ばっくなんばぁあ〜23
第 六 章
「大乗経典」
*仏様の由来のお経 B地蔵菩薩・・・地蔵菩薩本願経 その4 摩耶夫人の「地獄について教えてください」というリクエストに応じ、お地蔵様は地獄の話を始めます。 「では、無間地獄についてお話ししましょう。 無間地獄とは、次のような罪を犯した者が落ちます。第一に父母に対しいたわりの心がなく、死ぬほどの苦しみを与えて死に至らせた者、第二に仏の体から血を流したり、または三宝を誹謗して経典を敬わなかった者、第三に僧団のものを壊し、または僧や尼僧に危害を加え、寺院の中でみだらな行為をしたり殺傷に及んだ者、第四に心から仏を敬っていないのに形ばかりの修行僧となって寺院に住み、僧団のものを私物化して戒律を守らなかった者、第五に僧団の財物をごまかし、与えられないのにこれを盗んだ者、こうした者たちは、この世で最も尊ぶべきものに仇をなしたのですから、当然の報いとして無間地獄に落ちるのです。そして気の遠くなるような長い期間、絶え間ない苦しみを受けるのです」 まずは、どんなものが無間地獄に落ちるかを説きます。ちなみに、地獄は八大地獄と言いまして、八種類の地獄があります。上から順に、等活(とうかつ)地獄・黒縄(こくじょう)地獄・衆合(しゅうごう)地獄・叫喚(きょうかん)地獄・大叫喚地獄・焦熱(しょうねつ)地獄・大焦熱地獄・阿鼻(あび)地獄となっています。阿鼻地獄が無間地獄に相当します。詳しくは「お気楽!、仏教講座 バックナンバー5」を読んでください。 第一は父母を殺傷した者のことですね。まあ、両親殺害は無間地獄に落ちても仕方がないでしょう。まあ、落ちますわな。次の仏の体から血を流したものとは、仏陀・・・お釈迦様・・・を傷つけ、その体から血を流させた者のことで、これはダイバダッタのことですね。ダイバダッタは、お釈迦様殺害を企て、その過程でお釈迦様の足を傷つけます。お釈迦様は足の指からほんのちょっと血を流します。このことでダイバダッタは無間地獄行き決定となったのです。まあ、さらに殺害計画を進めて結局は自滅したのですが・・・・。 ちなみに、今では、仏様は存在していませんので、身体を傷つけようがありません。まあ、仏像を壊すことはできますが、血は出ませんからね。これで無間地獄へ落ちることはありませんな。が、三宝を誹謗したり、経典を敬わなかった者はいますからね。気を付けたほうがいいですね。まあ、誹謗中傷されるようなお坊さんもいますからねぇ。その場合は、この限りに非ず・・・でしょう。 第三は、僧団が侵略されたことを物語っているのでしょう。この経典は、大乗経典です。大乗経典が編纂されたころは、インドの平和は乱れ、いろいろな宗教も入り込んだことでしょう。他の民族が寺院に侵入し、僧や尼僧を傷つけたり殺したりしたことでしょう。中には、尼僧を寺院内で犯した・・・などということもあったとことでしょう。戦争が起こった場合は、そうしたことは有り得ることなのです。ましてや、僧や尼僧は戒律を守っていますから、非暴力ですね。きっと、無抵抗で殺されたり犯されたりしたことでしょう。そうしたことがあったからこそ、そのような者たちが無間地獄に落ちるといわれるようになったのでしょうね。まあ、そんなひどいことをすれば、相手が僧や尼僧でなくても地獄に行きますけどね。 第四・第五も裏を返せば、形ばかりの出家者がいっぱいいた、ということでしょう。一応、出家者の姿を取ってはいるものの、修行するつもりなど全くなく、ただ飯を食らい、戒律を守ることなくダラダラと過ごす者がいたのでしょう。 あ、こうした坊さんは現代では、そこかしこにいますな。仕方がなく跡を継いで坊さんになったけど、悟るための修行などせず、葬式で儲けて遊んで暮らしている坊さん・・・いっぱいいますな。ま、こうした皆さんは、そろって無間地獄ですな。地獄は坊さんだらけ・・・ですなぁ。 摩耶夫人、さらに問いかけます。 「なぜ無間と名付けられたのですか?」 「それは五つの事柄が無間だからです。すなわち、時間が無間、形が無間、苦が無間、果が無間、命が無間・・・なので、無間地獄というのです。 時間が無間とは、時間的に絶え間なく責め苦が続くことを意味しています。形が無間とは、無間地獄の場所は一人であっても何千人であっても、それぞれに応じて自由に変化し、形において制限がないということです。苦が無間とは、絶え間のない苦しみが次から次へと連続で与えられるということです。果が無間とは、生前の性別や貧富の差、身分の差、社会的地位に関係なく、あるいは天人であっても竜王であっても、この無間地獄に落ちれば同じ苦しみが与えられるということです。命が無間とは、苦を受けてもすぐに元通りに生き返り、さらに苦を受けるということを絶え間なく繰り返すということです」 無間地獄に落ちますと、まさに苦しみの連続攻撃を食らうことになるわけですね。しかも、休憩なし。死んでもすぐに元の姿に戻り、また連続攻撃を食らうわけです。終わりがありませんな。罪人は、無間地獄の鬼に連続で責められるのですな。たとえば、このように・・・ 「よし、口を大きく万力を使って開けさせよう。痛いか、あははは、そこへ溶けた鉄を流しまーす。苦しいか、死ぬなよ。苦しいようなので腹を切って溶けた鉄の液を外に出してやろう。あら死んじゃった。でも大丈夫。すぐに生きかえって続きをしまーす。おぉ、生き返った。なに、腹が痛い。じゃあ、このホッチキスで腹を閉じてやる。あぁ、間違って身体中ホッチキスだらけになっちゃった。口も身体も閉じてしまったんじゃあ可哀そうだから開いてやろう。幸い両手足は閉じてないから、これを引っ張ろう。あぁ、手足がちぎれてしまった。しょうがない、身体ごと広げよう。あらあら、身体がばらばらだ。でも大丈夫。もとの姿にすぐに戻ります。ほら、戻った。さてもう一回。口を万力で開けよう。溶けた鉄を流そう。今度は、腹からじゃなくケツの穴から鉄の液体を出そうかな。それケツの穴を広げよう・・・」 などというように、連続攻撃が個人的に延々と続くのです。あるいは、集団で鉄が溶けた液体の中に何度も落とされるとか、両手足を鎖で引っ張ってちぎられながらの、針で身体中を刺されながらの、鉄の珠を落とされながらの・・・という連続攻撃もあるようです。恐ろしいですね。行きたくないですね。こうした攻撃が、絶え間なくやってくるのです。「ちょっと待って」という命乞いなどする暇など与えられませんな。これが無間地獄なのです。 このような内容を聞いて摩耶夫人、ショックで言葉を失ってしまいますな。 ショックを受け、黙りこくってしまった摩耶夫人を気遣ってか、お地蔵様はお釈迦様に向かっていいます。 「世尊よ、私は弥勒菩薩が如来になるまで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道のすべての衆生を救います」 お釈迦様は、お地蔵様を見て言いますな。ちょっときつい印象です。 「地蔵菩薩よ、汝の誓願は容易くはないであろう。なぜならば、一切の衆生は心が定まらないからである。たとえば、悪行ばかりを繰り返していた者を教化し、善に向かわせたと思った瞬間、その者がまた悪に走る、ということがあるのだ。そうして六道を輪廻し続けるのである。それはまるで、逃がしてやった魚が自らまた網の中に入ってくるようなものなのだ。 地蔵菩薩よ、衆生とはこのようなものであるからこそ、私の憂慮は深い。そしてまた、地蔵菩薩よ、汝は永遠の時を経ても誓願を果たせず、これからもその誓願を成就するために無量の努力を積み重ねていかねばならないであろう」 お釈迦様の言葉は厳しいですね。 衆生は愚か者なのです。何度も何度も悪行を繰り返し、それに懲りることなく、また悪行を繰り返す・・・それが衆生ですな。ま、人によって悪行の内容が異なる、というだけのことなのですよ。悪行が、殺生なのか、盗みなのか、淫行なのか、うそつきなのか、悪口なのか、怠けなのか、恨みなのか、憎しみなのか、金への執着なのか、名誉への執着なのか・・・・。