えっ?!

こんなところに仏教語!

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28、微妙

最近の方は、何か感想を求められたりすると
「うん、ビミョーですね」
と答える方が多いように思います。それだけではありません。何かにつけて
「あぁ、ビミョ〜。」
「やっぱ、ビミョ〜。」
の連発。なんでもなくても
「ビミョー」
で片付けてしまうようですね。ま、確かに便利な言葉です、この「微妙」。どっちともつかず、その場で白黒つけず、かといって悪い印象でもなく、相手の気分を害することもなく、軽く流していってくれる、そんな言葉ですよね。
なんでも
「ビミョー」
と答えておけば、無難に過ごせてしまうんです。物事をはっきりさせない日本人には、まさしくぴったりの言葉なのではないでしょうか。

しかし、仏教での「微妙」は、意味がぜんぜん違うんですよ。この「微妙」、もとは仏教で使われ、仏教伝来とともに日本にやってきた言葉なのですが、まさかこんな使われ方をするとは。お経を漢訳した偉いお坊さんは、さぞやびっくりでしょうね。
そもそもまず読み方からして違います。仏教では「微妙」は「びみょう」とは読みません。「みみょう」と読みます。「微」は、「び」ではなく「み」なのですよ。

「微妙」(みみょうの方です)とは、お馴染みの仏教語辞典によりますと、
@巧妙の。聡敏の。はかりしれぬほど深くてみごとな。すぐれてみごとな。いうにいわれない不思議さ。
A善に同じ
となっております。
どうですか?。まったく意味が違うでしょ。「微妙」は、もとは「すぐれて見事なこと」を意味したのですよ。

一般的に、お経を読むときに、初めに「開経偈(かいきょうげ)」というお経から読み始めることが多いです。まあ、法要の形式によっては省略されたりしますが、在家用や簡単な読経の場合は、この「開経偈」から読み始めることが多いのです。どんなお経かといいますと、
   無上甚深微妙法 (むじょうじんじんみみょうほう)
   百千万劫難遭遇 (ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
   我今見聞得受持 (がこんけんもんとくじゅじ)
   願解如来真実義 (がんげにょらいしんじつぎ)
という短いお経です。もう気付いた方もいらっしゃると思いますが、「微妙」という言葉が入っているでしょ。一行目ですね。ついでに簡単な訳をしておきましょう。
   この上なき甚だ深く、はかり知れぬほどすぐれて見事な法である教えは、
   百千万劫という長い年月を経ても、出会うことが難しいものです。
   私は今、その出会うことが難しい教えを見て、聞いて、授かることができました。
   願わくは、その教えである如来の真実の意味を理解させてください。
となります。
このお経を見てもわかりますように、「微妙」とは、このお経にあるような使われ方をしていたのです。つまり、
「人間の思いもよらぬほど、考えが及ばぬほど、すぐれている」
という意味で使われていたのです。ですから、「微妙法」といえば、「お釈迦様の教えで、大変すぐれていて、理解しがたいすばらしい教え」となりますし、
そのほかには「微妙の色身(みみょうのしきしん)」といえば、「思いもよらぬほど、考えが及ばぬほど功徳を積んだ肉体」となります(これはお釈迦様やその他の仏様の体のことですね)。

そもそも「微妙」とは「微」と「妙」とからなる言葉です。
「微」とは、「計り知れない、ひじょうに細かい、これ以上細かくできない」という意味の言葉です。「木っ端微塵」の「微塵」が本来的な使われ方ですね。お料理の「みじん切り」も漢字で書くと「微塵切り」です。ミジンコも、漢字で書くと「微塵子」になります。このように、「微塵」とは「細かい、小さい」という意味ですね。
ちなみに、この「微塵」も、もとは仏教(というか古代インド)の言葉です。それも本来の意味を聞くと、ちょっとびっくりすると思います。ですので、ついでにお話ししておきましょう。
「微塵」とは、目に見える最小のモノのことを言います。なんだ、別に驚きはしないよ、とそう思うでしょう。ところが、この目に見える最小のものとは、インドでは、現代でいう「原子」のことを意味してるのですよ。
古代インドでは、物質を細かく分割していくと、「極微(ごくみ)」という物質を構成する最小の微粒子まで分割できる、と考えました。つまり、極微とは、最小でこれ以上分割できない粒子ですね。で、その極微が、一つの極微を中心に上下四方に集まります。つまり、極微が七つ集まっているわけです。この極微が七つ集まった状態を「一微塵(いちみじん)」といいます。そして、すべての物質は、この「一微塵」が数多く集まってできているのだ、と考えたのです。
で、さらに地・水・火・風の性質により、微塵の構成の仕方にも固いとか弱いとか、やわらかいとか、特質が生まれるのだ、と理解していたのです。
これってすごいと思いません?。古代インドでは、すでに原子の構成により物質ができている・・・という考えに至っていたのですよ。ちょっとびっくりでしょ。インド人恐るべし、です。
ま、それはさておき、「微」とは、このように、これ以上細かくならない、という意味で使われていた言葉です。そこから「計り知れない」という意味が生まれたのですね。

「妙」はよく聞きますよね。女性の戒名にも使われたりしますし、お経にもよく登場するポピュラーな仏教語です。が、意味となるとご存知の方は少ないのではないでしょうか。
「妙」とは、「不可思議な、人間の思いが及ばない、理解が及ばないほど」という意味です。ですから、お経の題名で「妙法蓮華経」とは、「不可思議な、人間の理解が及ばぬほどの法蓮華というお経」となるわけです。つまり、大変すぐれている、とかすばらしい、といういうような意味ですね。で、戒名に「妙」をつける場合は、「すばらしい人」という意味でつけられるようになったわけです。

「微妙」とは、このような意味の「微」と「妙」が一緒になったことばですから、その意味は当然「計り知れないほどすばらしい、不可思議な」という意味になります。
つまり、「微妙」とは、本来「これ以上ないくらいすばらしい」という褒め言葉なのですよ。現在使われている微妙とは、まったく意味が違いますよね。

ということからすれば、昔は「微妙」という言葉はこんな感じで使われていたのでしょう。ある貴族の会話です。
「いやはや、見事な庭ですなぁ・・・。」
「阿弥陀浄土の極楽を再現してみたのです。」
「いやいや、微妙(みみょう)なり。微妙なり。このような庭を眺めてあの世に往ければ、幸せですな。」
「さよう。極楽へ往けそうに思いまする・・・。」
「いや、真に微妙じゃ・・・。」
と、こんな感じでしょうか。褒め言葉ですからね、微妙は。

ところが、これが現代ともなると・・・。
「へぇ〜、すごい庭ですね。」
「極楽浄土を再現したのだそうです。すばらしいでしょ。」
「う〜ん、微妙。」
「えっ?、微妙・・・ですか。」
「うん、極楽浄土ってよくわかんないし。微妙。」
「はぁ、微妙ねぇ・・・・。微妙、微妙・・・。」
と、まあ、こんな感じでしょうか。感想を求めた方は、困っちゃいますよね。どう反応していいのか。いや、最近の方は、反応しないのかな?。ビミョーといわれれば、それで、
「あ、そうね」
で終わっちゃうのでしょうか?。どう反応していいのでしょう?。
う〜ん、ここのところ、ビミョ〜だなぁ・・・。合掌。


