えっ?!

こんなところに仏教語!

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11、法律
法律っていえば、法律ですよね。社会のルールです。日本の法律は甘い、な〜んて言われてますが、まあ、そういう面もあることは否定できません。最近じゃあ憲法改正論議なんてのも出てきておりますが、どっちかというと、憲法や法律が悪いって言うのではなく、それを作る側や執行する側のほうに問題があるようにも思うのですが・・・・。
ま、それはいいのですが、この法律、実は仏教語なんですよ。想像つきますよね。

法律というのは、「法」と「律」に分かれます。
「法」というのは、インドの言葉では「ダルマ」といいます。そうです、あの縁起物のダルマさんと同じです。
縁起物のダルマさんは、「菩提達磨(ボダイダルマ)」っていう高僧が由来ですね。達磨大師と言われておりますが、その達磨大師を真似て作ったのがダルマさんですね。意味は随分変わってしまってますが。
話がそれましたが、「法」というのは、インドでは「ダルマ」というんですね。意味は、たくさんあります。
古来インドでは、「ダルマ」と言えば、現在の「法律」と同じような意味合いで使われていました。つまり
「慣例、慣習、風習、社会的義務、社会的秩序・・・」
などですね。
しかし、そのほかに
「真理、普遍的ことわり、本質・・・」
と言う意味でも使われていたのです。

お釈迦様は、教えを説くとき、その教えのことを「法=ダルマ」といいました。それは、お釈迦様の教えが、「真理」であり「普遍的なことわり」であったからです。お釈迦様は、
「私を見るものは法を見る、法を見るものは私を見る」
とまでおっしゃってます。つまり、お釈迦様の語る言葉はすべて「法=ダルマ」なんですね。そこには、「習慣、風習、社会的義務、社会的秩序」と言った意味は含まれていません。
で、それ以来、「法=ダルマ」と言えば、それは「お釈迦様の教え」になったのです。即ち、「法=ダルマ」は、「仏教の教えそのもの」を意味しているんです。

さて、「律」ですが、これは想像がつくんじゃないでしょうか。そう「戒律」のことですね。「戒律」というと、大変厳しいものと思われています。確かに、本来の戒律は厳しいですよ。細かい規定がいっぱいありまして、そんなの守れるかい!と言いたくなるものもあります。
「戒律」というのは、もともとは、「戒」と「律」、別々の言葉でした。「戒」は、「守るべき一つ一つの項目」のことです。「律」は、それら「戒」を包括的に表した言葉で、「守るべき規範」とでもいいましょうか。ま、いずれにしろ意味的に似ているので、「戒律」になったわけですね。
この「戒律」、男性出家者−お坊さんのことですが−は、250の戒律があります。女性出家者−尼僧さん−にいたっては、350の戒律があります。もちろん、私も「受戒」という儀式を受けてますので、250の戒律を受けております。

が、しかし、そんなものは守れません。250もの戒律が守れるわけがない。それを守ろうと思えば、人里離れてひっそりと暮らさなければなりません。現代社会では生きてはいけません。(あぁ、ちなみに、勘違いされている方が多いので断っておきますが、肉や魚を食べてはいけないという戒律はありません。お酒を飲んではいけない、女人に触れてはいけないと言う戒律はありますが・・・・。)
しかし、いいんです、守れなくてもね。お釈迦様は、涅槃に入られる直前
「この先、時代が変わってくるであろう。時代が変われば、その時代に合わなくなってくる戒律も出てこよう。そうなれば、そうした戒律は捨ててよい。」
という言葉を残しています。
戒律と言うのは、お釈迦様がいらした頃、僧団が規律正しく生活できるように、徐々にできてきたものです。その場その場で問題が生じたときに次第に増えていったんですね。ですから、時代が変わればそれにそぐわなくなる戒律も出てくるのです。
たとえば、出家者は金銭を持ってはいけない、という戒律があります。これ、現代で守ろうとしたら無理でしょ。お寺が維持できなくなります。布教もできませんよね。
こうした、時代に合わないもの、それを守ろうとすれば布教ができなくなるもの、については捨てなさい、とお釈迦様はおっしゃったのです。先を見越していたんですね。

大事なのは、戒律一つ一つではなくて、その精神なのです。もちろん、人間として最低限守らねばならない戒律はあります。それは、十善戒と言われるものですね。
「殺さない(暴力を振るわない)、盗まない、淫らな性行動を慎む、うそをつかない、ふざけた言葉を使わない、悪口をいわない、二枚舌を使わない、貪らない、妬みや怨みの心を持たない、よく考え己を省みる」
というものですね。これにしたって、完璧に守れるものではありません。場合によっては破らざるを得ないこともありますし、言葉にいたっては、それこそ時代で変化していくものですから、守るのは難しい面があります。
かといって、軽んじていいものではありません。大事なのは、少しでも守ろうとする気持ちなのです。それがポイントなんですね。
現代の「法律」でも同じでしょう。守ろうとする気持ちが大事なんです。そういう気持ちがあれば、自然に社会秩序は保たれていくんですよ。今や、その気持ちが希薄になりつつあるんでしょうね。
なんせ、法律を作る側や執行する側が、守ろうとしない場合があったりするもんですからね。そちら側の人間が、法律の穴を探して、抜け道を探ったりして悪いことをしているんですから、日本の社会秩序が乱れても仕方がないんでしょうね。そちら側の人間には「十善戒」を守らせるべきでしょう。

ちなみに、坊さんにとって最も厳しい戒律は、250の戒律などではないのですよ。それは「菩薩戒(ぼさつかい)」と呼ばれている戒律なのです。それは、どんな内容かと申しますと
「自分のことは後回しでいい、とにかくなるべく多くの人を救うこと」
という戒律です。
つまり、菩薩になれ、ということですね。自分よりも、周りの人々を救え、他人の幸せを願え、ということなのです。これって、簡単なようで、難しいんですよ。これが最も厳しい戒律なんですよ。

ちなみに2。
法はお経のことでもあります。で、お経と戒律、それと教えの解説や講釈を極めたお坊さんのことを「三蔵法師」といいます。「三蔵」とは、「経、律、論」のことをいいます。「お経、戒律、論説」のことですね。「法師」は坊さんのことです。ですので、三蔵法師はいっぱいいます。
ということは、西遊記で有名な、三蔵法師玄奘は、名前が「玄奘」であって、三蔵法師は称号です。玄奘=三蔵法師ですが、三蔵法師=玄奘ではないんですよ。余談ではありましたが・・・。では、また次回。合掌。


