えっ?!

こんなところに仏教語!

バックナンバー3

21、金輪際
「金輪際あなたとは会いません!」
と、言われた方はいらっしゃるでしょうか?。「金輪際」は、最近では、あまり聞かれなくなった言葉ですが、ドラマなどを見てると登場することもあるのではないでしょうか。若い方はご存じない言葉ですかねぇ。
と思っていましたら、とあるバラエティー番組に出ていた若手お笑い芸人さんが、この言葉を使っていました。まだまだ死語にはなっていないんだなぁ・・・などと聞いていました。ちょっとほっとしたりしますね。

さて、「金輪際」。これも仏教の言葉なんですよ。ご存知の方もあると思いますが・・・。
一般的な国語辞典には、
1、「金剛輪際」の略。大地を支える金剛輪の最下にあるところ。限りなく深い、の意味。仏教語。
2、究極のところまで。断じて。決して。どこまでも。
となっているようです。これを見てもわかりますよね。金輪際は仏教語なのです。しかし、今では、2の方の意味でしか使わないですけどね。

さて、その金輪際の仏教語としての意味ですが、上の1の説明では何のことかわかりませんよね。「金剛輪際(こんごうりんざい)」ってなに?、って感じでしょ。大地を支えるって、どういうこと?、じゃないでしょうか。
なので、解説を致します。これは、仏教の、というよりは、お釈迦様がいらした当時のインド人の宇宙観に基づいているのですよ。

当時のインド人は、宇宙空間の中に大きな円筒状の層があると考えました。これを風輪(ふうりん)といいます。この円筒状のものは、高さが160万由旬(ゆじゅん。ヨージャナ。1由旬は一説に約7キロメートル。)あるそうです。1由旬7キロメートルとすると、1120万キロメートルになりますね。
この円筒状のもは、直径が0.3阿僧祇由旬(あそうぎゆじゅん)あります。1阿僧祇由旬は10の64乗です。キロメートルに換算すると、それを7倍するわけですから、直径は2.1×10の64乗キロメートルとなります。
つまり、宇宙空間に高さ1120万キロメートル、直径2.1×10の64乗キロメートルの円筒状のものが浮かんでいるんです。高さに対して直径が大きすぎる・・・・とは思いますが、そういうものが浮かんでいるんですよ、宇宙に。そう想像してください。それは風輪という名前なのです。

その上に、高さ80万由旬、直径120万3450由旬の円筒形がのっかているんです。これを水輪(すいりん)といいます。大きさは・・・いいですね、換算しなくても。興味のある方は、ご自分で計算してみてください。
さらにその上に同じ直径で、高さ32万由旬の円筒形のものが載っています。それを金輪(きんりん)といいます。金剛輪ともいいます。
で、その金輪の上にのっているのが、我々や神々、地獄の住人、などなどが住まう須弥山(しゅみせん)なのです。
これが、当時のインド人の宇宙観なんですね。

さて、金輪際です。この金輪際はどこにあるかというと、金輪の一番底、水輪との境のことをいいます。
風輪があって、その上に水輪があって、その上に金輪があります。金輪際とは、その金輪の一番下の部分、水輪との境界線のことなのです。
ですから、「金輪際」と言う言葉に、「底の底、究極のところ」、と言う意味が生まれてきたのです。

地獄は、須弥山の一番下に位置します。須弥山は金輪の上にありますから、金輪際とは、地獄よりも遥かに下、ということになりますね。地獄の下、32万由旬にあるのが金輪際なのです。
ということは、
「金輪際、あなたには会わないわ」
などと言われた方は・・・・。金輪際の場所を知っている人だったら、
「何もそこまで言わなくても・・・・」
と思ってしまいませんか?。あまりにもひどい嫌われよう・・・じゃないでしょうか。地獄のそこよりもさらに遠い存在になってしまうんですからね。
実感が沸かないといけませんので、ちょっと計算してみましょうか。
地獄の一番底までの距離は、約15万由旬です。で、金輪際の底が、さらに32万由旬下なのですから、我々の住んでいる地面から金輪際までの距離は、約47万由旬となります。ということは、1由旬7キロメートルとして・・・。
329万キロメートル下なんですよ。つまり、
「金輪際、あなたとは会わないわ」
といわれたら、、それは
「329万キロメートル、あなたとは離れているわ」
と言うことと同じ意味なんですね。
地球一週が約4万キロメートルです。金輪際は、その80倍・・・・。なにもそこまで嫌わなくても・・・・と思うでしょ。

「金輪際、会わないわ」
と言われたあなた。もう絶対にあきらめましょう。そして、もう二度と会いたくない、と言う場合、もう二度と同じ過ちはしない、と言う場合は、堅い固い決意を込めて、
「金輪際」
と言う言葉を使いましょう。「金輪際」には、それほど遠く離れる、と言う意味が込められているのですからね。合掌。



22、暗証
「暗証番号」の「暗証」です。え?、これが仏教の言葉?、と思われるかもしれませんが、実はコテコテの仏教語なんですよね、これが。

暗証というと、一般的には、
「当事者だけが知っている秘密の符号や番号。銀行のキャッシュカードの引き出しよう番号など」
(新潮社 現代国語辞典より)
という意味で使われています。ちなみに、空で覚えて読めるようになる場合の「あんしょう」は「暗唱」の字を書きますので、「暗証」とは違います。お間違えのないように。

さて、仏教語の「暗証」。いつもの如く、仏教語大辞典によってみてみましょう。
@本来、一般の仏教者が禅者を非難するのに用いた語で、禅者のさとりには、経論の正しい裏づけがないことをいう。
A力量のない禅者。
B師の許しを得ないのに、みだりに大悟したといい、これを他に誇ること。(参考「暗証禅(あんしょうのぜん)」)

となっています。これをみますと、どうもあまり良くないような、そんな感じの言葉ですよね。それと、どうやら仏教でも「禅」に関する言葉のようです。

禅というのは、その覚りの境地は言葉では言い表せないところにあります。言葉を超えたところ、とでも言いましょうか。昔から、「不立文字(ふりゅうもんじ)」といいまして、文字では表現できないところに禅のさとりがあるのだ、と説くのです。ですので、いつどのように悟ったのか説明ができません。
上の意味の@は、禅のそういう点を非難している、という意味です。禅が流行ったころ(鎌倉期以降)、禅のさとりが説明できない、という点を非難して、他の宗派が「禅の悟りは暗証だ。裏づけがない。」と言ったのですね。まあ、一種のやっかみです。禅が流行したので、他の宗派の坊さんが妬んだのですよ。