また、その悪行の深さが、ひどいのか浅いのかの違いがあるだけで、悪行をするのは同じなのですな。悪行の内容と深さによって、どこの世界に輪廻するのか変わってくるというわけです。 もちろん、そこに善行が加味されますから、悪行よりも善行が勝れば天界へ、悪くても人間界へ・・・となるわけですね。天界や人間界への生まれ変わりを望むのなら、悪行よりも善行をすることですな。ひどい悪行をしてしまった人、もう取り返しがつかないぞということをしてしまった人は、たくさんの人の命を救うようなことをすれば取り返しはつきます。少しでも取り返したい、と望む人は、多くの人の役に立つことをすればいいのです。ま、困っている人をたくさん助ければいいわけですな。 それができない人は、まあ地獄も仕方がないか、と開き直りましょう。 さて、ここで別の菩薩がお釈迦様に質問します。 「世尊、私は定自在王(じょうじざいおう)菩薩というものですが、世尊はなぜ、久遠の時を重ねても未だ誓願が成就しない地蔵菩薩に無佛の時代を託したのでしょうか」 嫌な奴だなぁ、と思った方は結構いらっしゃるのではないでしょうか?。お釈迦様がお地蔵さんに託したのだからいいじゃないか、と思うのですが、どうもこの定自在王菩薩は気に入らないようですな。ま、定自在王菩薩にしてみれば 「だって、ものすごく長い時をかけて衆生救済に当たっているのに、いまだにそれが成し遂げられてないんですよ。それって、地蔵菩薩が無能だからじゃないんですか?。そんな菩薩に弥勒仏が現れるまでの無佛の時代を託していいんですか?。心配じゃないんですか、皆さんは!」 ということなのでしょう。当然の疑問と言えば当然です。大丈夫なのかお地蔵さんで、ということなのですね。 この疑問に、お釈迦様は即答しますな。 「地蔵菩薩の誓願が成就しないのは、その誓願が厳しく、極めて果てしがたいものだからだ」 地蔵菩薩の誓願が成就しないのは、地蔵菩薩の能力が劣っているからではなく、誓願のほうが困難な内容だから、ということですね。 ま、お釈迦様にしても、娑婆世界の衆生をすべて悟らせることはできませんでしたからねぇ。しかし、それはお釈迦様の能力が劣っているわけではなく、この世界の衆生が愚か過ぎるからです。お釈迦様の一人の力では、とうてい御しきれないほど、この世界の住人は愚かなのですな。まあ、私もその中の一人ですが・・・・。 お地蔵様にしても同じで、お地蔵様の力が劣っているのではなく、あまりにも愚かな衆生が多すぎるだけなのです。しかも、愚か過ぎる衆生が多すぎるのですな。お地蔵さん一人じゃあ、大変です。なので、後々、他の菩薩も手助けをするようになるわけなのです。 「定自在王菩薩よ、君だってできないよ」 と、わかっている人は言いたいでしょうな。ま、こういう場面は、現代でも多々あるシーンでしょう。昔も今も、茶々を入れる者はいるのですな。 しかし、お釈迦様は、「茶々を入れるな」では終わらせませんな。地蔵菩薩の誓願がいかに深いかを説明いたします。それは次回に・・・・。 B地蔵菩薩・・・地蔵菩薩本願経 その5 地蔵菩薩を暗に批判した(きっとそのつもりはないのでしょうが)定自在王菩薩に対し、お釈迦様は 「地蔵菩薩のもう一つの前世の話をしましょう」 と地蔵菩薩の前世物語を始めます。 「遥か昔のことである。あるところに二つの小さな国があった。両国の国王どうしは大変仲が良かった。二人の王は、お互いの国の人々を力を合わせて導こうと誓い、努力した。しかし、人々の心はすさみ切っていた。これではとても人々を導くことはできないと思った二人の国王は、それぞれ誓いを立てた。一人の王は、一刻も早く悟りを得て仏陀となり人々を救済しようとした。もう一人の王は、自分の悟りは後回しにして、まずは人々を目覚めさせ、人々を悟らせようとした。自分の悟りはそのあとでよい、と考えたのだ。 仏陀になってから人々を救おうとした王は、誓願の通り、悟りを得て『一切知成就如来』となった。もう一人の王は、結局仏陀になることはできなかった。その仏陀とならなかった王こそが地蔵菩薩なのだ」 定自在王菩薩は、この物語を聞き、心の中で 「なんということだ。自分のことよりも人々の悟りを優先するとは・・・。自分一人が仏陀になることの方がはるかに容易いであろうに・・・。わざわざ困難な道を選ぶとは・・・・」 と驚いていたのだった。お釈迦様は、さらに 「もう一つ、地蔵菩薩の前世の話をしよう」 と言って、再び物語を始めたのだった。 「昔の話である。地蔵菩薩は光目女(こうもくにょ)という名の娘だったときのことだ。光目女の母親は、生前生き物を殺して貪り食った報いで、地獄に落ちてしまった。信心深い光目女は仏の前で祈っているときにそのことを知った。彼女は、清浄蓮華目如来(しょうじょうれんげもくにょらい)という如来に母を救ってくれるように祈った。そのために彼女は『この先何億万年かかろうとも、悪道に落ちて苦しむ衆生がいるならば、自分は必ずそれらの者を救済して成仏させます。それからでなければ、私は決して悟りを得ることはありません』という誓いを立てたのだ。その誓いによって、母親は地獄から救われたのだが、そのようにとても成就できそうにないくらいの困難な誓いを立て、少しも怠ることなく、その誓いの成就に向かって努力し続けているのが、地蔵菩薩なのだ」 定自在王菩薩は、地蔵菩薩の誓願があまりにも深いことを知り、お釈迦様が地蔵菩薩に無佛の時代を託した理由をはっきりと知ったのであった。そして、地蔵菩薩の誓願を説いたお釈迦様のこの教えを広く伝える決意をしたのであった。 定自在王菩薩の批判にお釈迦様が、「その批判は的外れだよ」という話をしているのです。地蔵菩薩は、お前みたいな小さな菩薩じゃないよ、と説いているわけですね。 本来、菩薩というものは、どのような菩薩であっても、「一切の衆生が悟り得なければ自らは悟りを得ない。自分は、仏陀にならない」という誓願を立てています。だからこその菩薩なのですが、菩薩にもピンからキリまであるのですな。一般的に、菩薩には、10の位があるとされています。ま、簡単に言えば、菩薩にも超一流の菩薩もあれば、まあそこそこの菩薩もある、ということですね。言い方は悪いのですが、地蔵菩薩は、超一流の菩薩になり、定自在王菩薩はそこそこの菩薩、というわけですな。 地蔵菩薩の前世の話で、前半のある国の王の話は、小乗仏教(今はこの言い方はしませんが)と大乗仏教の誓いの違いを説いています。 まず、自分が悟りを開いて仏陀となり、それから人々を導こうというのが、いわゆる小乗仏教です。今では、上座部仏教とか、初期仏教とか言います。出家者優先の仏教ですね。まずは、自分の悟りが必要なのだ、ということです。 自分は仏陀にならなくていい、ほかのみんなをまず仏陀にしたい・・・と思い活動するのが、大乗仏教です。自分のことは後回しで、まずは人々の救済だ、ということです。これこそ、菩薩のあるべき姿なのですが、菩薩は実は悟りを得てもいるのです。いや、ある程度悟りを得て居なければ、「自分のことはいい、それよりもみんなだ」などと、本気で思えないでしょう。なぜなら、誰もが、「自分がかわいい」からです。 本当に、心から、心底「自分のことはいい、それよりもみんなの悟りが大切だ」と思えるのなら、それは、ある程度の悟りを得ていないとできないことでしょう。ある程度というのは、ほぼ仏陀に近い悟りです。あと一つ、「まずは、仏陀になっておこうか」という念を発すれば、仏陀になってしまう、というくらいの悟りを得ているのです。言い方を変えれば「このまま仏陀でいられないこともないが、それでは衆生救済はできぬから菩薩に戻るか」といって菩薩の状態をキープしている状態なのです。そうでなければ、自分が犠牲になってもいい、などと心底思えないでしょう。 「いや、私はそう思っている。自分よりも周囲の人々優先だ」 という人がいたら、それは偽善者だと思いますね。私は、とても自分より他人を優先するなど、無理です。 「人々を救うこと、それが自分のためだから」 ではダメなんですよ。自分のことは、「ない」のですから。