12、知事
知事と言えば、都道府県の代表者、長であります。最近では、改革派の県知事がもてはやされておりますが、少々ご自分の意見を貫きすぎで、何かとご苦労されている知事もいれば、言いたい放題でも人気抜群の知事もいます。議会や職員、県民、マスコミにつつかれて、各都道府県の知事さんも、なかなかに大変なことと思います。
ところで、この「知事」さん。これは、仏教からきた言葉なんです。

知事というのは、役名のことなんです。そういう意味では、現実使用されている「知事」と意味合いは同じですね。役職名なんですから。
どんな役職だったかと言うと、これは当然、僧団内における役職になります。仏教語辞典によりますと
@諸僧の雑事や庶務を執り行う役名。
 知事はよく庶務をつかさどり、教団の財物を保護し、諸僧の希望するものに適して応ずべきで、戒律をよく保ち、公正な心を有する聖者が任ぜられる。
A禅宗寺院における寺院運営を司る僧の役名。知は司るの意味。
 仕事を分担して住持(住職のこと、本山級の寺院では管長のこと)を補佐する僧を言い、六種ある。
 都寺(つうず、総監督)、監寺(かんす、事実上の総監督)、副寺(ふうす、会計主任・財政担当)、
 維那(いの、大衆の世話役、僧堂の監督)、典座(てんぞ、食事担当者)、
 直歳(しっすい、建物の管理、営繕担当)
 維那が教育面を、他の五人が経営面を受け持っている。

となっています。
現在の知事さんは、@の方の意味ですね。この意味を現代調に変えると、
「知事とは、都道府県民の庶務を司り、都道府県の財物を保護し、都道府県民の希望するものに適して対応すべき役職。社会のルールをよく守り、都道府県民に対して公正な心を有する心清き人が任ぜられる。」
となりましょうか。
これが、知事の原点であるのでしょうね。
とすれば、なかには知事に相応しくないような方も無きにしも非ずで・・・・。まあ、その都道府県民が選ぶことですから、部外者がとやかくは言いませんけどね。
それにしても知事さんになった方は、知事の原点の意味を知って欲しいですね。知事とは本来どういうものであるか・・・・、と言うことぐらいは知っていて欲しいと思いますね。

えっ?、よく知ってる? そうですかねぇ〜。まあ、知っているだけじゃあ、意味はないですからね。その知っていることを生かさないことには、知っているとは言えないようにも思えますが・・・・。

参考までに、Aの話を・・・。
禅宗では、役職が厳しいですからね。現在でもAのように伝統的な役職名で呼ばれているようです。まあ、一般的には、現代では、財政課長・財政部長とか、庶務課長・部長などと言い換えている場合が多いようではあります。
なお、これら六種の知事の下には、六人の部下なる六頭首(ろくちょうしゅ)なる役職があります。
首座(しゅそ、大衆の首位)、書記、知蔵(お経や書の管理)、知客(しか、来賓の接客係り)、
知浴(風呂の管理)、知殿(仏殿の管理)
の六種です。
禅寺などに参りまして、接客の係りをしていらっしゃるお坊さんは「知客(しか)」というんですよ。この方は見かけることがあるんじゃないでしょうか。
まあ、役職名を覚えても仕方がないことなんですけどね。参考までに・・・・。

いずれにしても知事さん、社会のルールをよく守って、公正な態度で都道府県民のために働いていただきたいですね。原点を忘れないで・・・・。
では、また次回。合掌。


13、上品
今回は、お上品にお話ししていきたいと思います。
というのは、まあ、冗談なんですが、この上品、これも仏教語だということ、ご存知でしたでしょうか?
上品だけではありません。対の下品も、仏教語です。つまり、お上品もお下品も仏教から来た言葉なのです。

普通は、上品は「じょうひん」と読みますが、仏教では「じょうぼん」と読みます。同じように下品は、「げひん」と読まず、「げぼん」と読みます。
一般では、上品(じょうひん)と下品(げひん)しかありませんが、仏教では中品があります。読み方は、もちろん「ちゅうぼん」です。「ちゅうひん」ではありません。

一般の上品・下品といえば、その意味は、その人の人間性が立派かどうか、お下劣がどうかという意味ですよね。あえて言わなくても、よ〜くおわかりのことでしょう。
では、仏教の上品・中品・下品は、どういう意味でしょうか。これも、一般の意味とやや似てはいるんですよ。仏教での意味は、簡単に言えば、極楽へ生まれ変わる、そのランクを言っているのです。
つまり、極楽へ生まれ変わる者をランク分けしているのです。

極楽へ生まれ変わる者は、九つに分類されます。
1、上品上生(じょうぼんじょうしょう)   2、上品中生(じょうぼんちゅうしょう)
3、上品下生(じょうぼんげしょう)     4、中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)
5、中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)  6、中品下生(ちゅうぼんげしょう)
7、下品上生(げぼんじょうしょう)     8、下品中生(げぼんしゅうしょう)
9、下品下生(げぼんげしょう)
の9種類です。もちろん上品上生が一番よくて、下品下生が一番悪いのは言うまでもありませんね。
さて、どういう人間がどこに配されるのかというと、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)によりますと、次のように説明されています。(少々略してあります。)

1、上品上生・・・誠実な心を持っていて、仏法を深く信じる心を持っていて、一切の善行を行いそれを自慢しない、という心を持った者で極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。あるいは、戒律をよく守り、慈悲心を持ち、大乗経典をよく読み、佛・法・僧を敬い、喜捨の心があり、天部の神を敬う者で極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。
2、上品中生・・・大乗経典をよく理解し、深く因果の法を信じ、大乗を誹謗せず、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。
3、上品下生・・・因果の法を信じ、大乗を誹謗せず、悟りたいという心を起こし、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。
以上のものは、死後すぐに極楽へ生まれ変わることができるでしょう。

4、中品上生・・・在家の戒律を守り、父母・仏・法・僧・国王を敬い、善行をし、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。
5、中品中生・・・一日一夜だけでもいいから、様々な戒律を守り、正しい生活を送り、善行をし、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。
6、中品下生・・・父母に孝養をつくし、世間の人々と正しく付き合い、極楽世界に生まれ変わりたいと願う者。
以上のものは、ワンステップ置いて極楽に生まれ変われるでしょう。