29、義理と人情
「義理の父、母」の「義理」です。「義理がたたない」の「義理」でもあります。現在使われている意味は、儒教くさいのですが、古くは現代使われているような意味では、使われてはいませんでした。なぜなら、もとは仏教とともに入ってきた言葉だからです。

「義理」の意味を国語辞典で確かめときましょう。私が見ている国語辞典(三省堂、新明解国語辞典、第五版)では、「義理」の意味を
@自身の利害に関りなく、人として行うべき道。特に交際上、いやでも他人にしなければならないこと。
A血のつながりはないが、配偶者や養子縁組の子供などを血縁者とみなすことによって生じる続き柄であること。
B(古)言葉の意味。交際上の関係。つきあい。
とあります。まあ、意味は、わかりますよね。よく使う言葉ですから。皆さん、思ったとおりのことを難しく言っているだけですね。
「義理」は、よく使うのは「義理の親」とかいった場合ですね。奥さんが旦那さんの親をさして「義理の父、母」とか言います。略せば「義父、義母」になりますね。これは上のAにあたります。
あとは、「義理がたたない」、「義理があるから・・・」、「お義理でも・・・」などと使いますね。これは、@やBの意味です。
ただ、よくわからないのは、Bの「(古)言葉の意味。」という解釈です。古くは、「義理」と言う言葉で「言葉の意味」という内容を表していたようですね。
実は、この解釈が、元の意味に最も近いんですよ。

仏教語では、「義理」の意味を次のように解釈しています。お馴染みの仏教語大辞典(東京書籍)によります。
@ことわり。道理。事柄のすじみち。
Aためになること
B事柄、わけ。教えられていること。
C名の含む内容。
D教典の説く意義・道理。ことわり。
E正しい道すじ。
F俗に、他人に対して行うべき道。つきあい、交際。
とあります。意味がたくさんあるように見えますが、@DEは似たような内容です。まあ、これが本来の使われかたなんですけどね。
「義理」とは、本来、お経の説く「意義、道理、すじみち」のことを意味していました。ですから、使い方としては、
「お経の義理を知って、衆生のために説くのだ」
というような感じですね。
「お経の道理・内容を知って、人々のために説くのだ」
と言う意味です。
お経の内容、意味のことを「義理」といったのです。これが、@DEの意味ですね。
Aは、お経に説かれていることがためになることであるから、お経のすじみち自体がためになること、となり、義理の意味に加わった、と思われます。
Bは、ひらったく言えば、「すじみち・道理」と言う意味と同じようなことですね。言い換えただけです。
Cは、名前の意味内容のことです。お経の意味内容ではなく、名前の意味内容、ということで使用されていたようです。このような使用は、少ないようですが・・・・。
Fは現代の意味と同じですね。この意味で使われるようになったのは、時代が下がってからのことです。

時代が下がって江戸時代にもなりますと、儒教の影響を受けまして、人間関係に関る言葉へと変化していくんですね。初めは、人間関係において通さねばならないすじみち、のことを意味するようになったようです。で、さらに、恩義のある関係へと発展していくんですね。こうして「義理を通す、義理立てする、義理がある」などと使われるようになったわけです。
初めは、お経の「すじみち」だったのですが、人間関係の「すじみち」へと広がっていったわけです。

さてさて、「義理」といえば、なんでしょう?。
そりゃあ、やっぱり「人情」ですよね。すぐに「人情」と答えられた方は、きっと任侠ファンじゃないでしょうか?。いまどき、「義理と人情」なんて、あまり言いませんからね。仁侠映画ぐらいでしょうか?。
とはいえ、「義理」といえば「人情」ですよね。この二つは切っても切れない仲?と思います。この頃では、希薄になりましたが・・・・。
それはさておき、この「人情」も、仏教では意味が少々異なっております。
一般的に「人情」といえば、
@人ならば、誰でも持っているはずの、心の働き。同情・感謝・報恩・献身の気持ちのほかに、同じことなら少しでも楽をしたい、よい方を選びたい、よい物を見聞したい、十分に報いられたいという欲望など。
A男女の愛情
とあります。(新明解国語辞典)。
まあ、わかりますよね。
「よりいいほうを選びたいのが、人情ってもんよ・・・。」
なんていいますよね。まあ、心の動き、とでもいいましょうか。

仏教では「情」は「心」と理解しています。ですから「人情」とは「人の心そのもの」という意味になります。そこから発展し、「人の気持ち、人間らしい心情」という意味で使われています。また、中国禅では、「人の持つ執着心、人間的迷いの心」のことを意味していたようです。
つまり、仏教では、「迷いのある人の心そのもの」という意味で使われていました。「人間らしい」というのは、「煩悩にさいなまれている」と言った意味です。人間が本来も持っている迷いにとらわれている状態の心を人間らしい心と言うのです。仏教ではね。もちろん、これは、「よくない状態」です。あくまで仏教的な意味で、ですよ。
仏教では、人間らしい=煩悩に纏われている、ということですからね。
ここから、発展して、「人の心の働き」を「人情」と言うようになったのでしょう。元の意味をあわせて考えれば、すなわち情とは、切り難きしがらみ、執着のことなのです。特に人の情は、なかなかに切り難いものがあります。人情とは、そうした切り難い心の働き、欲望のことなんですね。

さて、世の中「義理堅い」人は、段々と少なくなっていき、すじみちを通さずに自分勝手に推し進めていこうとする方が増えているようです。道理が通らず、力がある者だけの我が跋扈しているような・・・。
自分のいうことを聞かない部下は、バッサバッサと切り捨てる。義理も人情もあったもんじゃない。そんな風潮ですよね。まあ、国の代表がそのいい例で、義理も人情もない判断をしているようですからね。
「義理と人情」って、もうなくなっちゃうんですかねぇ。少なくとも、我々庶民は、義理も人情も捨てないようにしたいと思います。情けのない人には、なりたくないですからね。義理を返さない、薄情な人にもなりたくはないですから。

ところで、「義理と人情」に強い世界といえば、やくざな世界ですが、このやくざさんのことを「極道」とも言いますよね。この「極道」、「道を極める」という意味なのですが、本来の極めるべき「道」とは、「仏道」のことです。
つまり、「極道」とは、本来「仏教の道を極めたもの」という意味なんですね。「極道」の世界に生きるもの、といえば修行中のお坊さんのことなのです。
ということは、極道は覚りを得たもの、覚者、仏陀、ということになります。また、広い意味で言えば、お坊さんでもありますね。すなわち、「極道」とは、僧侶でもあるわけです。
「どうりで、坊さんとやくざは似てるわけだ・・・。」
と言ったそこの人!、間違っちゃあいけませんよ。くれぐれも!。合掌。


30、オシャカとオダブツ
今回も二つの言葉でいきます。
オシャカもオダブツも、最近では使う人は少なくなったように思いますが、いかがでしょうか。昔はよく聞きましたよね。最近でも、お年寄りの方は、よく使うのではないかと思います。
オシャカとオダブツ・・・・。元が仏教語であることは、あきらかですよね。