自分の悟りのことは意識上にないのです。それが超一流の菩薩なのです。よく「自分はいいんです。それよりも家族が喜ぶ顔が見たいんです」という方がいますが、それは突き詰めていけば、自分のためなのですよ。自分の満足のため、なのです。すなわち、「家族が喜ぶ顔」は、自分の喜びであるのです。したがって、「家族の喜ぶために」は、実は「自分が満足するために」、なのですな。「家族の喜ぶ顔が見られればそれでいい」と心底思うのなら、家族を甘やかすのではなく、家族を導くことが大事です。ですので、時には家族に疎まれることもあるはずです。本当の喜びは何であるかを知らなければ、本当の意味で家族を喜ばせることはできないでしょう。上っ面の喜びや贅沢をさせて得る喜びではダメなのですよ。それは、本当の喜びではないのです。 人々を導くということは、悟りがなんであるかを十分に知っていなければなりません。そうでなければ、悟りに導くことなどできないでしょう。もし、悟りの何たるかを知らないで、人々を導きます、などというのならば、それは恐ろしいことになりますな。どこへ導かれるのやら・・・です。真実を知らずして人々を導くなんて、それはそれは怖いことなのです。まあ、そういうことを新興宗教はやってますけどね。怖いですね、あれは。まあ、イワシの頭も信心から・・・なので、信じる者は強いのですが、間違った教えを信じ込んでしまい、頑迷に他の教えを聞き入れようとしないという態度は、怖ろしい限りですな。いったい、あの船(新興宗教という船)は、どこへ人々を連れていくのか・・・。仏教系の新興宗教ならば、一度原点に戻ってみればいいのに、と思いますけどねぇ。 なお、地蔵菩薩のような超一流の菩薩でなくても、人々を導く手助けくらいはできます。それは、超一流の教えを広めることですね。 「このような救いがあるのだ、だからそれにすがろうではないか。そして、そこから、教えを少しずつ聞いて、悟りに向かおうではないか」 と説くことはできるのです。それがそこそこの菩薩が行う救いですな。そこそこの菩薩ほどの力はないけれど、微力ながら超一流の菩薩の教えを広めることは、我々坊さんにもできますな。ま、現代の坊さんの本来の仕事は、それでなくていけないのですけどね。葬式やってりゃあいい、というのが坊さんの仕事じゃあないですな。ま、それにしても、ある程度の勉強と修行はしていないといけません。ナンマイダーでいい、というわけにはいきませんな。 ちなみに、超一流の菩薩は、いわゆる有名どころの菩薩ですな。地蔵菩薩を始め、観世音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩などなど、名の知れ渡った菩薩が超一流どころの菩薩です。定自在王菩薩クラスの菩薩は、まだ超一流には入れませんな。 さて、定自在王菩薩が自らの至らなさを悟り、自分がやるべきことを見つけたので、お釈迦様の話もひと段落つきました。それを待っていたかのように、まあ、待っていたのですが、四天王が質問に立ちます。 「世尊よ、願わくば我らの疑問にお答えください。地蔵菩薩は、遠い過去世から現在に至るまで、何度も誓願を重ねてきました。それなのに、今またどうして、あらためて誓願を立てたのでしょうか」 ごもっともな質問ですな。昔に一回誓願を立てたのなら、それでいいのではないですか、ということですな。いずれにせよ、同じ誓願なのですから、そうそう何回も言わなくっても・・・ということです。 「四天王よ、よく聞くがよい。確かに地蔵菩薩は、はるか昔から限りない努力を払ってきた。しかし、苦に喘ぐ衆生は後を絶たないのだ。それはこの世も同じである。この世も、悪業に絡まれ、悪道に落ちる衆生は数多くいる。地蔵菩薩は、そうした苦しみに喘ぐ衆生を目の当たりにするたびに、誓願を立て続けているのだ。決意を新たにしているのだよ」 困難に当たるたびに、「よし、またまた乗り越えてやるぞ」と決意を新たにするのと同じですね。地蔵菩薩は何度も生まれ変わり、そのたびに決意を表明してきたのです。そして、今、生まれ変わることなく肉体のない菩薩として、衆生救済にあたっているのですが、それはそれで決意を新たにして衆生救済に励んでいるのですな。 続いて、普賢菩薩が質問に立ちます。普賢菩薩は、地蔵菩薩に直接、尋ねますな。 「地蔵菩薩よ、この娑婆世界の衆生が落ちる地獄はどんなものですか」 またまた地獄の話ですが、ここは端折りますな。簡単に説明をしております。面白いのは、ここで地獄にはメインの地獄とそれに付随する小地獄があるということが明かされることですね。 地獄には、8種類の地獄があることは前回お話ししました。実は、その8種類の地獄には、各地獄に4つの小地獄(副地獄ともいう)が付随しているのです。ということは、地獄の数は8×4で、32種類あることになります。詳しくは、私も知りませんが、メインの地獄では足りないという罪人に対し、特別メニューを与える地獄が小地獄のようですな。それは、その罪人の罪の種類がいろいろあるため、その罪に見合った罰を与えなければいけないので、地獄の数も増えたのでしょう。地獄も大変ですね。全部回ろうと思ったら、ものすごい年数がかかってしまうことでしょう。 普賢菩薩、地蔵菩薩の説明を聞きl、「大変ですねぇ。それ、全部めぐるのですか・・・・」と嘆息を漏らしますな。 というか、普賢菩薩はそんなことは先刻承知のはずです。ま、ここは、あえて聞いた、ということでしょう。お経の編纂者的には、大物の菩薩も質問者に立てておいた方がいいかな、と思ったのでしょうね。しかし、普賢菩薩の質問にしては、内容が・・・・。大物菩薩同士なのですから、もっと救いの内容に切り込んだ質問と答弁を期待したいところでしたね。これでは、どこかの国の国会の質疑応答と変わりませんねぇ。えっ、そこまでひどくないと。まあ、そうですな。小地獄の存在も明かされていますし・・・・。 とまあ、このような流れで、そこそこの菩薩から、四天王、大物菩薩まで質問に立ちますが、お釈迦様と地蔵菩薩、その質問に明確に答えました。一通りの質疑応答が終わったところで、お釈迦様、大光明を放ちますな。光り輝きます。そこに集った人々、天人、菩薩、大いに驚きますな。これは、またまた深い教えを説かれる予兆に違いない、というわけです。大乗経典では、おなじみのパターンですな。この場合も、その通りで、これより地蔵菩薩の功徳について説く場面に入ります。 B地蔵菩薩・・・地蔵菩薩本願経 その6 お釈迦様、その身から大光明を放ちます。話を聞きに集まった人々は、驚きの声をあげますな。それどころか、眩しすぎて目がくらんでしまいます。一瞬にして静寂に包み込まれますな。人々の気持ちも引き締まります。お釈迦様の大光明は、このような効果があるのです。 長い話を聞いておりますと、必ず中だるみします。「あぁ、もういい加減にやめて欲しいなぁ」という者が、必ず一人や二人はいます。皆さんも、学校で校長先生の話が長い時、「早く終われ」と心の中で願っていたでしょ(呪っていたと言ったほうがいいかも・・・)。そこまではいかなくても、お釈迦様の長い話を聞いているうちに、話が耳に入ってこなくなるものもいるのですよ。そのような中だるみのまま、大事な話はできません。そこで、お釈迦様は大光明を放つわけですね。経典を読んでいる人も、お釈迦様の大光明で、「おやっ」と思います。効果的ですな、こういう演出は。 で、お釈迦様、大光明を放った後、 「ここにいる地蔵菩薩は、言葉では表現できない摩訶不思議な神通力と偉大なる慈悲心により十方の世界の衆生を救い尽くすであろう。私が入滅した後は、すべての生きとし生けるものは、この地蔵菩薩の誓願と功徳を讃えたこの経典を無上の経典として守り続けよ。そして、一切の衆生を悟りに導くのだ」 と、その場にいた菩薩・天人・弟子・人々らに地蔵菩薩の教えを広めるように伝えたのです。 その時、普広菩薩(ふこうぼさつ)という菩薩が立ち上がってお釈迦様に質問をします。 「世尊よ、世尊が称賛する地蔵菩薩の功徳とは、いったいどのようなものなのでしょうか。