7、下品上生・・・大乗経典を誹謗することはしないけれど、多くの悪行を行い、それを恥とも思わないが、死後はやっぱり極楽世界に生まれ変わりたいなと願う者。
8、下品中生・・・様々な戒律を犯し、お寺のものを盗み、名誉や私利私欲のために説法をして、それを恥とも思わず、様々な悪行をするが、死後はやっぱり極楽世界に生まれ変わりたいなと願う者。
9、下品下生・・・様々な罪を犯し、父母や僧侶、仏を殺害し、これ以上はないというような悪行をしたもので、それでも死後はやっぱり極楽世界に生まれ変わりたいなと願う者。
以上のものは、その罪により地獄へ落ちるが、極楽へ生まれ変わりたいと願ったことにより、いずれ阿弥陀如来に救われて、極楽に生まれ変わることができるのです。

とまあ、こういうわけでして、やっぱり極楽へ生まれ変わりたいのなら、上品でなければならないようですね。南無阿弥陀仏と唱えていれば、誰でも極楽へ・・・・と言うわけには行かないようです。極楽へ行くのもなかなか難しいようでして・・・。
とはいえ、九つのランクにそれぞれ阿弥陀様がいらっしゃって、その阿弥陀様が見守ってくれているのだそうです。(その阿弥陀様をお参りしたいと言う方は、京都の浄瑠璃時(九品寺)、東京の浄真寺にご参拝されるといいでしょう。いわゆる九品仏をお参りすることができます。)

さて、あなたはどこにランクされているのでしょうか? まあ、現代のお坊さんはというと・・・あったあった、私利私欲、いっぱいですからねぇ・・・・。合掌。


14、脱落
マラソン中継などを見ておりますと、「先頭グループから脱落していきました」などと、アナウンスが流れることがありますよね。この「脱落」。あまりいい意味で使われる言葉ではありません。
しかし、仏教では、実はいい意味で使われていたんです。それが、いつのまにやら・・・・。
そう、「脱落」・・・・これも仏教語なんですよ。

辞書で「脱落」を引いてみますと、たいていの場合は、
「必要な箇所が抜けていること、団体の行動についていけなくて抜け落ちること」などと書いてあります。冒頭でも書きましたように、「マラソンで先頭争いから脱落する」とか、「受験勉強から脱落する」とか、もっとひどいのになると「人生から脱落していった・・・」などと使われますよね。いい意味の言葉ではありません。どちらかというと、暗い、ダメな、落ちぶれていったような、そんな印象の言葉ですよね。「あぁ、もうだめだ・・・・」みたいな。

ところが、仏教では、この「脱落」って、いい言葉なんですよ。驚いたことに。「脱落せよ!」と言われるくらいですから。
おなじみの仏教語辞典で、この「脱落」を引いてみますと、
「解脱に同じ。とらわれがなくなること、束縛がなくなること」
とあります。まあ、何となくいい意味だな、とわかりますよね。「解脱」と同じなのですから。なので、「解脱」を引いてみますと、
「@のがれること、解き放たれること。A苦しみから解かれ、のがれでること。解放されること。煩悩や束縛を離れて、精神が自由となること。迷いの世界を抜け出ること。さとり。真実をさとること・・・中略・・・安らぎの地、涅槃に同じ。B以下省略。」
となってます。

つまり「解脱=覚り」なのですね。ということは、「脱落=解脱」でしたので、「脱落=覚り」ということになります。
そう、脱落することはいいことなのですよ。大いに脱落したほうがいいんです。
これ、今の意味とは全く正反対ですよね。

脱落というのは、我々を束縛する煩悩や迷い、悩みから解放されること言うんですね。煩悩や迷い、悩みから脱出して、そうした余分なモノを落とすことを言うのです。
禅などでは、「心身脱落(しんじんだつらく)」といいまして、座禅を通し、身も心も何のとらわれもない、自由自在の境地に至ることを説きます。「座禅をして、心身脱落せよ!」というんですよ。
今の意味でいったら、「座禅してたら脱落してしまうから、ダメじゃないですかぁ〜」となってしまいますよね。
脱落は、決して、集団から離れ落ちること、落ちこぼれてしまうことを言うわけではないんですよ。本来、脱落は、迷いから解き放たれることをいうのです。これが、脱落の本来の意味なのです。

そうそう、先ほど解脱が出たついでにお話しておきますが、解説は「げせつ」と読みまして、「仏法を説き明かす」ことをいいます。仏教では、解説は「かいせつ」とは読まないんですよ。余談でしたが。

さてはて、皆さん、必死に頑張って仕事なり勉強なりすることも結構なことですが、何も先頭を走ることはないんです。たまには、脱落していってもいいんじゃないでしょうか。
否、大いに脱落しましょう。そして、迷いから解き放たれましょう・・・・。合掌。


15、覚悟
ドラマや時代劇などをみておりますと、「覚悟はできてるんだろうなぁ〜」というセリフが流れてくることがあります。また、ケンカや対戦などでも「覚悟はできてるな!」という言葉が使われますよね。結構、気軽に使っているこの「覚悟」という言葉、これは仏教の言葉なんですよ。
そういわれれば、漢字の感じで(洒落ではありません)何となく、仏教語かな、とは思いますよね。「覚り」と「悟り」の合体したものですからね。これはもう、仏教語以外にないでしょう。
しかし、意味は違います。日常使っている「覚悟」と仏教語としての「覚悟」とは意味が違うんですよ。

一般的な辞書で「覚悟」を引いてみますと、たいていの場合は、
@決心すること。あきらめること。あきらめて心を決めること。
A道理を覚ること。さとり。
とあります。まあ、これが極一般的な辞書ですよね。で、我々が日常使っている「覚悟」は@のほうです。そう「あきらめること」なんですね。仏教の本来の意味は、Aにあたります。

一般的に使われる「覚悟」は、「もうダメだ、あきらめよう。覚悟を決めよう・・・・。」といった感じでしょう。もうこれ以上、頑張ってもダメだ、というときに使いますよね。
あるいは、心の準備として、あとはどうなってもいいと「腹をくくったとき」に「覚悟はできた」と言いますよね。