確かに、禅の悟りは説明ができないことが多いんです。たとえば、禅のさとりについてこんな話があります。
臨済禅(りんざいぜん)の祖である臨済さんは、黄檗(おうばく)のもとへ修行に行きました。で、仏法のさとりについて問うたところ、棒で殴られたのです。で、再びたずねたら、また殴られたんです。三度、教えを請うたらまた殴られたんですね。臨済さん、何で殴られたかわからない。
悩んだ臨済さんは、黄檗の兄弟子の大愚に教えを請いにいったんです。そこで、臨済は大愚に怒鳴られ、怒られるんですね。「この大馬鹿者!」とでもいわれたのでしょうか。すると、その時、臨済さん、はたと悟るんです。さとちゃったんです。
ところが、「何を悟ったのか」、と大愚は臨済を押さえつけて、怒鳴って問うのです。大愚にしてみれば、黄檗の教えがわからないで自分のもとへ来たくせに、「悟ったとは何事だ」、というわけですね。怒り爆発状態です。
そう問われた臨済、なんと大愚のわき腹を殴っちゃうんですね。「私はこう悟ったんだ!」、とね。で、大愚はそういうことならと、「お前はもう帰れ!」、と臨済を黄檗のもとへ返します。臨済のさとりを認めたわけですね。
もどった臨済は、黄檗に事の次第を話します。すると黄檗、「おのれ大愚」、と怒り出すんですね。「殴ってやる」、と。すると、今度は臨済が、「その必要はない」、といって、黄檗を殴り飛ばすんです・・・。
これ、悟りのやりとりなんです。すべては、悟ったもの同士で、悟りのやり取りをしているんです。まったく意味がわかりません。説明は一切ナシ、です。いや、説明できないですよね、これは・・・・。

禅の悟りは、こういう話のようなこともありますから、いくら「大悟した!」と叫んでみても、それが本当に悟っているのかどうかは、わかりません。そこで、師が必要になってくるのです。
「大悟した」ら、その者はすぐに師の元へ行きます。で、師と問答などをするわけです。その上で、師が
「確かに悟っておる」
と認めたなら、許可(こか)が与えられるわけです。そうして初めて「悟った」といえるんですね。
ところが、ここでインチキをする者もいるのです。悟っていないのに「悟った」と豪語する輩です。悟った、といえば、特別扱いされたりしますからね。尊敬されるしね。それで、インチキな禅者が出てくるのです。悟った内容は、と問われたら、師を殴っちゃえばいいのですからね。そういうのも、あり、なわけですから。禅ですからね、言葉を超えています。で、悟った振りもできるわけです。
そういうものを「暗証」といったのですよ。

もともと「暗」には、いい意味がありません。単に「暗い」というだけでなく、「迷い」や「愚か」という意味を含んでいます。「暗愚」などといえば最悪ですよね。物事に暗く愚かな者、のことです。
最近、キャッシュカードの暗証番号を盗み見て、大金を銀行から引き出す、なんていう事件がありました。盗むほうは、知恵を働かせて行動したつもりでも、結局は暗愚ですよね。被害にあったほうは、知らないうちに大損してしまって、あんぐり・・・・。
しかし、いつまでも4ケタの暗証番号に頼っている銀行が、一番暗愚なように思います。いいかげんにインチキなさとりという意味の暗証(番号)なんて使っていないで、指紋での照合とか、カードに顔写真を貼り付けるとか、工夫をすればいいのに、と思いますよ。
お金を不法に引き出されたことに関しては、我知らず・・・・、とまるで悟ったかのような顔の銀行。それこそ、暗証ですよね・・・・。合掌。



23、勘弁
ずいぶん昔の話です。何年前でしょうか・・・。
故松田優作さんのTVドラマに「探偵物語」という作品がありました。サングラスで黒服、赤いネクタイでべスパに乗って登場するちょっとドジな探偵さんの話なんですが、ご存知の方、多いのではないでしょうか。再放送も何度もされてますからね。
その探偵さん・・・・確か名前を「工藤ちゃん」といったと思いますが・・・・のよく言うセリフに、
「勘弁してよ、もう」
というのがありました。我々は、このセリフよく真似してましたね。何かあると「勘弁してよ、もう」の連発です。このセリフを言う松田優作さん、カッコよかったなあ・・・。今回は、その「勘弁」です。

「勘弁してください。」
という言葉は、皆さんもよく使われるのではないかと思います。その意味は、一般的な国語辞典によりますと、
「他人の罪や咎、過失を我慢して許してあげること」
とありますから、「勘弁してください」というのは、謝っている言葉なのです。

確かに、「勘弁してください」といって、本気で謝っているときもあるでしょうが、多くは
「もうやんなっちゃうな〜」
って言うときに使うのではないでしょうか。ちょっと軽い感じの「困ったなぁ〜」って言うときですよね。許しを請う、というよりは、まあ、大目に見てよね、といった感じでしょうか。あまり重々しくない使い方ですよね。
いつの間にか、意味が軽くなってしまいましたが、それでも年齢のいった方は、「勘弁してください」といえば、まだまだ許しを請う言葉として使っていると思います。
しかし、この「勘弁」、さらにその語源を遡ると、実は仏教の言葉、特に禅の言葉だったんですよ。

で、いつものように仏教語大辞典縮刷版で「勘弁」をみてみますと、
「禅僧が修行者の力量・素質の程度を試験すること。また学人が師家の力量を点検することをもいう。」
とあります。というか、これだけの説明しかありませんでした。
これでは、よくわかりませんよね。なんとなく、「勘弁」とは禅においてのテストのようなものだったのかな、ということは想像がつきますけどね。
そこで、今回はもう一つ秘密兵器を使います。岩波仏教辞典CD−ROM版です。便利ですよねぇ、今はね。これで簡単に調べられるんですから。昔は、あっちの辞典、こっちの辞典、って時間をかけて調べていたんですけどね・・・・。便利な世の中です。
で、それによりますと、「勘弁」とは、
「<勘>とは調べること、<弁>は見分けること、を意味する。つまり、相互に見解を試み悟りの浅深を調べただす問答のことを言う。「臨済録」の語録の中に「勘弁」の章があり、修行者との問答を記録している。転じて、一般に過失・罪とがを許すことの意に用いられた。」
とありました。
(これを読んで思いました。「勘がいい」の「勘」って、「調べる」という意味だったんですね、元は。意味が正反対に近いじゃないですか、これ。あてずっぽうじゃなく、ちゃんと調べた上での「勘」なのでしょうかねぇ?。)

