああまり見かけないですからね。
そういえば、話はずれますが、TVでやっていた「日本昔話」は、なぜ無くなってしまったんですかねぇ。なぜ、放映しなくなったのでしょうか?。DVDは売っているようですが・・・・。いろいろ宗教的なことがある内容だから、自粛になったのでしょうかねぇ。ああいう内容の番組は、お子さんに見せるべきだと思うんですけどねぇ。もったいないことです。
摩耶夫人、お地蔵様に
「私たち娑婆世界のものたちが落ちる地獄について教えてください」
と願い出ますな。お地蔵様、では・・・と地獄について解説を始めます。次回は、簡単に地獄めぐり・・・無間地獄だけですが・・・を中心に話を進めていきます。
合掌。


ばっくなんばあ〜23


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