確かに、もうダメだ、もう後はどうなってもいい・・・というのは、あきらめですが、単にあきらめたのとはちょっと違いますが、わかりますか?
あきらめることにも、2種類あるように思います。それは、「積極的あきらめ」と「消極的あきらめ」です。
「積極的あきらめ」は、とことんまで努力し、頑張って頑張って、あらゆる手段を施した上のあきらめ、といえましょう。やるだけのことはやった、という場合ですね。
一方、「消極的あきらめ」のほうは、やることもやらないで、努力もしないで初めからあきらめている場合のことです。「そんなことやったって無駄さ。あきらめるよ。」というパターンですね。
現在使われている「覚悟」は、同じあきらめであっても「積極的あきらめ」の場合に使われると思いますが、如何でしょうか。それは、「覚悟」の語源が「覚り」にあるからでしょう。

本来の「覚悟」の意味は、
@目覚めること、A真理を体得してさとりの智慧を得ること、さとること、さとり・・・・
とあります。つまり、覚ること、ですよね。
「積極的あきらめ」の場合は、「もうこれ以上はダメだ」と覚ることを意味しています。本来の「真理を覚る」のとは違いますが、「もうダメだ、これ以上無理だ、努力の余地はない」と「覚って」いるんですね。
ここから現代の「覚悟」の使い方が生まれたのでしょう。
思うに、このもとは禅と武士道の関わりにあるのでしょう。禅で説く覚悟を武士道に取り入れて、今のような「覚悟」の意味になったと思われます。
特に、戦いに負け、打ち首になるときなど、その時の境地はまさに一種の覚りでありましょう。じたばたせず、覚悟を決めて騒がない。すべてを受け入れ、心静かに死に臨む・・・・。それは、あきらめではなく、やはり覚りなのでしょう。こうしたことから、現代のような「覚悟」の使われ方がでてきたのでしょう。
それは、心の有り様なのです。

ちなみに、「あきらめ」も仏教の言葉です。本来の意味は、「あきらかにする。道理を明らかにする。覚りをあきらめる。あきらかにする」ということです。
あきらめるのは、もうダメ、できない、やれない、という意味ではないんですよ。本来はね。

ですから、あきらめるのなら、そこまでに至る道理をあきらかにして、とことん努力して、もう打つ手がない・・・というところまで来て、初めてあきらめてください。最初からあきらめちゃダメです。あきらめるのなら、やるだけのことをやってから、あきらめてください。そして、その時は、こう叫んでください。
「覚悟しました!」
と。これが本当のあきらめなんですよ。合掌。


16、洗い晒し
今回は、少々悲しい話です。
ず〜っと二文字できたのですが、今回はそれをついに断念してしまったから、悲しい・・・というわけではありません。
洗い晒しのジーパンや着る物しかもっていないから悲しい・・・というわけでもありません。まあ、それはそれで悲しいかもしれませんが。
否、そうではなく、洗い晒しの語源がちょっと悲しい話なのです。

洗い晒しとは、「何度も洗って色が落ちてしまい、白っぽくなってしまうこと」を言います。ですので、「ちょっと貧乏臭い」というような意味合いで使われますよね。「洗い晒しの一張羅しかない」とか「洗い晒しの着物を着て・・・」などと。どなたかの歌で、「洗い晒しのジーパン一つ・・」などという歌詞があったような、なかったような・・・。
いずれにしろ、洗い晒しのものは、貧乏臭いようですね。それも確かに、悲しい話ではあるのですが・・・。
(尤も、ジーンズは、洗い晒しの方が人気があるようですね。わざわざ貧乏臭い、破れたジーパンをはいている方がいらっしゃるようで・・・。貧乏ファッションなのでしょうか、それとも貧乏神が好きなのでしょうか?。)
しかし、そもそも、洗い晒しとは、仏教に関係する行事から生まれた言葉なのです。そこには、悲しい逸話があるのです。

もともと、洗い晒しとは、ある布を川で洗い流す行事から生まれた言葉です。そのある布とは、赤い布で、その布には経文が書いてあります。つまり、お経の書かれた赤い布を川で晒していたのです。
イメージ的には、鯉幟を染めた後、川で洗いますよね、そういう感じだと思ってください。川にお経の書かれた赤い布が流れに任せて揺れている・・・・。そういう光景です。
さて、その布は何のために晒していのでしょうか。それは供養のためなのです。

仏教の供養の仕方に「流水灌頂供養(りゅうすいかんじょうくよう)」という供養の仕方があります。どんな供養の方法かといいますと、簡単に言えば、なくなった方の戒名を塔婆に書いて川に流したり、塔婆を組んで川に立てたりして、その亡くなった方の供養をする方法です。これには、亡くなった方の、生前の罪を洗い流し、供養があの世に届くように・・・・という意味があります。
私のお寺でも、塔婆供養を申し込まれた方には、その塔婆を川に流して下さい、と伝えます。流水灌頂供養になるからです。
(昔は板の塔婆を川に流したりしました。しかし、今では、環境保護のため、水に溶ける塔婆を流す場合が多いようです。私のお寺でも水に溶ける塔婆を使っています。余談ですが・・・。)

で、その流水灌頂供養の一種として、川に経文を書いた赤い布を晒す、という方法があるのです。これは主に水子や幼くしてなくなった子供の霊の供養として行われていたようです。亡くなった赤ちゃんの供養なので赤い布を使ったようです。
亡くなった我が子や、この世に生まれることのなかった子供の成仏を願い、赤い布にお経を書き、その経文が水に流され、やがて消え行くまで、川の水に晒したのです。そんな頃には、赤い布は色あせて、白っぽくなってしまったことでしょう。布の経文も消え、布の色も消えた頃、子供の霊は成仏したのでしょう。
それと同時に、子供を産めなかった悲しみや、早くに子供を亡くしてしまった悲しみも、一緒に洗い流したのでしょう。きれいに洗い晒したのでしょう。

洗い晒しという言葉には、このような歴史があるのです。
今月はお盆の月です。先祖だけでなく、もし、あなたに産めなかったお子さんや、早くに亡くなったお子さんがいらっしゃるのなら、ご先祖とともにご供養されるといいですね。流水灌頂で、きれいにあの世へ流してあげましょう。
合掌。