う〜ん、これでもよくわかりませんか。つまりは、「勘」というのは相手の力量を調べることなのですね。「弁」は、力量を見極めることなのです。
で、「勘弁」で「禅者の間で、互いに相手の力量を見極めること」を「勘弁する」といったのです。禅において、相手の力量を見極めるということは、つまり禅問答をする、ということです。
ですので「勘弁する」とは、
「勘弁する」=「あいての力量を見極める」=「禅問答をする」
なので、最終的に、
「勘弁する」=「禅問答をする」
となるわけです。つまりは、勘弁するとは、禅問答をして、相手をテストすることなのです。

岩波仏教辞典の説明にあった「臨済録」は、「上堂語、示衆、勘弁、行録」の四章に分かれています。「勘弁」は第三章ですね。
ちなみに第一章「上堂語」は、臨済さんから弟子たちへの教えや戒律を示したものと、それに関る問答という内容です。第二章「示衆」は、講義の記録です。第四章「行録」は臨済さんの一代記、ですね。
で、第三章「勘弁」ですが、これは臨済さんと高僧たちの問答集、です。禅問答に興味のある方は、読んでみるのもいいでしょう。訳本も多々出ていると思います。

しかし、本来は禅において悟りの境地をテストするという意味の「勘弁」だったのに、いつの間に「許す」という意味になったのでしょうねぇ。禅では、
「勘弁してください」といえば、「悟りをの境地を試してみてください」という意味だったのでしょう。
「勘弁ならぬ」といえば、「試験するまでもない」といった意味だったのでしょう。
きっと、禅問答が難しくて、「もう勘弁なんていやだ、勘弁するのはやめて〜」なんてことから始まったのかもしれませんね。逆の使い方ですよね。

う〜ん、しかし、ちょっと苦しいかな、この説は・・・。どうして今のように使われるようになったかは、よくわかりません。ですので、もう勘弁してください、お願いしますね。合掌。



24、根性
「根性」って、今は流行らないですよね。私たちの少年時代は、「根性、根性、ど根性」って感じだったんですけどね。マンガやドラマも「スポーツ根性もの」が大流行していました。ご存知の方、多いでしょ?。
ところが現代では、「根性ってなに?」です。必死になってスポーツをする、逆境に向かっていく・・・っていうのは「ダッサ〜イ」って言われてしまうんですよね。「根性」の通じない時代になってしまいました。
ところで、この「根性」、もとは仏教の言葉だったっていったら、驚きますか?。そうなんです。「根性」は実は仏教語だったのです。

一般的な辞書によると「根性」とは、
@強い意志。
A根本的な性質。心の持ち方。
とあります。
「根性」という言葉は、その前後につく言葉によって、ずいぶん意味が変わりますよね。言い方、口調によっても意味が変わってきます。「いい根性をしている」といえば、「なかなか見所がある」というほめ言葉でもあり、「嫌なヤツ」というけなし言葉にもなります。「根性が腐ってる、ひねくれている」といえば、「性格が悪い」ということでしょう。「根性を入れて取り組め」といえば、「強い意思で、気合を入れて取り組め」ということでしょう。
確かに、いい意味での「根性」は「泥臭い」、「汗臭い」、「必死の努力」というイメージがあって、現代っ子にはダサイかもしれませんね。

さて、本来の意味の「根性」とはどういう意味なのでしょうか。おなじみの仏教語辞典をみてみましょう。
「根性」とは
@機根に同じ。宗教的素質・能力・性質。精神的素質。
A素質をもつ者。
B根は素質。性は本性。
C気力の本を根、善悪の習慣を性、という。
とあります。

@の「機根」とは、簡単に言えば「宗教的理解力」のことです。つまり、仏教の教えが理解できるかどうか、という能力ですね。これは、もともとは「機に応じる根」という意味です。
「機」とは、「きっかけ」のことですね。「根」とは、BCにもあるように「素質」のことを意味しています。(「根」については、後ほど詳しく述べます。)
つまり、「機根」とは、ある宗教的「きっかけ」にすぐに対応できる、理解できる素質のことを言い、そういう素質がある者を「根性があるもの、機根があるもの」といったわけです。
「機根」は、人それぞれによって異なります。当然ですよね。同じ修行をしたお坊さんでも、教えの理解力や能力は異なります。優秀なお坊さんもいれば、理解力が劣るお坊さんもいます。それはみな「機根」が異なるからです。一般の方でも「機根」は異なります。同じ話をしても理解力のあるなしの差は、あって当然でしょう。ですから、お釈迦様は、「対機説法」といって、人それぞれの理解力にあわせて教えを説いたのです。深い教えが理解できるものには難しい話をされたし、理解力がちょっと劣るものにはその者が理解しやすいように簡単な話をされました。みなそれぞれ理解力は異なって当たり前なのです。
なのに、日本の教育は画一的でして・・・。生徒それぞれの根性・機根にあわせて教育してあげれば、落ちこぼれなんてできないんですけどねぇ。文部科学省の方、少しはお釈迦様を見習うといいですよ。

話を戻します。
Aも@と同じような意味ですね。その中でも特に理解力のある者のことを意味しています。
BとCは、「根性」を「根」と「性」に分けて説明をしています。それは、そもそも「根性」とは「根」と「性」のくっついた言葉だからです。それぞれについて説明いたしましょう。

「根」とは、「根っこ」になぞらえた言葉です。植物の「根」が、植物を成長発展せしめる能力を持っていることから、人の能力や素質のことを「根」にあてたのです。また、そこから人間の基本的機関である「眼・耳・鼻・舌・身・意」に「根」をつけ「六根」と称しました。「六根清浄」という言葉、聞いたことがあるのではないでしょうか。
つまり、「根」とは、人間のもともと備わっている「素質、能力、機関」のことを意味したのです。

