えっ?!

こんなところに仏教語!

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1、挨拶
新学期が始まったり、新入学があったり、新入社員がやってきたり、春は、新しい始まりが多くありますよね。会社では、部署の移動や転勤なども多々あったことでしょう。
で、そうした中、校長の挨拶があったり、新入生の挨拶があったり、社長の挨拶、新入社員の挨拶、得意先への挨拶などがあったりします。春は、何かと「ご挨拶」に忙しい季節です。

春だけではないですね。皆さんも毎朝、家庭で、学校で、会社で、近所で挨拶をしていると思います。ちょこんと頭を下げるだけの挨拶から、「まあ、奥さん、おはようございます」から始まって延々と続く挨拶(?)まで、様々な挨拶があります。しかし、この挨拶がないと、とんでもないことにもなりますよね。
知っているのに知らないふり・・・・。挨拶もなしに知らないふり・・・・。
これは、礼儀を欠くものとして、非難される行為ですね。挨拶は大事なのです。

さて、皆さんが何気なく行なっている挨拶。或いは、「ちゃんと挨拶しなさい」などと子供に教えている、この「挨拶」。実は、これ、もとは仏教の言葉なんですよ。

実は、挨拶って、仏教語なんですよ。
「挨拶」という言葉は、「軽く触れる」と言う意味の「挨(あい)」と言う言葉と、「強く触れる」ことを表している「拶(さつ)」という言葉が一つになってできています。つまり、「挨拶」とは、「軽く、そして強く触れ合う」という意味ですね。これのどこが仏教と関わりがあるのか。今使われている「挨拶」の意味と変わらないじゃないか、と思うでしょう。そう、これだけでは仏教とのかかわりはわかりませんよね。これは、字の意義だけですから。

挨拶とは、もとは、禅寺で行なわれていた問答に由来しているのです。
禅宗では、師が弟子達に出会うと、どこで出会っても問答を始めます。まあ、タイミングが合えば、の話ですが。絶えず、顔を見合すたびに行なっていたわけではありませんよ。たぶん・・・。

たとえば、弟子が行を終え、師のところへ向います。一礼をして師の前に進んでいきます。
で、師が軽く問いかけをします。覚りに関して何か問うんですね。「問う・・・・・とは、なんぞや」みたいな。
で、弟子がそれに対して強く答えます。「答う。・・・・とは****なり!」とね。
これが、禅寺では日常茶飯事のように行なわれていたんです。かしこまって師の部屋に行かずとも、その日、師に出会ったら、いきなり
「汝に問う。・・・・・とはなんぞや」
などと、軽く聞かれるんです。
で、弟子が答えるんですね。「答う。・・・・とは、云々・・・なり」
って。

察しのよい方はもうおわかりでしょう。そう、師が軽く問うのが「挨」。弟子が強く答えるのが「拶」なんです。
で、禅寺で日常茶飯事のように、この「問答」−即ち「挨拶」−が行なわれていたんですね。これが、転じて、坊さん以外の方が、知り合いに会ったり、初めての方に会ったりする時に交わす言葉を「挨拶」と言うようになったのです。本来は、禅僧の問答だったんですよ。禅寺では、一般の方の挨拶のように、問答が行なわれていたのでしょうね。今でも禅寺に行けば、挨拶の如く問答が行なわれている・・・かどうかは、私は知りませんけどね。

さて、挨拶・・・・。元は、目上の方が軽く問いかけ、で、目下のものが強く答えたものだったようですが、今はどうも違うようですね。目上の者は、威張ってふんぞり返って、目下の者の言葉を待っているようです。で、その言葉に失礼がなければ、「よっしゃ、よっしゃ」となるわけで・・・・。後の部分だけは、元の使われ方と同じようであったりするんですね。
おいおい、本来なら、目上のあなたから、お試しの言葉をかけるべきなんですよ・・・・と思って、目上の言葉を待っていたりすると、「コイツ、ロクに挨拶もできないのか」と誤解されてしまいます。ですので、本来の挨拶の使われ方は、現代では通用しませんね。お気をつけください。合掌。



2、我慢
我慢、という言葉は、いい意味で使われますよね。欲しいものを我慢すれば誉められるし、つらいことを我慢して乗り越えたりします。本当はしたくないことですが、我慢しなければならないこともあるし、我慢してよかったということもあります。いずれにせよ、我慢は、誉められらたことではありますね。
実際に、国語辞典には、「我慢−たえしのぶこと。こらえて許すこと・・・・」などとあります。
が、しかし、それは現在の意味であって、実は我慢と言う言葉は、本来は仏教の言葉であって、意味も今とは正反対。悪い意味を持った言葉だったのです。