17、有頂天
オリンピックが行われました。日本の各選手も頑張っていましたね。普段持っている実力を発揮できた方、それ以上の力を発揮できた方、思ったほど力を出すことができなかった方・・・・。それぞれ悲喜こもごもです。
思うに、応援してくれる方の期待や、金を取らなきゃ・・・というプレッシャーへの強弱が影響しているようですね。
それと・・・・。ちょっと言い方が悪いのですが、油断・うぬぼれ、もあった方もいるかもしれません。

国内戦やオリンピック以前の世界戦等で、あまりにも調子がいいと、うぬぼれてしまったり、油断してしまったりすることは、まああることなのでしょう。人は誰しもいいことが続くと、ついつい有頂天になってしまいます。
いけませんねぇ、有頂天になっちゃあ・・・・。
おっと、こんなところに仏教の言葉が!(いや〜、わざとらしくてスミマセン。暑いですからね。寒さのプレゼントです)。
そう、今回は「有頂天」についてお話いたします。

有頂天というと、あまりいい言葉では使われませんよね。たいていは「有頂天になるな」という警告の言葉で使われます。意味は「調子に乗るな、うぬぼれるな」といったところでしょう。
この「有頂天」、見たまま、そのままベタベタの仏教関係の言葉です。これは、「有頂天」という天界を表す言葉なのです。
では、「有頂天」というのは、どんな天なのでしょうか。

天界・・・・神々の住まう世界・・・・は、三つに分かれます。それは、欲界(よっかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)の三つです。そして、それぞれの世界の中にいろいろな神の住む世界があるのです。
(尚、欲界には人間や修羅、畜生、餓鬼、地獄の世界も含まれます。つまり、欲のあるものの世界、ということです。)

*欲界
欲界は、天界の中でもまだ欲がある神々の世界です。どんな欲かと言うと、人間の持つ基本的な欲です。睡眠欲、食欲、性欲、物質欲、名誉欲等々・・・。つまり、ほぼ人間と異なることがないのです。神様も欲があるんですよ。人間のような・・・。
ただ、人間と異なるのは、仏法の守護者であり、仏法を信じているものを守る仕事を持ち、人々のために働いているということと、寿命がとてつもなく長いということですね。

この欲界には、六種類の天界があります。下から順番にあげておきましょう。参考までに、その天界での寿命を書いておきます。
@四天王(下天−げてん、ともいう)・・・・900万歳
A三十三天(トウ利天ともいう)・・・・3600万歳
B夜摩天(やまてん)・・・・1億4400万歳
C兜卒天(とそつてん、都史多天−としたてん、ともいう)・・・・5億7600万歳
D楽変化天(らくへんげてん)・・・・23億400万歳
E他化自在天(たけじざいてん)・・・・92億1600万歳

@はわかりますよね。この天界の住人は、仏教守護の役を持つ四天王・・・持国天・増長天・広目天・毘沙門天・・・です。(詳しく知りたい方は、仏像がわかるバックナンバーを参照してください)
天界の初めには、やはりガードマンが必要ですから、四天王は一番下の天界に住んでいるのです。

Aは、一つの天界に三十三の神の国があるのです。トウリ天(漢字がないので・・・)とも言いますが、その世界に三十三の国があるわけです。
その中心の国・・・いわば首都ですね・・・が、帝釈天の国なのです。つまり、三十三天は、帝釈天を中心とした神の国家なのですね。(詳しくは、そのうちに「仏像がわかる」のページに出てくると思います。)
人間から天界に生まれ変われたならば、たいていは、この三十三天の国の中の住人となります。

Bは、閻魔さんの世界です。閻魔様は、本来はこの天界に住んでいられる神なのですが、仕事が亡くなった方の裁判官なので、そちらの方へ出張しているんですよ。きっと、単身赴任だと思います。

Cは、次に仏陀になる菩薩が神々のために教えを説く場所です。そういう天界なのです。ですから、現在は、弥勒菩薩が、この兜卒天の主です。弥勒菩薩は、56億7千万年後に仏陀になるために、ここで神々や他の菩薩に教えを説いているのです。
ちなみに、弘法大師空海は、この兜卒天にて弥勒菩薩の教えを学んでいるそうです。ですので、真言宗の坊さんは、皆この兜卒天に生まれ変われることを望んでいます。実際に、何人の真言宗のお坊さんが兜卒天へ生まれ変わったかは知りませんが・・・。

Dは、詳しいことは、実は説かれておりません。しかし、ここでは、絶妙な安楽が得られるのだそうです。どんなところか知りたい方は、一度生まれ変わってみて下さい。

Eは、@〜Dすべての天界の楽を得られる天界なんだそうです。ここの主は、曼荼羅上に描かれておりますが、説明が小難しいので省略します


*色界
この世界は、欲がなくなり、肉体のみが存在する、という世界です。この中には、詳しく述べると17の世界があります。一番下が宇宙を創る役割をしている梵天が住む「梵衆天(ぼんしゅてん)」で、一番上が元シヴァ神の大自在天が住む「色究竟天(しきくぎょうてん)」です。
この世界は、欲がない世界ですから、大変クリーンな世界、と考えていただいていいでしょう。

*無色界
この世界は、実は精神世界です。いわば、大変きれいな魂のみが行きつける世界なのです。天界の中では、もっとも覚りに近いところにある魂が存在する世界なのです。
で、その中でも、最も澄んだ魂の行き着く世界、最も覚りに近い魂が行き着く世界が、実は「有頂天」なのです。
つまり、有頂天は、天界の中でも、その字の如く、最も高位置に存在する天界なのです。
(尚、色界・無色界の寿命は、10の何十乗という形でしか表現できないので、省略しました。)

つまり、有頂天になるには、大変難しいことなのです。すべての欲を消し去り、肉体をも消し去り、大変清らかな精神世界に存在できる魂にならなきゃ、その世界にはいけないのですからね。
ですから、その存在状態は、ほぼ空に等しい状態なのです。否、空と言ってもいいでしょう。存在するのでもなく、存在しないのでもない、のですからね。
なので、とても有頂天にはなれないんです、実際にはね。

でもねぇ、本当は有頂天にならない方がいいんですよ。なぜなら・・・。
有頂天に存在するものは、欲がありませんから、子孫を助けようとか、もっと上を目指そうとか、そうした欲も一切ありません。つまりは、ここで終わり、この上である菩薩の世界や覚りの世界にはいけないわけですね。空の状態ですからね。そこには、菩薩の世界で重要な慈悲という欲すらないのですよ。教えを聞くこともなければ、救いもない、救うこともない。
なので、もう、これ以上は上の世界へはいけないわけです。次に生まれ変わることがない限り・・・。