「性」とは、「せい」と読むのではなく「しょう」と読みます。意味は
@本体、本質、自性、原因、不変なる本性、特性、固有の性質、外的影響・関係を受けない不変の本質。
A先天的な本質。生まれつき。成長していく過程で得たものではなく、もともとあるもの。
B仏となり得る要素。仏性。
などなど・・・・、とあります。
つまりは、人間が生まれつき持っている性質のことですね。もって生まれた本質、のことを意味しているのです。それは、成長するにつれて身についたものではないのです。生まれたときから身についている性質のことなのです。なので、それは変えることはできません。不変のものです。

よく、「あいつは生まれつき暴力的なのだ」とか「子供のころからおとなしい子で・・・」とか「小さいときからかわいらしい」とか、いいますよね。人間って、子供のころから変わらない部分ってありますよね。もともと暗いとか、明るいとか、やさしいとか、乱暴だとか。そういう生まれつきの要素のことを「性」といったのです。
本来は、精神的な言葉を表す意味だった「性」ですが、「生まれつき備わって不変」ということから、「男女の別」を表す「性」・・・「男性、女性」・・・・という言葉が生まれました。そして、そこから現代のよく使われる意味での「性(せい)」へと発展していくのですね。
ちなみに「性欲」とは、これも仏教の言葉で、「しょうよく」と読み、「過去からの習性と現在の欲求」のことを意味しています。つまり、「本来の性質による願いや望み」という意味なのです。簡単にいえば、「人それぞれの望み」ですよね。決して、現代で使われている「性欲(せいよく)」という意味だけではなく、それも含んで「その人その人が、自分の本質に応じて得たいと思う欲求全般」のことを意味していたのですよ。

話がそれましたが、「性」とは、このように「生まれつき持っている不変の性質」のことなのです。その中でも、特に重要なのは、Bの意味、「仏性(ぶっしょう)」なのです。
「仏性」とは、「如来蔵(にょらいぞう)」ともいい、「仏陀(如来)になれる素質」のことをいいます。簡単に言えば、「覚りを得られる素質」のことですね。
「山川草木悉有仏性」(さんせんそうもくしつうぶっしょう)・・・という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。意味は、「山や川や草や木にも仏性がある」ということ、すなわち、「どんなものでも覚りを得る能力があるのだ」、「誰にでも、何にでも仏性がある」ということです。
そこから、「犬に仏性があるのか?」という禅問答も生まれるのですが、それは別の機会にお話しましょう。

で、この「根」と「性」があわさって、「根性」となり、その意味は「生まれ持った能力、素質」となるのです。もう少しわかりやすく言えば、「根性」とは、「人がもともと持っている能力や素質そのもの」のことなのです。しかも、その「素質」とは、主に「仏性」・・・仏陀になれる素質・・・・のことを意味しているのです。
ですから、本来の意味での「根性」とは、
「生命あるものが、もともと持っている覚りを得られるかどうか、というその能力や素質」
のことを意味していたわけです。
つまり、「根性がある」といえば、本来は「覚りを得られる能力や素質がある」という意味になりますし、「根性がない」となれば、「覚りを得られる能力、素質が無い」となるのです。

現代では、「根性」といえば、「強い意志、気合だ〜!」ってことですが、もともとは、「覚りを得られる能力」のことだったのですよ。
しかし・・・。覚りというものは、「根性」があるから、「根性」で何とかなる、というものではないのでして・・・。あ、この場合の「根性」は、今の「根性」です。もともとの「根性」(覚りを得る能力)は誰にでも備わっているものですからね(あぁ、ややこしい・・・。)。
そうそう、「根性」は誰にでもありますから、「根性なし!」といわれたら、「いいや、私にも根性はあります。」と答えてください。「山川草木悉有仏性」ですからね。どんなものにでも「根性」はあるのですよ。合掌。



25、威張る
世の中には、やたら威張っている人がいますよね。まるで、自分が天下一のように威張り散らしている。そういう人って、どこの世界にもいるものです。そういう人に限って、実力がなかったり、本当の実力者の前では、小さくなってしまうものです。
威張る・・・・あまり、褒められた行為とはいえません。
その「威張る」という言葉も、元を問えば、何と仏教の言葉だったのです。いろんなところに仏教語はあるのです。

さて、「威張る」ですが、一般的な辞書によりますと、
「自分が偉い、勝れているということを示して、他人を見下す態度をとったり、口に出すこと。」
とあります。
予想通り、あまりいい言葉ではありません。そりゃそうですよね。どなたもおわかりでしょう。

では、本来の意味の「威張る」とはどういう意味なのでしょうか。おなじみの仏教語辞典を見る前に、「威張る」を解体してみます。
「威張る」とは、もとは「威儀を張る」という言葉でした。「威儀を張る」の「儀」と「を」が取れて、「威張る」になったのです。当初は「を」だけが取れていたようです。つまり、「威儀張る(いぎばる)」ですね。で、そのうちに「儀」がなくなったようです。
「威儀を張る」というのは、「威儀を整える、威儀を堂々と見せる」という意味です。これも仏教関係の言葉ですが、これでは意味がわかりませんね。だいたい、「威儀」ってなに?、ですよね。
ですので、ここで、いつもの仏教語大辞典の登場です。

「威儀」とは、
@もと、礼式にかなった態度をいう。
Aふるまい、動作、日常の立ち振る舞い。たたずまい。居ずまい。詳しくは四威儀(しいぎ)といって、行・住・坐・臥(ぎょうじゅうざが)をもって表わす。
B規律にかなった起居動作、ふるまい。
C立派な行為、儀礼。
D戒律の異名。
E威厳に満ちた態度。
F袈裟につけた紐で肩にかけるもの。
G生活様式の意。
H禅宗では「いいぎ」と読み、規律にかなった正しい立ち振る舞いのこと。(以下略)。
と、このようにあります。

こうしてみると、「威儀」とは、生活態度のことである、とわかりますよね。しかも、仏教の規律にかなった生活態度、のことです。簡単にいえば、「威儀」とは、「仏教的生活スタイル」となります。
それが、どうして「威張る」になったのでしょうか?。意味がまったく違いますよね。それをお話しする前に、もう少し「仏教的生活スタイル」というのをご紹介しておきましょう。