オシャカという言葉は、つぎに「なる」をつけて使います。「オシャカになる」という使い方ですね。一般的には
「ダメになった、使い物にならなくなった、壊れた」
という意味で使っていますよね。
手元にある国語辞典(三省堂、新明解国語辞典)によりますと「オシャカ」とは、
(博打に負けて裸になった状態を、潅仏会の釈迦像に掛けて言った洒落から)「出来損ないの製品」の意の、業界の通語。不良(品)。
となっています。一般で使っている意味とは、少々異なりますね。(しかし、製造業の業界用語だったとは知りませんでした)。そもそもは、博打用語だったわけですね。

潅仏会(かんぶつえ)とは、お釈迦様の誕生日を祝う法要のことです。花祭り・・・・といえばわかりますか?。多くは、4月8日に行われます、花祭りというお寺の行事です。
お釈迦様は今から二千五百年前の4月8日にインド北部(現在のネパールあたり)のルンビニーという花園で生まれました。生まれてすぐ、七歩あるいて右手で天を、左手で地を指し示し
「天上天下唯我独尊」
といった・・・という伝説はよく知られていますね。もちろん、これは後から作られたお話です。お釈迦様も普通の人間ですから、生まれてすぐにそんなことは致しません。オギャ〜と泣いただけです、たぶん。
これは、お釈迦様と同じ覚りに至ることができた人が現れなかったため生まれた超人伝説ですね。お釈迦様の孫弟子あたりの僧侶が、いくら修行しても覚れないものだから、お釈迦様は我々人間とは生まれからして違っていたに違いない、超人だったに違いない、とヒガンダことから生まれた伝説でしょう。同じ人間なら覚れるはずなのに覚れないから、その理由を「自分が悪いのではなく、お釈迦様が超人である」というところに持っていったのですよ。情けない話ですが・・・・。まあ、そう思いたくなる気持ちはわかりますけどね・・・。

というわけで、お釈迦様の誕生伝説が生まれまして、それ以来、お釈迦様のお誕生日には、右手で天を左手で地を指した裸の子供の像を祀るようになったのです。いつしか、その像に甘露水(甘茶のことです)を潅ぐようになったので「潅仏会(かんぶつえ)」と言われるようになったのです。
その潅仏会。いま話しましたように、生まれたばかりのお釈迦様の像を祀ります。なので、当然、裸です。この姿と、博打で身包みはがされた姿を掛けたのですね。洒落ですね。ということは、大方、この「オシャカ」という言葉は、江戸時代に生まれたのでしょう。江戸時代には、古びた無住の寺や、普通のお寺で博打が催されていたようですから。もちろん、当時でも違法です。よく時代劇にでてきますよね。古びたお寺での賭博のシーンが。そこへ「御用だ、御用だ」と捕縛に来る場面。知らない方は、時代劇のDVDやビデオでも見てください。

このように、「オシャカになる」とは、元は博打でボロ負けしてしまって、ダメになってしまうことを表したことから始まったようですね。そこから転じて、一般にも使われるようになったのでしょう。
しかし、まあ、お釈迦様もとんでもないところで名前を使われてしまいまして、不本意だろうな〜と思いますよ。そもそも、お寺が博打の場所になったのがいけないのですけどね。
ちなみに、寺銭は「博打の場所代としてお寺に納めたお金」のことです。ということは、江戸時代のご住職さん、表向きは坊さんだったのですが、裏では賭博に場所を提供していたわけでして。当時のご住職、
「そいつぁ、お釈迦様でもご存知あるめぇ〜」
とでも言ったのですかねぇ。でも、仏様はお見通しなんですけどねぇ・・・。

さてさて「オダブツ」ですが、これも意味は同じような感じですよね。「もうダメ、終わり、ご臨終」といった意味で使われているのではないでしょうか。ちなみに、国語辞典(前出)では、
「死ぬ」意の口頭語的表現。オダブツになる=死ぬ
となっています。どちらかというと、「オシャカになる」よりは「オダブツになる」のほうが、より強く死を意味しているようではありますね。
「オダブツ」は、漢字で書けば「御陀仏」です。「御」はいいですね。「陀仏」とは、「阿弥陀仏」のことです。つまり、「阿弥陀如来」のことですね。阿弥陀さんです。
このオダブツの元は、人が亡くなった際、極楽往生を願い、死者の周りで「南無阿弥陀仏」と唱えたことから始まります。そこから、南無阿弥陀仏が死を意味するようになり、南無阿弥陀仏を省略して「オダブツ」となったようです。ですから、元は「オダブツ」=「死」だったわけですね。まあ、今でも「オダブツ」といえば、「死」も意味していますけど。

「死」というと、どうしても暗くなります。たとえば
「アイツが死んだんだって・・・」
というと、なんとなく暗くなりますよね。それが、
「アイツがオダブツになった・・・」
といえば、ちょっとは明るく感じるでしょう。なるべく「死」という言葉を使わずに「死」を納得したかったのではないでしょうか。そこで、「死」に変わる言葉が必要だったのでしょう。「オダブツ」は、その「死」を受け入れやすくするための言葉だったわけです。しかも、極楽へ往生することの願いを含めた「死」を意味していたのです。

しかし、現在では本来の意味は薄れ、どちらかというと「死」を小ばかにした表現で使われることが多いようです。
「アイツもうオダブツさ。とうとうだめらしいよ」
というように、「死」を一段落とし込めたような意味で使うようですね。
これは「オシャカになる」にもいえることです。まあ、「オシャカになる」はもともと低俗な言葉ですから、仕方がないですが、「オダブツ」は本来、極楽浄土へ願って南無阿弥陀仏と唱えたことから生まれた言葉です。その元の願いはいつしか消え、死を貶めるような意味合いで使われるようになってしまいました。あまりいい言葉ではありませんね、「オシャカになる」も「オダブツ」も。

私は、この言葉、両方とも好きではありません。「オシャカになる」といえばお釈迦様をバカにしているように聞こえますし、「オダブツ」といえばその言葉の対象者をバカにしているように聞こえますからね。どちらも使いたくない言葉ですし、聞きたくない言葉ですね。
もっとも、修行してお釈迦様のような覚りを得るのだ、という意味で「オシャカになる・・・お釈迦様になる」というのなら、大歓迎ですけどね。
今回の仏教語は、使いたくない・使われない方がいい、という仏教語でした。合掌。


31、仏頂面
あなたの周りをよく見回してください。ブス〜っとした顔をした人、いませんか?。何が面白くないのか、無愛想でムスっとしていて、ふてくされたような顔をしている人、いるんじゃないですか?。えっ、あなた自身がそうなんですか?。ま、私は普段、無愛想ですけどね。そういう顔つきのことを仏頂面、といいますよね。あまりいい意味の言葉じゃありません。でも、これも仏教から生まれた言葉なんですよ。字を見ればわかりますよね。

仏頂面の意味は、いまさら説明するまでもないと思います。知らない人はいないのではないでしょうか。しかし、よく使う言葉の意味も知らない(最近、日本語に関連したTV番組が増えているようで。日本の言葉を知らない日本人が増えているようですね。困ったものです。)という方が増えているようなので、一応、参考までに国語辞典で見てみましょう。(三省堂 新明解国語辞典・・・最近話題になっているようですね、この辞書)