ということは、有頂天というのは、実は損な世界なのですよ。それ以上へは絶対いけない世界なのですから。それ以上の世界へ行きたいと思うのなら、一度、苦しみの世界へ落ちていかないといけないのですから。
一度欲を消し去ったものが、また欲を得るというのは、それはそれは恐ろしいことなのです。初めからやり直し・・・みたいなものですからね。
ですので、有頂天になってはいけないんですよ、本当にね。有頂天になれば、それ以上の向上はなくなってしまいますし、有頂天を維持するというのは難しいことですし、落ちると原点まで落ちてしまいますから。
実際に、有頂天は恐ろしいところなのです。

皆さん、有頂天にならないように気をつけましょうね。合掌。


18、意地
意地という言葉をきいてすぐに思い浮かぶ言葉は、「意地が悪い」とか「意地汚い」、「意地っ張り」などという言葉でしょう。あまりいい言葉は思い浮かびませんよね。「意地」という言葉は、どうやら悪い方で使われることが多いようです。
もっとも、「意地」だけで使われる場合は少ないようですね。たいていは、下に悪いことをイメージさせる言葉がついてきます。
「意地」単独での意味は、一般的な辞書によりますと
「@こころ、気立て、心根、A精神的な実行力、自分の考えを押し通そうとする心、B欲」などとなっています。
「意地が悪い」という場合の「意地」は、@の心や気立て、といった意味で使われているのでしょう。「意地を通す、意地っ張り」などは、Aの自分の考えを押し通そうとする心、と言う意味でしょう。「意地汚い」という場合の「意地」は、Bの欲という意味になるのでしょうね。
こうしてみると、いや〜、「意地」というのは、よくない心のことのようですね。

ところが、本来の意味での「意地」は実は違う意味を持っているのです。そう、実は「意地」も元は、仏教の言葉なのですよ。
毎度おなじみの仏教語大辞典(東京書籍)によりますと、「意地」というのは
@第六意識のこと。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識に対する第六意識。これが個人存在の全体を支配し、認識作用の根源であり、万事を成立させる場所であるがゆえに地という。
A意識の省察段階。
B意にもとづく
Cこころ・意思の意味に近い
D俗に根性または強情をいう
となっています。

現在使われているのは、BCDの意味がもとでしょう。Bは「意」と同じというのですから、それは「こころ、思い」という意味になります。Cもこれと同じですね。Dは、本来の「意地」の意味ではなく、俗語になってしまった状態での「意地」ですね。本来の意味ではなく、後の世での意味であって、B→C→Dへと変化していったようです。
では、本来の「意地」の意味はというと、上の中の@でしょう。Aはその応用、とでも言いましょうか。
しかし@、これ読んで意味わかります?。よくわからないんじゃないでしょうか。これだから、仏教が嫌いになっていくんですよね。言葉が難しいし、言い回しがよくわからない。何を言ってるかさっぱりです。
なので、もう少しくだけた言い方に変えます。

般若心経にも出てきますが、人間の働きは、「眼・耳・鼻・舌・身体」によって、行われますよね。眼で見たり、耳で聞いたり、鼻で嗅いだり、舌で味わったり、身体を動かしたり・・・・。
で、こうした働きは、意識がもとになっています。意識があって、そうした行為に及ぶのですね。意識がなければ、見たい・聞きたい・嗅ぎたい・味わいたい・触りたい・・・・ということは思いません。
なので、人間の行動を支配しているのは意識だ、ということになるのです。つまり、意識はベースなわけです。基本ですね。
だから、「地」の文字を当てたのです。ベースだから、素地と同じです。そういう意味での「地」なのです。
つまり、「意地」とは、人間の行動の元になっている意識のベースのことを言うのです。これが、本来の「意地」の意味なのです。

で、その自分の意識をいい意識か悪い意識か、善し悪しを考えることがAの意味です。自分の心が善いか悪いかを考えている状態のことも意地というのですね。この段階では、「意地」は悪い意味では使われてはいません。善いか悪いか判断途中のことを「意地」といっているのですから。
「意地」が善いか悪いか判断するので、「お前は意地がいい」とか「お前の意地は悪い」とかいったのでしょうね。修行中にそういうことをいったのでしょう。本来の意味は、修行過程において、「お前の意識はいい意識だ」という意味であり、「お前の意識はまだまだだな、悪いところがあるな」という判断があったのでしょう。

こんなところから、「意地が悪い」という言葉が生まれてきたのでしょう。逆に、「意地がいい」という言葉があったのでしょう。「その意地は善い」とかね。でも、そうした言葉は生き残らなかったのでしょう。言葉は、今もそうなのですが、昔からいい言葉よりも悪い言葉のほうが伝わりも早いし、生き残りやすいものなのです。
ということで、「意地が善い」という言葉はなくなり、「意地が悪い」という言葉が生き残っていき、「意地」そのものの意味も変化していって、悪い意味で使われるようになっていったのでしょう。

しかし、「意地が悪い」のは、よくないことです。「意地」を通すのもほどほどにしないと、迷惑だし、疲れますよね。「意地が悪かった」り、「意地が汚い」とその現れである「眼も耳も鼻も舌も身体」も悪いものになっていってしまいます。くれぐれも「意地」は善いものしましょう。
「意地悪」しないで「意地善い」ように心を向けていきましょうね。合掌。


19、退屈
みなさんは、退屈はしていないでしょうか。な〜んにもやることがなくって、毎日毎日退屈だわ〜、なんていう方は、いませんか?。
退屈はいやですよね。やることがない、というのは結構つらいものです。
ところで、この「退屈」。実は、仏教語だったってご存知ですか?。うそ、まさか、ホントに?。と思うかもしれませんね。でも、本当に仏教の言葉なんですよ、元はね。
では、退屈しのぎに「退屈」についてお話しいたしましょう。

一般的に、「退屈」の意味は、「することがなく、ひまをもてあまし困ること」と解釈されていますね。しかし、仏教の世界では、「退屈」は次のような意味になります。おなじみの仏教語辞典からです。