「仏教語大辞典−縮刷版−(中村元 著、東京書籍)」によりますと(この仏教語大辞典は、これからちょくちょく出てきますよ)、我慢と言う言葉は、
「@自己の中心に我があると考え、その我をより所として心が驕慢であること。己を頼んで、心のおごる煩悩。自らを頼む慢心。七慢の一つ。
A自我が存在すると思う慢心。我ありと執する心。
B奢り高ぶる心。慢心。などなど・・・・・」
とあります。どうですか?。ちょっと難しい言い回しもありますが、あまりいい意味の言葉ではない、ということはおわかり頂けたでしょうか。

我慢というのは、仏教では、慢心のことです。この世に我あり、と思い上がる心ですね。平清盛ですよ、簡単に言ってしまえば。平清盛の心そのものが、「我慢」なのです。
ですから、「我慢」というのは、しちゃあいけない心、そうなっちゃいけない心の状態なんですよ。

それが、なぜいい意味で使われるようになったのでしょうか。それは、おそらく、我慢という言葉の意味の中の
「我を通す。頑固に自我を通す」
という意味が、いい方で使われるようなったからでしょう。
苦しいときも、我を通して耐え忍ぶ、という姿をさして「我慢する」というようになったと思われます。我慢がいい意味の言葉となったのは、我を通して、耐え忍ぶことが美徳、と言われた時代からなのでしょうね。本来の意味とは正反対になってしまいました。

ところで、もともと「慢」という言葉は、インドの「マーナ」と言う言葉を音写したものです。意味は、「他人に対して奢り高ぶる心」のことです。「慢心」ですね。慢は、マーナそのものなんです。音写と同時に、意味もそのまま写したのです。
で、その「慢」に七種類あります。それは、次の七慢といわれるもののことです。
@慢(まん)−自分より劣ったものに対して自分が勝っているといい、自分と同等のものに対して自分は等しいという心。
A過慢(かまん)−自分と同等のものに対して自分が勝っているといい、自分より勝っているものに対して自分と等しいという心。
B慢過慢(まんかまん)−自分より勝っているものに対して、自分のほうが勝っているという心。
C我慢(がまん)−自己中心の心。自分は絶対だ、自分は永遠だ、と奢り高ぶる心。
D増上慢(ぞうじょうまん)−いまだ覚っていないのに、自分は覚ったのだという心。
E卑慢(ひまん)−他人がはるかに勝っているのに対して、自分はわずかしか劣ってないと思う心。
F邪慢(じゃまん)−徳がないのに徳があると主張する心。悪いことをして、さらに悪心をもつこと。
とまあ、こんなところです。わかりやすいものもあれば、わかりにくいものもあろうかと思いますので、ちょっと補足をいたします。

@の「慢」は、よくそのような心の状態になりますよね。これ、どこが悪いの?と思われるかもしれません。自分より劣っている者に対して、「俺よりダメじゃん」と思ったり、言ったりしますよね。自分と同じレベルのものには「一緒じゃん。お前もなかなかやるじゃん」などと言ったりします。極普通ですよね。
でも、仏教では、その一見普通のような心にも慢心がある、と指摘しているのです。自分より劣ると思う心、自分と同じくらい、と思う心を戒めているのです。つまり、比較するな、ということですね。
自分より劣っていようが、勝れていようが、それは関係ない。ただ、自分は自分の努力をすればいい、と言うことなのです。

ABも、よく陥る心の状態ですね。私でもそうなるかも知れませんし、他人でも、こういう方、しばしば見受けられます。簡単にいえば、ABは、「知ったかぶり」であり、「実力も無いのに偉そうな」であり、「空威張り」であり、「安いメッキ」でもありましょう。そういう心の状態では、とてもとても・・・・。損をするのは自分だと知ったほうがいいですね。
でも、多いんですよね、知ったかぶりの人や、実力も無いのに・・・・という方。いやいや、自分もそうならないように気をつけましょう。