私たち衆生のために、どうか地蔵菩薩の功徳についてお説きください」 お釈迦様、この問いかけに 「善い質問だ。汝ら、これより説くことをよく世界に広めるがよい」 と言って、地蔵菩薩の功徳について説き始めるのです。 「普広菩薩よ、未来の世で地蔵菩薩の名を聞いた者、地蔵菩薩に合掌した者、地蔵菩薩を称賛した者、礼拝した者、慕う心を起こした者は、前世から三十劫に渡って犯してきた罪が消えるのだ。 普広菩薩よ、地蔵菩薩の絵を描き、土や石・金銀や銅・鉄などでその像を造って礼拝する者は、百回?利天(とうりてん)に生まれ変わり悪道に落ちることはないのだ。もし、人間界に生まれたならば、国王となり利益を失うことはないのだ。 普広菩薩よ、女性が女性である身をいとい、心を尽くして先ほどのような供養を地蔵菩薩にするならば、百千万劫の間、女性に生まれ変わることはないのだ。また、醜さと病弱を嫌う女性が地蔵菩薩の像を礼拝するならば、その者は千万劫に渡って健康と美貌を得るのだ。さらに、女性であっても王女や大長者の娘として生まれるのだ。 普広菩薩よ、地蔵菩薩を心より礼拝し、供養することを白い歯を見せ笑い、その功徳を否定しそしったり、礼拝の場所を壊したり、人を導くことを妨げようとしたりする者や悪人、悪鬼がいれば、彼らは悉く無間地獄に落ち、未来永劫において苦を受けるのだ。 普広菩薩よ、もし死の床についていて、後の世の報いを恐れている者がいたならば、その病める者にこの経を唱えよ。たとえその者が地獄に落ちるべき者であっても、その者が命を終えるときに必ずや救われるであろう。もしその者が自分でこの経を読み、地蔵菩薩の像を造って供養するのであれば、その功徳はそれ以上であろう。 普広菩薩よ、もし自分の親や兄弟、身内の者がすでに悪道に落ちて苦しんでいるならば、地蔵菩薩の像の前でこの経を読むがよい。3回もしくは7回読めば、彼らは必ず救われて悪道を脱するであろう」 「世尊、この素晴らしい教えを説いた経を今後どのように呼び、広めていけばよいのでしょうか」 普広菩薩は、お釈迦様に尋ねた。 「普広菩薩よ、この経には三つの名前がある。一つには地蔵本願経という。または地蔵本行といい、地蔵本誓力ともいうのだ。この衆生を利する経を早く広めるがよい」・・・。 お地蔵様の功徳が説かれています。それは六種に及びます。一つずつ解説しておきましょう。 @未来の世で地蔵菩薩の名を聞いた者、地蔵菩薩に合掌した者、地蔵菩薩を称賛した者、礼拝した者、慕う心を起こした者は、前世から三十劫に渡って犯してきた罪が消える。 「未来の世」とは、このお経が説かれた時点より未来のことです。なので、現代も未来の世に入っています。ということは、今の時代に 1、地蔵菩薩の名前を聞いた。 2、地蔵菩薩に合掌した。 3、地蔵菩薩を称賛した。 4、地蔵菩薩を礼拝した。 5、地蔵菩薩に慕う心を起こした。 という人は、前世から30劫に渡って罪が消えてしまうのです。これは驚きです。「劫」といえば、一辺が400km(諸説あり40kmとも・・・)の金剛石(ダイヤモンド)を100年に一度天女が下りてきて、その衣で擦って、その金剛石が無くなるまでの時間、と言われております。まあ、とてつもなく長い時間なのですが、想像がつきませんので、別の説でいう「宇宙ができた時間」と思っていただいていいでしょう。それにしても長い時間です。この太陽系ができて約50億年ですから、まあ、1劫は50億年、と考えていいと思います。 で、お地蔵さんを拝むと、30劫ですから、1500億年にわたって前世から現世に至るまでの罪が消えるのですよ。いや、地球ができていないので、そんな前の前世はないので、そんな古くまでは考えなくてもいいのですが、ともかくすべての罪が消えるのですね。ありがたいことです。ならば、何やってもいいじゃないか、死ぬ前にお地蔵さん拝んでおけば、と言いたくもなりますな。これ、ちょっと危険な功徳でもあります。 私も毎朝、お地蔵様を拝んでおりますから、あーんなことやこーんなことをしたことも、あれもこれも消えてしまうのですな。じゃあ、もう少し破戒しておきますか・・・と思うのが人間ですな。ちょっと性善説に偏りすぎているような気もします。 まあ、それほど功徳があるのだ、ということが言いたいのですから、変な突込みはこの際やめておきましょう。素直に「へぇ〜、すっごーい」と聞いておくべきでしょうね。ともかく、お地蔵様を礼拝すれば、罪は消えるのですよ。ありがたいではありませんか。 A地蔵菩薩の絵を描いたり、像を造ったりして、それを礼拝する者は、100回?利天に生まれ変わります。?利天といえば、帝釈天の天界ですね。三十三天ともいい、?利天の中には三十三の国があります。その頂点にいるのが帝釈天ですね。その三十三か国のどこの国かは知りませんが、ともかく100回?利天に生まれ変わるのです。 天界の寿命は、短い下天であっても数万年です。しかも、こちらの50年が向こうの1日です。なので、天界の数万年は、365×50×数万年となりますな。1万年としたとしても181、500、000年。およそ2億年ですね。で、これが100回ですから、200億年は?利天で過ごすことになるのですな。しかも、悪道に落ちないというのですから、すごいです。まあ、その間に悟っているでしょうけどね。それほどなのに、最後の「もし、人間界に生まれたならば、国王となり利益を失うことはない」というのは、ちょっと?ですね。200億年の間、天界にいられることが保障されるのに、人間界では国王?。ちょっと比較が小さすぎませんか、と思うのですが。今の時代で言えば、アメリカ大統領?、もしくは石油産油国の大富豪?程度でしょう。天界の裕福さに比べれば、カスですな。最後の一節は、蛇足ですな。経典編纂者の過剰サービスでしょう。ま、こういうこともあるのです。 いずれにせよ、お地蔵さんの絵を描いたり、像を造ったりして、それを礼拝した者は、天界へ生まれ変わることができるわけです。もし、何かの間違いで人間界へ来たとしても、とてつもなく裕福であるのですよ。 B女性に関する功徳ですが、このお経が編纂された時代は男尊女卑の時代ですので、このような功徳が含まれているのです。女性が苦労した時代なのですね。まあ、それもほんのちょっと前まで、日本もそうだったのですよ。忘れているかもしれませんが、日本も男尊女卑の国だったのです。今でも、地方へ行けば「女は三歩下がって・・」とか「女は男に従っていればいい」的な考えの家がありますからね。そういう女性にとっては、「二度と女に生まれたくない」と思うことでしょう。その場合は、お地蔵様を礼拝すれば、女性に生まれ変わることはなくなるわけですね。 また、容姿がよくない女性や病弱な女性もお地蔵様を拝めば、次の世は美しく健康な女性になるのですな。しかも、裕福な家に生まれることができるのです。つまり、お地蔵様を拝んでおけば、来世は裕福な家の美しく健康なお嬢様・・・なのですよ。ま、女性のあこがれの姿ですな。 Cこれは功徳ではなく、バチですな。お地蔵様を礼拝する者、信心する者を笑ったり、そしったりした者は、地獄に落ちる、ということです。つまり、このお経をバカにした者は、地獄へ落ちる、ということですね。まあ、脅しと言えば脅し、警告と言えば警告、ですね。 決して、お地蔵様をけなしたり、お地蔵様を礼拝する者を笑ったり、そしったりしないように注意しましょう。 Dいろいろ罪を犯した者が、いよいよ臨終に至って、「あぁ、怖い怖い、地獄に行くのは怖い」などと恐怖におののいていたとします。そういう場合でも、このお経をその人のために唱えてあげれば、その人の罪は消えてしまい、救われるのですよ。もし、その人自身が、自分の罪深さを懺悔し、自分でこのお経を読むか、もしくはお地蔵様の絵や像を造らせた(あるいは自分で造った)とします。すると、その人の罪が消えて救われるほど以上の功徳を得られるのですな。これは、初期経典にも見られることです。お釈迦様が、散々悪さをした悪人がいよいよ死を迎えるとき、その悪人に 「お前、今までのことを懺悔するか?