仏教の修行者の生活は、このような様式になっています。
朝・・・日の出とともに起きます。起きると、まず、臥具(布団のこと)を片付けます。臥具といっても、インドでは布一枚です。インドの気候では、それでよかったのです。日本ではそうはいきません。一応、敷布団だの掛け布団だのあります。それを朝起きましたら、すぐに片付けるのです。
続いて沐浴をします。そもそも、インドでは沐浴は日常に行われいていたことです。朝、沐浴をして、寝汗を落とすのですね。インドは暑いですから、朝から汗臭いのは周りに失礼ですから、沐浴をするのです。
これが、日本に入ってくると、なぜか滝行へと変化します。別に滝行じゃなくてもいいのです。朝起きたら、暖かいシャワーを浴びればいいのですよ。寝汗を落とすだけですから。
沐浴中も修行者は気をつけなければなりません。沐浴中も威儀を正さないといけないのです。どういうことかといいますと、沐浴するとき裸になりますから、妙に性的刺激をしないように立ち振る舞うべきだ、と説かれています。(インドでは、川で沐浴するので、丸見えですからね。具体的には・・・・難しいですが、まあ、そういう態度をしないことです。)
これも、生活する上での威儀ですね。

沐浴が終わったら、衣と袈裟を身につけます。その時に、「大切な袈裟を身につけて、しっかり修行するぞ」といった意味のお経を唱えます。朝の誓いの言葉、のようなものですね。

続いて、托鉢に出かけます。これも修行の一つです。そもそも出家者は、托鉢で得た食事、または招待を受けた食事しか口にしません。自分でものを買って食べる、ということはしないのです。
現代でもタイやミャンマーあたりでは、托鉢で食事を得ています。といっても、最近では、金銭を使ったり、買い物をしたりしているようですが・・・・。現代社会では、托鉢だけで生活する、というのは無理ですよね。
この托鉢中にも威儀を正さなくてはなりません。背筋をシャキッと伸ばして歩くことはもちろん、ニヤニヤしたり怒ったりしないで、堂々とした態度でいなくていけません。卑屈に食を乞うのではなく、また、食を得られ無かったからといって怒ったり、嘆いたりしてはいけないのです。感情を出さないようにする、ということですね。
これらは、行の威儀です。

で、食を得たなら、正午までに食事を済ませます。このときも、がっついて食べてはいけません。ごくごく自然に、優雅に食べるのです。これが食事の威儀です。下品に食べてはいけません。日本でも、修行者は静かに食事を取りますよね。
以上が午前中です。

午後からは、ひたすら瞑想したり、お釈迦様の教えについて考察したりします。この場合は、ほとんど座ったままですね。結跏趺坐して行うのが普通です。たまに、木の周りを歩いてみたりもします。結跏趺坐しているときも、だれ〜っとした座り方でなく、背筋を伸ばして座ります。木の周りを歩くときでも、ダラダラと歩きません。これが、坐と行の威儀ですね。
或いは、午後からは、袈裟や衣を縫ったり、ボロ布で雑巾などを縫ったりもします。そうしたときも、ダラダラとしないで、ちゃきちゃきやります。
日中、寝転がったり、ボーっとしたり、遊びに行ったり、なんてことはしません。いつも威儀を正しく過ごします。

で、夕方、日の入りとともに寝る準備です。あとは、いつ寝てもいいのです。起きていて、瞑想などをしてもかまいません。寝るときは、右を下にして、北を枕に横になります。これが正しい寝方です。(もっとも、朝にはその姿はありませんが・・・)。

とまあ、以上が、行住坐臥の威儀です。このように、修行者は、絶えず、姿勢正しく、規律をも守り、立派で堂々とした立ち振る舞いをしなくていけないのですね。これが、威儀を正す、ということであり、「仏教的生活様式」なのです。
それはよくわかった、と思うのですが、じゃあ、いったいどこから「威張る」が出てきたのでしょうか?。これまで見てきて、「威張る」の要素が少しもありませんよね。こうしてみてみると、「威儀を張る」のは、いい意味ばかりのように思えます。

「威張る」の元である「威儀を張る」というのは、そもそもお坊さんの儀式のときに、威風堂々とした態度を取ることから生まれたようです。上の仏教語辞典の意味ではEにあたります。
お坊さんがたくさん並んでお経をあげる、たくさんのお坊さんの行列・・・といった儀式をみたことはないでしょうか。そのとき、お坊さん方は、胸を張って、堂々とした態度で歩いていたり、座っていたりします。どなたも、ダレ〜、とはしていません。歩くときも、背を丸めてタラタラ歩く、事はしません。「威厳に満ちた態度」で座ったり、歩いたりしています。こうしたお坊さんの姿を「威儀を張る」といったのです。
つまり、お坊さんが堂々と胸を張った態度をしているさまを「威儀を張る、威儀張る」と表現したのですね。お坊さんの中でも、行事を取り仕切っている係のものが、並んでいたりするお坊さんに
「威儀を張ってください」
と言ったりします。
その姿、お坊さんが胸を張って、堂々とした態度で座ったり、立ったり、歩いたりする姿を示した言葉の「威儀張る」を、一般の方が、坊さんのようなでかい態度をしたときに「威張る」となったのです。
お坊さんの「威儀張る」から、一般の「威張る」への転用ですね。つまり、「威張る」のもとは、お坊さんの堂々とした態度のことだったのです。

実際、立派な衣や袈裟をつけているお坊さんは、威張っているように見えます。キンキラキンの袈裟をつけて、説教をしている姿は、威張っています。そりゃ、そうでしょう。そういう態度でいなきゃいけないのですから、お坊さんはね。「威儀張ってください」と言われるし、「威儀張らないといけない」のですからね。
もっとも、あのキンキラキンの袈裟って、重いものですから、威張った態度をしていないと、着崩れてしまうんです。胸を張って、そっくり返って偉そうな態度をしていないと、脱げてしまったりするんですよ。特に私のような細いタイプのものはね。あの袈裟は、着崩れると、もう大変なんです。すぐに直せないんですよ。
なので、肩肘張って、威儀を張って、でかい態度でいるんです。