Dは、覚りじゃないことに関してもいえます。何かの道を極めようとしていて、「私にはもう学ぶことは無い」と思ってしまう心ですね。
たとえば、武術でもそうですね。スポーツでもそうです。職人技でもそう。もうこれ以上学ぶものが無い、なんて思ってしまったら、あたなの頂点はそれで終り。それ以上伸びることはありません。生涯修行、生涯勉強、と思っていれば、どこまでも伸びていくでしょう。いつかは本物の頂点に達することができるでしょう。
私達でも注意しなければいけないことです、この増上慢は。よく陥るんですよ。
「私ほど仏教を理解しているものはいないだろう」、「私よりお祓いのできる僧侶はおるまい」、「私は何でも見通せれるんだよ」、「私には何でもわかってしまうんだよ」・・・・・・。
こんなことを言っている坊さんや霊感師、霊能者、占い師、いっぱいいるんじゃないでしょうか。自分は勝れている、もう学ぶことはない、なんて思ったら、それこそ、「もう終り」ですよね。

Eは、自分の非、無力さを認めない心ですね。意地っ張りなんですよ、そう言う人は。素直に自分の非を認めたほうが世の中楽しいし、自分の力のなさを認めたほうが成長もできるのにね。
Fは、反省の色のない人です。悪に染まっているのに、その悪から出ようともしない、さらに悪に頼ろうとしている人のことです。こう言う人は、極悪人ですね。でも、実際にいるから怖いです。

さて、慢の意味、おわかり頂けたでしょうか。我慢が、本来は悪い意味だったなんて、ちょっと驚きじゃないですか。また、慢そのものが、インドの言葉だったなんて、ちょっとびっくりですよね。
ま、慢心せず、増上慢にならないよう、我慢にならないように、我慢して努力いたしましょう・・・。
あれれ???。合掌。



3、旦那
時代劇などを見ていると、必ず「ダンナァ〜、勘弁してくださいよぉ〜」というようなセリフが出てきますよね。そういえば、あの「必殺」ものの主役「中村主水」さんも、「八丁堀の旦那」でした。
旦那・・・・というと、ご主人さんの事を指していますよね、普通。奥さん方のおしゃべりの中にも、
「うちの旦那がね・・・・」
という言葉が出てきます。ちょっと昔の奥様なら「お帰りなさいまし、旦那様」と三つ指をついて出迎えたりもしました。(そんな奥様は、いまや幻のようでして・・・・・)

この「旦那」という言葉、使っている意味からすると、ちょっと偉い人、少しだけどやや上の人、を指し示すような感じの言葉ですよね。
実はこの「旦那」、仏教の言葉、インドからの外来語なんですよ。

「旦那」というのは、正しくは、「檀那」と書きます。字は、当て字なので、それ自体に意味はありません。読み方は同じで、「ダンナ」です。インド語での発音は「ダーナ、ダーン」です。
意味は、「与えること」です。つまり「布施する人」のことです。
そもそも「檀那」とは、「檀」の派生語だったようです。「檀」とは、布施そのものを表す言葉です。
で、そこからさまざまな言葉が生まれてきました。主だったところをざっとあげてみましょう。
*「檀越」・・・「だんおつ、だんおち」と読みます。これは、もとは「ダーナ パティ」という言葉の音写で、
        意味は「恵みを与えるもの、布施者」のことです。施主のことでもあります。
*「檀家」・・・意味はわかりますよね。もとは、寺を支えるために、その寺に布施をした人たちのことを
        指し示した言葉です。今では、その寺に所属する家庭を示していますね。
*「檀那」・・・布施者のことです。僧侶を呼んで、法要をさせた人々のことをさして、「檀那」と称しました。
*「檀那寺」・・・「だんなでら」と読みます。檀家から、自分の所属する寺を指し示していう言葉です。
          「菩提寺−ぼだいじ」に同じですね。

ということで、「旦那」とは、「檀那」であり、「布施をするもの」であったのです。それは、寺の維持や僧侶の生活を面倒見る人たちのことを意味していたのです。
そこから、生活の面倒を見る人のことを「旦那」と呼ぶようになったのでしょう。つまり、お金を稼いできて、奥さんやお子さんの生活を面倒見るから、「旦那」なんですね。
ちなみに、はるか昔には、一番下っ端の女中さんが、一番上の女中さんのことを「旦那様」と呼んでいたこともあったそうです。一番上の女中さんは、威張っていたのでしょうね、きっと。余談でしたが・・・。

「旦那」と「檀那」は、古くから使い分けていたようです。寺の面倒を見る人たちを「檀那」とし、奥さんやお子さんの面倒見る人を「旦那」としたようです。一応、書き分けをしたんですね。発音は同じなんですが。
時代劇に出てくる「ダンナ」は「旦那」のほうでしょう。その町の人々の生活の安全を面倒見てあげているから、「旦那」なんですね。