仏頂面・・・・無愛想な(ふくれた)顔つき。

とあります。何と明解!。まさしくその通りで、ムス〜っとした顔つきのことですね。あなたの周りにも一人や二人はいるでしょ、仏頂面の方。いやですよねぇ、そういう顔を見るのは。気が滅入ります。

ところで、この仏頂面、当然仏教から生まれた言葉なんですが、その元をご存知でしょうか?。仏頂面というのですから、仏様の頂(いただき)の面(顔)が元なのではないかな、ということは想像できると思います。しかし、仏様の頂に顔ってありましたっけ?。さて、皆さんどうでしょうか。仏様の頂の顔ってどこのことなんでしょうか?。

これには説がいろいろあるようです。ここでは二つ紹介しておきます。
一つには、仏頂面の面とは、仏様の顔そのもののことだ、という説です。確かに、仏様の顔は、にこやかではありません。特に如来像ではそれは顕著です。菩薩像は、ややにっこりしたような顔つきに表現されている場合が多いですが、如来像・・・お釈迦様や阿弥陀様、薬師様など・・・は、どちらかといとブスっとした顔つきですよね。無表情というか・・・(いや、表情はあるんですけどねぇ)。で、如来像のような顔つきを仏頂面といったのでしょう。
「なんだお前、ブス〜っとして。おまえ、それじゃあ、まるであそこの寺の仏様じゃねぇか。ホント無愛想だな。仏さま面だぞ、そりゃあ・・・・。」
というような感じで生まれたのでしょうかねぇ。
そういえば、如来の中には「仏頂尊(ぶっちょうそん)」という仏様がいます。どういう仏様かといいますと、最もすぐれた如来が仏頂尊です。如来の中の如来、すべての仏様の頂点におわします如来、それが仏頂尊です。仏頂尊如来は、如来の頂点ですから姿かたちは、人間の思考の及ぶところではありません。それは表現を超えた姿です。したがって姿は表現できないんですが、それでは話になりませんので、一応金剛界の大日如来と同型としてあります。(左手の人差し指を右手で包むような印を胸の前で結んでいます)。大日如来と同じですので、その顔つきは、ムスっとしています。無愛想です。いわゆる仏頂面です。仏頂尊の顔つきは仏頂面です。
ちなみに、この仏頂尊如来、今ではあまり聞きなれない如来ですが、昔はそうでもありませんでした。というのは、この仏頂尊如来の陀羅尼(だらに・・・長い真言のこと)がありまして、それがよく使われたようなのです。庶民の間でも知られていたようですね。この陀羅尼は、「魔除け、厄除け、禍除け」に効果があるといわれています。(私もお祓い時などに読みます)。それで庶民の間でも知られるようになったようです。昔は、陀羅尼といえば仏頂尊の陀羅尼・・・だったわけです。ただし、庶民がこの陀羅尼を唱えたのではなく、この陀羅尼を書いた布を着物の襟に縫い込んだりしたようですね。つまり、お守りとして所持していたわけです。現代の般若心経のような役割ですね。
話はそれましたが、仏頂尊如来は結構知られていたわけでして、そういうことからも、仏頂面とは仏様・・・如来像の顔そのものから生まれた・・・という説があるのですよ。

もう一つ、これは菩薩や天部の像に関連しています。菩薩や天部の像の中には、頭の上に如来の頭部だけを載せている像があります。たとえば、十一面観音像。この観音さんは、自分の顔のほかに十面の顔を持っています。怒った顔、悲しそうな顔、笑っている顔(見た目恐ろしい顔なのですが笑っているのです)、微笑んだ顔・・・・。その中に無表情の顔もあります。ムスっとしています。無愛想です。その顔の像は十一面観音様の頭の上でも、一番頂点に乗っています。また、天部では梵天像。梵天の頭の上には如来の頭部が載っていることがあります。この梵天の頭の上にある如来の頭部は、如来ですから無愛想な顔つきをしています。
これら菩薩や天部の頭の上に載っている如来の頭部を「頂上仏面(ちょうじょうぶつめん)」とか「頂上面(ちょうじょうめん)」などといいます。つまり「頂上にある仏の面」ですね。この如来の頭部は、別名「仏頂面(ぶっちょうめん)」ともいったようです。ですので
「お前のつらは、あの寺の仏様の頭の上に乗っかってる仏様の顔みてぇだ。なんていったかな、あの顔・・・。そうそう仏頂面(ぶっちょうめん)だよ、仏頂面。お前の顔は仏頂面だ・・・。」
ということで、仏頂面(ぶっちょうめん)から仏頂面(ぶっちょうづら)が生まれたのではないか、という説があるんですね。どうも、こちらの方が分があるように私は思います。確かに、十一面観音の頭部にある仏頭のお顔は、無愛想でムス〜っとしています。あの方の仏頂面にそっくり・・・・と思えますからね。
つまり、仏頂面(ぶっちょうめん)から仏頂面へ、読み方が変わった・・・・というわけです。

しかし、如来の顔は、決して仏頂面じゃないのですよ。どうか仏様のお顔をよ〜っく眺めてください。ムスっとしていますか?。無愛想ですか?。ふてくされたように見えますか?。
一見、そう見えるかもしれません。無表情で、無愛想で、ムスっとしたように、そんな感じに見えるかもしれません。しかし、もっともっともっと見続けていてください。どうでしょうか?。表情が変化していませんか?。
悲しそう?、にこやか?、怒ってる?、それともあなたの心を見透かしているよう・・・?。
どうですか、いろいろ変化していませんか?。決して仏頂面じゃないでしょ?。仏様は、それはもうさまざまな表情をされているのですよ。お顔は一つなんですけどね。
もちろん、仏像の顔が変化しているわけではありません。見る側の心の問題です。見る側の心に反応し、表情が変わるんですよね。
ということは、仏様のお顔が仏頂面に見える方は、心の中が無愛想でムスッとしている方・・・・なんですかねぇ。

ま、いずれにせよ、仏頂面というのは、周りを明るくするものではありません。仏様のように、見る側の心を映すというのならいいのですが、そういうわけではないのですからね。あなた自身の心が顔に出ているのでしょうから、仏頂面はね、いただけません。
どうしても、仏頂面になってしまうという方は、仏様の前に座って、その仏様がどんな表情をしているのか眺めてみてください。きっと、仏頂面が変化していくと思いますよ。
合掌。


32、迷惑
ご存知の方も多いと思いますが、私は毎月東京に行きます。東京にも信者さんがいますので、用事が多々あるんです。(お話し会もありますしね)。
で、移動はほとんどの場合、新幹線にて移動しています。その際は、禁煙席の指定を取ります。一人で移動していますから、隣は見ず知らずの方です、当然ながら。一人ですから話し相手もいませんが、私にとってそれはありがたいことでして、貴重な読書タイムになっているんです。ですから、移動中は、お楽しみの時間でもあるわけです。ところが、たまに快適に過ごせない場合があります。それは、隣席に座った方が原因なのです。