が、しかし、重い袈裟をつけていなくても、いつも威張っているお坊さんもいますけどね。そういう方は、いつも威儀張ってないで、普段の威儀を正して欲しいものですね。
一般の方でも、エラソーに「想定内だって言ってるだろ」なんて威張ってないで、行住坐臥の威儀を正して欲しいですね。空威張りは、堂々としているどころか、返って小さく見えますから。あまり威儀を張っても、中身が伴わなきゃ、単に「威張ったヤツ」で終わってしまいますからね。気をつけましょう。合掌。



26、大げさ
物事を本当は小さなことなのに、やたら大きくいう方っていますよね。たとえば、魚釣りの好きな方が、逃がしてしまった獲物・・・・。
「本当なんだよ、こ〜んなに大きくてさ。釣竿が折れるかと思ったくらいだよ。」
な〜んて大きなことを言ったりしますよね。知らないと思って話が大きくなってしまっているんですね。
このように、いろいろな物事に関して実際よりも大きく言ったり、したりすることを「大げさ」と言います。よくご存知の言葉だと思いますし、実際に大げさな表現や大げさなジェスチャーをしたこともあるのではないでしょうか。
この「大げさ」という言葉。これも実は仏教の言葉なんですよ。漢字で書けばよくわかるでしょう。「大袈裟」です。そう「坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い」の「袈裟」に「大」をつけた言葉なんです。
つまり、「大きな袈裟」のことですね。

「袈裟」というのは、インドの言葉の「カシャーヤ」を音写したものです。(音写してなぜ「ケサ」になるのかって?。「カシャーヤ」の「カ」の発音は、「カ」というより、やや「ケ」に近い発音なんです。「カ」と「ケ」の間ですね。なので、聞きようによっては「ケシャーヤ」と聞こえます。ここから「ケサ」となったわけですね。)
原語は、「赤褐色」という意味の言葉です。つまり、色を表した言葉ですね。そこから「壊色(えじき)」、「染衣(ぜんね)」と漢訳されます。もとの意味が赤褐色で、なんとも言いようのない赤っぽく茶色っぽい汚い色だったので「壊れた色」と表現したのでしょう。言い得て妙・・・ですね。

お釈迦様時代、出家者が身につけるものは三種の衣でした。これを三衣(さんね)といいます。下着、中着、上着の三種類の衣です。出家者は、自分の所有物は、この三衣と托鉢用の鉄の鉢一つだけだったので、お坊さんには「三衣一鉢(さんねいっぱち)あればいい」といわれるようになります。これだけで十分だったわけです。(今のお坊さんを想像しちゃあだめですよ。)
さて、その三衣は、ゴミ捨て場や墓場に捨てられた布を縫い合わせて作られました。ですので、もう汚れきっていたわけです。ボロボロの布だったんですね。
なぜそのような布を使ったかというと、華美に着飾ることから離れるためです。つまり、ファッションを気にする欲、執着心を捨て去るために、わざとボロボロの布を使ったのです。わざと人が捨てた布を使ったのですね。
で、その布は、たいてい色がくすんで、茶色っぽくなっていたことでしょう。黒じゃないですね。汚い色です。そんな色をした衣を身につけていたので、その衣をさして「ケサ(カシャーヤ)」と呼ぶようになったのです。

お釈迦様の弟子が多くなり、仏教教団も大きくなり、信者も増えるようになると、布を寄付する信者が増えてきます。出家者にとっては布が一番ありがたいからです。
布は、まず衣(袈裟)にできますし、座具(座布団の原型ですね)にできますし、敷物(敷布団のようなものです。インドは暑いので、掛け布団は不要ですね。)にもできます。布は最もありがたいものだったのです。
しかし、いくら布が喜ばれるからといっても、派手な色をした布は使用できませんでした。そこには色に関する決まりがあったのです。どんな決まりかといいますと、赤・黒・白・青・黄の原色を避けること、という決まりです。あくまでも、壊れた色しかダメなんですよ。
じゃあ、そうした原色の布を寄付されたときはどうするのか・・・・。
そういうときは染めるのです。汚い色にね。
どうやって染めるのかと言いますと、泥にいれたりします。泥染めですね。或いは、牛の糞で染めたりします。ここから袈裟のことを「糞掃衣(ふんぞうえ)」ともいいます。この場合、黄色っぽい茶色っぽい色になります。(日本では木蘭色などと言われています。)
または、ウコンで染めたりもします。インドはウコンはたくさんありますからね。この場合、黄色っぽくなりますね。原色の黄色はダメなんですが、深いウコン色は大丈夫なんです。なぜウコンはいいかといいますと、ウコンで染めると、虫がつかないので、衣についた虫を知らずに潰したりしなくなりますね。つまり、殺生しなくなるわけです。なので、ウコン染めはいいのです、黄色でもね。
(ちなみに、現在でも袈裟といえば、ウコン染めの黄色い袈裟をさすことが多いです。これを如法衣(にょうほうえ)といい、我々が日常に身につけている袈裟でもあります。)
または、泥や牛糞、ウコンをブレンドして染めたりもしたようです。

さて、このようなボロ布や染めた布を細かく裁断して縫い合わせます。一枚布を用いることはありません。もっとも、ボロ布は縫い合わせないことには使用できませんからね。ですが、寄付された布は、たとえ新品であっても、いくつかに裁断してしまいます。
なぜか・・・・。
それは、出家者みんなに平等に分けるためです。寄付された布は、特定の人物のものではなく、出家者全員のものなのです。ですから、人数分に細かく裁断されてしまうのです。で、それを縫い合わせるんですね。
現在、お坊さんが身につけている袈裟も、実は四角の布を何枚か縫い合わせて作ってあります。その布の縫い合わせる枚数と縫い合わせ方によって、五条・七条・九条などとわかれます。縫いあわせ方が決まっていたんですね。
なぜなら、縫い方によって差が出てはいけないからです。
「おい、その縫い方、格好がいいな。どうやって縫った?。」
「見てくれ、こうやって縫うとなかなかイケテルだろ?。」
といったかどうかは知りませんが、縫い方に差が出れば、そこに格好に対する欲や執着が生まれます。なので、縫い方を統一したんですね。戒律には、長方形の布を田のように縫い合わせる・・・となっています。そこから、袈裟のことを福田衣(ふくでんね)とも言うようになります。(いろいろな言い方があって、混乱しますね)。