というわけで、「旦那」とは、そもそも「布施をするもの」なのです。ということは、「俺は旦那だぁ〜」と威張っていちゃいけないんですよ。なぜなら、布施とは、本来見返りを求めない施しのことです。旦那・・・・というのなら、見返りを求めないで、奥さんやお子さんに布施することですね。
世の奥様方、お宅のご主人が威張っていたら、それは旦那様じゃないですよ。旦那様といわれたければ、布施の心で家族を養いなさい、と言ってあげるといいですね。
それにしても、男はつらいですねぇ。もう、旦那なんてやめましょうか・・・(笑)。合掌。



4、億劫
若い頃に比べると、何かと億劫になってきた今日この頃・・・・。身体も若い頃のように動かないですしね。億劫にもなりますよね。もともと、面倒くさがりですし・・・・。

ところで、この「億劫」ということば、実はこれも仏教の言葉なんですよ。
「億劫」と書いて「おっくう」と読みますが、本来は「おくこう」と読みます。「おくこう」が言いにくかったのでしょうか、いつの間にか「おっくう」になってしまったのです。

「億劫」は、「億」と「劫」という言葉からできています。
「億」はいいですよね。「3億円宝くじ」のあの「億」です。数字の大きさの単位ですよね。これは誰でもご存知。
では、「劫」はどうでしょうか。「劫」の意味わかりますか?

「劫」も実は、数字の大きさを表す単位なのです。インドのね。とはいえ、それはとてつもなく大きな数字です。どのくらい長いのかというと、一つの宇宙が誕生し、そして滅亡するまでの時間・・・とも言われています。
もう少し具体的な表現をしたのもあります。それは・・・・。
縦・横・高さの長さが40里−というのですから、約160kmですね−の巨大で硬い石を、天女が百年に一度その天女の薄い衣でこすります。そして、その石がなくなるまで、衣でこするということを続けます。いくら薄い衣といえども、どんなに硬い石でも、やがてはなくなります。摩擦ですれますからね。
で、そうやってその石がなくなるまでにかかる時間を「1劫」としたのです。

どうですか?。想像できますか?。ちょっとできませんよね。だから、宇宙の一生にかかる時間、としたのかもしれません。しかし、インド人とは、すばらしい考えの持ち主ですよね。驚きます。今からもう数千年も前に、宇宙が誕生し、やがて死を迎える・・・・ということを知っていたのですから。
どんなものでも、有限である・・・ということをインド人は知っていたのですね。こういう土壌があったからこそ、彼の地で仏教は誕生したのでしょう。
ちなみに、密教以外の仏教では、修行者が覚りを得て、仏陀になるまでには「3劫」かかるそうです。これを「三劫成仏(さんごうじょうぶつ)」といいます。密教の場合は、即身成仏を説きますので、仏陀となるまでに3劫は必要ないですけどね。

さて、このとてつもない長い時間の「1劫」が、「億」集まっているのですから、こりゃ、まあ大変です。「億劫」というのは、とてつもなく長〜い長〜い時間、ということですよね。想像を絶します。
ところが「億劫」は、もともとは「百千万億劫」の省略です。つまり、「億劫」は、本来は「1劫」が百千万億集まった長さなのです。

ですから、簡単に億劫になってはいけませんね。億劫になるということは、とてつもない時間を過ごす、ということになってしまいます。面倒がらずにテキパキこなしていきましょう。
何でも億劫がって先延ばしにしていると、いつまでたっても覚りは望めません。億劫になってると、化石化しちゃいますよ。面倒や億劫は敵だと思って、行動しましょう!。合掌。
(余談ですが、面倒という言葉も嫌な言葉ですよね。面(つら)を倒す、のですからね。合掌。)



5、安心
よく使う言葉ですよね、「安心」という言葉。普段何気なく使ってますが、これ、こともと仏教の言葉で、お経にも出てくる言葉なんですよ。

皆さんは、「安心」を「あんしん」と読みますよね。でも、仏教では、これを「あんじん」と読みます。もともとは、「あんじん」と読み慣わしていたようです。
いつから「あんしん」と読みようになったかというと、江戸時代のようです。江戸時代の頃、禅の一宗である曹洞宗で「安心」を「あんじん」と読んでいたのが、始まりのようです。それまでは、「安心」は「あんじん」だったようですね。

さて、「安心」の意味ですが、これはどなたもご存知でしょう。心配事がない、気持ちが安定した状態のことですよね。不安のない心の状態を言います。
仏教本来の「安心」も、現在使われている「安心」の意味に近い意味で使われます。つまり、「心が安定した状態」という意味ですね。
ただ異なるのは、その「心が安定した状態」が、一時的なものではなくて、ズーッと続いた状態をいいます。