以前、こんなことがありました。
その日、私の隣席に座った方は、どこかの会社の部長さん?といった感じの方でした。きっとエリートなんでしょうね。やり手の方なんでしょう。いい言い方をすれば、堂々として立派に見える紳士、悪い言い方をすれば、威張った感じのオジサン・・・でした。
そのオジサン、席に着くや否や、新聞を広げ始めたんですね。大きく。隣に私がいるにもかかわらず。私はいつものように本を読んでいたのですが、目の端に入るんですよ、新聞を広げる腕が。
これがうっとうしいんです。バサバサっと新聞をめくるかと思えば、両手を広げて読んでいる。片方の手が私の目の前なんですね。これってうっとうしいですよ。で、いいました。
「迷惑なんですけど。」
って。いや、決して睨みつけたりはしないですよ。優しくやんわりと言いましたよ。まあ、その一言で、そのオジサンは新聞を見るのを止めて寝てしまいましたが。謝りもせず。(ありゃ、きっと寝たふりでしょうね)。
しかし、迷惑なオジサンです。ああいう人に限って、きっと目下の者には「非常識だお前らは!」とか、「なんだ最近の若者は!」って怒っているんでしょう。自分のことは棚に上げてね。だから、嫌われるんでしょうけど・・・・。

前置きが長くなりました。そう、迷惑です。この話のオジサンのように、世の中には迷惑な人間が多々いるようです。オジサンだけじゃないです。オバサンだって、若者だって子供だって、迷惑なヤカラはアチコチにいます。本人は迷惑をかけていないつもりなのでしょうけど。特に最近は、マナーの悪い迷惑な人種が増えているな、と思います。大人も若者も子供も・・・・。まあ、大人が悪いマナーをしてるのですから、若者や子供が悪くなるのは当然でしょうけどね。それにしても人に迷惑をかけておいて知らん振りっていうのは困りますよね。ちゃんと謝れよ!、と思います。
その迷惑なんですが、これって元は仏教の言葉なんですよ。

迷惑とは、いつもの仏教語大辞典によりますと、
@迷い。道理に迷うこと。心が(道理について)迷い、とまどうこと。中国・日本では、迷は事理をあやまり、惑は事理に明らかでないことであると解釈されることがある。
A人を迷わせること。
B(酒などに)沈溺すること。
とあります。いま使われている迷惑の意味とは、ちょっと違いますよね。強いて言えばAが今の意味に近いでしょうか。Bは、酒に酔えば迷うからです。酔えば正確な判断ができなくなりますよね。それは迷いと同じ状態であるという解釈です。

このように、本来、迷惑とは、迷ってしまうことを意味していたのです。すなわち、仏教でいう迷惑とは、ズバリ「迷い」のことなのです。何に迷うかといえば、お釈迦様の教えに迷うことなのです。本当にお釈迦様のおっしゃっていることは正しいのだろうか、という疑問を持ってしまうことです。また、修行の過程において、本当にこれでいいのだろうか、と迷ってしまうことです。そういう迷いを持ってしまうんですね。突如として。
実は、この「迷いを持つ」ということは、よくあることなんです。私にも経験があります。それは、修行中に突然やってくるんですよ。ふとした弾みで突然にやってくるものなのです。たとえば、こんなふうに・・・。
「本当にこれでいいのだろうか。これで間違いないのだろうか。」
と。あるいは、
「あぁ、そうだったのか。」
とわかったあとに、
「あれはなんだったのだろうか。」
と迷いの世界に入ってしまうこともあります。あるいは、覚ってもいないのに
「もうわかってしまった、覚ったんだ。」
という錯覚を起こすこともあります。この錯覚も実は迷いの中なんですよ。あとから気付くんですけどね。

そうした迷いというものは、一般の方が、日常生活において迷ってしまうこととなんら変わりはありません。根は同じです。対象が違うだけです。修行者は、修行においてその修行が正しいのかどうか迷い、今の自分の状態はいい状態なのかどうかで迷い、あげくはお釈迦様の教えまで疑ってしまうこともあるのです。本当に教えというのは真理なのかどうか、と。そして、それは仏様の存在や救いまでも疑ってしまうのです。仏様、菩薩様、救い、教え、修行、戒律・・・それらすべてにおいて、「迷い惑う」のです。そう、それこそが「迷惑」の本来の意味なのです。

ですが、この迷いというのは、修行者にとって、そんなに悪いことではないのです。むしろ、いいことなんですよ。なぜなら、修行者は、一度は迷いの世界に入らないと、真の覚りには到達できないからなのです。迷うのは一度ならずとも何度でもいいのです。迷って迷って迷って迷いぬいて、やっと真実に至るのです。それが覚りというものなのです。迷わずして、まっすぐ到達できるものではないのです。もし、覚りについて何の迷いもなしに到達した、と思っているものがあれば、それは覚りには至っているのではなく、錯覚しているだけなんですよ。それは、迷いも覚りもわかっていない者なのです。
仏教は深く学んでいくうちに疑問が生じます。いや、これは仏教だけではないでしょう。スポーツでも勉強でも仕事でも、これでいいのだろうか、と迷うことは多々あることです。そして、その迷いを克服して、一つの結論に至るのでしょう。道を間違っていたとか、これでよかったんだとか・・・・ね。
迷ってこそ、深く理解ができるのでしょう。迷わない、というのは何も疑問に思わない、ということですから、それほど深く理解していない、ということになるでしょう。

ですから、迷うということは、悪いことではないのです。大いに迷って、悩んで、疑問に思ってこそ、真実に近づけるものなのです。迷い惑うことは、真理へ行く過程、あるいは上達する過程、向上する過程において、必ず通ることなんですよ。生きていく上で、迷い惑うことはいいことなんです。よくないのは、迷っていることに気付いていないことや、迷っていても対処しないことなのです。迷っているのに、それを認めようとしない、あるいは認めるのが怖いといって、目を閉じて避けてしまう。これはよくありませんよね。あるいは、人から「迷っているんじゃないの」と指摘されて、それを素直に認めようとしない、これもよくないことです。
もしあなたが迷ったら、その時は、素直にそれを認め、誰かに相談したほうがいいのです。

迷い惑ったとき、人は友人に愚痴をこぼしたり、相談したり、助けを求めたりして迷惑をかけるかもしれません。しかし、それでいいのです。そうして成長していくのですから。そして、それは、一時的には迷惑かも知れませんが、お互い様なんですから。それは迷惑なことではないのですよ。迷惑なことというのは、マナーに違反したことなのです。

修行者であるお坊さんは、迷い惑って覚りに至るわけなんですが、しかし、まあ、いまどきの坊さんが迷うのは、酒に女の色気にお金でありまして、修行で迷う、覚りについて迷う、なんてことはないですね。だいたい、迷うほど修行してませんからねぇ。死んでから、あの世で迷わないように、覚りについて、生きることについて、僧侶とはということについて疑問を持って欲しいものだと思いますけどね。でないと、坊さんの存在そのものが迷惑になってしまいますから。
合掌。