退屈・・・仏道を求める心が退き屈すること。くじけ、しり込みすること。仏道修行の困難に屈すること。疲れていやになってしまうこと。

と、あります。つまり、仏教の修行の厳しさに負けて、いやになってしまうこと、なのです。覚りを得たい、という気持ちが「退いて」しまい、修行しようという気持ちが「屈して」しまうのです。これが退屈の本来の意味なのですよ。気持ちが退いてしまって、嫌になって、やる気がでてこなくて、ブラブラしている様子を見て、本来の退屈の意味は、暇そうにしている状態を現す言葉へと変化していったのでしょう。

仏教の修行は、そりゃもう、結構、厳しいものがあります。私達真言宗の場合は、100日間、缶詰生活で修行をします。これを「加行(けぎょう)」といいます。
朝は3時に起きて、洗顔等を済ませたあと、すぐに勤行です。この勤行にもいろいろ種類があって、初めの頃は100回の礼拝をする行もあります。(この100回の礼拝の行を一日三度します。きついです。)
朝の勤行が終わるのが、午前8時頃。なので、朝食は8時半ですね。もちろん、精進だし、質素です。
一般的に食事は一汁一菜といいますが、朝食は一汁のみです。つまり、ご飯と味噌汁のみです。漬物が少々ありますが。
で、そのあと掃除等がありまして、すぐに第二の勤行が始まります。これが午前11時半まで。で、すぐに昼食。昼食は、一汁一菜です。この昼食を12時までに食べねばなりません。
後片付け等を済ませ、少しの休憩の後、諸堂参拝に出かけます。私は高野山で修行をしたので、諸堂参拝は奥の院から伽藍を廻ります。もちろん、徒歩です。高野山に行かれたことがある方は、それがどのくらいの距離かわかると思いますが、結構な距離なんですよ。早歩きで約2時間ほどかかります。
で、修行道場に戻ってきたら、第三の勤行ですね。それと夕方の勤行。続けざまです。で、終わるのが午後6時頃。夕食を食べる方は、6時から夕食です。食べない方は、先にお風呂へ。
その後、勉強や洗濯や片付けや・・・で過ごして、午後9時に消灯です。そうなんですよ、洗濯も、もちろん自分達でするのです。そんな生活が100日間続くのです。(大学生は、前半・後半と50日ずつに分けます。私も学生でしたので、夏休みと春休みに50日ずつに分けて加行を行いました。)
精神的に参ってしまいますよね。精神を正常に維持することが、結構厳しいのですよ。

とまあ、こんな生活なので、絶対に退屈はしません。あ、この場合の退屈の意味は「暇で困る」ということですよ。そんな暇な時間は、全くありません。退屈している暇がない、くらいです。

ところが、たまに退屈してしまうヤツがいます。この場合の退屈は、「仏道修行が厳しくて、いやになってしまう」という意味での退屈です。つまり、脱走するヤツがいるんですね。修業道場から。
こういう輩が出てきますと、全員で罰則です。たいていは、100回の礼拝行ですね。罰則は、余分なことなので、結構つらいです。退屈すれば、みんなに迷惑がかかるのです。

現在の日本の各宗派の仏道修行は、たいていは結構厳しいものがあります。(昔に比べれば随分楽になったのでしょうけど・・・〉。 まあ、ある一部の宗派では、修行期間も短く、内容もそれほどでもない・・・ようですが、多くの宗派は、やはり厳しい修行はつきものです。中には、途中で嫌になって、逃げ出すものも出てくるでしょう。当初の志はどこかへ消し飛んでしまってね。(尤も、後継ぎで、仕方がなく修行に来た方は志も何もないかもしれませんが・・・。)
「修行を必ず終えよう」という気持ちは。いつのまに「退いて」しまい、気持ちがなえて「もういいや、やめよう・・・」と「屈して」しまうのですね。

これは、仏道修行だけのことではありませんね。当初の志はどこかへ消し飛んで、いまやフリーターとか、ホームレス・・・・なんてことも、たまに聞く話でして。
志し高く、地方から都会へ出てきたのだけど、都会の風は冷たく、志し半ばで頓挫・・・。いつの間にやら、単なるフリーター・・・・。田舎に帰ろうにも、恥ずかしくて帰れず、都会の寒空に涙する日々・・・。
なんてことも、よくある話です。こういう場合も、「退屈」したといえるでしょう。仏道修行でなくてもね。

仏道だけじゃありません。どんな場合でも、夢や希望、目標を持ったなら、簡単に退屈しちゃあだめです。あきらめちゃいけません。「自分には合わなかった」と納得して、方向を変更するならいいのですが、気持ちが萎えて、負けてしまった・・・というのは、いけませんよね。そう簡単に退屈しちゃ、いけないのです。
だって、簡単に退屈して、やることがなくなって、時間をもてあますようになたっら、本当に退屈してしまいますからね。
あぁ〜、もう、ややこしい、どっちの退屈なんでしょうか?。もう、どっちでもいいです。ともかく、退屈はいけません。退屈には、ろくなことはないですから・・・。合掌。


20、滅法
「ケンカと悪には強いが、女と酒には滅法弱い・・・・」
こんなセリフが時代劇には、よく登場していましたよね。最近は、また時代劇が流行り始めているとかで、古い言葉がよく聞かれるようになったようです。(そういえば「大奥」もやってますからね。時代劇、本格的に復権?かな?)。
「滅法(めっぽう)」もそんな言葉の中の一つでしょうか。時代劇にはよく使われていた言葉ですが、最近の方はあまり使いませんよね。でも、意味はわかるでしょ?。なんとなくでも・・・・。

一般的な国語辞典によりますと、滅法とは、
「法外に。はなはだしく」
とあります。簡単に言えば、「やたらめったら」、「めちゃくちゃ」、「すごく」というような意味ですよね。たいていの場合、「滅法」の後に、「強い」とか「弱い」が、くっついて使われることが多い言葉です。
さて、この滅法、もちろん元は仏教の言葉です。(ちなみに、滅法の意味の「法外」も仏教語ですけどね。法・・・教え・・・のほか、と言う意味です。仏教以外、ということですね。)。
さて、滅法の本来の意味とは・・・・。

お馴染みの仏教語大辞典によりますと、滅法とは、
@無為法の異名。因縁によってつくられるものではないもの。
A涅槃のこと
B滅びるもの
C俗に、むやみやたら
となっています。
@は、わからないですよね。無為法とは、因縁に支配されない状態のことを言います。つまり、輪廻を解脱した状態、覚りの世界のことですね。ですので、Aと意味は同じです。覚りの世界のことを「滅法」と表現したのです。