「安心」の本来の意味は、「仏法によって揺るぎない、何ものにも侵されない心の安定を得ること、その境地」のことです。元は、こういう意味だったのです。
で、ここから、様々な意味が派生していきました。たとえば、
「心を一点に集中させて、動揺しなくなる状態のこと」
「心を安んずること」
という意味でも使われるようになりました。さらには、浄土系の宗派では、
「阿弥陀如来の救いを信じて極楽への往生を願う心」
をも意味しています。また、禅系では、
「悟りのこと。大悟のこと」
を意味しています。

このように「安心」は、広く意味が取られるようになったので、各宗派でも」「安心論(あんじんろん)」が展開されたようです。各宗派の「安心」とは、なんぞや・・・・という論争があったようです。
過去の僧侶たちは、宗派間で様々な論争をし、己を磨いていたのです。それに比べて、今の僧侶たちは、一部の方を除いて、すっかり安心しきって生活を送っているようで・・・・。平和なんですね。
しかし、安心ばかりもしてしられません。いつ何時、平和を乱すようなことが起こるかわからない世の中です。そうなった時に徒に動揺しないように、本当の意味での「安心」を手に入れておきたいものですね。合掌。



6、外道
「この外道が!」って使われることの多いこの言葉、あまりいい言葉じゃないですよね。相手を非難する言葉です。尤も、「外道」などと言われる方も、そうとうな人でしょう。「いい人」とは思えませんよね。なんせ「外道」ですから。

「外道」とは、通常「道に外れた行いをする人」の意味で使用したり、「ひどいことをした人、している人」のことを指し示して使ったりします。或いは、自分の裏切ったりした人に対して、ののしる言葉として使いますよね。
が、しかし、この「外道」、本来の意味は違うんです。これ、仏教の言葉なんですよ。

仏教で言う「外道」とは、「仏教以外の宗教のこと」を指し示しています。
仏教は、覚りに至るための宗教ですから、その修行過程を「道」に譬えられます。ですから、仏教のことを「仏道」とも言います。「仏−仏陀−へ至る道」という意味ですね。つまり、覚りを得るための「修行」を示しています。ですので、仏教のことを「仏道」とも言うのです。
その「仏道」以外の宗教を、お釈迦様がいらした当時は、「外道」と言ったんですよ。

別に悪い意味で使っていた言葉ではありません。いわば、「他の宗教」という意味くらいです。もちろん、弟子や仏教信者の中には、他の宗教を馬鹿にしたり批判したりして「外道」という言葉を使っていたものもいるでしょう。しかし、お釈迦様自体は、「他の宗教を信じるものはそれでいいではないか」という態度をとってましたから、お釈迦様が「外道」といった場合は、「他の宗教」という意味になるわけです。
「外道」に、批判や馬鹿にした思いが込められるのは、もう少し時代が下った頃でしょう。今では、それが定着していますけどね。

ところで、そもそも「道」は仏教で多く使われている言葉です。日頃使っている言葉の中に「道」がつく言葉は、多くが元は仏教語だった言葉です。
たとえば、「道場」。今では、武術や剣術、柔術などの修行場所を示していますが、本来は「仏教を修行する場所」のことです。「仏道の場所」が元ですね。で「道場」となったわけです。それが、同じ「修行する場所」という意味で現在使用されているような使われ方が主流になったのです。元は仏教修行の場所が「道場」なんですよ。
なので、今でも、仏教の修行場所は「研修道場」などと呼んでいます。

「極道」だって、元は仏教です。本来は「道を極める」という意味なのですが、その「極める道」というのは、当然「仏教の修行」のことです。「ヤクザ」のことではないんですよ、本当はね。「極道」っていいことだったんです。全く逆に使われてますね。
「中道」も仏教語です。これは「どちらにも偏らない修行」を意味してます。どちらにも・・・・というのは、「快楽」でもなく「苦行」でもない、ということです。さらに、「何ものにもとらわれない修行」を意味しています。
今では、「中道政治」なんて使われ方していますよね。「右でもなく左でもない」という意味なんでしょうが、本来は、修行の姿勢を意味していた言葉なのですよ。

いずれにせよ、「道を外れる」のはよくないです。また、楽ばっかり追っかけて苦しい努力を遠ざけようとするのもいけません。適度な休息、適度な努力が必要です。
で、自分のあった道、自分がやりたいことを「極める」ために努力することが大事なのです。
「外道」ではなく、「中道」を歩み、「極道」になりましょう。あ、もちろん、「極道」とは、あなたに合っている道、職業を極めましょう・・・、という意味ですよ。わかっていることだとは思いますが、念のために・・・。合掌。