33、邪魔
さて、今回の言葉は「邪魔」です。これは字を見ただけで、なんとなく仏教が絡んでいるのかな、と想像がつくのではないでしょうか?。そう、確かに、「邪魔」は仏教が元の言葉なんです。意味もなんとなくわかるような、そんな気がしますよね。まあ、皆さんが想像しているような意味でほぼあっているのですが、実は本来は若干意味合いが違っているんですよ。

「邪魔」は、現在では次のような意味で用いられています。(三省堂・新明解国語辞典より抜粋)
『よけいな物が入って物事の進行を止める原因となること。訪問の意にもしばしば用いられる。』
とあります。わかったような、わからぬような・・・・そんな言い回しですが、まあ意味は伝わりますよね。「邪魔」とは、「妨害」のことですね。「邪魔をする」とは、「妨害する」ことです。
「他人の邪魔をする」といえば他人の妨害をすることであり、「邪魔者」といえば「妨害する者」のことでしょう。自分にとってうっとしい相手のことも「邪魔者」ともいいますけどね。あるいは、自分にとって不都合な人間を「邪魔者」とも言います。「邪魔者は消せ」などという言葉は、皆さんもよくご存知でしょう。このように「邪魔」はいい意味で使われる言葉ではありません。
そういう「邪魔」ではありますが、「お邪魔します」という言葉は、いい意味で使われますよね。これは、元は「邪魔をする」という悪い意味の言葉が、他人の家を訪問したりする際に謙虚さを表すために転用した言葉でしょう。「邪魔をして、申し訳ない」という意味を込めて「お邪魔します」と使用した言葉ですよね。現在では、挨拶の言葉として日常的に使われていますが。
いずれにせよ、「邪魔」とは、「他の妨害をすること」を意味しています。

で、その「邪魔」の元の意味なんですが、これも上記の国語辞典に載っています。
『もと仏教で修行がはかどらないように誘惑したり、気持ちがくじけるようにいたずらをする悪魔の意』
とあります。つまり「邪魔」とは「修行者を誘惑したりする魔者」ということですよね。すなわち
「邪魔」=「魔物・悪魔」
ということなのです。邪魔とは、悪魔のことだったのですよ。

実は「邪魔」とは、お釈迦様が菩提樹の下で瞑想をしているとき、お釈迦様が覚りを開かぬように妨害していた魔王パーピマン(当HP「お釈迦様物語」を読んで下さい。この悪魔が登場します。)の仲間である、魔物なのです(「邪魔」とは魔王パーピマンのこと、という説もある)。その魔物を紹介いたしましょう。その魔物とは、「他化自在天(たけじざいてん)」なのです。つまり、
「邪魔」=「魔物」=「他化自在天」
なのです。

「他化自在天」とは、その名の通り天部の神です。下から第六天に住んでいます。一番下が下天(げてん)、次が三十三天(別名トウリ天)、ヤマ天(閻魔様の住まい)、兜卒天(とそつてん。次に仏陀になる菩薩が修行している天、現在は弥勒菩薩が修行中)、楽変化天(らくへんげてん)ときまして、その次が他化自在天なのです。ですから、結構、上位の神ですし、インドでは古来から祀られている神なのですよ。で、どういう神かといいますと、
「人間の快楽を自らの糧・食料としている神」
なのです。つまり、人間が快楽に耽れば耽るほど満足する・満腹になる、という神なのです。ということは、人間が好き勝手なことばかりやっていれば、この神「他化自在天」は満足するんですね。特に性的快楽に耽れば、大いに喜ぶんです。なにせ、人間が快楽に耽り、快楽を楽しむことが、この神の食料なのですから、人間が快楽に耽ることは大いなる喜びなのですよ。このような神ですから「他化自在天」のことを「天魔」とも言います。天界に住む悪魔、という意味ですね。
そういう神をインド人は祀っていたのですから、いやはや・・・・。まあ、なんにしてもとんでもない神様もいるわけでして。

他化自在天はこういう神ですから、彼にとってはお釈迦様が覚りを開いて仏陀になってしまうことは、困ることなのです。そりゃ、困りますよね。仏陀は欲望を超越したものですし、その教えは快楽を追及するものではないからです。仏陀が人々に教えを説いたりすれば、快楽に耽る人々が減ってしまいます。自分の糧が減ってしまいます。なので、必死に妨害するんですね。
皆さんは、時代劇などで
「我こそは第六天の外道・天魔なり〜」
などというセリフを聞いたことはありませんか?。たいていは、主人公の正義のヒーローの敵対者の吐くセリフです。主役と対戦するときなどに、そう名乗っているシーンを見たことはないでしょうか?。
このシーンは、まさにお釈迦様の覚りを妨害する他化自在天のことからとっているのですよ。「第六天の外道・天魔」とは、お釈迦様の覚りを妨害した他化自在天のことなのですから。

他化自在天は、自分の糧・食料をが、その妨害も虚しく、お釈迦様は覚りを得てしまいます。仏陀になってしまうんです。他化自在天は負けてしまったんですね。で、おとなしく自分の住まいである第六天に帰っていくのです。それ以来、お釈迦様の教えを守り、快楽に耽るように人々を誘惑することは慎むようになりました。まあ、尤も、人間は快楽を欲する生き物ですから、わざわざ他化自在天がそそのかさなくても快楽を得ようとしますからね。とりあえず、他化自在天が普段生きていく上での満足は得られるわけです。
が、たまに、他化自在天も豪華な食事をしたくなることもあるのですよ。そんな時、彼は悪魔の顔を覗かせるのです。つまり、魔物として人間界に降りてきて、誘惑に弱そうな心の汚れた者の耳元でささやくんですね。
「それくらいいいじゃないか。大丈夫さ、わかりはしないさ。それで大儲けができるんだぜ〜。」
「いいじゃないか、戴いちゃえ。据え膳食わぬは何とやら・・・。男が廃るよ。」
「買え買え買っちゃえ。カードがあるじゃないか。困ったときは、男を騙して、媚びへつらってお金を出してもらえばいいのさ。」
こうして、欲望に身を任せ、深き穴の中に落ちていくのですよ。他化自在天(=天魔=邪魔)の餌食になっていることも知らずに・・・・。

「邪魔」とは、もともと他化自在天のこと、つまりは、人間が誘惑に負け快楽に耽ることを喜びとした、食料とした天魔のことを指していった言葉です。そこから、他人の妨害をすることを邪魔をする、妨害をする人のことを邪魔者、というようになったわけですね。
ちなみに、仏教語の「邪魔」は、一般の「邪魔」とアクセントが違います。一般の「邪魔」は、発音の強調はないか、「魔」にややアクセントをおきますが、仏教で言う「邪魔」は「邪」に力を込めて発音します。「魔」ですね。

ところで、他化自在天は、お釈迦様にとって「邪魔者」だったわけなのですが、他化自在天からすれば、お釈迦様は「邪魔者」だったのでしょう。皮肉なものです。お互いに邪魔者だったのですから。まあ、人間の世界でも、お互いに邪魔者どうし、ということもあったりしますが、できれば、他人の邪魔はしたくはないですよね。いや、「邪魔者」になってはいけないのですよね。他人の妨害をすることはもちろん、他人を悪の道に、快楽の道に誘惑したり、そそのかしたりすることは、してはいけないことなのです。くれぐれも、自分が「邪魔者」、「魔」にならないように注意したいものです。
また、心にわきあがる「魔」に負けてはいけないのですよ。誰の心の中にも、「魔」は住んでいます。それに負けないようにしたいものです。