しないか?。しないならばヤマ(閻魔大王)のいる地獄へ行くし、懺悔するならば仏陀の弟子としてあの世へ行ける。さぁ、どうする?」 と迫るシーンが出てきます。それと同じようなことですね。散々罪を犯した者でも、お地蔵様を心より礼拝すれば、救われるのですよ。 E自分の身内の者が亡くなって、その人たちがあの世で苦しんでいたならば、このお経を3回もしくは7回読めば、その苦しんでいる者たちは救われる、ということです。つまり、ご先祖でいい世界に生まれ変わっていない者がいたら、この地蔵経を読んでやりなさい、ということですね。そうすれば、その先祖は救われる、ということなのです。まあ、先祖供養をしてやれ、ということですな。 ここには、3回ないし7回とありますが、本当はそれではちょっと足りませんね。少なくとも1年は続けた方がいいでしょう。それで、とりあえず悪道から救われる、ということです。そのあと、いいところへ行かせよう、と思うのならば、そのまま供養を続けるべきでしょう。悪道から脱出するだけでは、不足ですからね。 さて、このお地蔵様について説かれた教えは、地蔵菩薩本願経もしくは地蔵本行経、地蔵本誓力経と名付けられます。まあ、三つも名前がありますが、数が多ければいいというものでもありません。むしろ紛らわしいだけですな。一応、本名は「地蔵本願経」です。 お釈迦様が地蔵菩薩の功徳について説き終わると、お地蔵さんご本人が 「付け加えさせてください」 と立ち上がりますな。 「世尊よ、加えて私から人々へお願いがあります。人が亡くなるにあたり、どうか身内の人々は、その亡くなった人のためにお経を唱え、灯明をともし、仏像などに供養をしてください。もしも、それを49日に渡って行うならば、その亡くなった人は悪道を離れ人間界か天界へ生まれ変わるでしょう。同時に身内の人たちも利益を得るでしょう。また、臨終の日には身内の人たちは悪いことはしてはいけません。なぜならば、亡くなった人の罪の上塗りになるからです。人は亡くなって49日目に次の生まれ変わり先が決まるのですが、罪が未確定である49日間は戒律にのっとった食事(午前中しか食事をとらない)をし、供養をして救ってあげてください」 これを聞いた人々は、自分たちの亡くなった先祖のことを思い、地蔵菩薩の指示の通りにしようと誓ったのであった・・・。 人が亡くなってから次の世界に生まれ変わるまでに49日間あります。これは、1週間が7回ということでもあります。もともとは、お釈迦様が悟りを開くための瞑想期間が7日あり、そのあとその悟りの内容を確かめるために瞑想していた期間が49日間あった、ということが根拠になっている、という説があります。が、定かではありません。ほかの説では、もともとインドの古来からの宗教による思想だとも言われております。ま、いずれにせよ、インドで生まれた思想ですね。 この地蔵経に基づいて、人が亡くなると49日間は戒律を守って過ごすという習慣ができたようですね。あるいは、その逆で、すでにそのような習慣があって、それをお経に取り入れたのかもしれません。どちらかは定かではないですが、その習慣はインドから中国に伝わり、そして日本にも伝わりました。そして、それは現代でも続いています。昔ほど厳しく実行はされてはいませんが。 本来、人が亡くなると、49日間は、 1、灯明、香、供物、花を絶やさない。 2、食事は午前中だけで、午後からは飲み物だけ。できれば精進料理で(ただし、精進料理というのは中国で発生)。 3、お経を毎日読むこと 4、戒を守ること。すなわち、殺生しない、盗まない、性において乱れない、嘘をつかない、酒を飲まないの五戒を守ること。 以上のことを守らねばならなかったのです。現代においてそのようなことを言っていては、生活できませんから、そこまで厳しくする必要はないですが、せめて、ローソクを灯し、香を焚き、お花と供物を供え、手を合わすくらいはした方がいいですね。で、7日ごとの裁判にあわせて、お坊さんにお経を読んでもらうべきでしょう。最近では、亡くなって葬式をして、火葬して、そのあと初七日のお参りをし、あとは49日目にお経を唱える、というパターンが増えてきました。これはどうも、いただけません。できれば、7日ごとにお経は唱えてもらうべきでしょう。ま、そのことを知らないお坊さんがいるからいけないのですけどね。お坊さん側も、勉強不足ですな。 人が亡くなってからのことは、お地蔵様直々の願いなので、できれば実行した方がいいいのではないかと、私は思います。「そんな必要はないんじゃ・・・」というお坊さんは、地蔵菩薩の願いを聞かないお坊さんなのでしょうな、きっと。 さて、このお経もラストの場面に突入します。次回は、このお経の最後のお話です。それでは、また。 B地蔵菩薩・・・地蔵菩薩本願経 その7 さて、この経もラストのシーンに入ります。いわば今までのまとめですね。 お釈迦様が放った大光明は、地獄まで届きました。地獄でその光明を閻魔大王は拝みます。そして、直ちに多くの鬼たちを連れ?利天までやってきます。さっそくお釈迦様の前に跪き、ご挨拶をしますな。そして、地蔵菩薩を褒め称えます。 「世尊よ、この地蔵菩薩こそ、本来行くべき道があるはずなのにそれを間違い、毒蛇や猛獣がいる道に入ってしまった者を助け、元の道に導いてくれる方です。ありがたいことでございます」 続いて主命(しゅみょう)という名の鬼の王がお釈迦様の前に跪き言います。 「世尊よ、我は一仏名、一菩薩名、あるいは大乗経典の一句でも口にした者がいましたら、その者が生まれようとするとき、また亡くなろうとするとき、その者を守護いたします」 この主命は、人間の生死を司る役目をする鬼の王とされています。お釈迦様に主命は、誓ったわけです。一人の仏様の名前でもいい、一人の菩薩様の名前でもいい、あるいは大乗経典の一句でもいい、それらを唱えた者がいたら、その者の誕生と死の際に、守護します、ということを。だから、安心して誕生し、死を迎えよ、ということですな。 閻魔大王と主命の言葉にうなずいたお釈迦様は、地蔵菩薩に言います。 「地蔵菩薩よ、大いなる慈悲心を起こし、一切の罪深い六道の衆生を救いとるがよい。神々や鬼神もその救済を援護するであろう。私は間もなく大涅槃にいたるが、一刻も早く、この誓願が成就するように助けよう。そして、わたしは未来の世の一切の衆生について、何の心配も無くなった」 お釈迦様のこの言葉を聞き、地蔵菩薩は感激のあまり大地に身を伏して、涙を流したのです。お釈迦様の言葉は続きます。 「地蔵菩薩よ、娑婆世界の衆生に布施の功徳を説くがよい。もしも身体の不自由な者に布施をすれば、一万回生まれ変わっても常に七宝に囲まれた暮らしができるであろう。また、仏像や聖者の像に布施をし、破壊された仏塔や仏像を修繕し、病人に布施をし、寺院や大乗経典に布施をし、供養するならば、天界の神として生まれ変わり、天の悦楽を享受できるであろう。それを広く説き、娑婆世界の衆生に布施を勧めるのだ」 地蔵菩薩は、合掌して深く頭を下げ「わかりました」といったのです。 お釈迦様が言うには、地蔵菩薩の衆生救済の活動には、天界の神々も地獄などの鬼神も手助けをする、ということですね。ということは、お地蔵様を礼拝する者は、天界の神々はもちろんのこと、地獄などの鬼神もその者を守ってくれる、ということでしょう。ならば、もし、地獄へ行くようなことがあったとしても、安心ですな。生前、お地蔵様を拝んでました、といえば、閻魔大王も「あぁ、そうなのか。ならば許す」でしょう。まあ、だからといって、悪いことをしていい、ということではありませんけどね。しかし、知らないうちに犯す罪もありますし、知っていてついつい犯してしまう罪もあります。悪口を言ってしまったとか、嘘をついてしまったとか、盗み見してしまったとか、HなDVDを見てしまったとか、浮気をしてしまったとか、他人を妬んでしまったとか、ちょっと意地悪してしまったとか、他人を恨んだとか・・・。