7、内証
いわゆる「ナイショ」のことです。「ナイショ話」のあの「ナイショ」のことです。前回「外」だったので、今回は「内」で攻めてみました。いい流れでしょ。
さて、内証ですが、これも実は、仏教語なんですよ。
ナイショは、「内緒、内所」とも書きますが、もとは仏教語の「内証(ないしょう)」からきています。本来は、「ナイショ」とは読まず「ナイショウ」と読みます。

「内証」とは、正しくは「自内証(じないしょう)」といいます。意味は、「自分自身の心の内で真実を覚ること、自分の心の中の覚りそのもの」をいいます。
つまり、外からはよくわからない、うかがい知ることのできない、心の中の覚り、のことですね。外からはわからないから、他人には漏れない。だから、ナイショになったわけです。誰にも心の中は漏れないから、秘密だから「ナイショだよ」となるんですね。

本当の意味での覚り、深い深い本当の覚りというものは、外に現すことが難しいものです。それは、言語を超えたところにあるからです。本当の覚り、真実の覚りの境地というものは、言葉では到底説明できないものなのです。覚りとはこういうものなんですよ、と簡単に見せられるものではありません。
ですから、内なる覚りは、外へは出てこない、出せないんですね。

密教には、「秘密内証真実法門(ひみつないしょうしんじつほうもん)」という言葉があります。意味は、簡単に言えば、「一般では得られない深い深い真実の覚りの教え」ということです。この覚り、究極の覚りとでも言いましょうか、この覚りを皆さんに表しているのが大日如来なのです。
つまり、大日如来そのものが、「秘密内証真実法門」なのですね。ですから、密教の修行をして、大日如来と一体化すれば、その感覚が得られ、その覚りそのものが自分の内の中に入ってくるのです。その時に真実の覚りが得られるんですね。
本当の覚りとは、それほど奥深いものなのです。

さてさて、世間でも、なかなか人の気持ちは伝わりにくいものです。いくら言葉を尽くしても、その人の心の内そのものが、完璧に伝わるということは難しいものです。
「あなたの気持ちはわかるよ。でも・・・」
という場合は、本当にその人の心の内そのものが伝わってはいないのですよね。それほど、相手の気持ちを知るということ、相手に自分の気持ちを伝えることは難しいものです。
なのに、「これはナイショだよ。私の気持ちがわかるなら、言わないでね。」
などと、簡単に胸のうちを伝えてしまうんですね。
ところが、得てしてナイショの話は、本人の知らないうちに漏れてしまうものでして・・・・。人の気も知らないで、ナイショ話は漏れていくんですよね。
「ナイショの話」ほど、危ないものはないですな。ちっともナイショ話ではないですね。

秘密は、そっと胸の内にしまっておくのが安全です。秘密を抱えていることが苦しくなったら、誰もいないお寺の本堂で、そうっと仏様に打ち明けましょう。仏様は口が堅いですからね。絶対に漏れませんから・・・・。合掌。



8、出世
働くものなら多くのものが望むもの、それが出世でしょう。もちろん、望まない方もいますけどね。まあ、しかし、ある程度の出世はいいのではないでしょうか。出世したくてもできない人もいるのですからね。俗世間に生きる方なら、出世を望むのもいいことでしょう。

さて、この出世、実はこれも仏教語なんですよ。
仏教語大辞典(東京書籍、中村元著)によりますと、
@仏がこの世に現れること
Aこの世に生まれること
B世俗の世界から脱出すること。出世間の略。
C仏教以外の聖者が世に出ること
Dわが国では特に、公卿の子息の出家した者をさし、彼らは特に昇進が早いので、転じて僧の高い位に昇ることも言うようになった。
−−以下省略−−
となっています。

@は、仏陀がこの世に現れたことを指し示して「仏がこの世に出られた、出世されたのだ」とお経に書かれていることを意味しています。これは、実はあまり使用頻度が多くはありません。Aもそうですね。この世に出生した、と同じ意味ですが、出世と言う言葉を使うことは少ないです。
Bは、後で説明しましょう。Cの意味で使われることも少ないです。

で、Dですね。これが、今、世間で使われている出世の語源です。
奈良時代や平安時代、いやもう少々古くから、日本には日本固有のお坊さんの位がありました。制度がきっちり決まったのは、いつごろかは知りませんが、まあ、いつごろできたにしろ、坊さんにも位があったことは事実です。
もちろん、それは今でもあります。各宗派によって位の基準も違いますが、いわゆる僧階(そうかい)と呼ばれるものです。
だいたい、世間の仕組みを離れているはずのお坊さんに位があるのも変だと思うのですが、まあ、組織ができると仕方がないのかもしれませんね。そこはそれ、大目に見てやって欲しいものです。