が、しかし、世の中にはなんと邪魔者が多いことか。己の心に住まう「魔」に負け、己の欲望を満たそうとして、他人の不幸を省みない者、そういう真の邪魔者、が多い世の中です。そういえば、マンション問題のとある建築会社の代表者が自らのことを「オジャマモンと呼んで下さい」などと言っていたように記憶してますが、まったくその通りでして、実にご自分のことをよく知っている、といえます。彼らは、まさしく邪魔者ですよね。恐ろしい魔なんですよね。
さてさて、今年一年、みなさんはそんな邪魔者は排除し、わが身に襲い掛かる邪も魔も打ち破り、平穏無事で過ごせますよう、お祈りいたしましょう。「魔」に負けませんように・・・と。合掌。


34、地味
お坊さんという仕事(仕事というべきか人物というべきか・・・)は、派手な仕事ではありません。普段の衣装も黒が主です。尤も、慶事のときの法要などは、派手派手の衣や袈裟をつけますけど。
しかし、仕事的には地味な方でしょう。「お坊さんになりたい」などというと、変な目で見られたり、引かれたりしますよね、一般的には。特に女性が僧侶になりたい、尼僧になりたいなどというと、「なんで?、マジ?。」となります。それほど特殊で地味な職業?なんですよ。

さて、今回の言葉はその「地味」です。皆さんは、普段「地味」な方でしょうか、「派手」な方でしょうか?。女性の方たちが集まると、お互いの衣装などを指して、
「あ〜ん、それってジミ〜。」
「キャ〜、派手すぎな〜い。」
などと会話をしているのを耳にしたことがあると思います。意外に、若い方でも「地味」という言葉を使うんですね。オバサンだけじゃなかった!、と驚いたりもします(あ〜、いや、失礼・・・。)。
ですから、「地味」の意味は、皆さん大体ご存知でしょう。よく使う言葉ですからね。一応、確認のため、国語辞典の説明をみてみます。(三省堂・新明解国語辞典より抜粋)
「じみ」・・・人の興味・関心をひくような目立つ点が無い様子。じみな人、じみな色。<表記>普通、「地味」と書く。
わかりますよね。地味とは、目だ立たないことなんですよ。でも、なぜ目立たないことが「地味」・・・「地の味」なのでしょうか?。そもそも、「地味・・・地の味」ってどういうことなのでしょう?。地面の味が目立たない?・・・そりゃあ、地面を食べる人はいないでしょうから、地面の味は目立つものじゃないですけどね、それも変な意味ですよね。
実はこの「地味」、元は仏教で用いられている言葉なのですよ。で、本来の意味はまったく違っているのです。いったい、そういう経緯で仏教語の「地味」が現代の「地味」になったのか・・・・。

仏教で言う「地味」とは、その字のごとく「地の味」といった意味で用います。「地の味=地面の味」といっても、地面を食べるわけではありません。仏教語辞典(東京書籍・仏教語大辞典)によりますと、
「地味」・・・@大地の精分。A大地から現れる好適なるもの。食物など。
とあります。
なんとなく、地味の意味がわかるでしょうか?。それとも、よくわからないでしょうか?。

仏教は、大地・土地というものを大変重要視します。まあ、当然ですよね。大地の恵み、というものは重要でしょう。でもそれだけじゃないんですよ。仏教の中でも、特に密教では、「土地の選択」ということに大変な注意を注ぐのです。「人間の幸運・不運は土地が基本」というくらい、土地選びに注意します。
実際、土地というものは生活に密接しています。悪い土地に住めば、その土地の影響を受けて運が悪くなったり、見えないものの存在を感じたり、病気になったり、挙句の果てにはその土地を出て行かなければいけないような事態に陥ったりします。土地というのは生活の基本ですから、その影響力は大変大きなものなのです。悪い土地に住んで、その悪影響を受け、不幸な状態になってしまった・・・・という例は、私も幾度となく見てきました。

また逆に、善い土地ならば、その土地から様々な幸運が湧出する、とも言われています。仏教経典には、よく「地から湧出した」という表現が出てきます。お釈迦様が住まわれた土地は、清浄な土地になり、その地で法を説けば地より菩薩が出現したりします。(法華経が有名ですよね)。
お大師さんの伝説にもよく「地より出現する」というシーンがあります。水が出たり、燃える火(原油ですね)が出たり、温泉が出たり、水銀が出たり、金銀財宝が出たり・・・・。
地が善いと、いろいろな幸運が地より現れるのです。

この地の善し悪しのことを「地味」というのです。つまりは、地面が善いものか悪いものか、そのことを味にたとえたのですね。おいしく旨味のある土地なのか、まずくて苦い土地なのか、ということですね。
仏教語辞典の@の意味がこれに当たります。で、地より出現するラッキーや、大地の恵みがAの意味に当たるのですが、これは後付けであって本来の意味とは多少ずれます。地味の善い土地のもたらすもの、という意味になってしまいますからね。
本来は、「地味」とは、「その土地の善し悪し」のことなのです。

土地選びは、大変重要なものなんです。その土地によって、人生が大きく左右されてしまいます。ですから、私は、「家を建てたい」という人から相談を受けると、まず善い土地を選ぶことから始めます。いい時期に、いい方角のいい土地を選ぶんですね。その土地がいいか悪いか、ということを判断してあげるのです。
そして、土地が決まったら、地鎮祭において、その土地の「地味」がさらに増すように祈ります。そういえば、そのとき唱える願文にも
「・・・・地天の喜ぶとき、地味益々その功徳を増し、よく七珍をもたらす・・・・」
とあります。
地天とは、地の神のことです。地の神ですから、地面の善し悪しなどを司っています。ですから、この地天が喜べば「地味」はよくなるし、地天が怒れば「地味」は悪くなるのですね。また、多少悪い土地でも、地天に頼めば、その土地の味はよくなってくるのです。つまり、「地味」が功徳を増す、わけです。
「七珍(しっちん)」とは、いろいろな幸運のことです。地天が、その土地を人間が使うことを喜べば、地味は増し、様々な幸運が地より湧き出るのですよ。
(余談ではありますが、地鎮祭というのは、単に地の神に工事の無事を祈るだけでなく、地の神に土地を使うことの承諾を得、地天を接待して地天を喜ばせ、その土地の地味を増し、悪運の部分を取り除き、工事の安全と、家屋の完成、その家に住む人たちの幸せを祈る儀式です。重要なのは、地天に地味を増すことを祈る、ことです。たんなる儀礼的な行為ではないのですよ。地鎮祭を仕切る側(神主や坊さんですね)が、この認識を持っていないと、地鎮祭はできません。最近は、単なる儀式としての地鎮祭となっています。これじゃあ、ダメですね。単なる儀式としだけで地鎮祭を行っているから、土地が騒ぐんですね。ちゃんと地天に祈らなきゃねぇ・・・・。)