以上のような作り方をした袈裟には、三種類あるといいました。下着・中着・上着です。それが出家者の衣、衣装でした。しかし、これが中国や日本に入ってくると、変化していってしまいます。なぜなら、インドと風土や気候が違うからです。
中国は、きっちりした衣装を身につける風土ですよね。装飾も華美です。また寒いので、重ね着をします。そうした中国の影響をたっぷり受けた日本も中国系の衣装の風土になります。
そうして、出家者の衣装である三衣は、まったくの変化をしてしまうのです。

日本では・・・・・。
下着は誰もが着る下着を身につけるようになりました。昔はふんどし一丁ですが、今ではパンツとジジシャツです(アンダーシャツといいますね、最近では)。その上に半襦袢(はんじゅばん)と白衣(はくえ)というものを着ます。これが下着の代わりです。
中着は、いわゆる衣(ころも)というものを身につけます。これには、いろいろ種類があります。用途や宗派によって変わるんですね。色もいろいろです。一般的には黒ですね。僧侶の階級によっても色は変わります。下っ端は黒や赤茶、木蘭色、暗めのウコン色、ねずみ色などです。階級が上がると、紫ですね。たいていの宗派は、最高の位になると赤色の衣を身につけることができるようになります。
(まあ、どうでもいいんですけどね、色も階級もね。そういうことにこだわらないのが出家者たる坊さんなのにね。ちなみに、私は黒の衣か木蘭色、ウコン色が好きですね。)
で、上着がいわゆる袈裟にあたります。これには、五条・七条・九条などがあります。条数は奇数です。理由はわかりません。おそらくは、奇数は次につながる数字だからでしょう。(インドでは偶数は終わりで、奇数は次につながる生数(せいすう、きすう)である、と考えられていたらしいです。)
一般的には、われわれは如法衣といわれる七条を身につけています。または、紋白(もんじろ)といわれている紫色の五条を身につけます。(紋白という名前は、その五条袈裟に宗派や寺の紋が白色で入っているからです。)

さて、大袈裟です(やっと戻ってきた!)。
この一番上に身につける袈裟の中でも大きな袈裟があります。派手でキンキラキンで、重いものです。私も大祭時や重要な法会の時には身につけます。これが重いんです。大きいし、緞子だし、羽二重だし、ともかくごつい。身につけるのが大変なんです。滅多に身につけない袈裟だから、着方も忘れてしまいます。身動きもとりにくいので、あまり身につけたくはない袈裟ですね。
この大きな袈裟(我々の宗派では「衲衣(のうえ)」といいます。)を実力もないのに、身につける資格もないのに身につけた僧侶を揶揄して「大袈裟なやつ」と言ったのが、大袈裟の始まりだとか・・・・。
あるいは、大きな袈裟をつけた僧侶は、威張って見えるため、小さいものでも大きく見えるので、小さなことを大きく言ったり、したりすることを「大袈裟」と言うようになったとか・・・・。
いずれにせよ、坊さんを揶揄した言葉から生まれた言葉であることは間違いないですけどね。

本来は、袈裟は平等で質素で、華美なものではなく、衣装に対する執着を離れるために身につけたものでした。それが今では、華美どころか、衲衣の高いものでは200万円を超えるものもあります。(ちなみにうちの寺にある衲衣は一桁安いものです。ま、そんな高いものいらないですけどね。)
デザインも様々で、お坊さんが各寺で持っている衲衣を身につけて一堂に会したならば、一種のファッションショーができてしまうほどです。
坊さんのファッションショー・・・・げんなりですな。いつからこうなってしまったのか。お釈迦様も、さぞやガックリしてるでしょうねぇ・・・・。

いや、大袈裟な話じゃないですよ。本当の話です。合掌。



27、アバタ
人間誰しも、人を好きになるとその人のことがよく見えるようになるものです。ちょっと太目の女性なら
「ぽっちゃり系でかわいいんだ」
となるでしょうし、ちょっと暗めの男性ならば、
「おとなしくて優しい人」
になってしまうものですよね。悪い部分、欠点、いわゆるブス・ブ男であろうと、惚れてしまえば「アバタもえくぼ」です。昔からそう言いますよね。恋の力はたいしたものです。

さて、その「アバタ」ですが、これは実は日本語じゃありません。あ〜、いや、今は日本語になっています。私が言うのは、その元の言葉です。アバタの語源ですね。これは、実は日本語じゃないんですよ。この「アバタ」という言葉、インドの言葉の音写なのです。

「アバタ」とは、インドの言葉「アブダ」の音写です。「アブダ」とは、主に天然痘が治ったあとのことをさします。顔に残った天然痘のあと、のことです。それをアブダといったんですね。
お坊さんの間でも、天然痘は恐ろしい病気でしたので、その痕がある者は、なんとなく避けられたりしたものです。差別をしてはいけないはずの僧侶の間でも
「あ、あいつはアブダだ、気をつけよう・・・。」
と言うわけです。病気には、こういう暗い過去・悲しい差別がツキモノです。残念なことなのですが、その当時は治療法もなかったので仕方がないことですよね。
まあ、このように、僧侶の間で、天然痘患者を避けるために、隠語として「アブダ」と言う言葉が使われてきたのです。それが、いつの間にか民間にも広まったのです。「アバタ」と訛ってね。
で、一般の人々の間でも、顔に天然痘の痕があれば、「アバタがある」というようになったのです。

まあ、しかし、好きになった女性にアバタがあろうとも、好きになってしまえば関係ありません。そんなもの、エクボと同じじゃあないか・・・・ということから、
「アバタもえくぼ」
となったのでしょう。人が人を好きになると言うのは、力強いものです。

さてさて、アバタの語源である「アブダ」には、もう一つ意味があります。それはある地獄の名称としての「アブダ」です。
地獄には、大きく分けて、八大熱地獄(はちだいねつじごく)と八大寒地獄(はちだいかんじごく)とがあります。「八大」というくらいですから、それぞれの地獄には八つの地獄があります。
熱地獄は、いわゆる地獄のことです。一般的に地獄と言えば、熱地獄のことです。血の池や火の山、針の山、などが有名ですよね。熱地獄の世界は、蒸し暑くてイライラするし、息苦しく、身体が強靭な者もすぐにヘタってしまいます。簡単に八大熱地獄を紹介しておきましょう。苦しさが軽い順に書いておきます。