で、お坊さんの中でも、公家のお子さんたちは、位が上がっていくのが早かったんですよ。庶民から出家したお坊さんよりもね。つまり、「ひいき」されていたんですね。まあ、もともとお坊さんの位を決めたのも公家の方たちですから、仕方がないのでしょうけど・・・・・。
そこから、位が上に上がっていくことを「出世する」というようになったんですね。これが、現在使われている出世のもとなんです。
しかし、「出世」の意味で重要なのは、このことではありません。Bなのです。

出世とは、出世間とも言います。意味は、俗世界から離れること、です。つまり、出家するということですね。或いは、もっと深く意味を取って、俗世間の煩悩を離れて覚りの境地にはいること、を意味しています。
まあ、俗世間の反対語でもあるわけです。
つまり、出世とは俗世間を離れて、煩悩を捨て去り、覚りの境地に入っていくことを言うわけです。

ということは、現在使われている出世と全く反対の意味になるわけですよね。課長だの部長だのって出世して喜んでいるのは、実は、出世の意味とは全く逆なわけです。
尤も、古くから出世と言う言葉の中には、矛盾した意味が含まれていますけど、これは、あくまでもわが国特有の意味ですから。出世は、本来は、俗世間を離れることなんですよ。

会社で出世をして喜んだのもつかの間、上には怒られ下からは突き上げをくらい、板ばさみ・・・・。ストレスで胃もキリキリ痛んで、出世してもちっともいいことなし。
こんなことなら、俗世間から離れて、本当に出世するのもいいかも・・・などと思う今日この頃。
こんなんじゃ、出世の意味がありませんよね。出世もほどほどに・・・ですね。合掌。



9、縁起
あけましておめでとうございます。今年も日常に埋もれた仏教語を紹介していきます。よろしくお願いいたします。で、今回はお正月にちなんで「縁起(えんぎ)」についてお話いたしましょう。

「縁起」が、仏教関係の言葉だとご存知の方は、結構多いんじゃないかと思いますが、どうでしょう?。ひょっとしたら、仏教ではなく、神様関係の言葉かな、と思ってる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
「縁起」とは、あの「縁起を担ぐ」の「縁起」です。「縁起がいい」とか「縁起モノ」なんて言いますよね。正月早々いい事があったりすると、「こいつは春から縁起がいい」などとと言ったものです。最近の若い方は、こういう言い方はしないかな?。「縁起がいい」は、「運がいい」とか「ラッキー」などとほぼ、同じような意味で使われますよね。
ところが、この「縁起」なのですが、実は仏教の根本に関わる重要な言葉なんですよ。

仏教語としての「縁起」ですが、これが説明すると、なかなか難しいんです。
「縁起」というのは、「縁によって起こる」と言う意味です。「縁」とは「縁がある、ない」の縁です。その「縁」によって「起こる」ことを「縁起」というんです。わかるようでわからない・・・ですよね。

「縁起」というのは、このように説かれます。
「これが存在すれば、あれも存在する。これが生ずれば、あれも生ずる。
これが存在しなければ、あれも存在しない。これが滅すればあれも滅する。」
ちょっと哲学的でわかりにくいですか?
では、この説明を自分に当てはめて考えてみてください。たとえば、
「私がいるから、彼もいる。私が生まれたから、彼も生まれた。
私がいなくなったら、彼もいなくなる。私が死んだら、彼も死ぬ・・・。」

自分が生まれたから彼が生まれた・・・なんてことはない、ですよね。これは、存在そのものを言っているのではなくて、主体になる人物にとって・・・の話なのです。
「私」にとって、「彼」は、縁あって知り合ったから存在するわけですよね。知り合わなければ、「私」にとって「彼」はいないも同然なわけです。実際には、この世に生きてはいるのですが、知り合わなければ、いないのと同じでしょう、「私」にとってはね。
同じように、「私」がいなくなったら、「私」にとって「彼」は存在しなくなるわけです。実際には存在していても。
縁起は、そういう意味なんです。