まあ、人は聖人君子ではないのですから、多少は罪を犯してしまうものです。でも、そうした罪を犯したとしても、お地蔵様をお参りし、「ごめんなさい」と頭を下げれば、死んであの世に行った後も、天界の神々はもちろん、閻魔さんたちも守ってくれるのです。そうここに書いているのですね。 さらに、次のように布施をするとよい、ということです。 @身体が不自由な人に布施をする 障害者施設に寄付をしたり、募金活動に協力したり、障害者施設で作ったものを購入したり・・・などをすればよいのです。こうしたことは、多くの方が行っていることでしょう。そういう方は、次の世からは、七宝に囲まれた生活を送れるそうです。 A仏像や聖者の像に布施する これは、お寺さんが仏像を造る際に寄付をする、ということですね。もちろん、仏像を寄付することも含まれます。仏像だけでなく、聖者の像・・・お釈迦様の弟子や、宗派の教祖の像・・・に関しても同じです。 B破戒された仏塔や仏像を修繕する この大乗経典が編纂された当時、仏教への弾圧や他宗派による仏教施設への攻撃があったのでしょう。なので、そうした破壊された仏教施設等の修繕に協力すればよい、ということですね。現代でも、古いお寺さんが本堂修繕費の寄付を募集しておりますが、それに協力するとよいのです。 C病人に布施をする 今では病人に布施をするということは少なくなりましたが、たまに難病で他国に手術を受けに行くため募金を行う方がいますね。そういうことに協力するといい、ということですね。 D寺院や大乗経典に布施をし、供養する 寺院に布施をするのはわかると思います。これにはお賽銭も含まれます。本来、お賽銭は「浄財」とか「喜捨」と言われ、純粋たる布施なのです。つまり、お賽銭は何も願わず、何も見返りを期待せず、純粋に寺院への布施する行為なのですよ、本来はね。今では、お賽銭を入れて願い事をしますが、願い事があるのならば、本当は祈願をした方がいいのですな。まあ、しかし、お賽銭を入れることは善いことですので、願い事をしてもいいですから、寺院への寄付ということでお賽銭をいれましょう。金額の多寡は関係ありません。 大乗経典への布施とは、寺院に大乗経典を収めることですね。経典を寄付する、ことです。たとえば、うちの寺でも大般若経典を購入するために資金の寄付を募りました。こうしたことに協力することが、大乗経典への寄付、にあたります。 供養する、ということは、いろいろと寺院さんにお供え物をする、ということだと思ってください。また、布施した大乗経典の法会を行うことも供養に当たります。そうした法会に協力したり、参加したりすることが供養になるのですね。 さて、このA〜Dを行えば、「天界へ生まれ変わり、神々と同等になれる」と、ここでは説いています。天界は、快楽の世界でもあります。神通力は使えるようになりますし、子孫の守護もできるようになります。また、様々な快楽も味わえます。ただし、修行も必要です。とはいえ、仏様のお話を聞き、善いことをし、悪いことをしないようにすればいいのですけどね。なお、天界は、罪に問われるハードルは高くありません。人間界よりもかなり低めです。大変すばらしい世界だそうですよ。ぜひ、A〜Dを実行して、天界に生まれ変わってください。 地蔵菩薩が、お釈迦様の命を聞き、深く合掌礼拝すると、地の神である堅牢地神(けんろうじじん)が立ち上がって言います。 「世尊よ、もしもこの地蔵菩薩の像を造り、焼香し、供養する人がいれば、私はその人の土地や家を守り、その人を災害からも守護いたします」 この堅牢地神の言葉が、後の地鎮祭へとつながっていくのですな。地鎮祭は地の神や地蔵菩薩、不動明王に祈る行事です。本来は、地蔵菩薩の像の前で行い、焼香するのがいいのでしょうが、時が経るにつれて、その方法も変わっていきました。しかし、祈る対象は、地蔵菩薩であり、地神です。そこに不動明王が、悪を焼き払うという意味で加わります。そうして、現在の地鎮祭があるのですが、今では地鎮祭は神主さんの役割となっていますな。本来は、仏教の行為だったのですけどね。もともとの根拠は、この地蔵経だったのですよ。ま、これも廃仏毀釈がもたらした結果ですな。 お釈迦様、再び眉間から大光明を放ちます。そして、 「生きとし生けるものよ、この地蔵菩薩の功徳、利益を忘れず、悪の道から離れるように努めよ」 と声高らかに伝えますな。するとそこで大物の菩薩である観世音菩薩がお釈迦様の前に出て合掌し 「世尊よ、この?利天において、我々は地蔵菩薩の慈悲の広大さと功徳の偉大さを知りました。世尊よ、願わくば、今一度、それらをまとめてお説きください。また、付け加える功徳がございましたら、併せてお聞かせください」 と願い出ます。最後にまとめてくれ、ということですな。そこで、お釈迦様、歌でお地蔵様の功徳をまとめます。歌とは、漢訳されると偈文と呼ばれる漢詩になります。もとのサンスクリット語でも抒情詩のような形式で書かれています。インドでは、お釈迦様がいらしたころから、抒情詩で教えを説くことがよくありました。曲もついていて、教えが覚えやすいので、そうした手段で教えを説いたのでしょう。また、そういう習慣がインドにはあったのですね。 その偈文がこれです。 地蔵菩薩の名を聞いて 像を前にして礼拝する者 すべて救われ悪道に 落ちる罪とが除かれる 親兄弟を失って その行く末を案じたら (地蔵)菩薩の像を礼拝し 二十一日念ずれば どこにいよいうと救われる 尊いお経を覚えても 忘失するのが人の常 しかし(地蔵)菩薩の名を思い 二十一日精進すれば その後は決して忘れないであろう 地蔵菩薩の尊像を 心より礼拝する者は貧苦も事故も 病気も不幸も災難も すべて消え去り楽を得よう お釈迦様は、この歌を歌い終わると、観世音菩薩に言います。 「観世音よ、地蔵菩薩の供養の功徳を悟りの世界に回向すれば、その人は必ず生死を超えて成仏するであろう。あらゆる佛国土の衆生に広く説くがよい」 「回向」という言葉は、ここから広く世に伝わりますな。地蔵菩薩を供養し、礼拝したその功徳を、悟りの世界・・・精神世界、魂の世界・・・へ回せば、その人は成仏するのです。ここから、お経をあげ、亡き人を供養する行為が生まれたのですな。 つまり、僧侶は、お地蔵様の前で布施された食べ物や金銭をお供えします。地蔵経を読み上げます。施主さんと一緒に地蔵菩薩を礼拝します。「さて、この功徳、あなたが貰い受けますか、それとも亡き人やご先祖に回し向かわせますか?」と僧侶は問いますな。自分で貰い受ければ、自分の功徳となり、天界に生まれ変わることが約束されましょう。しかし、そうした約束は、他でもできます。自分でお地蔵さんを礼拝すればいいのですな。では、ということで「ご先祖に回す」となれば、「わかりました。今の功徳はご先祖に回しましょう。ご先祖もこれで成仏するでしょう」となるのです。これが、先祖供養の始まり、というか根拠になっているのですね。 もともとは、お地蔵様が本尊だったのでしょうが、他の菩薩でも如来でもその功徳は同じですので、いろいろな仏様を対象に供養や回向が行われるようになったのでしょう。ご先祖の供養も、全く根拠がないことではないのですよ。ちゃんと、お経に説かれているのです。 さて、観世音菩薩、お地蔵様の功徳を他の佛国土にも広めることを誓いますな。観世音菩薩は、娑婆世界の菩薩ではなく、阿弥陀さんのところの菩薩ですから、「他の佛国土」となるのですね。 その時、今度は虚空蔵菩薩がお釈迦様の前に出ますな。大物菩薩オンパレードです。 「世尊よ、私にも地蔵菩薩の名を聞き、その像を拝み見ることの功徳をまとめてお説きください」 ちょっとしつこいですな。「さっきの歌を聞いてなかったんかい」と突っ込みたくなりますが、お釈迦様はそんなことは言いません。喜んで教えを説きますな。 「虚空蔵菩薩よ、もしも地蔵菩薩を見聞きする者がいたならば、その者を天の神々や龍神が守護し、善いことが日増しに起き、悟りを求める心に揺るぎはなくなるであろう。もし地蔵菩薩を見聞きする者が天人や龍神、鬼神であったならば、彼らの悪業はすべて消滅し、諸仏の加護を得るであろう。