Bは、そのままですね。「法」とは、仏教では教えのことですが、宇宙で起こりうるすべての現象のことも意味しています。ですので、「滅法」といえば、「すべての滅び」となるわけですね。そこから「滅びるもの」という意味になったようです。
Cは、現在使われている「滅法」の意味です。

仏教語大辞典では、このようになっていますが、私は個人的にもう一つの意味を「滅法」に与えたい、と思っています。仏教語大辞典を編纂された中村元大先生には申し訳ないし、たかが小僧がオコガマシイのですが、どうしてもこの意味を「滅法」の項目に付け加えたいのです。それは、
「滅法とは、法が滅することである」
という意味です。(ちなみに、この意味は「法滅」の項目です。でも滅法の項目に入れたいんです。)

「なんだ、そのままじゃないか。しかも上のBの意味とほぼ同じじゃないか」
と思われるかもしれませんが、まあ聞いてください、否、読んでください。ちょっと意味が違いますから。
ここでいう「法が滅する」というのは、「法」つまり「お釈迦様の教え、仏教そのもの」のことです。つまり、「滅法」とは、
「お釈迦様の教えが滅ぶこと、仏教が滅ぶこと」
と言う意味になるのですね。こりゃ、大変です。大変な内容です。仏教がなくなっちゃうんですから。しかし、実際、仏教発祥の地インドでは、仏教は滅びましたからね。法は滅んだのです。これを「滅法」と言わずして、どうします?。

お釈迦様は、自分の教えが時代とともに変化していく、と説かれました。そして、やがてはなくなってしまうだろう・・・・と。お釈迦様は、このように説かれています。
「私が涅槃に入ってから、つまりこの肉体が滅んでから、500年間は正しい教えが伝わるだろう。この間は覚りを得るものもいる。その後、1000年の間は正しい教えとはいえないが、似た教えは続くであろう。その1000年間は覚りを得るものはいない。それは、似た教えであって、正しい教えを知らないからである。さて、そのあと、つまり、私が涅槃に入った後、1500年以降は、私の教えは残ってはいるが、誰も正しい修行はしない。覚りはなくなり、救い難い時代となろう。これは1万年続く。」(年数については、諸説あります。この年数は一般的です。)
つまり、お釈迦様が涅槃に入られた後、
*500年間・・・・正しい教えが伝わり、正しい修行で覚るものも現れる。(これを正法といいます)。
*500年〜1500年の間・・・・正しい教えとはいえないが、似たような教えは残っている。しかし、似た教えであるため、いくら修行しても覚りを得ることはできない。(これを像法・・・ぞうほう・・・といいます)。
*1500年から1万年の間・・・・教え自体は残っているが、誰も修行しなくなる。当然、覚るものいないので、世の中を救うものも現れない。(これを末法といいます)。
となるのです。正法(しょうぼう)→像法(ぞうほう)→末法(まっぽう)と進むのです。

お釈迦様が涅槃に入ったのは、紀元前約500年ですから、もう今から2500年前のことです。ということは、今は、末法の世の中ですね。
で、その後、つまり末法のあとは、どうなるのか・・・。それを説いたお経があるのです。一説には、そのお経は「偽経(ぎきょう)」と言われています。つまり、仏教の出家者が伝えた教えではなく、勝手に作られたお経に似せたお経・・・ですね。そのお経を「法滅尽経(ほうめつじんきょう)」と言います。詳しくは、「月蔵経法滅尽品(がつぞうきょうほうめつじんぼん)」と言います。題名は、そのままですね。「法が滅し尽くすお経」ですからね。
それによりますと、末法の後は法が滅する時代が来るというのです。

法滅尽経には、こうあります。
「天変地異、異常気象が頻発し、人心は乱れ、為政者は政治を忘れる。食べ物は乏しくなるか、あるいは毒を含む。治し難い病が流行り、人間同士の争いが耐えない。寺は破壊され、正しき僧侶は殺害されるか、山奥に追いやられる・・・。
居残る僧侶は僧侶とはいえないものである。絢爛豪華な袈裟をまとい、自慢しあう。修行をせず、金品を得ることばかり考える。贅沢をするために僧侶となるものも現れる。貪欲に名誉や利益を求め、権力者と和合し、戒律を捨て、酒を飲み、女性と戯れる。正しい僧侶がいれば、彼をののしり、邪魔にし、外へ追いやる。こんな大悪人の僧侶ばかりが跋扈するようになるのだ。こうして、正しい教えは滅ぶのである・・・・。」
(以上、大まかな意訳です。興味のある方は、原本をお読みください。)

説明は要りませんね。まさに、今の世の中、今のお坊さん・・・・ですからね。まあ、まだ、正しき僧侶は、街中にもいるでしょうけど、あまり相手にはされていないようでして。
ということは、現代は末法の世の中ではなくて、「滅法」の世の中なのでしょうか?。いやいや、まだ、お釈迦様の教えは滅んでいません。贅沢三昧のお坊さんばかりでもないですから。正しく、教えを説いているお坊さんもたくさんいますからね。
(そうそう先程、滅法の項目に「教えが滅する」という意味を入れたい、と言ったわけは、正法(しょうぼう)→像法(ぞうほう)→末法(まっぽう)と進んだら、その後は「法滅」じゃなくて、やはり「滅法」じゃないかと思いましてね。語呂がいいでしょう、このほうが。まあ、最後を「法滅」で締めくくる、というのもいいですけどね。それじゃあ、続きがないようで。本当に終わり、みたいな感じがしますからね。滅法と続いたら、まだ、その後があるかもしれないじゃないですか。イメージ的にですよ、あくまでも・・・・。余談でした。)

とはいえ、末法の時代であることは確かです。気をつけないと、すぐそこに滅法の時代が迫っているかもしれません。本来1万年続くはずの末法の時代が、悪いお坊さんのために、そういう悪いお坊さんを信じる(つるむ)俗人のために、短くなってしまうかも知れませんしね。

それには、我々僧侶も身を正しくして、滅法が来ないようにしなければいけませんし、みなさまの監視の目も必要ではないかと思います。
みなさんも、贅沢三昧で正しい行為をしないお坊さんに、「滅法強い」仏教者になって、ご協力ください。合掌。



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