土地を選ぶ、土地の影響を受ける、ということは、普段あまり気にしていないことが多いでしょう。何か不運があると、「厄年だから」とか、「大殺界だから」とか(くだらないですけどね)、「霊が憑いてる」とか(稀にありますけどね)、「先祖が・・・」とか、いろいろ原因をさぐりますが、その中には土地の影響もあるんですよ。あまり話題にならない、目立たないことなのですが、土地の影響は大きなものなのです。
その不運の元は、地より悪いものが湧出しているのかもしれませんし、その地が悪い霊の集まる場所かもしれませんし、地自体が汚れてきているのかもしれません。
我々は、この大地に住んでいる以上、忘れがちなのですが、地面の影響も強く受けているのですよ。そのことは、あまり注意しない、目立たないことですよね。ましてや「地味」などという「地の味=地の善し悪し」のことは、忘れてしまっていることでしょう。そう、「地味」ってあまり注目されないんですよ。大きな影響をもたらしているのにね。

おぉ、そうですね、「地味」って、「地味」なんですね。合掌。


35、三昧
三昧です。「さんまい」と読みます。一枚二枚三枚の「さんまい」と発音がちょっと違いますよね。今回は、その三昧についてのお話です。

昔・・・といっても二十数年前のこと。私がまだ理系の学生だったときのことです。そのころインスタントラーメンで「中華三昧」というラーメンが発売されました。なんとこのインスタントラーメン、インスタントの常識を破る「高級インスタントラーメン」でした。安いインスタントラーメンの3倍もするほどの値段でした。貧乏学生の我々にはとても買えるようなラーメンではなかったのです。一食で三食分を使っちゃうことは、貧乏学生には許されませんでしたからね。いわば・・・憧れの高級インスタントラーメンだったのですよ。
今回、「三昧」の話を書こうと思いまして、この「中華三昧」のことを思い出してしまいました。まだ、あの中華三昧は売っているのでしょうかねぇ・・・・。

「三昧」という言葉は、こうした例からも日常で結構使われている言葉ですよね。「今日は映画三昧だった」とか言ったりしません?。わりと自然に使ったりする言葉ですよね。意味は、
「そのことばかりしている状態」
「何かひとつのことに集中していること」
といったところでしょうか。ちょっと贅沢な日を過ごしたりすると「贅沢三昧」なんていったりもしますよね。「三昧」は、意外とよく使っている日本語ですよね。
が、実は、この「三昧」、日本語ではないのですよ、元はね。今では、すっかり日本語になってしまっていますが、その出身は、インドなのです。実は、インドの言葉の音写なんです。それを輸入したのは、仏教なんですね。
つまり、「三昧」はまぎれもなく、仏教語なんですよ。

「三昧」をおなじみの仏教語辞典(中村元著、東京書籍)で引いてみますと、
*サマーディの音写。三摩地(さんまじ)とも音写。定(じょう)・正受(しょうじゅ)・等持(とうじ)などと漢訳する。
@心が静かに統一されて安らかになっている状態。何ものかに心を集中することによって、心が安定した状態に入ることである。禅定と同義語。(禅宗では三昧を「ざんまい」と読む。坐禅と同じ意味)。
静けき心。心の静まった状態。心を専注して無念なる事。心を不動にした宗教的瞑想の境地・・・以下省略・・・。
A三昧場ともいい、僧をして死者の冥福を祈らせる意から、墓所・葬場の意に転じた。この用法は現在、地方には残っている。(現在のインドでも墓所のことをサマーディという)。
と、このようになっています。

現在使われている「三昧」は、@の「何ものかに集中している状態」という意味からきているわけですね。これはきっと、禅宗のお坊さんが、坐禅ばかりしている姿を見たところから発生したのではないかと思います。つまり、「坐禅三昧」なのですよ。
禅の修業は坐禅がメインですね。坐禅をしなくては禅宗ではありません。いつもいつも、毎日毎日坐禅をしています。そうしたところから、そのことばかりしていることを「三昧」と言うようになったのでしょう。おそらくは・・・。これが一般に広まっていったのだと思われます。

ちなみに、密教の三昧の意味は多少異なります。真言密教では、「三昧」と書かずに「三摩地」を使います。まあ、意味的には同じで、ひとつのことに集中する、という意味なのですが、少し異なるところがあります。
密教での三摩地は、心静かな状態ではなく、「修行者の身と口と心の働きが、如来と同じにすること」なのです。
つまり、我々の行動・言葉・思いが仏様と同じになる、また、それを同じにすること、なのです。仏様と同じ状態の行動・言葉・心になることを三摩地といいます。単に、ひとつのことに集中している状態ではないのですよ。仏様と一緒にならなきゃ意味がないのです。
そういった意味では、密教の三昧は難しいですよね。なかなか仏様と同じ状態にはならないですからね。こういうところも密教の難解な部分でもあるのです。

また、仏教でも三昧に別の言葉をつけて「三昧○○」とか、「○○三昧」という言葉が多々あります。
たとえば、「三昧定(さんまいじょう)」といえば、「一心不乱に禅定をすること」だし、「三昧楽」といえば「三昧に入っている楽しみ」のことです。「三昧王三昧」という言葉もありまして、意味は「三昧中の王たる三昧のこと」です。「すごい三昧、極められた三昧」といった意味ですよね。一日中、他は何もせずに映画ばかり見ていたら「映画三昧王三昧」になるかもしれません。
また、「三昧魔(さんまいま)」というのもあります。これは、「三昧」に執着するところからおこる迷いのことです。「三昧」になろう、「三昧」に入ろうとして、「三昧」に執着すると「三昧」がわからなくなってしまうのです。そうして、迷いに入ってしまうんですね。集中しよう集中しようとして、かえって集中できなくなる状態・・・・とでもいいましょうか。

「○○三昧」には、次のような例があります。
如来が衆生のために慈悲心を起こせば、それは「大慈悲三昧」になりますし、不動明王が一切衆生の煩悩を焼くつくすぞという心をおこせば「火生三昧(かしょうざんまい)」になります。こうしてみると、内容は低俗ですが、「映画三昧・読書三昧・贅沢三昧」と意味的には変わらないですよね。仏様の場合は、一切衆生のために三昧に入るのですが、我々庶民は自分のために三昧に入ります。この差が仏様と我々凡人の差なんですね。納得しました。

一つのことに集中することは、決して悪いことではありません。何か一つのことを極めていくことは、大変重要なことです。勉強三昧・技術三昧・修行三昧などというのは、間違った道ではないでしょう。しかし、そればっかりというのは、やはり視野が狭くなりますよね。視野が狭くなると、心も狭くなります。一つのことに集中するのもいいですが、ほどほどにしないと世間が狭くなってしまいます。あまりにも自分のことだけに三昧に入っていると、そのうちにそこから出られなくなってしまいます。

映画三昧・贅沢三昧・読書三昧・ゲーム三昧もいいですが、ほどほどにして、意識を拡散することも大切ではないでしょうか。いくら坐禅ばかりやっていても、覚れるとは限りません。世間に出て行くことも、他のことに興味を持つことも大切でしょう。間違っても引き篭もり三昧にはならないようにしてください(私も注意せねば!)。それこそ「三昧魔」に侵されています。何事もほどほどに、が一番いいのですよ。合掌。



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