@等活(とうかつ)地獄・・・あまりの蒸し暑さに、この地獄に落ちた者どおしで殺し合いが始まる。また、牛頭や馬頭に叩き潰されたり、切り刻まれたりする。そうして、殺されるのだが、死んだ次の瞬間に、死んだときと同じ状態で、すぐに生き返ってしまう。何度も何度もこれが繰り返される。死んだ姿と等しく生き返るので「等活」という。

A黒縄(こくじょう)地獄・・・ここで受ける苦しみは等活地獄の10倍である。ここに来た者は、身体に墨打ち(大工さんが木材を切るときに墨打ちをしますよね。あれです)をされます。牛頭や馬頭、鬼たちは、この墨打ちの線に従って身体を切り刻んでいく・・・・。だから、黒縄地獄と言う。もちろん、ここでも死はない。

B衆合(しゅうごう)地獄・・・ここで受ける苦しみは等活地獄の100倍。邪淫の罪を犯したものがくる地獄。この地獄では、自分好みの女性を追いかけて全身切り刻まれる。或いは、鉄の山に挟まれつぶされる、巨大な臼で人間餅にされる、火の川に放り込まれる、鉄のくちばしを持った鳥につつかれるなど、罪人(である衆生)に合わせた罰が与えられるので衆合の名がある。

C叫喚(きょうかん)地獄・・・ここで受ける苦しみは等活地獄の1000倍。ここに来た者は、口を無理やりこじ開けられ、溶けた銅を流し込まれる。酒を飲んで罪を犯したものがこの地獄に来る。あまりの苦しさに叫び声もでないのでこの名がある。

D大叫喚(きょうかん)地獄・・・ここで受ける苦しみは等活地獄の1万倍。ウソをついて罪を犯したものがここに来る。口による罪なので、口に関して罰が与えられる。ありとあらゆるものを口に押し込んだり、口を裂いたり・・・。叫喚地獄の延長的なところがあるので、大叫喚の名がある。

E焦熱(しょうねつ)地獄・・・ここで受ける苦しみは等活地獄の10万倍。その名の通り、熱・炎・猛火によって責め立てられる。

F大焦熱地獄・・・ここで受ける苦しみは等活地獄の100万倍。ここも熱・炎・猛火によって苦しめられる。

G阿鼻(あび)地獄・・・ここで受ける苦しみは等活地獄の10億倍。ここは極端に苦しみが増加する。一番軽い地獄の10億倍の苦しみを受ける。一瞬の休息もなく苦しみを受け続けなければならない。つまり、不死なのだ。ここ以外の地獄は死ぬが生き返り、また死に・・・という繰り返しであるが、ここは死なない。つまり、休む間もなく苦しみを受けなければいけないのである。身体がどんな状態にあろうが、死ねないのである。

とまあ、こんな感じです。さらに詳しい内容は、またの機会にお話しましょう。

寒地獄は、極寒の世界です。北極や南極の寒さを想像してください。そいう世界に裸で放り込まれるんです。そういう地獄なんですね。簡単に紹介しておきます。
@アブダ地獄・・・八つある地獄の中でも最も軽い刑の寒地獄。あまりの寒さに、皮膚が裂け血が噴出す。しかし、寒いので血もすぐに凍ってしまうい、その傷跡から水疱ができる。これができるとき、激痛が走る。全身にアブダ(アバタ)ができ、激痛に見舞われる。でも死ねない、という地獄。

Aニラブダ地獄・・・できものであるアブダが破裂して、血や膿が噴出し、またアブダができ、また破裂する・・・と言う繰り返しが起きる。

Bアタタ地獄
Cカカバ地獄
Dココバ地獄
この三つの地獄は、あまりの寒さのため、口が震え、「アタタ」とか「カカバ」とか「ココバ」と叫んでしまうので、その叫び声を名前にしてある。どんな罰かは不明。

Eウハラ地獄・・・寒さのため、頭が青い蓮の花のように割れてしまうので、青蓮華(ウトパラ→ウハラ)という名前がついた。

Fハドマ地獄・・・寒さのため、頭が赤蓮華の花のように割れてしまうので、赤蓮華(パドマ)の名がついた。

Gマカハドマ地獄・・・ハドマ地獄の苦しみを増大させたので、マカ(大)の名がつく。

とまあ、こんな感じですが、寒地獄の方は、インドが暖かい国であったせいか、刑罰が具体的に説かれていません。しかし、地獄であることには代わりはありませんから、苦しい世界であることには間違いはないでしょう。

で、アブダ地獄です。地獄なのですから、「アバタもえくぼ」などと笑ってられるようなものじゃありません。恐ろしい世界です。
まあ、このような世界に落ちるような方は、これを読んでる中にはいらっしゃらないでしょうけど・・・・。そうとう難しいですからね、地獄へ落ちるのは。極悪人にならないといけませんから。
あ、ただし、坊さんは行きやすいですね。戒律をち〜っとも守っていませんからね。最も地獄に近い存在がお坊さんですから。

とまあ、アバタには、このような元があったのですよ。
ところで、「アバタもえくぼ」もいいかもしれませんが、あまり贔屓目に見るのもどうかと思います。惚れてるうちは「アバタもえくぼ」かもしれませんが、夢から覚めたら「アバタはアバタ」ですからね。ガックリきて「こんなはずでは・・・」と思い、ケンカ別れ・・・・。挙句の果てにとんでもないことになったりして恨みをかったり、怨んでみたり。
「あの時、周りの意見に耳を傾けていれば、こんなことにはならぬものを・・・・」
と嘆いてみても後の祭り・・・。その先にあるのは、アブダ地獄?・・・ってことはないでしょうけど、どうせ「アバタもえくぼ」と惚れあった仲なら、一生「アバタもえくぼ」のままでいて欲しいですね。
たとえ、「アバタはアバタ」と気付いてもね・・・・。合掌。




バックナンバー4へ


今月のこんなところに仏教語へ戻る    表紙へ