そして、いずれの者も最後は尊い仏となるのです」 この言葉に、虚空蔵菩薩だけでなく?利天を埋め尽くした者たちが、一斉に歓喜の声を上げ、お釈迦様と地蔵菩薩を褒め称えたのであった。 以上、地蔵菩薩本願経の内容です。最後は、少々あわてた感じがありますが、まあ、お地蔵さんの功徳をすべて出し切りたかったのでしょうね。いずれにせよ、お地蔵様を心より礼拝し、供養した者は、大いなる功徳を得る、ということですな。みなさんも、これを信じてお地蔵様を礼拝してしてください。なお、私は、うちの寺にお地蔵様が祀ってありますので、毎日礼拝しておりまます。ふむ、これで来世は天界間違いなし!ですな。合掌。 さて、7回にわたりまして地蔵菩薩本願経を解説してまいりましたが、今回で終了です。次回からは、どうしようかと考えているのですが、まだ決定はしていません。ひょっとしたら、お休みするかもしれません。約一か月の間に考えます。ご了承ください。合掌。 つづく 最終回 「お経の読み方」 今回で、「やさしいお経入門」を終了いたします。そこで、今回は、最後の話として、「お経の読み方」というお話をいたします。 読み方と言っても、読経の仕方の話ではありません。内容の理解の仕方、ですね。お分かりとは思いますが・・・。 お経は、大きく分けて、初期経典と大乗経典に分類されます。さらに分ければ、それぞれの内容によって、般若部とか一乗とか密教とか・・・・に分類されます。また更に分けていけば、もっと細かく分類されていきます。また、「読むお経」、「読まないお経」という分類の仕方もあります。このようにいろいろ分類されるお経ですが、まあ、大きく分ければ「初期経典」、「大乗経典」でしょう。まずは、この分け方にそってお話しいたします。 *初期経典 これは、読まないお経にも含まれます。初期経典は、主にお釈迦様が実際に説かれた言葉に近い(そのままとは言い切れないこともある)言葉を伝えてある経典類です。なので、仏教の考え方、思想、出家者の生活の仕方、出家者の修行法などが説かれています。実践的ではありますが、内容は在家向きではなく、出家者向きですね。 とはいえ、法句経などのように、生きていくうえでの考え方を説いたお経もあります。現代に生きる我々に対し、気楽に生きられる考え方を示している内容のお経もあるのです。いや、むしろ、現代こそ初期経典の内容がもっと世間に知らされてもいいのではないか、と思うこともあります。 初期経典は、後ほど話しますが、大乗経典のように「読んでご利益がある」というお経ではありません。悟りを得るためには、このように考えよ、こう世間を見よ、こういう心を持て・・・などということを説いたお経です。仏教の生き方、考え方、心の在り方を説いてあるのです。なので、現代に生きる我々には、大変参考になる内容なのです。特に、精神的に病んでいる方、人間関係に苦しんでいる方などは、仏教の生き方、考え方、心の在り方を学ぶといいと思うのです。そこには、「こだわらない生き方」が説かれているからです。 ただし、その「こだわらない生き方」を手に入れる方法は、実は出家者向きなのです。とても在家の生活をしていては、手に入れられないでしょう。 「出家して、このような修行法を行え。そうでないと、悟り(こだわらない生き方)は手に入らないぞ」 ということなのですね。ここが障害となって、人々の間に広まらないのです。初期経典は本当の仏教が説かれているにもかかわらず、一般の人々には広まっていかないのです。 お釈迦様は、自らのことを「心の病を治す医者である」と言っております。今でいう、精神科医ですね。つまり、仏教の教えは、本来は心の病を治す役割を果たしてきた教えなのです。それは、心理学でもあります。西洋の心理学がこの世に登場するはるか以前から、仏教は心の病を治してきたのですよ。それが本当の仏教の役割なのですね。 仏教は、心理学であり、精神医学であるのです。そして、出家者は、本来は精神科医であり、カウンセラーであるのです。本当の仏教は、そうしたところにあるのです。 が、こだわらない生き方を手に入れる・・・つまり悟りに至る・・・のは、困難を極めます。特に、ごく普通の生活をしている一般の人々にとっては、それは難しいことですね。だから、人々の気持ちは、初期経典から離れていってしまうのです。 「難しいことは、わからないし、できない」 「難しいことは、やりたくないし、日々の暮らしの方が大事」 これが、多くの庶民の本音なのです。 そこで、それに応えるように、大乗経典が編纂されるようになっていくのです。誰もが簡単に理解でき、実践できる内容を重視したお経を作り始めたのです。それは、仏教という、素晴らしい教え・・・心の病を治す教え・・・を絶やさないためでもあったのです。 現在。日々の生活に追われる人もたくさんいます。いますが、日本は比較的豊かですね。初期経典が編纂された時代とは大きく異なります。様々な物質を手に入れることもできます。奴隷的な生活もありません。字が読めない、という人もいません。誰もが携帯電話を持ち、着飾って、街を歩くことができます。貧しいながらも、とりあえず働いてさえいれば、何とか生活はできますよね。 そうした中で、心の病はどんどん増えていっています。多くの物質に囲まれ、欲望をそそるものに囲まれ、人間関係に悩み、生き方そのものに行き詰っている人々がどんどん増えています。この国は、年間3万人もの人々が自殺をする国です。自殺に至らない人を含めたら、心を病んでいる人はいったいどれほどいるのでしょうか?。それが今の日本なのです。 昔のように、初期経典の内容が理解できない・・・という人は、私は少ないと思います。いろいろな心理学の本や、生き方の本、啓蒙書などが氾濫している現在、仏教が説くところの「こだわらない生き方・・・悟り」を理解できない人は、少ないでしょう。初期経典に説かれている内容を「意味がわからない」という人は少ないと思うのです。むしろ、大乗経典に説くように「読めばいい」、「極楽を信じよ」、「救いを信じよ」と説く方が、胡散臭いと思う人の方が多いのではないでしょうか?。 今こそ、初期経典に説かれている生き方、考え方、心の在り方を、私は説くべきだと思うのです。あるいは、初期経典に親しむことが大事だと思うのです。そこには、「楽な生き方」が説かれているのですから。 ただ、経典は、初期経典であっても、奇跡的なことが書かれています。絶対人間には無理だろう的なことが説かれています。たとえば、お釈迦様が生まれてすぐ七歩歩いたとか、上半身炎で包まれ下半身は水を放ったとか、空中を飛び回ったとか、遠いところへ一瞬で移動したとか・・・・。そうした超人めいた内容は、読み飛ばしてください。そんなことは、どうでもいいことなのです。それは、いわゆる「釣り」です。出家して悟りを得ると、こんな力がつくぞ、という釣りですね。実際は、そんな超能力はありません。そんな「釣り」は無視してください。大事なのは、初期経典に説かれている「考え方」です。そこだけを読んでください。ここの部分を読み間違えると「なーんだ、胡散臭いじゃないか」となってしまいます。仏教は、「超能力を得るための教え」ではありません。「楽な生き方を教える」ものです。ここを誤解なきよう、お願いいたします。ここさえ間違わなければ、心を病んでいる方にとっては、初期経典は大変、参考になると思います。 *大乗経典 大乗経典も、読むお経と読まないお経にわかれます。読むお経は、読むこと自体が大事、とされています。読まないお経は、やはりその内容を読み取って、考え方を変えていきましょう、というお経ですね。あぁ、ただし、密教経典はちょっと異なります。密教経典の読まないお経は、いろいろな作法や曼荼羅の書き方が説かれていますので、読まないだけです。いわば、密教経典で読まないお経は、ハウツー書のようなものですね(大雑把にわけてあります。その辺、誤解なきよう)。 大乗経典で読むお経は、「読むことで徳が積め、罪が消えて、そのお陰で気持ちが楽なる」ということを説いています。