これをもっと人間の根本的な面から見てみると、こうなります。
「老いや死があるのは、この世に生まれたからだ。この世に生まれなければ老いも死もない。
この世に生まれるのは、生まれる原因を前世で作ったからだ。その生まれる原因を作らなければこの世には生まれてこないのだ。
その生まれる原因とは、前世での悪い行動だ。悪い行動をしなければ、この世に生まれる原因はつくらない。
その悪い行動のもとは、欲だ。欲があるからいろいろな行動を起こす。その行動の中に悪い行動があるのだ。だから、悪い行動のもとは欲なのだ。
その欲が起こる原因は、誤った思い・考え・意識があるからだ。欲にとらわれる思いがあるからだ。その思いを失くせば、欲はなくなる。
その思いのもとは、こうした仕組みをしらない無智なのだ。つまりは、このような生まれの仕組みを知れば、苦はなくなるのだ・・・・・。」
お釈迦様はこうしたことを覚ったんですよ。で、これをもっと詳しく、整理したのが「十二縁起」と呼ばれる仏教の根本思想なのです。

「縁起」とは、このような「生死の根源」に関わる思想のことだったんです。
正月早々、小難しい話で失礼しました。最後まで読まれた方、今年は縁起がいいかもよ・・・。合掌。



10、知識
去年の後半、TVで無駄な知識を教えてくれる番組が流行りましたよね。まだ放映されてますが、ちょっと最近パワー不足かなって感じがしないでもないです。あの「へぇ〜」って番組のことですよ。
まあ、無駄かどうかは知りませんが、知識は、ないよりはあった方がいいでしょう。あまり無知でも困りますよね。知識が豊富ならば、騙される心配も少ないですし。

ところで、この知識、これも仏教語なんです。仏教で言うところの知識は、少々現在使われている言葉と意味が異なります。
現在では、知識は「知っていること」という意味で使われますよね。「知識がある・ない、あの人は知識が豊富だ、知識人だ」、などと使われます。意味は、「知っていることがある・ない、あの人は物知りだ、物知り人間だ」となりますよね。
ところが、本来の意味の知識だと、ちょっと意味が変わってきてしまうんですよ。

仏教語としての知識には、次のような意味があります。例によって、仏教語大辞典を参考にしてます。
@友人、盟友のこと。つまり友達のこと。
A立派な修行仲間。立派な修行者の仲間。
B善智識と悪知識のうち、善智識のこと。善智識には、外護(げご)の善智識・同行の善智識・教授の善智識の3種があり、その中でも特に教授の善智識を意味する。つまり、指導者のこと。仏教に縁を結ばせてくれる人。教え導いてくれる師。教えを説いて導く高徳の人。
(以下略)
という意味なんですね。
まあ、簡単に言えば、仏教的善き友達のことなんですね。変な誘惑や誘いをしない、幸せな方向に導いてくれる正しき友人、ってところです。
なんですが、Bについては、少々説明がいりますよね。

善智識と言うのは、よい友人のことです。そのなかに3種類あるんですね。
外護の善智識・・・・出家者ではなく、在家信者で出家者を援助している人々のこと。
            外部からの援助者、外部の善き友人。
同行の善智識・・・・同じ出家仲間のこと。修行仲間。(同行は「どうぎょう」と読む。)
教授の善智識・・・・仏教のよき指導者。教え導く師のこと。
善智識については、もっと詳しく仏教語辞典には載ってますが、小難しくなりますので、省略します。知りたい方は、図書館などで調べてみてください。無駄ではないでしょうが、知識が増えますからね。
ちなみに、教授も仏教語です。「教えを授けること」という意味なんですよ。この場合の「教え」は、当然、仏教の教えのことですよ。つまり、大学教授の「教授」は、もとは仏教の先生なんですよ。(それなのに仏教を否定する教授が存在しているのは、これ如何に・・・・ですなぁ・・・)。

さて、知識の本来の意味、おわかりいただけたでしょうか。知識とは、正しい方向へ導いてくれる師、もしくは友人のことだったのです。「知っていること」ではないのです。これに照らすと、「知識がある・ない、あの人は知識が豊富だ」の意味は、「正しい方向へ導いてくれる友人がいる・いない、あの人は正しい方向へ導いてくれる友人が豊富だ」となり、「知識人だ」は「よき指導者だ」となるわけですね。

今の世の中、正しい方向へ導いてくれる、すばらしい友人なんて、なかなか出会えませんからね。「知っていること、知ること」しか、正しい方向へ導いてくれないのですかねぇ。だから、「知っていること」が知識の意味になったのでしょうかね。「知っていること」のみが、人々を正しい方向へ導いてくれる友人なのでしょうか。もし、そうなら、それはとても残念なことですね。
さてはて、あなたは本当の知識をお持ちでしょうか・・・・?。合掌。




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