なので、まず読むことが大事なのです。ただし、ただ単に読んでいるだけでは、本当はいけません。まあ、ただ単に読んでいるだけでも徳は積めるのですが、もっと大事なことは、「信じる」ということです。 大乗経典に書いてある内容は、それを詳しく知ってしまうと、荒唐無稽なことが多く出てきます。とんでもない多くの数の菩薩や天人が現れたり、全く別世界の宇宙空間のようなところへ瞬間移動したり、空中を飛んで行ったり、黄金やダイヤで覆われた世界を見せて見たり・・・・。 その世界観を実際のものと勘違いしてしまうと、いっちゃっている人になってしまいますよね。「おいおい、大丈夫かよ、そんなこと言って。そんなこと、本当に信じてるの?」と思ってしまいますよね。で、「やっぱり宗教って怖いよねぇ」となってしまいますな。 あるいは、火の中に落ちても菩薩の名前を唱えれば救われるとか、がけから落ちても助かるとか、どんな罪を犯してもその菩薩を拝めば罪が消えるとか・・・・。 まともにそれを受け取ってしまうと、これもちょっとおかしい人になってしまいますよね。極端な話、「何をやっても、どんな罪を犯しても、拝めばいいんだろ」ということになってしまいます。法律違反を認めてしまうことにもなりかねません。「罪を犯しても、救われるんだから何をやってもいい」という考え方を植え付ける可能性もあります。特に密教経典は、ちゃんとした理解力がなければ、恐ろしい思想に走ってしまいます。古くは「真言立川流」の邪教を生み、現代では、ウム事件を生んでしまいました。大乗経典や、密教経典は、解釈を間違うと、危ない内容でもあるのです。 大乗経典、密教経典に書いてある内容は、あくまでも「方便」です。人々を引き付けるため、日々の暮らしに疲れ切っている人の心をいやすため、自分の犯した罪の意識に悩み苦しんでいる人を救うため、そうしたことのための方便なのです。 「大丈夫だよ、あなたがものすごく反省し、後悔しているのなら、このお経を読みなさい。そうすれば、仏様はその罪を許してくださる」 ということですな。このあたりは、キリスト教の教えと似ていますね。実際、大乗仏教は、キリスト教的な教えが多いですね。「罪を悔い改め、もう一度生きなおす」ということが、大乗経典に多く説かれていることですから。大乗経典も、キリスト教も、「祈ることで心の安らぎを得る」ことを説いているのです。それは、仏教やキリスト教だけでなく、すべての宗教に共通した理念でしょう。そして、その根底にあるのが「信じる心」なのですね。 「大乗経典って、その内容が荒唐無稽だよね。だから信じられないよね」 と、思ってしまう方も多いことでしょう。しかし、それはあくまでも方便です。方便ですが、「経典を読めば救われる」ということだけは、とりあえず信じていいと思います。また、大乗経典に説かれているような「仏像や菩薩像などに手を合わせるだけで救われる」ということも信じていいと思います。なぜならば、仏様に手を合わすと、日本人はなぜか心が安らぐからです。大いなるものに対し、跪き、手を合わせると、なぜか心が静かになります。その瞬間は、別世界に行っているような気になるのです。そう、これが大乗仏教の功徳なのですよ。 人は一人では生きていけません。この世の中、つらいことが多すぎます。一人で抱え込むには、とても息苦しく辛いことがたくさんあります。そうしたとき、お寺の本堂内で、一人で手を合わせてみましょう。心の中で愚痴を言ってもいいです。泣き言を言ってもいいです。涙を流してみるのもいいでしょう。するとなぜか、次第に心が安らいでいくのですよ。それが大乗経典に説かれている「手を合わせればいい、拝むだけでいい」ということなのですね。さらに、お経を少しでも読めるようになれば、次第に心強くなっていくものなのです。 信じるものがある、ということはすごく強い精神力を生みます。何かを信じている人は、揺るぎがありません。新興宗教にどっぷりつかっている人がいい例でしょう。その新興宗教が、明らかに金銭目的であっても、それを信じている人は揺るぎません。周りが何を言っても聞く耳を持たないですよね。それが信心の力なのです。 一向一揆でもわかるように、信心は絶大なエネルギーを生みます。素直に、純粋に、疑うことを全く持たず信仰する人は、自然に大きなエネルギーを生んでいるのです。これが、信仰の力ですね。 大乗経典に説かれていることで最も重要なことは、「信じる」ということなのです。 「信じることは、大きな力生む」 これが、大乗経典の説こうとしている内容なのです。それは、どの大乗経典も同じです。阿弥陀如来であっても、薬師如来であっても、観音様であっても、お地蔵様であっても、弁天さんであっても、お稲荷さんであっても、毘沙門天であっても・・・・どの仏様、菩薩様、天界の神々であっても、同じですね。信じることが大事なのです。 大乗経典には、荒唐無稽なこと、にわかには信じられないようなことが書いてありますが、それは方便であって、そこが重要なのではありません。それは、「釣り」です。大事なのは、「とにかく信じなさい」ということなのです。「ゆるぎない信心は、大きな力生み、生きる勇気を与えるよ」ということが大事なのです。 そして、その信心をもっているからこそ、「意外なご利益」や「不思議なこと」という奇跡が生まれてくるのです。すなわち、信心がない者には、ご利益も不思議なことも奇跡も起きないのですね。まとめますと 悩みや苦しみがある→仏様の前で手を合わせる→心が安らぐ、なんとなく落ち着く→生きる勇気がわく→これが仏様のご利益と知る→仏教を信じてみようと思う→信心を持つ、信仰心を持つ→心が強くなる→大きな力を生む→信仰を続ける→思いもよらぬことが起きる→ますます信仰を深める・・・・。 こうして、最終的には、心の安定・・・日々なにがあろうとも動揺しない心・・・を得るのですね。これが大乗経典に説かれていることなのですよ。 初期経典は、自分で考えを変え、自分で努力することにより、悟りを得るための教えでした。自分自身の努力により、苦しみを乗り越えていくのです。大乗経典は、頼り祈ることから始まり、信じる心を持ち、そこからエネルギーを得て、苦しみを乗り越えていく教えです。初期仏教と大乗仏教の違いは、この点にあるのです。 ちょなみに、密教はどうかと言いますと、その両方の良いところをミックスしてあります。つまり、 「自分の努力+祈り、頼る、信心を持つ」 ということですね。それにより、自分の思うようになるという道を切り開いていくのが密教です。そのためには、あらゆる方便を使います。もちろん、法律に触れない範囲ですが・・・。そこが難解な部分であり、加減も必要であり、自分自身の心のコントロールなども必要となってきます。なので、密教は難しいと言われるのです。教義と実践、両方をバランスよく身に着けていかないと、密教は理解できませんね。なので、密教を学びたいという方は、ある程度、実践もしておかないと意味がありません。ですから、できれば密教には手を出さない方がいいでしょう。中途半端に手を出せば、「拝み屋」のような、「怪しい行者や胡散臭い人」になってしまいます。そして、その末路は、哀れなものになってしまいます。私も何人もそうした行者崩れを見てきました。中途半端に密教の領域に手を出した者の最後は、大変みじめです。なので、できれば、密教には手を出さないことです。もし、手を出すなら、善き指導者のもとで、正しい導きをしてもらうことですね。 さて、長い間、お経のお話におつきあいくださり、ありがとうございました。内容が難しいと言われているお経の意味を、できるだけわかりやすく説いてきたつもりです。その目的は果たされたかどうかはわかりませんが、今回をもちまして、この「やさしいお経入門」を終了させていただきます。長い間、読んでいただき、ありがとうございました。 また、お経について何かご質問がございましたら、遠慮なくメールをください。別のページで・・・となりますが、お答えいたします。 合掌。 |